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カテゴリー「音楽・CD・コンサート・映画・演劇」の40件の記事

2016/12/30

2016年、東海道四谷怪談 お岩めぐり

Oiwa_2実は、2016年の上半期は「四谷怪談」にハマっていた。

春先のある日、家人が人形浄瑠璃に誘われて国立劇場に赴き、前進座が5月に「東海道四谷怪談」を演るというパンフレットをもらってきた。

そこで、ふと、幽霊といえばお岩さん、恨めしやといえば四谷怪談、なのにそのお岩さん、四谷怪談について自分がほとんど何も知らないことに気がついた。
小学生の時分に映画で見た記憶はあるが、子供どうし映画館そのもので遊ぶのに夢中になって、肝心のお話の記憶がない。なにやら青々した竹林に人魂の揺れる場面が思い起こされるばかりで、それが本当に四谷怪談の映画だったかどうかすら、怪しい。

というわけで、さっそく前進座のチケットを買い求めたが、いきなり歌舞伎を見てもわからないことも多いだろうと、まず佐藤慶が伊右衛門を演ずる「四谷怪談 お岩の亡霊」のDVDを観た。ディアゴスティーニから「大映特撮DVDコレクション」と銘打ってガメラ、大魔神シリーズが出ていたのを発行の都度購入していたのだが、折よくそのラインナップに入っていたのだ。

次いで鶴屋南北の原作を岩波文庫であたったが、原文は難しいので、高橋克彦が子供向けに翻案してくれたものを平行して読んだ。
一方、お岩については鶴屋南北とは別の流れがあり、高橋衛、小山内薫がまとめた作品を読んだ。
国立劇場で歌舞伎を観劇した折には、幕後の抽選で当選し、役者さんのサインはじめいろいろ記念品がパックになったものをいただいた。
後日、家人とともに四谷のお岩稲荷(於岩稲荷田宮神社)にも参詣した。

Oiwa2_3通して感じたことは、南北のお岩は、必ずしも恐ろしいばかりの存在ではないということだ。彼女はまったき被害者であり、その恨みは彼女を貶めた夫伊右衛門と彼をそそのかした輩に向かった。しかも、モデルとなったお岩は、南北が書いた時代より200年も前に健全な一生を終えた美徳の女性だった。その高名を南北が利用したのである。

しかし、だとすると、高橋衛や小山内薫が書き残したお岩はどこから出てきたのか、そこが今ひとつよくわからない。こちらのお岩像が時代的には南北より早いとする説もあるらしい。
小山内の描くお岩は暗鬱で、お岩が行方不明になったあと、疫病のようにかかわるすべての者に怨念が伝播していく。子供にいたるまで誰一人救われない。言うなればお岩個人を離れ、害をなす怨霊装置と化しているのだ。

などなど、この1年に読んだもの、観たものをざっくりでも書いておきたいと思っていたのだが、手を付ける前に年末になってしまった。
いずれ箇条書きででもまとめておきたいと思う。これが来年の抱負。

今年1年、おつきあいありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。

2016/06/13

円形管を走り抜けろ 『下水道映画を探検する』 忠田友幸 / 星海社新書

Photo異文化の出会いがもたらした、一種の奇書。

著者は長年名古屋市の下水道管理に携わってこられた方。スクリーンにときどき映る下水道が気になって映画のパンフレットやビデオテープ、DVD、ブルーレイなどを集めるうちに『月刊下水道』なる唯一の下水道専門誌に映画紹介記事を連載するようになり、それを新書にまとめたもの。

そもそも唯一の下水道専門誌という段ですでに十分怪しい。もしも下水道専門誌がいくつもあって、それぞれ発行部数や特集や付録を競っていたなら。考えるだけで眠れなくなってしまう。

取り上げられた映画が怖い。
なにしろ最初の章が「ネズミ」である。ネズミが群れをなして町を襲うパニックものに、疫病系も含まれる。次が「災害」。続いてワニや宇宙怪獣がうごめく「モンスター」。ようやく人間が主題になったと思いきや追われる者の「逃走路」、銀行金庫を狙う「強奪」、続いて「隠れ家」、「脱獄」、最後に「歴史」。
確かに映画に下水道が出てくるなら、その多くはヌタヌタしたモンスターの育つ暗闇か追われる者が逃げ惑う迷路に違いない。

