カテゴリー「ノンフィクション」の52件の記事

2022/07/21

『まんがでわかる天気痛の治し方 気圧による不調をズバッと解決!』 佐藤純、イラストレーター=あさば / イースト・プレス

Photo_20220721180501 回転図書館らしからぬ本、続けてもう1冊。

■雨が降る前に頭痛がする
■乗り物に酔いやすい
■季節の変わり目に弱いほうだ
■飛行機や新幹線に乗ると耳が痛くなりやすい

こんな症状に当てはまる人は「天気痛」に注意!
著者の佐藤氏は日本で唯一の「天気痛」ドクターとのこと。著書もたくさん出しておられるようだ。

不肖この烏丸も、長年の股関節痛持ち。で、面白い(いや面白くはない)ことに、テレビの天気予報で「九州から近畿地方にかけて雨が広がる」と股関節が痛くなる。つまり、股関節が「くききっ」となると、おおむねその2日後くらいに、関東も雨になる。ヘタな天気予報よりよほど当たる。
つまり、雨が降り始めるその時点でなく、気圧の下がり始めのころに股関節の神経だか軟骨だかどこかが緊張だか弛緩だかして、それが痛みにつながるようなのだ。
(本書にも小さなコマだがそっくりな症状が登場する。)

股関節の痛みと天候の関係はもうン十年前からわかってはいたのだが、西日本の傘マークを見て予想がついたらからといって何ができるわけでもなし、となんとなく放置してきた(なにしろこの気圧変動に伴う股関節痛は湿布の類もあまり効かない)。

ところが、先般テレビのワイドショーをぼんやり眺めていたら、本書の佐藤ドクターが登場して「天気痛」を解説、自分でできる簡単な対処法を紹介されているではないか。
とくにその番組でも紹介されていた耳マッサージが簡単かつ効果がありそうなので、どれどれと1冊購入してみた次第である。

どうやら気圧、湿度、温度等の目に見えない変化は、自律神経に影響を及ぼし、いろいろ体の不調を巻き起こすことがあるようだ。
(そういえば気圧の変化による「うつ」の悪化については、田中圭一の『うつヌケ』でも指摘されていた。)

本書は会社で働く主人公たちが天候不順に伴い頭痛に苦しみ、愛知医科大学病院痛みセンター医師の佐藤氏のもとを訪ね、「天気痛」の症状、原因、対処法についていろいろ教わる、という内容。
マンガとしてはさほどドラマもケレン味もなく、シンプル、淡泊で、学習マンガとしてのわかりやすさに徹している。

「天気痛」への処方も、急場の対処法から長期的な身体づくりまで、食事やツボ療法まで多岐にわたって頼もしい。
耳マッサージやタオル体操など、簡単な対処はさっそく試させていただいている。
この夏、6月のカラ梅雨のあと、7月になって戻り梅雨というか不順な天候が続いているが、効果があったのかどうか、とりあえず股関節痛で七転八倒には至っていない。

ただ、本書について、前半のところでわりあい安直に市販の抗めまい薬を勧めているのが気になった。
薬害がー、ワクチンがー、と過剰反応するつもりもないが、雨が降るたびに薬剤を呑む、というのはどうなのだろう。常習性や副作用の心配があまりないからこそ推奨されている、とは拝察するのだが、成分によらず精神的な傾斜から抗めまい薬ジャンキーになるなんてことはないのか。
要は安易に市販薬に走らず、本書に紹介されているアプリを活用し、「天気痛」に詳しいお医者に相談するのが一番、ということなのだろうけれど。

2021/11/04

最近読んだ本から『カモフラージュ』『サカナとヤクザ』『隠れ名画の散歩道』

続けて、同じく最近読んだ本から。書評と言えるほどのものではないのでご了承ください。

Photo_20211104173701 『カモフラージュ』 松井玲奈 / 集英社文庫

作者が元アイドルであろうがなんであろうが、そのレッテルで作家としての素地、伸びしろに違いはない。ダメなやつはダメ、強いやつは強い。

主に働く若い女性や主婦を主人公とし、人と人との距離や角度を少し不気味に描いた本集は作者が誰であるかなど気にせずとも十分楽しめた。
落ち(?)が少しヌルいように感じられるものもあったが、作者の構築力から思い量るによりエグくするつもりならいくらでもできるものを、この程度のソフトランディングに調整したものと見る。

星新一や小松左京が元気だったころ、無名な若手のこういったショートショートがさまざまな雑誌に載っていたことを思い起こす。それは油断した読み手の足を軽くひっかける、だがときに致命的なマドラーであったように思う。
この作者の作品も甘く見るとあとで胃痛に苦しむ、かもしれない。

