カテゴリー「芸術・美術」の42件の記事

2024/06/10

『世界奇想美術館 異端・怪作・贋作でめぐる裏の美術史』 エドワード・ブルック=ヒッチング、藤井留美 訳、田中久美子 日本語版監修 / 日経ナショナル ジオグラフィック

Photo_20240610165301 先般の記事で「Amazonでとある美術本を注文しようとしたら」と書いた、その美術本。
サイドテーブルに置いて、ときどきパラパラめくってグラビアをながめ、本文を読み、今日、最後のページまでたどり着いた。

帯の惹句には「唯一無二の怪作! 歴史に埋もれた珍作!」とあり、その内容が「心霊画」「賢者の石のつくり方」「妖精画『お伽の樵の入神の一撃』」「宙に浮く聖人」「火縄銃で武装する天使」「がらくたでつくった祭壇」「死者の戴冠」「無数の釘が打ち込まれた像」「犬頭の聖人」などであることがうたわれている。

とはいえモネやルノワールをありがたがる一派を除くと、およそ美術史というものは「怪作」「珍作」のオンパレードである(ここしばらく、入場者の列の最も長かった日本画家が伊藤若冲であり、テレビの特番で再三扱われる建築家がガウディであることからも明らかだろう)。
本書で取り上げられたものの中にも、ピエロ・デッラ・フランチェスカの肖像画、ボスの『快楽の園』、『一角獣のタペストリー』、アルチンボルドの野菜肖像画、フューズリーの『夢魔』、ゴヤの『黒い絵』、サージェントの『マダムXの肖像』、ダリの時計、フリーダ・カーロの痛み、などなどなど、すでに高名と言ってよいものが多数選ばれていて、そこは少し興ざめだ。
個人的には『隠れ名画の散歩道』で紹介された作品群のマイナーな佇まいに軍配を上げたい。いや、軍配を上げたからといって何を差し上げられるわけでもないが。

・・・さて、ここまでなら、わざわざ取り上げるまでもないのだが、本書『世界奇想美術館』で気になったのは、最後、「『エドモン・ド・ベラミの肖像』(2018年)と人工知能がつくりだす芸術」の項である。
ここでは人工知能(AI)が制作した美術作品が世界で初めて競売にかけられ、43万2500ドル(約4900万円)で落札されたこと、その「作者」は特定のアルゴリズムであること、などが紹介されている。
そして、著者は最後の数ブロックでこう述べる。

曰く、「テクノロジーは無限の可能性を秘めるが、それにくらべて現在の能力はあまりに低い。GANsに新しい仕事を教えようとすると、それまで学習したことをすっかり忘れる『破局的忘却』が起きる。だから『エドモン・ド・ベラミの肖像』をつくったGANsは、レパートリーを広げて風景や建物を描くことはできないのだ。」

曰く、「悲嘆、才能、狂気、ユーモア、憤怒、執着、情熱、そして感情や笑いの共有──コンピューターがどれほど発達しても、これらの要素が計算に入りこむ余地はないし、その可能性も排除されるだろう。最も美しく、最も醜悪な人間の姿を表現するのが芸術であり、それ未満のものをいくらカンバスに描いても価値はない。」

覚えておこう、本書の原書のCopyrightは2022年、日本語版の発行は2023年11月。
それからたかだか半年を経た現在、同じことが言えるかどうか。

「芸術」というものがあって、人がそれを描くのではない。
人が描いたものが「芸術」とみなされるのだ。
バベルの図書館につながった人工知能(AI)という絵筆の先が人類の集合知なるパレットに到達するのはそう無理な話ではない。
すでに、問題は、その絵筆が集合知の外をいかに描くか、なのである。

※現在のAIイラストツールでは、たとえば両手の5本指の組み合わせを描くのが不得手らしい。それは、AIが、手の指というものを、既存の2次元のイラストをサンプルにして描く(3次元の5本指として認識していない)ためである。これなどは、いずれ、人体の3次元モデルのデータ取り込みと配布が進み、それにさまざまなポーズをとらせたものを一点透視で描くというプログラムの開発が進み、さらにそれでできあがった手の指の画像が部品として共有されていけば解決するだろう。

※「悲嘆、才能、狂気、ユーモア、憤怒(以下略)」のそれぞれを典型的に、あるいは無表情の中にかすかに描写する、それは不可能だろうか? 否、否、それにしたって、、、

2024/06/03

Vorne und Hinten 『ヒトラーと退廃芸術 〈退廃芸術展〉と〈大ドイツ芸術展〉』 関 楠生 / 河出書房新社

Photo_20240603191601 5月14日、NHKのBSプレミアム4Kで「パウル・クレー 烙印を押された画家」という番組が放送された。2004年に制作されたものの再放送らしい。
スイス出身の画家パウル・クレー(1879-1940)、彼の、子どもが描いたような稚拙に見える作品(街頭で子どもの絵と混ぜてクイズにしても皆さんなかなか正解できません)に込められたものを探るとともに、彼、並びにその作品がいかにナチスから迫害を受けたか、そこに焦点が当てられていた。

