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カテゴリー「小説・詩・文芸評論」の152件の記事

2018/11/12

待望の未刊行作品集 『春風コンビお手柄帳』『お下げ髪の詩人』『不思議なシマ氏』『ミス・ダニエルズの追想』 小沼 丹 / 幻戯書房

Photoあくまで個人的感慨とお断りした上で申し上げるが、この20年に限定したこの国の文学上、最上の出来事といえば、それは小沼丹(1918-1996年)の再評価だったのではないか。

作家小沼丹は「第三の新人」の一人とみなされている。しかし、華々しく活躍し、文学の外でも名をあげられることの少なくない安岡章太郎、阿川弘之、庄野潤三、遠藤周作、吉行淳之介、曽野綾子らに比べ、小沼作品は晩年、1991年の講談社文芸文庫『懐中時計』まで、文庫化されることすらなかった。
この一点をもっても、小沼が戦後作家の中でいかにマイナー扱いだったかが窺える。

その後創元推理文庫から漢字遣いも魅力的な連作推理短篇集『黒いハンカチ』(2003年)、未知谷から大部の「小沼丹全集」全5巻(2004-2005年)、同じく未知谷から未刊行長編『風光る丘』(2004年)がそれぞれ発行され、講談社文芸文庫からは現在まで順当に代表作の刊行が継続しており、(あの高価な)文芸文庫に絶版・廃刊の気配もないことから、この出版不況のさなかにおいて文学作品としてはそこそこ売れ行き好調なのではと推察される。

そしてそこに、今年2018年になって角川系列の幻戯書房(「幻戯」は角川源義氏のゲンギをなぞったものだそうだ)から生誕百年記念、未刊行作品集として

 『春風コンビお手柄帳 小沼丹未刊行少年少女小説集 推理篇』
 『お下げ髪の詩人 小沼丹未刊行少年少女小説集 青春篇』
 『不思議なシマ氏』(娯楽中短篇集)
 『ミス・ダニエルズの追想』(随筆集)

の4冊が続けて発刊された。続刊の予定もあるらしい。小沼ファンとしては望外の喜びである。
──というか、(未知谷を責めるつもりはないが)全集を経てなお、どれほど未刊行作品が野に置かれているのやら。

小沼丹といえば、(『懐中時計』がまさしくそうだが)身辺のさりげないあれこれをとぼけた文体で描くうちに人生の寂寥、哀感がしみじみとにじみ出る、そういった作風で知られている。
実際、今回の作品集の解説でも、以下の評価が記されている。

  今、小沼の本領とされるのは《大寺さん》ものといわれる後期の私小説だ。
   (北村 薫『お下げ髪の詩人』巻末エッセイ「春風は吹いているか」より)

  一九六三年(昭和三十八)年四月、作者四十四歳のときに妻の急死に遭ひ、心境に大きな変化が生じてのちのことである。作者の自筆年譜を見ると、「昭和三十九年五月、『黒と白の猫』を『世界』に発表。この頃よりフィクションに興味を失ふ」とある。
   (大島一彦『不思議なシマ氏』解説「小沼丹前期の作風について」より)

三行にまとめると、こうなる。

  小沼丹は飄々としたユーモアに溢れるフィクションで活躍。
  妻の急死にともない《大寺さん》を主人公とした私小説ふう作風に変貌。
  その後の人生の哀感を淡々と描く作風が高く評価されている。

2さて、ここでまたしても個人的な感想だが、小沼丹については、前期のフィクショナルな作品のほうにむしろ原石の魅力があるのではないか。

そもそも妻の急死で作風が変わったということになっているが、果たしてそうだったか。たとえば前期の『黒いハンカチ』では、主人公のニシ・アヅマ女史は明朗かつたおやかに見えてそのくせどこかうら寂しい影がつきまとう。その理由は連作の終わりごろに俄然明らかになるが、ここですでに伴侶にあたる者の死は作品の背中ごしに透かして重い。
今回発行された少年少女小説集、その収録作はいずれも当時の少女雑誌や学年誌の雰囲気を伝える素朴な味わいが懐かしいが、その作品の多くにおいても、実は死や別れは裏側にバイメタル然として静かに貼り付いている。そしてそれがストーリーの発端であったり、切ない結末であったりする。これは小沼作品全体を通して言えることである。

