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カテゴリー「ノンフィクション」の47件の記事

2018/11/05

メメント・モリ 『とんでもない死に方の科学 もし●●したら、あなたはこう死ぬ』 コーディー・キャシディー、ポール・ドハティー 梶山あゆみ 訳 / 河出書房新社

Photo首がなくなったら、死ぬ。でも、首がなくなったら死ぬのはなぜ?
樽の中に入ってナイアガラの滝下りをしたら、かなりの確率で死ぬ。どんなふうに?
無数の蚊に刺されつづけたら、死ぬ。どのくらいの蚊なら?

などなど、さまざまな「もし●●したら」を説き起こして
「そんなことも知らずに、やれ死なばもろともだとか、死んでお詫びなどと言っている日本人のなんと多いことか」
「今こそ全ての日本国民に問います!」
と人の死に方を苦味まじりのユーモア&スピード感あふれる文体で教えてくれるのが本書。
いちいちの死に方について
「ボーっと生きてんじゃねえよ!」
などと湯気を出すこともなくあくまで科学的に教えてくれるので滝から飛び降りるか裸で蚊の群れに飛び込むか、などなどいつか訪れる死に方の参考にしたい。
図説 死因百科』と併せて一家に一冊、常備をお奨めだ。

内容は実生活にあり得そうな「もし●●したら」から、
「コンドルに育てられたら」
「アメリカから中国まで穴を掘ってその中に飛び込んだら」
「休暇を取って金星に行ったら」
など実際には(少なくとも今後しばらくは)なさそうなものまで、シナリオは全部で45。
個人的にはほんのわずかな量でじわじわと死にいたる
「世界一有毒な物質を口に入れたら」
の章がいやもう。
もう一つ、
「『プリングルス』の工場見学をしていて機械の中に落ちたら」
も閲覧注意。
そういえば
「生贄として火山に投げこまれたら」
だって、長生きしていればそのうちないわけでもなかろう(そうか?)。

著者のコーディー・キャシディー氏はスポーツライター、ポール・ドハティー氏は物理学者。という組み合わせのせいか、いわゆる病気による死はほとんど取り上げられていない。ところがドハティー氏は本書出版後まもなく癌で亡くなった。病床で彼が考えた「死に方」はどんなものだっただろう。
合掌。

2018/07/26

『殺人に至る「病」 精神科医の臨床報告』 岩波 明/ KKベストセラーズ ベスト新書

Photoそれなりの専門家による余技、アルバイトなのだろうか、最近の新書には、どうにも納得しがたいものが少なくない。

一つには、ある対象(歴史的事件なり仕事なり経済論なりダイエット法なり)について、タイトルを定義、説明する通り一遍の枠組みで1冊を埋め、まあその対象についてまったくご存知ない方には勉強にはなるだろうが、それだけといえばそれだけ、といった本。
もう一方は、その対象についての事例をなんとなく思いつくままに列挙したような本。

精神科医 岩波明氏の『殺人に至る「病」 精神科医の臨床報告』は後者にあたり、要は、著者が過去の常軌を逸した殺人事件をいくつか取り上げ、その経緯を紹介、という体裁である。

取り上げられた事件は、(前書き・後書きなどでつまみ食い的に取り上げられたものを除き)帯の惹句によれば
  サイコパス作家・宝石商銃殺
  近所の騒音幻聴・復讐刺殺
  通り魔・知的障害者・ネグレクト
  東大卒・地下鉄サリン実行犯
の4ケース。
時代・背景、犯罪の在り方もまちまちで、被害者がいるため著者のいう「悪」であることは共通するのだろうが、それ以外に共有項を見つけ出すのが難しい。

なにより不思議なのは「精神科医の臨床報告」なるサブタイトルで、著者はここに取り上げられた事件の容疑者、ないし被害者を直接診断した気配がない。「臨床」を字義どおり「実際に病人を診察し、治療すること」とするなら、甚だしく看板に偽りあり、だ。

