カテゴリー「東雅夫文藝怪談関連」の14件の記事

2025/06/02

『怪獣談 文豪怪獣作品集』 武田泰淳、香山滋、光瀬龍ほか 東雅夫編 / 平凡社ライブラリー

わお! と飛びついて購入した怪獣本であるが、いかんせんいくつかの点でよろしくない。

一つは本書の成り立ちである。巻末の編者解説には、次のように書かれている。

  最初にお断りしておこう。
  本書は、私にとって「アンソロジスト」のデビュー作となった『怪獣文学大全』(河出文庫/一九九八年八月発行)の、待望久しい復刊である。一部の読者から熱心な復刊の御希望が寄せられ、ウェブなどでも古書価が高騰して心苦しい思いでいたのだが、このほどようやく念願を果たすことができた。

──ところが、本書が河出文庫の『怪獣文学大全』の復刊であることはカバーにも帯にもその記載がない。武田泰淳、香山滋、光瀬龍ら共通の著者名はあるものの、『怪獣談』なる新たなアンソロジーと考えて買ってしまった者も少なからずいたのではないか。

編者解説はさらに続く。

  再刊にあたっては、収録作の見直しを行ない面目を一新している。

「古書価が高騰」して「復刊の御希望が寄せられ」たアンソロジーの再刊において収録作を見直されたら読み手はちょっと困る。
旧『怪獣文学大全』を持っている者は大半の内容のかぶった本を買ってしまうことになり、持っていない者は旧巻の一部の作品を読むことができない。
なんとも意地悪な仕業ではないだろうか。

それぞれの収録作を下に列記しておこう。

Photo_20250602183801  『怪獣文学大全』(河出文庫)

  「ゴジラ」の来る夜(武田泰淳)
  発光妖精とモスラ(中村真一郎・福永武彦・堀田善衛)
  闇の声(W・H・ホジスン、大門一男訳) ★
  マタンゴ(福島正美)
  マタンゴを喰ったな(橋本治) ★
  更にマタンゴを喰ったな(橋本治) ★
  マタンゴ(大槻ケンヂ) ★
  科学小説(花田清輝)
  ガブラ──海は狂っている(香山滋) ★
  マグラ!(光瀬龍)
  日本漂流(小松左京) ★
  レッドキングの復讐(井上雅彦) ★
  ゴジラの来迎 もうひとつの科学史(中沢新一) ★
  巻末エッセイ 思い出の「マグラ!」(光瀬龍)

Photo_20250602183901  『怪獣談 文豪怪獣作品集』(平凡社ライブラリー)

  怪獣絵物語 マンモジーラ(香山滋・文/深尾徹哉・絵) ▲
  「ゴジラ」の来る夜(武田泰淳)
  発光妖精とモスラ──【上】草原に小美人の美しい歌声(中村真一郎)
  発光妖精とモスラ──【中】四人の小妖精見世物となる(福永武彦)
  発光妖精とモスラ──【下】モスラついに東京湾に入る(堀田善衛)
  怪奇科学小説 ラドンの誕生(黒沼健) ▲
  S作品検討用台本(『獣人雪男』)(香山滋) ▲
  マタンゴ(福島正美)
  マグラ!(光瀬龍)
  思い出の「マグラ!」(光瀬龍)
  『ゴジラ』ざんげ(香山滋) ▲
  怪獣談(香山滋) ▲
  科学小説(花田清輝)
  怪奇空想映画療法(東山魁夷) ▲
  「子供っぽい悪趣味」讃(三島由紀夫) ▲

★印が『怪獣談』でカットされたもの、▲印は追加されたもの。

再刊というにはずいぶんと差異が大きいが、それはさておき、東山魁夷と三島由紀夫の往復書簡など、資料性の高いものもあるが、原案のホジスンから橋本治や大槻ケンヂを加えてのマタンゴ万漢全席、あるいは小松左京、井上雅彦らによる怪獣パロディ、さらに怪獣の姿に「能楽におけるシテ(能役者)の動き」を読み取る編者解説の水準含め、旧『怪獣文学大全』のほうが格段に知的、エスプリ臭が強い。
ゴジラが銀幕に登場した1950年代はいざしらず、怪獣映画が幾度かのブームを迎えたのちの時代から見て、怪獣そのものを俯瞰、消化し、的確にとらえていたのは旧『怪獣文学大全』のほうだったのではないだろうか。