多くはB級サスペンス映画だが、ときにオーソン・ウェルズ『第三の男』やアンジェイ・ワイダの『地下水道』、あるいは無声映画の『第七天国』のごとき本格が唐突に登場するのであなどれない。その映画を取り上げ、あらすじや背景を語る著者の口調は(名文とは言い難いものの)穏やかかつ冷静で、しかし映像中の下水道を説明しだすやいなや専門用語を連発して俄然熱気を帯びる。映像の下水道がセットか本物かに目をこらし、下水管への認識不足に憤る。

映し出される管きょや施設は変化に富んでおり、形や構造もさまざまである。写真上はハンチ(天井部分隅を斜めにした構造)のついた矩形きょっぽい。欧米の作品によく登場する鉄柵がはまった円形管。まるきり地下通路のような縦長の矩形きょ。そして、四方から水が流れ込む大きな接続室。

これで梶芽衣子主演『女囚さそり けもの部屋』の紹介なのだからたまらない。

取り上げられた映画は全部で59作。
B級、A級とりまぜて、それぞれの映画を見たい気持ちに揺れる。読み進むうち、作者がまだ知らない下水道映画を発見したいという黒いファイトも湧く。確か特撮怪人映画に下水道を逃げるシーンがあった……それは東宝の『美女と液体人間』。ちゃんと紹介されている。
『うる星やつら』にはなかったろうか。『コブラ』のマンガ原作には下水道を逃げる場面があった気がするが、映画版ではないか。

好感、だけですまされない。いろいろ後を引く1冊である。

  ※で、実際に後を引いた結果がこちら

2016/03/26

盲点fff 『バイエルの謎 日本文化になったピアノ教則本』 安田 寛 / 新潮文庫

Photoかつて子供たちが手にする初めてのピアノ教則本といえば「赤バイエル」「黄バイエル」だった……

と思っていたら、最近ではバイエルといっても山ほど版があり、昔言われたところの「赤」「黄」がどれにあたるのかよくわからない。
それどころか、1980年代の終わり頃から、バイエルは「本国のドイツでさえもはや忘れられた教則本」とバッシングされ、「私はバイエルは使いません」と見識ぶるピアノ教師が巷にあふれた。らしい。

著者の安田寛氏はそんな、誰もが知っているようで実は誰も知らない「バイエル」に着目し、その正体を追う。

それにしたって。
・バイエルって作曲家は実在したの?
 (不在説、偽名説……)
・日本に持ち込んだのは誰?
・なぜあんな構成なの?
など、あれほどまで普及した教則本とその作者について、ほとんど誰も深く追及してこなかったと知って驚く。
そして、幾人かの音楽教育者が、原典をてんでに都合のよい「バイエル」に改変し、広めてきたという事実にさらに驚く。著作権切れてるからってそれはいいのか。えっ、全部作り話の伝記マンガならある? ……

つまるところ、音楽は音「楽」であって音「学」ではない。
安田氏のテキストにしても、その苦心は別として、学究の姿勢にはいろいろ疑問符が付く。行き当たりばったりに海外の図書館や楽譜の版元を訪ね、たまたま一次資料にあたればラッキー。ほとんど趣味人の自費出版物のノリだ(なぜ現地ロケまでしたNHKに問い合わせない?)。

とはいえ、フェルディナント・バイエルという作曲家個人の真実をたどる旅、そして「静かにした手」や百六の番号付き曲の意図など、教則本としての本当の姿が徐々に明らかになる過程は読んでいて実に楽しい。
子供のころバイエルにお世話になったという方はぜひ。いろいろ呆然とすること請け合い。

2016/01/14

Goodbye to David Bowie ★彡

Blackstar初めてDavid Bowieを聞いたのは、友人に勧められた「Space Oddity」のシングル。
地上の管制塔と宇宙パイロットとの交信を描いた(当時の洋楽ポップスとしてはちょっと常軌を逸した)トリッキーな曲で、会話が交錯する歌詞が実に切なく、かっこよく、さらにほかの友人に広めようと中学生のつたない英語力で一生懸命翻訳したものだ(Pink Floydの「青空のファンタジア(Point Me To The Sky)」やKing Crimsonの宮殿の訳詩をつらねたそのノートは今も机の一番下の引き出しで眠っている)。