百歩譲って当人の診断でなく、他の精神科医の「臨床」記録を元にしたとしても、上記4ケースが、必ずしも精神科医の視点から書かれているわけでもない。
後半になるほどそれが顕著で、4例めの(たまたま本日死刑執行された)オウム事件の豊田死刑囚についてなど、事件当時から最近までの報道から切り貼りしたかのような印象で、ことさらこの著者が語るべきものと思えない。
そもそもオウム事件の一被告を新書数十ページで語り切るななど、できることではないだろう。

つまり本書は、過去の残虐な殺人事件を煽情的、醜聞的に取り上げ直した、と評されてもしかたのない内容となっている(サイコパスによる犯罪などに興味を持つ方は、週刊誌的な視点では本書をそれなりに面白く読めるかもしれない)。

ここに至って、再度タイトルに注目してみよう、すると「殺人に至る病」という主題も、意味がよくわからない。
著者は精神障害者による暴力はいつの時代にも一定の割合で存在することを主張する(p.78)。それはわからないではないが、逆に、本書を読んでいると、精神病理的に正常なものでも、状況によっては殺人を犯すようにも読める。
それなら、わざわざ精神科医をタテに語る必要もない。

(追記)
同じ著者の『狂気という隣人 精神科医の現場報告』(新潮文庫)などは格段に面白く読めたので、おそらく本書における問題は企画、コーディネートの問題だったのではないかと推察する。

2017/03/27

『負け組ハード列伝 ホビーパソコン編』 前田尋之 / オークラ出版

Photo錦糸町アルカキットのくまざわ書店で店員さんに尋ねたところ、コンピュータのコーナーではなく、マンガ本のコーナーにあるようだと仰る。探し出してくれたのが、この表紙。一瞬、これはハズしたかと思ったが、実はココロザシの高い1冊だった。

本文はざっくり256ページ、取り上げられた“負け組ハード”は目次の順に
  FUJITSU MICRO 8
  JR-100
  パソピア
  マックスマシーン
  MULTI8
  FP-1000/1100
  ぴゅう太
  PHC-25
  JR-200
  M5
  パソピア7
  SC-3000
  PV-2000 落がき
  SMC-777
  S1
  ファミリーベーシック
  RX-78ガンダム
  テラドライブ
の18機種(この機種名を聞いて半分でもメーカー名を答えられたならエラい!)。
本文には表紙の姉弟妹は登場せず、カタログスペックを中心に、ハードウェアの強み、工夫、弱点についてじっくり調べ上げ、語り尽くした印象だ。本体の写真もカタログからの引き写しでなく、新たに撮り下ろしたものが少なくない。
著者がパソコンゲーム誌に従事したのが1990年とのことだから、本書で扱われた機器の大半はそれ以前に登場、退場してしまったものである。それをこれだけ詳細に調べ上げるにはたいへんな労力がかかったと思われるし、またそれぞれの機種の浮沈について大きな勘違いがないように見受けられるのも凄い。

そうした評価はしたうえで、いくつか気になった点を挙げておきたい。
なお、本書は同じ著者による『ホビーパソコン興亡史 国産パソコンシェア争奪30年の歴史』など何冊か(未読)の姉妹編である。そちらを併読すれば下記はクリアされている可能性もあることをお断りしておく。

