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カテゴリー「平山夢明実話怪談関連」の18件の記事

2016/12/11

『大江戸怪談 どたんばたん(土壇場譚)』 平山夢明 / 講談社文庫

Photo繰り返すが、文芸における、言文一致運動だの写実主義だの白樺派だのプロレタリア文学だの新感覚派だのといったいわゆる“潮流”が絶えて久しい中、平山夢明らが「実話怪談」という様式を形作り、若手を育成し、この出版不況下に書店の棚を埋め続けている功績はもう少し高く評価されてよい。

その平山夢明が杉浦日向子の名作『百物語』に啓発されて江戸を舞台にした怪談を書いた。

ただ、さしもの親分も慣れない時代物に多少気後れしたのか、最初の数編では

  〈夕まずめ〉というのは暮れ時のことで魚の食いが活発になる時分のことであり

とか

  〈追い回し〉というのは所謂、掃除、洗濯、道具の手入れ、雑用一般なんでもこなす内弟子のことで

など、当時の物言いを無理に使おうとしてのぎこちなさが目立った。そのうち怪談が怪談たるためにそんなことはどうでもいいと気がついたのだろう、語り口も妖異の現れもなめらかに、後半はずいぶんと読みやすくなった。

江戸時代の話だからもちろん取材に基づいた「実話怪談」ではない。だが、当時の習俗を素材としつつ、抹香臭さのない、現代に通じる切れのいい恐怖を描くあたりは流石。続編を期待したい。

2016/01/19

〔短評〕 『恐怖箱 厭魂』 つくね乱蔵 / 竹書房文庫

Photo実話怪談について、読み手としては
 ・匿名で書かれているため、怪異の体験者が実在する保証がない
 ・実在したとして、それが作り話でない保証がない
との2点から、実話であるかどうかなど確かめようがない。
面白(こわ)ければそれでよし、というスタンスである。

最近読んだ中では『恐怖箱 厭魂』が生理的に厭な話が多くてなかなかよかった。

「そばにいるよ」や「公園友達」、「潮騒の母」など、怪異が明らかになったあとの救いのなさがよい。
一方、怪談という枠にこだわったためか「冷めないうちに」や「ねぶり箸」のようにあからさまに幽霊が登場し、それがかえって虫が這うような嫌悪感を損なっているものも見られた。
「僕の好きな場所」や「あの子の部屋」も、心霊現象より生きた人間のほうがよほど薄気味悪い。もっとそちらに焦点を当ててもよかった。
などなど。

2015/09/09

誰もいないよ 『女之怪談 実話系ホラーアンソロジー』 花房観音、川奈まり子、岩井志麻子 / ハルキ・ホラー文庫

Photo実話系怪談本は新刊があまりに多く、とてもすべてはチェックしきれない。
かといって書評やタイトル、表紙絵があてになる世界でもないので、読むのはかなり行き当たりばったりだ。ハズレにがっかりもないわけではない。
そんな中、ほかの文庫を求めたコーナーでたまたま手にとった『女之怪談』、これがなかなか怖い。

巻頭の花房観音の作品では、語り手が小説を書くと聞いてすり寄ってくる作家志望の女たちが虚勢を張りつつ崩れていく。FacebookやTwitterをトッピングに、怪奇より妄執、妄念といったほうが近い女同士の生(なま)の暗闘を描く花房の筆遣いは怪談としては必ずしも上質ではないが、この『女之怪談』という怪談集について一つのかたちを明確に示している。こういうことだ。この本で語られることは人づてに聞いたり、取材した怪異ではなくて、あたしたち作家の、女の、自分語りなのですよ

流されたまま続けて読み進む川奈まり子の二篇、これは傑作。
「ひよみのとりおにをんな」では彼岸花を引き抜いた書き手の全身に湿疹が噴き出し、治療に赴いた病院で知り合いの女が執拗に語り手の精神の壁を掴み剥がしていく。
続く「沸沸」はさらに壮絶で、近所に越してきた穏やかで面倒見のよい女が語り手の家庭を二重に壊す。語り手は周囲に救いを求めることもできないまま崩壊していくのだが、冷静に読み返せばおよそ「実話」の範疇ではないこの恐ろしい話が、花房観音の作品と並ぶことによって女たちの実話としてするりと読めてしまう。読み手(男)は絡新婦のユルい巣に逆さづりになって狼狽え、青ざめるばかりだ。

