カテゴリー「小説・詩・文芸評論」の212件の記事

2025/11/10

真夏(?)のホラー特集 その8 最終回 『死と乙女』

少し時間をおいてしまった。
もともとはどんなホラーより怖い、そう紹介したかったのが次の作品だ。

 Photo_20251110172501 『死と乙女』 アリエル・ドルフマン 作、飯島みどり 訳 / 岩波文庫

人のよい夫が連れ帰った客人、その男こそはかつて政治的名目のもとに彼女を拉致し、シューベルトを流しながら拷問を重ね、生涯において子供を産む機会を奪った、まさにその行為者だった。
いまや民主主義と法に守られる行為者の言い分は、そして彼女のなすことは。

過去の拷問に起因する密室劇の、問題は、これがたかが50年ばかり前の、チリ軍事クーデターにおける事実に基づいているということだ。
劇中の海辺の夜の一軒家は、現代の世界にその問いを開いている。

もしくは。
作中にさらりと語られる「エル・ファンタ」なる人物の名の由来の恐ろしさ。

2025/04/14

『族長の秋』 ガブリエル・ガルシア=マルケス、鼓 直 [訳] / 新潮文庫

Photo_20250414163701百年の孤独』新潮文庫版には訳者のあとがきに加えて筒井康隆の解説も載っていて(贅沢)、そこに

  ほんとうのことを言うと、実はおれのお気に入りは、マルケスが本書の八年後に書いた「族長の秋」なのである

とあったので、新潮文庫版が出るのを楽しみに待っていた。
(『族長の秋』は一度集英社からも文庫化されているが、その頃は(正しくは現在も)ラテンアメリカ文学を少し苦手にしていて、敬して遠ざけていたと認めるはこの烏丸、破れ傘刀舟悪人狩り、もといやぶさかではない)

ではどのように待っていたかというと、我ながら生真面目大魔王、いつ『族長の秋』が出てもよいよう『予告された殺人の記録』(新潮文庫)に『エレンディラ』(ちくま文庫)を読んでマルケスに目を慣らしておいた次第。ちなみに『ママ・グランデの葬儀』は40年ほど前に読んでいたので今回はパス。内容はよく覚えてないけど。

ただ、マルケスが「最高作」と呼んだという中篇『予告された殺人の記録』はおおよそマジックな詩情を感じられず、ラテ文学の面倒なところばかり悪目立ち、かたや短篇集『エレンディラ』のタイトルチューン「無垢なエレンディラと無常な祖母の信じがたい悲惨の物語」はなるほど魅力的ではあるが『百年の孤独』を読んでしまうとその一部を切り取ったような、つまり短篇として自立したものとして読むと食い足りない、そのように感じられた。

などなどの期待と混乱のもと開幕したEXPO 2025 大阪・関西万博、もとい『族長の秋』だが、、、
よくよく考えたら、筒井康隆はその書いた作品は好きだが書評家としては必ずしも馬が、いや、ここでは牛が合わないというか、そういえば筒井作品は1981年の『虚人たち』あたりから必然としてちょっと距離を置かざるを得なくなったものだが、この『虚人たち』は直接的にはル・クレジオの『巨人たち』へのオマージュだったにせよ、技法・作法以前に虚構をページに定着させるという意欲においてマルケスの影響もあったのかもしれない、根拠もない物言いではあるが。

『族長の秋』はラテンアメリカの架空の国の独裁者の人生を「現実的なものと幻想的なものを結合させて、ひとつの大陸の生と葛藤の実相を反映する、豊かな想像力の世界」(ノーベル賞受賞時の評価)として描き上げたものである。
それが期待より若干物足りなかったその理由は大きく二つあって、一点は『百年の孤独』はマコンドという村を舞台に一人でなく一族の愛と悲惨の記録を綿々と描いたこと。『族長』はいくら頑張っても一個人の人生に過ぎず、随所に不思議で奇抜で頓狂な魅力はあっても全体として圧倒されるかというとそこが少し寂しい。
もう一点は『族長』の人生をさまざまなアングル(六方向)から描いたにしても、結局外目に見た起承転結は同じ彼の生と死の六度の繰り返しになってしまい、やや意外性に欠けた、盛り上がりに欠けた、ということか。
もちろん、意外性ということでは一つひとつのイベント、人間関係の壮絶さは予想を上回るレベルで、世人のかなう水準ではない。
上記はあくまで『百年の孤独』と比べての、個人の感想である。

