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カテゴリー「東雅夫文藝怪談関連」の10件の記事

2017/02/23

『血と薔薇の誘う夜に 吸血鬼ホラー傑作選』 東 雅夫 編 / 角川ホラー文庫

Photo角川ホラー文庫から出ている東雅夫のアンソロジーには『闇夜に怪を語れば 百物語ホラー傑作選』、『黒髪に恨みは深く 髪の毛ホラー傑作選』などがあるが、この吸血鬼ホラーを蒐集した『血と薔薇の誘う夜に』については発刊された当時──もうひと昔前に──読み逃して、それきりになっていた(はっきり言って東雅夫アンソロジーは、そのボリュームと出来頻度のため、追いかけるのが大変なのである)。
先だって、神田の古書店で見つけてようやく読了した次第。

収録作は、三島由起夫・須永朝彦・中井英夫・倉橋由美子・種村季弘・夢枕獏・梶尾真治・新井素子・菊地秀行・赤川次郎・江戸川乱歩・柴田錬三郎・中河与一・城昌幸・松居松葉・百目鬼恭三郎という古豪から中堅まで、十六人十六様の短篇小説、翻訳、考察等々。
純文学からSFまで幅広く材を求め、恐怖、エログロ、ユーモアと様々な味を並べ立ててホラーアンソロジスト東雅夫の面目躍如といえる。

しかし、逆に、東の手腕をもってしても、「吸血鬼」というテーマはホラーアンソロジーとしては今ひとつなものにならざるを得ない、という問題もまた浮かび上がる。

吸血鬼(Vampire)を描く作業はブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』でひとたびその様式を極め、ヘビメタミュージシャンがスパイク付きレザーリングを手首にはめるように、その姿かたち、食生活、ファッション、死に方にいたるまでこと細かなパターン化が進んでしまった。
首筋から血を吸われることで自身も吸血鬼に変じ、十字架と日光とニンニクに弱く、昼間は棺桶に眠り、ときには蝙蝠に化けて神出鬼没、胸に杭を打たれるまで永遠に死なない。そんなお約束通りの吸血鬼を描いた作品はむしろペーソス溢れるパロディと化し(夢枕獏、新井素子など)、逆に独自な悪と闇を描いた三島由起夫、柴田錬三郎、中河与一、城昌幸らの作品はおそらく「吸血鬼」という言葉を使わなくとも高度な恐怖小説として成立するのだ。
つまり、吸血鬼を描いたホラー作品は、元祖・本家「吸血鬼」の血脈に近ければ近いほど怖くない、という困ったことになってしまっているのである。
血を吸う日本の鬼を古典から見繕った百目鬼恭三郎の最後の1行、「吸血鬼に限らず妖怪はすべて本来あいまいな存在であるにちがいない」を借りるなら、ストーカー以降の吸血鬼はあまりにあいまいさを喪ってしまったのだ。

おまけ:
吸血鬼を描いたマンガは少なくないが、狙われた美女、美少年の首に2つ並んだ噛み傷、よく考えるとあれは少々おかしい。犬歯で噛んだなら噛み傷の間はもっと間が空きそうなものだし、下顎側の歯の後がないのも不思議である。そもそも首筋を狙うのが新鮮な血液を求めるためだったなら、頸動脈を破れば大変な出血に見舞われるはずで、要は噛む場所などどこでもよいのである。

2014/02/22

今もいる 『女たちの怪談百物語』 東 雅夫 監修、幽編集部 編 / 角川ホラー文庫

Photo本郷のとある旅館の一室にこもり、宇佐美まこと、伊藤三巳華、岩井志麻子、加門七海、長島槇子、三輪チサ、神狛しず、宍戸レイ、立原透耶、勝山海百合の女性作家十人が百物語に挑む。
東雅夫の会主口上、京極夏彦のものものしい見届人記が余計と思われるほど、全体に楽しそうで羨ましい。

修学旅行で、三々五々一つの部屋に集まり、つい怖い話を始めてしまって止まらない。そんな印象。

体育座り。

お話はいずれも友だちの友だちの経験談だったりでそれほど奇矯なものはないのだが、つい語り手の耳元で「へえ」とつぶやいてみたり、ブレーカーが落ちて床から十センチくらいの高さで「停電だ! 停電だ!」と騒いでみたりしたくなる。
「私の話はこれで終わりです」
「私の話は、以上です」
との話のつなぎもどことなく淑やかで、なかには耳が赤く凍るような怖い話もあるが、「その子のことなら分かってます」とか「ああ、そうでございましたか」ですまされる薄墨な話のほうがむしろ好もしい。

