カテゴリー「平山夢明実話怪談関連」の26件の記事

2024/04/01

〔非書評〕 『九十九怪談 第二夜』 木原浩勝 / 角川文庫

99槿』はさらさらと読み飛ばせるような本ではなかったため、読み終えるまでに、何冊かほかの本に浮気した。

九十九怪談』は『新耳袋 現代百物語』(中山市朗と共著)の木原浩勝による実話怪談集で、とくに理由もなく読み逃していたもの。未読だった第二夜、第四夜、第五夜、また同じ編者による『隣之怪』の第一夜、第三夜、第四夜なども読んだ(読んだ順は不同)。

『九十九怪談 第二夜』を読んで、漠然と思うことがあった。
『九十九怪談』は全部で10巻、それぞれに実話怪談が100話。
つまり、『九十九怪談』だけでざっと1000話の実話怪談がまとめられていることになる。

本ブログでは、過去、実話をうたう怪談集をいろいろ取り上げてきてきた。
つまり、今これを書いている部屋の棚を見ただけでも、木原浩勝、中山市朗、平山夢明平谷美樹・岡本美月福澤徹三その他諸氏による数千話規模の実話怪談シリーズがあり、世間に出回っているものを考えると紙に印刷されたものだけでもすでに数万、もしかすると数十万単位の実話怪談が世に披露されていることになる。

その膨大な実話怪談のそれぞれに対し、僕たちはこれまでせいぜい「怖いか、怖くないか」「新しいか、新しくないか」程度の評価しかしてこなかったように思う。
(もしかすると、すでに取りかかっている方がおられるのかもしれないが)そろそろ実話怪談の全体に対する精度の高い分析、解析が始まってもいいかもしれない。

とはいっても、実話怪談の分析は簡単でない。
そもそも、本当に採話された怪談か、それとも編者が実話怪談ということにして書いたものか、その確証がない。
遡って、もしよしんば情報提供者からの採話であっても、それがそもそも実話であったかどうかの確認のしようがない。

また、情報提供者を特定できないように、いつ、どこで起こったか、語り手の年齢、男女の別などなど、書かれていないことが多いし、よしんば文中に書かれていてもそれがその通りであるという保証がない。

だから、「平成になったころ、Aさんという男性会社員が京都のホテルのベッドで寝ていたら」という話は、もしかしたら事実は「昭和の中ごろ、Bさんという女子高校生が静岡の自宅でテレビを見ていたら」だったかもしれない。さらには、そもそもAさん、Bさんなど存在せず、締め切りに追われた編者が過去の怪談のあわいからひらめいて書き上げた怪談であったかもしれない。

だから、もし実話怪談を分析、解析するとしても、そういった環境、条件については、「書かれているまま」を前提にするしかない。結局、怪談としての内容そのものを個別に分類していくしかないかもしれない。

たとえば、『九十九怪談』の第二夜においては、「廊下の突き当りに水の入ったガラスコップを置くと」とか「ベッドから足を下ろすとないはずの水を踏んだ」とか「鏡の前に置いた座布団がぐっしょりと濡れている」とか「お椀が川をさかのぼっている」とか「土間に置いてあった壺の回りに水溜りが」とか「寝ていると、どこからか水が流れてきて」とか、広く「水」にかかわる話が少なからず取り上げられている。あるいは、第四夜においては、神社を舞台とするものが少なくなかった。タヌキやキツネに化かされた話の多い巻もある。

言うまでもなく、神社は「神」の領域であり、死んだ者の怨みは「幽霊」の話、化け物なら「妖怪」のしわざ。そして生きている「人間」そのものの恐ろしさが怪談の主軸となる場合も多い。
そういったジャンル的な大枠、そしてその下に怪談的事象の顕れ方、そしてその際に使われるキーとなる場所や道具。たとえば「峠」「トンネル」「肝試し」「オートバイ」「タクシー」「部屋(ホテル・家)」「天井」「髪の毛」「電話」「ビデオ」「猫」「釘」など、など・・・。

『九十九怪談』の第二夜を読んでそういえばと思ったのは、匿名に使われるアルファベットである。
複数人登場する場合はAさん、Bさん、Cさんとなることが少なくないが、一人二人の場合、鈴木・佐藤・田中を抱えるSさん、Tさんは必ずしも多くない。これは、実際に実話怪談を書いてみると感じるのだが(※個人の感想です)、Sさん、Tさんとすると、人物としてなんとなく軽く感じられるのだ。さりとて、実際の姓と結びつけづらいLさん、Pさん、Qさん、Vさん、Xさん、縦の印刷では使いづらいIさん、ほんの少し重い印象を与えるGさん、Rさんなども微妙に使いづらい。
現実の市中の人口比と比べると、実話怪談ではEさん、Fさん、Mさん、Nさん、Oさん、Yさんあたりの頻度がほんの少し高いような気がするのだが、どうだろう。