曰く、「ドイツ民族の精神を損なう絵を『退廃芸術』と呼んだヒトラー。クレーの作品もまた幼稚でわけのわからぬ絵としてヒトラーから『退廃』の烙印を押されたのです」

曰く、「政権をとって5年目の1937年、独裁者となっていたヒトラーはミュンヘンに美術の殿堂『ドイツ芸術の家』を建設、お気に入りの絵ばかり集め『大ドイツ美術展』を催します」

曰く、「ドイツ民族に相応しくないとみなされた絵画や彫刻は、この年、ヒトラーの命令で強制的に没収されました。ナチスはそれらの作品をドイツ民族を腐敗させ堕落させる『退廃美術』と呼びました。没収作品を晒しものにしようとしたナチスは、『大ドイツ美術展』と並行して同じミュンヘンで前代未聞の展覧会『退廃美術展』を開きました」
(開会を宣言するアドルフ・ツィーグラーの映像! ・・・さすがはNHK)

退廃芸術展」とは、ナチスの意に添わぬドイツ表現主義、キュービズム、ダダイズムなどの前衛的な近代芸術を誹謗するため、それを全国の美術館から押収し、一望に展示、いわば「晒しもの」にした展覧会である。
一方、ナチスの美術観に添う作家、作品は着々と権威を高められ、それを一堂に集めた「大ドイツ芸術展」が開催される。
この流れの中で近代芸術に携わってきた画家、彫刻家、美術館関係者たちは問答無用で権威、仕事を奪われ、そのある者は国外に逃れ、ある者はユダヤ人であるとして収容所に送られた。
ベックマン、エルンスト、カンディンスキー、グロス、ココシュカ、キルヒナー、クレー、バルラハ、ノルデ、ヌスバウム、マルク、、、

・・・知らなかった、などというのはただカラスの怠慢に過ぎない。
実は本ブログでも、20年以上前に『[完全版]夜の画家たち 表現主義の芸術』を取り上げた際、

> ナチスから頽廃芸術の烙印を押されて消息を絶ったとされる「青い馬の塔」はことに心を洗う。

などと呑気に書いた自分がいる。詳しい経緯を調べもせずに「心を洗う」でもあるまい。ヘソ噛んで死ね。> カラス

というわけで、大慌てでネット上の古書店から『ヒトラーと退廃芸術 〈退廃芸術展〉と〈大ドイツ芸術展〉』なる書を求め、取り急ぎ読んでみた。
ナチスの「退廃芸術展」と「大ドイツ芸術展」について詳細に調べ上げた、数少ない日本語の書物の一つと思われる。
表紙こそ半端なダダ風コラージュにポップなフォント、とちょっと前までのサブカルテイストだが、いざページをめくれば本文にはナチスが政権をとるにつれて美術館や画家、彫刻家への圧迫が広がり、「ドイツ芸術の家」建設、「大ドイツ芸術展」と「退廃芸術展」の実施にいたる経緯、そしてナチス崩壊後の反動──という流れをほぼ時系列にそってまとめられている。
当時の新聞、パンフレットなど、細かな資料を順に追ってきっちり調べ上げられており、「良書」の印象を強くもった(1992年の初版で現時点では品切れ・・・河出文庫なりにおりていればもう少し広く知られていたのではないか)。

ポイントはいくつもあるだろうが、とくに注意が必要なように思われたのが、「絵画あらし」「美術館への弾圧」は必ずしもNHKのナレーションのように「ヒトラー」「ナチス」の名で全国的に一斉に行われたわけではないということ。それが始まった時点での実行者はそれまで必ずしも重い扱いを受けていなかった美術関係者や役人たちであり、彼らの政権へのおもねり(いわゆる忖度)が同時多発的に美術界をむしばんでいったこと。そして気がついた時には抑えようのない規模で弾圧、没収が広がっていたということだ。
ミュンヘンにおける「大ドイツ芸術展」と「退廃芸術展」は華々しかったかもしれないが、そこに至る過程の精査こそが大切だ。
現在の日本においても、政治と芸術の関係、また表現の自由の問題など、学ぶべきことは少なくないように思う。

もう一つ。
「大ドイツ芸術展」においては人種的に純粋な「北方人種」的な芸術として、働く農民、夕餉に向かう家族像、没個性的な女性の裸像などが推奨された。
10代のころウィーンの美術学校への進学を志したヒトラーの嗜好もあったかもしれない、しかし、それ以上にこの「大ドイツ芸術」にはたとえばソビエト共産主義下の芸術とよく似たモチーフ、テーマ、さらにいえばペンキ絵のような凡庸さがあるように思えてならない。
極論すれば、一党独裁下の芸術にはなにか共通する肌触りがある、そのように見えるのだ。
(「退廃芸術展」のお先棒をかついだ一派がドイツ表現主義をはじめとする当時の前衛芸術を「文化ボルシェヴィズム」と罵っていたにもかかわらず!)