おまけ。
『族長の秋』新潮文庫版には池澤夏樹による解説が添えられているのだが、そこにはラテンアメリカの特殊性を伝えるために「マジックに見えるリアリズムの例を一つ挙げよう」として「コモドーロ・リバタビアの凄まじい南極風」がサーカスのテントを吹き飛ばして動物たちが海へ運ばれたという話が載っている。
・・・それをして「リアルとマジックの間の段差はまことに低い」というのは文学的なマジック・リアリズムの説明としてはちょっと違うのではないだろうか。そもそも赤道直下のコロンビア文学とアルゼンチン南部の南極風を十把一絡げに語られても。

2025/03/10

『偏愛蔵書室』 諏訪哲史 / 河出文庫

Photo_20250310184701 覚悟が違う。黒みが違う。
100冊。

そもそも名のりが「書評」ですらない。いわく、「文学批評」、「言語芸術論」である。
1冊め、ホフマンスタールの文庫にして20ページに満たない短篇「チャンドス卿の手紙」をして、

  思えば小説家としての僕の、あらゆる意味で啓示的な思考の核であり、霊的な源であり、言語的な宿痾ともいうべき病の胚胎、(後略)

  要するに言葉の使用(濫用)に倦み疲れた一人の作家が、言語に致命的な疑義を抱き、ついにすべての言語活動を放擲するに至った理由、その真摯な弁明であり(中略)、切実すぎる言語的懊悩、その内的独白である。

と紹介する、たかが3ページに赤錆びた周航船一艘の重みである。

そしてその重みが容積に勝る場合があることが2冊めの梶井基次郎『檸檬』で語られる。
著者にとっての古今東西もっとも優れた文学、プルーストの『失われた時を求めて』に拮抗しうる作品として、著者はこの「檸檬」をあげる。
等々、ページをめくるにリルケ、ボルヘス、島尾敏雄、ピアス、ジュネ、シュルツ、中井英夫・・・

著者は「小説は、物語と詩(詩性)と批評からなる」という定義を繰り返し、その刃であらゆる作品を野に街に刻んでいく。
広く読みまくるということではかの「狐の書評」があるが、あらゆる書物に柔軟に身を任せる狐に比べ、諏訪哲史は自ら許す文体以外を許さず、それ以外を取り上げるおのれを許さない。

圧巻は「もっと無名の隠れた文学をこそ紹介してほしい」との読者からの要望に応えたソログープの「かくれんぼ」から秋山正美『葬儀のあとの寝室』までの24冊で、岩波文庫で手に入るソログープなどはともかく、大半は古書サイトでもヒットしないか、ヒットしても何万円もする稀覯書の類で、これはもはやただ羨ましく涎たらしてページを繰るしかない。真の意地悪とはこのことをいう。

読み手が、「ああ、この作品を読んでみたい、いや、これも。また、これも」とAmazonや「日本の古本屋」にカーソルを運んでも得られない読書体験。
なんという豪奢にして残酷な本だろう。

(暗転)

ただ、鬱蒼、精緻な言語芸術論を心掛ける1冊だけに、読み手側の欲も深い。呵々。

コミックを取り上げるに林静一『赤色エレジー』、日野日出志『赤い蛇』、徳南晴一郎『怪談 人間時計』、丸尾末広『薔薇色ノ怪物』・・・この嗜好はどうだろう、青林堂界隈とでもいうか、ぶっちゃけちゃぶ台類型的、ステレオタイプで、この著者ならもっと意外なコミック作品に「文体」を読み込み、その意味、意図を明らかにしてほしかったように思う。

Wikipediaによれば

  谷川渥は『偏愛蔵書室』について、「批評家」諏訪哲史の面目躍如、と評した(図書新聞2015年1月10日付)

とのことだが、「言語芸術論」ではあっても「批評」としては若干疑問が残る。
意図的ではあったのかもしれないが、実は取り上げられた100作家、100作品について、著者は限界、問題点を指摘することがない。基本的にこれこれの意味で稀有な作品だとほめちぎってオシマイ、なのである。
著者の「言語芸術」の理想は、おおよそ象徴主義から意識の流れ、その界隈にあるようだが、この作家をほめておいて、一方同じ1冊の中でこの作品もほめる、それはどうなのだろう、と気になるところもある。ヴァージニア・ウルフはじめ、いかにも出てきそうな女流作家が含まれていないのも気になる。

同じことは、著者の名のりにも感じる。
「諏訪哲史」というのが本名かペンネームかは不勉強にして存じ上げないが、この読書傾向であるなら、違う名を名のるべきではなかったろうか。三島由紀夫、江戸川乱歩、澁澤龍彦、種村季弘。あざらかな外連味、あざとさ、ペダンティック、腐臭、アクロバティック。哲学を学んだから「哲史」では著者の求める「文体論」のハードルに至っていないのではないか。