そうした分析、解析が何を明らかにするかは、知らない。わからない。

もしかしたら、今後の新しい実話怪談について、まだ語られていない大きな大陸・・・は無理でも、小さな岬や湖くらいは見つかるかもしれない。
逆に、その、まだ語られていない岬や湖は、しかるべく理由があって語られてこなかったのかも、しれない。
・・・おや、誰か来たようだ。

2023/08/28

仏はいない仏はいない仏はい 『京都怪談 猿の聲』 三輪チサ・緑川聖司・Coco・舘松 妙・田辺青蛙 / 竹書房文庫

Photo_20230828191801 前巻の『京都怪談 神隠し』は2019年8月6日の発行、その後の新型コロナウイルスの世界的大流行(パンデミック)やロシアによるウクライナ侵攻など、河津掛けで「日常」を覆す事件、事態の連続でもう吹っ切れた!とでもいうか、それから3年後の2022年8月5日に発行された『京都怪談 猿の聲』は一種遠慮会釈なし、清々しいまでに「京都怪談」を漁(あさ)ってむしってかき集めた、そんな印象だ。
実際の地名や史実もたんと盛り込んで、つんとおすましの文学ですませない。
実話怪談はこうでなくっちゃ。

前巻は花房観音のテクニカルな怪談連作で閉じた。その技は鮮やかではあったが、生々しい怪談を語り、禁忌に触れるなら、そのような趣向は本来必要ない。
本巻では一族郎党もろとも公開処刑された豊臣秀次の霊にまつわる話など、歴史上の惨劇にまつわる怪談も少なくない。そうなると、ラーメン屋のカウンターに人影が見えた、程度の出来事でも読み手の背後を荒らす。怪しきかな。よきかな。

細かいこと、いくつか。

巻頭は三輪チサ氏、12篇。
家族で琵琶湖に出かけようとして小学生の姉妹が寝室の母親を急かす。返事があり、ドアが開き、もの音がするがそれきりで、部屋には誰もいない。実は母親はすでに車に乗っていて、ではあの返事をした女の声は、という「部屋にいたのは」。
もちろん部屋の女のほうが怪しいのだが、ふと、車に乗っていたのは本当に母親だったのか、それからの日々、姉妹がともに暮らした母親は誰だったのか、などとも思いやられる。

緑川聖司氏の怪談14篇では、一話ごとに「藁人形の作成セットをネットで購入」、「マッチングアプリで出会った彼氏」、亡くなった母が書くのを手伝ってくれた<合格祈願>の絵馬を「スマホで撮って」、鴨川の河川敷で「怪談師を目指して」練習する男性、などなど、いかにも現代的な小道具が並ぶ。続巻では闇バイトや移民、原発処理水などが扱われるか。
「公園」は幼児の母親が女児の霊らしきものをにらみ返して追い払う話。三輪チサ「実は怖かった」も奥さんが霊を一喝する話で、こういった元気のよい話は大好きだ。

10篇収録のCoco氏は新京極商店街で怖い話を専門に取り扱う「京都怪談商店」を営んでいおられるとのこと。
八坂神社から烏丸方面に歩いて東華菜館の先を右に抜け、錦市場の手前あたり。覗いてみたいが、京都旅行をともにする家人がホラーなんてとんでもないやめてそれ以上話を続けるなら離縁です、なタイプなのでどうだろうか。

舘松妙、5篇。
いずれも素材を起承転結綺麗にまとめきれていない印象が残るが、逆にいえばホラーの枠組みに整理整頓できない怪異にこそ妙味。
「トンネル傍の宿」、「可哀想な犬」など、相当に気持ち悪い。

田辺青蛙、10篇。
標題作「猿の聲」を「今までで一番怖かった出来事」の中の一つとして紹介している。しかし、当人は大変だったに違いないが、これは怪談といえるのだろうか?
「千鳥ヶ淵」では、斎藤時頼(滝口入道)に恋慕した建礼門院の侍女・横笛が入水、流れ着いた千鳥ヶ淵に怪異が起こる。それを夫婦で見ながら、死んだらここで化けて出たいという語り手もなんだか凄い。

