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カテゴリー「小説・詩・文芸評論」の145件の記事

2017/11/15

怖い本 『妻が椎茸だったころ』 中島京子 / 講談社文庫

Photo〔諸星大二郎ふうのあらすじ〕

バイオ戦争から時を経て、世界は遺伝子レベルで改変された異形の生き物たちで埋まっていた。
ニワトリやネズミや魚には人間の遺伝子が混ざり、人間にはなんらかの動植物の遺伝子が潜む。「それ」が発現した人間はやがて体毛やウロコに覆われ、あるいは翼や尾を生やし、社会権を失って荒野に難民と化した。
私の妻はかつて食物工場の椎茸として栽培されていたが、手足、首が生えて人間の姿となり、ある襲撃事件を逃れてのち、ひっそりと我が家に入り込んだ。
妻手作りの生ぬるいシチューを食べながら私は誰にともなく繰り返す、私の手足はやがて短く縮まり、頭は傘のように開くだろう、私たちは暗く湿ったクヌギの枝に寄り添い、静かに胞子を吐くだろう。

〔中野京子ふうのあらすじ〕

今回の展示の目玉とも言える、女王の処刑を描いたこの大きな作品において、若き元女王は真新しい結婚指輪を嵌め、サテンの艶やかな純白ドレスは花嫁衣裳のようだ。しかし、その金色の髪の毛が片肩にに束ねられているのは首を切り落としやすくするためであり、衣装の胸元が大きく開いているのも同じ理由による。
元女王の前に置かれた台には古びた土鍋が用意されており、切り落とされた頭はキノコ鍋として一族に饗応される。
材料は白菜1/4、ニンジン1本、ムネ肉1枚、シラタキ180g、長ネギ1本、それに椎茸をお好みの分量。ムネ肉は一口大、野菜も適当な大きさに切ります。鍋にダシ汁1500cc、薄口醤油少々を入れて沸騰させます。処刑の終わった椎茸は石突きを取って傘を手で割き、肉、野菜とともに一煮立ちさせて処刑人が蓋を取ったら召し上がれ。







・・・筒井康隆が混じってしまった。
 
 
 
 
 

2017/10/10

出でよ、闘う文庫解説! 『文庫解説ワンダーランド』 斎藤美奈子 / 岩波新書

Photo親しい作家同士、互いに甘々と褒め合う解説、だらだら粗筋を書き連ねるばかりの解説、断りもなく犯人やトリックをさらしてしまう解説などなど、困りものの文庫解説については本ブログでも幾たびか指摘してきた。
もちろん豊かな作家紹介、鋭い一篇の文芸批評として切り出して読み応えのある解説も少なくない。個人的には岩井志麻子の『魔羅節』(新潮文庫)に寄せた久世光彦の解説など、一等星に値するように思う。

そんな「文庫解説」に着目し、古今の名作を新しいアングルで語ろうとするのが本書『文庫解説ワンダーランド』、しかも著者があの『妊娠小説』の斎藤美奈子とくれば面白くならないはずがない。冒頭から、痛快な勧善懲悪劇とみなされてきた『坊っちゃん』について各界の士が「実は悲劇」「いややはり喜劇」と丁々発止文庫解説上で斬り合う痛烈さ。続く川端康成、太宰治と、各社の文庫解説を比較検討することがこれら文豪の評価を洗い直すことにつながって目から鱗がはらはら落ちて止まない。

ただ、掲載先が岩波の「図書」、まとめたのが「岩波新書」という場のせいか、取り上げた大半が昭和以前の作家、作品で、今さら林芙美子、高村光太郎、サガン、バーネット、柴田翔なんか取り上げてどうするの、いや彼らを扱う是非はともかく、もっと現代作家とその文庫解説を語ってほしい、斬ってほしかった。「教えて、現代文学」と題した最終章に並ぶのが村上龍、赤川次郎、渡辺淳一はまだしも松本清張、竹山道雄、壺井栄、野坂昭如って……。

もう一点、本書は文庫解説を“てこの支点”にその作家、作品の評価を覆す試みなのだが、1冊、1人の文庫解説をもってあたかも当時のその作家、作品の評価がその一色で染まっていたかのごとき解き方がないわけでもなく、若干気になった。