ドイツ国民はナチス崩壊後、意図的に「大ドイツ芸術展」と「退廃芸術展」を再現し、過去の悪行の断ち切りをはかる。
しかも、ただ断ち切るのではナチスの「退廃芸術展」の二の舞になりかねない。
考えよう。考えて考えて、考えすぎることなどない。

「人々が思考しないことは、政府にとっては幸いだ」(アドルフ・ヒトラー)

2024/05/09

『眞贋のはざま オリジナルとコピー』 西野嘉章 / 平凡社

Photo_20240509184501オリジナルが優でコピーは劣なのか。真贋の二項対立図式に異を唱え、書物や美術品、写真、建築など約80点の図版とともに、そのはざまに生み出されてきたものを読み解く。

Amazonでとある美術本を注文しようとしたら「この商品に関連する商品」といって上記の「  」のような本をオススメしてきたので、それも面白そうとポチしてみた。

真贋のはざま オリジナルとコピー』は、タイトルのテーマにそって、多数の画像を掲載し、たとえば西洋美術の複写技術の沿革などついて楽しく知ることのできる、なかなか興味深い本である。
ただ、一読、強く感じたのは、「文系の人の書いた本だなー」ということ。
「真」「贋」「オリジナル」「コピー」の最低限の定義がなされないまま最後までページが流れてしまうのだ(コンピュータのプログラムにおいて冒頭の関数定義がないとでも言おうか)。

目次には

第一考「模」 模索、相剥、量産、異版、原画、自刻、模造、模型、造幣、再現
第二考「複」 イミテーション、ムラージュ、ファクシミル、リプロダクション、カーボン・プリント、プリント、フォトコピー、シミュレーション、レプリカ、キャスト、カルコグラフィ、リプロダクト
第三考「偽」 詐術、捏造、贋作、係争、鑑定
第四考「写」 (以下略)

等々魅力的なタイトルが並び、実際個々の項目には古今東西の「真贋」「オリジナルとコピー」をめぐるさまざまなドキュメントが並んでいる。いるのだが、、、

長ったらしくて煩わしいかもしれないが、たとえ話をこしらえてみよう。
一部フェイクが混じっているが、話を進めるためなので細かいことはスルーしてください。

① ドイツロマン派の文学者E.T.A.ホフマンが長編小説『牡猫ムルの人生観』を発表する。
② それを知ってか知らずか、日本の文学者夏目漱石が書生を相手に「英語教師苦沙弥先生の日常を飼い猫の目を通して描く」という小説の骨子を語る。これは面白そうだと思った書生の一人がスマホにその音声を残す。
③ 原稿用紙に『吾輩は猫である』が書かれる。
④ 『吾輩は猫である』が俳句雑誌「ホトトギス」に掲載される。
⑤ 「ホトトギス」に掲載された『吾輩は猫である』が単行本にまとめられる。
⑥ 各社から漱石全集、文庫が発行される。
⑦ 漱石の著作権が切れることを見込み、既存の印刷物を切り張りしたものを版下にして漱石の全小説を1冊にまとめた『ザ・漱石』が発行される。

たとえば②の音声(もちろんそんなものはない)、③の手書き原稿、④の『吾輩は猫である』の載った「ホトトギス」、⑤や⑥の初版本など、いずれもコピーではある。コピーでありながらそれぞれ「真」「オリジナル」として価値を認められるだろう。

つまり、以前にも書いたように「オリジナル」と「コピー」は常に相対的なものであり、「コピー」の側になんらかの付加価値(コピーした人物に価値があるとか、希少であるとか、初版であるとか)があるなら、それはまた「オリジナル」としての価値を持つ。
注意しなくてはならないのは、価値があるものについて「贋」や「偽」が現れるのはまた別の問題、ということ。
大家の彫刻の精巧なコピーを「ホンモノ」として売ればそれはもちろん「贋作」だが、コピー、レプリカと銘打って売ればそれは公明正大な商品である。印象派の時代、多くの画家が日本の浮世絵をモチーフとして作品をこしらえた。誰も、「贋」「偽」とは言わないだろう。
『吾輩は猫である』の⑤の単行本についてもほるぷ出版より復刻シリーズの一つとして発刊されている。もちろんこれも問題ない。

著者、西野嘉章は、真贋の二項対立図式に異を唱え、その「はざま」を語る。その主張そのものには異論はない。
しかし、何度も書くが、「真」や「オリジナル」の定義を明確にしないと、さらにその定義のもとを資料的価値におくか、価格におくか、などを明確にしない限り、その「もの」の扱いは見方、立ち位置によって異なるのだ。