さて、本稿最初の1行で「いくつかの点でよろしくない」と述べた。
もう一つの問題は、文字にされた「怪獣」はなぜこうも面白くないか、ということである。
これは『怪獣文学大全』、『怪獣談』の収録作に限ったことではない。

たとえばこのブログでも、過去、怪獣映画、ドラマへのオマージュとしての『大魔神』(筒井康隆、徳間書店)、『マタンゴ 最後の逆襲』(吉村達也、角川ホラー文庫)、『MM9』(山本弘、創元SF文庫)、『空の中』(有川 浩、角川文庫)、『怪獣文藝』(東雅夫 編、メディアファクトリー 幽ブックス)、『ウルトラ怪獣アンソロジー 多々良島ふたたび』(山本弘、小林泰三ほか、ハヤカワ文庫)、大怪獣のあとしまつ』(橘もも 脚本・三木 聡、講談社文庫)などいくつかの作品を取り上げてきたが、いずれもこと怪獣の描写においては「怪獣映画」の魅力にはいたらなかったように思う。

もちろん、巨大な怪獣が東京湾から上陸して銀座を破壊する、などという状況において、文章より映像や効果音(『ゴジラ-1.0』の足音!)に格段の優位があるのは間違いないだろう。だが、それでは片付かない力のなさを多くの怪獣文学には感じざるを得ない。
たとえば怪獣がいざ現れるときの、その直前の雰囲気はどうか。姿を見せる前に場に響き渡る音は。現れるのは山影か、ビルの向こうか。それを人々は見上げるのか、遠く眺めるのか。怪獣の動きは素早いのか、ゆっくりか(もしその怪獣の着ぐるみにアクターが入っているなら、特技監督としてどう指示するのか)。人を殺傷するならそれは炎でもってか、牙の並ぶ口でかみ砕くのか。そのときBGMにはいかなる音楽が流れているべきか。

モスラやマタンゴの原作となった作品はともかく、怪獣映画がブームとなって以降の怪獣文学において、書き手のそれぞれに「しょせん子どもだまし」といった意識はなかったろうか。
各作品に、円谷英二や伊福部昭らの執念を読みとることがどうしてもできないのだ。

2019/12/25

東雅夫を映す函 『平成怪奇小説傑作集(3)』 東 雅夫 編 / 創元推理文庫

3_20191225143701 巻の参。
前巻に続き、微妙な違和感が、それが微妙なだけに、気になる。

収録作一覧:

  京極夏彦「成人」
  高原英理「グレー・グレー」
  大濱普美子「盂蘭盆会」
  木内昇「蛼橋」
  有栖川有栖「天神坂」
  高橋克彦「さるの湯」
  恒川光太郎「風天孔参り」
  小野不由美「雨の鈴」
  藤野可織「アイデンティティ」
  小島水青「江の島心中」
  舞城王太郎「深夜百太郎」
  諏訪哲史「修那羅」
  宇佐美まこと「みどりの吐息」
  黒史郎「海にまつわるもの」
  澤村伊智「鬼のうみたりければ」

顔ぶれだけ見ればまあおおむね「平成」と言えなくもない。しかし、1巻2巻の際にさんざん指摘した事柄が今回も気になる。
たとえば、いくつか作品の冒頭、ないし数行めを抜き出してみよう。

  灰色だ。仰向けば水滴が顔のはしばしをつつく。(「グレー・グレー」)

  玄関の格子戸に片手をかけると、すと横に滑って音もなく開いた。(「盂蘭盆会」)

  蛼橋(こおろぎばし)のたもとに、良(え)い薬種屋があるから一度行ってごらんな。(「蛼橋」)

  晩秋の空は夕刻からかき曇り、小糠雨となる。(「天神坂」)

  鬢(びん)もあおあお。丸刈りあたまに、大きすぎはせぬか、目深(まぶか)に、白線ひとすじ、学生帽。(「修那羅」)

「格子戸」、「小糠雨」、「丸刈りあたま」。
どこが平成。昭和、大正、いっそ明治。

編者解説も、

  『三田文学』の伝統を現在に受け継ぐ──

  岡本綺堂の『三浦老人昔話』を思わせるレトロな味わいが好ましい──

  鏡花の名作「海異記」にも通じる──

等々、明治から昭和期の作家、作品への賛歌が繰り返される。
よくわからないのだが、綺堂を思わせる、鏡花に通じる、そう言われて現役作家は嬉しいものなのか? 自分なら御免だ。よし、鏡花の語り口調を模して書いたとしても、それは技法としてそうしているはず。エピゴーネンから始めたとしても、その果てに目指すことは綺堂や鏡花を模することではない。