同じ呑気さは著書名にも表れている。倉橋由美子のかの名著『偏愛文学館』の名をもじって継ぐなら、100冊の中に倉橋を取り上げるべきだった。いかにもそれが似合いの作家だけに。

2025/02/26

いまさらですが・・・『サラダ記念日』 俵万智 / 河出文庫

Photo_20250225194101 先日『(読んだふりしたけど)ぶっちゃけよく分からん、あの名作小説を面白く読む方法』を取り上げた際は、当方の勢いというかノリだけで書いてしまって、その結果、紹介された個々の小説の書評について細かくは触れられなかった。

たとえば川端康成の『雪国』については、「書くこと」「書かないこと」の選別がいかに繊細かつ厳しくなされているかを具体例をもとに詳細に取り上げており、久々に『雪国』や『古都』を読み返してみたくなったりしたし、L・M・オルコットの『若草物語』は小学生のころにジュブナイルとして読んだだけだったため主人公にあたるジョーが幼馴染のローリーと結婚しない展開にこめられた作者の意図、という指摘も目ウロコだった。

もちろん、逆に、三宅香帆による紹介、解説をもってしても「読みたい」「読み返したい」と思えなかった作品もあり、それはそれでしかたないだろう。

一つ、読んでいてつんのめったこと。

俵万智の『サラダ記念日』についてである。
三宅はこの短歌集を取り上げ、「短歌は意味を解凍しつつ、そのうえで字や音が『だからそういうことばを使う必然性があるのか!』と理解することができる」ものとして「短歌というものを楽しむとき、ほとんど小説と同じ楽しみ方」をしようと主張する。

・・・ここまでに、異論はない。
ところが、そこで引用された俵万智の短歌が、次のようなものだった。

  やみくもに我を愛する人もいて似ても似つかぬ我を愛する

この歌について著者(三宅)は歌人穂村弘の「解凍」という言葉を用い、途中経過は略すが、「彼は我のことをやみくもに愛してくれるけど、一方で、彼が愛している我は『似ても似つかぬ』我である」と解釈する。

愕然とした

引用されたこの歌をすらっと読んだその瞬間の烏丸の解釈はまったく別なもので、それは「やみくもに自分自身を愛する人もいて、その人は似ても似つかぬ自分自身を愛する」といったものだったからだ。「我」の意味の読み違いである。
つまり、著者(三宅)の解釈では「我」は愛される女(しいていえばフィクションを含む歌人本人)であり、烏丸の解釈では「我」は世界のどこかにいる自分自身を愛する男女を問わぬ誰か、だったのである。

なぜ、このような解釈の違いが起こったのか。
ずっと以前にさらっと目を通してそれきり離れていた『サラダ記念日』をめくってみた。
この歌集の中では、歌の中の自分(歌人)は「我」であったり「吾」であったり「私」であったりで特に決まりはない。相手の男性は「君」が多く、ほかに「あなた」や「男」と表記される。
そして、この1冊の歌集の中では、(フィクションであるか否かはともかく)ほとんどすべての歌において、歌人本人は女性、相手は男性、その男女は一般的などこかの誰かと誰かではなく、「我」と「君」なのである。私小説的というか、極私的というか。ともかくグローバルではないのである。
海に石を投げる「青年」はたまたまそこにいた青年ではなくて一緒に海にでかけた「君」であり、ナイターを見に行った歌人が見ているのはグラウンドではなく「君」の「横顔」なのである。

ちなみに先の「やみくもに~」の解釈は、歌集のほかのページに

  我だけを想う男のつまらなさ知りつつ君にそれを望めり

とあることからも「我」=「歌人」の解釈が正しいのだろう。そしてそのような状況をストレートに歌う短歌のあり方こそが『サラダ記念日』が当時の世間を騒がせた原因であり、ベストセラーとなった理由だったのだろう。

そのことの是非をどうこう言ってもしょうがない。ただ、だとしたら、少し、つまらないことだと思う。あまりに、社会が狭い。世界が狭い。
短歌、俳句はいずれも苦手な烏丸だが、しいて読みたい、書きたいと思う方面はどうやら『サラダ記念日』界隈ではなさそうだ。

2025/02/25

『(読んだふりしたけど)ぶっちゃけよく分からん、あの名作小説を面白く読む方法』 三宅香帆 / 角川文庫

Photo_20250225182301 書評ブログなどやっていると他の書評サイトはもちろん、Amazonのカスタマーレビュー、新聞・雑誌の書評欄、書籍にまとめられた書評集などなど、いずれもありがたい情報源であり先生、先輩であり、ともに歩む同士でもある。人によって主義主張、趣味嗜好が異なるのはハナから当たり前で、それも含めていつも大切な参考資料とさせていただいている。