一例。斎藤美奈子は庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』の中公文庫(1973年)の佐伯昭一による「機智とユーモアにあふれた愉しい風俗小説」という能天気な解説を受けて「当時のおおかたの読者の感想も大同小異だったろう」と少々上から目線だが、本当にそうだったろうか?
中公文庫は『赤頭巾ちゃん』の文庫化とほぼ同時に庄司薫が『赤頭巾ちゃん』より10年も前に本名の福田章二名義で発表していたシリアスな文体による『喪失』を刊行、また『白鳥の歌なんか聞こえない』の高見沢潤子の解説(1973年)に「この楽しい青春の書は、神を失った現代の社会がふりむいてもみない、人間にとって大切なもの、大げさにいえば形而上的なものを追求している、深い意味をもった青春の書なのである」と語らせている。
つまり、『赤頭巾ちゃん』はブームになった当時、すでに「愉しい風俗小説」としてのみ語られていたわけではないのだ。
斎藤美奈子は2012年の新潮文庫版の苅部直による解説で庄司薫作品の「佐伯がインテリの悪癖と切り捨てた<観念的、思想的な新現象>を述べた書であり、表層の軽さこそが<独特のてれ>なのだ」という構造が初めて明らかになったような書きぶりだが、これは事実誤認の類だろう。

2017/09/17

sick inside 『花咲舞が黙ってない』 池井戸 潤 / 中公文庫

Photoしゃっちょこばった本ばかり出してる印象の中公文庫からこんな経済ライトノベルがいきなり出てくる不思議。
しかも折り込みには文春文庫から同時発売された『銀翼のイカロス』との相乗り宣伝入り。
花咲舞が活躍する前作『不祥事』(2004年)は実業之日本社発行、文庫化は講談社からだったのだが、それから13年の間に何があったのだろうか。

──それはともかく、東京第一銀行臨店指導グループに所属する花咲舞が周囲の戸惑い構わず正義を振りかざす本シリーズは、(東京中央銀行勤務の半沢直樹シリーズ同様)作者得意の銀行を舞台にしたミステリサスペンス集である。
作者の銀行勤務体験から、銀行現場業務の詳細がバックボーンにあるが、読後感は野村胡堂や池波正太郎に近い。弱者の目線からの勧善懲悪、やや苦味の残る結末。

池井戸潤の本は「半沢直樹」や「下町ロケット」などのTVドラマブームに乗って(乗せられて)、あれこれ続けて読んだものだ。いずれも読み始めると寝食忘れるほどに面白く、主人公が立ちふさがる困難を突破する結末に毎度留飲を下げたものだが、さすがにその後は少し飽き、本書もどうしようかと思ったのだが、出先で買って読み始めると一気呵成。
世間を騒がした大きな経済事件をモデルにしたり、思いがけない人物を登場させたり、作者のサービス精神と読み手を転がすエンタメ手腕は相変わらずで、その点については文句はない。

ただ、作者が短篇を重ねてだんだん巨悪、銀行の暗部を明らかにしていっても、どこかしら矮小な印象が残るのは、これはおそらく作品のせいではない。
少子化、新規学究の停滞、中国経済の肥大化に伴う我が国の経済が相対的にエントロピー減少の様相を示しつつある中、池井戸作品で示される黒幕が巨利をむさぼる構図そのものがリアリティを失いつつある、そんな感触なのだ。

つまるところ、もうこの国では上場企業、メガバンク、政界がつるんでアンタッチャブルな権力と利益を享受せんとしても、はた目には領収書を誤魔化して不倫旅行にあてる程度の小賢しさにしか見えない。
そんな「巨悪」は少々コミュ障気味の臨店指導担当の報告書に覆されて当然。花咲舞が黙っていても、落ちていく先は変わらない。

(おまけ)
すごくどうでもいいことだが、TVドラマ「花咲舞が黙ってない」で舞を演じた杏、彼女がイメージキャラクターとしてCM出演するエアコンメーカーが三菱でよかった。