最後の岩井志摩子はいつものペース。
花房、川奈の流れに神経を剥き出しにされた読み手は、オーガニズム直後の女が背筋をなぞられただけで声をこぼすように、もはやわずかな刺激にも己の中で何度も闇を振り返っては悲鳴を漏らさざるを得ない。

  我が家のパーティーにきてください
  誰もいないよ
  わりと簡単に人を殺すんですよ

いや、わずかな刺激などと油断はできない。リラックスして書かれたようで、それでも十分に、危ない。

2015/07/07

『実話蒐録集 黒怪談』 黒 史郎 / 竹書房文庫

Photo怪談が怪談たるためには、最低でも(1)語り口に妙がある、(2)怪異が立証的である、のいずれかが必要だろう。
(2)は、例えば「夢でない証拠に複数の人間が見ていた」「指の跡が残っていた」といった条件のことである。

実話怪談もブームになって久しく、読み手も多少のことでは騒がない。無意識に厳しく(1)、(2)を求めるようになる。
すると、あれこれ気になることもある。

最近発売された『実話蒐録集 黒怪談』に「不運の男」という掌編があった。
会社の仲間で酉の市に出かけたところ、アルバイトの青年がいろいろ不運な目に遭い、最後には屋台の前で倒れ、脳梗塞で死んでしまう。
しかし、これは不運でもなんでもない。「ベビーカステラを喉につまらせる」「りんご飴で口の端を切る」「吐瀉物の上に手をつく」「三人連続で子供にぶつかる」等、彼の奇行の一部は脳梗塞の前兆(顔や腕の麻痺等)にあたるものだったに違いない。同行する者がそれに気がついてやれなかっただけではなかったか。

2015/02/09

言い訳の多い工務店 『セメント怪談稼業』 松村新吉 / 角川書店 幽BOOKS

PhotoTwitterで話題になっていたので読んでみたのだが……少なくとも期待したほどではなかった。

従来の実話怪談が取材で得られた怪異を匿名性を保ったまま独立した短篇に仕立てるやり方なのに対し、この著者は普段は建設現場に従事しつつ、そこに持ち込まれた嫌な事件、その顛末を一種私小説ふうにまとめていく。
つかみは悪くない。実際、冒頭の数編、怪談作家でありながら心霊現象へのかかわりを必死で避ける腰の引け具合など、ちょっと新しい風を感じないでもなかった。

しかし、ともかくどの短篇も怪談としてみると怖くない。新味がない。

作中の記述によると、著者ら若手に対し、実話怪談に「幽霊」「猟奇」に次ぐ新しい第三の恐怖を創生せよと指揮したのは親分肌の平山夢明らしい。確かに、氾濫する実話怪談に、読むほうもかなり飽きてきてはいるのだ。しかし、怪異体験者側の「妄想」に着目した著者が新機軸に成功しているようにも思えない。
少なくとも平山が実話怪談に「猟奇」を持ち込んだときのあのひりひり、ぎりぎりした怖さ、面白さには比ぶべきもない。

私小説としては稚拙、「妄想」という観点からは中途半端、語り手のヘタレ具合にウケをとるギャグとしても今ひとつ……方向性はともかく、精度としてこれではいただけない。
もしかすると、この著者には、余裕があり過ぎるのかもしれない。

2013/12/29

『ふたり怪談 肆』 平山夢明・福澤徹三、『怪談五色』 黒木あるじ・黒史郎・朱雀門出・伊計翼・つくね乱蔵 / 竹書房文庫

Photo──二人なら……二人ならきっとうまくいきますわ、教授。
──ど、どうしたのだね、突然、エリカくん。
──一人では無理でも、二人ならどんな困難でも乗り越えていけると思いますの。
──いや、た、しかし、そ、き、気持ちは嬉しいが、私にはつ、妻も子供も。

もちろん久々登場のエリカちゃんが手に取り話題にしているのは竹書房の『ふたり怪談 肆』である。平山、福澤と、実話怪談界において重鎮と崇めるもおこがましい、厭わしい、呪わしい連名だ。

考えてみれば当節の実話怪談ブーム、いくら語るほうもノリノリとはいえ、1人で文庫200ページ分の新作を蒐集するのは大変に違いない。もし1冊を2人で分担できるなら──といってもそれはあの『新耳袋』シリーズ以来の伝統ではあるのだが──品質、スケジュール、それぞれ余裕ができるに違いないのだ。

