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カテゴリー「小説・詩・文芸評論」の136件の記事

2017/06/05

僕のなにが罪深いというのだ 『赤い橋の殺人』 バルバラ、亀谷乃里 訳 / 光文社古典新訳文庫

Photo面白い。ある意味、珍本である。

本書『赤い橋の殺人』はフランス本国でも100年以上にわたってほぼ忘れられた作品だったが、訳者亀谷乃里氏が作者シャルル・バルバラ(1817-1866)の生涯、作品を研究対象とし、その論文がバルバラ再評価、各国での出版のきっかけとなったという。

●『罪と罰』の水源?

近代的な意味での推理小説の歴史は、大雑把に俯瞰すれば、E.A.ポーに始まり、ドイルが広め、その後クリスティなどによる黄金時代を迎えた、ということになっている。
しかし、ポーとドイルの間、詩人としてのポーの評価がボードレールをはじめとするフランスの象徴詩人に影響を及ぼし、またエミール・ガボリオ(1832-1873)によって世界初の長編探偵小説『ルルージュ事件』(1866年)が書かれた、といったフランスでの勃興が実は重要だ。

ところが、「探偵」「推理」といった要素には欠けるものの、一貫してある殺人事件の真相が主題となる『赤い橋の殺人』は1855年の発表で、だとするなら『ルルージュ事件』より10年以上早い。しかも本作にはバルバラと親交のあったボードレールも登場しており、これがポーの影響下に書かれたことはほぼ間違いない。

また一方、無神論を唱える登場人物がその思想ゆえに殺人を犯し、のちに追い詰められていくというストーリーが『罪と罰』(1868年)に影響を及ぼしたのではないか──という訳者の主張も興味深い。ドストエフスキーが本作を読んだ確たる証拠は得られていないようだが、類似点も多く、十分あり得ると思わせるに足る。

●訳者の自分語りが・・・

バルバラを再評価した訳者の功績は確かに大きかったようだが、それについて訳者の自画自賛がいささかくどい。

  私の博士論文二巻が、フランス国立図書館とニース大学図書館に収められて公開されると、数年後にはフランスでは『赤い橋の殺人』の復刻版が幾種類も出始め、今では中学、高校の教科書として単行本にもなり、フランス人の古典の一冊となりつつある。

という大筋はともかく、

  気が付いたら博士論文の版元の近くにある出版社が、(私の論文を要約したものを無断、無記名で序文に付して)異なったバージョンを出版していた。

  次第に、私の業績を明らかにするコメントや註を時にウェブ上で見かけるようにもなった。

  文献リストとも併せて、そのウィキペディアの基本情報が私の研究に拠っていることがわかる。

等々、「訳者まえがき」「解説」「訳者あとがき」三段構えの業績自慢が正直、くどい。くどいというか、あの『罪と罰』の先駆けとなった(と思われる)『赤い橋の殺人』凄い、自動記述の描写が出てくるのはシュルレアリスムの先取りで凄い、作中の赤い橋の工法が当時まだ実現していなかったのはSF的で凄い、そんなバルバラを発掘した自分凄い、みたいなことになっているのである。

確かにポジション的には興味深い作品だとは思うが、

  その科学的で幻想的な作品には音楽的情感や感動が息づいている。彼は科学性と論理性によって探偵小説の、そして科学性と幻想性によってサイエンス・フィクションの先駆としてフランス文学史に新しい一ページを開いた。

とまで言われてしまうと「それほどまでの作品か?」と思わず眉につばをつけてしまう。否、むしろさまざまな要素(とくに生まれてきた子供に関する怪奇幻想味)が無闇に加えられたことによって「悪徳と神、殺人と良心に関する形而上学的問題」がぼやけてしまっているようにも思える。

Photo_2あるいは、2006年のバカロレア(大学入学資格試験)の問題にアルフォンス・ドーデの短篇「黄金の脳味噌をもった男の物語」が用いられたことをネット検索で知った訳者は「バルバラを主人公にした」この短篇によって「若い柔軟な頭脳にシャルル・バルバラの名前が刻まれた」と讃嘆する。しかし『風車小屋便り』所収の「黄金の脳味噌をもった男の物語」はそもそも「アルルの女」や「星」に並ぶ著名作であり、バカロレアに出題されたところでなんら不思議はない。以前当ブログでも取り上げた昭和42年(1967年)発行の旺文社文庫版『風車小屋だより』にも注釈としてシャルル・バルバラの名が紹介されている(添付画像)。また、前後を読んだ限り、この短篇はバルバラを主人公として描かれたものではなさそうだ。