また、平成という時代をどう語るかは人さまざまだろうが、こと「怪奇」について、大ブームとなった「実話怪談」を抜きに語ることはできないだろう。
しかるに本傑作集では平山夢明、木原浩勝、中山市朗から一編も採らず(明らかに実話怪談系といえるのは黒史郎の1編のみ)、また小野不由美についても

  究極の怪談実話系作品というべき『残穢』および『鬼談百景』の連作といった平成怪奇小説の金字塔を相次ぎ打ち立て

と持ち上げながら、掲載作には「巧緻な短編作家としての技倆の冴えと円熟ぶりがなにより印象深い」『営繕かるかや怪異譚』からの1編を選ぶ。それは好篇ではあるかもしれない、しかし小野不由美を、平成を代表する作品かと問われれば、どうだろう。

東雅夫が「実話怪談」を「怪奇小説」と認めない、ないし上位におかないのは別にかまわない。
そのあたりは3巻巻頭に京極夏彦「成人」を置き、その1行めに

  断っておくが、これから記す事柄は実話ではない。

と断言させて、いっそすがすがしいばかりだ。

ただ、その結果、『平成怪奇小説傑作集』全3巻は、「平成」に発表された作品の群れでありながら、なにか「平成」にそぐわないものになり果てた。平成を銘打つならもっとアレだろう、アレもほしい、アレがないのはおかしい。

要するに、編者はこと「怪奇小説」に関して「平成」が嫌い、否、大嫌い、なのである。
「平成」の、と銘打ちながら、実際の「平成」から目を逸らせたくてしかたなかったのである。
昭和に、大正に、明治に還りたくてしかたないのである。

そんなに嫌いなら、アンソロジーの肩に「平成」なんて付けなければよかったのに。

2019/10/31

東雅夫を映す水面 『平成怪奇小説傑作集(2)』 東 雅夫 編 / 創元推理文庫

Photo_20191031181401平成怪奇小説傑作集』、巻の弐。
平成10年から19年にかけて発表された怪奇小説の佳作を編む。

ところで。そもそもこの手の「怪奇」アンソロジーに収録される作品は、ざっくり、

  幻想小説
  怪奇小説
  ホラー
  怪談

に分けることができる。

もちろんこれらの定義は人により場によって異なり、境界線は曖昧だ。

たとえば「幻想小説」と「ファンタジー」は同じ函に入れることもできるが、後者を“剣と魔法と冒険の物語”とするとまったく様相が変わってくる。
また、「怪奇小説」と「ホラー」も厳密には別の枠。論より証拠、「SF」という大きな括りには「幻想小説」「怪奇小説」「ホラー」「怪談」いずれも含まれるが、「純文学」という括りでは「ホラー」「怪談」は除外される。
などなど。

あくまで私見ではあるが、上の切り分けを慮るに(くどいようだがあくまで私見では)「怪奇小説」にはホラー風味、つまり人を怖がらせる要素がある程度必要で、ホラー風味のない「怪奇小説」は「幻想小説」たりえても「怪奇小説」たりえないのではないか。

もう一点、その、(「怪奇小説」にも風味の求められる)「ホラー」においては、知や論ではあがなえない、否、知や論をかなぐり捨てた、非現実的な一種のブレークスルーがほしい。
逆に、「幻想小説」においては、知や論を精一杯尽くしてほしい。尽くして尽くして、それでも説明のつかないもの、それこそが揺るぎなき幻想である。精神の手綱を緩めた酩酊、そんなものは酒や薬でも得られるタワゴトに過ぎない。作品以前のものだ。

・・・という目で『平成怪奇小説傑作集(2)』を見てみると、全体に、「怪奇小説」より「幻想小説」と称すべきものが少なく。率直にいえば、そこが物足りない。
一つには、下の収録作一覧のタイトルを見てもわかるように、隠れテーマとしての「水」を通底させる、というこだわりが強かったため、一部の作家においては選択が偏ったということもあるかもしれない。が、それ以上に、選者である東雅夫の「怪奇小説」の定義がやや「幻想小説」の側に近いようにも思う。

