カテゴリー「萩尾望都について考察する」の15件の記事

2022/03/31

『現代マンガ選集 異形の未来』に見るマンガ軽視

現代マンガ選集 異形の未来』の「ポーチで少女が小犬と」についての150ページの解説には、冒頭に
 
  萩尾望都が『COM』に発表した唯一の作品。
 
とある。
これは明らかに誤りで、『COM』同年10月号には萩尾望都のやはり名作とされる「10月の少女たち」が掲載されている。
しかも、実は「10月の少女たち」は『現代マンガ選集』の総監修を担当している中条省平が編んだ、同じちくま文庫の『COM傑作選 下 1970~1971』に収録されているのだ。
 
10 少し大げさな話をすると、問題はちくま文庫に限らない。
小学館文庫『10月の少女たち』はその「10月の少女たち」を表題とした萩尾望都の初期傑作短篇集なのだが、それを見ても、同作の最後のコマ下におそらく描かれた時期として「1971年8月」とあるだけで、掲載誌については触れていない。
つまり、大手出版社の文庫であっても、マンガの初出についての資料性はその程度の扱い、ということだ。
 
かくの如く、マンガは今や文化として十分に市民権を得たように見えながら、実のところいまだに「しょせんマンガ如き」という扱いを受けているのではないか。
 
筑摩書房はさまざまなアングルからアンソロジーを編んだり、マイナーな作品を復刊したりしてくれるなど、トータルとしてはマンガをずいぶん大切にしてくれている。そのちくま文庫にして、作品の初出について『Yasuji東京』紹介の折に書いたようなルーズさが目につく。
 
少なくとも、作品集1冊、せいぜい10作品程度の初出を調べず、載せない、あるいは間違って載せるというのは怠慢としか思えない。
 
扉ページにこって、妙ちくりんなローマ字表示を載せるくらいなら(※)、資料としての価値にもう少し気を遣ってほしいと思う年度末の烏丸であった。
 
 
※『現代マンガ選集 異形の未来』では各作品の扉に、ペン画のイラストに加えて著者名、作品名のアルファベット表記を掲載している。装丁上の飾り程度のつもりなのだろうが、それにしてもミス、不統一が目立つ。
「サイボーグ」なら「Cyborg」と英訳、「そこに奴が…」では「Sokoni Yatsuga...」とローマ字表記。ちなみにその裏ページは「Sokoni Yatuga...」と「s」抜け。「300,000Km./sec.」では「300,00Km./sec.」となんと「0」1個抜け。「ポーチで少女が小犬と」なら「Porch de Shojyo ga koinu to」とこれは英単語ローマ字混じりの・・・何語なのか? 「至福の街」ではまた「Shifuku no Machi」とローマ字、「ぼくとフリオと校庭で」にいたっては「Me and Julio Down by the Schoolyard」となんとポール・サイモンの曲名そのまま。
もう、何をしたいのかわからない。原題の下にアルファベットがあるとオシャレだ、カッコイイ、とでも考えたのだろうか。飾りなら飾りで、少し丁寧に考えてほしい。

2022/03/30

『現代マンガ選集 異形の未来』 中野春行 編 / ちくま文庫

Photo_20220330024001 SFマンガを選り抜いたアンソロジー。収録作は以下のとおり。

 「サイボーグ」(水木しげる)
 「そこに奴が…」(山上たつひこ)
 「300,000Km./sec.」(あすなひろし)
 「ポーチで少女が小犬と」(萩尾望都)
 「至福の街」(いしかわじゅん)
 「P」(とり・みき)
 「アカプルコ・ゴールド」(吉田秋生)
 「レボリューション」(手塚治虫)
 「ぼくとフリオと校庭で」(諸星大二郎)
 「Return」(浦沢直樹)

主に1960年代、70年代に描かれた作品集だが、いずれも現在でも十分鑑賞に堪え、かつ希少性、資料性に長けた、堂々たるラインナップである。

日本で最初に「サイボーグ」という言葉をマンガに取り入れたと言われる、水木しげる「サイボーグ」。宇宙開発を描いて海外ドラマ「トワイライトゾーン(ミステリーゾーン)」や「アウターリミッツ」を彷彿させる救いのない物語だが、コマの圧倒的な黒さ、重さがお子様ランチでもサラリーマン向けペーソスでもない、いわば「純水木」を呈していて嬉しい。