欲をいえばせっかくこうして集ったのだから、「宿といえば」「そうそう、私も宿について」「こちらも宿の話」とか、「同じ人のような気がします、私の友だちもその」といった按配、“怪の連鎖”がもっとあってよかった。
なまじ事前に怪談を用意できる力量のある語り手に、それも順番をきちんと守って語らせたため、前の話、次の話のつながりがやや千切れてしまった。

体育座り。

もう一つ。これは会主、見届人の側の問題なのだが、1ページとって
「いにしえよりの作法に則り、九十九話にて完。」
としたのはいかがなものか。
百物語に作法があるなら正しきはあくまで百話語り切ることだろう。
無謀なお招きをしないよう九十九話で収めたり、本のうち一話だけ番号を振らなかったりすることが多いのは承知しているが、それらはあくまで破格。仰々しく作法など語らず、「今回はこれにて完」で済ませてもよかった。

体育座り。

2013/04/30

酔いたりず脱ぎたりず 『恐怖女子会 不祥の水』 花房観音 田房永子 神薫 明神ちさと / 竹書房文庫

Josikaiとうにブームを終わってよさげな実話怪談、都市伝説系怪談をいまだ文字通り牽引し、発掘し、しゃがみ縮こまる書店新刊棚に季節を問わず貢献しているのが平山夢明である。文藝怪談の東雅夫とともにその継続の労は天井から延びる白い手のように長くおどろおどろしく讃えられるべきだろう。

さて、その平山夢明監修の竹書房新刊は、若手女流作家四人に綴らせた怪談集だ。著者は掲載順に神薫、明神ちさと、田房永子、花房観音。「神」と「房」がかぶることに女流ならではの意味があるのか、ないのか。
新進の女流作家にそれぞれ小さなボリュームを持たせる試みは面白く、四者がそれぞれの素性を活かした四様の怪談、奇譚を語る構成も悪くない。飽きず一息に読み通すことができた。

ただ、一人ひとりの語り手、怪談の一篇一篇をみると、惜しむらくは線の細さ、あやかし度合いの薄さを肌に感じざるを得ない。二段に落とす、落として絞めるだけのしつこさに欠け、落とさずぷいと放置する冴えもない。前後の自身の体験談で水増しされているが、肝心かなめの怪異、奇人は「書き手が騒ぐほどでない」「世の中にはそういうイタい人もいる」程度という掌編も少なくない。

個人的に、実話系怪談本の評価は、家に置いておきたくないかどうかを頭の中、チョークで線引きし、それで匣を分けている。線を越えた本をうっかり深夜に一人で読んでいたりすると、空気が冷え、柱が鳴る。推挙、再読に足る本ほど置いておきたくない。板ばさみに嬉しく身悶える。
『恐怖女子会 不祥の水』にはそういったジレンマまでは感じなかった。当たり前のことだが、こういったものを書こうとすると、誰しも近隣の死や説明のつかない話題に、とみに敏感になる。それを自分が引き寄せていると勘違いしては怪異の蜜度(ママ)を見誤るのだ。

2013/03/23

怪獣の出てこない 『怪獣文藝』 東 雅夫 編 / メディアファクトリー 幽ブックス

Photo黒史郎、松村進吉、菊地秀行、牧野修、佐野史郎、黒木あるじ、山田正紀、雀野日名子、小島水青、吉村萬壱らの短編。加えて佐野史郎と赤坂憲雄、夢枕獏と樋口真嗣の対談あり。

発売前から大いに楽しみにしていた単行本だ。しかし──

たとえば、初代ウルトラマンの各話を思い起こしてみよう。
基本はいずれもおなじみ「ウルトラマン3分以内に怪獣打倒」というパターンだが、その内容はSF色の強いもの、ノコギリ鳴らしてホラーめかしたもの、スプーン握ってギャグに走ったもの、宇宙見上げて奇妙な哀愁にあふれたものなど、意外なほどバリエーションに富んでいた。
だが、ジャンルや雰囲気こそ変化しつつも、それらはすべて「怪獣特撮」という確たるイメージで括ることができたはずだ。

つまり「怪獣」が登場する作品には、SF、ホラー、ギャグなどのジャンルを問わず、それらを横断する確かな共通項があった、ということだ。
ところが本書『怪獣文藝』には残念ながらそれがない。重くて固くて強い、「怪獣」がいない。「怪獣」ならではのスケールを踏み外した感覚、突拍子のなさがまったく感じられないのだ。