2023/08/24

無間ループ 『京都怪談 神隠し』 花房観音・田辺青蛙・朱雀門 出・深津さくら・舘松 妙 / 竹書房文庫

Photo_20230824182601 どうでもよい話から。

花房観音・田辺青蛙・朱雀門 出・深津さくら・舘松 妙の5氏の語り部による京都を舞台にした実話怪談集。
表紙や背表紙の作者名はこの順なのに、実際の掲載順は「朱雀門 出→田辺青蛙→舘松 妙→深津さくら→花房観音」。
単に原稿が編集部に届いた順番なのか、それとも竹書房的にこの順序になにか意味があるのか。
そもそも、こういった怪談共著の場合、高名な順から並べるのがスジなのか、紅白歌合戦のようにトリのほうが上座扱いなのか。

もう一つ。これまたどうでもよい話。

実話怪談はそれなりに読ませていただいてきたが、著者それぞれの性別、年齢、そういったことはあまり存じ上げない。
花房観音氏はほかの本の紹介欄などから女性のようだが・・・いや、問題は著者が実際に男性か女性か、ということではなくて、実話怪談というフィクションとノンフィクションのあわいにある読み物の場合、本文の主語が「私」とある場合、それを(読み手が頭の中で)男性の声で読むべきか、女性の声で読むべきか、よくわからないことがある。
まして、「私」ではなく、「Aさんが」「Fさんが」という仮名、匿名の場合、男女が明らかでないと怖さの質が微妙に異なることがある。
一人暮らしの「Aさん」の部屋で深夜に突然玄関のドアが開いた──そのような場合、どう怖がるか、という話。
本書はなんとなく、語り手の性別が最後までわかりにくく、状況がつかみにくい話が少なくなかった、ような気がする。
「惨惨の日に靴下を捨てないでください」と警告を受けた「右乗りルール」のMさんだが、6ページめで「僕」と記されてそこで物語(靴下?)の材質が変わる。「深泥池」の怪異から逃れんと自転車を漕ぎに漕いだFさんは男性、女性どちらなのか?

個別な感想。

朱雀門出氏の5篇。いずれも生理的な怖さでは今一つだが、プールで両耳に水が入ったような不条理感が気持ち悪い。

田辺青蛙氏のは・・・手慣れた巧さはあるが、少しスレた感じというか、ネタ切れ感が否めない。

舘松妙氏の6篇はいかにも京都の人となり、風情に裏打ちされており、『京都怪談』という標題に一番ふさわしいようにも思われた。
最後を飾る「御霊」が、不気味な展開を生かしきれず、少なくとも恐怖という点で深まりきらず穏やかに閉じてしまうのが残念。

深津さくら氏の6篇は、いずれも怪奇現象がエンドレスな感じで「これぞ怪談!」の妙味があった。
いずれも語り手が怪奇に気がついてから、逃れても、逃れても、逃れきれず、最後にいたっても結局その呪いや霊から離れることができたかどうかわからない。ああ、嫌だ。

花房観音氏の5篇も上と同様のことが言えるのだが、こちらは作者本人の「京都暮らし」から始まり、ラスト「実話怪談」にいたるまで、実は誠によくできた連作となっており、いわゆる怪談の書き手とは次元の違う「ものかき」としての底力が感じられる。
正直に言えばここに描かれた作者の私生活は決して好感をもてるものとは言い難いのだが、その分、怪談としての「穢れ」が読み手にまで移るようで、実に気味が悪い──つまり、怪談として成功しているのである。

最後にもう一つ、やはりどうでもよい話。

本書のタイトルは『京都怪談 神隠し』だが、「神隠し」は田辺青蛙氏の、申し訳ないがそうインパクトがあるとは思えない短い話のタイトル。なぜ、これなのか。ほかに強烈な話はいくつもあるし、サブタイトルにふさわしそうな京都の地名や祭りを織り込んだタイトルの話もいくつかあるというのに。
その謎を解くためにも、同じ竹書房文庫の続巻『京都怪談 猿の聲』をこれから読み解く所存。

2023/07/13

お天気祭をやったかね 『日本怪談実話〈全〉』 田中貢太郎 / 河出文庫

Photo_20230713171401 怪談本の大先達、田中貢太郎による実話怪談集である。たっぷり、ぞわぞわの448ページ、234話。

そもそもの原著『新怪談集(実話篇)』は1938年に改造社から刊行されたものだそうで、つまり作者が戦前に集めた怪談話や奇態な事件記事を集めたもの。したがって、主に大正時代から昭和初期に起こった怪談奇談がベースになっている。

