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カテゴリー「小説・詩・文芸評論」の150件の記事

2018/08/27

『短篇ベストコレクション 現代の小説2018』 日本文藝家協会 編 / 徳間文庫

Photo大雑把に区分するなら、
・花火大会の町の歴史から商店街の人間関係、かかった総費用から当日の天気の案配、そして打ち上げ実施から後片付けまで微に入り細を穿って綴る「長編小説
に対し、
・パンと打ち上がってドンと鳴る花火の一瞬を描くのが「短篇小説
として大きく外れはないのではないか。

※もちろん、たった16ページの短篇マンガにNHKの大河ドラマの1年分にも匹敵する大きな歴史のうねりと人々の悲哀を細部まで描き上げた「グレン・スミスの日記」(萩尾望都)のようなバケモノもあるにはある。

※ちなみに「長」「短」と漢字の不統一があるが、昔、木簡に穴を空け、ヒモを通して束ねて保管したことに由来する「編」と、竹で出来た木簡そのものに由来する「篇」の字を鑑みるに、ついつい「長編」「短篇」と書き分けてしまう、これは個人的なシュミ、コダワリの類なのでどうかご容赦願いたい。

さて、なぜ「長編小説」と「短篇小説」などという遠回しなことから書き始めたかというと、今回の『短篇ベストコレクション』の選評の加減が、どうも、起承転結のはっきりしない、つまり花火でいえば打ち上がって、のところで〆てしまって後を曖昧にした、そんな印象の作品が多かったためである。

文芸雑誌を読まないので、選者の好みなのか、2018年の作品の傾向なのか、そこは判断がつかない。
以下、収録作について、未読の方のお邪魔にならない程度にさっくりと。

川上弘美「廊下」
味な作品。ただ、昔の恋に対するこういうこだわりは、むしろ男性寄りの感性ではないか。
雪舟えま「りゅりゅりゅ流星群」
いわゆるBLの小説版なのだが、読後感は昔(1950~60年代)の少女小説に近い。
河崎秋子「頸、冷える」
北海道のミンク養殖を題材にした、起承転結が明確、かつ骨太な作品。強いて難点を探せば、タイトルが?
小川洋子「仮名の作家」
作者がときどき見せるテクニカルな逸品。とはいえ短篇集『海』収録の「バタフライ和文タイプ事務所」にはやや及ばず。
野崎まど「精神構造相関性物理剛性」
老夫婦の交錯する思いを描く穏やかな好篇だが……こんなもの(?)を掲載した「SFマガジン」はどうなっているのか?
高野史緒「ハンノキのある島で」
古典指定、保存書籍指定を受けられなかった新刊は六年をもって廃棄される、という「読書法」の施行された世界を描く近未来SF。興味と期待をもって読んだが、世界はもはやこのような法律を求めるほどには「本」に頓着していない。
いしいしんじ「おとうさん」
ほのぼの、なのか? よくわからなかった。
小田雅久仁「髪禍」
ある宗教団体のイベント……その描写は凄い。だが、小説として、こんなふうに解き放ってしまってはダメなんじゃないか。
澤村伊智「コンピューターお義母さん」
暴走しすぎた「髪禍」に対し、こちらは端的に怖い。現在の技術で十分賄っておつりのくる恐怖。ただ、攻撃を受ける側も同じ技術をもって防御ないし反撃に出るかもしれない。いずれにせよ夫の出る幕はない。桑原桑原。
恩田陸「皇居前広場のピルエット」
絶妙なスケッチ。ただしあくまでスケッチ。
深緑野分「緑の子どもたち」
ニューウェーブ(死語)のSF長編を切り抜いたような作品。この短篇が終わった後、穏やかで健やか日々が始まるのか、それとも凄惨な出来事が待っているのか。わからないが、それはそれで仕方がない。
藤田宜永「土産話」
視聴者の高年齢化の進むテレビは、イケメンと美少女がキャッキャウフフする青春ドラマなどより、こういった中年、老年のしみじみした哀歌をもう少し扱ってもよいかもしれない。ただ、この「土産話」、ちょっと考えると実に酷い話。
唯川恵「陽だまりの中」
孫のいる世代の母親を描いた作品。上の「土産話」同様、酷い話なのだが、酷い話を酷いとわかったうえできちんと着地させ、好感がもてる。
青崎有吾「穴の開いた密室」
ゴミゴミしたギャグが煩わしいが、事件(謎)と推理は本格派。座布団一枚。
三崎亜記「公園」
世界を裏返す三崎亜記の得意技は「公園」については有効だが、「子供たち」の描き方はやや凡庸。一本ならず。
勝山海百合「落星始末」
こちらもシリーズものの一部。雰囲気や言葉遣いは上質だが、描かれた肝心の「落星」そのものがちょっとよくわからない。え、それで本当に終わりなのか? と、この『短篇ベストコレクション』一巻全般に肩透かしの感あり。