たとえば津原泰水「水牛群」、福澤徹三「厠牡丹」はいずれも「幻想小説」としては屈指の傑作かもしれないが、これらははたして「怪奇小説」の主流といえるのだろうか? 1冊の選集の中に個人の内面の崩壊を描くこの2作が並んでいることに若干の破綻を感じる。

──何が言いたいかといえば、早い話、ほんの一部を除けばどれもこれも「ちっとも怖くない!」のだ。

平成の半ばといえば、鈴木光司の『リング』や『新耳袋』シリーズのヒット、また平山夢明らの登場にともなう実話怪談の勃興、その結果、生々しい「本当に怖い話」への欲求が巷にあふれかえった時期だった。
にもかかわらず、本選集は怪奇小説の「小説」のほうにこだわって、作品としては優れているが、およそ怖くはない、失礼を承知でいえば“乙にすました”上品な作品が並んでいるように思われてならない。

平成の怪奇小説傑作集をうたうなら、もう少し別の、ざっくり荒い、スピーディーかつ生臭い要素がもう少し必要だったのではないか。

収録作一覧:

  小川洋子「匂いの収集」
  飯田茂実「一文物語集(244~255)」
  鈴木光司「空に浮かぶ棺」
  牧野修「グノーシス心中」
  津原泰水「水牛群」
  福澤徹三「厠牡丹」
  川上弘美「海馬」
  岩井志麻子「乞食(ほいと)柱」
  朱川湊人「トカビの夜」
  恩田陸「蛇と虹」
  浅田次郎「お狐様の話」
  森見登美彦「水神」
  光原百合「帰去来の井戸」
  綾辻行人「六山の夜」
  我妻俊樹「歌舞伎」
  勝山海百合「軍馬の帰還」
  田辺青蛙「芙蓉蟹」
  山白朝子「鳥とファフロッキーズ現象について」

ちなみに、東雅夫のアンソロジーに評が厳しいのは、怪奇幻想小説を浴びるように読み、記憶し、編纂、批評することを職業とできている氏へのひがみ、やっかみの類であるとそしられてもそれは否定しません。
だってそりゃあ羨ましいじゃないですか。ねえ。

──おまけ。
勝山海百合の掌編「軍馬の帰還」は、遺憾ながら、NHKでも何度かドラマ化された庄野英二『星の牧場』の美味しいところどりとしか思えなかった。
よくある話というなかれ、少なくともこういった傑作集に推すのは『星の牧場』のモミイチ、ツキスミに礼を失しないか。

2019/09/23

東雅夫を映す鏡 『平成怪奇小説傑作集(1)』 東 雅夫 編 / 創元推理文庫

Photo_20190923180001 まず、謝罪、訂正。

以前、同じ創元推理文庫の『日本怪奇小説傑作集(3)』を取り上げた際、その収録作選択について次のように書いた。

> もう1つ,ビビッドな現代作品が抜けていると強く感じる原因は,昨今のポストモダンホラーがここに見られないことにあります。

要するに『リング』『ぼっけえ、きょうてえ』『パラサイト・イヴ』等で洛陽の紙価を高からしめた角川ホラー文庫に触れてもいないことを指摘したのだが、続巻ともいえる『平成怪奇小説傑作集』が収録作を「平成」、とくにポストモダンホラーの旗艦ともいえる角川ホラー文庫が創刊された1993(平成5)年以降を対象とするならそれもしごく当然だったことになる。
(言い訳するなら、2005年発行のアンソロジーの感想文に14年後の続巻を忖度、なんて・・知らんがな)

全然謝罪になっていませんね。続けます。

ちなみに、当時の『日本怪奇小説傑作集』へのもう1つの感想は

> 純文学臭というか,芥川賞テイストというか,要するに「文士」「純文」「ご立派」な印象が強すぎ。

というものだったが、その感想は今回の集成についても変わらない。否、むしろ強まった。

典型的なのが編者自ら「伝奇バイオレンスの騎手として華々しく登場」と紹介する菊地秀行の扱いで、収録された菊地の「墓碑銘〈新宿〉」は「リリカルなロマンティストの一面が顔を出」した短篇。
同じくSFや伝奇バイオレンスで名を上げた夢枕獏も、選ばれたのは平谷美樹あたりが採話していそうな実話怪談の類。