それからしばらくして、Bowieならこれを聞かなくては、と先輩に「The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars」を教えられた。驚いた、震えた、シビれた。先輩の部屋に押しかけては勝手にレコードをターンテーブルに乗せ、歌詞カード見ながらヘッドホンで聞き込んだ。
今でもほとんどの曲をそらんじて歌えると思う。でも恥ずかしいので歌いません。

次の「Aladdin Sane」は自分で買ってきた。「Ziggy Stardust」のようなコンセプトアルバムではないため、あれっ? と首を傾げたが、このアルバムにも好きな曲がいっぱいだ。King Crimsonじゃないが繊細さと暴力の混淆。

そのあとDavid Bowieはディスコサウンドに走って、まあそれらのアルバムも今では普通に楽しく聞けるのだけれど、ブリティッシュ命だった当時は「もうダメか」と嘆いていたところに空から突然発売された「Low」(1977年)は本当に嬉しかった。
重い。ゴジラ映画のエンディングみたいな「Warszawa」はもちろん、A面の軽妙なインストさえ丸木でガッツンガツン殴られるように重い。意味はわからないのに、その意味で殴られるような気がした。

それから2003年の「Reality」まで、オリジナルアルバムはお付き合いで購入するものの、意識の上ではだんだん過去の人となっていったBowieが、2013年、突然深海から「The Next Day」で浮上する。あまり期待もしていなかったのに、このアルバム、余計な色がなくてとてもいい。
そして、2016年1月8日、69歳の誕生日にリリースされた「Blackstar」。
2日後、その死が伝えられる。

18ヶ月の闘病……「The Next Day」以降の仕事は、死を意識してのものだったのだろうか。
華美なところのない、地味ながら不思議な説得力にあふれる曲が静かに並ぶ。昔のハイトーンは望むべくもないが、Bowieの歌声は豊かでゆるぎない。

「Blackstar」が最後のアルバムでよかった。その最後の曲が、諦観が奇妙に希望にいざなう「I Can't Give Everything Away」で本当によかった。
去り際までかっこいい。本当にかっこよかったなあ、David Bowie。

これ以上何を書くべきなのかよくわからない。
David Bowie論はほかの方にお任せして、今夜も一ファンとしてありったけのCDを流そう。

一つだけ。
昔から不思議だったのだけれど、変容しつつ最先端を走るイメージのわりに、Bowieの曲では「パッパヤ」とか「ヤヤヤ」など、いかにも洋楽ポップスなコーラスが頻出する。こういうのはかのCarpentersさえ

  Every Sha-la-la-la
  Every Wo-wo-wo
  Still shines

なんてもうYesterdayのものですよと(1973年時点で)歌っていたのに、不思議でならない。
David Bowieが演じ続けたものはなんだったのだろう。

2015/12/12

キング・クリムゾン ツアー・イン・ジャパン 2015年12月9日

King_aご報告が少し遅れましたが、9日(水)、渋谷のオーチャードホールで
  THE ELEMENTS OF KING CRIMSON TOUR in JAPAN 2015
を見てきました。

★彡 今回来日したメンバーは
  ロバート・フリップ(g)
  メル・コリンズ(sax/flute)
  トニー・レヴィン(b)
  パット・マステロット(ds)
  ギャヴィン・ハリソン(ds)
  ビル・リーフリン(ds)
  ジャッコ・ジャクスジク(g/vo)
の7人。メルやトニーはベテランだが人がよさそう、残りメンバーが大フリップ先生に反駁できるとは思えない。つまり、ありていに言えば「ロバート・フリップとリーグ・オブ・イエスメン」でしょうか。
僕が本当に見たかったのは、「アムステルダムのコンセルトヘボーで黙っている観客の前で“トリオ”をやったこと、ビルは一発も叩かず、胸の前でスティックを組んだまま」(デヴィッド・クロス)などという、そんな過激、苛烈なバンドのコンサートだったのですが。
(あの朴訥そうなジョン・ウェットンでさえ、のちにユーライア・ヒープに参加したところ、「俺たちゃコーラスバンドなんだ、難しい音楽理論なんてつきあってらんねえよ」と呆れられたそうです。)