収録作のうち、山田正紀や吉村萬壱らの作品の品質はかなり高い。かつて、70年、80年代なら、SF年間ベスト集成といったアンソロジーに選ばれていて不思議でない、そんな水準だ。それでも、本書に登場するのは(よしんば40メートルの巨大生物であっても)断じて「怪獣」ではない。
ここに並んでいるのは総じてウェットな伝奇ホラー、せいぜいSFショートショートなのである。

東雅夫が編者として執筆陣にどのような依頼をしたのかはわからない。わからないが、どうやら「あの、ゴジラやウルトラマンのような作品を」、ではなかったようだ。
もちろん、怪獣に「文藝」を求めることがいけないわけではない。むしろ、怪獣本といえば昔懐かしい怪獣図鑑ばかり、という中に、新しい「文藝」こそ求められているといえなくもない。それでも、今、枯渇しているのは怪獣そのものであって、ホラーではないはずだ。

結局、「怪獣」を味わいたいなら、初期のゴジラや平成ガメラ、そしてウルトラシリーズのビデオを見直したほうがずっといい。
そもそも、この1冊に、その名や姿が読み手の人生に焼き付けられる「怪獣」は1匹でもいただろうか。
もっともそれらしいのが、表紙の、開田裕治による、目を光らせた「怪獣」のイラストなのだとしたら、それはあまりに寂しい。

2011/09/09

『文豪怪談傑作選 幸田露伴集 怪談』 東 雅夫 編 / ちくま文庫

Photo ここ数回実録怪談モノが続いたが、この夏、その手の怪談本ばかり読んでいたかのようにとられる方がおられたなら、それは断固誤解である。タイムシェアリングなオペレーションシステムをもって家のあちこちに読みかけの本を配置し、イベントドリブンでそれをつまみ上げては読む。その中で、風呂場と枕元を行ったり来たりしたのが本書『文豪怪談……』、いやその、えーと。

 東雅夫の怪奇アンソロジーはいつも楽しませていただいているが、少しばかり気になるのが、集め元にやや文士、文豪の類を多く揃えすぎることか。ちくま文庫の『文豪怪談傑作選』はその東嗜好全開、なにしろ皮切りから康成、鴎外である(とはいえ3冊めに吉屋信子をもってきたのにはシビれた)。
 しかし、鏡花、龍之介等々明治、大正期の文豪を連発されると、いかな怪談、妖異譚といえどすらすらとは読めない。誰とは言わないが昨今のベストセラー作家なら2、3時間もあれば読み抜けるボリュームを、1ヶ月、2ヶ月、ヘタすりゃくたびれ果てて読み切れないことも珍しくない。漢字が多い、言葉が難しいということももちろんあるが、そもそも文体の示すメトロノームの値が別なのだ。

 幸田露伴については以前も少しだけ取り上げたことがあるが、本書には初期の「対髑髏」(東によれば近代最初の怪談文芸作品)や漢籍仏典からの引用の頻出するエッセイなど、中短の作品がぎゅうぎゅう多数詰め込まれており、いくつかはまだ読み終えていない。斜め読みなどしようものなら何を読んでいるのかわからなくなること必定。ああしんど。でも楽し。

 それにしても「対髑髏」冒頭、

   我元来洒落という事を知らず、また数寄(すき)と唱うる者にもあらで、ただふらふらと五尺の殻を負う蝸牛(ででむし)の浮れ心止み難く東西南北に這いまわりて、覚束なき角頭(かくとう)の眼に力の及ぶだけの世を見たく、……

これが二十歳そこそこの者に書ける文体だろうか。

 否、さらにすごいのは、後年の豊饒極まりない「観画談」「幻談」に向かうと、その「対髑髏」ですら所詮才走った若書き、いわゆる猪口才な小手先技量にしか見えないことだ。
 「観画談」など貧しい学生が療養のために旅に出た、山に登った、寺があった、激しい雨の害を避けるためさらに高所の草庵に移った、そこには耳の聞こえぬ老僧がおり、一軸の画があった。……妖魔、怪異が跳梁するわけでもないこれだけの話が、もう雨の圧迫感だけでいかにもすさまじい。舟で釣りに出たら溺死者のものとおぼしき釣竿を拾ってしまって、という「幻談」しかり。何度読んでもいい。もはや何がなんだかである。

2011/05/25

饒舌なバルンガ 『空の中』 有川 浩 / 角川文庫

Photo 200X年。民間超音速ビジネスジェット「スワローテイル」の試作機が、航空自衛隊のF15Jイーグルが、相次いで四国沖の高高度で爆発した。高度2万メートルに、何かがいる!!