2018/07/15

新しいミステリのかたち 『これは経費で落ちません! ~経理部の森若さん~ (4)』 青木祐子 / 集英社オレンジ文庫

Photo前回も書いたように、これはミステリである。
もしかすると、新しいミステリのかたちが示されているのかもしれない。

毎度そうなのだが、読み始めはライトな感覚である。経理部の森若さんをめぐるにぎやかで少しだけ面倒な日々を描いた女性向けお仕事小説……

短編四部とエピソードの掌編からなる本巻でいえば、経理部の新人との葛藤を描いた第一部や若い女性ならではのエピソードを描いた第三部までは、(森若ファンとしてはショックではあるものの)まだわかる。
第四部はまるでわからない。背中から切りつけられたのに、そのナイフがあまりに鋭利なため気がつかない、そのくらいダメージは大きい。

かつて、1980年代、若手の作家たちによってさまざまなトリックや書き方を工夫した「新本格ミステリ」が勃興し、その中に、平凡な生活を送る若者(主に少女)が日常の言葉や出来事に微かな違和感を感じ、そこに(ときに残酷な)真実を暴いていく、「日常の謎」と呼ばれるジャンルがあった。

『これは経費で落ちません!』で提示されているのは、「日常の謎」に匹敵する、新しいミステリの在り方である、と言って過言ではない、かもしれない(もちろん、一つのジャンルとして成立するためには作者のみならずエピゴーネンの追従が必要であることはわかっている)。

この作品は、まず、これが謎解き小説であることを示さない。ヒロインは探偵であることを是としない。しかし、経理部という生々しい数字を扱う部署に勤めるヒロインは、あれこれ社内の厄介ごとに直面せざるを得ない。そして彼女は、その謎を暴くことを拒否し、目をそらし、隠蔽しようとする。
読み手はそこで、ワトスンを相手に驕り高ぶる名探偵の、さらに上をいく聡明さに打たれ、冷たく刺される。ミステリはぎりぎりまで真相を語ろうとしない、ヒロインそのものなのだから。

2018/06/25

『春の庭』 柴崎友香 / 文春文庫

Photoときどき、芥川賞受賞作品を読む。順不同。

「これは凄い! この作家は今後追いかけよう!」ということは過去ほとんど起こっていないので、ほかのジャンルの作品に比べてアタリは少ないのだが、なんとなくたまには勉強、という気分で読んでいる。

柴崎友香『春の庭』は第151回芥川賞受賞作。
世田谷の取り壊し間際のアパートに住む人々が、近所に建つ「水色の家」に引かれ、その周りをうろついたり、住人と知り合って上がり込んだり、という話。
よくわからない。

登場人物の多くがその「水色の家」に引っ張られるのだが(昔タレントが住んでいて、そこでのプライベートを撮った写真集が発売されていたという)、なぜその家が人の興味を引くのか、最後まで読んでもよくわからない。作中に描かれた写真集も説明の限りではつまらなそうなのに、登場する人物人物が皆それを知っているという不可思議さ。

読んでいるうちにどこかで読んだような気分になった。そうだ、又吉直樹の『火花』だ。

登場人物の誰もが特定の対象に興味を持つ(『火花』ならお笑いのネタ)が、読み手にはそれがなぜ重要か伝わらない。その魅力を伝えることはさほど重要ではない、らしい。
登場人物どうしの関係は希薄。親しく飲み食いしたりするが、希薄。
男女関係などはテーマにならない。エロもない。
最後は登場人物の突拍子もない行動が描かれて終わるが、いきなりすぎて何を狙ったものか、よくわからない。

『火花』の受賞は第153回。
こういうのが最近の選考委員の好みなのか、としか言いようがない。

ところで、カバーの惹句には「第151回芥川賞に輝く表題作に──」とあるが、「輝く」は今、正しいのだろうか?