著者はある項において、「千円札事件」の赤瀬川原平がオフセット・リト印刷で発行した「大日本零円(本物)」を現在のアート市場で数百万円で取り引きされていることを例に、最高裁判決とは別に社会はそれを現代美術と認定したとしている。これにしても、その数百万という価値がその「もの」の美術的価値なのか、それとも(たとえばマッチ箱に書かれたピカソのサインや大谷のホームランボールが高額で取り引きされるように)博物的価値によるものなのか、そのあたりの線引きというか再検討は必要だろう。

しかし、ここで本書に立ち返ると、『真贋のはざま オリジナルとコピー』が、「真贋」「オリジナルとコピー」についての歴史的資料にあふれた豊かな本であることは間違いないように思う。それぞれの項、それぞれの図版についてああでもないこうでもないと夜を徹してじっくり語り合える、そんな旧友は訪ねてこないものか。酒と肴ならあるぞ。

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重箱の隅つつき、3つ。

63ページ、「銅版画原版が疲弊すると、どうなるか」という話題でレイデンの《キリスト磔刑》の「十六世紀初頭版」、「1521年版」、「1911年の後刷り」、の3点が掲載されているのだが、左端の図版(1911年の後刷り)は人物の構図そのものが異なっている。単にほかの銅版画との差し違えではないか?

71ページ、切手の偽造について、「第二次世界大戦中に米国政府が、ナチス・ドイツの経済攪乱を狙って切手を偽造し、それを敵国内に流布させようとした」「朝鮮民主主義人民共和国もまた一九五七年頃、外貨獲得のため、海外の郵趣マニア向けに古い切手の模造を、国家の指導の下におこなっていた」の2例をあげ、「これら公の指導の下で制作されたニセ切手は、あくまで模造品にすぎぬのであるが、国のお墨付きで発行されたものであることは間違いない。だとすれば、『ホンモノ』として通用してもおかしくないのではないか、という論も、当然のことながら、あり得なくない」
いや、あり得ないでしょう。
切手が「ホンモノ」たるのは、発行した国の郵政省にあたる機関のお墨付きによるもので、他の国が(極論すれば同じ原版から印刷したとしても)そのお墨付きを与えられるものではない。
その「論」とやらには発行者たる「国」の定義付けが欠けているように思う。

182ページ、誕生して間もない写真技術が名画の複製の道具とされていた、という話題において、「ラファエルロの《小椅子の聖母》の英国製オリジナル鶏卵紙印画は、原画を銅版画に起こしたものをカメラを使って撮影し、紙ネガを介して鶏卵紙に印刷したものである。ここには、複製の複製の複製の……というコピーの『入れ子図式』がすでにあり、オリジナルとコピーの二項対立が失効している」とのことだが、これは単にカメラを持った撮影者がいちいちイタリアのフィレンツェまで行ってられなかっただけの話ではないか。
「オリジナル」と「コピー」はわざわざそんな例を持ち出すまでもなくハナから二項対立などしていない、という点については上の『吾輩は猫である』のたとえ話を参照。

2021/11/04

最近読んだ本から『カモフラージュ』『サカナとヤクザ』『隠れ名画の散歩道』

続けて、同じく最近読んだ本から。書評と言えるほどのものではないのでご了承ください。

Photo_20211104173701 『カモフラージュ』 松井玲奈 / 集英社文庫

作者が元アイドルであろうがなんであろうが、そのレッテルで作家としての素地、伸びしろに違いはない。ダメなやつはダメ、強いやつは強い。

主に働く若い女性や主婦を主人公とし、人と人との距離や角度を少し不気味に描いた本集は作者が誰であるかなど気にせずとも十分楽しめた。
落ち(?)が少しヌルいように感じられるものもあったが、作者の構築力から思い量るによりエグくするつもりならいくらでもできるものを、この程度のソフトランディングに調整したものと見る。

星新一や小松左京が元気だったころ、無名な若手のこういったショートショートがさまざまな雑誌に載っていたことを思い起こす。それは油断した読み手の足を軽くひっかける、だがときに致命的なマドラーであったように思う。
この作者の作品も甘く見るとあとで胃痛に苦しむ、かもしれない。

なお、このカタマリに「カモフラージュ」という箱の名を付けたことが秀逸。
というか、よく残っていたな、「カモフラージュ」。

Photo_20211104173702 『サカナとヤクザ 暴力団の巨大資金源「密漁ビジネス」を追う』 鈴木智彦 / 小学館文庫

アワビ、ウナギ、ウニ、サケ、ナマコ・・・高級魚を食べると暴力団が儲かる、という仕組みを現場に潜り、冷たい汗熱い汗をかいてはまとめ上げたルポルタージュ。

名著『ヤクザときどきピアノ』──我が家ではいまだに夫婦のどちらかがダラけたことを口にすると「レイコ先生に叱られる」「レイコ先生は言いました」と引用が繰り返される──の著者の本当のお仕事がこれだ。