 ……なんと、怪獣映画、もとい、怪獣小説だ。

 怪獣小説というと、東雅夫によるアンソロジー『怪獣文学大全』(河出文庫)、山本弘『MM9』(創元SF文庫)ときて、すぐには次が思いつかない。初代ゴジラのストーリーを担当した香山滋の『ゴジラ、東京にあらわる』、『ゴジラとアンギラス』にしても、今でいうノベライズであり、小説としての評価が高いわけではない。
 怪獣小説がジャンルとして興隆しない理由はいくつかあるだろうが、個人的にはこと「怪獣」を描くにあたって、映画館の闇と、左右に大きなスクリーンと、鳴り響く伊福部昭の音楽がない限り、ただのファンタジーかホラーになってしまうからではないかと思っている。

 本書も、とびきり悲愴なプロローグに、航空自衛隊と怪獣の壮絶な空中戦を期待するが、それ以降は2輪のラブロマンスが花だし、対話による学習とコン・ゲームもどきが主戦場だし、そもそも登場する怪獣はガ行で始まり「ラ」や「ドン」で終わる名を持たず、ゴジラやギャオスより「未知との遭遇」の円盤によほど近い。
 小説としての面白さと「怪獣小説」たることはやはり並び立たないのか。本書が恋愛小説──2組のうちとくに大人のほう──さらに一種の知的パズルとして抜群に面白いだけに、そのあたり高みに思いが残る。

 もう1点。

 大橋通り前の国道三十三号線では中央に路面電車の線路が走る道路の全車線が車で詰まり、方々で横転した車両が火の手を上げている。
 逃げ惑う人々の上を大小の白い楕円が舞い飛び、雷や光線がその楕円から降り注ぐ。それに打たれて人が吹き飛び、建物が砕け、降り注ぐ破片がまた地上を逃げ惑う人々を襲う。
 中継のカメラが急に方向を変えて走り出した。がくがくと揺れる画面が、もはやカメラマンが撮影を続行する状況にないことを知らせている。

 上は本書の中で際立って「怪獣小説」している部分だが、この描写はデジャヴのようにこの春を経た我々を打つ。「怪獣」が日本人にとって何のメタファーであったかの証左の1つだろう。

2011/02/13

『文豪怪談傑作選 吉屋信子集 生霊』(ちくま文庫)、『鬼火・底のぬけた柄杓』(講談社文芸文庫)

Photo  このブログでも『闇夜に怪を語れば-百物語ホラー傑作選』(角川ホラー文庫)、『日本怪奇小説傑作集(全3巻)』(創元推理文庫)など、何度か取り上げてきたホラープロパガンダニストにしてアンソロジスト 東雅夫、彼の最近の労作がちくま文庫の『文豪怪談傑作選』(現在15巻まで)なのだが、この集成もまた凄い。鴎外、露伴、鏡花から芥川、康成、太宰、三島といった「文豪」たちの作品群から、怪奇趣味・怪談趣向の作品を探し出し、それぞれ400ページ程度の1冊にまとめているのだが、とにかくその選択基準が「作品として優れているかどうか」、ではなく、ひたすらに「怪奇の色がついているかどうか」(だけ)なのである。そのため、決して作家の代表作とは言い難い奇妙な短編や、半端な随想、はては日記同然の実録心霊譚まで、玉石混交ハイブリッド、玉はもちろん石は石として実に楽しい読み物となっている(とはいえそこは「文豪」、いずれもずしんと読み応えあり。ただし時代が時代だけに、言葉遣いが古かったり漢詩混じりだったり、すらすら安易に読み通せない選集も少なくない)。

 ところで、現在までの15巻中、とくに異彩を放つのが、3巻めの『吉屋信子集 生霊』ではないだろうか。
 吉屋信子は大正期に少女小説家として活躍した作家であり、後年の歴史長編『徳川の夫人たち』にしてもフェミニストたる作者の思惑と異なるところで「大奥」ブームのきっかけとなった。他の「文豪」たちに比べると今ひとつ時代に迎えられた大衆作家の印象が強い。
 ……ところが、この『吉屋信子集 生霊』、これが予想外にいい。短編の一つひとつに裏山の崖の粘土をじっくりこねたような野太い粘り気があり、怪奇が顕れなくとも十分に読める。作品の後半に至って、登場人物が静かに追い詰められ、そこに視野が暗くぶれるように怪奇がかぶさってくる。モダンホラーの怖さとはテイストが異なるかもしれないが、より骨に響く恐ろしさであり、スプラッタな流血はなくとも胸から腹にかけてうねっと流れるものがある。