つまり、東雅夫は巻末の解説でこそ「平成」初頭のホラー・ジャパネスク勃興を語りつつ、要は自分好みの作品をつまみ上げ、列挙しているだけなのだ。いや、もちろんそれはアンソロジーの選者編者の特権で、決して責められるようなことではない。
ただ、昭和晩期から平成初頭のぐちゃぐちゃぬたぬた触手がずるりのラブクラフトな世界観はその後陰陽師なども取り込みつつ、現在に至るまで映画やアニメ、ライトノベルやアダルトゲームを介してアンダーグラウンドに蔓延し、一つの潮流として世界規模で定着してきたことを顧みると「リリカルなロマンティスト」の一篇などよりよほど重要ではないかという気がするのだがどうだろう。

NHK BSプレミアム「ダークサイド・ミステリー」のラブクラフトの回に専門家の一人として登場してはいたが、実はクトゥルーは苦手なんじゃないか東雅夫さん。

収録作一覧:

  ある体験(吉本ばなな)
  墓碑銘〈新宿〉(菊地秀行)
  光堂(赤江瀑)
  角の家(日影丈吉)
  お供え(吉田知子)
  命日(小池真理子)
  正月女(坂東眞砂子)
  百物語(北村薫)
  文月の使者(皆川博子)
  千日手(松浦寿輝)
  家──魔象(霜島ケイ)
  静かな黄昏の国(篠田節子)
  抱きあい心中(夢枕獏)
  すみだ川(加門七海)
  布団部屋(宮部みゆき)

読み終えて一覧を見返して思ったことは、実はどれも「怖い」「部屋の温度が下がる」とは感じなかったこと。やはりホラー、怪談である前に「怪奇小説」であることが選者には大切だったのだろう。
わざわざ「平成」と銘打った選集に赤江瀑や日影丈吉が出てくるのも世にも微妙な物語。

2017/02/23

『血と薔薇の誘う夜に 吸血鬼ホラー傑作選』 東 雅夫 編 / 角川ホラー文庫

Photo角川ホラー文庫から出ている東雅夫のアンソロジーには『闇夜に怪を語れば 百物語ホラー傑作選』、『黒髪に恨みは深く 髪の毛ホラー傑作選』などがあるが、この吸血鬼ホラーを蒐集した『血と薔薇の誘う夜に』については発刊された当時──もうひと昔前に──読み逃して、それきりになっていた(はっきり言って東雅夫アンソロジーは、そのボリュームと出来頻度のため、追いかけるのが大変なのである)。
先だって、神田の古書店で見つけてようやく読了した次第。

収録作は、三島由起夫・須永朝彦・中井英夫・倉橋由美子・種村季弘・夢枕獏・梶尾真治・新井素子・菊地秀行・赤川次郎・江戸川乱歩・柴田錬三郎・中河与一・城昌幸・松居松葉・百目鬼恭三郎という古豪から中堅まで、十六人十六様の短篇小説、翻訳、考察等々。
純文学からSFまで幅広く材を求め、恐怖、エログロ、ユーモアと様々な味を並べ立ててホラーアンソロジスト東雅夫の面目躍如といえる。

しかし、逆に、東の手腕をもってしても、「吸血鬼」というテーマはホラーアンソロジーとしては今ひとつなものにならざるを得ない、という問題もまた浮かび上がる。

吸血鬼(Vampire)を描く作業はブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』でひとたびその様式を極め、ヘビメタミュージシャンがスパイク付きレザーリングを手首にはめるように、その姿かたち、食生活、ファッション、死に方にいたるまでこと細かなパターン化が進んでしまった。
首筋から血を吸われることで自身も吸血鬼に変じ、十字架と日光とニンニクに弱く、昼間は棺桶に眠り、ときには蝙蝠に化けて神出鬼没、胸に杭を打たれるまで永遠に死なない。そんなお約束通りの吸血鬼を描いた作品はむしろペーソス溢れるパロディと化し(夢枕獏、新井素子など)、逆に独自な悪と闇を描いた三島由起夫、柴田錬三郎、中河与一、城昌幸らの作品はおそらく「吸血鬼」という言葉を使わなくとも高度な恐怖小説として成立するのだ。
つまり、吸血鬼を描いたホラー作品は、元祖・本家「吸血鬼」の血脈に近ければ近いほど怖くない、という困ったことになってしまっているのである。
血を吸う日本の鬼を古典から見繕った百目鬼恭三郎の最後の1行、「吸血鬼に限らず妖怪はすべて本来あいまいな存在であるにちがいない」を借りるなら、ストーカー以降の吸血鬼はあまりにあいまいさを喪ってしまったのだ。