(読んだふりしたけど)ぶっちゃけよく分からん、あの名作小説を面白く読む方法』は・・・すごいタイトルだが、あまりこのタイトルにこだわる必要はなさそうだ。

実際、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を筆頭にフィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』、夏目漱石『吾輩は猫である』、カミュ『ペスト』、三島由紀夫『金閣寺』・・・と続くラインナップはなるほど「(読んだふりしたけど)ぶっちゃけよく分からん、あの名作小説」であり、それらを怖じずに読むにはどうすればよいか、どう読めばよいか、という著者の切り口はわからないでもない。

さらに、たとえば『カラマーゾフ』については「あらすじを調べて読む」、『グレート・ギャツビー』なら「大きい本屋か図書館に行き翻訳の1ページ目を読み比べ、いちばん読みやすい翻訳で読もう」等、具体的なお作法も大きな文字で教えてくれて、それを手助けに読み進められる読者も少なくないだろう(ただし『ペスト』の「小説には作者の思想が隠されていると思って読む」「メタファーに潜む思想を味わう」というアドバイスには、かえって腰が引けそうな気がしなくもないが・・・)。

そしてそうこうするうちに終盤、綿矢りさ「亜美ちゃんは美人」(『かわいそうだね?』所収)、カフカ「お父さんは心配なんだよ」、村上春樹「眠り」(『TVピープル』所収)、あたりとなると・・・あれれ? 1冊の本としての目的がなんだかよくわからなくなる。

そのあたりは著者も隠す気もないようで、あとがきで「『小説って面白いんだよ! ほらー!!』と好きな小説について語りたいだけ語る本でありました」とネタばらし。
・・・そんなこんなも(烏丸にしては珍しく)穏やかな目で許してしまうのは表紙の可愛らしいイラストがなんだか遠い昔の誰だったかを思い出させるから、ではない。ないんだからね!

2024/10/10

『寝煙草の危険』 マリアーナ・エンリケス、宮﨑真紀=訳 / 国書刊行会

Photo_20241010172401 あちらこちらに高評価あり、取り寄せて読んでみた。
なるほど、素晴らしい本だ。

まず、装丁がいい。国書刊行会、いい仕事をするなあ。
今どき贅沢なきっちりした紙函に雲形の窓、そこから表紙絵の一部が覗く。
取り出すと、こげ茶の地に銀箔の蛾。
その表紙が布ではない何かぬるぬるした素材で被われていて、昔どこかで読んだ死人の皮膚でこしらえた稀覯本の話など思い起こす。

もう、ここまでで、並々ならぬ時間の始まりが宣言されたようなものだ。

作者マリアーナ・エンリケスは1973年ブエノスアイレス生まれの作家・ジャーナリスト。本書の英訳はブッカー賞最終候補に選出され、カズオ・イシグロにも絶賛された、とのこと・・・。

ただ、「ゴシカルな超自然的モチーフを用いて、現実の恐怖や不安を鮮烈に生々しくあぶりだす作風から、<アルゼンチンのホラー・プリンセス><文学界のロック・スター>と称され」という評価にはほんの少し首を傾げたくなるところがある。
というのは、一冊を通して読んで、得られた印象はおよそ「ホラー」ではなかったからだ。

収録された12作の多くに、「幽霊」「呪術」といった素材が登場する、そのことは間違いない。
しかし、表題作「寝煙草の危険」をはじめ、いくつかの作品においては、(文体が一人称であれ三人称であれ)そこで描かれる「奇」「怪」「異」「妖」「淫」の大半は主人公の側にある。ホラー映画によくある「無垢な主人公が怪異に恐れおののく」、そんな単純な構図ではないのだ。

要は、ここに並んでいる短篇群は、「ホラー」であるよりも、格段に「文学」なのだ。
不気味な話、奇怪な話の中で、読み手が感じるのは「恐怖」ではない。その状況に対峙してぎりぎりまで逃げもせず状況を見つめる主人公、いや、その状況を自ら引き起こし、身中のその種を身悶えせんばかりに慈しむ主人公。
この立ち位置は実はそもそもの「文学」のあり方だったに違いない。

巻末近く、作品中で比較的長い(といっても70ページにも満たない)「戻ってくる子どもたち」は12作品中では珍しく主人公の女性に特異な要素が少なく、怪奇そのものは彼女が対峙する「外」にあって、つまり従来の「ホラー」に構造が近い。それゆえ、他の作品に比べてもその怪異や事象が「怖い」印象が強いのだが、それでも円グラフで色分けするならこの作品も主旋律は「恐怖」ではない、そんな気がする。
何かもっと荒々しく主人公を突き動かすもの、おそらく作者マリアーナ・エンリケスの底で暗くぐつぐつと煮えたぎっているもの、それが闇の向こうにほの赤く見えるように思われるのである。