名誉の戦死を夢枕で伝えた、敵陣の近くで自家の提灯が見えて助かった、など、いかにも戦時下ならではの怪談群で幕を開け、続いては石地蔵を軽んじたら祟った、天狗に攫われた、などいかにも古風な佇まいの怪談が並ぶ一方、この時期にしてすでに青山のタクシー幽霊、トンネルの怪、心霊写真、事故物件、ポルターガイスト、などなど、のちの実話怪談の定番が100年も前の怪談集にいずれも現在のそれに近い形できっちり語られているのが面白い。
そんな昔からあったとはなんだつまらない、と考えるか、それらの怪談に一種普遍性を感じられるか、人それぞれだろうが、いずれ手堅く落ち着いた日本語で書かれた234の怪談の厚み・重みは否定のしようがない。

もちろん、中には、海で遊んでいた混血児の少女が茶碗の中に「碧い眼玉」が映ったと悶え狂って亡くなり、その机の引き出しから出てきた錆びた銀の小函を開けてみると中には生々しい碧い眼玉が二つ光っていた・・・などという説明のつかない、ただただ怖い話もある(99ページ)。このあたり、「蟇の血」の田中貢太郎の面目躍如といったところだろうか。

以下、読んでいてくいっと足首をつかまれた点の一つふたつ。

何代目か知らないが、かの市川猿之助の弟(喜熨斗八百蔵)が厭世的になって船で大島に渡り、三原山に投身自殺しようとする話がある(89ページ)。結局果たさず、さらにほかの女客の怪しい投身騒ぎに巻き込まれるという顛末だが、いずれにせよ騒がしい一族であることだ。
(猿之助本人も、泉鏡花らが怪談会をやって怪異に見舞われる話(275ページ)に語り手として登場する。)

本書では147ページの「飛び交う火の玉」など、「火の玉」「ひとだま」の類がいくどか登場する。以前にも書いたが、最近の実話怪談ではこの墓場やお岩の周りを飛び交う「火の玉」「ひとだま」の類を見かけなくなった。「火球」などある程度科学的に説明がつくこと、リンが発生する土葬が減ったこと、などがその背景にあるだろうか。

本ブログの主、烏丸の本名は、珍しいというほどでもないがどこでも見かけるというほどでもない姓で、これまで、女流音楽評論家ととあるマンガに登場するJAXAの職員以外、大手メディアではあまり目にしたことがない。本書では実際の殺人事件にかかわった警視庁の係長として登場していて、ちょっと嬉しい(265ページ)。

神様や馬、狐などと結婚することになる物語を「異類婚姻譚」といい、佐々木喜善らが語り残しているが、それ以前に驚くのが233ページ「蛇屋の娘の物狂い」の一節、「下関市田中町に松山大助と云う蛇商があって」。蛇を、専門に、売るの?

かわいいと話題の北海道日本ハムファイターズチアリーディングチームの「きつねダンス」、これはノルウェーのコメディーデュオ「Ylvis(イルヴィス)」が「What Does the Fox Say?」と歌う「The Fox」に合わせて踊るものだが、本書296ページでも「昔から狐はこんこんと鳴くものだと相場がきまっていたが、ほんとにこんこんと鳴くか、ぎゃんぎゃんと鳴くか、札幌放送局では狐の本音を放送する事になって」とどこが怪談だかよくわからない大騒ぎ。

東日本大震災の折、遺体をあさって指輪を盗る輩の噂が伝えられたものだが、本書では関東大震災の際の一種の幻影としてやはり遺体から金指輪や金の入れ歯を抜き取る悪漢が登場する(301ページ)。

先にも触れたとおり、本書にはタクシー運転手の幽霊目撃談が10篇以上紹介されており、当時、その手の怪談が一種ブームだったことがうかがえる。青山墓地で女客を乗せるがその客はすでに死んでいた話(371ページ)、客の腰かけていたあたりのクッションが濡れていた話(369ページ)など、のちのタクシー運転手の怪談の主な要素がこの時期すでに出そろっていたようだ。ちょっと面白く思ったのは、本書には「タクシー」「ハイヤー」といった言葉は一切登場しないということ。「某夜、某運転手が護国寺の墓地を通っていると」「平生のように自動車をながしながら」「麻布へ客を送って往った自動車の運転手は」「三の輪の車庫前を流していた自動車は」といったあんばいで、どうやらまだ自家用車の少なかった当時は「自動車の運転手」と書くと今でいうタクシー運転手のことを指したようだ。