あすなひろしはなぜか90年代以降ほとんど作品を発表しなかった。そのため、その作品については不遇な扱いを受けているとしか言いようがないが、厳しいテーマ、シャープな描線、ことに一瞬で空気が冷えるような冴えた演出は他の追随を許さない。
「300,000Km./sec.」は彼の貴重なSF作品だが、広島の被爆を描いた「林檎も匂わない」などと同じく、作者の中で純文学も青春ドラマもSFもホラーも境目のないものだったことがわかる。再評価、というより、そもそもモノスゴイ作家であるという評価のもと、大半絶版になってしまった作品集の再発が強く望まれる。

萩尾望都「ポーチで少女が小犬と」は12ページの掌編だが、20世紀の短篇マンガの傑作選を編むなら樹村みのり「海へ」や大島弓子、岡田史子らのいずれかの作品と合わせ、絶対に外したくない無二のマスターピース。天才の仕事とは、このようなものを言う。

いしかわじゅん「至福の街」も素晴らしい。このタッチでこれが描けるか。山上たつひこの「そこに奴が…」についても似たことが言えるのだが、テーマに作品が勝っている。

逆に、少し食い足りなく思われたのがとり・みき諸星大二郎の両名。
好みもあるが、ほかの収録作の重み、色合いに比べ、並べて立てるならもっとほかによいものがあったのでは、と思われてならない。まあ、諸星大二郎の作品など、「異形の過去」か「異形の未来」ばかりなので、選択は至難の業だったとも推察するが、他の作家についてはいずれもレアな採掘場から掘り出しているだけに、何も単行本のタイトル作を選ばなくとも──という気持ちが残る。

ところで、『現代マンガ選集 異形の未来』はSFマンガのアンソロジーとしては良い企画であり良い選択であるように思われるが、1冊の「本」として、少し気になることがあった。
長くなりそうなので、次の項に続く。

2021/05/31

人生は一度きり 『薔薇はシュラバで生まれる 【70年代少女漫画アシスタント奮闘記】』 笹生那実 / イースト・プレス

Photo_20210531182201 2020年2月発行。
取り上げなくては! と思っているうちに1年経ってしまった。
個人的には昨年発刊のコミックエッセイで、いや、普通のコミック全部合わせてもベストな1冊。

70年代、あの、少女マンガがきらびやかかつ先鋭的だった時代に自身プロデビューする一方、美内すずえ、くらもちふさこ、樹村みのり、三原順、山岸凉子らの数々の名作にアシスタントとしてかかわってきたマンガ家笹生那実が当時の回顧録を、それぞれの作家の顔をそれぞれの作家のタッチで描いたコミックエッセイ。巧いんだ、これが。

ページを多く割いた美内すずえの「シュラバ」──相次ぐ徹夜、風呂にも入れない、資料がない、よれよれの服装──のあれこれはもちろん、山岸凉子の大問題作「天人唐草」作成時のエピソードがぞくぞくくる。もう一つ、樹村みのり本人の描写が実に作品とマッチしていて嬉しい。その際にアシスタントした作品が例の「40-0」! もう当時の少女マンガファンとしてはブレークダンス踊りながら逆立ちして激辛ラーメンすすってみせたい心持ちである。

※(雑)「40-0」や「わたしの宇宙人」をはじめとする当時の樹村みのり作品のいくつかで、「結婚」を扱う少女マンガもあり得ることを教えられた。大仰なことをいえば、少女マンガの臆病な男性読者は「天人唐草」で恋愛、結婚から恐れ、飛びのき、「40-0」でおずおずともう一度それを前向きに検討してみたのだ。

美内すずえ宅で初めてアシスタントをした際の話題に「ポーの一族シリーズの『小鳥の巣』を描き終えられたばかりの萩尾望都先生がもうすぐイギリス留学に」という話が出てくることから、本書の内容が時期的に『一度きりの大泉の話』とかぶっているのは間違いない。
萩尾望都や竹宮恵子、ささやななえら、大泉関係の作家のところで直接アシスタントをしたという話は出てこない。出版社や雑誌、編集者など、マンガ家としての「生息域」が違ったのか、付き合いはあっても扱うエピソードとしてこぼれたのか、そのあたりはよくわからない。

『一度きりの大泉の話』と明らかに違うのは、何某の作品は読まない、連絡もとらないと頑なに殻を閉ざす萩尾望都に比べ、本書はすべてのプロットを各作家(故人たる三原順は除き)に連絡して了解を取り、その他言葉遣いなど礼を尽くして描いているということだ。