それにしても、この1冊書き上げるのにアンダーグラウンドに潜って5年、ノンフィクション作家の収入設計というのはどうなっているのだろう。

内容についての感想はあれこれあるが、ここでは少しだけ。

本書ではヤクザによる密漁が取り上げられているが、消費者からすれば近海遠海を国や漁業組合で勝手に分け合って他者の侵出を許さない現状はしょせん「シマ争い」にしか見えない。
こちらからすれば、サカナを滅さず、適度に安く、この2点を守ってくれるならそれでよい。

本文中、北海道の密漁について「ロスケ」の話題が出てきたので、わお! これは『ハロー張りネズミ』(弘兼憲史)の単行本9巻、10巻に出てきたあれですよ、あれ! ロスケ、レポ船、花咲ガニ。張りネズミをネタにたっぷり書評が書けそうだ。
・・・そう思っていたら張りネズミのことは大根仁氏の解説にすでに触れられていた。ちゃー。
ふて寝しよう。すん。

Photo_20211104173801 『隠れ名画の散歩道』 千足伸行 / 論創社

男を食い漁るファム・ファタルばかり描く作家、おでこがハゲあがってヒゲもじゃの妊産婦、地面に落ちた巨大な猫の顔、猿の好きな画家、雲の好きな画家、水のある静謐な風景、宮廷を走る男の説明のないサスペンス、、、

モネだピカソだセザンヌだといった著名どころでない、だが一種独特な魅力あるいは強烈な印象をたたえた絵画作品を見開き1作ごと紹介した1冊。
岩波の月刊誌「図書」の表紙を飾った作品群とのことで、言われてみれば本や読書にかかわる作品も少なくない。

添付の表紙、モデルの女性は明らかになっているのに作者は不明。ネットで調べると現在はある程度特定されているようだが、別の画家の名でヒットすることもある。
(ちなみにネット上で作者名が揺れている絵画作品は少なくないし、それどころか上下、あるいは左右が逆にアップされているものもよく見かける。ほんと? と思われる方はたとえば「elisabetta sirani portrait of beatrice cenci」「redon ophelia」で検索)

表紙を除く本文がすべてモノクロでの紹介なのが残念。だが、このIT時代、気になる画家、作品はネットで検索すればよい。その作品、その画家が気に入ればほかの作品も(もちろんより画質のよい画像ファイルを探し込んで)ダウンロード、フォルダに溜め込んでいく。

貯め込んだ画像ファイルはさらに選んでパソコンの壁紙にするもよし、CD-ROMに焼き込んで同好の士に送ってもよし。
そうしてときどきCD-ROMを送っていた相手が死んでしまった。
いつも愛想のよい返事をくれていたが本当のところどの程度喜んでいたのか、今となってはわからない。画像ファイルが溜まっても、もう送る先もない。

2021/08/05

『マン・レイ 軽さの方程式』 木水千里 / 三元社

Photo_20210805170301 マン・レイつながりでもう1冊。

マン・レイについての論文が意外と少ないことに愕然とし、不憫に思った著者が、新聞、雑誌や手紙など、がっつり資料を調べ上げ、時系列にまとめ上げたマン・レイ論。
帯の惹句は「不滅を信じた芸術家マン・レイを再定義する。

ここまででもう、ちょっと、ずれた感じが否めない。

いや、もちろんこういった労作を書き上げた著者と一介の読者でしかない自分、どちらがマン・レイをより理解しているか、なんて同じ土俵に上がるも烏滸がましいことではあるが、正直に申し上げれば「これ、本当にマン・レイの本?」という違和感が最後まで苦く舌に残った。

この著者にとって、ある芸術家の価値は、たとえば学究的な論文が数多く書かれているかどうか、あるいは展示会について美術評論家の何某からどう評価されたか、などなど、そのあたりがまずポイントらしい。
そういった評価基準はわからないではない、わからないではないが・・・

たとえばキリコは晩年にはなぜか若いころの神話的な傑作を凡庸な筆遣いで描き直したり、あるいはありきたりな人物、風景画を発表してはファンを甚だしく幻滅させた。この失墜を研究し(場合によってはそれなりに評価し)、学術論文にまとめる作業に意味がないとは言わない。しかし、だからといって初期の神話的作品の価値に変わりはないだろうし、晩年の作品の価値を持ち上げるのも難しいだろう。

マン・レイの魅力は、ダダイストやシュルレアリストたちと集ってはパリの街で不適な嘲笑を浮かべた、その当時の目線と撮影手腕に尽きる。その事実をまず的確に評価しないでどうする。
(リンゴ・スターを語るに、ビートルズ時代と解散後の50年を同じ天秤に載せて語ってどうする、という話だ。)