・そもそも、“勝ち組”“負け組”をどう切り分けるべきか、その定義が明らかでない。一世を風靡したPC-9801にしても初代機だけで圧倒的シェアを得たわけでもないし、開発費をペイできたわけでもないだろう。その意味では著者が“勝ち組”扱いしているFM-7シリーズの先駆けにあたるFUJITSU MICRO 8を“負け組”とするのは少し疑問だ(FMシリーズをすべてNECの後塵を拝した“負け組”とするならまだしも)。
・それぞれの機種には目標となる数字やシェアがあったはずで、たとえばファミリーベーシックは「自分でオリジナルゲームを作りたい」というファミコンユーザーの(実は無謀な)要望に対するガス抜きオプションハードと考えると相応の価格、出荷数だったのではなかっただろうか。少なくともSMC-777やパソピア7の退場とファミコンベーシックを“負け組”として同列に扱うのはいかがなものか。
・やむを得ない気もするが、ハードウェアに標準添付された開発環境についての解説が中心となる。結果、BASICの提供のしかたについてはある程度詳細だが、アプリケーションを開発しやすかったかどうかはこの1冊を読んでもわからない。当時の8ビット機においては、開発メーカーとアマチュアアセンブラプログラマ、BASICプログラマとの間隔は極めて狭く、アマチュアとして魅力的なゲームを開発できればそのままパッケージ化、ソフトハウス起業、ということも少なくなかった。開発環境の是非はパッケージのスペック以上に評価に影響したものである。
・細かいことだが、パソピア7の項に「ソニーの松田聖子を対抗として睨んだのか、(中略)岡田有希子を起用。この路線は東芝に限らず各パソコンメーカーが追随し、NECの斉藤由貴、富士通の南野陽子、シャープの荻野目洋子といった具合に、以後しばらくの間、各パソコン雑誌やテレビCMでアイドルの笑顔が溢れることとなった」とある。実はそれ以前にFUJITSU MICRO 8のイメージキャラクタには伊藤麻衣子が起用されており、水着やテニスウェアのポスターが家電ショップに配布されていた。
・FUJITSU MICRO 8についてもう一点。バブルメモリを装着する窪みを「灰皿」というのはあくまで無駄なスペースへの揶揄であって、コネクタが剥き出しになったスロット部を本当に灰皿に使う豪傑がいたわけではない……。
・M5の出荷台数が10万台とあるが、これは当時としては“勝ち組”の数字ではなかったか。のちに滅んだから“負け組”というのなら、国産オリジナルアーキティクチャのパーソナルコンピュータはすべて“負け組”ということになる。
・「SMC-777」の「777」はスリーセブンと読む、との記載がない。こういった要素は当時のパーソナルコンピュータの世界ではけっこう重要だったように記憶している
・「プライベート16ビット」と銘打って発売され、森進一を起用しての大々的なテレビCMを打って出たものの、マニアからもゲーム業界からもほとんど相手にされず消えていったIBM JXが扱われていないのは惜しい。初年度発売実績2000台、とか、社員に無償配布するにコーヒーカップセットと二者択一だった、など逸話の多いハードウェアだった。
・著者あとがきに、これら使用目的のはっきりしないパーソナルコンピュータが登場した背景には当時提唱されていた「ニューメディア構想」が、とある。それはどうだろう。当時、何社かパーソナルコンピュータの開発部門と話したことがあるが、「ニューメディア」という言葉は耳にした記憶がない。それより、アメリカでのIBM PCやMacintoshのビジネスユース、ホビーユースの成功例が目線の先にあった(目先の金儲けより、技術的な可能性が重要視されていた)。

いずれにせよ、これら“負け組”ホビーパソコン、決して魅力がなかったわけではなく、むしろ限られたハードウェア環境の中でさまざまな夢を見られる楽しい機器であったという点については著者に同感だ。また、WindowsやiOSに、当時のBASICのような簡易開発環境があればちょっとした楽しいことがすぐ、簡単にできるのに、と思ってしまうのもまた事実である。

2016/03/26

盲点fff 『バイエルの謎 日本文化になったピアノ教則本』 安田 寛 / 新潮文庫

Photoかつて子供たちが手にする初めてのピアノ教則本といえば「赤バイエル」「黄バイエル」だった……

と思っていたら、最近ではバイエルといっても山ほど版があり、昔言われたところの「赤」「黄」がどれにあたるのかよくわからない。
それどころか、1980年代の終わり頃から、バイエルは「本国のドイツでさえもはや忘れられた教則本」とバッシングされ、「私はバイエルは使いません」と見識ぶるピアノ教師が巷にあふれた。らしい。