さらにいえば、後期の《大寺さん》シリーズを作者の言葉どおり「フィクションでない」とみなすことは本当に正しいのだろうか。
これらの作品の主人公がなぜ《大寺さん》であり、《僕》ではなかったのか。それは、小沼丹という語り手の「私」を描く私小説を装いながら、あくまでフィクションだったからではないだろうか。
実際、小沼にはイギリス留学時を語る『椋鳥日記』、師たる井伏鱒二の思い出を語る随想など、当人のリアルな日常を描く作品が多々あるが、これらの多くではとぼけた語り口はさておき《大寺さん》シリーズにある滋味のようなものが決定的に欠けている。つまり、作家個人の私生活をそのまま描いたからといって、そのままでは決して《大寺さん》にはならないのである。

もちろん、初期の初期、いかにも芥川賞を狙ったような純文学作品や、登場人物を妙ちくりんなカタカナで示したユーモア作品一つひとつのレベルは必ずしも高くない。
だが、いかにも昭和、の香り漂うそれらの背伸びし、バタバタした作品にときどきふっと落ちる影のベール、死の匂い、そこに小沼作品の本筋がある。それは《大寺さん》以前も、以降も、一貫しているようにも思う。何を隠そう、小沼作品は、初期も後期も総じてけっこう怖いのである。

2018/10/25

出会いを逃す 『死の島』(上・下) 福永武彦 / 講談社文芸文庫

Photo本作が発表されたのが1971年。その少しあとから書店の棚の函入りハードカバー上下巻がずっと気にはかかっていた。
平成も終わりのこの年になってようやく(講談社文芸文庫版で)手に取り、読み通すことができたわけだが、学生のころに読んでいたなら、きっと、もっと──という覚めた思いは否めない。

力作である。
おそらく、戦後日本文学の頂点の一つと評して大きく間違いではないだろう。

表向きの語り手は若い編輯(編集)者にして小説家志望の相馬鼎。彼が知り合った二人の女性、広島で被曝した画家・萌木素子、そして素子と同居する清楚な相見綾子、その二人が広島で心中をはかったとの報に相馬は急ぎ東京から広島に向かう(終戦間もなく、新幹線のない時代設定である。念のため)。

『死の島』は相馬が東京を発って広島に向かうその1日の物語であり、相馬が画展で素子の絵を見、書籍の表紙画の依頼を言い訳に足しげく素子と綾子の下宿に通うようになってからの1年の物語であり、さらに相馬が彼女たちをモデルに仕立て上げた小説の草稿、素子本人や綾子を愛した男らの心象風景、これらを数ページの細かな章に切り刻み、カットバック手法で縦横に並べ立てた実験小説である。

通常の長編小説のように起承転結、序破急の構成をとらず、その上、随所に

  わたしの声はいつになくやさしかったが、やさしい声以外にどうやって死者に呼び掛けることが出来るか。本当はわたしはこう言いたかったのだ。綾ちゃんは死んでいらっしゃい、わたしもすぐに死ぬから、と。まるでわたしがまだ死んでいなかったかのように。

といった暗喩に満ちた散文詩的表現が用いられ、読み手は短い章のことごとに緊張を強いられて流し読みが許されない。

もし、この作品に、甘々と文筆家に憧れた学生のころに出会っていたなら、この密度、構成、実験性に徹底的に圧倒されてよくも悪しくもくさっていたに違いない。
ただ、今となってはこの複雑な構成は少し余計なものに思えてならない。相馬、素子、綾子の三者の心理は三面鏡を合わせたような整合性を示すわけでなく、さりとて互いに止揚し合うわけでもなく、頓狂な相馬はとことん素子、綾子の心理に遠く及ばぬ心理音痴、綾子は最後まで人物設定がぼんやり不明確なのだ。
ことに、最後まで読んでも綾子がなぜ素子と最後の行動をともにしたのかわからない。綾子は相馬から見えているほど清楚でも愛らしくもなく、かといって生命力に溢れたイメージもなく、ただ漠然と人生に飽いた程度の印象。そもそも駆け落ち、同棲に失敗したお嬢さまの問題と、20万人の死傷を目の当たりにした苦悩を同等にリンクさせるのは無茶だろう。

相馬や綾子は愚かな狂言回しに控えさせて、徹底的に素子が死を見つめる物語にしてしまえばよかったのではないか。ただ、そうしてしまうと、実は1970年当時は、平成末の現在とは桁違いに広島、長崎の原爆の悲惨を直接扱う表現作品が少なくなかった。