そもそもこの著者は、芸術作品というものを、1枚のキャンバス、1塊の彫刻といった「形になった作品」「展示された作品」と捉えてそこから動けない。シュルレアリスムなんてそもそもは「ポケッと意識飛ばしてペンだけ動かしたらどうだい面白いぞ!」といった意識の在り方についての試行から始まったものである。個々の「言葉」を普通の文脈で読み取ると落とし穴に落ちるし、ヘタをすると逆張りしかねない。
著者はマン・レイの発言のおふざけ部分を引用もせずに切り捨てる傾向があるが、実はそちらにこそダダやシュルレアリスムの妙味があった、かもしれないのに。

たとえば著者はマン・レイの「芸術には進歩がなく、それゆえ自身の作品は永続する」云々という発言を真に受けたようだが、そもそもマン・レイたちの仕事は、男子トイレを展覧会に持ち込んだり、過去の代表作のミニチュアをこしらえて鞄に詰め込んだり(いずれもマルセル・デュシャン)、そうやって従来の「芸術」の概念を揶揄し、コケにするものだったではないか。モード雑誌に写真を載せると芸術家として軽んじられてきた・・・やれやれ、今さら何をかいわんや。

つまるところ・・・この著者は、芸術作品や研究対象の資料について生真面目ではあるかもしれないが、ダダやシュルレアリスム、さらにいえばマン・レイ本人はそんなには好きではないのかな、と思う。
惚けないし、跳ねないんだもの。

2021/08/02

図録にしてそれ以上 『マン・レイと女性たち』 巖谷國士 / 平凡社

Photo_20210802182001 画家、彫刻家である傍ら、シュルレアリストたちの肖像写真やモード、ファッション写真の先駆者として知られるマン・レイ。
そのマン・レイについては、以前より、その作品を一望にできる画集、写真集の類がないことに人を食わない雷禅の如き激しい飢餓感を抱え続けてきた。

もともとダダシュルレアリスムというのはいわば寄ってたかって言葉や描写の実験を極めようとする運動であって、「芸術作品を仕上げる」という目的意識は乏しい。デュシャンやダリなど一部を除けば画集が売れるジャンルではない。
それにしても、シュルレアリスム論説本の類への登場頻度に比べると、オンライン書店で検索して「なぜ?」と声が出るほどマン・レイ単独の書籍は乏しい。

そんな思いを抱えて幾星霜、ある日小耳にはさんだ、この夏、「マン・レイと女性たち」なる展示会があるというのである! 欣喜雀躍、金鳥孔雀、日程は7月13日から9月6日、よっしゃあ!
・・・ところが、場所が、渋谷のBunkamura。
デルタ株感染拡大真っ最中にスクランブル交差点歩くのもなぁ・・・。

ふと。このご時世、展示会の「図録」だけでもオンラインで手に入らないか? 思い立って検索してみた。
あっさり引っかかった。どうやら今回の「マン・レイと女性たち」展の図録は、一般図書として販売されているもよう。2,750円(税込)は安価とは言い難いが、当節の図録とみれば許容範囲だと思う。Amazonで注文確定ボタンをポチっとな。

翌日には届いた。つくづく凄い時代だ。
ハードカバーA5判、271ページ。
お馴染み巖谷國士先生によるツボを押さえた解説、図録らしくナンバリングされた図版。
欲を言えば、せっかくなのだからもう少し大判だとよかったかな(2冊買って切り抜いて額縁に入れるとか)。

マン・レイの多様な仕事を、時代やジャンル、人物名などさまざまな角度で切り分けた構成はわかりやすく、今さらながら「マン・レイを見る」ことの楽しさを再確認させていただいた。
マン・レイの写真はいずれもモノクロなのだが、それゆえにコンタミネーションがない、重厚かつ明晰で撮影されたシュルレアリストや女性たちがそれぞれくっきりと時代から立ち上がる、そんな印象がある。マン・レイによるキキやリー・ミラーの御影のあれこれは、Windows95当時からPCの壁紙で愛用だ。

現在、まだ展示会開催中ゆえ、内容の詳細は省くが、緊急事態宣言が霊験あらたかとなってコロナが一段落したら(まあ、正直、一方でオリンピック開いて、一方で出歩くな帰省するななんて誰が従うものか、とは思う)、展示会にも赴きたいと考えている。今年無理なら来年の長野開催でもいい。
マン・レイグッズが欲しいのでね!