著者の安田寛氏はそんな、誰もが知っているようで実は誰も知らない「バイエル」に着目し、その正体を追う。

それにしたって。
・バイエルって作曲家は実在したの?
 (不在説、偽名説……)
・日本に持ち込んだのは誰?
・なぜあんな構成なの?
など、あれほどまで普及した教則本とその作者について、ほとんど誰も深く追及してこなかったと知って驚く。
そして、幾人かの音楽教育者が、原典をてんでに都合のよい「バイエル」に改変し、広めてきたという事実にさらに驚く。著作権切れてるからってそれはいいのか。えっ、全部作り話の伝記マンガならある? ……

つまるところ、音楽は音「楽」であって音「学」ではない。
安田氏のテキストにしても、その苦心は別として、学究の姿勢にはいろいろ疑問符が付く。行き当たりばったりに海外の図書館や楽譜の版元を訪ね、たまたま一次資料にあたればラッキー。ほとんど趣味人の自費出版物のノリだ(なぜ現地ロケまでしたNHKに問い合わせない?)。

とはいえ、フェルディナント・バイエルという作曲家個人の真実をたどる旅、そして「静かにした手」や百六の番号付き曲の意図など、教則本としての本当の姿が徐々に明らかになる過程は読んでいて実に楽しい。
子供のころバイエルにお世話になったという方はぜひ。いろいろ呆然とすること請け合い。

2016/01/24

『目の見えない人は世界をどう見ているのか』 伊藤亜紗 / 光文社新書

Photo本書のテーマは、視覚障害者がどんなふうに世界を認識しているのかを理解することにあります。(中略)障害者は身近にいる「自分と異なる体を持った存在」です。そんな彼らについて、数字ではなく言葉によって、想像力を働かせること。そして想像の中だけかもしれないけれど、視覚を使わない体に変身して生きてみること。それが本書の目的です。

上記は本書の帯の惹句からの引用だが、このテーマ、目的に異論はない。だが、本書を一読して感じる気持ち悪さの理由は何だろう。

たとえば。ある坂道を歩いていて、著者にとっては出発点と目的地をつなぐ「ただの坂道」と見えていたものが、目の見えない人は「駅の改札を頂上とするお椀をふせたような地形」と俯瞰的にとらえた、という逸話は面白い。
また、目の見えない人にとって富士山はあくまで「上がちょっと欠けた円錐形」なのに、目の見える人にとってはまず「八の字の末広がり」つまり「上が欠けた三角形」であると言われればなるほどと思う。
大阪の万博跡に残る「太陽の塔」を見て、目の見える人はてっぺんの金色の小さな顔と胴体の顔の二つしか意識しないが、目の見えない人は逆に死角がないため背中の顔も含めて立体的にとらえる、という指摘も興味深い。

著者はこれらの例をもとに(福岡伸一氏によれば)「<見えない>ことは欠落ではなく、脳の内部に新しい扉が開かれること」と主張しようとしているようだが……はたしてそうだろうか?

たとえば僕は「富士山の形は?」と問われると、ごく自然に「上が欠けた円錐形」と考える。そしてそれとほぼ同時にアイコンとしての八の字の図象や、地図上の静岡、山梨にまたがる等高線を思い起こす。
目の見える人も普段からモノを立体的にとらえている、つまり二次元の絵画や映画は実際のモノのとらえ方を実現していない──ということを表すために、たとえばピカソやブラックはキュービズムを考案してキャンバスに顔の裏側まで描いたし、映画館では立体視のシステムが宣伝されている。そもそも「太陽の塔」の胴体の裏側に顔があることなど、目の見える人が説明しない限り知りようのないことだ。

つまり、著者はAとBという二つの世界のとらえ方を異なる「意味」の枠組みに仕立て上げようとしているが、実態は片方がAもBもできるのに対し、片方はBしかできない、それだけのことなのである。
目の見えない人の行動パターンとしてあげられているコンビニでの買い物のしかたにしても、入口、目的物、レジとまっしぐらに歩くのは「電池が切れた」ときの目の見える人の行動パターンと同等である。目の見えない人は、ぶらぶらうろついてキャンペーンに気を引かれたり、行き当たりばったりな買い物をしたりできない、選べないだけだ。