 吉屋信子の作品としては、講談社文芸文庫から『鬼火・底のぬけた柄杓』という作品集も出ており、そちらも取り寄せて読んでみた。
 表題作の「鬼火」は吉屋信子の短編の代表作の一つ。手本のような構成、文体で、これは粘土どころかもっと怖いもののカタマリなのだが、逆にいえば最後の見開きが直接的に怖すぎて、『吉屋信子集 生霊』収録作の微妙な凡庸さに安寧を覚えたりもする。
 「底のぬけた柄杓」は海坊主の話かと思ったら、「せきをしてもひとり」で知られる俳人 尾崎放哉の生涯をさっくり切りまとめたもの。このほかいくつか収録されている俳人論はまったく門外漢でどう読んでいいのかとんとわからない。

2005/12/20

オバケの本 その十二 『日本怪奇小説傑作集(3)』 紀田順一郎,東 雅夫 編 / 創元推理文庫

811【オサキサマがお前と一緒に戻るって……】

 最終巻の目次は,以下のとおり。

   近代怪奇小説の変容(紀田順一郎)
   お守り(山川方夫)
   出口(吉行淳之介)
   くだんのはは(小松左京)
   山ン本五郎左衛門只今退散仕る(稲垣足穂)
   はだか川心中(都筑道夫)
   名笛秘曲(荒木良一)
   楕円形の故郷(三浦哲郎)
   門のある家(星新一)
   箪笥(半村良)
   影人(中井英夫)
   幽霊(吉田健一)
   遠い座敷(筒井康隆)
   縄──編集者への手紙──(阿刀田高)
   海贄考(赤江瀑)
   ぼろんじ(澁澤龍彦)
   風(皆川博子)
   大好きな姉(高橋克彦)

 収録作品はいずれも評価の高いもので,読み応えも悪くありません。
 ただし,残念ながら,いくつかの意味で「悪い予感が的中した」ラインナップでもありました。

 まず気になるのが,山川方夫(三田文学。安南の王子,海岸公園だねえ),吉行淳之介,三浦哲郎,吉田健一,赤江瀑といった顔ぶれ。純文学臭というか,芥川賞テイストというか,要するに「文士」「純文」「ご立派」な印象が強すぎ。
 もちろん,この『日本怪奇小説傑作集』は第1巻に漱石,欧外,潤一郎らを登用したように,もともとが「文学」志向の強いラインナップではありました。しかし,明治,大正期から選んだ第1巻と,戦後を対象とする最終巻とでは,方針が異なって当然でしょう。早い話,どうして角川ホラー文庫や井上雅彦の異形コレクションからもっと候補が選ばれなかったのか,それが疑問です。

 上記の収録作品の大半は,戦後からせいぜい1970年代に書かれたもの。しかもそれ以前の文学の系譜系統を色濃く引き継いだ作家,作品が大半です。また,「お守り」「出口」「はだか川心中」「楕円形の故郷」などの作品の正面の狙いが「怪奇」だったとは到底思えません。これらは「怪奇小説」「ホラー」である前に,(いかにも 文芸評論ふうな物言いをするなら)人の心の深淵を描こうとしたもの──つまり,単にそのままの意味で「小説」だったのではないでしょうか?
(そういった作品が収録されることを否定するわけではありませんが,ボリュームが過ぎるのです。)

 もう1つ,ビビッドな現代作品が抜けていると強く感じる原因は,昨今のポストモダンホラーがここに見られないことにあります。
 角川ホラー文庫をはじめとする当世ジャパニーズホラーは,鈴木光司『リング』でおなじみの「貞子」という,おそらくお岩さん以来のスーパースターを得ました。貞子に代表されるキャラ立ては,一人貞子に限らずここ十年余りのホラーの一潮流ではないかと思います。そういったキャラもの,絶叫系のホラー作品は(個人的には好みではありませんが)現在のホラーブームの大きな潮流の一つであり,無視できないものだと思います。そして,それを排した上記ラインナップは,はなはだしく現代性を逸脱し,二昔ばかり前まで,いわば「戦後文学」から抜き出した幻想小説の佳作に終わっているように思われてなりません。

 もちろん,版権の都合,短編に傑作があったか否かなど,難しい面もあったでしょう。……しかし,『リング』の鈴木光司,『ぼっけえ、きょうてえ』の岩井志麻子,『パラサイト・イヴ』の瀬名秀明,『東亰異聞』の小野不由美,『絹の変容』の篠田節子,『死国』の坂東眞砂子,『姑獲鳥の夏』の京極夏彦,『六番目の小夜子』の恩田陸,『黒い家』の貴志祐介,『蘆屋家の崩壊』の津原泰水,『玩具修理者』の小林泰三などから一人,一作品とて選ばれていないのはどうしてなのでしょう。