2017/08/31

『夜行』 森見登美彦 / 小学館

Photo_2太陽の塔』や『夜は短し歩けよ乙女』では浮世離れした天然ヒロインと彼女を追い回しつつプライドだけ高い冴えない先輩男子の言行についつい苦笑い、『きつねのはなし』では一転、首筋に冷たい刃を押し当てられる思いに震え、などなどなど、そんなファンにとって森見登美彦の作品の酷評など読みたくないに違いない(カラスだって何もわざわざそんなものを読みたくはない)。
であるからして、森見ファンを自認される方にはこれ以降読むことをお奨めしない。ブラウザを閉じるかYahoo!ニュースでもご覧ください。

さて、『夜行』の帯にはご丁寧にも表紙と背表紙の2か所に「10年目の集大成!」とある。もちろん作家本人でなく、編集者の手による煽り文言だろうが、これが集大成だとするといろいろマズいのではないか。

内容は第一夜「尾道」から「奥飛騨」「津軽」「天竜峡」そして最終夜「鞍馬」まで全5章、それぞれ異なる登場人物が訪ねた先の地名を冠したホラーというか人間失踪を描いた短篇集となっている。
構造は非常に凝っていて、実はそれがよろしくない。各章の語り手は10年前、鞍馬の火祭りに集った青年たち、その夜行方不明になった若い女性、そこに死んだ銅版画家の残した「夜行」という連作が各章にかかわってくる。

第一夜「尾道」は、単独のホラー短篇として読めばそう悪くない。失踪した妻を追う語り手の、悪夢の中にいるようなもどかしさ、訪ねた先の家の奇態さ。ところがその幕閉めがあまりにもありきたりで拍子抜け、おまけにこれではどうにも次章につながらない。

それ以降、この連作集にはキーとなる建物がいくつか登場する。同じ建物のつもりかそうでないのか判然としないのだが、「尾道」の家を除くと、いずれも書き手が期待するほどにはそこに異界が感じられない。というか、ほとんど描写がない。
それなのに、登場人物に何度も「いやな感じがする」と語らせるのはどうだろう。禍々しいならそう描くのが作家の腕だろう。仕事、と言ってもよい。

もう一点、「尾道」がほかの章よりマシに思えるのは、ここではまだ坂の多い尾道という土地を描く努力がなされているためで、「天竜峡」では飯田線の電車の中でのやり取りが描かれるばかり、「鞍馬」でもそこに至る行程しか描かれていないに等しい。

銅版画家や行方不明になった女性は怪異に翻弄された側なのか、ただ少しエキセントリックなだけなのか。万事曖昧で、厳しく言えば適当である。
何人かの登場人物が口にする「世界はつねに夜なんだよ」「世界はつねに夜なのよ」とのセリフも大仰なばかりで、世界を特定するキーワードたり得ない。ちなみに帯に大きく書かれた「彼女はまだ、あの夜の中にいる」は正確ではない。

『夜は短し歩けよ乙女』のヒロインのほうがよほど夜に属していた、と今は懐かしく思う。

2017/08/23

『コンビニ人間』 村田沙耶香 / 文藝春秋社

Photo『これは経費で落ちません! ~経理部の森若さん~』の主人公、森若沙名子は、経理部勤務として求められる生真面目、規則に厳しい、を少し通り越して、杓子定規、融通の利かなさ度合がやや喫水線を越えている。病的とまでは言えないが、勤務先の会社や所属部署、あるいはプライベートな人間関係によっては、いささか問題を起こしかねない。逆に言えばこのシリーズは、作者が、そんな石部金子さんさえ動揺してしまうさまざまな人間模様をテーマとした短篇連作、と言うことなのだろう。

働く女性、融通が利かない──最近どこかで読んだな、と思ったら、昨年上期の芥川賞受賞作『コンビニ人間』がそうだった。

こちらの主人公、36歳未婚の古倉恵子は、発達障害と言うのかコミュ障と言うのか知らないが、もはや明らかに病気の域である。なにしろ子どもの頃から……と引用してしまうと未読の方の興趣を削ぐだろうからここでは省略するが、その壊れっぷりはかなり凄まじい。
もとい、「壊れっぷり」などと脇の甘い表現を用いてしまったが、これは正しくない。古倉恵子は壊れているのではなく、そのように出来上がっているのである。