  「オ水要リマセンカ、オ水デス。」

とカタカナで描かれる被曝の描写は苛烈だが、ただそれを描くだけではおそらく文学にはなり得ない。福永武彦はそう考え、素子の物語をただその素材のまま提出することができなかったのではなかろうか。その屈折に、大仰とわかってはいるが文学の敗北、なんてことを考えざるを得ない。
──ああ、いやだ、いやだ。やはり学生のころに読むべきだった。

2018/08/27

『短篇ベストコレクション 現代の小説2018』 日本文藝家協会 編 / 徳間文庫

Photo大雑把に区分するなら、
・花火大会の町の歴史から商店街の人間関係、かかった総費用から当日の天気の案配、そして打ち上げ実施から後片付けまで微に入り細を穿って綴る「長編小説
に対し、
・パンと打ち上がってドンと鳴る花火の一瞬を描くのが「短篇小説
として大きく外れはないのではないか。

※もちろん、たった16ページの短篇マンガにNHKの大河ドラマの1年分にも匹敵する大きな歴史のうねりと人々の悲哀を細部まで描き上げた「グレン・スミスの日記」(萩尾望都)のようなバケモノもあるにはある。

※ちなみに「長」「短」と漢字の不統一があるが、昔、木簡に穴を空け、ヒモを通して束ねて保管したことに由来する「編」と、竹で出来た木簡そのものに由来する「篇」の字を鑑みるに、ついつい「長編」「短篇」と書き分けてしまう、これは個人的なシュミ、コダワリの類なのでどうかご容赦願いたい。

さて、なぜ「長編小説」と「短篇小説」などという遠回しなことから書き始めたかというと、今回の『短篇ベストコレクション』の選評の加減が、どうも、起承転結のはっきりしない、つまり花火でいえば打ち上がって、のところで〆てしまって後を曖昧にした、そんな印象の作品が多かったためである。

文芸雑誌を読まないので、選者の好みなのか、2018年の作品の傾向なのか、そこは判断がつかない。
以下、収録作について、未読の方のお邪魔にならない程度にさっくりと。

川上弘美「廊下」
味な作品。ただ、昔の恋に対するこういうこだわりは、むしろ男性寄りの感性ではないか。
雪舟えま「りゅりゅりゅ流星群」
いわゆるBLの小説版なのだが、読後感は昔(1950~60年代)の少女小説に近い。
河崎秋子「頸、冷える」
北海道のミンク養殖を題材にした、起承転結が明確、かつ骨太な作品。強いて難点を探せば、タイトルが?
小川洋子「仮名の作家」
作者がときどき見せるテクニカルな逸品。とはいえ短篇集『海』収録の「バタフライ和文タイプ事務所」にはやや及ばず。
野崎まど「精神構造相関性物理剛性」
老夫婦の交錯する思いを描く穏やかな好篇だが……こんなもの(?)を掲載した「SFマガジン」はどうなっているのか?
高野史緒「ハンノキのある島で」
古典指定、保存書籍指定を受けられなかった新刊は六年をもって廃棄される、という「読書法」の施行された世界を描く近未来SF。興味と期待をもって読んだが、世界はもはやこのような法律を求めるほどには「本」に頓着していない。
いしいしんじ「おとうさん」
ほのぼの、なのか? よくわからなかった。
小田雅久仁「髪禍」
ある宗教団体のイベント……その描写は凄い。だが、小説として、こんなふうに解き放ってしまってはダメなんじゃないか。
澤村伊智「コンピューターお義母さん」
暴走しすぎた「髪禍」に対し、こちらは端的に怖い。現在の技術で十分賄っておつりのくる恐怖。ただ、攻撃を受ける側も同じ技術をもって防御ないし反撃に出るかもしれない。いずれにせよ夫の出る幕はない。桑原桑原。
恩田陸「皇居前広場のピルエット」
絶妙なスケッチ。ただしあくまでスケッチ。
深緑野分「緑の子どもたち」
ニューウェーブ(死語)のSF長編を切り抜いたような作品。この短篇が終わった後、穏やかで健やか日々が始まるのか、それとも凄惨な出来事が待っているのか。わからないが、それはそれで仕方がない。
藤田宜永「土産話」
視聴者の高年齢化の進むテレビは、イケメンと美少女がキャッキャウフフする青春ドラマなどより、こういった中年、老年のしみじみした哀歌をもう少し扱ってもよいかもしれない。ただ、この「土産話」、ちょっと考えると実に酷い話。
唯川恵「陽だまりの中」
孫のいる世代の母親を描いた作品。上の「土産話」同様、酷い話なのだが、酷い話を酷いとわかったうえできちんと着地させ、好感がもてる。
青崎有吾「穴の開いた密室」
ゴミゴミしたギャグが煩わしいが、事件(謎)と推理は本格派。座布団一枚。
三崎亜記「公園」
世界を裏返す三崎亜記の得意技は「公園」については有効だが、「子供たち」の描き方はやや凡庸。一本ならず。
勝山海百合「落星始末」
こちらもシリーズものの一部。雰囲気や言葉遣いは上質だが、描かれた肝心の「落星」そのものがちょっとよくわからない。え、それで本当に終わりなのか? と、この『短篇ベストコレクション』一巻全般に肩透かしの感あり。