……目の見えない方々に対して、たいへん失礼なことを書いていることは自覚している。
しかし、目の見える僕たちは、まずこのできる、できないをはっきり把握するところから対峙を始めるしかない。
俯瞰してとらえたその坂道が、目の見えない人にとっていかに歩いにくいものであるか。目の見えない人にとって階段よりよほど便利なはずのエスカレーターは、上り下りがどれほどわかりにくいものなのか。あるいは公共施設のトイレで、水を流すレバー、ボタン(さらには緊急呼び出しボタン)の場所、かたちがどれほど不統一であるか。

著者は、そういった欠如、困難の方面は福祉、サポートの領域として切り分け、一足飛びに目の見えない人の世界のとらえ方を語ろうとする。「(情報に)踊らされないで進むことの安らかさ」と謳う。だが、無暗に踊らされるのもまた、人生の権利ではないのか。
もし僕が目の見えない人にシャガールの絵を説明することになったなら、その透明な青を伝えたくとも伝えられない、その辛さに絶句するだろう。では、目の見えない人が僕にブラインドサッカーの楽しさを語るとき、伝えられないもどかしさに絶句することはあるのだろうか?

本書は、目の見えない、(たった)六人にインタビューして書かれたそうだ。推察するに、その六人は目の見えない人の中でも強者だったのではないか。出歩く、働く、プレイする、語る、目は見えなくともそういったことに悠々対処できる人の世界のとらえ方、ユーモアさえこもった語り口を目の見えない人の総体としてとらえるべきかといえば、それは違うように思う。
目の見えない人には、モノが、顔が、アイコンが、世界が、見えない。こういったテーマは、まずその点についてはっきり自分の中で落とし込んでから書くべきだろう。でなければおためごかし、偽善のそしりを免れ得ないだろう。

なお、近年、「障害者」「障碍者」「障がい者」のいずれの表記を用いるべきか議論されることが多いが、その前に目が見えない、耳が聴こえない、手足がない・動かない等々とそれぞれ要因も困難も全く異なる人々を十把一絡げに「しょうがいしゃ」と分類するその慣行から振り返るべきではないかと思う。
「しょうがいしゃ」という括り言葉は、つまるところ健全者の社会が健全でないものを便利に排斥する道具に過ぎない。少なくとも今のところは。

2014/05/08

メビウスの喜悲劇 『迷宮の美術史 名画贋作』 岡部昌幸 / 青春新書INTELLIGENCE

Photo 青春出版社と聞くとつい「試験にでる贋作問題……ああ、しけ贋ね」などとつまらないボケをさらしてしまうのが昭和世代だが、実際、よくも悪しくもそういう作りの新書である。
古今東西の贋作事件を手広くピックアップして、さほど色遣いを変えず列挙。必要以上にあおらず騒がず、各章ともいつどこで誰がと整理整頓も行き届いて読みやすい。

ところが、そんな親切な1冊が前回紹介した『世紀の贋作画商』と並べたとたん灰色に靄っていく。

たとえば有名な(国立西洋美術館まで巻き込まれた)ルグロ事件において、贋作を売り散らかした主格がルグロ本人であったことはさておき、真作の画家さえ惑うほどに優れた贋作を実際に描いた人物は果たして誰だったのか。
『世紀の贋作画商』が最後に贋作を告白したレアル・ルサールを取材対象としたのに対し、本書『迷宮の美術史』では先に告白したエルミア・ド・ホーリー(映画『オーソン・ウェルズのフェイク』のモデルでもある)を真の(?)贋作者とし、ルサールにはほとんど目もくれない。1000点以上の贋作を描いたと主張するホーリー、かたや「自分の持っていたすべての作品はルサールが描いた」というルグロの遺言書の写しを振りかざすルサール。

