『世界奇想美術館 異端・怪作・贋作でめぐる裏の美術史』 エドワード・ブルック=ヒッチング、藤井留美 訳、田中久美子 日本語版監修 / 日経ナショナル ジオグラフィック
先般の記事で「Amazonでとある美術本を注文しようとしたら」と書いた、その美術本。
サイドテーブルに置いて、ときどきパラパラめくってグラビアをながめ、本文を読み、今日、最後のページまでたどり着いた。
帯の惹句には「唯一無二の怪作! 歴史に埋もれた珍作!」とあり、その内容が「心霊画」「賢者の石のつくり方」「妖精画『お伽の樵の入神の一撃』」「宙に浮く聖人」「火縄銃で武装する天使」「がらくたでつくった祭壇」「死者の戴冠」「無数の釘が打ち込まれた像」「犬頭の聖人」などであることがうたわれている。
とはいえモネやルノワールをありがたがる一派を除くと、およそ美術史というものは「怪作」「珍作」のオンパレードである(ここしばらく、入場者の列の最も長かった日本画家が伊藤若冲であり、テレビの特番で再三扱われる建築家がガウディであることからも明らかだろう)。
本書で取り上げられたものの中にも、ピエロ・デッラ・フランチェスカの肖像画、ボスの『快楽の園』、『一角獣のタペストリー』、アルチンボルドの野菜肖像画、フューズリーの『夢魔』、ゴヤの『黒い絵』、サージェントの『マダムXの肖像』、ダリの時計、フリーダ・カーロの痛み、などなどなど、すでに高名と言ってよいものが多数選ばれていて、そこは少し興ざめだ。
個人的には『隠れ名画の散歩道』で紹介された作品群のマイナーな佇まいに軍配を上げたい。いや、軍配を上げたからといって何を差し上げられるわけでもないが。
・・・さて、ここまでなら、わざわざ取り上げるまでもないのだが、本書『世界奇想美術館』で気になったのは、最後、「『エドモン・ド・ベラミの肖像』(2018年)と人工知能がつくりだす芸術」の項である。
ここでは人工知能(AI)が制作した美術作品が世界で初めて競売にかけられ、43万2500ドル(約4900万円)で落札されたこと、その「作者」は特定のアルゴリズムであること、などが紹介されている。
そして、著者は最後の数ブロックでこう述べる。
曰く、「テクノロジーは無限の可能性を秘めるが、それにくらべて現在の能力はあまりに低い。GANsに新しい仕事を教えようとすると、それまで学習したことをすっかり忘れる『破局的忘却』が起きる。だから『エドモン・ド・ベラミの肖像』をつくったGANsは、レパートリーを広げて風景や建物を描くことはできないのだ。」
曰く、「悲嘆、才能、狂気、ユーモア、憤怒、執着、情熱、そして感情や笑いの共有──コンピューターがどれほど発達しても、これらの要素が計算に入りこむ余地はないし、その可能性も排除されるだろう。最も美しく、最も醜悪な人間の姿を表現するのが芸術であり、それ未満のものをいくらカンバスに描いても価値はない。」
覚えておこう、本書の原書のCopyrightは2022年、日本語版の発行は2023年11月。
それからたかだか半年を経た現在、同じことが言えるかどうか。
「芸術」というものがあって、人がそれを描くのではない。
人が描いたものが「芸術」とみなされるのだ。
バベルの図書館につながった人工知能(AI)という絵筆の先が人類の集合知なるパレットに到達するのはそう無理な話ではない。
すでに、問題は、その絵筆が集合知の外をいかに描くか、なのである。
※現在のAIイラストツールでは、たとえば両手の5本指の組み合わせを描くのが不得手らしい。それは、AIが、手の指というものを、既存の2次元のイラストをサンプルにして描く(3次元の5本指として認識していない)ためである。これなどは、いずれ、人体の3次元モデルのデータ取り込みと配布が進み、それにさまざまなポーズをとらせたものを一点透視で描くというプログラムの開発が進み、さらにそれでできあがった手の指の画像が部品として共有されていけば解決するだろう。
※「悲嘆、才能、狂気、ユーモア、憤怒(以下略)」のそれぞれを典型的に、あるいは無表情の中にかすかに描写する、それは不可能だろうか? 否、否、それにしたって、、、











先日地上波で放送された『シン・ゴジラ』の中盤に、一般人の避難が完了していないため官邸が自衛隊によるゴジラ掃射を躊躇する、というシーンがあった。