なお、このカタマリに「カモフラージュ」という箱の名を付けたことが秀逸。
というか、よく残っていたな、「カモフラージュ」。

Photo_20211104173702 『サカナとヤクザ 暴力団の巨大資金源「密漁ビジネス」を追う』 鈴木智彦 / 小学館文庫

アワビ、ウナギ、ウニ、サケ、ナマコ・・・高級魚を食べると暴力団が儲かる、という仕組みを現場に潜り、冷たい汗熱い汗をかいてはまとめ上げたルポルタージュ。

名著『ヤクザときどきピアノ』──我が家ではいまだに夫婦のどちらかがダラけたことを口にすると「レイコ先生に叱られる」「レイコ先生は言いました」と引用が繰り返される──の著者の本当のお仕事がこれだ。

それにしても、この1冊書き上げるのにアンダーグラウンドに潜って5年、ノンフィクション作家の収入設計というのはどうなっているのだろう。

内容についての感想はあれこれあるが、ここでは少しだけ。

本書ではヤクザによる密漁が取り上げられているが、消費者からすれば近海遠海を国や漁業組合で勝手に分け合って他者の侵出を許さない現状はしょせん「シマ争い」にしか見えない。
こちらからすれば、サカナを滅さず、適度に安く、この2点を守ってくれるならそれでよい。

本文中、北海道の密漁について「ロスケ」の話題が出てきたので、わお! これは『ハロー張りネズミ』(弘兼憲史)の単行本9巻、10巻に出てきたあれですよ、あれ! ロスケ、レポ船、花咲ガニ。張りネズミをネタにたっぷり書評が書けそうだ。
・・・そう思っていたら張りネズミのことは大根仁氏の解説にすでに触れられていた。ちゃー。
ふて寝しよう。すん。

Photo_20211104173801 『隠れ名画の散歩道』 千足伸行 / 論創社

男を食い漁るファム・ファタルばかり描く作家、おでこがハゲあがってヒゲもじゃの妊産婦、地面に落ちた巨大な猫の顔、猿の好きな画家、雲の好きな画家、水のある静謐な風景、宮廷を走る男の説明のないサスペンス、、、

モネだピカソだセザンヌだといった著名どころでない、だが一種独特な魅力あるいは強烈な印象をたたえた絵画作品を見開き1作ごと紹介した1冊。
岩波の月刊誌「図書」の表紙を飾った作品群とのことで、言われてみれば本や読書にかかわる作品も少なくない。

添付の表紙、モデルの女性は明らかになっているのに作者は不明。ネットで調べると現在はある程度特定されているようだが、別の画家の名でヒットすることもある。
(ちなみにネット上で作者名が揺れている絵画作品は少なくないし、それどころか上下、あるいは左右が逆にアップされているものもよく見かける。ほんと? と思われる方はたとえば「elisabetta sirani portrait of beatrice cenci」「redon ophelia」で検索)

表紙を除く本文がすべてモノクロでの紹介なのが残念。だが、このIT時代、気になる画家、作品はネットで検索すればよい。その作品、その画家が気に入ればほかの作品も(もちろんより画質のよい画像ファイルを探し込んで)ダウンロード、フォルダに溜め込んでいく。

貯め込んだ画像ファイルはさらに選んでパソコンの壁紙にするもよし、CD-ROMに焼き込んで同好の士に送ってもよし。
そうしてときどきCD-ROMを送っていた相手が死んでしまった。
いつも愛想のよい返事をくれていたが本当のところどの程度喜んでいたのか、今となってはわからない。画像ファイルが溜まっても、もう送る先もない。

2021/08/21

Dazein 『二平方メートルの世界で』 前田海音 文、はた こうしろう 絵 / 小学館

Photo_20210819182701小学生3年生の、脳神経の病気で検査や長期入院を繰り返す少女が書いた作文をもとにした絵本──そんな見てきたような紹介はしたくない。違う。

間違っても「小学生にしては」などと評すべきではない。
「可哀そう」と口にするのもおそらく正しくない。
「わかるわかる」としたり顔するのは愚かだし、「もらい泣き」してどうこうなる話でもない。

ちゃんと正面から読もう。
一個の表現として、この作品は崖のように高く、崖のように深い。
決して感情に流されず、ノンフィクションとして理知を踏まえ、主張のための構造は堅牢だ。

作者はまず、自身の家族やほかの入院している子どもたちを見据え、その苦悩、孤独のありようを誠実に、正確に把握、比較する。

  どうしてわたしだけ、とは思わない。
   (中略)
  何か悪いことをしたから病気になったわけでもないし、
  理由をさがしてもしかたがない。

苦しみは苦しみ、孤独は孤独として評価しつつ、生きることは自分に、また他者にかかわることだと定義し、それによって成り立つはずの世界を語る。
その世界に向かい、二平方メートルのベッドの上からいかに挑むかを考える。