おまけ:
吸血鬼を描いたマンガは少なくないが、狙われた美女、美少年の首に2つ並んだ噛み傷、よく考えるとあれは少々おかしい。犬歯で噛んだなら噛み傷の間はもっと間が空きそうなものだし、下顎側の歯の後がないのも不思議である。そもそも首筋を狙うのが新鮮な血液を求めるためだったなら、頸動脈を破れば大変な出血に見舞われるはずで、要は噛む場所などどこでもよいのである。

2014/02/22

今もいる 『女たちの怪談百物語』 東 雅夫 監修、幽編集部 編 / 角川ホラー文庫

Photo本郷のとある旅館の一室にこもり、宇佐美まこと、伊藤三巳華、岩井志麻子、加門七海、長島槇子、三輪チサ、神狛しず、宍戸レイ、立原透耶、勝山海百合の女性作家十人が百物語に挑む。
東雅夫の会主口上、京極夏彦のものものしい見届人記が余計と思われるほど、全体に楽しそうで羨ましい。

修学旅行で、三々五々一つの部屋に集まり、つい怖い話を始めてしまって止まらない。そんな印象。

体育座り。

お話はいずれも友だちの友だちの経験談だったりでそれほど奇矯なものはないのだが、つい語り手の耳元で「へえ」とつぶやいてみたり、ブレーカーが落ちて床から十センチくらいの高さで「停電だ! 停電だ!」と騒いでみたりしたくなる。
「私の話はこれで終わりです」
「私の話は、以上です」
との話のつなぎもどことなく淑やかで、なかには耳が赤く凍るような怖い話もあるが、「その子のことなら分かってます」とか「ああ、そうでございましたか」ですまされる薄墨な話のほうがむしろ好もしい。

欲をいえばせっかくこうして集ったのだから、「宿といえば」「そうそう、私も宿について」「こちらも宿の話」とか、「同じ人のような気がします、私の友だちもその」といった按配、“怪の連鎖”がもっとあってよかった。
なまじ事前に怪談を用意できる力量のある語り手に、それも順番をきちんと守って語らせたため、前の話、次の話のつながりがやや千切れてしまった。

体育座り。

もう一つ。これは会主、見届人の側の問題なのだが、1ページとって
「いにしえよりの作法に則り、九十九話にて完。」
としたのはいかがなものか。
百物語に作法があるなら正しきはあくまで百話語り切ることだろう。
無謀なお招きをしないよう九十九話で収めたり、本のうち一話だけ番号を振らなかったりすることが多いのは承知しているが、それらはあくまで破格。仰々しく作法など語らず、「今回はこれにて完」で済ませてもよかった。

体育座り。

2013/04/30

酔いたりず脱ぎたりず 『恐怖女子会 不祥の水』 花房観音 田房永子 神薫 明神ちさと / 竹書房文庫

Josikaiとうにブームを終わってよさげな実話怪談、都市伝説系怪談をいまだ文字通り牽引し、発掘し、しゃがみ縮こまる書店新刊棚に季節を問わず貢献しているのが平山夢明である。文藝怪談の東雅夫とともにその継続の労は天井から延びる白い手のように長くおどろおどろしく讃えられるべきだろう。

さて、その平山夢明監修の竹書房新刊は、若手女流作家四人に綴らせた怪談集だ。著者は掲載順に神薫、明神ちさと、田房永子、花房観音。「神」と「房」がかぶることに女流ならではの意味があるのか、ないのか。
新進の女流作家にそれぞれ小さなボリュームを持たせる試みは面白く、四者がそれぞれの素性を活かした四様の怪談、奇譚を語る構成も悪くない。飽きず一息に読み通すことができた。

ただ、一人ひとりの語り手、怪談の一篇一篇をみると、惜しむらくは線の細さ、あやかし度合いの薄さを肌に感じざるを得ない。二段に落とす、落として絞めるだけのしつこさに欠け、落とさずぷいと放置する冴えもない。前後の自身の体験談で水増しされているが、肝心かなめの怪異、奇人は「書き手が騒ぐほどでない」「世の中にはそういうイタい人もいる」程度という掌編も少なくない。