などなど、決して訳者の功績を否定したくはないが、バルバラという作家、ないしそれを発掘した研究者として自身を紹介するプレゼンテーションとして、その我田引水気味なやり方には少しばかり不興を感じざるを得ない。

そもそも、バルバラの再評価については、必ずしも訳者一人の手柄ではない。
もともと埋もれた作家に着目し独自に論文で取り上げたのは訳者の指導教官だったリュフ教授であり、バルバラを読むこと、研究し論文にまとめることを訳者に再三推したのもその指導教官であったらしい。それでその指導教官のフルネームさえ書いていないのは、いかがなものか。

●作品そのもの

似ているがゆえに違いが際立つ、ということがある。

『罪と罰』と『赤い橋の殺人』は顛末こそ似ているが、前者の怒涛の説得力をおよそ後者はもちあわせていない。
その理由はわりあい簡単で、『罪と罰』におけるラスコーリニコフ、その母や妹、ソーニャ、ポルフィーリー、さらにはスヴィドリガイロフらの発する言葉、行動、表情が示すリアリティを、『赤い橋の殺人』のクレマンやロザリ、マックスはもっていないからである。いちいちの引用は避けるが、脇役にいたるまで、一人ひとりの性格、個性、苦悩が具体性に乏しい直裁な言葉による「説明」として書かれているため、芝居のト書きのような印象が強いのだ。
(また、『赤い橋の殺人』には実際の殺人の場面は描かれていない。その場面から書き起こしたドストエフスキーの慧眼はなんというかやはりハンパではない。)

とはいえ、「バルバラは反抗の哲学、自由意志の思潮に関して、確かに過去から現代に変わるターニング・ポイントであり、そこからのドストエフスキーを経て、ニーチェ、アンドレ・マルロー、カミュ、サルトルへと続いて現代の我々に至る」などという解説の大風呂敷さえ気にしなければ、作品自体は中篇ながら精緻なアーキテクチャによって構築されたスグレモノである。
西洋文学を読む豊かな楽しみの素材の一つであることは確約したい。

2017/02/11

雑感 『短篇ベストコレクション 現代の小説2016』 日本文藝家協会 編 / 徳間文庫

Photo16作品収録。

朝倉かすみ「さようなら、妻」
早めにオチが見えてしまった分、落差が今ひとつ。
大沢在昌「分かれ道」
新宿鮫、まだこんな仕事してるのか。
荻原 浩「成人式」
体操の鉄棒にたとえるなら、決して超人的、軽やかな演技ではなく、要所要所ではらはらさせながら、最後の着地がなんとか決まり、気がつけば観客の目に涙。傑作。
恩田 陸「線路脇の家」
問題作(悪い意味で)。後で触れる。
梶尾真治「辺境の星で」
梶尾真治にしてはウェットな味付けのない落とし噺。
神田 茜「おっぱいブルー」
お嬢ちゃん、がんばれ。もう30年若かったら、読み方、感想も変わったか。
北村 薫「茶の痕跡」
小さなミステリであることは決して悪いことではない。が、どうもこのところのこの作者の“小物感”が気になる。
※作中に登場する『本をつくる者の心 造本40年』(藤森善貢、日本エディタースクール出版部)、面白そうなのでさっそく古本を取り寄せて読んでみた。近日中に取り上げたい
佐々木 譲「降るがいい」
こういうやるせなさを、演歌のない今の若い人たちはどう処理しているのだろう。
髙村 薫「わが町の人々」
迷走してる? 大丈夫か?
長岡弘樹「涙の成分比」
話題になった同じ作者の短篇集を読んだときは今ひとつピンとこなかったのだが、本作は素晴らしい。登場人物は実質たった2人、だが、ともにその言動が読み手の想像を上回り、思いもかけないエンドマークにいたる。短篇ながら映画1本分の重荷。
新津きよみ「寿命」
読み手の想像を覆す点ではこれも凄い。ワンアイデアにもたれず、厳しく終わらせたことで再読に耐えた。
藤井太洋「ヴァンテアン」
怪作。とんでもない(ろくでもない?)発想。ただ、これでSFの読者が増えるのだろうか? 最後の7行の意味はよくわからなかった。誰か教えてください。
本城雅人「持出禁止」
スポーツ新聞の特ダネ競争を描いて痛快。面白さということでは集中随一か。
ただ、ファックスで原稿をやり取り、連絡は電話ボックス……いつの時代の話だ?
三浦しをん「胡蝶」
煮付けの好きな祖母に育てられた少女、という話から、やがてずるずると世界が崩れていく。壊すのは誰か。
宮木あや子「鞄の中」
短篇小説にはE.A.ポーのように論理的で起承転結のきっちりした(ミステリに向いた)「閉鎖血管系」の作品と、因果関係も終わりもはっきりしない(ホラー向きな)「開放血管系」の2種がある。本作は典型的な後者で、物語中の毛細血管からじわじわと血が染み出し、家中が血まみれなのに主人公は歯牙にもかけない。ここ数年読んだあらゆるホラーの中でも一、二を争う恐ろしさ。
両角長彦「頼れるカーナビ」
よくできたショートショート。なのだが、こういった技術製品を素材にした作品は数年経つと話が理解できなくなることもある。