   (前略)
  そして、そのことを文字にできるぐらいには、
  わたしは元気で自由だ。

   (前略)
  生きていることのすばらしさは気づきにくいということも、わたしは知っている。

この作者の覚悟を受けた、はたこうしろう氏の作画も素晴らしい。

一つ、読者として判断に困るのは、
同じように(という言葉遣いはそもそも正しくない。同じ病気の、同じ子どもなどいない)長い入院生活を送る子どもたちに、
この本を薦めてよいのかどうか
ということだ。機会がないわけではないだけに、迷う。

ただ、願わくば世界中のあらゆる病気の子どもたちが、この本に出会って、もしくはこの本に出会わなくとも、それぞれの「二平方メートルの世界」でそれぞれ将来にゆめを持ち、それぞれのできる限りのことに挑めますように。

2020/10/21

『ヤクザときどきピアノ』 鈴木智彦 / CCCメディアハウス

Photo_20201021170301 ここまで来るのに五十二年もかかった。

ドを押す。
音が鳴る。

──名著である。
大切なことなのでもう一度書く。名著だ。

全チャプター、全ページ、全センテンス、いうなればピアノ、音楽、はてはヒトなるものの生キザマについての率直なアフォリズムを積み重ねた文体、そう言って決して過言ではない。

著者はカメラマン、ジャーナリスト。ヤクザ専門誌の編集長からのちフリーになり、その方面のノンフィクションを多数上梓。代表作に『潜入ルポ ヤクザの修羅場』『ヤクザと原発 福島第一潜入記』『サカナとヤクザ ~暴力団の巨大資金源「密漁ビジネス」を追う~』などがある。

『ヤクザときどきピアノ』は、そんな著者が『サカナとヤクザ』の5年にわたる取材、執筆が一段落し、ライターズ・ハイから吹きこぼれるアドレナリンを抜くために適当な映画を見ていて、BGMで使われたABBAの『ダンシング・クイーン』に突然涙をほとばしらせ、

〈ピアノでこの曲を弾きたい〉

と思い立ち、ピアノ教師レイコ先生に出会い、ピアノの練習を重ねる・・・あらすじをまとめるならこれですべて、の本である。

実はこの本を知ったきっかけはちょっとだけ変わっていて、あるとき、朗読ツールのサンプルとして本書の後半の読み上げを聞くともなく聞く機会があった。
最初はヤクザたる著者(念のため、著者はヤクザとは親しいが反社会が本職の人ではない。しいて言うなら「ヤクザな」という形容動詞の「ヤクザ」ではあろうか)とレイコ先生の丁々発止のやり取りをギャグとして聞いていたが、途中ではたと気がついた。
耳から聞いて、わかりにくい表現、言い回しが一つとてない。
著者は

語彙は裏・闇・黒という三文字の裾野に偏っている。

などと自嘲するが、とんでもない、プロのワザである。本書を書くにあたっても広く深くピアノについて調べまくったことは巻末の参考文献の一覧を見ただけで推察できる。
もちろん、古今の偉大なピアニストの名言や人名、楽譜用語など、ある程度専門用語に慣れていないと意味のわからないところもあるにはある。たとえば、

「練習すれば、弾けない曲などありません」
レイコ先生は『エースをねらえ!』のお蝶夫人のように威風堂々と、完璧にレシーブした。

俺は超がつくピアノの初心者だ。『のだめカンタービレ』に登場する千秋先輩や『蜜蜂と遠雷』の風間塵とは、親分とチンピラほどポジションが違う。

のように専門用語が飛び交っても怯んではいけない。

──申し訳ない、話がそれた。

まじめな話、本書では、いやいやピアノ教室に通わされていた子供たちがその当時は気がつかなかったこと、ピアノは音楽を奏でるためのものであり、そのために練習がある、まさにそのことが繰り返し語られる。

ピアノは“ながら練習”ができないの。(中略)身体に動作を叩き込もうとする時、点滴の針を太くしても意味がないのよ。

個人に合わせて微調整できるのは椅子だけです。

練習をすれば上手くなる。
練習をしなければ一切上達しない。

所々知っていただけの道が、音楽という世界の地図でどんどん繋がっていった。

こうして紹介するにあたって、適切な引用加減がわからない。
どこを切り抜いてもいいし、どこも切り抜きでは食い足りない。

レイコ先生との練習の合間にも、激化するヤクザの抗争、ピアノの練習とヤクザとの修羅場の共通点、ピアノの歴史など、さまざまな話題にかこつけて著者のピアノが語られる。

それらはもちろん、人生においてゴールが見え、あるいはゴールを過ぎた者が、それでもなすべきことを見つけられるかどうかの、命のかかった一つのアドバイスでもある。
そこらの人生本などよりよほど楽しく、よほど確かなもの。単行本1冊でその欠片が得られるなら安いものだ。