その簡単には説明のつかない何かに突き動かされること、それが本書を読むことに違いない。
悲鳴など甘々しい。声が出る間は読んだうちに入らない。

2024/09/26

なるほどこれは 『夏のカレー 現代の短篇小説 ベストコレクション2024』 日本文藝家協会・編 / 文春文庫

Photo_20240926183501 毎年楽しみに待っている文庫版『現代の短篇小説 ベストコレクション』の新刊。

2001年の刊行から版元を変え(徳間文庫→小学館文庫→文春文庫)、選者を変え、タイトルを変え、分厚くなったり薄くなったり、それでもその年その年の優れた作品を一望に提供していただけるのはありがたいことだ。

今回の収録作は以下のとおり。ベテランあり、若手あり。

 江國香織「下北沢の昼下り」
 三浦しをん「夢見る家族」
 乙一「AI Detective 探偵をインストールしました」
 澤西祐典「貝殻人間」
 山田詠美「ジョン&ジェーン」
 小川 哲「猪田って誰?」
 中島京子「シスターフッドと鼠坂」
 荻原 浩「ああ美しき忖度の村」
 原田ひ香「夏のカレー」
 宮島未奈「ガラケーレクイエム」
 武石勝義「煙景の彼方」

全体の特徴は選者の千街晶之氏も「解説」に書いてあるとおり、

  このアンソロジーの編纂委員として、一年間に発表される短篇小説の殆どに目を通しているけれども、大部分は身近な領域の物語である(本書はテーマ別のアンソロジーではないのだが、結果的に収録作は、家族のありようや、元同級生との関係を描いたものが多くなった)。

ということである。反戦抜き、四畳半ばかりのフォークジャンボリー・・・いや、昭和人にしか通じない通じない。
もとい、話を続けます。
大所高所から社会や世界を語る、といったスタイルの作品は影をひそめ、登場人物が大きな悲劇に巻き込まれる展開であっても極力さりげなさ、軽妙さが心掛けられているように思われる。
流行りなのか、編集者の指示なのか、そのあたりはよくわからないが、こうして年間ベストのかたちで列挙されるなら、一つや二つは重いネタに無理に挑戦した作品を読みたいようにも思う・・・。

もう一つの特徴は「デジャヴ」感とでもいおうか。
どこかで読んだようなテーマ、どこかで読んだような展開。
実際、たとえば澤西祐典の「貝殻人間」はジャック・フィニイの『盗まれた街』をはじめSFやホラーで繰り返し取り上げられてきた素材だし、原田ひ香「夏のカレー」のオチ(?)もショートショートを心掛けた者なら誰しも思いつくものの一つだろう。

ただ、「貝殻人間」も「夏のカレー」(これは本当に素晴らしい。題名を「冴子」から変えたらしいが、それもよかった)も、あるいはほかのいくつかの作品も、その「デジャヴ」感を上回る儚さ、哀愁、読み応えに満ち、こういった「素材」はすでにフリーな金型であって、作家はそのうえで技を競う時代になったのかもしれない。

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以下は、文芸作品の批評とはちょっと異なる話。

乙一「AI Detective 探偵をインストールしました」について。

乙一は好きな作家なのだが、今回は作品そのものではなく、作品内のAIシステムそのものが気になった。
本作では、ユーザーが探偵AIを利用するのに、個人のコンピュータにシステムをダウンロード、インストールしてそれを利用するという案配になっているのである(「あなたのマシンは、何世代も前のものだ。思考が重たい。適度に空白の時間を作って熱暴走を回避しましょう」など)。
これは現在の個人向けコンピュータの貧弱なメモリ、ハードディスク環境でははなはだ非現実的で、本作で描かれているような高度な解析ルーチン、推理ルーチンを運用するなら高速ネットの先のサーバーにシステムやデータが構築され、ユーザーは手元のコンピュータを端末としてやり取りするのが自然、というか、そうでなければ不可能だろう。
本作ではユーザーと探偵AIのやり取り(ログ)を最終的に消す、という流れになっているが、それも個人向けコンピュータの中でプログラムが動作するという設定の上での話だ。実際は、探偵AIとのやり取りは(iPhoneのSiriのように)すべてネットの先のサーバーにデータ化され、それによって解析、推理がなされると考えるのが妥当だろう。