430ページ「自殺のできぬ青年」に「昭和元年五月三十一日午前二時半比、代々幡署へ・・・」とあるのだが、大正天皇の崩御は12月25日。つまり、昭和元年に5月31日はない。

ところで101ページ「奈良の旅館」という話は主人公が町の銭湯でやり取りして「はじめて大坊主の何物であったと云う見当がついた」で終わるのだが、これが何物であったのか、なぜその見当がついたのか、何度読み返してもわからない。誰か教えてください。

2023/05/22

霊がささやく。《いばらぎ》ではなく・・・ 『茨城怪談』『埼玉怪談』『千葉怪談』 / 竹書房文庫

Photo_20230522180801 しばらく実話怪談系を追いかけてなかったら、その隙に竹書房文庫から都道府県限定、地域密着型の怪談集が大量に出されていた。ご当地アイドル、ゆるキャラみたいなものか。

『北海道怪談』『山形怪談』『仙台怪談』など北の国から『鎌倉怪談』『静岡怪談』の太平洋側気候まで、あれこれお国自慢がまとめられている。
『奥羽怪談』のように地方で1冊、もあれば『八王子怪談』『川崎怪談』のように一つの都道府県中でさらに地域を絞ったものもある。F社研究所のセキュリティドアの奥に巣くうアレなんかどうだ。

とりあえず駅ビルの本屋で3冊、近場の県のものを選んで買ってきた。

  『茨城怪談』 影絵草子
  『埼玉怪談』 幽木武彦
  『千葉怪談』 牛抱せん夏

内容は具体的な地名や公園、寺社仏閣などの名をあげたものから、場所を特定されないようそっと声をひそめたものまで。

埼玉についていうと、自分がかつてその近所に住み、そこそこ有名だったオカルトスポットがいずれも載っていない・・・
まあ、埼玉といっても広いので、仕方ないしょうがない。ざんねんむねん、またらいしゅう。

『千葉怪談』はこの3冊の中では一つの怪談の「因果」にあたる部分、「応報」にあたる部分、いずれもハンパなく陰惨な話が多く、なんとなく血生臭いイメージが残った。説明のつかないモノを目撃した、で終わることの多い実話怪談の中で、この血生臭さは心地よい。

茨城は、訪ねたことのない地名が多く、いっそ地名の説明などないほうがかえって「怪談」として記憶に残りやすいのでは、なんてことを考えた。
地域限定ならではの難しさか。

こうして全国の怪談をまとめていくと、そのうち、「これこれのような話は全国で聞くが、なぜこの地方でだけ最後が違う?」とか、「この怪異が見聞きされた場所と年代を表にしてみると、この三十年、だんだん〇〇に近づいてきている!」とかいったことが明らかになるのだろうか。そうなると面白い。

たとえば都道府県境を越えてあちこちに出没する首なしライダー、その向かう先は! とか。

近畿、中国、四国、九州はこれから無事発刊されるのだろうか。もちろん既刊の売れ行き次第なんだろうが、読みたい都道府県がいくつかあるので発刊が楽しみだ。
ちなみに四国の実家のすぐ裏手には、追いつめられたお姫様が崖から飛び降り、その幽霊が出ると噂されるお城があるのだが(UFOの基地としても有名)。

2023/03/06

『現代雨月物語 式神異談』 籠 三蔵 / 竹書房怪談文庫

いわゆる実話怪談の類についてはそこそこ熱心な馬の骨の一片であると自負している。

ここ20年くらい続いている現代の実話怪談ブームは、『新耳袋 現代百物語』(木原浩勝・中山市朗)、『怖い本』(平山夢明)、『百物語 実録怪談集』(平谷美樹)などのシリーズのヒットを嚆矢としており、現在も文庫の発刊や怪談トークライブなどが連綿と続いている。

そもそも怪談には、作者によるまっさらな創作と、「知り合いから聞いた話なんだけど」の体をとる実話怪談があり、『東海道四谷怪談』や『真景累ヶ淵』に見られるようにその境界は必ずしも明確ではない。
(『今昔物語』、『怪談』(小泉八雲)、『遠野物語』(柳田国男)なども広義には実話怪談と言えるかもしれない。)