2020/07/04

水曜スペシャル探検隊シリーズ 『死に山 世界一不気味な遭難事故 《ディアトロフ峠事件》の真相』 ドニー・アイカー、安原和見 訳 / 河出書房新社

Photo_20200704022401 Д 先般取り上げた『バーナード嬢曰く。』の第5巻で存在を知った本の1冊。
『バーナード嬢曰く。』は読み物として楽しいだけでなく、こんな出会いをたびたび用意してくれるのでたまらない。

Д 《ディアトロフ峠事件》とは、Wikipediaによれば以下のような遭難事件。

1959年2月2日の夜、当時のソ連領ウラル山脈北部で雪山登山をしていた男女9人が不可解な死を遂げたことで知られる事件である。事件は、ホラート・シャフイル山の東斜面で起こった。事件があった峠は一行のリーダーであったイーゴリ・ディアトロフの名前から、ディアトロフ峠と呼ばれるようになった。

Д この事件については、NHK BSプレミアムの『幻解!超常ファイル ダークサイド・ミステリー』でも「緊急報告!"死の山"ディアトロフ峠事件」と題して取り上げられ、興味深く思っていた。
なにしろ、トレッキングの経験も豊富だったこの9人は、摂氏マイナス30度の極寒の中テントを内側から引き裂いて裸足で外に飛び出したものと考えられ、さらに
・遺体には争った形跡はなかったが、2体に頭蓋骨骨折が見られ、別の2体は肋骨を損傷していた
・遺体の1体は舌を失っていた
・何人かの犠牲者の衣服から高い線量の放射性物質が検出された
・遺体の肌の色が濃い茶褐色になっていたとの証言あり
・事件のあった夜、別のトレッキンググループが、北の夜空に奇妙なオレンジ色の光球を目撃した(後に大陸間弾道ミサイルを発射した光であったことが確認された)
・テント内に残されたカメラのフィルムの最後の1枚は判別不可能な光体らしきものだった
等々、謎の多いものだったからである。

Д そんな冷戦下の旧ソビエト連邦で起こった事件に興味を抱き、真相究明にあたったのがアメリカのドキュメンタリー番組監督のドニー・アイカーであり、その調査の一部始終をまとめたものが本書『死に山 世界一不気味な遭難事故 《ディアトロフ峠事件》の真相』(以下『死に山』)であり・・・

Д で、ここからは急に紹介文書くほうもやる気がしぼんでしまうのだが、つまるところテレビ屋というのは、洋の東西を問わず大げさ、引っ張りの手法が大好きで、せっかくの猟奇的事件を料理するのに、どこかのテレビ局の「探検隊シリーズ」みたいなものでお茶をにごしてしまった。本当に残念。

Д 『死に山』は3つのタイムポイント、つまりディアトロフ隊のメンバーが大学を出て雪山登山に挑み遭難するまでの経過、次に彼らの遭難が明らかになってからの捜索隊の行動、そして現代、ドニー・アイカー自身が事件の現場に向かう経緯、この3つの異なる時間の流れを繰り返し追う、そういう形式になっている。それは別によい。
しかし、驚いたことに、ロシア語をほとんど話せないドニー・アイカーはそれにもかかわらず満足な通訳も連れず現地を訪れ、事件研究の権威やディアトロフ隊唯一の生存者(体調不良で途中で引き返した)を訪ね、「なんと言っているかわからなかった」を連発しながら彼らの厚意を得てただ闇雲に現場に向かうのだ。
この1点にピンを刺しただけでいかに本書が「謎の解明」という姿勢から遠い場所にあるか、明らかだろう。

Д そうなると、過去の2つの時間の経過、その記録についても、どの程度正確なのか(著者が推測で埋めていないか)、今ひとつ確証がない。ディアトロフ隊が大学を出、列車を乗り継いで雪山に入り、という行程は、もちろん当人たちが残した旅程メモやさまざまな証言をベースにしている。だが、肝心の、遺体を発見、調査した捜索隊、あるいは公式な調査の記録については非常にあいまいな記載しかない。

Д したがって、事件の「謎の解明」という、その一点に絞れば本書は肩透かしに近い。最後の数十ページになって、たまたまほかの専門家の指摘に「こうではなかったか」で終わる。
(そういえば10年ばかり前にヒットした『ハチはなぜ大量死したのか』も、ミツバチの減少について途中まで緻密に追いながら、最後は肩透かしに終わった。最近の流行り作法なのか、それとも続編を売るためか、などと疑ったほどだ。)

Д さて、さんざんこき下ろしておいてなんだが、1冊の本として『死に山』を読むこと自体は実はさほど不快ではない。
遭難事件の数々の謎、そのサスペンス、そういった興趣もなくはないが、それ以上に、冷戦下、1950年代のソビエトの若者たちがこれほどのびのびと明るい人生を送っていたのか、という、その新鮮な驚き。大学を出て働くことを夢見る彼らそのものの魅力。
ディアトロフ隊は列車の途中駅に小学校があれば子供たち相手に雪山登山を語り聞かせ(子供たちは彼らを慕って駅までついてくる、のちに遭難が明らかになったあと「おねえさんたちはどうなったのですか」と手紙で問うてくる)、乗り継ぎに時間が余ればさっそくマンドリンを取り出して歌い出す。
ソビエトは冷酷な社会主義の管理国家ではなかったのか。