そんな主人公が、人の真似をして規律を守っていれば健やかに眠れるコンビニバイトに天職を見い出し、18年間の安逸を得るが、新入り男性の登場によって期せずして──というのが本作の枠組みだ。もっとも事件は予想外な方向に進むのではなく、古倉恵子という人間に素材を渡せば必ずそのようになる、という展開になる。作品としては、テイストはホラー、しかしホラーとしては追い込み不足といった塩梅となるわけである(なんだか以前読んだほかの芥川賞受賞作品もそんな印象だった気がする。最近の選考委員の嗜好なのか?)。

Amazonのレビューなど読むと、肯定的な声では「“普通”“正常”を押し付けてくる人々の“正義”へのささやかな反抗」として評価されているようだ。コンビニ勤務経験者による賛同が少なくないのも面白い。
個人的にはそういった社会的な深みはあまり感じられず、ヘンな女のヘンな話、としか読めなかった。実際、主人公古倉恵子は“普通”でないという扱いを受けることに面倒な思いはしても、とくに苦しんではいない。そんな人間は、家族や職場の部下でもない限り、距離を置いて面白がっていればよいのである(などと書いてしまうと、どんな反響があるだろう)。

2017/08/15

ウサギを追うな 『これは経費で落ちません! ~経理部の森若さん~ (2)』 青木祐子 / 集英社オレンジ文庫

Photoちょっと、狼狽(うろた)えている。

前回、第1巻も面白く読みはしたが、“経理部のOLが主人公のよくできたライトノベル”程度の読後感で、少し前に続刊が出たのは知っていてもなんとなく後回しにしてしまっていた。……危ない危ない、うっかり読み逃すところだった。

第2巻にいたって収録4話、これはもはや上質な本格ミステリである。

律儀で几帳面だがやや杓子定規で融通の利かない、天天コーポレーション経理部の事務職員、森若沙名子。
彼女はちょっとした領収書や仮払金への疑念から社内のトラブルや不正を看破し、自身の職分の中で解決を図ろうとする。だが、社内の各部署は往々にして彼女のロジックとは別の方法論で動いており、必ずしも各章は彼女の望むかたちで終わらない。否、むしろ彼女の理解を越えた、あるいは彼女を苦しめる終わり方をすることが少なくない。
これは正しく、名探偵の、名探偵ならではのジレンマである。

第2巻の最後の章は、役職のない経理部OLの手にあまる不正の露見をもって終わる。作者はその上にさらに主人公の手に負えない人間関係を用意した。それはまた、今後主人公が別のモノに変貌せざるをえないことを示唆している。
そのような第3巻は、もし出たとしても、読みたくなどない。
……いや、やはり読んでしまうだろうか。

2017/07/14

『もし文豪たちが カップ焼きそばの作り方を書いたら』 神田桂一、菊池 良 / 宝島社

Photo名は体を表す。それ以上でもそれ以下でもない。
もし、村上春樹や太宰治、三島由紀夫、夏目漱石といった文豪、あるいは星野源、尾崎豊らミュージシャンがカップ焼きそばの容器にある「作り方」を書いたなら――

それだけの本である。

もちろん、なんの役にも立たない。だから、いい。
この1冊をこしらえるために費やされた学識、労力たるや大変なものだったろう。夜を徹し、いったいどれほどのカップ麺がすすられたことか。
それでこの内容。カップ焼きそばの麺をシンクにこぼしてしまった際の脱力感もかくやかくやのかくや姫。

欲をいえば、今ひとつ文体模写の域に至らず、著名作の有名な書き起こし部分にカップ焼きそばの作り方を押しはめただけのページがなくもない、ような気もした。たとえば夏目漱石の項に「兎に角」が使われていない、など。

それでも、相田みつを、デーブ・スペクター、稲川淳二、内田樹、アンドレ・ブルトンから『週刊文春』、自己啓発本、利用者の声、迷惑メールまで、古今の文豪だけでなく近・現代の文体総カタログとなっているところが凄い。偉い。