論より証拠、『ふたり怪談 肆』には「柿本は」とすべきところを「鴨木とは」といった入力ミスがあったり、ボーリングで指穴に捻じ切られるのが人差し指だったり、といった編集ミスが散見する(後者はそういう投げ方だったと言われればそれまでだが)。
1冊の半分でこれなのだ、1冊分まるままならさぞ締め切りが厳しかったことだろう。

一方、『怪談五色』にいたっては5人がかり。こちらもよい試みで、たとえば日常を語るエッセイでたらりたららと怪を語り降ろすもの(伊計)や学園祭で怪談を募集した記録(黒木)など、つまりはライブ的なスタイルの作品が収録されている。この2つはおそらく1冊まるまるとなると飽きるに違いないが、5人の凶作、もとい共作に含まれている分にはむしろバリエーションを楽しめてよろしい。
ちなみに5作中ではつくね乱蔵氏のいくつかの怪談が、波状というか、1つの怪異が弧を描いてじわじわ周辺に影を及ぼしていく、そんなアングルで面白かった。お隣の赤ちゃんも、角のお婆ちゃんも、死んでいくのである。

なお、『怪談五色』にも「暗証番号を入力しれないと入れない」といったケアレスミスがそのまま残っている。紙メディアの苦しいこの時代、外に校正出しもできないかもしれないが、この程度のボリューム、編集者はゲラの通読くらいしてもよいのではないか。

──怒られちゃった。あたしがいけないのね。
──い、いやエリカくん、そんなことは。
──いいえいいえ、あたしさえいなければいいんだわ。
──いや、その、うっうっうー、金縛り。

2013/04/30

酔いたりず脱ぎたりず 『恐怖女子会 不祥の水』 花房観音 田房永子 神薫 明神ちさと / 竹書房文庫

Josikaiとうにブームを終わってよさげな実話怪談、都市伝説系怪談をいまだ文字通り牽引し、発掘し、しゃがみ縮こまる書店新刊棚に季節を問わず貢献しているのが平山夢明である。文藝怪談の東雅夫とともにその継続の労は天井から延びる白い手のように長くおどろおどろしく讃えられるべきだろう。

さて、その平山夢明監修の竹書房新刊は、若手女流作家四人に綴らせた怪談集だ。著者は掲載順に神薫、明神ちさと、田房永子、花房観音。「神」と「房」がかぶることに女流ならではの意味があるのか、ないのか。
新進の女流作家にそれぞれ小さなボリュームを持たせる試みは面白く、四者がそれぞれの素性を活かした四様の怪談、奇譚を語る構成も悪くない。飽きず一息に読み通すことができた。

ただ、一人ひとりの語り手、怪談の一篇一篇をみると、惜しむらくは線の細さ、あやかし度合いの薄さを肌に感じざるを得ない。二段に落とす、落として絞めるだけのしつこさに欠け、落とさずぷいと放置する冴えもない。前後の自身の体験談で水増しされているが、肝心かなめの怪異、奇人は「書き手が騒ぐほどでない」「世の中にはそういうイタい人もいる」程度という掌編も少なくない。

個人的に、実話系怪談本の評価は、家に置いておきたくないかどうかを頭の中、チョークで線引きし、それで匣を分けている。線を越えた本をうっかり深夜に一人で読んでいたりすると、空気が冷え、柱が鳴る。推挙、再読に足る本ほど置いておきたくない。板ばさみに嬉しく身悶える。
『恐怖女子会 不祥の水』にはそういったジレンマまでは感じなかった。当たり前のことだが、こういったものを書こうとすると、誰しも近隣の死や説明のつかない話題に、とみに敏感になる。それを自分が引き寄せていると勘違いしては怪異の蜜度(ママ)を見誤るのだ。

2011/09/05

『黒塗怪談 笑う裂傷女』 黒 史郎 / 竹書房文庫

Photo_2 こちらも「実話怪談」。連発でちょっとしつこいか。そもそも、こういう本のレビューにニーズはあるのかとか思わないでもないが、よく考えたらもとからニーズに応えて書いているわけでもないので気にすることなんてないのです。

 さて、著者の黒史郎は、先の『無惨百物語』の黒木あるじらとともに平山夢明に発掘された人物。平山、黒木以上に、誰かに聞いた実話かどうかより「怪談」としてどうか、にポイントの置かれた作風である。サービス精神旺盛と言ってよい。同じ竹書房文庫から既刊の「黒丸ゴシック」シリーズではストーカー、サイコパスもの、つまり壊れた人間の裂けた恐怖を扱っており、不条理な暴力や直接的な不潔感が強く打ち出されていた。本作では一転「怪談」に焦点をしぼったわけだが、平山、黒木、あるいは『百物語』シリーズの平谷美樹らとも違う手法として、著者本人の「鑑定」が付記されたものがある。それが、よくある怪談話に奥行きを与えている。