つまるところ贋作の世界は「黙った者勝ち」「言った者勝ち」、誰が勝者で誰が敗者かなぞ、結局誰にもわかりはしない(もしかしたら当人たちにも)。

糊口しのぎで贋作商売に手を染め、誰に何を売ったか覚えていないような詐欺師はさておき、もともと優れた技術を持ち合わせていた画家がふとしたきっかけで贋作詐欺にはまっていく経緯はもの悲しい。だが、奇妙なことに、彼らは、ことが発覚しかけると一転、胸を張って自分こそ贋作の主だと主張したがる。それに対する刑罰も案外と軽い。
そんな陽性の贋作者たちの中、自身の真作を指差して贋作と叫ぶキリコの晩年はとことん痛々しい。
真贋の裏表は悲劇、喜劇のカードのめくり合いでもあるようなのだ。

2014/05/07

真贋のシーシュポス 『世紀の贋作画商 「銀座の怪人」と三越事件、松本清張、そしてFBI』 七尾和晃 / 草思社文庫

Photo 解任された岡田茂社長が役員会で発した「なぜだ!」が流行語にもなった三越事件。
1982年のこの事件が耳目を集めたきっかけは、三越本店「古代ペルシャ秘宝展」の出展物の大半がニセ物であるとの新聞報道だった。
その贋作を三越懇意の画商に持ち込んだのはイライ・サカイというユダヤ系イラン人である。イライはその後も、9.11テロ関連捜査からFBIに逮捕されるまで、銀座・並木通りの画廊街を介して日本に底知れぬ数の贋作を雨あられと持ち込み続けた。

作者はFBIの捜査官、画廊店主、イライの妻の父らの証言を経て、やがてアメリカ、ロングアイランドでイライ本人に迫る。また一方、空前の贋作事件として知られるルグロ事件において贋作者となった天才画家、レアル・ルサールをブリュッセルに追い、これもまたインタビューに成功する。

美術品が「貨幣」として機能するとき、真贋については誰もが口を閉ざす。要はその美術品で大きな金が(あるいは逆に、小さな金で大きな資産が)動けばそれでよいのだ。
そして、イライが逮捕されても互いを横目に見ながら黙り込む銀座の画廊街。息をひそめる鑑定家、美術館。

本書は日本のバブル期前後、長きにわたって銀座に暗躍した謎の怪人イライ・サカイを描くとともに、そこに浮かび上がる一種の美術品利権の構造を浮き彫りにする。力作だ。

ただ……大げさな口ぶりや著者自身の感懐が目立つ割に、肝心なこと、確かなものが靄の向こう側にある、そんなフラストレーションが随所に残る。
防弾チョッキを着込んでまでイライの店に押しかけ、インタビューに成功する過程は詳細なのに、イライの語った内容は断片的。被害にあった画商たちの言葉も、また。

どこまでが意図的なのか、章立てが入り組んでいて、現在、事件の起こった時期、著者が関係者へのインタビューに成功した時期それぞれが相前後し(直接は関係ないルグロ事件に紙数を割いたこともあり)時間軸もひどく捉えづらい。
もっとも、その結果、たまたまかもしれないが美術品の真贋のもたらす靄の深さをより正確に伝えている、そんな気がしないでもない。
これらの是非はさておき、一読を推奨したい。もう一度書いておく。力作である。

2014/03/02

取り返しをつける 『FBI美術捜査官 奪われた名画を追え』 ロバート・K.・ウィットマン ジョン・シフマン 著、土屋 晃・匝瑳玲子 訳 / 文芸社文庫

Photo以前紹介した『ムンクを追え!』によく似た内容、構成なのだが、大西洋を西に渡ると美術品盗難捜査もしっかりさま変わりするようだ。
『ムンクを追え!』ではヨーロッパの城館から盗み出された名画の探索を元ロンドン警視庁美術特捜班の捜査官がウィットと薀蓄を傾けつつ語る──そんな印象だった。それに対し、本書『FBI美術捜査官』の冒頭はいきなりこれだ。