ふと、顔ぶれを見渡して、西野カナとジャパネットの高田氏がいないのが寂しい。
もう一人、この手の文体模写ネタの常連だった野坂昭如がいない。ここでもまた、昭和は遠くなりにけり、か。

2017/07/11

詩人 原子朗先生の思い出

7月4日未明、詩人の原子朗先生が亡くなられた。享年92歳の大往生であった。

先生は宮沢賢治や大手拓次の研究に尽力され、ことに宮沢賢治については花巻の宮沢賢治イーハトーブ館長を務めたこと、また『宮澤賢治語彙辞典』(筑摩書房)の編纂でも知られている。

僕は原先生の不詳の弟子で、学生時代のゼミ以来、再三にわたり叱咤激励を授かったのだが、詩についても言葉の研究についても先生の教えを守るにはいたらなかった。それでも、大学に通うことの意味すら見失っていたあの頃、先生に出会っていなければ、今ごろどこかでのたれ死んでいたに違いない(先生には卒業、就職、転職、結婚の都度都度大変なお気遣いをいただいた。左記はあながち大袈裟でもない)。

原先生には、いつか伺おう、伺おうと思いつつ、とうとう最後まで伺うことのできなかったことが一つある。
「表現演習」という先生のゼミで──これは学生が詩でも小説でも論評でもなんでも自由に提出し、まず学生どうしが読書会形式で品評を重ね、最後に先生が評を述べる、という形式のものだった──ある時短い詩を提出したところ、先生が何を思われたかその青焼きを手に「これを今度の学会で使ってよいか」と仰る、ということがあった。
なんでも次の土曜日、現代の若者の言葉遣いについて、といったようなことであったのだが、その時はなんとも思わず、その学会なるものもどこで開かれるのやら、見に行ってよいものやらもわからないままただ了解して終わった。
自分の書いたものが、果たして使われたのかどうか、使われたのであるならどのように──有り体に言えば褒められたのか、貶されたのか──ということが気になったのはずいぶん後になってのことだ。
しかし、こと詩の言葉遣いにはとことん厳しい先生のことである。そうそうよい例として使われたとも思えない。いや、悪い例として使うなら、あのゼミの当日もっと厳しい言葉でたしなめられていたのではないか……などなど、考えてもまるきりわからない。
迷っているうちに5年が経ち、10年が経ち、今さら聞いても覚えておられないかもしれない、今さら聞くのも人間が小さいように思われるかもしれない、などと思うともう聞けない。
そうこうするうちに40年、これはもう先生からの人生の宿題、と考えることにした。
そうでなくとも、先生からは山のような宿題をいただいているのだ。

原先生のもう一つの顔は講談社学術文庫から『筆跡の文化史』を上梓し、テレビで戦国大名や宮崎某の筆跡鑑定をしてのけた書家としての顔で、毎年秋になると銀座7丁目の長谷川画廊で書や書画の展示会(三戯展、墨戯展)を開かれていた。僕は会社が近いこともあってたいてい初日の昼に顔を出す。すると小さな四角い木の椅子に腰かけ、土産の菓子と茶を前に客と話をされている先生がこちらを見上げ、くわっと目を見開いて「おう、編集長」と声をかけてくださる。「いや、先生、僕はもう編集長ではなくて」と訂正しても、次の年も「来たか、編集長」。次の年もまた「おう、編集長」。
「先生、最近は編集ではなくてインターネットの仕事で」
「先生、もうずっと携帯電話の電波の仕事で」
と似たようなやり取りを繰り返すうちに先生もお年でここ数年は「墨戯展」も開かれなくなっていた。
事実とは違っていても、先生の中で最後まで編集長であったならそれはむしろ誇らしい。
仕事のうえでは、先生の仰る言葉への心遣いを貫徹できたとは言えない。ブルドーザーで言葉を運ぶようなひどい仕事ばかりしています、すみませんすみません、と賀状では何度も謝った。
それでもこの年まで一貫して言葉にかかわる仕事を続けられたのは、先生の志を受けてのことだと胸を張りたい。