 どういうことかというと、黒史郎は、誰かに聞いたという怪奇な出来事を取り上げて、語り手に

   いまだに、視たという実感がないという。

とか、

   今思えば、本当に子供だったのかも、わからないそうだ。

とか、

   だから、娘に留守番はさせないのだという。

など述懐させる。これは実録怪談では常套手段ともいうべきまとめ方だ。

 ところが、黒史郎は、(ごく一部の作品においてではあるが)さらに加えて、

   彼のおかげで、誰の命も川へ流されずに済んだ。

   私は真壁さんの体験談の中で、勝手に納得してしまうところが多々あったことは記しておく。

といった「論評」を加えるのだ。しかもその論評が、ご覧のとおり、実際にその怪異を体験した人物より、著者のほうがよりその怪異の「意味」をわかっている、という書きっぷりなのである。つまり、この数話において、黒史郎は単なる記述者、伝達者を越え、怪異を解き得る高次の者として立っているわけだ。
 しかも、わかっているぞと書きつつ、その意味の内容を一切書いてないあたりが実に巧い(ズルい)。著者はその怪異の領域におけるオーバーロードとして立ちふるまうと同時に、何も書いてないのだから間違いを指摘されることもない……。

 この締め方をした怪談は本書でもほんの数編にすぎないが、それでもその数編が『笑う裂傷女』をこの夏に登場した「実話怪談」モノの中でも忘れがたいものにしているのは間違いない。甘々と真似をするのはいかがなものかと思うが、なにしろありきたりの怪談があっという間に意味深な謎に化けるのである、来年の夏にはこの語り口が連発されるに違いない。

 ……ところで、表紙にしか登場しない(残念)「笑う裂傷(きず)女」さんだが、ふと、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」がお化けになったらこんなふうか、などと思い立ってしまった。フェルメールファンには叱られそうだけれど。

2011/08/29

「実録」と銘打つ甘さ・辛さ 『百物語 第十夜 実録怪談集』 平谷美樹・岡本美月、『怖い本<9>』 平山夢明 / いずれもハルキ・ホラー文庫

 今年の夏の新刊怪談本のポイントの1つは、東日本大震災にどう向かい合うかにあった。

Photo 平谷美樹・岡本美月『百物語』の第十夜では、地震から2週間後の採話会(=百物語の会)において地震前後の話が出たため、と、巻末にコーナーが設けられている。いくつかは地震直前の不思議な徴候、いくつかは地震前後に見られた不可解なできごと。ただ、その大半は単なる自然現象や見間違いと指摘されても仕方のないレベルのもののように思われる。
 『百物語』シリーズは「実録怪談集」をうたい、「体験者の恐怖をできるだけ脚色せずに記録することが目的」と記している。逆にいえば、体験者の語った内容について一切検証はなされず、作り話だろうが人から聞いた話だろうが、そのまま垂れ流すことになる。「実録」とうたうなら、「自分が学生の頃に住んでいたアパートで」と体験者が語り始めたとき、せめて「何年のことか? 何市何町の、何というアパートか?」くらいは問い質し、動じずに返答できるものだけ掲載する程度の厳しさは欲しい。そうでなければ、「採話者(平谷美樹・岡本美月)が誰かから直接聞いた」という事実以上に「実録」の意味はないことになってしまう。

Photo_2 『百物語 第十夜』と同日に発売された『怖い話』において、平山夢明は、震災の怖い話について、
   現段階ではさほど多くは上がってきませんし、耳にしたもののなかでも特筆すべきものあるいは、書き留めて出版するタイプのものはありませんでした。
と述べている。
 つまり、「ロクなものぁなかった」と切り捨てているのである(と直接口にしているわけではないが)。では、「ロクなもの」とは何か。
 平山は「『怪談』とは『怪を愉しむ』ものだ」と定義する。そして「あまりに悲劇的であり、言語を絶する状況はこの『愉しむ』という点で人の心をセーブさせる」と読む。明快である。つまり平山にとって、単に「採話者(平山夢明)が誰かから直接聞いた」だけでは「実録怪談」とは言えず、「怪談」足るには、それが語る人、聞く人、さらには読む人を愉しませるものでなくてはならない、ということか。
 震災の逸話を排した『怖い話』には、その結果、たとえば「黒猫」のような怖い話が含まれる。逆に「黒猫」は「怪談」として出来すぎていて、「実録怪談」の素朴な味わいはもはや期待できない。