2021/03/18

『十二の肖像画による十二の物語』 辻 邦生 / PHP研究所

Photo_20210318182001 未読本の棚にこんな本があった。
12の肖像画をカラー口絵に、それぞれから自由に想起された掌編を12作まとめたもの。

2015年発行「新装版」とあって、もともとは1981年に文藝春秋から刊行されたものらしい。
入手したのはほんの数年前のはずなのに、どこで、どんなつもりで買い求めたものか、全く記憶がない。

辻邦生は、『安土往還記』や『天草の雅歌』、『背教者ユリアヌス』などが盛んに文庫化された70年代、妙な義務感に駆られてあれこれ読んだものだ。
大学の先輩の部屋に集まって飲んでいると、当然読んでいるだろうとばかりに文学談義の素材に『背教者ユリアヌス』を持ち出され、また議論の相手の面々もごく当たり前にそれに応じていたことを思い出す。
辻邦生は当時の文学青年にとってそんなふうにごく身近な存在だったのだ。

なので、当時はそれなりに長編短篇を順繰りに読み、形の上ではそこそこ熱心な読者の一人だった。
ただ、正直に言えばとくに好もしいとか凄いとか感じていたわけでもなく、同じころに熱心に読んだ、たとえば倉橋由美子や筒井康隆やブルトンとはまったく温度の違う、社会科の参考書に対するようなバサバサ味気ない読書だったようにも記憶している。

『十二の肖像画による十二の物語』は、当時読んだものに比べれば、各篇7ページと短いこともあって、よほどわかりやすい。
神経質そうな若い夫が拾いこんでしまった「鬱(ふさ)ぎ」の虫、老婆の「妬み」が意図せず近しい者たちを次々と不幸に追いやる話、馬を愛する乙女が夫に復讐を企てる「謀(たくら)み」など、少しオカルト、ミステリめいた訓話、コントが並ぶ。

全体を一読しての率直な印象は、「ずるい」である。
掌編の一つひとつは、それなりに人生を切り取って起承転結、ほどよい苦みでよく出来ている。
しかし──ジョルジョーネ、ティツィアーノ、デューラー、レンブラント、ベルリーニ、ダ・ヴィンチら、錚々たる大家の名品をカラー口絵に置けば、ちょっと気の利いた程度のショートショートでも御大層に見えようというものだ。
商品としてよく出来ていることと、文芸作品としての評価を取り違えてはいけない。

ちなみに、文芸評論の類には疎いので、今回ウィキペディアで知るまで

> その活躍から小川国夫、加賀乙彦とともに「73年三羽烏」と称されたが、江藤淳がこれらに丸谷才一も加えた4人を「『フォニイ』考」(「フォニイ」は「空っぽでみせかけだけで、インチキでもっともらしい」の意)で批判したため、江藤と平岡篤頼の間で「フォニイ論争」を引き起こした。

などという論争があったことを知らなかった。
だが、歴史上の著名人を取り上げて高貴で荘厳ふうなストーリーを紡ぎ上げる辻邦生を「空っぽでみせかけだけ」と指摘するのはなんとなくよくわかる、すとんと胃の腑に落ちるものがある(個人的には同じ空っぽでも、小川国夫のほうが散文詩として風や空気を味わえるだけマシな気がしないでもない)。

いずれにせよ、辻邦生も小川国夫も、当節はめっきり書店店頭でも見かけなくなった。
参考書としてなら新しい表紙の平野啓一郎あたりがオススメ、ということだろうか。

2019/08/26

にじみ出るもの 『うらめしい絵 日本美術に見る怨恨の競演』 田中圭子 / 誠文堂新光社

Photo_20190826171901 以前にも触れたが、再三ブームを盛り返す「妖怪」に比べ、「幽霊」を扱った画集は存外に少ない。
手軽、廉価に入手できるものとしてちくま文庫『幽霊名画集 全生庵蔵・三遊亭円朝コレクション』、新人物往来社『肉筆幽霊画の世界』、別冊太陽『幽霊画と冥界』あたりがお奨めだが、その次がすぐには思いつかないほどだ。

『うらめしい絵 日本美術に見る怨恨の競演』は昨年夏の発行で、時間つぶしに訪れた千葉の美術館のお土産コーナーで巡り合った。
このような霊美な本を1年も知らなかったなんて、自分の首をうしろに垂れていた誰かの黒髪で締めつけたいほどだ。きききいぃぃ。

内容は、目次にならうと次のとおり。

  円山応挙《返魂香之図》
  月岡芳年《幽霊之図 うぶめ》
  小林永濯《菅原道真天拝山祈禱図》
  上村松園《焔》
  村上華岳《日高河清姫図》
  鳥山石燕《大森彦七図》
  甲斐庄楠音《畜生塚》
  三代歌川広重《瞽女の幽霊》
  鏑木清方《朧駕篭》
  島成園《おんな(黒髪の誇り)》
  葛飾北斎《百物語・さらやしき》
  橘小夢《牡丹燈籠画譜》
  揚州周延《東錦昼夜競 佐賀の怪猫》
  伊藤若冲《付喪神図》

幽霊といえば足がない、の端緒とされる(先週のチコちゃんでも紹介された)応挙の《返魂香之図》、芳年の《幽霊之図 うぶめ》、村上華岳《日高河清姫図》、鏑木清方《朧駕篭》など、怨恨あからさまな絵より、ひんやりうすら寒い絵がいい。うぶめの腰巻きににじむ血、清姫のおぼつかない足取り、駕篭女房の並んだ小さな歯……!