笹生那実がアシスタントとして雇われた側だった、ということもなくはないかもしれないが、そもそも本作りとして当時の少女マンガファンに対する心尽くしのエンターテインメントとして提供しようとしたことが大きいのではないか。

本書にはブラック企業も裸足で逃げ出す「シュラバ」の数々が描かれる。大きなエラーをしでかすこともある。
アイデアや品質、人気を競うこともあるだろう。それを日々重ねる間、作家どうし、作家とアシスタント間のトラブルがまったくなかったとは思えない。
著者自身、美内すずえに初めての訪問時、初めてのアシスタント時の粗相についてのちに謝罪する場面が描かれているが、多忙極まりない美内にすれば無条件に笑って許せるものばかりではなかったはずだ。

だが、笹生那実はそういった事件を作家当人に胸を張って見せられるよう取捨選択し、整え、濾過、蒸留し、読者にとって楽しめる、心温まる懐かしくも楽しいエピソード集として1冊にまとめ上げた。
これを美しい本と言わずしてなんとしよう。

それにつけても、三原順、なあ。ああ、三原順。三原順。

2021/05/27

萩尾望都をめぐる雑感 その5 目をつむり、耳をふさぐ

☆彡 『一度きりの大泉の話』に目を通し、全体を通して一番がっかりしたことは、(マンガ家のもとを訪ねる一部のマニアやマンガ家志望を除き)萩尾望都が、広い意味での「読者」について語る場面がほとんどなかったことだ。
萩尾望都にとってマンガとは自分の描きたいように描くものであって、どう読まれるかはどうでもよい──いや、違うな。自分の思うように読んでもらえないなら、いっそ読まれなくてもよい、語られないほうがよい──そんな気配なのである。

☆彡 『一度きりの大泉の話』に再掲されている「ハワードさんの新聞広告」をはじめ、「マリーン」、あるいはブラッドベリ、コクトーらの翻案について、萩尾望都当人は原作ものを是としているようだが、平均して見渡せば彼女の原作付き作品は弱い。マンガの力は絵によるものだけではない。細やかな素材、絶妙なコマ運び、意味深なセリフ回し、そういう視点で見ればSFに限定しても「ドアの中の私の息子」「あそび玉」「スターレッド」「銀の三角」など、オリジナル作品のほうが圧倒的に読み応えがある。
無理やり原作付き作品を是としているのは、「この作品はイマイチ」といったファンからの声に対する作者の拒絶の悲鳴なのではないか。ともかく、発表したものを否定的に扱われることは「つらい」ことであり、「鈍い」自分はすぐその場で反論できない、だから否定的な声は無視するに限る──そんな印象。

☆彡 ちなみに『一度きりの大泉の話』で個人的に一番不快だったのは、「アシスタントをお断りした話」という章。
あるマンガ家志望の女子学生がアシスタント志望の友達を連れてきて、その日のうちにさっそく仕事を頼むことになる。モブシーンなど描けないと断るのを無理やり押し付け、結局その子は描けないまま1枚隠すようにして帰るという「粗相」をしでかしてしまう・・・。
もちろん仕事を放置したことはおよそほめられた行為ではないが、「とても描けません」「無理です」と何度も断る素人の「しでかし」を50年も経った今になって、それもうちうちで語るならともかく萩尾望都のファンの多くが手にするに違いない単行本で明らかにする必要はあっただろうか。「ずっと昔萩尾望都のところで一晩だけアシスタントしたことがあるんだ、うまくできなかったけどね」と昔日の「粗相」を恥じらいつつ懐かしんでいるであろうプロでもない元アシスタント志望者に対してこの仕打ち。
この章も章全体としては竹宮恵子との関係の捩れについての説明が目的だったようだが、このアシスタント志望者はそんなことになんら関係ないのだ。

☆彡 萩尾望都がこんなふうになってしまった背景には、講談社(なかよし)時代、小学館(別冊少女コミック)時代、それぞれの編集者らがよく言って放任、悪くいえば彼女について制御不能だったことがあるのではないか。
少なくとも編集者と作家が緻密な打ち合わせをしたうえでネームを構築する、といったやり取りは本書からは見えてこない。
これでは少なくとも(マニアのファンレターは別として)読み手の声を蒸留した意見は届かない、反映されない。
ただ、繰り返しになるが、それこそが彼女の独自性を守る壁となった。その点は否定できない。
大泉での経験は彼女の殻に傷をつけたかもしれないが、『ポーの一族』『トーマの心臓』『11人いる』等を契機に出版界に名を轟かせた彼女には、それ以降、発表の場さえあれば読み手の声などもはや必要なかったということかもしれない。