2018/05/31

『正義のセ ユウズウキカンチンで何が悪い!』 阿川佐和子 / 角川文庫

Photo前々回、マーケティング手法の普及、発達に伴い、テレビドラマはヒット作品の劣化コピーを繰り返すようになった、と書いた。
それがどれほど正しいかは立証のしようもないが、テレビドラマの原作に選ばれた作品がそれぞれの豊かな味わい、個性を削り、切り捨てられ、いずれどこかで見たようなモノに張り替えられてしまう例は何度も目にしてきた。コミック原作ものにそれは顕著だが、小説を原作とするドラマも本筋はそう変わらない。

『正義のセ』シリーズは、キャスター、エッセイストで知られる阿川佐和子氏(NHK・Eテレで放送されたふなっしーとの「SWITCHインタビュー 達人達」は永久保存に値する傑作だ)による、若手検事 竹村凜々子を主人公にした連作小説である。角川文庫で現在4巻まで。

豆腐屋の娘 凜々子の小学生時代から書き起こし、慣れない検事業務の中から手探りで自らの「正義」を見つけ出そうとする成長物語で、ミステリ、サスペンス色は薄い──というか、ほとんどない。午後9時、10時から放送されるサスペンスドラマより、朝の連ドラに近い、と言うとわかりやすいだろうか。
各編で凜々子が担当する事件は、凜々子を苦しめ、「正しい裁き」について惑わせこそすれど、大きな裏やどんでん返しがあるわけではない。そもそも警察の捜査がそうそう覆るはずはないし、検事が警察からの報告を疑って現場に赴くこと自体イレギュラーなのである。
2巻めの終わりから3巻めにかけ、大きな冤罪事件、そしてマスコミとの軋轢が描かれはする。しかし、その際も作者の眼差しは事件そのものより、被害者、あるいは巻き込まれた凜々子のやるせない思い、家族や友人との関係の破綻、その結ぼれに暖かく向けられる。したがってその結末も、ミステリ小説に慣れた読み手からするとおよそ肩透かしの感が強い。

ところが、これが吉高由里子主演でドラマ化(日本テレビ)されるや、原作のいくつかの事件、脇役たちは踏襲しつつ、毎回検事が事件の現場に再捜査に赴き、真相を覆す1話完結の人情サスペンスに変わってしまう。人間関係も格段にスマートだ。

不思議なことに、吉高演ずる凜々子の演技が間違っているわけではない。2年前に発行された文庫の表紙イラストも、まるで吉高のキャスティングを想定していたかのようだ。

つまり、小説とテレビドラマでは、そもそも「文体」が違うのである。

2017/12/24

首ちょんぱ 『神曲 地獄篇』 ダンテ、平川祐弘=訳 / 河出文庫

Photo皆様、メリークリスマス!
クリスマスにちなんで今夜の1冊はダンテ『神曲』です。

ある程度年を取ってからは世界の名作文学なんてもう重いばかりで──と思っていたのですが、『高慢と偏見』や『魔の山』を読んで「やっぱり凄いものは凄い」と感動、圧倒されて、一生縁のなさそうだった『失われた時を求めて』の集英社文庫版をそろえたりしているところ。『アンナ・カレーニナ』や『ガラス玉演技』もそのうち読まねば、ねばねば。

そうなると、さまざまな西洋文学の根っこに位置したと思われる『神曲』(14世紀、イタリア)が気になります。
というわけで、読んでみました──。

翻訳は各社から出ていますが、評判が悪くない、ギュスターブ・ドレの挿画がくっきりしていて見やすい(つまり内容理解の助けとなりそう)ということで河出文庫、平川祐弘(「祐」は正しくは「示」に「右」)訳を選びました。
(読み始めてしばらくして、意味のわかりにくいところ、訳者の意図がこもりすぎに思われたところもあったため、角川文庫の三浦逸雄訳も隣に並べ、読了までそれなりに大作業となりました。)