★彡 観客は場所が渋谷区道玄坂Bunkamuraであるにもかかわらず(予想どおり)黒っぽいジャンバーか背広をきたオヤジだらけ。
もちろん演奏中は誰も席を立たず、声も出さず。曲が終わってはじめてお行儀よく拍手。
でもロック。なによりヘビーなロック。King_b
★彡 開演前に、ステージの間近でドラムセットなど見ることができました。案外ふつう(笑)。
演奏中は前列にドラムセット3台、後列に一段高く左からメル、トニー、ジャッコ、ロバート・フリップの順。
開演から最後まで一切MCなし、休憩なし、アンコールの前後でいったんステージを降りた以外、誰一人演奏中に歩き回ったりもしません。もちろん三つ揃えのスーツの上着を脱いだフリップ先生はずっと椅子に座ったまま。それであの演奏、バリバリ、ガシガシ。
ライトアクションも、アンコールの最後の曲の後半ステージを赤く染めただけ。
演出に関して言えばほとんどクラシックの四重奏とかのコンサートレベル。それであの(以下同)。

★彡 今回のオーチャードホールでの演奏曲目は日替わりだそうです。
9日は以下のとおり。
  01. Peace - An End
  02. Pictures of a City
  03. Epitaph
  04. Radical Action (To Unseat the Hold of Monkey Mind I)
  05. Meltdown
  06. Radical Action (To Unseat the Hold of Monkey Mind II)
  07. Level Five
  08. A Scarecity of Miracles
  09. Hell Houns of Krim
  10. Easy Money
  11. Red
  12. Interlude
  13. Letters
  14. Larks' Tongues in Aspic, Part II
  15. The Court of the Crimson King
  16. 21st Century Schizoid Man
  ---encore---
  17. Devil Dogs of Tessellation Row
  18. Starless
個人的には、ピースで始まり、新曲を交えつつエピタフ、レッド、レターズ、戦慄II、宮殿、21世紀ときて、アンコールをスターレスで〆る、これ以上何も求めません(とくに16、18の組み合わせは9日のが最高!)。

★彡 それにしても、曲目といい演奏といい、ほんと、エイドリアン・ブリューなんていなかったかのようです。
ファンには申し訳ないが、それが本当によかった。

★彡 ちょっと意外だったのは、最近のロック、ポップスのコンサートではなにはともあれ大爆音! ということが少なくないのですが、今回は曲の合間に鼓膜がぼーっとするような、そんな音量ではありませんでした。

★彡 3ドラム編成というのは、どうなんだろう。いや、迫力はあるし、テクニカル的にドドン、ペシ、バン、と面白いポリリズムもあったのだけれど、3セットもあると、いくらテクニシャン揃いでも音はズンドコ太鼓祭りになってしまう。
マイケル・ジャイルズのしなやかさ、ビル・ブラッフォードのタイトさにはどうしても及ばず、パーカッション系の音がずうっと鳴り続けることで、クリムゾンの特徴であったはずの「間」、思わず息を呑むあの「間」がないのです。
とくに「21世紀」後半の盛り上がりのところで、本来フリップのギターとタイトに削り合うはずのドラム、ベースが最初から最後まで全員参加のドンチャカ合戦になってしまった。これは今回最も残念だったところです。

★彡 ジャッコのボーカルは余裕がなくて少し辛かったけど、いや、それはグレック・レイクやボズやジョン・ウェットンの声で頭の中でメロディーや歌詞とがっしりセットされているので、仕方ないですね、ごめんなさい。いや、もちろん、それでもエイドリアン・ブリューに比べれば(以下自粛)。

★彡 要は、3ドラムにせよ、突っ張りっぱなしのボーカルにせよ、Larks' Tongues in Aspicについてよく言われた暴力性と繊細さの共存、そういう点で今一つで、全体に「剛」ばかりめだった、悪くいえば一本調子なところがなくはなかった、ということです。

King_c★彡 それでもともかく、コンサートとしては実によかった。
キング・クリムゾンを聞き始めて40年、「ああ、とうとう本物を間近に見てしまったなあ」という気持ちと、「できればグレッグ・レイク、あるいはジョン・ウェットン、ビル・ブラッフォードのいた時代に生で聞きたかった」という気持ちが相半ばして、帰っても頭がキンキンカンカンして寝られませんでした。

★彡 とはいえ、40年も経つと「精神異常者」は「スキッツォイド・マン」になってるし、「めざめ」は「軌跡」の誤訳、ブラッフォードはブルーフォードが正しいと。なにより「Larks' Tongues in Aspic」の「Aspic」は料理の肉汁ゼリーのこと、つまりアルバムタイトルは「雲雀の舌のゼリー寄せ」の意だと。
ほんとに、ナレッジはデッドリーフレンド、渡る世間に星もない。