☆彡 『一度きりの大泉の話』には萩尾望都を小学館の雑誌に招いた山本順也という編集者(故人)が再三登場する。初期の作品を内容検討もせずに掲載したり(結果的にそれは萩尾望都に独自な作品を描くチャンスと訓練を与えたわけだが)、萩尾望都ら若手作家にさまざまな便宜を与えたり、かと思えば突然掲載を切ると言い出したり、『一度きりの大泉の話』内でも豪放といえば豪放、乱暴といえば乱暴な言動がみられるが、実は個人的にこの山本という人物と会ったことがある。記憶しているのは、萩尾望都や大島弓子をマニアにしか受けない面倒な作家と罵倒し、「キャンディ♡キャンディのような売れ線を」とまるで酔っ払いのように繰り返し叫ぶ彼の姿だ。
こちらとしてはマニアを主対象とし、男性読者女性読者にこだわらない新しい市場の可能性(のちの『うる星やつら」のようなものか)、とかそんな話をしたかったのだが、ただの雑誌読者に雑誌編集者に反論できるだけの力などあるはずもなく、ただ「キャンディ♡キャンディ!」と連呼されるばかり、ほかの編集者の方に「まあまあ」と宥められてその場はお開きとなった。

☆彡 これは勝手な推測だが、萩尾望都は自ら拒絶したこともあって、両親や編集者、同業者を含め、ごく平均的な大人のアドバイザーとあまり出会わないまま生きてきたのではないか。
彼女の作品に登場するのは人間として未分化な少年と、人形のような少女ばかりで(生き生きした少女は少年のように描かれる)、壮年の男性は何かと驚き、騒ぎ、事態に過剰反応する慌て者、そうでないならただ自我を垂れ流す傲慢なジャイアン。要は子供だらけなのだ。

☆彡 ・・・文句ばかりになってしまったので、最後は少し楽しい画像を一つ。
下は萩尾望都が九州から上京する際の資金源となったという、なかよし1970年9・10月号付録の「ケーキ ケーキ ケーキ」(原作 一ノ木アヤ)。
「ケーキ ケーキ ケーキ」はのちに萩尾望都作品集(赤本)に収録されるが、このなかよし付録版はかなりレアではないかと思う。作者が本作をどうとらえているかは知らないが、当時の絵、とくに瞳の描き方は大好きだ。
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2021/05/20

残酷な天使のテーゼ 『一度きりの大泉の話』 萩尾望都 / 河出書房新社

Photo_20210520180901 不躾けを承知で言うが、面白い。

1970年代前半の、萩尾望都や竹宮恵子(現在は竹宮惠子と綴るらしいが、知っているのは竹宮恵子時代だけなので)らによる少女マンガ変革期の貴重な記録として、また一方、双方向の悪意その攻撃性を紙面に刻んだまれに見るドキュメンタリーとして。

個人的には、当時、別冊少女コミック、週刊少女コミックのコミックエッセイで萩尾望都の目を悪くしてつらそうな様子を記憶していたのだが(「11月のギムナジウム」「ポーの一族」に比べ「小鳥の巣」や「トーマの心臓」の描画が荒れていたのはそのせいかと仲間うちで心配していた)、その背景が今知れて・・・よかったかどうかはよくわからない。どうだろう。

『一度きりの大泉の話』の内容をざっくり紹介すると、萩尾望都がマンガ家を目指し、九州を出て都内大泉の一軒家で竹宮恵子と同居し、さまざまなマンガ家やファンが出入りする中、数々の名作を発表、それが2年でバラバラになる──その経緯を年代記として語り起こしたもの。

前書きや後書きから知れるのは、一方の竹宮恵子が最近自伝的書物を上梓、それを機にその2年間を(手塚治虫らの「トキワ荘」伝説にならって)「大泉サロン」として持ち上げようとするメディア側の機運が高まり、それに対し萩尾望都が「一度きり」自分の思うところを明らかにし、後は静かに放っておいてほしい、と内外に求めたもの。
つまり、当時の生活を「大泉サロン」などと祭り上げられるのは自分にとって苦痛でしかないのでやめてほしい、仔細は「一度きり」ここに書くので今後一切触れないでほしい、ということである。

言うならば不祥事に際しての(もちろん別に不祥事ではないのだが)企業の記者会見のようなもので、本来出版、映像等の関係者に対し内々に明らかにすべきものを読者の手に届く単行本に仕立て上げた、という点でかなり特殊な本であることは言えるだろう。