ほかの本やマンガをいくつも間にはさんで、ようよう『天国篇』まで読み終えた印象ですが──あくまで趣味の読書家の感想として、印象に残ったことを以下にまとめます。

・『地獄篇』『煉獄篇』『天国篇』と並べて、やはり『地獄篇』が一番面白い。深みはともかく『ファウスト』が動くのは第一部、といえばご理解いただけるでしょうか。

・ただ、そこに描かれた「地獄」が、ぬるい。仏教の、というか、日本人が脳裏に描く閻魔様の待ち構える地獄(以下「日本の地獄」と書きますね)では切り刻む、太い針でぶっ刺す、業火で焼く、などスプラッタ何でもありありなのに対し、タールで溺れてぐぬぬぬ、とか、炎が降ってデラデラとか、自分の首を持っててくてくとか、サディスティックな刑罰もあるにはあるのですがともかく全体にゆるい。日本の地獄は煮ても焼いても切り刻んでも罪人はすぐ復活して際限なく責め苦に合うわけですが、それってけっこう「ナイスアイデア!」だったのかもしれません。

・地獄に落とされる理由が、少し無理スジ。日本の地獄では、殺し、盗み、嘘など、そもそも悪いとされる行為、生前にそれを犯した者が落とされるわけですが、ダンテの地獄ではなによりキリスト教に背くことが一番よろしくない。それどころか、洗礼を受けていないと、それだけで地獄に落ちる理由になってしまう。地獄、煉獄とダンテを案内するのは古代ローマの大詩人ウェルギリウスなんですが、彼は尊敬に値するたいそう立派な人物でありながら、時代的に「キリスト教徒」たりえなかったため、地獄に落とされている。ギリシア神話の英雄たちもこぞって地獄行きです。
日本の地獄では、所定の期間責め苦を受けたあと、(虫だか犬だか人だかはわかりませんが)転生するということになっています。しかし、ダンテの地獄では、地獄に落とされた者は最後の審判までそれっきりです(罪を悔い改め、天国に進める煉獄というのが日本の地獄にあたる、といえばあたるようですが、ギリシアの英雄たちが地獄から煉獄、天国に進む道はないのです)。

・煉獄篇の後半から登場し、ダンテに神の国の尊さを説くベアトリーチェが実に高びー。そもそもウェルギリウスに命じてダンテに地獄、煉獄を案内させたのは、若くして死に、今は天国在中のベアトリーチェだったわけですが、ダンテやウェルギリウスを「おまえ」呼ばわりするなど、一から十まで上から目線、高圧的。ダンテが恋焦がれ、清純可憐、永遠の淑女として語り継がれるベアトリーチェですが、所詮は市井の小娘。神に代わって高飛車に天空のことわりを語られても、なあ。

・文学としてみると、表、裏、2つのことを感じます。ダンテはイタリアルネッサンスのはしりとされていると思いますが、ダ・ヴィンチの書いた冷徹、科学的な文章などと比べると中世の迷妄そのもの、という気がします。少なくとも近代性は感じない。その一方、おろおろ戸惑うへたれダンテ、偉そうに言い訳を重ねる亡者たち、跳梁跋扈する怪物たちの生々しい描写は現在読んでも十分楽しめます。名作たるゆえんですね。

・細かいことですが、訳者本人による解説に、直訳すれば
  「自己の潔白の自覚は鎖帷子のように自分を守ってくれる」
という喩えが用いられているところ(地28歌117行)を、
  「自己の潔白の自覚が人に強みを与えてくれる」
とした、とありました。そんなに意味を削っていいのかなと思われ、角川文庫版の同じところを開いてみたところ、そもそも平川訳はパラグラフ全体としてずいぶんとわかりにくい……。

などなど、雑多な感想の列記となってしまいましたが、こと「地獄」の扱いについては日本の地獄描写はちっとも負けていない!いや、むしろダンテより源信の書き残した地獄のほうがずっと凄いかも!との思いを強くし、『往生要集を読む』(中村 元、講談社学術文庫)、『絵本 地獄――千葉県安房郡三芳村延命寺所蔵』(白仁成昭、中村真男、風濤社)などぱらぱらめくってはうなされているところです。
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2017/11/15

怖い本 『妻が椎茸だったころ』 中島京子 / 講談社文庫

Photo〔諸星大二郎ふうのあらすじ〕

バイオ戦争から時を経て、世界は遺伝子レベルで改変された異形の生き物たちで埋まっていた。
ニワトリやネズミや魚には人間の遺伝子が混ざり、人間にはなんらかの動植物の遺伝子が潜む。「それ」が発現した人間はやがて体毛やウロコに覆われ、あるいは翼や尾を生やし、社会権を失って荒野に難民と化した。
私の妻はかつて食物工場の椎茸として栽培されていたが、手足、首が生えて人間の姿となり、ある襲撃事件を逃れてのち、ひっそりと我が家に入り込んだ。
妻手作りの生ぬるいシチューを食べながら私は誰にともなく繰り返す、私の手足はやがて短く縮まり、頭は傘のように開くだろう、私たちは暗く湿ったクヌギの枝に寄り添い、静かに胞子を吐くだろう。