さて、恩田陸については、以前、他者の、それもかなり広く知られたデザインやタイトルを平気で自作に用いる、その無神経さが気持ち悪いというようなことを書いた(その後発表された『ブラザー・サン シスター・ムーン』にも驚いた)。
今回収録の「線路脇の家」は、アメリカ人画家、エドワード・ホッパーの代表作のタイトルであり、ヒッチコックの映画『サイコ』の舞台のモデルとしても知られている。ところがそれを引用した恩田陸の物語の舞台は、日本国内の線路脇の、ホッパーの絵に似た家、というだけで、元の絵画作品や『サイコ』を膨らませるわけでも批評するわけでもない(実際、書き起こしは「線路脇に洋館があった」で十分だったろうし、逆にホッパーやヒッチコックの名を削ってしまえば提示された謎もその解もショボい、しみったれたものでしかない)。
それでなおかつ世界の著名作をひっぱってくる恩田陸。もう一度書くが、この作者の意識の中で,意匠とかオリジナリティとかはどういう具合になっているのだろうか。

2017/02/03

『片恋・ファウスト』 ツルゲーネフ、米川正夫 訳 / 新潮文庫

Photoバーナード嬢曰く。』の第2巻には、町田さわ子が「教養高めようと思って」手あたり次第に借りた古典のラインナップが
  『老人と海』
  『二十日鼠と人間』
  『ジーキル博士とハイド氏』
  『ポー詩集』
  ツルゲーネフの『はつ恋』
  ワイルドの『サロメ』その他
で、これが実はいずれも文庫の薄さで選んだものだった、というネタがあった(さらにその中でも屈指の薄さを誇る『春琴抄』がとんでもなく読みづらくて泣く、というオチ付き)。

しかし、ムズカシそうな古典はできれば薄いほうが──という生物の習性には思い当たるフシもあって決して笑えない。
横目で自分の未読の棚を見てみると、ありました、いつどこで入手したか覚えてないツルゲーネフ『片恋・ファウスト』。短篇2作で170ページ、薄いのでとりあえず買っとこう薄いのでそのうち読むだろう気配がいかにもたこにも。
おまけに昭和二十七年發行、昭和三十八年十三刷、パラフィン紙カバーの新潮文庫という町田さわ子もびっくりのヴィンテージ品だ(ほんとにどこで買ったのだろう……?)。