詳細についてここで明らかにすると未読の方の興趣をそぐことになるのだが、、、

「夜、マンションに呼ばれる」の章に書かれたやり取りが本書のキモであり、最大のトラブルではあるのだが、それ以外にも現在「大泉サロン」で一イベント巻き起こさんとするメディア関係者、こじれた関係を仲裁しようとする知人たちなど、無神経、善意の衣を冠った押しつけがましさ、あるいはストレートな悪意がいたるところに交錯し、それに対する語り手の直接的な悪意がさらに輪をかけて胸苦しい。

ちなみに、著者が一方的に被害者かといえば、それはそれで疑問が残る。

まず、トラブルが起こった際にまったく対話に持ち込まず、解決を図ろうとしなかったことを、弱い、逃げた、と指摘することは可能だろう。「自分がいたらないため」と言いつつ何がいたらないかの確認すら怠ったことは社会人として同情できるものではない。
そして、それ以上に、20歳前後の友人関係のこじれを50年経った現在にいたるも同じ重さで抱え続け、「すみません」を何十回も繰り返して低姿勢のフリをしながら、相手の作品を「読んでいない」と何度も何度も連発し(作品を手掛ける者に対してこれ以上の攻撃は想像できない)、あまつさえそれを単行本にまとめてのける心のありようは、「いじめの加害者は忘れるが、被害者は忘れない」というアングルでは説明がつかない。

また、関係者の一人、増山法恵(少女マンガに少年愛を持ち込んだ首謀者?)や使い物にならなかったアシスタントを語る萩尾望都の口調の冷たさには驚かされる。要は、少女マンガにかかわりながらマンガを描けない者は断罪されるのだ。

はっきり言うなら、萩尾望都は、自分以外はすべて許せない。許さない。
ほかのマンガ家が自分の大切なものを守るために制御しようとしてきたことは許せない。だが、自分自身が大切なものを守る言動は無制限に許されなければならない。
相手が「空気を読めない」のは許せない。だが、自分は「空気が読めない」からしかたがない。
両親が自分を理解しないのは許せない。だが、自分が親を理解できないのはしかたない。
などなど、などなど。

しかし、ここで振り返るに、問題は「萩尾望都とは何か」ということである。
彼女は少女マンガ家だ。いかにファンに崇め奉られようが、神ではないし、教祖でもない。
彼女が評価されるのは、その作品が独自であり、ハイクオリティであるためだ。別に、人間として尊敬される存在だからではない。
その限りにおいて、彼女は、たとえばスーパーマーケットが顧客の声に合わせて棚の品揃えやレジの運用を日々修正する、とか、家電会社がコールセンターへの入電件数に合わせて機器やサービスを改善していく、そういったことをしてはいけない、のかも、しれない。

読者や友人の声にいちいち応える、そういった作風もあるだろうが、萩尾望都は少なくともそうではない。それではあの萩尾望都が萩尾望都でなくなってしまう。
極論するなら、自らの内なる声以外をすべてシャットアウトして描けば描くほど、その作品の萩尾望都度は高まるのだ。

『一度きりの大泉の話』は、そういった少女マンガ家の高らかな唯我独尊宣言であり、逆にいえば、一人の老人の哀れで不憫な人生の記録である。

ところで、さて、どうだろう?
「大泉の話」をこの「一度きり」としたい萩尾望都の希望どおりに物事は進むものだろうか。
(とくにメディア関連の)人々の無慈悲、無頓着、無神経は、彼女の期待に比べれば格段に愚鈍で強靭かつ粘着質で──本書を飲み込んでインタビューに応えない、写真を提供しないアンチメディア作家萩尾望都を祭壇に置いたさらなる「大泉サロン」伝説を目論む者が現れるのも想像に難くない。。。。

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(5/24追記。「雑感その5」を公開したついでに)

「F(フレーム)式蘭丸」もしくは「フレームで少女が子犬と」(大島弓子,萩尾望都論への1アプローチ)
萩尾望都をめぐる雑感
萩尾望都をめぐる雑感 その2 「ポーの一族」40年ぶりの新作
萩尾望都をめぐる雑感 その3 「まんがABC」
萩尾望都をめぐる雑感 その4 SF原画展と「ドアの中のわたしのむすこ」
萩尾望都をめぐる雑感 その5 目をつむり、耳をふさぐ