そもそも本作における探偵AIは、現実の事件を推理するためのシステムなのか、それとも単に「推理ゲーム」として提供されたものなのか、そこが作品世界内で明らかでない。
ユーザーの持つ少しばかりの人物写真や目撃者証言をもとに犯人が特定できるようなら、とっくに警察や裁判所が導入しているに違いない。
逆に、警察のもつ詳細なデータ抜きにこのような推理がまかり通るなら(そしてそれをゲームとしてでなく、実事件に利用するなら)、それはたいへん危険な冤罪作成マシーンになってしまうおそれもある。

何の話かというと、小説であれつぶやきであれ、コンピュータやネットワークを利用したシステムについて語る場合は、でき得る限りそのシステムについて考証し、つじつまの合わない部分を減らすといいのだが、ということである。
それを言い出すと、「貝殻人間」なんてあり得るのか、「煙景の彼方」だってファンタジーじゃないかということになるわけだが、それは誰しも「普通、あり得ない」「あったらいいな、でも、ない」と理解できる領域だからそれほど問題にはならない。

コンピュータを使ったシステムというのは、なかなかに煩雑なことができる。だが、その一方、それなりにシステムの構造、要件、ネットワークのセキュリティなど、ある程度考えたうえで語らないと世の中に誤解が広がっていく。そのあげく、「ポチっとボタンを押せば確定申告が終わるのがゴール」なんて悪い夢物語を口にする人が出てきてしまう。それをゴールにするなら、細密にして明確な要件定義から始めなければならない。
システムの構築については(各自がそれに直接かかわらないとしても)ある程度の教養は必要ではないかと思う。でないと、うっかりすればあれみたいになってしまい、銀行や会社、へたをすれば国が傾く可能性だってある。

2024/08/29

『静かな生活』 デュラス、白井浩司 訳 / 講談社文庫

Photo_20240829181901 この文庫本を(神保町の老舗古書店などでなく)駅近のブックオフで見つけたときはいろいろな意味で驚いた。

ブックオフは古い本、汚れた本は稀覯本かどうかは問わず引き取らなかったり110円で売ったりすることが少なくないのだが、それにしてもこれはカバーがカラーのコーティングされたものになるより前の古色ゆかしきオレンジカバーの講談社文庫。
イタリアの印刷工が考案したボドニフォントをあしらったデザインも懐かしい。

もう一つの驚きは、マルグリット・デュラスの文庫は『モデラート・カンタービレ』『破壊しに、と彼女は言う』『愛人 ラマン』などヒット作をかかえた河出文庫が圧倒的多数派で、あとはハヤカワ文庫(『ジブラルタルの水夫』)、集英社文庫(『タルキニアの小馬』『ラホールの副領事』ほか)、ちくま文庫(『ヒロシマ、私の恋人』『かくも長き不在』)などからぽつぽつ、というのが長年にわたっての認識で、講談社文庫から出ていた覚えがまったくなかった。

要するに、当方不勉強にして『静かな生活』という作品についてカケラも存じ上げなかった、ということである。

しばらく書棚に寝かせてから先般読み終えたのだが、そこでさらに驚くことになった。
奥付を見ると昭和46年7月1日の発行。つまりこれは講談社が、当時岩波文庫、新潮文庫、角川文庫に占められていた文庫市場に打って出るべく1971年7月1日に一気に55点創刊した講談社文庫、その中の1冊だったのである。

そうなると、また別の驚きが湧いてくる。

講談社文庫の創刊時の55点のラインナップを調べてみるとそのうち「海外文学」は15冊。その内わけはシェイクスピア、エミリー・ブロンテ、ポオ、ヘミングウェイ、ゲーテ、トーマス・マン、カフカ、モーパッサン、ドストエフスキイ、イプセンら堂々たる顔ぶれで、古典中の古典を広く安価に提供するという当時の文庫の主旨に即したものだったのだろうと感じられる。

その中で、デュラス一人は、フランス文学、フランス映画に詳しい者ならいざ知らず、少なくともラインナップの他の作家陣に比べれば、まだ知名度の低い若手現役作家だったはず。
その意味で、『静かな生活』を創刊時の1冊としたことは、講談社の英断だったろう。
その1冊が、おそらくさほど増刷もされず、のちのデュラスに対する書評にもさほど残っていないのは、残念なことだ。