Д (もっとも、僕たちはすでにそういった例外の物語を知っている。バレエマンガの殿堂『アラベスク』において、バレエ学校の学生ノンナはライバルとの戦いに敗れて寮を抜け出し、あろうことか他の都市で名を騙ってプロのバレリーナとして働くのだ。)

Д 追伸。この妙なタイトルは、狙ったものなのだろうか? 原題が“dead mountain”なら素直に「死の山」でよさそうなものだし、そもそもこの山が「死の山」と呼ばれていたのは、現地の人々からみて獲物さえいない、といった程度のことらしく、その意味でも「死に山」はおかしいのだが。

2018/11/05

メメント・モリ 『とんでもない死に方の科学 もし●●したら、あなたはこう死ぬ』 コーディー・キャシディー、ポール・ドハティー 梶山あゆみ 訳 / 河出書房新社

Photo首がなくなったら、死ぬ。でも、首がなくなったら死ぬのはなぜ?
樽の中に入ってナイアガラの滝下りをしたら、かなりの確率で死ぬ。どんなふうに?
無数の蚊に刺されつづけたら、死ぬ。どのくらいの蚊なら?

などなど、さまざまな「もし●●したら」を説き起こして
「そんなことも知らずに、やれ死なばもろともだとか、死んでお詫びなどと言っている日本人のなんと多いことか」
「今こそ全ての日本国民に問います!」
と人の死に方を苦味まじりのユーモア&スピード感あふれる文体で教えてくれるのが本書。
いちいちの死に方について
「ボーっと生きてんじゃねえよ!」
などと湯気を出すこともなくあくまで科学的に教えてくれるので滝から飛び降りるか裸で蚊の群れに飛び込むか、などなどいつか訪れる死に方の参考にしたい。
図説 死因百科』と併せて一家に一冊、常備をお奨めだ。

内容は実生活にあり得そうな「もし●●したら」から、
「コンドルに育てられたら」
「アメリカから中国まで穴を掘ってその中に飛び込んだら」
「休暇を取って金星に行ったら」
など実際には(少なくとも今後しばらくは)なさそうなものまで、シナリオは全部で45。
個人的にはほんのわずかな量でじわじわと死にいたる
「世界一有毒な物質を口に入れたら」
の章がいやもう。
もう一つ、
「『プリングルス』の工場見学をしていて機械の中に落ちたら」
も閲覧注意。
そういえば
「生贄として火山に投げこまれたら」
だって、長生きしていればそのうちないわけでもなかろう(そうか?)。

著者のコーディー・キャシディー氏はスポーツライター、ポール・ドハティー氏は物理学者。という組み合わせのせいか、いわゆる病気による死はほとんど取り上げられていない。ところがドハティー氏は本書出版後まもなく癌で亡くなった。病床で彼が考えた「死に方」はどんなものだっただろう。
合掌。

2018/07/26

『殺人に至る「病」 精神科医の臨床報告』 岩波 明/ KKベストセラーズ ベスト新書

Photoそれなりの専門家による余技、アルバイトなのだろうか、最近の新書には、どうにも納得しがたいものが少なくない。

一つには、ある対象(歴史的事件なり仕事なり経済論なりダイエット法なり)について、タイトルを定義、説明する通り一遍の枠組みで1冊を埋め、まあその対象についてまったくご存知ない方には勉強にはなるだろうが、それだけといえばそれだけ、といった本。
もう一方は、その対象についての事例をなんとなく思いつくままに列挙したような本。

精神科医 岩波明氏の『殺人に至る「病」 精神科医の臨床報告』は後者にあたり、要は、著者が過去の常軌を逸した殺人事件をいくつか取り上げ、その経緯を紹介、という体裁である。

取り上げられた事件は、(前書き・後書きなどでつまみ食い的に取り上げられたものを除き)帯の惹句によれば
  サイコパス作家・宝石商銃殺
  近所の騒音幻聴・復讐刺殺
  通り魔・知的障害者・ネグレクト
  東大卒・地下鉄サリン実行犯
の4ケース。
時代・背景、犯罪の在り方もまちまちで、被害者がいるため著者のいう「悪」であることは共通するのだろうが、それ以外に共有項を見つけ出すのが難しい。

なにより不思議なのは「精神科医の臨床報告」なるサブタイトルで、著者はここに取り上げられた事件の容疑者、ないし被害者を直接診断した気配がない。「臨床」を字義どおり「実際に病人を診察し、治療すること」とするなら、甚だしく看板に偽りあり、だ。