収録された作品は「片恋」「ファウスト」ともツルゲーネフ本人の自伝的恋愛小説で、ざっくりいえばどちらも露西亜無産階級インテリゲンチャの語り手にうっかりほだされた女がへたれ男の優柔不断で不幸になる、という情けないお話だ。
それでもこの時代の文学作品におけるロシアの「風変わりな」女たちが手に負えないほど魅力的なのは、どうしたものだろう。
頬を染めて黙り込み、そっぽを向いていきなり部屋を飛び出し、戻ってきて思いのたけを叫ぶやまた走り去って熱を出して寝込む。ときにはそのままうわ言をつぶやいて死んでしまう。
それぞれシチュエーションや年齢は異なるが、「片恋」のアーシャ、「ファウスト」のヴェーラとも(付け加えるなら玉井徳太郎が挿絵を描いた『孤児ネルリ』なども)、そういった熟しきらない林檎のような抗いがたいエキセントリックな魅力に満ちあふれている。

彼女たちに比べればフランスの悲劇のヒロインなど、狂ったように見えてどこか最後までお化粧を忘れないところがあって苦手だ。

ところで「あとがき」によると、米川正夫は、二葉亭四迷の「片恋」は題名含め名訳だが、さすがに時代感覚のずれや江戸の戯作の影響下にあるように思われたため改訳した、とのこと。
それでも米川の時代からさらに65年を経て、今や耳慣れない言葉も少なくないようだ。

  あたし全く空をつかってるんじゃありませんの。

  僕はこうしたごったくさには経験がないものだから。

「空をつかう」「ごったくさ」……???

2017/01/31

読書通絶句 『バーナード嬢曰く。』(現在3巻まで) 施川ユウキ / 一迅社 REXコミックス

Photo  「読んでない本を読んだ気になるのに
   楽をするな!!」

と豪語する町田さわ子は、読んでもいない本のことをいかに読書通ぶって語れるか、そこにばかりこだわる困った女の子。

そんな町田さわ子をなんとなくウォッチしてしまう遠藤は『真夜中は別の顔』『恋空』『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』『KAGEROU』などひと昔前に流行った本を古本屋で買って読むのが趣味。同じく図書室に常駐する神林しおりは熱心なSFファンゆえに町田さわ子のいい加減な読書ぶりが気になってしかたがない。遠藤に思いを抱く図書委員の長谷川スミカはシャーロキアン。

登場人物はほとんどこの4人だけ。
事件らしい事件は何も起こらない。その代わり、さまざまな本、本についての名言、妄言が横から斜めから次々飛んできて、半可通の読書家を刺す。

個人的には生真面目な神林しおりが、ほとんど恋しいレベル。
圧倒的な読書量と解説の嵐で大ゴマを文字で埋めながら、町田さわ子の素朴なツッコミカウンターに赤面、石化するしおり。
あるいは水泳部が休みの誰もいないプールで、大好きだけどやたら難しいグレッグ・イーガンの新作を読んだら思ったより読みやすく、それが嬉しくて無意識に足で水をぱちゃぱちゃぱちゃぱちゃぱちゃぱちゃしてしまうしおりの愛おしさ。
停電で暗くなった図書室で、理科室から持ってきたアルコールランプの灯りのもと、嵐の音を聞きながら皆で本を読むエピソードもいい。

ちなみにタイトルの「バーナード嬢」とは、言わずと知れたアイルランド出身の劇作家「バーナード・ショウ」をもじったもので──とか知ったかぶりしてしまうわけだが、実のところ町田さわ子に限らず当方だってバーナード・ショウの本をちゃんと読んでいるわけではない。
本書がちくちく刺すのはまさしくそういう読書家である。
もっとも、刺すからといって殺すわけではない。バファリンではないが、『バーナード嬢曰く。』の半分は本好きへの優しさでできているのだ。

  「だから私は…
   同じ話を
   何度だってする……!!!」
  「何度でも
   聞くよ?」

2017/01/25

小学館版『少年少女世界の名作文学』の思い出

1_2少年少女のための文学全集があったころ』 でも取り上げられた小学館版『少年少女世界の名作文学』が刊行されたのは昭和39年から43年にかけてのことだった。月刊で、全50巻。
烏丸の場合、小学校2年から5年にかけてにあたる。毎月15日の発売日が楽しみで、学校から走って帰り、まだ届いてないと知るや玄関にへたりこむほどがっかりした記憶がある。