〔中野京子ふうのあらすじ〕

今回の展示の目玉とも言える、女王の処刑を描いたこの大きな作品において、若き元女王は真新しい結婚指輪を嵌め、サテンの艶やかな純白ドレスは花嫁衣裳のようだ。しかし、その金色の髪の毛が片肩にに束ねられているのは首を切り落としやすくするためであり、衣装の胸元が大きく開いているのも同じ理由による。
元女王の前に置かれた台には古びた土鍋が用意されており、切り落とされた頭はキノコ鍋として一族に饗応される。
材料は白菜1/4、ニンジン1本、ムネ肉1枚、シラタキ180g、長ネギ1本、それに椎茸をお好みの分量。ムネ肉は一口大、野菜も適当な大きさに切ります。鍋にダシ汁1500cc、薄口醤油少々を入れて沸騰させます。処刑の終わった椎茸は石突きを取って傘を手で割き、肉、野菜とともに一煮立ちさせて処刑人が蓋を取ったら召し上がれ。







・・・筒井康隆が混じってしまった。
 
 
 
 
 

2017/10/10

出でよ、闘う文庫解説! 『文庫解説ワンダーランド』 斎藤美奈子 / 岩波新書

Photo親しい作家同士、互いに甘々と褒め合う解説、だらだら粗筋を書き連ねるばかりの解説、断りもなく犯人やトリックをさらしてしまう解説などなど、困りものの文庫解説については本ブログでも幾たびか指摘してきた。
もちろん豊かな作家紹介、鋭い一篇の文芸批評として切り出して読み応えのある解説も少なくない。個人的には岩井志麻子の『魔羅節』(新潮文庫)に寄せた久世光彦の解説など、一等星に値するように思う。

そんな「文庫解説」に着目し、古今の名作を新しいアングルで語ろうとするのが本書『文庫解説ワンダーランド』、しかも著者があの『妊娠小説』の斎藤美奈子とくれば面白くならないはずがない。冒頭から、痛快な勧善懲悪劇とみなされてきた『坊っちゃん』について各界の士が「実は悲劇」「いややはり喜劇」と丁々発止文庫解説上で斬り合う痛烈さ。続く川端康成、太宰治と、各社の文庫解説を比較検討することがこれら文豪の評価を洗い直すことにつながって目から鱗がはらはら落ちて止まない。

ただ、掲載先が岩波の「図書」、まとめたのが「岩波新書」という場のせいか、取り上げた大半が昭和以前の作家、作品で、今さら林芙美子、高村光太郎、サガン、バーネット、柴田翔なんか取り上げてどうするの、いや彼らを扱う是非はともかく、もっと現代作家とその文庫解説を語ってほしい、斬ってほしかった。「教えて、現代文学」と題した最終章に並ぶのが村上龍、赤川次郎、渡辺淳一はまだしも松本清張、竹山道雄、壺井栄、野坂昭如って……。

もう一点、本書は文庫解説を“てこの支点”にその作家、作品の評価を覆す試みなのだが、1冊、1人の文庫解説をもってあたかも当時のその作家、作品の評価がその一色で染まっていたかのごとき解き方がないわけでもなく、若干気になった。

一例。斎藤美奈子は庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』の中公文庫(1973年)の佐伯昭一による「機智とユーモアにあふれた愉しい風俗小説」という能天気な解説を受けて「当時のおおかたの読者の感想も大同小異だったろう」と少々上から目線だが、本当にそうだったろうか?
中公文庫は『赤頭巾ちゃん』の文庫化とほぼ同時に庄司薫が『赤頭巾ちゃん』より10年も前に本名の福田章二名義で発表していたシリアスな文体による『喪失』を刊行、また『白鳥の歌なんか聞こえない』の高見沢潤子の解説(1973年)に「この楽しい青春の書は、神を失った現代の社会がふりむいてもみない、人間にとって大切なもの、大げさにいえば形而上的なものを追求している、深い意味をもった青春の書なのである」と語らせている。
つまり、『赤頭巾ちゃん』はブームになった当時、すでに「愉しい風俗小説」としてのみ語られていたわけではないのだ。
斎藤美奈子は2012年の新潮文庫版の苅部直による解説で庄司薫作品の「佐伯がインテリの悪癖と切り捨てた<観念的、思想的な新現象>を述べた書であり、表層の軽さこそが<独特のてれ>なのだ」という構造が初めて明らかになったような書きぶりだが、これは事実誤認の類だろう。