百歩譲って当人の診断でなく、他の精神科医の「臨床」記録を元にしたとしても、上記4ケースが、必ずしも精神科医の視点から書かれているわけでもない。
後半になるほどそれが顕著で、4例めの(たまたま本日死刑執行された)オウム事件の豊田死刑囚についてなど、事件当時から最近までの報道から切り貼りしたかのような印象で、ことさらこの著者が語るべきものと思えない。
そもそもオウム事件の一被告を新書数十ページで語り切るななど、できることではないだろう。

つまり本書は、過去の残虐な殺人事件を煽情的、醜聞的に取り上げ直した、と評されてもしかたのない内容となっている(サイコパスによる犯罪などに興味を持つ方は、週刊誌的な視点では本書をそれなりに面白く読めるかもしれない)。

ここに至って、再度タイトルに注目してみよう、すると「殺人に至る病」という主題も、意味がよくわからない。
著者は精神障害者による暴力はいつの時代にも一定の割合で存在することを主張する(p.78)。それはわからないではないが、逆に、本書を読んでいると、精神病理的に正常なものでも、状況によっては殺人を犯すようにも読める。
それなら、わざわざ精神科医をタテに語る必要もない。

(追記)
同じ著者の『狂気という隣人 精神科医の現場報告』(新潮文庫)などは格段に面白く読めたので、おそらく本書における問題は企画、コーディネートの問題だったのではないかと推察する。

2017/03/27

『負け組ハード列伝 ホビーパソコン編』 前田尋之 / オークラ出版

Photo錦糸町アルカキットのくまざわ書店で店員さんに尋ねたところ、コンピュータのコーナーではなく、マンガ本のコーナーにあるようだと仰る。探し出してくれたのが、この表紙。一瞬、これはハズしたかと思ったが、実はココロザシの高い1冊だった。

本文はざっくり256ページ、取り上げられた“負け組ハード”は目次の順に
  FUJITSU MICRO 8
  JR-100
  パソピア
  マックスマシーン
  MULTI8
  FP-1000/1100
  ぴゅう太
  PHC-25
  JR-200
  M5
  パソピア7
  SC-3000
  PV-2000 落がき
  SMC-777
  S1
  ファミリーベーシック
  RX-78ガンダム
  テラドライブ
の18機種(この機種名を聞いて半分でもメーカー名を答えられたならエラい!)。
本文には表紙の姉弟妹は登場せず、カタログスペックを中心に、ハードウェアの強み、工夫、弱点についてじっくり調べ上げ、語り尽くした印象だ。本体の写真もカタログからの引き写しでなく、新たに撮り下ろしたものが少なくない。
著者がパソコンゲーム誌に従事したのが1990年とのことだから、本書で扱われた機器の大半はそれ以前に登場、退場してしまったものである。それをこれだけ詳細に調べ上げるにはたいへんな労力がかかったと思われるし、またそれぞれの機種の浮沈について大きな勘違いがないように見受けられるのも凄い。

そうした評価はしたうえで、いくつか気になった点を挙げておきたい。
なお、本書は同じ著者による『ホビーパソコン興亡史 国産パソコンシェア争奪30年の歴史』など何冊か(未読)の姉妹編である。そちらを併読すれば下記はクリアされている可能性もあることをお断りしておく。