パルメット・エクスプレスウェイに乗って東へ、マイアミビーチに向かって走るプラチナのロールスロイスは防弾ガラスを入れ、装甲を施したそのトランクには盗品の絵画六点を積んでいた。

今にもビッグバンドによるサスペンスドラマのテーマソングが聞こえてきそうだ。なにしろあのFBI、アメリカ連邦捜査局である。

ただ、美術品の盗難に対する捜査官の姿勢や信念は両著に共通で、本書の著者も次のように語る。

美術品泥棒はその美しい物体だけでなく、その記憶とアイデンティティをも盗む。歴史を盗む……われわれの仕事は歴史の一辺、過去からのメッセージを守ることにある。

つまり、美術品捜査においては盗難品を取り返すことこそ至上命題であり、犯人探し、売人逮捕は二の次なのだ。

とはいえ、国が変わると盗まれる美術品の種類もいささか異なってくる。FBI捜査官の捜査対象にはロダンやブリューゲル、レンブラントといった西洋美術大御所の作品もあるが、たとえば
  南北戦争の戦火をくぐり抜けた戦旗
  アメリカ・インディアンの頭飾り
  9・11テロで破壊されたツインタワーの描かれた絵画
  合衆国《権利章典》の写本
などいずれもいかにもアメリカだ(表紙のフェルメールを除き、資料写真が一葉も掲載されていないのが実に惜しい)。

それら盗難品奪還に成功する章が次から次へと続き、三十を越えてあこがれのFBIに入局し、2004年時点で唯一の美術品盗難専門の潜入捜査官だった語り手の明朗闊達な成功談……そう思い込んで読み進むと、ときどきひどく苦い塊を嘗めることになる。
正義も甘いばかりではない。

それにつけても、こと美術品泥棒は、犯行までは比較的簡単だが、換金するときが大変だ。その意味では誘拐とおっつかっつかもしれない。
年度末に向け何かと物入りな今日この頃ではあるが、美術品泥棒と誘拐はとりあえずやめておこうと心に誓う夜更けの烏丸であった。

2014/02/15

吠える外科医 『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』 ウェンディ・ムーア 著、矢野真千子 訳 / 河出文庫

Photo偉い人の伝記なんてどうせ、とフミヒコ、君が目をそらすさまが目に浮かぶ。だけど待って。ちょっと待って。
この表紙を見てごらん。ほら。これなんだろう。
小さくてわかりにくいよね。でも、これは君の大好きな死体だ。それも、妊娠最終期で突然死した妊婦と、その胎児の死体の細密画。
そんなものが町中の本屋の新刊コーナーに黙って積まれていたんだよ。河出の文庫担当者の薄ら笑いが見えるようだろ。うふ。うふふふ。はは。

本文を読んであげよう、どこがいいか。たとえば、そう、ここ。

 

いわゆる「はらわた」はまっ先にだめになるので、生徒たちはまず腹を切り開いて皮膚と脂肪をめくりあげ、消化器官を観察する。胃、三十フィートを超える腸、そして腹腔にぎゅっと詰め込まれている脾臓、胆のう、すい臓などの小さな臓器。つぎに胸を開く。肋骨をノコギリで切り、肺をあらわにしてから取り出す。肺葉はたいていロンドンの冬のスモッグで黒ずんでいた。

 

ああ、匂うようだね。体液がしたたるよう。この本はね、医療が瀉血(知っているかな)や浣腸、水銀治療という、現代から見れば「まじない」に近いものだった18世紀のイギリスで、人や動物の死体を何千も切り刻み、弟子を育て、外科医学を爆発的に発展させたジョン・ハンター(1728~1793)の人生を描いたものだ。死んだ後にバラバラにされたのでは天国に行けないと不安がるのが普通な時代、研究や講義のための死体が手に入らないなら墓泥棒と組むのは朝飯前、巨人症の人物が死ねばその棺を追いかけて無理やり盗んでしまう。届いた死体はすぐ大鍋で煮て骨格標本だ。