★彡 それにしても、ピンク・フロイドといい、キング・クリムゾンといい、プログレでサックスが表に出るとなぜこうも必ずド演歌になってしまうのだらう。

2015/03/12

交差する、パヴェーゼとDURUTTI COLUMN

Dcパヴェーゼの作品を読んでいると、ときどき遠くでディレイの効いたギター音が聴こえる。
イギリスのロックギターユニット、DURUTTI COLUMNの音だ。

DURUTTI COLUMNの曲は、リリカル、感傷的──なようでいて、聞き込むうちやがて神経質で攻撃的なタッチが聞き手の耳よりもう少し内側を浅く深く傷つけていく。アナログレコードの時代、ファーストアルバムのジャケットにサンドペーパー(紙ヤスリ)を用いたという、そのザラザラした(自他ともへの)攻撃性がパヴェーゼの文章にフィットするように感じられてならない。

イギリスのギターバンドとイタリアのネオレアリズモ小説に接点があったかどうかはわからない。ただ、DURUTTI COLUMNというユニット名はスペイン内戦時に共和国軍側で戦った伝説的なアナーキスト、ひいては彼が率いる義勇軍の名からとったものと聞く。
ヴィットリーニの『シチリアでの会話』がスペイン内戦を契機とするイタリアファシズムへの疑念、反抗だったことを考えれば、DURUTTI COLUMNとパヴェーゼを結びつけるのもあながち無茶ではないかもしれない。

2014/01/30

くちびるのアニメ史 『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか アニメーションの表現史』 細馬宏通 / 新潮選書

Photoカエルの着ぐるみを用いた缶チューハイのテレビCMが放送中止となった。「キャラクターを使った表現方法が未成年者の関心を誘い、飲酒を誘発しかねない」とかいった指摘を受けてのことらしい。およそ未成年にウケるキャクターとは思えないのだが……。

それはさておき、気持ちの悪いカエルではあった。
「タカオ、タカオ」と相手を呼び捨てにするなれなれしさに加え、口元がよく動くわりに音声と噛み合わず、神経にさわったのである(たとえば「踊ってるねえ」の「え」で上下に大きく口が開く、「よかった」の「た」で口を閉じる、など)。

このように、映像の口元と音声を合わせることを「リップ・シンク」という。シンクはシンクロナイズのシンク。
「わわっ」という音声には大きく口を開き、「むむっ」には唇を閉じる。
このリップ・シンクをはじめ、黎明期のアニメーションの表現、とくにのちに発達した音声や音楽との同期に着目したのが本書『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか アニメーションの表現史』だ。

著者は巻頭で、まず、世界初のアニメーション映画と言われる『愉快な百面相』(1906年)を取り上げる。
黒板にチョークで描かれた男女。それがわずかに書き換えられ、やがて黒板消しで消されるというだけの短い作品だが(探せば動画サイトで簡単に見つけることができる)、これはいったいどういう状況を示しているのか。それを知るためには当時の映画がいかなる場所で上映されていたかを知らなくてはならない。そしてそれは、『愉快な百面相』に続くあれこれのアニメーション作品にどのような形で受け継がれていったのか。
著者は一つひとつの作品を繰り返し見直し、それぞれの場面や音響に秘められた謎を説き起こしていく。それは当時の人々の趣味、嗜好、またアニメ制作者たちの苦心を掘り下げていくことでもあった。

当時(20世紀初頭)の上映館では、サイレント映画に生演奏で音楽が合わされていた。また、「イラストレイテッド・ソング」といって、映画と同じスクリーンに歌詞を投影し、演奏に合わせて観客が歌う、今でいうカラオケのような演目もあった。
著者の探究は、そんな時代のアニメーションの口元に向かう。
ミッキーマウスの出世作「蒸気船ウィリー」、ベティ・ブープ、トムとジェリー、バッグス・バニー。
各ページは新鮮な驚きと論理で満たされ、退屈を感じる暇もない。ごく初期のアニメーション作品、リトル・ニモや恐竜ガーティーの豊かさ。トムとジェリーの音楽の、哲学的なまでの深み。「th」の発音時に律儀に嘴から舌を出すダフィー!