・そもそも、“勝ち組”“負け組”をどう切り分けるべきか、その定義が明らかでない。一世を風靡したPC-9801にしても初代機だけで圧倒的シェアを得たわけでもないし、開発費をペイできたわけでもないだろう。その意味では著者が“勝ち組”扱いしているFM-7シリーズの先駆けにあたるFUJITSU MICRO 8を“負け組”とするのは少し疑問だ(FMシリーズをすべてNECの後塵を拝した“負け組”とするならまだしも)。
・それぞれの機種には目標となる数字やシェアがあったはずで、たとえばファミリーベーシックは「自分でオリジナルゲームを作りたい」というファミコンユーザーの(実は無謀な)要望に対するガス抜きオプションハードと考えると相応の価格、出荷数だったのではなかっただろうか。少なくともSMC-777やパソピア7の退場とファミコンベーシックを“負け組”として同列に扱うのはいかがなものか。
・やむを得ない気もするが、ハードウェアに標準添付された開発環境についての解説が中心となる。結果、BASICの提供のしかたについてはある程度詳細だが、アプリケーションを開発しやすかったかどうかはこの1冊を読んでもわからない。当時の8ビット機においては、開発メーカーとアマチュアアセンブラプログラマ、BASICプログラマとの間隔は極めて狭く、アマチュアとして魅力的なゲームを開発できればそのままパッケージ化、ソフトハウス起業、ということも少なくなかった。開発環境の是非はパッケージのスペック以上に評価に影響したものである。
・細かいことだが、パソピア7の項に「ソニーの松田聖子を対抗として睨んだのか、(中略)岡田有希子を起用。この路線は東芝に限らず各パソコンメーカーが追随し、NECの斉藤由貴、富士通の南野陽子、シャープの荻野目洋子といった具合に、以後しばらくの間、各パソコン雑誌やテレビCMでアイドルの笑顔が溢れることとなった」とある。実はそれ以前にFUJITSU MICRO 8のイメージキャラクタには伊藤麻衣子が起用されており、水着やテニスウェアのポスターが家電ショップに配布されていた。
・FUJITSU MICRO 8についてもう一点。バブルメモリを装着する窪みを「灰皿」というのはあくまで無駄なスペースへの揶揄であって、コネクタが剥き出しになったスロット部を本当に灰皿に使う豪傑がいたわけではない……。
・M5の出荷台数が10万台とあるが、これは当時としては“勝ち組”の数字ではなかったか。のちに滅んだから“負け組”というのなら、国産オリジナルアーキティクチャのパーソナルコンピュータはすべて“負け組”ということになる。
・「SMC-777」の「777」はスリーセブンと読む、との記載がない。こういった要素は当時のパーソナルコンピュータの世界ではけっこう重要だったように記憶している
・「プライベート16ビット」と銘打って発売され、森進一を起用しての大々的なテレビCMを打って出たものの、マニアからもゲーム業界からもほとんど相手にされず消えていったIBM JXが扱われていないのは惜しい。初年度発売実績2000台、とか、社員に無償配布するにコーヒーカップセットと二者択一だった、など逸話の多いハードウェアだった。
・著者あとがきに、これら使用目的のはっきりしないパーソナルコンピュータが登場した背景には当時提唱されていた「ニューメディア構想」が、とある。それはどうだろう。当時、何社かパーソナルコンピュータの開発部門と話したことがあるが、「ニューメディア」という言葉は耳にした記憶がない。それより、アメリカでのIBM PCやMacintoshのビジネスユース、ホビーユースの成功例が目線の先にあった(目先の金儲けより、技術的な可能性が重要視されていた)。

いずれにせよ、これら“負け組”ホビーパソコン、決して魅力がなかったわけではなく、むしろ限られたハードウェア環境の中でさまざまな夢を見られる楽しい機器であったという点については著者に同感だ。また、WindowsやiOSに、当時のBASICのような簡易開発環境があればちょっとした楽しいことがすぐ、簡単にできるのに、と思ってしまうのもまた事実である。

2016/03/26

盲点fff 『バイエルの謎 日本文化になったピアノ教則本』 安田 寛 / 新潮文庫

Photoかつて子供たちが手にする初めてのピアノ教則本といえば「赤バイエル」「黄バイエル」だった……

と思っていたら、最近ではバイエルといっても山ほど版があり、昔言われたところの「赤」「黄」がどれにあたるのかよくわからない。
それどころか、1980年代の終わり頃から、バイエルは「本国のドイツでさえもはや忘れられた教則本」とバッシングされ、「私はバイエルは使いません」と見識ぶるピアノ教師が巷にあふれた。らしい。

著者の安田寛氏はそんな、誰もが知っているようで実は誰も知らない「バイエル」に着目し、その正体を追う。

それにしたって。
・バイエルって作曲家は実在したの?
 (不在説、偽名説……)
・日本に持ち込んだのは誰?
・なぜあんな構成なの?
など、あれほどまで普及した教則本とその作者について、ほとんど誰も深く追及してこなかったと知って驚く。
そして、幾人かの音楽教育者が、原典をてんでに都合のよい「バイエル」に改変し、広めてきたという事実にさらに驚く。著作権切れてるからってそれはいいのか。えっ、全部作り話の伝記マンガならある? ……

つまるところ、音楽は音「楽」であって音「学」ではない。
安田氏のテキストにしても、その苦心は別として、学究の姿勢にはいろいろ疑問符が付く。行き当たりばったりに海外の図書館や楽譜の版元を訪ね、たまたま一次資料にあたればラッキー。ほとんど趣味人の自費出版物のノリだ(なぜ現地ロケまでしたNHKに問い合わせない?)。

とはいえ、フェルディナント・バイエルという作曲家個人の真実をたどる旅、そして「静かにした手」や百六の番号付き曲の意図など、教則本としての本当の姿が徐々に明らかになる過程は読んでいて実に楽しい。
子供のころバイエルにお世話になったという方はぜひ。いろいろ呆然とすること請け合い。

2016/01/24

『目の見えない人は世界をどう見ているのか』 伊藤亜紗 / 光文社新書

Photo本書のテーマは、視覚障害者がどんなふうに世界を認識しているのかを理解することにあります。(中略)障害者は身近にいる「自分と異なる体を持った存在」です。そんな彼らについて、数字ではなく言葉によって、想像力を働かせること。そして想像の中だけかもしれないけれど、視覚を使わない体に変身して生きてみること。それが本書の目的です。