 想像するに,二人の選者の間でも,このあたりについては意思の疎通がきちんとなされなかったのではないでしょうか。
 なにより,紀田順一郎の前書き「近代怪奇小説の変容」はタイトルからして「近代」と限定されていますし,昨今のホラーについては「現実社会に対する批評性を失いつつ」「映像面などに見られる画一的な,刺激性の強い風俗描写にも明らか」と否定的であるのに対し,東雅夫の解説は1990年代以降の現代日本のホラームーブメントに「ホラー・ジャパネスク」と名づけ,「この時期,競い合うようにして頭角を現わし,日本の怪奇幻想文学シーンに新風を吹き込みつつあった一群の新進作家たち」とむしろ持ち上げ気味です。
 どちらに与するつもりもありませんが,しいていえば「現代社会に対する批評性」の欠如をもって怪奇小説の出来不出来を語るのはどうも納得がいきません。この第3巻でもっとも面白くまた恐ろしく読んだのは筒井康隆の「遠い座敷」でしたが,この作品は「現代社会に対する批評性」などという,逆にいえば表層的な機能では語り切れない,美と怪奇性と言語実験に満ちています。

 つまり……今回の第3巻は最終巻であるべきではなく,全4巻中の第3巻であるべきではなかったか。いかがでしょうそのあたり,本日ご出席の貞子さん,伽椰子さん,富江さ………ぎゃゎ………(ずぶずぶずぶずぶ)…………(シーン)……………。

2005/10/06

オバケの本 その六 『日本怪奇小説傑作集(1)』 紀田順一郎, 東 雅夫 編 / 創元推理文庫

981【お父さん,僕はどうしてこうして居るのでしょうか。お魚のようにではないでしょうか。】

 怪談は,実話・体験談と,まったくの創作作品の2つに大きく分かれ……るわけではありません。
 実話と思えば作り話,作り話と思えば体験談,体験談のはずが中国の古い志怪小説に元ネタあり,などなど,そも怪しい談というくらいですからこの世界の裏オモテは難しい。

 『日本怪奇小説傑作集』は,海外ホラーファンには必須アイテムの一つ,同じ創元推理文庫の『怪奇小説傑作集』(全5巻)の日本版を志向したという短編アンソロジー。明治期から現代まで,この百年あまりの怪奇小説を厳選した全3巻で,7月に第1巻,9月に第2巻,この調子なら第3巻も近日中の刊行が期待されます。

 「小説」とあるので先の分類でいえば創作,作り話中心かと思われますが,開いてみればさにあらず,なかには実話・体験談も含まれています。つまり,本集において重要なのは,創作か否かではなく,作品が怪談,怪奇小説として(その時代を代表して)優れているかどうか,その一点につきるようです。

 また,紀田順一郎,東雅夫という当代きってのこだわり派が練り上げた本集は,作品の選択において,一種独特な緊張感を有しています。
 たとえば,明治期の作家として泉鏡花は絶対はずせない。だが,「   」や「   」を選んだのではありきたり過ぎて読書家の期待には応えられない。さりとて「   」では重厚過ぎて他の作家とバランスが悪い。……等々の逡巡,そしての説得力が言外にこもっており,それがこのラインナップに濃密な印象を与えているのです(「   」のスペースにはお好きな作品名をどうぞ)。

 逆に……もし,鏡花の作品として「海異記」以外のものをあてはめたなら,その途端に八雲は「茶碗の中」でいいのか,その後ろは漱石,鴎外でいいのか,と再検討するハメに陥り,漱石の「蛇」を「夢十夜」に差し替えると内田百・「蓋頭子」を差し替えざるを得なくなり,そのうち春夫の「化物屋敷」,いや続巻にいたるまで収録作が入れ替わってしまう……。
 優れたアンソロジーとはそうあるべきものでしょうし,『日本怪奇小説傑作集』が漂わせる気配はまさにそういうものです。ただ,欲をいうなら,そのようなピリピリした緊張感を読み手にまで強いるのはいかがなものか,またそれが3巻まで同じ精度で続けられるのか,そのあたりが少し気になるといえば気になります。