2017/09/17

sick inside 『花咲舞が黙ってない』 池井戸 潤 / 中公文庫

Photoしゃっちょこばった本ばかり出してる印象の中公文庫からこんな経済ライトノベルがいきなり出てくる不思議。
しかも折り込みには文春文庫から同時発売された『銀翼のイカロス』との相乗り宣伝入り。
花咲舞が活躍する前作『不祥事』(2004年)は実業之日本社発行、文庫化は講談社からだったのだが、それから13年の間に何があったのだろうか。

──それはともかく、東京第一銀行臨店指導グループに所属する花咲舞が周囲の戸惑い構わず正義を振りかざす本シリーズは、(東京中央銀行勤務の半沢直樹シリーズ同様)作者得意の銀行を舞台にしたミステリサスペンス集である。
作者の銀行勤務体験から、銀行現場業務の詳細がバックボーンにあるが、読後感は野村胡堂や池波正太郎に近い。弱者の目線からの勧善懲悪、やや苦味の残る結末。

池井戸潤の本は「半沢直樹」や「下町ロケット」などのTVドラマブームに乗って(乗せられて)、あれこれ続けて読んだものだ。いずれも読み始めると寝食忘れるほどに面白く、主人公が立ちふさがる困難を突破する結末に毎度留飲を下げたものだが、さすがにその後は少し飽き、本書もどうしようかと思ったのだが、出先で買って読み始めると一気呵成。
世間を騒がした大きな経済事件をモデルにしたり、思いがけない人物を登場させたり、作者のサービス精神と読み手を転がすエンタメ手腕は相変わらずで、その点については文句はない。

ただ、作者が短篇を重ねてだんだん巨悪、銀行の暗部を明らかにしていっても、どこかしら矮小な印象が残るのは、これはおそらく作品のせいではない。
少子化、新規学究の停滞、中国経済の肥大化に伴う我が国の経済が相対的にエントロピー減少の様相を示しつつある中、池井戸作品で示される黒幕が巨利をむさぼる構図そのものがリアリティを失いつつある、そんな感触なのだ。

つまるところ、もうこの国では上場企業、メガバンク、政界がつるんでアンタッチャブルな権力と利益を享受せんとしても、はた目には領収書を誤魔化して不倫旅行にあてる程度の小賢しさにしか見えない。
そんな「巨悪」は少々コミュ障気味の臨店指導担当の報告書に覆されて当然。花咲舞が黙っていても、落ちていく先は変わらない。

(おまけ)
すごくどうでもいいことだが、TVドラマ「花咲舞が黙ってない」で舞を演じた杏、彼女がイメージキャラクターとしてCM出演するエアコンメーカーが三菱でよかった。

2017/08/31

『夜行』 森見登美彦 / 小学館

Photo_2太陽の塔』や『夜は短し歩けよ乙女』では浮世離れした天然ヒロインと彼女を追い回しつつプライドだけ高い冴えない先輩男子の言行についつい苦笑い、『きつねのはなし』では一転、首筋に冷たい刃を押し当てられる思いに震え、などなどなど、そんなファンにとって森見登美彦の作品の酷評など読みたくないに違いない(カラスだって何もわざわざそんなものを読みたくはない)。
であるからして、森見ファンを自認される方にはこれ以降読むことをお奨めしない。ブラウザを閉じるかYahoo!ニュースでもご覧ください。

さて、『夜行』の帯にはご丁寧にも表紙と背表紙の2か所に「10年目の集大成!」とある。もちろん作家本人でなく、編集者の手による煽り文言だろうが、これが集大成だとするといろいろマズいのではないか。