個人的に、実話系怪談本の評価は、家に置いておきたくないかどうかを頭の中、チョークで線引きし、それで匣を分けている。線を越えた本をうっかり深夜に一人で読んでいたりすると、空気が冷え、柱が鳴る。推挙、再読に足る本ほど置いておきたくない。板ばさみに嬉しく身悶える。
『恐怖女子会 不祥の水』にはそういったジレンマまでは感じなかった。当たり前のことだが、こういったものを書こうとすると、誰しも近隣の死や説明のつかない話題に、とみに敏感になる。それを自分が引き寄せていると勘違いしては怪異の蜜度(ママ)を見誤るのだ。

2013/03/23

怪獣の出てこない 『怪獣文藝』 東 雅夫 編 / メディアファクトリー 幽ブックス

Photo黒史郎、松村進吉、菊地秀行、牧野修、佐野史郎、黒木あるじ、山田正紀、雀野日名子、小島水青、吉村萬壱らの短編。加えて佐野史郎と赤坂憲雄、夢枕獏と樋口真嗣の対談あり。

発売前から大いに楽しみにしていた単行本だ。しかし──

たとえば、初代ウルトラマンの各話を思い起こしてみよう。
基本はいずれもおなじみ「ウルトラマン3分以内に怪獣打倒」というパターンだが、その内容はSF色の強いもの、ノコギリ鳴らしてホラーめかしたもの、スプーン握ってギャグに走ったもの、宇宙見上げて奇妙な哀愁にあふれたものなど、意外なほどバリエーションに富んでいた。
だが、ジャンルや雰囲気こそ変化しつつも、それらはすべて「怪獣特撮」という確たるイメージで括ることができたはずだ。

つまり「怪獣」が登場する作品には、SF、ホラー、ギャグなどのジャンルを問わず、それらを横断する確かな共通項があった、ということだ。
ところが本書『怪獣文藝』には残念ながらそれがない。重くて固くて強い、「怪獣」がいない。「怪獣」ならではのスケールを踏み外した感覚、突拍子のなさがまったく感じられないのだ。

収録作のうち、山田正紀や吉村萬壱らの作品の品質はかなり高い。かつて、70年、80年代なら、SF年間ベスト集成といったアンソロジーに選ばれていて不思議でない、そんな水準だ。それでも、本書に登場するのは(よしんば40メートルの巨大生物であっても)断じて「怪獣」ではない。
ここに並んでいるのは総じてウェットな伝奇ホラー、せいぜいSFショートショートなのである。

東雅夫が編者として執筆陣にどのような依頼をしたのかはわからない。わからないが、どうやら「あの、ゴジラやウルトラマンのような作品を」、ではなかったようだ。
もちろん、怪獣に「文藝」を求めることがいけないわけではない。むしろ、怪獣本といえば昔懐かしい怪獣図鑑ばかり、という中に、新しい「文藝」こそ求められているといえなくもない。それでも、今、枯渇しているのは怪獣そのものであって、ホラーではないはずだ。

結局、「怪獣」を味わいたいなら、初期のゴジラや平成ガメラ、そしてウルトラシリーズのビデオを見直したほうがずっといい。
そもそも、この1冊に、その名や姿が読み手の人生に焼き付けられる「怪獣」は1匹でもいただろうか。
もっともそれらしいのが、表紙の、開田裕治による、目を光らせた「怪獣」のイラストなのだとしたら、それはあまりに寂しい。

2011/09/09

『文豪怪談傑作選 幸田露伴集 怪談』 東 雅夫 編 / ちくま文庫

Photo ここ数回実録怪談モノが続いたが、この夏、その手の怪談本ばかり読んでいたかのようにとられる方がおられたなら、それは断固誤解である。タイムシェアリングなオペレーションシステムをもって家のあちこちに読みかけの本を配置し、イベントドリブンでそれをつまみ上げては読む。その中で、風呂場と枕元を行ったり来たりしたのが本書『文豪怪談……』、いやその、えーと。

 東雅夫の怪奇アンソロジーはいつも楽しませていただいているが、少しばかり気になるのが、集め元にやや文士、文豪の類を多く揃えすぎることか。ちくま文庫の『文豪怪談傑作選』はその東嗜好全開、なにしろ皮切りから康成、鴎外である(とはいえ3冊めに吉屋信子をもってきたのにはシビれた)。
 しかし、鏡花、龍之介等々明治、大正期の文豪を連発されると、いかな怪談、妖異譚といえどすらすらとは読めない。誰とは言わないが昨今のベストセラー作家なら2、3時間もあれば読み抜けるボリュームを、1ヶ月、2ヶ月、ヘタすりゃくたびれ果てて読み切れないことも珍しくない。漢字が多い、言葉が難しいということももちろんあるが、そもそも文体の示すメトロノームの値が別なのだ。