次の巻が出るまで何度も読み返す巻もあれば、なかなか読み終えられなくて次の15日が近づいて苦しんだものもあった(『クオレ』とか『次郎物語』とか)。

クリーム色に藍の天地の箱は今思い返してもなかなかモダンで、他社の子供向け全集の単色、布張りの装丁に比べてもかなりハイセンスな印象だった。

表紙カバーや各作品の章タイトル下にはその国の風物の写真やカットが配され、海外旅行など縁遠かった当時の小学生にとってはそれだけでも貴重な情報源だった。

また、各巻の表紙には世界の名画が貼られ、巻末の解説と併せて古今の芸術作品に触れる機会を提供してくれた。小学生の時分にルネサンスだの印象派だの、いっぱしの美術通ぶれたのはこの表紙によるところが大きい。
2
内容はイギリス編(7巻)、アメリカ編(9巻)、フランス編(8巻)、ドイツ編(6巻)、ソビエト編(5巻)、日本編(5巻)などに分かれ、それがランダムに届く。
『小公子』『小公女』『家なき子』『ピーターパン』『トム・ソーヤーの冒険』『ガリバー旅行記』『オズの魔法使い』など子供向けに書かれた、もしくは子供向け全集の定番作品はもちろん、ギリシア神話や北欧神話、古事記などの神話(『ワイナモイネン物語』『ニーベルンゲンの歌』『ルバイヤート』『シャクンタラー』等まで!)、『ファウスト』『オリバー・ツイスト』『白鯨』『巌窟王』『狭き門』『車輪の下』『父と子』『即興詩人』『三国志』『坊っちゃん』など世界の名作の抄訳、モーパッサンやリラダン、メリメ、チェーホフ、マンスフィールドらの短編、さらにガボリオ、ルルー、ルブラン、ドイルらの探偵小説、ヴェルヌやH・G・ウェルズのSFまでそろっていた。

もちろん、大半は子供向けにわかりやすく翻案されたものである。
子供に本を与えるに、「完訳」を旨とすべきか「抄訳」を容認するか、いちがいにどちらが正しいかはわからない。しかし、小学生にいきなりディケンズやユゴーの「完訳」を読ませるのが困難である以上、ある程度の翻案はやむを得ないのではないか。

実際、『少年少女世界の名作文学』の抄訳で出会い、のちに「完訳」に手を広げた作家は少なくない。
たとえばドストエフスキーの『罪と罰』や『孤児ネルリ』(『虐げられた人々』の抄訳)には小学生時分ながら何か重いものに胸打たれ、のちに同じ作家の全作品を読むにいたった。後から思い返しても、抄訳で読んだこの2作への理解はそう間違っていなかったと思う。

3
ランボーと出会ったのもこの全集である。ほかの詩人と合わせ、ほんの数篇の掲載だったが、なにか夏の早朝のように突き抜けたものを感じた。
エセーニンもこの全集のソビエト編で知った。今でも一部そらんじることができるほどだ。

4
──などなど、もし小学生時代にこの全集に出会ってなかったなら、などと、考えるだに怖ろしい。この全集のない世界に、自分はいない。

2017/01/20

『少年少女のための文学全集があったころ』 松村由利子 / 人文書院

Photo1960年生まれの女性記者が子供の頃の読書体験を懐かしく綴る、微笑ましくも心温まるエッセイ集。
ルナールの『にんじん』、ボンド『くまのバディントン』、バーネット『小公女』から語り起こされ、祖父や父から与えられた本、母とともに楽しんだ本を次から次へと取り上げていく各章は、タイトルや装丁から想起されるそんな印象を裏切らない。

外国の本に登場するお菓子の美味しそうだったこと。
高名なピアニストの公演の最中に読書に熱中してしまい、母親を嘆かせてしまったこと。
大人になって改訳や原典にあたり、訳者の苦心や細やかな気遣いに触れて驚くこと。