また、実話怪談の歴史ではあまり重要視されていないようだが、1960年代の少女雑誌のグラビアページ(青山霊園のタクシー怪談など)からのちの「ハロウイン」(朝日ソノラマ)、「ホラーハウス」(大陸書房)などの女性向けホラー雑誌のマンガ化された投稿怪談、それをまとめた単行本群には、現在の実話怪談のタネとなったと思しきオーソドックスな設定、展開が少なくない。
実話怪談の設定を分類、研究する際にはオールナイトフジにおける稲川淳二の心霊トークとともにこれらの少女雑誌、ホラー雑誌も必ず押さえていただきたいものである(←ヒトマカセ他力本願無責任コース)。

Photo_20230306171901 というわけで若手による竹書房の新刊『現代雨月物語 式神異談』を読んでみた。

一読・・・もはや一語り手の問題でなく、取材した実話怪談数十篇を1冊にまとめるという形式自体が袋小路にはまり込んでしまったのでは、というここ数年の印象を再確認したかたちとなった。

過去の実話怪談の本を読み手としてある程度のボリュームこなしてきた者からすると、はっきり言ってとくに怖くないのである。
これは新しい、予想外の刺激だ、と感じられる要素も残念ながらほとんどない。

全体に「神」と「妖」と「霊」をごちゃ混ぜに語っている印象で、それはつまり「語り手が夢を見ただけではないか」「勘違いではないか」「どこかで耳にした話を自分の体験として語っているだけではないか」といった検証に努めた作業の跡が感じられないということでもある(ちなみに、怪談に検証など、もちろん必要ない。問題は、そういった夢や勘違いの可能性を削る努力をしていないものは、結局ドキュメントとしてリアリティに欠け、怖くないということだ)。

たとえば、本書の222ページには

  私がこの角度から新たに「塩」というワードを調べ直してみると、塩の精製自体に「海」が不可欠な存在であることを知った。

などという一節が出てくる。
塩の精製に海水が必要などというごく基本的な知識すら持ち合わせていない人物が神社の鏡や神像を語っても、「この書き手、大丈夫か?」と心配のほうが先に出るのはやむを得ない。

もう一つ、1冊を通して、大小の断り書きが繰り返し出てきて、その都度食欲をそがれた。
この話は前の文庫に入れることができなかったものだが、とか、姉妹編の文庫でも登場いただいた誰それの話で、とか、センシティブな部分が多いため内容に手を加えている、とか、この人物は霊能・霊感の類はない、とか、ある、とか、要するに本題の手前であれやこれや言い訳めいた弁解が多すぎるのだ。
しかし、読み手からしてみればそんな言説はとくに必要ない。それらの説明でリアリティが増すとか、わかりやすい、とか言うわけでもなさそうだ。
「〇〇のAさんの話」
で十分。
それで読み手が震えないなら、それまでの話。

・・・それにしても、作者の前のめりか編集の入れ知恵か知らないが「現代雨月物語」とは大きく出たな。

いや、これは嫌み、皮肉として書いているのではなく──いや、現時点では嫌み、皮肉でしかないのだけれど──「雨月物語」を自称するなら、今後、より頑張って雨月物語に負けない心震えるモノスゴイものを書いてください、読ませてください。実話怪談ファンの切なるお願いだ。

2020/04/28

〔非書評〕実話怪談のすゑ 『怖い話を集めたら 連鎖怪談』 深志美由紀 / 集英社文庫

Photo_20200428021901 少し前のNHK『チコちゃんに叱られる』に「恐怖を感じた時、どうして人は顔が青ざめるのか」なるお題があった。
チコちゃんいわく、その答えは、「命を守るため」。
つまり、人は出血しそうな危機的状況にいたると血管を細め、血流を自ら悪くすることで事前に出血量を減らす、というのである。
そこまでなら見当もつくが、最近の研究では同時に血液の凝固作用が強まることも明らかになったらしい。
(するとおサルさんも木から落ちかけたときは顔が青ざめるのか? とは気になったが、今回、その方面はパス)

かくのごとく、人体は、恐怖に対して理にかなった反応を示す。
ただ雰囲気でなんとなく青ざめているわけではない。

だとするなら、ホラーや実話怪談の類を読んで本当に怖い思いをしたなら、人は血管を細めたり、血液の凝固作用を強めたりする、はずである。

だが、、、
ここしばらく、(相変わらず発行冊数は少なくない)実話怪談系の本を手にとっても、血管を引き絞るような思いをした記憶がほとんどない。

おそらく、実話怪談短編集が世にあふれ、月日が経過した結果、集団免疫というか、読み手はいろいろな意味でスレてしまったのではないか。
最近読んだものでいえば、(悪い引き合いに出して申し訳ない)福澤徹三『S霊園 怪談実話集』(角川ホラー文庫)、これが収録40篇、深夜一人で読んでも怖くもなんともない。
念のため断っておくと福澤徹三は文章力も確かな好もしい作家の一人で、初期の怪談集にはあまた出版されつつあった実話怪談本の中でも際立って濁った凄みのようなものを感じたものだ(「厠牡丹」の最初の一文の見事さときたら!)。
その福澤本にして、もう、まったく血管が反応しないのである。凝固作用がときめかないのだ。