ご冥福をお祈りします。

2017/07/04

〔短評〕 『短篇ベストコレクション 現代の小説2017』 日本文藝家協会 編 / 徳間文庫

Photo2000年より続いている「小説雑誌や出版社のPR誌などに掲載された数多くの短篇小説の中から選び出された年間優秀作のアンソロジー」たる本シリーズだが、今年の1冊は……なんだか、おかしい。

品質が低いわけではない。ではなくて、選者の好みなのか、圧倒的に「ほのぼの」「ほっこり」風味の作品が多いのである。

両角長彦「給餌室」、太田忠司「猫とスコッチ」、法月綸太郎「砂時計の伝言」など実は悲惨なサスペンス、柴田勝家「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」、三崎亜記「流出」のように最新IT技術やネット環境を素材にした実験的な作品もなくはない。だが、それらすべてを含め、全体に「なごみ系」「ペーソス」の味わいが強いのだ。ラブロマンスめいたものもいくつかあるが、いずれも草食に煮え切らないか「なんちゃって」に終わる。
明るく前向きな青崎勇吾「早朝始発の殺風景」、芦沢央「水谷くんに解けない謎」は大昔の中高生向け雑誌の付録に載っていそうだし、ファンタジーにしてもよくわからない小島水青「花はバスにのって」は詩とメルヘン。
ほかにいくらでもシリアスな短篇があったであろう今野敏からわざわざ「タマ取り」を選ぶにいたって、確信犯かとも思う。少なくとも今年のこの1冊に限り、選者たちは一定以上に深刻な(ないし深刻ぶった)短篇を排除したのだ。

その中で最も救いのない物語は今村夏子「父と私の桜尾通り商店街」だったろうか。ところがこれに選者の一人、清原康正は「ほんわかとした気分にさせてくれる」の評。
何を考えているのか。さっぱりわからない。

2017/06/05

僕のなにが罪深いというのだ 『赤い橋の殺人』 バルバラ、亀谷乃里 訳 / 光文社古典新訳文庫

Photo面白い。ある意味、珍本である。

本書『赤い橋の殺人』はフランス本国でも100年以上にわたってほぼ忘れられた作品だったが、訳者亀谷乃里氏が作者シャルル・バルバラ(1817-1866)の生涯、作品を研究対象とし、その論文がバルバラ再評価、各国での出版のきっかけとなったという。

●『罪と罰』の水源?

近代的な意味での推理小説の歴史は、大雑把に俯瞰すればE.A.ポーに始まり、ドイルが広め、その後クリスティなどによる黄金時代を迎えた、ということになっている。
しかし、ポーとドイルの間、詩人としてのポーの評価がボードレールをはじめとするフランスの象徴詩人に影響を及ぼし、またエミール・ガボリオ(1832-1873)によって世界初の長編探偵小説『ルルージュ事件』(1866年)が書かれた、といったフランスでの勃興が実は重要だ。

ところが、「探偵」「推理」といった要素には欠けるものの、一貫してある殺人事件の真相が主題となる『赤い橋の殺人』は1855年の発表で、だとするなら『ルルージュ事件』より10年以上早い。しかも本作にはバルバラと親交のあったボードレールも登場しており、ポーの影響下に書かれたことはほぼ間違いない。

また一方、無神論を唱える登場人物がその思想ゆえに殺人を犯し、のちに追い詰められていくというストーリーが『罪と罰』(1868年)に影響を及ぼしたのではないか──という訳者の主張も興味深い。ドストエフスキーが本作を読んだ確たる証拠は得られていないようだが、類似点も多く、十分あり得ると思わせるに足る。

●訳者の自分語りが・・・

バルバラを再評価した訳者の功績は確かに大きかったようだが、それについて訳者の自画自賛がいささか煩わしい。

  私の博士論文二巻が、フランス国立図書館とニース大学図書館に収められて公開されると、数年後にはフランスでは『赤い橋の殺人』の復刻版が幾種類も出始め、今では中学、高校の教科書として単行本にもなり、フランス人の古典の一冊となりつつある。