──だが、その一方で、古今の子供向けの本を辿る著者の丁寧な歩みが明らかにしてしまう谷は深い。

『少年少女のための文学全集があったころ』というタイトルに着目してみよう。
これは、現代がそういう文学全集のない時代であることを示している。
書店の子供向けの本のコーナーを訪れると、幼児向け絵本や図鑑の充実に比べ、小・中学生に世界文学を奨めるのに適した本が存外に少なくて途方に暮れる。
理由はいろいろあるだろうが、明らかな分岐点の一つは1960年代頃からさかんに主張された「完訳至上主義」だったろう。それが行き過ぎ、さまざまな世界の名作の抄訳を月々手軽に届ける名作文学全集が失われた結果、子供たちは古今東西の神話や名作文学に手軽に触れる機会を失っていく。
子供たちを取り巻く世界で「本」が十分魅力的であったなら「完訳至上主義」もいいだろう。だが、現代はアニメやゲーム、インターネットなど、本以外にも誘惑は多い。そんな時代に分厚く読みづらい完訳本ばかりを押し付けて、それで子供たちはそれを読んでくれるだろうか。

著者は決して、上記のようなことをあからさまに、批判的に書いているわけではない。あくまで自身の幸福な読書体験、のちに大人になってそれを読み返したり、新訳に触れたり、原文にあたっての思いを一つひとつ穏やかに語るばかりだ。

しかし、事実として「少年少女のための文学全集がない」今、子供たちの多くは過去の名作に出会い、本を読む楽しみ(苦しみ)に触れるきっかけから隔てられているように思われてならない。
この素敵な本を今の子供たち、未来の大人たちはどう読むのだろう、そもそも読むことができるのだろうか。

2016/10/23

殺してください。 『〆切本』 左右社

Photo作家たちが苦悩する。もがく。絶叫する。逃げる。言い訳する。居直る。言い訳を重ねる。

手紙がある。日記がある。随筆がある。そんなヒマがあるなら原稿お書きなさいよ、と肩を叩いてやりたいほどに名言名句が並ぶ。
いわく
  「今夜、やる。今夜こそやる。」
  「むろん断るべきであった。」
  「才能がないのではないか。」
  「原稿性発熱」
  「鉛筆を何本も削ってばかりいる。」
  「おたくのFAXこわれていませんか」……

漱石に藤村、鏡花に基次郎。利一に風太郎、ばななに春樹。
明治の文豪から現代の人気作家まで90人の書き手、94編。中堅、重鎮、あの人のはないかしらとページをめくれば期待たがわず用意万端。企画から装丁、谷崎潤一郎の詫び状で〆る最後の1ページまで一部の隙もなく、もはや編集の完全勝利。
原卓也の一篇は『賭博者』の解説から、ドストエフスキーの〆切に起因する危機とその回避。
なかには一度も〆切を守らなかったことなどないと豪語する者もいる。無闇に腹が立つ(何故?)。
一方の編集者からの視点も語られる。雑誌編集者の怒りを語る高田宏のそれは名文。
埴谷雄高にいたっては同人の原稿を集める仕事を務め、届かぬ原稿に努力と友情の虚しさを知る。愉快愉快。
〆切の効能、効果についての論文もある。

マンガも長谷川町子、藤子不二雄Ⓐ、岡崎京子から三様。
我欲をかくなら大島弓子『綿の国星』からPART5、「ピップ・パップ・ギー」を選んで欲しかった。呻吟の果て、筆が動き始めた歓喜をこれほど見事に描いた作品をほかに知らない。どうだろう。

1_2
2_2







2016/09/20

『これは経費で落ちません! ~経理部の森若さん~』 青木祐子 / 集英社オレンジ文庫

Photo森若沙名子は石鹸や入浴剤を開発、販売する天天コーポレーションに入社5年めの27歳。経理部に勤めている。
彼氏いない暦=年齢だが、きっちり働いて責任を果たし、働いた分の給料を適切にもらって自分のために使う今の生活に満足している。ところがある日の終業時間過ぎ、営業担当者が持ち込んできた領収書には……。

タイトルこそやや刺激的だが、経費で落とすべきでない費用を列記するビジネス書ではない。4,800円のタコ焼き代も、テーマパークのチケット代も、誠実に説明され、上司の承認が得られたなら結局通すのが主人公の仕事である。

それでも企画、開発、営業、経理それぞれの部署には軽微ながら確執があり、派遣社員が自社製品を購入し、サンプルとして知人に配ってよいか、といったデリケートなトラブルも発生する。