上記は本書の帯の惹句からの引用だが、このテーマ、目的に異論はない。だが、本書を一読して感じる気持ち悪さの理由は何だろう。

たとえば。ある坂道を歩いていて、著者にとっては出発点と目的地をつなぐ「ただの坂道」と見えていたものが、目の見えない人は「駅の改札を頂上とするお椀をふせたような地形」と俯瞰的にとらえた、という逸話は面白い。
また、目の見えない人にとって富士山はあくまで「上がちょっと欠けた円錐形」なのに、目の見える人にとってはまず「八の字の末広がり」つまり「上が欠けた三角形」であると言われればなるほどと思う。
大阪の万博跡に残る「太陽の塔」を見て、目の見える人はてっぺんの金色の小さな顔と胴体の顔の二つしか意識しないが、目の見えない人は逆に死角がないため背中の顔も含めて立体的にとらえる、という指摘も興味深い。

著者はこれらの例をもとに(福岡伸一氏によれば)「<見えない>ことは欠落ではなく、脳の内部に新しい扉が開かれること」と主張しようとしているようだが……はたしてそうだろうか?

たとえば僕は「富士山の形は?」と問われると、ごく自然に「上が欠けた円錐形」と考える。そしてそれとほぼ同時にアイコンとしての八の字の図象や、地図上の静岡、山梨にまたがる等高線を思い起こす。
目の見える人も普段からモノを立体的にとらえている、つまり二次元の絵画や映画は実際のモノのとらえ方を実現していない──ということを表すために、たとえばピカソやブラックはキュービズムを考案してキャンバスに顔の裏側まで描いたし、映画館では立体視のシステムが宣伝されている。そもそも「太陽の塔」の胴体の裏側に顔があることなど、目の見える人が説明しない限り知りようのないことだ。

つまり、著者はAとBという二つの世界のとらえ方を異なる「意味」の枠組みに仕立て上げようとしているが、実態は片方がAもBもできるのに対し、片方はBしかできない、それだけのことなのである。
目の見えない人の行動パターンとしてあげられているコンビニでの買い物のしかたにしても、入口、目的物、レジとまっしぐらに歩くのは「電池が切れた」ときの目の見える人の行動パターンと同等である。目の見えない人は、ぶらぶらうろついてキャンペーンに気を引かれたり、行き当たりばったりな買い物をしたりできない、選べないだけだ。

……目の見えない方々に対して、たいへん失礼なことを書いていることは自覚している。
しかし、目の見える僕たちは、まずこのできる、できないをはっきり把握するところから対峙を始めるしかない。
俯瞰してとらえたその坂道が、目の見えない人にとっていかに歩いにくいものであるか。目の見えない人にとって階段よりよほど便利なはずのエスカレーターは、上り下りがどれほどわかりにくいものなのか。あるいは公共施設のトイレで、水を流すレバー、ボタン(さらには緊急呼び出しボタン)の場所、かたちがどれほど不統一であるか。

著者は、そういった欠如、困難の方面は福祉、サポートの領域として切り分け、一足飛びに目の見えない人の世界のとらえ方を語ろうとする。「(情報に)踊らされないで進むことの安らかさ」と謳う。だが、無暗に踊らされるのもまた、人生の権利ではないのか。
もし僕が目の見えない人にシャガールの絵を説明することになったなら、その透明な青を伝えたくとも伝えられない、その辛さに絶句するだろう。では、目の見えない人が僕にブラインドサッカーの楽しさを語るとき、伝えられないもどかしさに絶句することはあるのだろうか?

本書は、目の見えない、(たった)六人にインタビューして書かれたそうだ。推察するに、その六人は目の見えない人の中でも強者だったのではないか。出歩く、働く、プレイする、語る、目は見えなくともそういったことに悠々対処できる人の世界のとらえ方、ユーモアさえこもった語り口を目の見えない人の総体としてとらえるべきかといえば、それは違うように思う。
目の見えない人には、モノが、顔が、アイコンが、世界が、見えない。こういったテーマは、まずその点についてはっきり自分の中で落とし込んでから書くべきだろう。でなければおためごかし、偽善のそしりを免れ得ないだろう。

なお、近年、「障害者」「障碍者」「障がい者」のいずれの表記を用いるべきか議論されることが多いが、その前に目が見えない、耳が聴こえない、手足がない・動かない等々とそれぞれ要因も困難も全く異なる人々を十把一絡げに「しょうがいしゃ」と分類するその慣行から振り返るべきではないかと思う。
「しょうがいしゃ」という括り言葉は、つまるところ健全者の社会が健全でないものを便利に排斥する道具に過ぎない。少なくとも今のところは。

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