──さて、肝心の小説の内容だが、南西フランスの田舎を舞台に、主人公の若い女の周辺に偶発的、ないし恣意的な死が立て続き、登場人物各人の生活と不条理が渇いた文体で綴られる。その渇いた熱っぽさや何かが起こりそうな緊張感は、しいていえばのちの『夏の夜の10時半』に近いか。
ただ、後期のデュラスに比べれば文章はよほど説明的で、流れも読みやすく、主人公の不安や行動も絵柄として普通に理解しやすい。
サルトルでおなじみ白井浩司氏の訳文は各センテンスが短く、板に書かれた文字を叩いて歩くような明晰な読み応え。

そういうわけで、デュラスを読み始めるなら『モデラート・カンタービレ』や『愛人 ラマン』などよりよほどお奨めだ。
とはいえ、こんな入手しづらそうな本を奨められてもって言われるだろうし、そもそもこんなブログを参考にする人なんてさ。
いやいや。「いちばんいけないのはじぶんなんかだめだと思いこむことだよ」(野比のび太)
        ↑ ドラえもんが言うならともかく、のび太の口から出た言葉とは!

2024/08/12

『百年の孤独』 ガブリエル・ガルシア=マルケス、鼓 直 [訳] / 新潮文庫

Photo_20240815153101 これもまあ、見栄の読書のひとつ。

かつてマルケスがノーベル賞受賞したりでラテンアメリカ文学が知的文化人御用達のブームになっていたころ、とくに理由なく敬してご遠慮申し上げていたような記憶がある。
まあ、せっかく文庫にしていただいたことでもあるし、ここは教養としてありがたく拝読させていただくことにした。

鼓直の「訳者あとがき」には

「ある意味では古めかしい体裁の作品」
「もっとも伝統的な、古典的な小説の手法」
「物語の原型的なものこそあれ、少なくとも表面的には、作者の前衛的な手法への関心をうかがわせるものはない」
「もっとも伝統的な小説形式」

とそれはもうくどいほどに繰り返し主張されていて、ではその「伝統的な小説形式」ってなんなの、というと、それはよくわからない。
ともかくこの『百年の孤独』、文庫にして600ページあまりが「起承転結」ないし「序・破・急」ならぬ

「起、承承承承・・・(中略)・・・承承承承、承、承、結」

な展開で、しかもその一つひとつの「承」が八方破れ。架空の村マコンドを舞台に、ブエンディア家の祖から子孫まで、癖は強いは当たりは激しいは、死んだ者が幽霊として普通に登場したり、絶世の美少女が文字通り天に昇ったり、自殺した息子の血が通りを隔てた母親の部屋までついついっと流れてきたり、暴動を起こして誅された3000人がまるきりなかったことにされたり(て・・・)、4年以上雨が降り続いて家中が苔、蛭だらけになったり、等々、「どこまで本気?」な描写が100年分これでもかこれでもかと繰り広げられるのである。

どう読めばいいのか(どう解釈すればよいのか)ということになると、これもまた、よくわからない。

そもそもブエンディア家の人々は、それぞれ悲惨、苛烈な人生を歩むが、タイトルの「孤独」という言葉はなんとなくそぐわない気もする。
戦国時代の武将が、攻めたり攻められたり、夢を掴みかけたり脆くも敗れたり、裏切ったり裏切られたり、そのあげく途中で一族滅亡したとしても、普通、彼らの生涯を「孤独」とは言わないだろう。ブエンディア家の人々も、引きこもるにしてもほぼバケモノに等しいし、外に出て大衆巻き込んでバイタリティを暴発させる輩もいる。これを「孤独」というなら「孤独」に立つ瀬がない。

いずれにしても、よくわからないながら面白かった。面白かったが時間と体力は弄した。

この調子で解説で(筒井康隆が解説に「実はお気に入り」と持ち上げている)『族長の秋』もいつかそのうち読んでしまうかもしれない。
それもまた見栄の読書かもしれないが、見栄の中ではわりあい堂々立派な見栄である。

2024/07/31

書評はちょっぴり 『モモ』 ミヒャエル・エンデ 作、大島かおり 訳 / 岩波少年文庫

Momo 本を読む、の前。そもそも、その本を選ぶ、手に取るとはどういうことか。

たとえば、中井英夫の『虚無への供物』を読んだ頃は、その1冊との出会いがその前後数年間で最高の読書であるように感じたものだ。だが、それまで中井英夫の名も著作も知らなかった己がいかにして『虚無への供物』にたどり着いたのか、如何せんまったく記憶がない。当時、さまざまな本や作家を教えてくれた先輩、仲間たちの、誰か? いや、逆だ。珈琲店で彼らに『虚無への供物』は必読と力説する自身の前のめりな姿が古い記憶層に張り付いている。