「「F(フレーム)式蘭丸」もしくは「フレームで少女が子犬と」」の記事ではすでに「トーマの心臓」の週刊連載期に作者が目を病み,ペン(線)が荒れたことに着目していたもよう(自分で指摘してどうする!)。


2016/09/17

『ネオ寄生獣』 岩明均、萩尾望都 ほか / 講談社 アフタヌーンKC

Photo岩明均『寄生獣』(1988~1995年)に捧ぐ、トリビュート作品集。

 

参加者は萩尾望都、太田モアレ、竹谷隆之、韮沢靖、真島ヒロ、PEACH-PIT、熊倉隆敏、皆川亮二、植芝理一、遠藤浩輝、瀧波ユカリ、平本アキラ。
(以下、個々の内容に触れるので、未読の方はご注意。)

 

特筆すべきは巻頭、萩尾望都の「由良の門を」。
『寄生獣』後の世界を描いて秀逸。よもや、の主人公といい、能楽「海人」の「玉の段」を素地にしたストーリーといい、もはや別次元の水準。
『寄生獣』という作品の計り知れない力は、よくできたホラー、サスペンス、SFマンガとして読み手を楽しませる一方、人間に寄生し人間を捕食する寄生獣が自らの存在意義を問い(「我々はか弱い」)、また寄生された人間がどこまで人間であるかを問われ(「きみ…… 泉 新一君 ……だよね?」)、つまりは読み手に「人間とは何か」と繰り返し問いかけてくることによる。「由良の門を」はその観点で正統な『寄生獣』の継承の一つだ。
惜しむらくは登場人物の一人が原作の浦上とそっくりな行動原理によっているにもかかわらず、とくにその点について深掘りせず、たまたまそういう人物が現れたようにしか描かれていない。主人公が浦上のコピーを圧倒することの意義は本来極めて大きかったはずなのだ。

 

太田モアレ「今夜もEat it」、熊倉隆敏「変わりもの」。
後藤の死後、寄生獣たちが市井に紛れた後、それぞれに「家庭」を築く姿を描く。とぼけた雰囲気の中に一種異様な緊張感があり、それぞれ素晴らしい。さすがアフタヌーン。

 

皆川亮二「PERFECT SOLDIER」、遠藤浩輝「EDIBLE」。
いかにもこの2人が描きそうなミリタリーアクション。いずれも完成度は高いが、『寄生獣』の、無造作に読み手を裏切るあの素っ頓狂な意外性に欠けるのは残念。

 

真島ヒロ「ルーシィとミギー」、瀧波ユカリ「寄生!! 江古田ちゃん」、平本アキラ「アゴなしゲンとオレは寄生獣」。
自身のキャラクターを遣いゴマにし、さらっとギャグに仕立てる。それぞれ寄生のさせ方にワザがあり、プロの仕事を感じさせる(ただし、教条的『寄生獣』ファンには抵抗があるかもしれない)。

 

各作の後の『寄生獣』の魅力を答えるコメントで光ったのは、描き込みのすさまじい「ミギーの旅」を寄稿した植芝理一、

 

  リアリティとデフォルメ、恐怖とその中に含まれる少しのユーモアのバランスが絶妙なところでしょう。

 

の一節。
この「少しのユーモア」が、あちらこちら背中の傷のようにひきつった『寄生獣』を救い、再読をうながすのだ。

2016/05/31

萩尾望都をめぐる雑感 その4 SF原画展と「ドアの中のわたしのむすこ」

☆彡 5月3日には武蔵野市立吉祥寺美術館の「萩尾望都SF原画展」を訪ねた。

 

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☆彡 図録にあたる「萩尾望都 SFアートワークス」とそのリーフレット。

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☆彡 自宅の箱にあった「スターレッド」が表紙を飾った週刊少女コミックの表紙。原画展にも同じ号が展示されていた。

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☆彡 下上は、展示されていた「ドアの中のわたしのむすこ」、知る人ぞ知るダーナ・ドンブンブンの表紙原画(「萩尾望都 SFアートワークス」より)だが、展示原画ではこのロゴは文字の線に合わせて丁寧に切り取り、貼り付けてあった。
どう見ても雑誌掲載時のロゴ(下下)の方がいい(そもそも原画展のほうは「むすこ」が漢字になっているし)。
ゲラで修正したのだろうか? ちょっと手順の見当がつかない。

Door1
Door2

☆彡 ちなみに「ドアの中のわたしのむすこ」は「別冊少女コミック」1972年4月号に掲載されたが、掲載位置は巻末だった。
したがって最後のページの裏にはその号の目次がある。
同じ号には玉三郎の岸裕子や超人ロックの聖悠紀の名があり、さらに本ページ外枠の次号予告には大島弓子の「鳥のように」の作品名があった。
夢のような時代である。