著者はそれぞれの作品について物語的背景を語り、作者を語り、作品そのものを語る。いたずらに煽らずその者の「怨み」「恨み」を語り、その果ては切なくもうす気味悪い。

同じ画家のほかの作品や、ほかの画家による関連作品など、本文中に紹介されつつ図版のない作品がいくつかあって、それが読み手には惜しい、つらい。

甲斐庄楠音《畜生塚》というすさまじい絵は初見で、知らない画家だなとググってみれば岩井志麻子『ぼっけえ、きょうてえ』や『岡山女』の表紙のあの画家ではないか。このブログでも実は久世光彦『怖い絵』を取り上げた際、その名に触れていた。
ぼんやりし始めた記憶の中に、美しくも怖い絵のリンクがつながっていく。静かに。

2019/07/30

速報 『アール・ヌーヴォーの寵児 華麗なるミュシャ』 宝島社 TJMOOK

Photo_20190730174801 ミュシャは昔から大好きな画家の一人で、展覧会にも幾度か赴き、その都度画集やポスターなど購入していたのだが──今回のA4大判ムックは付録につられての衝動買い。

その付録というのは、厚さ13mmのトレー2枚、オリジナルステッカー(シール)9点、それにポストカード4点。

とくに254×105mm(椿姫)と130×105mm(黄道十二宮)の2枚のトレーは重厚感があり、ムックの付録とは思えない(素材のユリア樹脂は麻雀牌によく利用されるものらしい)。

なお、渋谷Bunkamuraで開催中の「みんなのミュシャ ミュシャからマンガへ――線の魔術」展は本ムックの表紙にも使われた「舞踏」推しのようで、これの原寸大(ないしそれ以上)のポスターが販売されていると嬉しいのだけれど。。。

2017/11/19

かいじゅうだもの あきお 『ウルトラ怪獣幻画館』 実相寺昭雄 / ちくま文庫

Photo先日地上波で放送された『シン・ゴジラ』の中盤に、一般人の避難が完了していないため官邸が自衛隊によるゴジラ掃射を躊躇する、というシーンがあった。
あの、背負われて踏切を避難していく女性、彼女こそ、故・実相寺監督の奥様(女優の原知佐子さん)であった。

実相寺昭雄。
特撮ファンなら足も向けて寝られない、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『怪奇大作戦』などの特撮番組において特異なストーリー、アングルの作品を多数遺した監督、脚本家である。
ガヴァドン、ジャミラ、スカイドン、シーボーズ、メトロン星人、円盤が来た、京都買います、と早送りすれば膝を叩いていただけるのではないか。いずれも単なる怪獣プロレスではない、独特な歪みと漆黒の闇を感じさせる作品ばかりである。
(もっとも、そもそもウルトラシリーズには実相寺作品に限らず、四次元怪獣ブルトンや三面怪人ダダなど、ちょっとお子様ランチでは説明のつかない回も少なくないのだが。)

そうした記憶に残る作品を遺した実相寺監督ではあるが、ご本人は予算やスケジュールに追われ、必ずしも個々の作品に満足されていたわけではないらしい。

この『ウルトラ怪獣幻画館』は、そんな実相寺監督が折に触れて怪獣や宇宙人に寄せた書画集である。
100ページあまりの薄い文庫だが、その分良い紙を使っており、存外に巧みな水彩のラフ画、そこに被せた書ともに、味わいは深い。
思うさま撮影し切れなかった怪獣たちへの哀惜、果たせなかった演出へのいらだち、当時の撮影現場への懐かしみなど、さまざまな思いが交錯し、ウルトラシーズの50年が40メートルの高さに浮かび上がる。

  モロボシ・ダンとメトロン星人が畳敷きの部屋でちゃぶ台を挟んで対峙する「宇宙人には、座布団をすすめるべきか」

  二次元怪獣ガヴァドンには「俺の眠りを邪魔しないでくれ」の讃

  あの宇宙人には「宇宙人の鋏も使いようか」

  ウルトラマンパワード版ジャミラには「お前はジャミラではない」と辛辣

  着ぐるみのぶら下がる旧円谷プロ怪獣倉庫を描いて「怪獣たちは何を夢見る…」

などなど。
手軽な文庫で発売されたことを喜ぶ一方、色紙なりに模写して掛け軸用に販売されたなら多少高額でも買ってしまいそうな自分がいる。

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