できれば動画サイトなどで当時のアニメーション作品の一つひとつを見ながら読みたい。
背骨の通った良書である。

2012/06/24

結局喜劇とはなりきれず 三谷版『桜の園』 アントン・チェーホフ作、パルコ劇場

 ご報告が遅れたが、6月14日(木)、渋谷のパルコ劇場で三谷幸喜演出の『桜の園』を観てきた。

 チェーホフは自身の脚本を「喜劇」、ときには「笑劇」と称し、『かもめ』初演の際「悲劇」として喝采を受けてがっかりしたという逸話が残っている。パンピーな感性をもってすれば「どうかしてる」と言わざるを得ないのだが(だからこそ一段すごい作家だったのかもしれないが)、この逸話に新しい解釈のチャンスを見出だす演劇人もままいるようだ。
 今回、三谷幸喜もインタビューで「コメディとして作ってあるので僕みたいな人間こそやるべきだと昔から思っていた」、「何より浅丘さんがこんなにコメディエンヌとは思わなかった。3人の中で一番笑えます」等々「喜劇としての『桜の園』」を繰り返しアピール、実際、前説に青木さやかを立たせてAKB「ヘビーローテーション」の替え歌を歌わせたり、「携帯電話の電源は」等の館内放送をロシア語⇔日本語で脱線させてみたり、いくつか「お笑い」風演出で観客を笑わせた。

 しかし……、「喜劇としての『桜の園』」という空気もしょせん最初の数十分だけ。

 上品だが金銭にも人間関係にもダルな没落貴族を演じる浅岡ルリ子への観客の反応は「笑い」でなく「さすが」だったし、青木さやかのガラッパチな演技はそもそもストーリーから浮いていた。後半、舞台は退場していく貴族階級、金はあれど文化をもてない新興商人層、革命の夢を追うだけの若い学生たち、よってたつ主人を失った使用人たち、それぞれがいずれも勝者たりえないことを暗に示し、いくつか涙をさそうシーンを配して幕を閉じる。つまり、三谷版『桜の園』は、結局のところ、従来の哀感漂う『桜の園』のバリエーションに過ぎないのだった。

 ともかく『桜の園』という作品は、脚本(ほん)があまりによくできているため、高校生が制服のまま棒読みで演じてもそれなりの感銘が残ってしまうようなところがある。一筋縄でどうこうできる脚本ではないのだ。今回、セリフや展開はかなり原作に忠実だったが、たとえば昨年秋のTVドラマ『ステキな隠し撮り ~完全無欠のコンシェルジュ~』であれほど笑わせてくれた「脚本家」三谷幸喜が「喜劇」として演出するなら、オールドチェーホフファンからの酷評覚悟で翻案改編に突っ走るしかなかったのではないか。

 とはいえ、今回の『桜の園』、チェーホフの舞台としては決して悪いものではない。浅岡ルリ子によるラネーフスカヤを観られただけで価値はあった。拍手。

2011/04/25

洋楽懐メロにふける

Photo  「僕たちの洋楽ヒット」や「ザ・一発屋」など、昔のヒット曲を集めたオムニバスアルバムがあります。集めようという意図はとくになかったのだけれど、「あっ、マージョリー・ノエルの『その風にのって』が入ってる!」「マッシュマッカーンの『霧の中の二人』! 懐かしい!」などと手に取っているうちに、CD棚の一角を占めるようになっていました。とはいえ、そういうアルバムは、入手した直後を除けばそう何度も聴くわけではないのですが、最近思い立って片っ端からPCにかけ、気になる曲、聞き返しそうな曲をどんどんiPodに取り込み、シャッフルで流してみると……これが実にいい。潤う。

 好みは、自分が洋楽を聞き始めた1960年代後半からせいぜい1970年あたりまで。こういうコレクションには、プレスリーやビートルズ、S&Gなど、何曲もヒットを飛ばした大物の曲は似合わないようです。どちらかといえば今では消息もよくわからないマイナーグループの、それも日本でのみヒットしたような曲がいいですね。

「雨のフィーリング」 フォーチュンズ
ウィキペディアに名前すら載っていません。昔はジリオラ・チンクエッティ「雨」、ホセ・フェリシアーノ「雨のささやき」、カスケーズ「悲しき雨音」、カウシルズ「雨に消えた初恋」など、雨をタイトルにするスマッシュヒットが少なくありませんでした。