原因はいろいろあるだろう、集められた話が場所や落ちは違えどアングルとして過去誰かにどこかで採話されたものと大同小異である、とか、当節は心霊怪談などより怖い話が巷にあふれている、など、など。

そもそも、この慣れ、ダレは、構造的なものではないか、という考えもある。
誰かが語ったとするコワイ話を誰かが聞き集めてまとめる、それだけではもはやコワイとは思えないのだ。
もちろん、蒐集、編纂側も手をこまねいているわけではない。
場所や地域(病院、廃墟、山、沖縄、ほか)、大きな災害(地震、津波、ほか)を切り口にする、逆に書き手の職業に特色を出す(建設業、漫画家、ほか)、など、など。
それぞれ面白くは読むが、こと恐怖の水準においてかつての域には達し得ない。
よしんばかつて巷を慄かせた作品と同レベルの刺激であっても、もはや読み手の側の神経が反応しないのだ。
(ただし、怪談の朗読会や映画など映像化された作品のもたらす恐怖は別。音や映像の招く刺激、生理的嫌悪、恐怖は文字によるものとは別モノと考えたい)

もう一点、問題なのは、実話怪談がこの数十年、これほど多数の作家によって蒐集され、出版され続けたにもかかわらず、実際には語り手、書き手がさほど危機的状況に陥っているように見えないことだ。
ある話を採話したがゆえに再起不能になった、行方不明になった、病院に入院したまま出てこない、亡くなった、という作家は寡聞にして知らない。せいぜいパソコンが壊れた、体調不良になった、程度。

逆に言えば、血管が縮む怖い作品となり得るもの──ありていにいえば今後の怪談の可能性を感じるもの──は、その恐怖が直接書き手に迫りくる怪談、ということになる。
思い起こす、一つは小野不由美『残穢』(新潮社)、もう一つが郷内心瞳の『拝み屋郷内』シリーズ(MF文庫ダ・ヴィンチ)。
これらの怖さ、気持ち悪さは、実話怪談に慣れた身にもいまだ内なる鳥肌として残っている。血管が縮んだかどうかは知らないが、少なくとも何か日常的でない泡立つ歪みは残った。

これらの作品の影響を受けてかどうかは知らないが、語り手が依頼を受けて実話怪談を採話しているうちに──という設定で書かれた作品の一つが、『怖い話を集めたら 連鎖怪談』である(ようやく本題にたどり着いた。ぜいぜい)。
作者深志美由紀は、第一回団鬼六賞優秀作を受賞した官能作家でもある。道理で作中に怪談本にしては珍しい設定(あくまで設定。エロGIFを期待してはいけない)が絡んでいる。

全体には依頼に応えるライター、的な文体ではあるが、企みに満ちた実話怪談の章(つまりは創作なのだろう)とそれを採話、編集する語り手「私」の一人称の章とが相互にじわじわと違和感を高め合い、効果を上げている。
スヴィドリガイロフというか蘆屋道満的な人物まで配され、ライトな読後感にもかかわらずなんともいえない気持ち悪さが残るのだ。

この1冊をもって新しい実話怪談の方向性とか、実話怪談に新星現るとか、そういった大仰なことを表明するつもりはない。ただ、最近の読書の中では感心した次第。
品質的退潮の続く文字ベースの実話怪談だが、まだやりようがあるということを再度示してくれただけでも嬉しく推奨作としたい。いや、実際、怖いし。

2019/02/06

30行でゆがむ 『現代百物語 終焉』 岩井志麻子 / 角川ホラー文庫

Photo岩井志麻子による実話怪談集『現代百物語』、10巻をもって終焉。

このシリーズでは1巻につき99話、10巻合わせて990話がすべて文庫書き下ろしで発表されてきたわけだが、掲載怪談はいずれも2ページ見開き、本文30行にきっちり納められている。
その30行の中で、話者紹介、本文、それに著者の感想ないし後日談が添えられてその密度、品質に各話揺るぎがない。