 

 

☆彡 ところで、未読なのだが、津原泰水によるアンソロジー『たんときれいに召し上がれ 美食文学精選』(芸術新聞社)では、夢野久作作品への解説で、萩尾望都のデビュー作「ルルとミミ」のタイトルは同じ福岡出身の夢野久作の作品名からつけられたのではないかとの指摘がなされている──との情報を得た。
普段なら「自分の指摘のほうが先ではないのか!?」とかカリカリするところだが、なにしろ相手が津原泰水とあれば、同じことを指摘しているというだけで嬉しい。

萩尾望都をめぐる雑感 その3 「まんがABC」

☆彡 萩尾望都については、1972年頃から今でいうカルトな人気が高まっていたらしく、「別冊少女コミック 1972年8月号増刊フラワーコミック」に初期作品のうち「かわいそうなママ」「雪の子」「塔のある家」の3作が再掲され(いずれも描線、表情、コマ割りともに素晴らしい)、その後週刊少女コミックなどに旧作の再掲がしばらく続いた。
下はその際併載された萩尾望都作品リスト。マンガが読み捨てられるものから再読、深掘りされるものになっていった時代の足跡の一つと言えるかもしれない。
なお、このリスト掲載時点ではまだ「ポーの一族」は発表されていない。つまり「アラン」の名はこのイラストカットで初めて誌上に登場したことになる。

List
☆彡 下は「トーマの心臓」連載当時発表された「まんがABC」。
萩尾望都のマンガにかける思い、影響を受けた作品などがABC・・・のアルファベット順に24ページにわたり熱く語られている。
非常にスキルフルかつ読み応えのあるマンガエッセイなのだが、単行本未収録どころか作品リストに入っていないこともあるようだ。残念でならない。

Abc
☆彡 驚くべきは、この深みのあるマンガエッセイに編集者が付けた欄外のコメントが
◎まんがよむのに、難しい講釈は不用! まずはよむこと。そしてたのしむことです。ね!?
というもの。ほとんど嫌がらせである。
ロジックや構成を大切にする萩尾望都ら新しい世代がいかに疎んじられていたかの表れだろうか。
(詳しくは書けないが、当時、小学館の少女マンガ誌の編集者がいわゆる「24年組」の作家たちについて、一部マニアに受けるだけ、売り上げに貢献せずむしろ迷惑、と名指しであしざまに罵る現場に居合わせたことがある。)

 

☆彡 「まんがABC」の1ページ。
痛い。このページの内容は、今でも夢に見る。

Abc_heart
☆彡 なお、「まんがABC」の表紙で「センセ オチャーッ」って叫んでいるのは、のちに若くして亡くなられた花郁悠紀子ではないか(波津彬子の実姉)。

萩尾望都をめぐる雑感 その2 「ポーの一族」40年ぶりの新作

萩尾望都について、引き続き。
一部すでにほかで公開している内容とかぶっているが、ご容赦ください。

 

☆彡 28日発売の小学館発行「月刊フラワーズ」2016年7月号に、「ポーの一族」シリーズの短編「春の夢」が掲載された。
同じ小学館の「別冊少女コミック」1976年4月号~6月号に掲載された「エディス」以来、約40年ぶりの新作ということになる。

Harunoyume
☆彡 「春の夢」のクオリティについては、多くは語りたくない。以下はあくまで私見。
初期作品における登場人物たちのシャープな目線の交錯は影を潜め、悪い意味で「お人形の目」のようだし、コマ割りは凡庸、エドガーやアランの表情は平坦で神秘性に欠け、永遠の時を生きる一族の末裔とはとても思えない。
ストーリーの背景にはナチスによるユダヤ迫害があるが、そうした歴史の重みを伝える重厚さにおいてもかつての「グレン・スミスの日記」に遠く及ばない。

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☆彡 下記は最近自宅の書棚を整理した際に箱から出てきた、雑誌初出時の「ポーの一族」シリーズの表紙一覧。

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☆彡 連載時の「メリーベルと銀のバラ」は作者にとって物足りなかったのか、単行本では加筆訂正とかいうレベルでおさまらない大量のコマの描き足し、描き直しがなされている。
「別冊少女コミック」1973年1月号のページとそれにあたる単行本のページを並べてみた。ほとんど別作品である。