「恋のかけひき」 ハミルトン・ジョー・フランク&レイノルズ
洋楽オムニバスの定番。「幸せの黄色いリボン」や「ノックは3回」のドーンとイメージがかぶります。

「恋のほのお」 エジソン・ライトハウス
エジソン・ライトハウスはバンドとしての実態はなかったようですが、いかにも「洋楽」といったオシャレかつナイーブな展開で聞き手を引き回してくれるのでした。

「ポップコーン」 ホットバター
これでテクノポップではないことが信じがたい。

「さすらいのギター」 ザ・サウンズ
ずっとベンチャーズだと思い込んでいました。

「僕と君のブー」 ロボ
ずっと以前ですが、この曲の懐かしさゆえに、ロボのベストアルバムをAmazon.co.jpで購入。……まあ、似たような曲ばかりだったわけですが。

「男が女を愛する時」 パーシー・スレッジ
上田正樹「悲しい色やね」かと思ってしまいますね。

「ダンス天国」 ウィルソン・ピケット
「ダンス天国」の原題は“Land of 1000 Dances”。かつての洋楽には邦題の妙というものがありました。ジュディ・コリンズ「青春の光と影」の原題が“Both Sides Now”……なんてのは、見事を通り越して呆気にとられます。

「かなわぬ恋」 アソシエイション
アソシエイションは2011年現在まだ現役。かないません。

「ジョージー・ガール」 シーカーズ
オリジナル・キャスト「ミスター・マンデイ」だとかピンキーとフェラス「マンチェスターとリバプール」だとかカプリコーン「ハロー・リバプール」(おおリバプール対決だ)とか、女性ボーカルグループの一発屋もいろいろありました。

 などなど。きりがないのでいったんクローズ。

2010/07/15

野田地図第15回公演「ザ・キャラクター」

 池袋の東京芸術劇場で、野田秀樹作・演出『ザ・キャラクター』を見てきた。

 ポスターやパンフレット、公式Webサイトを見ても、あらすじなどとくに公開されていないようなので、ここでは「ある事件を素材にしている」とだけ記しておく。

 午後2時開演。
 少し傾斜のついたステージの奥からわらわらと役者たちが起き上がる。幻想的なオープニングに続き、一転、タイトでリアルな掛け合いがスピーディに展開する。ベテラン、若手の一糸乱れぬテクニカルな演技は笑いとショックを随所に配置し、きびきびして気持ちがよい。ハイブロウ。とくに演出の「間」が本当に素晴らしい。大小の舞台装置の活用も納得だ。
 主演の宮沢りえ、かつてのはかなげな美少女のイメージなどかけらもない、堂々たる役者ぶりである(正直、なかなかその役者が宮沢りえであるとわからなかった)。野田の筆による実際の事件を神話の体系に置き換える設定は巧みだし、その設定の中で事件を再構築していく裏返しに次ぐ裏返しの展開も素晴らしい。引き込まれる。

 ……と、手放しでほめることができるのは前半、開演からおよそ1時間まで。やがて物語はどんどん現実の事件を忠実になぞるほかなくなっていき、最後には起こってしまった事象への(申し訳ないが)かなり直接的で卑小な「評価」を示して閉じる。すると前半への評価が裏返される。神話の体系への置き換えが巧みであるということは、つまり「置き換え」をしてみせただけ、ということである。紙と文字を多用したメタファー転がしは言葉遊びに過ぎない。

 坂道を転げ落ちる雪ダルマがどうなるか、それを語るのはそれほど難しいことではない。問題は、その雪ダルマが、何をコアに、なぜ転がりだしたか、ではないか。それについて、「ザ・キャラクター」は何一つ語らない。時代のせいか、世代のせいか、場の、あるいは特定の人物のキャラクターのせいだったのか。もう一度起こり得ることなのか、二度と起こらないのなら一度でも起こったのはなぜだったのか。

 久しぶりに力のこもった演劇空間にどっぷり身を浸せた満足感の一方で、野田をもってここまでしか迫れないのかとの無念さが残る。少なくともあの日、危うく巻き込まれそうになった私たち、巻き込まれた方を目の当たりにしてしまった私たちは、このような「評価」ごときで物語が閉じるのを許すことができない。
 じっと、一心に、考えることだけが残される。

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