2018/07/15

新しいミステリのかたち 『これは経費で落ちません! ~経理部の森若さん~ (4)』 青木祐子 / 集英社オレンジ文庫

Photo前回も書いたように、これはミステリである。
もしかすると、新しいミステリのかたちが示されているのかもしれない。

毎度そうなのだが、読み始めはライトな感覚である。経理部の森若さんをめぐるにぎやかで少しだけ面倒な日々を描いた女性向けお仕事小説……

短編四部とエピソードの掌編からなる本巻でいえば、経理部の新人との葛藤を描いた第一部や若い女性ならではのエピソードを描いた第三部までは、(森若ファンとしてはショックではあるものの)まだわかる。
第四部はまるでわからない。背中から切りつけられたのに、そのナイフがあまりに鋭利なため気がつかない、そのくらいダメージは大きい。

かつて、1980年代、若手の作家たちによってさまざまなトリックや書き方を工夫した「新本格ミステリ」が勃興し、その中に、平凡な生活を送る若者(主に少女)が日常の言葉や出来事に微かな違和感を感じ、そこに(ときに残酷な)真実を暴いていく、「日常の謎」と呼ばれるジャンルがあった。

『これは経費で落ちません!』で提示されているのは、「日常の謎」に匹敵する、新しいミステリの在り方である、と言って過言ではない、かもしれない(もちろん、一つのジャンルとして成立するためには作者のみならずエピゴーネンの追従が必要であることはわかっている)。

この作品は、まず、これが謎解き小説であることを示さない。ヒロインは探偵であることを是としない。しかし、経理部という生々しい数字を扱う部署に勤めるヒロインは、あれこれ社内の厄介ごとに直面せざるを得ない。そして彼女は、その謎を暴くことを拒否し、目をそらし、隠蔽しようとする。
読み手はそこで、ワトスンを相手に驕り高ぶる名探偵の、さらに上をいく聡明さに打たれ、冷たく刺される。ミステリはぎりぎりまで真相を語ろうとしない、ヒロインそのものなのだから。

2018/06/25

『春の庭』 柴崎友香 / 文春文庫

Photoときどき、芥川賞受賞作品を読む。順不同。

「これは凄い! この作家は今後追いかけよう!」ということは過去ほとんど起こっていないので、ほかのジャンルの作品に比べてアタリは少ないのだが、なんとなくたまには勉強、という気分で読んでいる。

柴崎友香『春の庭』は第151回芥川賞受賞作。
世田谷の取り壊し間際のアパートに住む人々が、近所に建つ「水色の家」に引かれ、その周りをうろついたり、住人と知り合って上がり込んだり、という話。
よくわからない。

登場人物の多くがその「水色の家」に引っ張られるのだが(昔タレントが住んでいて、そこでのプライベートを撮った写真集が発売されていたという)、なぜその家が人の興味を引くのか、最後まで読んでもよくわからない。作中に描かれた写真集も説明の限りではつまらなそうなのに、登場する人物人物が皆それを知っているという不可思議さ。

読んでいるうちにどこかで読んだような気分になった。そうだ、又吉直樹の『火花』だ。

登場人物の誰もが特定の対象に興味を持つ(『火花』ならお笑いのネタ)が、読み手にはそれがなぜ重要か伝わらない。その魅力を伝えることはさほど重要ではない、らしい。
登場人物どうしの関係は希薄。親しく飲み食いしたりするが、希薄。
男女関係などはテーマにならない。エロもない。
最後は登場人物の突拍子もない行動が描かれて終わるが、いきなりすぎて何を狙ったものか、よくわからない。

『火花』の受賞は第153回。
こういうのが最近の選考委員の好みなのか、としか言いようがない。

ところで、カバーの惹句には「第151回芥川賞に輝く表題作に──」とあるが、「輝く」は今、正しいのだろうか?