 いずれにせよ,第1巻の収録作品一覧は以下のとおり。いかがでしょう。

   日本怪奇小説の創始(紀田順一郎)
   茶碗の中(小泉八雲)
   海異記(泉鏡花)
   蛇──「永日小品」より(夏目漱石)
   蛇(森鴎外)
   悪魔の舌(村山槐多)
   人面疽(谷崎潤一郎)
   黄夫人の手(大泉黒石)
   妙な話(芥川龍之介)
   蓋頭子(内田百・)
   蟇の血(田中貢太郎)
   後の日の童子(室生犀星)
   木曾の旅人(岡本綺堂)
   鏡地獄(江戸川乱歩)
   銀簪(大佛次郎)
   慰霊歌(川端康成)
   難船小僧(夢野久作)
   化物屋敷(佐藤春夫)

    ※森鴎外の「鴎」のヘンは「区」でなく「區」

 この中では,たった3ページの掌品ながら,漱石の「蛇」が抜群でした。
 滔々とあふれんばかりの水の音,そこにすっくと立つあやかしの声が野太い笛の音のようで,これが文豪のワザかとうならされます。それに並んだ鴎外の「蛇」は,残念ながら小理屈に落ちていただけませんでした。「蛇」で文豪を並べようという意図に,少しばかり無理があったのでは。

 谷崎の「人面疽」は,直接淫蕩な場面が描かれているわけでもないのにたっぷりネイキッドな肌合いに満ち,ものすごく怖いはずの話が白粉の匂いに包み隠されているような,実にもう恐ろしい仕業になっています。そもそも,これをここで終わらせるか。非道。

 夢野久作からは,どうしてこんな作品が選ばれたのでしょう。
 2巻の解説で「難船小僧」のことが一種“引き合い”に出されていますが,そのためだとすると多少「ため」が過ぎるような気がします。角川文庫や現代教養文庫の夢野本の大半が絶版になって『ドグラ・マグラ』以外の入手が面倒になった今,彼の短編作品へのエントランスとしてなにもこんなガハガハとガサツな作品でなくてもよかったのでは。

 川端の「慰霊歌」についても似たようなことがいえますが,こちらは逆にこのような珍品を発掘,展示したことを評価すべきでしょう。ただ,個人的にはこの方面(降霊など)はパス。

 犀星の「後の日の童子」,何の,後の日なのか。
 子供の幽霊の話は海外の怪奇小説アンソロジーにままみられますが,比べる要もない,青磁のような佳品です。そもそも本作を怪奇小説と言ってよいのかどうか。怪奇小説の定義は,妖怪や幽霊が登場すること,ではないでしょう。童子の去った後の蟲等に妖味は幽かに漂いますが,全体として決して奇怪ではありません。一行一行に,どこか遠くで静かに流れる涙があります。過剰に哀切をうたわず,ため息に留める。さりとて,絶望の深さは底知れず。……これが作家の個人的体験から出たというのなら,作家とはなんと哀しい生き物なのでしょうか。

2005/10/01

オバケの本 その五 『闇夜に怪を語れば-百物語ホラー傑作選』 東 雅夫 編 / 角川ホラー文庫

570【百すじの灯心はみな消されて,その座敷も真の闇となった。】

 「百物語」といえば,ご承知のとおり──人々が集って次々に百の怪談を語り,語り終えるごとに用意した百本の灯心もしくは蝋燭の灯を一つずつ消していくと,最後の一灯が消えたところで怪異が現れる──というものですが,こちらはその「百物語」について,短編怪奇小説,対談,突入ルポ(!),お作法(!!),短歌(!!!)まで,総覧的に集めたアンソロジーです。

 突入ルポといっても,当節ワイドショーふうのじゃらかしを想像してはいけません。なんと文豪・森鴎外が,破産寸前の大富豪が道楽に開催した「百物語」に赴き,その模様を語るのです。さらに,それが実際にいつ,どこで行われたものかを確定せんと当時の史料をあたり,その場で配られた弁当まで調べ上げた森銑三のレポートまでそえて,編者・東雅夫の意気込みや並々ならぬものがあります。

 ただ,いかんせんテーマが限定的だけに,一冊の書籍としてのふくらみにはやや欠ける印象あり。畢竟,「百物語という催しで語られる怪談」ではなく「百物語なる催し」そのものに着目する以上,変格はともかく,正攻法の落としとしては「百物語に招かれていったら,何かが起こった」「何も起こらなかった」,そのどちらかしかないのですから。
 (もっとも,鴎外のルポは,そのどちらでもありません。気になる方は「青空文庫」こちらをどうぞ。)
 テーマをしぼったことによる窮屈さは,収録作品のタイトルをご覧いただいただけでもある程度おわかりいただけるのではないかと思います。