ジョンは画期的な治療法を次々開発してのける。動脈瘤切除、人工授精、ダーウィンより70年も早く進化論を予見したりもした。ただ当時はまだ細菌やウイルスの知識はなかったからね。消毒殺菌なしに切り開き、手術は成功、患者は死亡、残念。死ねば解剖だ解剖だ、標本だ標本だ。

一方、ジェンナーをはじめとする弟子には篤く、貧しい患者には面倒見のよい好人物でもあったらしい。

 

あいかわらず無作法で上流社交界になじもうとしなかったため、一部の保守派からは厄介者あつかいされていたが、科学にたいしてつねに純粋に精力的に取り組んでいたので、友人や同業者の尊敬を集めた。

 

きっぱり論理的で気持ちのよい文体、敵も味方も個性豊かな登場人物、ジェームス・ワットやバイロン、アダム・スミスらも意外なところで顔を出し、ヘタな映画なんかよりよっぽど面白い。

だから、どうだ、フミヒコ。そんなものでいつまでも遊んでないで、メスをこちらに寄越しなさい。もっと、いいこと、させてあげるから。

2014/01/30

くちびるのアニメ史 『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか アニメーションの表現史』 細馬宏通 / 新潮選書

Photoカエルの着ぐるみを用いた缶チューハイのテレビCMが放送中止となった。「キャラクターを使った表現方法が未成年者の関心を誘い、飲酒を誘発しかねない」とかいった指摘を受けてのことらしい。およそ未成年にウケるキャクターとは思えないのだが……。

それはさておき、気持ちの悪いカエルではあった。
「タカオ、タカオ」と相手を呼び捨てにするなれなれしさに加え、口元がよく動くわりに音声と噛み合わず、神経にさわったのである(たとえば「踊ってるねえ」の「え」で上下に大きく口が開く、「よかった」の「た」で口を閉じる、など)。

このように、映像の口元と音声を合わせることを「リップ・シンク」という。シンクはシンクロナイズのシンク。
「わわっ」という音声には大きく口を開き、「むむっ」には唇を閉じる。
このリップ・シンクをはじめ、黎明期のアニメーションの表現、とくにのちに発達した音声や音楽との同期に着目したのが本書『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか アニメーションの表現史』だ。

著者は巻頭で、まず、世界初のアニメーション映画と言われる『愉快な百面相』(1906年)を取り上げる。
黒板にチョークで描かれた男女。それがわずかに書き換えられ、やがて黒板消しで消されるというだけの短い作品だが(探せば動画サイトで簡単に見つけることができる)、これはいったいどういう状況を示しているのか。それを知るためには当時の映画がいかなる場所で上映されていたかを知らなくてはならない。そしてそれは、『愉快な百面相』に続くあれこれのアニメーション作品にどのような形で受け継がれていったのか。
著者は一つひとつの作品を繰り返し見直し、それぞれの場面や音響に秘められた謎を説き起こしていく。それは当時の人々の趣味、嗜好、またアニメ制作者たちの苦心を掘り下げていくことでもあった。

当時(20世紀初頭)の上映館では、サイレント映画に生演奏で音楽が合わされていた。また、「イラストレイテッド・ソング」といって、映画と同じスクリーンに歌詞を投影し、演奏に合わせて観客が歌う、今でいうカラオケのような演目もあった。
著者の探究は、そんな時代のアニメーションの口元に向かう。
ミッキーマウスの出世作「蒸気船ウィリー」、ベティ・ブープ、トムとジェリー、バッグス・バニー。
各ページは新鮮な驚きと論理で満たされ、退屈を感じる暇もない。ごく初期のアニメーション作品、リトル・ニモや恐竜ガーティーの豊かさ。トムとジェリーの音楽の、哲学的なまでの深み。「th」の発音時に律儀に嘴から舌を出すダフィー!

できれば動画サイトなどで当時のアニメーション作品の一つひとつを見ながら読みたい。
背骨の通った良書である。

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