 「実録怪談」としての是非を問うべきか、怪談としてのピュアな品質を問うべきか。だが、「実録」をうたう『百物語』が「実証」「検証」を問わない以上、実は両者は同じまな板の上にいる。ならば少しでも怖いほうをより高く評価すべきだと思うのだが、どうか。

 いずれにせよ、すでに刊行を終えた『新耳袋』はじめ、『百物語』が十巻、『怖い話』が九巻。平山らの都会のサイコパス系シリーズも巻を重ねてややマンネリの感あり。そろそろ何か新鮮な切り口が欲しいと考えるのは贅沢だろうか。

2011/07/05

『現代百物語 生霊』 岩井志麻子 / 角川ホラー文庫、『現代百物語 忌ム話』 西浦和也 / 竹書房文庫

Photo 百物語ですか、と問われ、読みかけた本を伏せてああでもなければううでもない生返事を返す。夏ですもの、ね、女はしたり顔でうなずき、硝子コップの麦茶の氷がカロンと鳴る。風が湿り気を帯び、蝉の声が途絶えた。
 二冊とも同じ方の。そう思われるのも無理からぬが、作者も出版社も違う。少し前によく流行った『新耳袋』なる草紙も「現代百物語」と副題がついて、いやそんなことを今さら唱えてもらちがあかぬ。百物語とは、もはや短い怪談を百に一欠ける九十九集めた本、という記号に過ぎない。
 そのご本、怖い?
 そんなに怖くはありません。
 怖くはないのですか。
 そうですよ、怖がるようなものではない。
 実話系と称される怪談本の書き手たちは、何百という怪談をかき集めては切り揃えるのに倦んでしまったのか、もう部屋の空気がさぶくなるような怪異など滅多にみられなくなった。あら、じゃあ、なぜそんな本をわざわざ買ってきてもらって読んだりするのかしら。振り向かずとも女の唇の端に微かな悪意が透けて見える気がするが、それは昼から紅がきつすぎるせいに違いない。そうですね、これはもう習慣のようなもので、夏になるとアンズやスモモを一度は食べないと気がすまないのと変わらない。アンズがアプリコット、スモモがプラムでしたっけ。さあどうでしたろう、区別ができて美味しいわけではない。皮をむく指にぽたぽたとしたたるのにかぶりつく。口をぬぐう指は自分のものか女のものか。
 しいていえば岩井志麻子の怪談本は、一年に一夜味わう熟れたスモモのようなもの。夜伽する女に、自ら体を寄せてくるのはそのときだけで普段はそっけないのと、時分どきからこちらの手首の時計に手を添えてみたり、笑い上戸にシャツの衿に顔を寄せてきたりするようなのがいるが、これはまさに怪談についてそのような本。中身は前の『現代百物語』の引き写し、嫌な女がしつっこく夢に現れるとか、嘘ばかり吐く整形女だとか、新味ない話ばかりなのだけれど、湿った言葉遣いが足に生足をからませ、尖った爪が背中をさする。
 なんだか、汚くていや。女は白い眉間に皺を寄せ、こちらのご本は、と差す指を変える。
 西浦和也のほうは、そもそも果実の味わいを期待してもしようがない。見えた、見えない、我慢できなくなって逃げ出した、といった話ばかりで、薄気味悪い話さえない。「今回のテーマは“忌ム”」とかいいながらふさわしい話などほとんど出てこないのも期待外れ。いけないのは怖い話の拾い方ではなく、ちょっと「出た」「聞こえた」話でも、平山夢明の語りの「間」になかなかいたらない、そちらの問題でしょう。
 まあ、酷いおっしゃりよう。
 しかたないじゃないですか、弱いものは弱い。
 それなら読まなきゃよろしいものを。
 そうですね、でも、読むのをやめてしまうと、あなたを怖がらせることができない。
 この家でわたしを怖がらせて、どうするんです。
 怖いのですか。
 怖くなんて、ないわ。
 ふん。ではこちらにいらっしゃい。
 あら。
 そう、その奥の座敷に入るのです。
 怖いものを、見せて差し上げましょう。