内容は第一夜「尾道」から「奥飛騨」「津軽」「天竜峡」そして最終夜「鞍馬」まで全5章、それぞれ異なる登場人物が訪ねた先の地名を冠したホラーというか人間失踪を描いた短篇集となっている。
構造は非常に凝っていて、実はそれがよろしくない。各章の語り手は10年前、鞍馬の火祭りに集った青年たち、その夜行方不明になった若い女性、そこに死んだ銅版画家の残した「夜行」という連作が各章にかかわってくる。

第一夜「尾道」は、単独のホラー短篇として読めばそう悪くない。失踪した妻を追う語り手の、悪夢の中にいるようなもどかしさ、訪ねた先の家の奇態さ。ところがその幕閉めがあまりにもありきたりで拍子抜け、おまけにこれではどうにも次章につながらない。

それ以降、この連作集にはキーとなる建物がいくつか登場する。同じ建物のつもりかそうでないのか判然としないのだが、「尾道」の家を除くと、いずれも書き手が期待するほどにはそこに異界が感じられない。というか、ほとんど描写がない。
それなのに、登場人物に何度も「いやな感じがする」と語らせるのはどうだろう。禍々しいならそう描くのが作家の腕だろう。仕事、と言ってもよい。

もう一点、「尾道」がほかの章よりマシに思えるのは、ここではまだ坂の多い尾道という土地を描く努力がなされているためで、「天竜峡」では飯田線の電車の中でのやり取りが描かれるばかり、「鞍馬」でもそこに至る行程しか描かれていないに等しい。

銅版画家や行方不明になった女性は怪異に翻弄された側なのか、ただ少しエキセントリックなだけなのか。万事曖昧で、厳しく言えば適当である。
何人かの登場人物が口にする「世界はつねに夜なんだよ」「世界はつねに夜なのよ」とのセリフも大仰なばかりで、世界を特定するキーワードたり得ない。ちなみに帯に大きく書かれた「彼女はまだ、あの夜の中にいる」は正確ではない。

『夜は短し歩けよ乙女』のヒロインのほうがよほど夜に属していた、と今は懐かしく思う。

2017/08/23

『コンビニ人間』 村田沙耶香 / 文藝春秋社

Photo『これは経費で落ちません! ~経理部の森若さん~』の主人公、森若沙名子は、経理部勤務として求められる生真面目、規則に厳しい、を少し通り越して、杓子定規、融通の利かなさ度合がやや喫水線を越えている。病的とまでは言えないが、勤務先の会社や所属部署、あるいはプライベートな人間関係によっては、いささか問題を起こしかねない。逆に言えばこのシリーズは、作者が、そんな石部金子さんさえ動揺してしまうさまざまな人間模様をテーマとした短篇連作、と言うことなのだろう。

働く女性、融通が利かない──最近どこかで読んだな、と思ったら、昨年上期の芥川賞受賞作『コンビニ人間』がそうだった。

こちらの主人公、36歳未婚の古倉恵子は、発達障害と言うのかコミュ障と言うのか知らないが、もはや明らかに病気の域である。なにしろ子どもの頃から……と引用してしまうと未読の方の興趣を削ぐだろうからここでは省略するが、その壊れっぷりはかなり凄まじい。
もとい、「壊れっぷり」などと脇の甘い表現を用いてしまったが、これは正しくない。古倉恵子は壊れているのではなく、そのように出来上がっているのである。

そんな主人公が、人の真似をして規律を守っていれば健やかに眠れるコンビニバイトに天職を見い出し、18年間の安逸を得るが、新入り男性の登場によって期せずして──というのが本作の枠組みだ。もっとも事件は予想外な方向に進むのではなく、古倉恵子という人間に素材を渡せば必ずそのようになる、という展開になる。作品としては、テイストはホラー、しかしホラーとしては追い込み不足といった塩梅となるわけである(なんだか以前読んだほかの芥川賞受賞作品もそんな印象だった気がする。最近の選考委員の嗜好なのか?)。

Amazonのレビューなど読むと、肯定的な声では「“普通”“正常”を押し付けてくる人々の“正義”へのささやかな反抗」として評価されているようだ。コンビニ勤務経験者による賛同が少なくないのも面白い。
個人的にはそういった社会的な深みはあまり感じられず、ヘンな女のヘンな話、としか読めなかった。実際、主人公古倉恵子は“普通”でないという扱いを受けることに面倒な思いはしても、とくに苦しんではいない。そんな人間は、家族や職場の部下でもない限り、距離を置いて面白がっていればよいのである(などと書いてしまうと、どんな反響があるだろう)。

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