 幸田露伴については以前も少しだけ取り上げたことがあるが、本書には初期の「対髑髏」(東によれば近代最初の怪談文芸作品)や漢籍仏典からの引用の頻出するエッセイなど、中短の作品がぎゅうぎゅう多数詰め込まれており、いくつかはまだ読み終えていない。斜め読みなどしようものなら何を読んでいるのかわからなくなること必定。ああしんど。でも楽し。

 それにしても「対髑髏」冒頭、

   我元来洒落という事を知らず、また数寄(すき)と唱うる者にもあらで、ただふらふらと五尺の殻を負う蝸牛(ででむし)の浮れ心止み難く東西南北に這いまわりて、覚束なき角頭(かくとう)の眼に力の及ぶだけの世を見たく、……

これが二十歳そこそこの者に書ける文体だろうか。

 否、さらにすごいのは、後年の豊饒極まりない「観画談」「幻談」に向かうと、その「対髑髏」ですら所詮才走った若書き、いわゆる猪口才な小手先技量にしか見えないことだ。
 「観画談」など貧しい学生が療養のために旅に出た、山に登った、寺があった、激しい雨の害を避けるためさらに高所の草庵に移った、そこには耳の聞こえぬ老僧がおり、一軸の画があった。……妖魔、怪異が跳梁するわけでもないこれだけの話が、もう雨の圧迫感だけでいかにもすさまじい。舟で釣りに出たら溺死者のものとおぼしき釣竿を拾ってしまって、という「幻談」しかり。何度読んでもいい。もはや何がなんだかである。

2011/05/25

饒舌なバルンガ 『空の中』 有川 浩 / 角川文庫

Photo 200X年。民間超音速ビジネスジェット「スワローテイル」の試作機が、航空自衛隊のF15Jイーグルが、相次いで四国沖の高高度で爆発した。高度2万メートルに、何かがいる!!

 ……なんと、怪獣映画、もとい、怪獣小説だ。

 怪獣小説というと、東雅夫によるアンソロジー『怪獣文学大全』(河出文庫)、山本弘『MM9』(創元SF文庫)ときて、すぐには次が思いつかない。初代ゴジラのストーリーを担当した香山滋の『ゴジラ、東京にあらわる』、『ゴジラとアンギラス』にしても、今でいうノベライズであり、小説としての評価が高いわけではない。
 怪獣小説がジャンルとして興隆しない理由はいくつかあるだろうが、個人的にはこと「怪獣」を描くにあたって、映画館の闇と、左右に大きなスクリーンと、鳴り響く伊福部昭の音楽がない限り、ただのファンタジーかホラーになってしまうからではないかと思っている。

 本書も、とびきり悲愴なプロローグに、航空自衛隊と怪獣の壮絶な空中戦を期待するが、それ以降は2輪のラブロマンスが花だし、対話による学習とコン・ゲームもどきが主戦場だし、そもそも登場する怪獣はガ行で始まり「ラ」や「ドン」で終わる名を持たず、ゴジラやギャオスより「未知との遭遇」の円盤によほど近い。
 小説としての面白さと「怪獣小説」たることはやはり並び立たないのか。本書が恋愛小説──2組のうちとくに大人のほう──さらに一種の知的パズルとして抜群に面白いだけに、そのあたり高みに思いが残る。

 もう1点。

 大橋通り前の国道三十三号線では中央に路面電車の線路が走る道路の全車線が車で詰まり、方々で横転した車両が火の手を上げている。
 逃げ惑う人々の上を大小の白い楕円が舞い飛び、雷や光線がその楕円から降り注ぐ。それに打たれて人が吹き飛び、建物が砕け、降り注ぐ破片がまた地上を逃げ惑う人々を襲う。
 中継のカメラが急に方向を変えて走り出した。がくがくと揺れる画面が、もはやカメラマンが撮影を続行する状況にないことを知らせている。

 上は本書の中で際立って「怪獣小説」している部分だが、この描写はデジャヴのようにこの春を経た我々を打つ。「怪獣」が日本人にとって何のメタファーであったかの証左の1つだろう。