……など、あれこれ内容を切り売りしてもしかたがない。

早い話、みんな大好きシン・ゴジラの尾頭ヒロミ課長補佐を少しマイルドにしたようなクールなヒロイン。「なぜそうなるのだ」と鋭角的に自動追尾するその思考を追うだけで萌え度50どんぐり。反論の社内オンライン入力は受け付けません。

2016/07/07

〔短評〕 『爪と目』 藤野可織 / 新潮文庫

Photoなるほど、にたがわず酷い。
これが芥川賞に推されたというのは、なにか隠された深い意味でもあったのだろうか。

とくに理由もなく母親を死に追いやった幼児の<わたし>が、家庭に入ってきた父親の不倫相手の<あなた>を主語として綴る文体──は、一見斬新なようで、<わたし>がなぜ自身が居合わせなかった場のいろいろなこと(<あなた>の意識含む)を知り得たのか説明がつかず、つまり「神の視点」を適当に置き換えたに過ぎない。
書かれた状況が起こっている現在と、このテキストが書かれた未来(<わたし>は大人になっているらしい)の時制についても、思わせぶりではあるが、謎や余韻とはならず、単に説明が放棄されたようにしか見えない。

ストーリーは(心霊モノではなく壊れた人間を描くほうの)ホラーにあたるといえばあたるが、致命的なのは読み手の不安や恐怖が<わたし>と<あなた>のどちらに集約するのかまったく気遣われていないことだ。
作者は目や爪を小道具に何かを醸し出そうとしたのかもしれないが、結局<わたし>も<あなた>も(ついでにいえば父親も<あなた>の浮気相手の古本屋も)無神経で無頓着で無責任なだけで、それがすれ違ったり傷つけ合ったりしても人間や社会や虚無を描いたことにはならない。

ただ、作品としては中編というにも短く、読むのに時間を取られなかったため、☆1つ。

2016/05/23

誰が泣くか。 『猫ノ眼時計』 津原泰水 / ちくま文庫

14.6カラットのブルーダイヤモンドがオークションにかけられて63億円がどうしたこうした。ニュース映像でこれみよがしな四角い石は言うほどゴージャスには見えず、宝飾類に興味のない当方にはおよそ理解が及ばない。
(第一、ブルーダイヤといえば金銀パールプレゼントの洗剤だろう、そもそも。)

じゃああなたにとって贅沢って何なの、と紫煙の向こうから問われて、もちろんあれやこれやは内緒にした上で上から4番めくらいに思い浮かぶのが、津原泰水を読むことだ。
抑えめの燈火のもと、ヴァイオリンソナタを流しながらカリモクのソファでゆったりと──とかいった用意も不要。満員電車の背広族に挟まれて読もうが風呂で汗を吹き吹きページをめくろうが、ともかく時間の澱がぽろぽろと剥がれてその奥にぽっかり真っ黒い穴が空いて、その洞が艶々とテカりながら読み手を眩暈にいざなう。至福。

五色の舟」を含む『11 eleven』はもちろん、前巻よりゆらぎの増した『たまさか人形堂それから』もよい、アクロバティックな世界崩壊の物語『バレエ・メカニック』でも、『奇譚集』でも、そのタイトルにルパンを隠す『ルピナス』シリーズでもいいのだが、今夜は『猫ノ眼時計』を楽しもう。

Photo『猫ノ眼時計』は『蘆屋家の崩壊』『ピカルディの薔薇』に続く豆腐好きの猿渡と伯爵と呼ばれる小説家の漂泊を描いたダークホラーな短篇集で、このシリーズは奇想が毎度陰惨な終幕を招くにも関わらず、二度読みすると何故か笑いが笑いが止まらなくなる、ホラーだかユーモア小説だか定めがたい、一種の奇書。

今回はシリーズ最終巻だけに、伯爵の真の姿、本当の敵の正体が明らかになり、時空を超越した闘いは世界を破滅に導き……もちろん嘘。とはいえ愛車ビートルをデボネアに乗り換えた猿渡を不愉快な炎が包み、山羊の頭のスープの匂いもかぐわしく、ここであらすじやアイテムの一つ二つ書いたところで何の役にも立たぬ(珍しく人情噺も含めた)6篇、これが贅沢でなくて、なんだ。

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