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☆彡 ただ、(これも私見である、念のため)描線の“ゆるみ”は次作の「小鳥の巣」においてすでに始まっていたように思われる。

2012/04/09

萩尾望都をめぐる雑感

☆彡 萩尾望都はかつて誰よりも熱心にその作品を隅々まで読み返した作家の一人なのだが、あの時代の少女マンガについてはあまりにも個人的思い入れが深すぎてうまく書くことができない。

 

☆彡 ただその頃、熱心なファンの一人として「かわいそうなママ」や「小夜の縫うゆかた」や「10月の少女たち」や「秋の旅」や「あそび玉」や「ドアの中のわたしのむすこ」、そしてその後の一連の「ポーの一族」シリーズや「トーマの心臓」や「百億の昼と千億の昼」を、いずれも掲載雑誌から切り抜いて集めては、金魚鉢の中で飽かず口をパクつかせる出目金のようにひたすら繰り返し読み明かした日々を思い起こすばかりだ。

 

☆彡 「すきとおった銀の髪」「ポーの村」とバンパネラについての叙情的作品を描きついでいた萩尾望都が叙事的文体を手に入れたのが「グレン・スミスの日記」だった、ように思う。たった16ページとは思えない、大河ドラマ並みの骨太ストーリー、人の十年を一コマで描く雄弁な線。

 

☆彡 「グレン・スミスの日記」に比べれば、後日評価の高まった「トーマの心臓」は叙情的絵柄で、おまけに必要以上に長尺だったため(さらに線が不安定で)、むしろ退行に思えたものだ。

 

☆彡 「ドアの中のわたしのむすこ」は近未来のミュータントが混在する世界を描く短編SFファンタジー。短いが、作品としての重要度はのちの「銀の三角」などより上かもしれない。ミュージカルなストーリー、セリフ、テンポ、いずれも素晴らしいが、各コマにおける各キャラの目線の描き分けがすごい。カラフルな目線。目線の輪舞。
(登場人物の目線をレーザー光線のようにラインマーカーで塗り分けてみるとおわかりいただけるだろう)

 

☆彡 ところで、夢野久作に、ハウプトマンの「沈鐘」を翻案したと思われる「ルルとミミ」という絵本がある。萩尾望都のデビュー短編と同じタイトルだ。萩尾望都の評伝等で扱われたのを見たことはないのだが、夢野と同県出身の萩尾望都は、この絵本を読んだことがあったのかもしれない。

 

☆彡 「ルルとミミ」というタイトルだけでなく、すきとおった水の底を冷たくなった少女が流れていくさまは、萩尾望都ののちの(絵本的な短編)「みつくにの娘」を思わせる。

 

☆彡 また、夢野の「ルルとミミ」の最後の1行「――可哀そうなルルとミミ……。」が、やがて「かわいそうなママ」というタイトルに遷移した、と想像してみるのも悪くない。

 

☆彡 「雪の子」や「かわいそうなママ」は、一条ゆかりはじめ、掲載の数ヶ月後の少女誌に明らかにその影響を受けたコマやセリフが頻発した傑作。後者に描かれた階段の曲線は、平面に描かれた音楽、ヴァイオリンの旋律だった。

 

☆彡 シーンのパクリといえば、「秋の旅」の、バラの棘が少女の指にささって、のシーンも、その3、4ヶ月後、各少女誌にそっくりなシーンがあいついで掲載されたものだ。

 

☆彡 萩尾望都の描く男性はなぜか皆落ち着きがない(か周囲の状況や他人の感情にひどく鈍感か、どちらか)。慌ただしい人物は物語を動かす燐寸にもなるが、ときにはうとましい。「バルバラ異界」など、もう少し主人公が沈思黙考する場面があってもよかった。「左ききのイザン」に登場する男性は二人しかいないのに、二人とも気が短いことでは同様だ。

 

☆彡 「11人いる!」とその続編も、登場人物全員がバタバタしていて苦手だ。同じSFでも「あそび玉」や「6月の声」のように事態が明らかになればなるほど登場人物が冷静になっていく作品のほうが好もしい。

 

☆彡 とはいえ、作者のコメディが楽しくない、というわけではない。「3月ウサギが集団で」や「キャベツ畑の遺産相続人」は同じドタバタでも楽しくてしょうがない。

 

☆彡 COMに掲載された「ポーチで少女が小犬と」と「10月の少女たち」は岡田史子のいくつかの作品と同様、リアルタイムに読むことができた。相当幸福な経験といってよいと思う。