   新説「百物語」談義(京極夏彦&東雅夫)
   蜘蛛(遠藤周作)
   暴風雨の夜(小酒井不木)
   露萩(泉鏡花)
   怪談会(水野葉舟)
   怪談(畑耕一)
   怪談(福澤徹三)
   怪談(杉浦日向子)
   百物語(仙波龍英)
   百物語(森鴎外)
   森鴎外の「百物語」(森銑三)
   百物語(岡本綺堂)
   百物語(都筑道夫)
   百物語(高橋克彦)
   百物語(阿刀田高)
   百物語(花田清輝)
   百物語異聞(倉阪鬼一郎)
   岡山は毎晩が百物語(岩井志麻子)
   贈り物(若竹七海)
   鏡(村上春樹)
   百物語という呪い(東雅夫)

     ※鴎外の「鴎」のヘンは「区」でなく「區」

 実にもう,著者名がバラエティに富んでいるだけに,閉塞感というか,なんともツラいものがありますね。

 細かいことを二,三。
 タイトルだけみても,岩井志麻子が相当に「強い」作家であることがうかがえます。そして,実際に,強いのです。
 概して怖くない話,こしらえた話の多い本書の中で,ほとんど唯一直截に恐ろしいのが「岡山は毎晩が百物語」のラスト数行でしょう。鋭利な刃物で裂くのでなく,生皮も荒い丸太を無理やり腹に突き込まれるような怖さ。

 最近亡くなった杉浦日向子,「その『百物語』の正しい方式をきちんと書いた本が少ないようですので,ここで,正調・百物語をおさらいいたします」などと相変わらず出典も明記せず,どこが正調なのかわかりません(まあ,ここで書かれているのは,だいたいは浅井了意の「伽婢子」からの引用なんですけれども)。いいじゃないですか,ねえ,蝋燭を一本ずつ消す,程度のルールだって。公式なやり方でないとオフィシャルなオバケが現れない,というわけでもないでしょうし。

 森鴎外にせよ,遠藤周作にせよ,都筑道夫にせよ,「百物語」に招かれた作中の語り手がこぞって「け,しようもない」とばかりハスに構えているのが不思議です。ムキになるだけ,余計に青い感じがするのに。祭りにオバケ屋敷が出れば女,子どももろとも飛び入り,「うお」「わあ」と声を上げるくらいでいいじゃないですか。文士の皆さんつまらんところで武張っているなぁ,というのが正直なところです。

 そういえば,「百物語」をテーマにさまざまなジャンルからアンソロジーを組むのなら,マンガにもよくできた作品があっただろうに,という気がします。楳図かずお,高橋葉介,三山のぼる……「怪談集」程度の意味で「百物語」をタイトルに付しているものは除くとしても,探せばもう少しありそうです。

 さらに本書からはずれますが,手塚治虫の中篇に『百物語』という作品がありました。
 『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』などの子供向けマンガと,『きりひと賛歌』『奇子』などの大人向けマンガのちょうど中間あたりに位置する作風です。
 主人公,一塁半里はお家騒動に巻き込まれて腹を切るはめに陥り,それを助けた魔女のスダマが,死後の魂と引き換えに3つの願いをかなえてくれる,というもの。もう一度たっぷりと人生をすごすこと,天下一の美女を手に入れること,一国一城の主になること,その3つの願いをかなえるため,一塁は不破臼人という美青年に生まれ変わって戦国の世に挑みます……。
 一読おわかりのように,この設定はゲーテの『ファウスト』にほかなりません(主人公の名前,一塁はファースト,半里はハインリッヒの略,不破臼人もフワウストですね)。手塚は『ファウスト』という作品がことのほかお気に召していたようで,彼の作品中,中長編だけでも初期の『ファウスト』,この『百物語』,そして遺作の『ネオ・ファウスト』がファウストとメフィストフェレスの契約をモチーフとしています(思えば,モブシーンの多い手塚作品を俯瞰して見れば,いずれもなんと「ワルプルギスの夜」的だったことでしょう)。
 それはさておき……実は,なぜこの『百物語』のタイトルが『百物語』なのかは,説明がつきません。ストーリー中にスダマをはじめとする妖怪たちが登場するというだけで,最初から最後まで,一度も人々が集まって怪を語れば怪を招くという「百物語」の催しはかかわってこないのです。
 手塚本人のアイデアの中では,もっと「百物語」にあたるイベントが用意されていたのでしょうか。それとも単に武士の時代,妖怪も登場,という程度の意識でつけたタイトルだったのでしょうか。何か資料が残っているなら,そのあたり確認したいものです。