流れというものがある。
誰かのとある文庫新刊をひょいと読む。とても面白い。解説を読むと、それと同じ志のもとに書かれた本のタイトルが書かれている。それも読んでみる。やー、こちらもなかなかいい。解説を読むと、似て非なる、だが優れた作品として別の作家のとある作品が紹介されている。それもまた読んでみる。やややっ、これもまた・・・。

教養とか見栄とかいったものに手をひいてもらうこともある。必ずしも悪いことではない。
「趣味は読書」などと言いながら『吾輩は猫である』も『失われた時を求めて』も『源氏物語』も読んでいないのは、かなり恥ずかしい。逆に、ドストエフスキーは高校時代に全集まるごと読んだ、人文書院の『アンドレ・ブルトン集成』も出ている分は大学生の頃に全部読んだ、などというのは、自身の読書体験として精神を殴打したり、潤したりするのとは別のところでちょっと虚栄心にACアダプターをつなぐようなところがある。人としていかがなものか、とも思うがこういうのもないとファイトが出ない。

『失われた時を求めて』を読んでいないのはその長さだけでなく、小耳にする内容が少なくとも今までの自分に必要と思えた機会がなかったため。
そのうち読みたくなる日がくるかもしれない。若いころにはまったく目にとまらなかった池波正太郎を、四十を越えたあたりから水を飲むように読んだ、そういうことだってある。生涯縁がないだろうと思っていた『魔の山』や『高慢と偏見』を読めたのは倉橋由美子の書評のおかげだ。感謝してもしきれない。

周囲から寄ってたかって薦められて、それでなおなかなか読む気になれなかった本もある。
ミヒャエル・エンデの『モモ』などもその1冊だ。

SF作家・評論家の石川喬司Wikipediaのページには、「1979年には東京大学にて『文学と時間』と題する講義をおこない、日本の大学における最初のSF講座として話題を呼んだ」とある。このときの教材の1つに『モモ』を検討しているという話を、当時、当人から直接聞いた。読んだ? の問いに「いえ」と答えてしまってそれで話題がしあさってのほうに流れてしまった。彼はどんな講義をするつもりだったのだろう。今となってはその日、その話の続きを聞けなくて惜しいことをしたと思う。
その後、舞台化された『モモ』をテレビで(さわりだけ)見たり、さまざまなところで『モモ』を読むべしという圧力はあったのだけれど、なぜだろう、なかなか読むきっかけを得なかった。

今回読んだのも、別に体が欲したからではない。
還暦どころか古希も近づいて、教養の欠損を埋めたい(誰の目を気にして?)、世界的名作のあれこれを読んでないと答えたくない(誰に?)、そういった見栄の要素のほうが圧倒的に大きい。
単行本もどこかにあったはずだが見当たらないので岩波少年文庫を入手、してからでももう5年は放置したか。

そして、毎晩の風呂で読み進め、ようやく読み終えたわけだが。

世界的に評価が高い、という事前の印象からすると、なんというか腰砕けだった。
「小学5・6年生以上」とか、児童文学である、とか、そういうこと抜きに、あまりにストレートに寓意的というか、はっきりいって勧善懲悪、時間どろぼうという敵もあまりに黒単色。
あまりはっきり書きたくないのでわざとわかりにくい例にたとえるなら、「神秘」や「原子心母」や「エコーズ」のイマジネイティブな演奏音に原初からの人間存在は──とかなにやらそういった幽玄なところに思いを馳せていたピンク・フロイドファンがのちの「マネー」や「ドッグ」「ピッグ」の直接的な営利主義批判、労働者を搾取する資本家批判になんだこの段ボールのような薄っぺらさはとがっかりしてしまうような。余計話がややこしくなった。戻ります。

『モモ』においては、時間どろぼうに侵食された世界は忙しさに汲々としながら合理性と金儲けに走っていく。
気のおけない友だちとの呑気な歌や演劇は善、それが売れて忙しくなるのはダメ、というのが作者の主張である。
「お金儲け」を優先するのは悪、という固定観念に凝り固まった経済観。平等を求めて原始共産主義に陥るような安直さ。
スケジュールと金にまみれたビートルズ、手塚治虫、あるいはシリコンバレーは、時間どろぼうの被害者、あるいは悪の巣窟だったのか。そんなわけなかろ。

ネタバレになるかもしれないが(表紙に描かれているのでいいのかな)、モモを案内するのがカメであり、その案内先が時計の園であることなど、エンデは『モモ』を描く前に浦島太郎の逸話を知っていたのだろうか。
となると、MOMOという主人公の名前も「桃源郷」からきているのか、などとも思う・・・。いや、まてまてチップス。浦島太郎を知っているなら桃太郎だって知っていておかしくない。つまり『モモ』は亀に助けられての鬼退治の物語なのだ。

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