たとえば、ある話で、語り手は

  同世代の彼は、ある地方の開業医の息子だ。

と紹介される。

読み手の誰しもが岩井志麻子の年齢を詳細に知っているわけはない。『ぼっけえ、きょうてえ』が話題になってからでも久しいので、「同世代」といえば中年、といったところか。
「ある地方」とあるからには東京、大阪など大都会ではないのだろう。とはいえ、怪談を語る際、極端な田舎、過疎地域ならそう断りが入ることが少なくないので、地方都市、といったところか。
「開業医の息子」という言葉から比較的裕福に育ったこと、また本人は医者ではなさそう、と窺える。

──どうだろう。たった20文字で、その後に続く怪異(というほど怖い事件があるわけではない)への導入に過不足なし。

これは、個々の怪談を見開き2ページに畳む作業的な意味のみならず、こうした巧みな凝縮性が、語られた人物、出来事への漠然とした恐ろしさを膨らませる、そんな効果にもつながってはいないか。
ほんの少し会話がかみ合わない、あるはずのない写真があった、など、その程度の出来事が著者の削ぎ落とした文章で語られるとき、もしかすると本当は凄まじく恐ろしいことが起こっているのでは、と怪しいものがこちらの手元で広がるのだ。

さらに、多くの話において、最後の2、3行が怖い。

著者は、幽霊が、生霊が、謎の出会いが、といった直接的な怪談を聞き語った後、話に応じて以下のような感想を述べる。

  それを語ったその人のほうが怖い。

  その話をした女性が誰だったか、その場にいた誰も思い出せない。

  それを語った彼は、実は事件の当事者ではなかったか。

などなど。

そのとき、『現代百物語』は、聞きかじった(あるいは無理やり創作した)凡百の実話怪談と、薄皮1枚隔てて全く別のものと変容する。
語られる怪異そのものはそう新味でもないのに、『現代百物語』各巻が捨てられず、もしかして何年かのちに読み返すと思いもかけない新たなイやなものになぶられるのではないか、そんな気がしてならない所以である。

2016/12/11

『大江戸怪談 どたんばたん(土壇場譚)』 平山夢明 / 講談社文庫

Photo繰り返すが、文芸における、言文一致運動だの写実主義だの白樺派だのプロレタリア文学だの新感覚派だのといったいわゆる“潮流”が絶えて久しい中、平山夢明らが「実話怪談」という様式を形作り、若手を育成し、この出版不況下に書店の棚を埋め続けている功績はもう少し高く評価されてよい。

その平山夢明が杉浦日向子の名作『百物語』に啓発されて江戸を舞台にした怪談を書いた。

ただ、さしもの親分も慣れない時代物に多少気後れしたのか、最初の数編では

  〈夕まずめ〉というのは暮れ時のことで魚の食いが活発になる時分のことであり

とか

  〈追い回し〉というのは所謂、掃除、洗濯、道具の手入れ、雑用一般なんでもこなす内弟子のことで

など、当時の物言いを無理に使おうとしてのぎこちなさが目立った。そのうち怪談が怪談たるためにそんなことはどうでもいいと気がついたのだろう、語り口も妖異の現れもなめらかに、後半はずいぶんと読みやすくなった。

江戸時代の話だからもちろん取材に基づいた「実話怪談」ではない。だが、当時の習俗を素材としつつ、抹香臭さのない、現代に通じる切れのいい恐怖を描くあたりは流石。続編を期待したい。

2016/01/19

〔短評〕 『恐怖箱 厭魂』 つくね乱蔵 / 竹書房文庫

Photo実話怪談について、読み手としては
 ・匿名で書かれているため、怪異の体験者が実在する保証がない
 ・実在したとして、それが作り話でない保証がない
との2点から、実話であるかどうかなど確かめようがない。
面白(こわ)ければそれでよし、というスタンスである。

最近読んだ中では『恐怖箱 厭魂』が生理的に厭な話が多くてなかなかよかった。

「そばにいるよ」や「公園友達」、「潮騒の母」など、怪異が明らかになったあとの救いのなさがよい。
一方、怪談という枠にこだわったためか「冷めないうちに」や「ねぶり箸」のようにあからさまに幽霊が登場し、それがかえって虫が這うような嫌悪感を損なっているものも見られた。
「僕の好きな場所」や「あの子の部屋」も、心霊現象より生きた人間のほうがよほど薄気味悪い。もっとそちらに焦点を当ててもよかった。
などなど。

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