という大筋はともかく、

  気が付いたら博士論文の版元の近くにある出版社が、(私の論文を要約したものを無断、無記名で序文に付して)異なったバージョンを出版していた。

  次第に、私の業績を明らかにするコメントや註を時にウェブ上で見かけるようにもなった。

  文献リストとも併せて、そのウィキペディアの基本情報が私の研究に拠っていることがわかる。

等々、「訳者まえがき」「解説」「訳者あとがき」三段構えの業績自慢が正直、くどい。くどいというか、あの『罪と罰』の先駆けとなった(と思われる)『赤い橋の殺人』凄い、自動記述の描写が出てくるのはシュルレアリスムの先取りで凄い、作中の赤い橋の工法が当時まだ実現していなかったのはSF的で凄い、そんなバルバラを発掘した自分とっても凄い! みたいなことになっているのである。

確かにポジション的には興味深い作品だとは思うが、

  その科学的で幻想的な作品には音楽的情感や感動が息づいている。彼は科学性と論理性によって探偵小説の、そして科学性と幻想性によってサイエンス・フィクションの先駆としてフランス文学史に新しい一ページを開いた。

とまで言われてしまうと「それほどまでの作品か?」と思わず眉につばをつけてしまう。否、むしろさまざまな要素(とくに生まれてきた子供に関する怪奇幻想味)が無闇に加えられたことによって「悪徳と神、殺人と良心に関する形而上学的問題」がぼやけてしまっているようにも思える。

Photo_2あるいは。2006年のバカロレア(大学入学資格試験)の問題にアルフォンス・ドーデの短篇「黄金の脳味噌をもった男の物語」が用いられたことをネット検索で知った訳者は「バルバラを主人公にした」この短篇によって「若い柔軟な頭脳にシャルル・バルバラの名前が刻まれた」と讃嘆する。しかし『風車小屋便り』所収の「黄金の脳味噌をもった男の物語」はそもそも「アルルの女」や「星」に並ぶ著名作であり、バカロレアに出題されたところでなんら不思議はない。以前当ブログでも取り上げた昭和42年(1967年)発行の旺文社文庫版『風車小屋だより』にも注釈としてシャルル・バルバラの名が紹介されている(添付画像)。また、前後を読んだ限り、この短篇はバルバラを主人公として描かれたものではなさそうだ。

などなど、決して訳者の功績を否定するものではないが、バルバラという作家、ないしそれを発掘した研究者として自身を紹介するプレゼンテーションとして、その我田引水気味なやり方には少しばかり不興を感じざるを得ない。

そもそも、バルバラの再評価については、必ずしも訳者一人の手柄ではない。
もともと埋もれた作家に着目し、先行して独自に論文で取り上げたのは訳者の指導教官だったリュフ教授であり、バルバラを読むこと、研究し論文にまとめることを訳者に再三推したのもその指導教官であったらしい。それでその指導教官の所属、フルネームさえ書いていないのは、いかがなものか。

●作品そのもの

似ているがゆえに違いが際立つ、ということがある。

『罪と罰』と『赤い橋の殺人』は顛末こそ似ているが、前者の怒涛の説得力をおよそ後者はもちあわせていない。
その理由はわりあい簡単で、『罪と罰』におけるラスコーリニコフ、その母や妹、ソーニャ、ポルフィーリー、さらにはスヴィドリガイロフらの発する言葉、行動、表情が示すリアリティを、『赤い橋の殺人』のクレマンやロザリ、マックスは発していないからである。いちいちの引用は避けるが、脇役にいたるまで、一人ひとりの性格、個性、苦悩が具体性に乏しい直裁な言葉による「説明」として書かれているため、芝居のト書きのようなのだ。
(また、『赤い橋の殺人』には実際の殺人の場面は描かれていない。その場面から書き起こしたドストエフスキーの慧眼はなんというかやはりハンパではない。)

とはいえ、「バルバラは反抗の哲学、自由意志の思潮に関して、確かに過去から現代に変わるターニング・ポイントであり、そこからのドストエフスキーを経て、ニーチェ、アンドレ・マルロー、カミュ、サルトルへと続いて現代の我々に至る」などという解説の大風呂敷さえ気にしなければ、作品自体は中篇ながら精緻なアーキテクチャによって構築されたスグレモノである。
西洋文学を読む豊かな楽しみの素材の一つであることは確約したい。

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