2018/05/31

『正義のセ ユウズウキカンチンで何が悪い!』 阿川佐和子 / 角川文庫

Photo前々回、マーケティング手法の普及、発達に伴い、テレビドラマはヒット作品の劣化コピーを繰り返すようになった、と書いた。
それがどれほど正しいかは立証のしようもないが、テレビドラマの原作に選ばれた作品がそれぞれの豊かな味わい、個性を削り、切り捨てられ、いずれどこかで見たようなモノに張り替えられてしまう例は何度も目にしてきた。コミック原作ものにそれは顕著だが、小説を原作とするドラマも本筋はそう変わらない。

『正義のセ』シリーズは、キャスター、エッセイストで知られる阿川佐和子氏(NHK・Eテレで放送されたふなっしーとの「SWITCHインタビュー 達人達」は永久保存に値する傑作だ)による、若手検事 竹村凜々子を主人公にした連作小説である。角川文庫で現在4巻まで。

豆腐屋の娘 凜々子の小学生時代から書き起こし、慣れない検事業務の中から手探りで自らの「正義」を見つけ出そうとする成長物語で、ミステリ、サスペンス色は薄い──というか、ほとんどない。午後9時、10時から放送されるサスペンスドラマより、朝の連ドラに近い、と言うとわかりやすいだろうか。
各編で凜々子が担当する事件は、凜々子を苦しめ、「正しい裁き」について惑わせこそすれど、大きな裏やどんでん返しがあるわけではない。そもそも警察の捜査がそうそう覆るはずはないし、検事が警察からの報告を疑って現場に赴くこと自体イレギュラーなのである。
2巻めの終わりから3巻めにかけ、大きな冤罪事件、そしてマスコミとの軋轢が描かれはする。しかし、その際も作者の眼差しは事件そのものより、被害者、あるいは巻き込まれた凜々子のやるせない思い、家族や友人との関係の破綻、その結ぼれに暖かく向けられる。したがってその結末も、ミステリ小説に慣れた読み手からするとおよそ肩透かしの感が強い。

ところが、これが吉高由里子主演でドラマ化(日本テレビ)されるや、原作のいくつかの事件、脇役たちは踏襲しつつ、毎回検事が事件の現場に再捜査に赴き、真相を覆す1話完結の人情サスペンスに変わってしまう。人間関係も格段にスマートだ。

不思議なことに、吉高演ずる凜々子の演技が間違っているわけではない。2年前に発行された文庫の表紙イラストも、まるで吉高のキャスティングを想定していたかのようだ。

つまり、小説とテレビドラマでは、そもそも「文体」が違うのである。

2017/12/24

首ちょんぱ 『神曲 地獄篇』 ダンテ、平川祐弘=訳 / 河出文庫

Photo皆様、メリークリスマス!
クリスマスにちなんで今夜の1冊はダンテ『神曲』です。

ある程度年を取ってからは世界の名作文学なんてもう重いばかりで──と思っていたのですが、『高慢と偏見』や『魔の山』を読んで「やっぱり凄いものは凄い」と感動、圧倒されて、一生縁のなさそうだった『失われた時を求めて』の集英社文庫版をそろえたりしているところ。『アンナ・カレーニナ』や『ガラス玉演技』もそのうち読まねば、ねばねば。

そうなると、さまざまな西洋文学の根っこに位置したと思われる『神曲』(14世紀、イタリア)が気になります。
というわけで、読んでみました──。

翻訳は各社から出ていますが、評判が悪くない、ギュスターブ・ドレの挿画がくっきりしていて見やすい(つまり内容理解の助けとなりそう)ということで河出文庫、平川祐弘(「祐」は正しくは「示」に「右」)訳を選びました。
(読み始めてしばらくして、意味のわかりにくいところ、訳者の意図がこもりすぎに思われたところもあったため、角川文庫の三浦逸雄訳も隣に並べ、読了までそれなりに大作業となりました。)

ほかの本やマンガをいくつも間にはさんで、ようよう『天国篇』まで読み終えた印象ですが──あくまで趣味の読書家の感想として、印象に残ったことを以下にまとめます。

・『地獄篇』『煉獄篇』『天国篇』と並べて、やはり『地獄篇』が一番面白い。深みはともかく『ファウスト』が動くのは第一部、といえばご理解いただけるでしょうか。

・ただ、そこに描かれた「地獄」が、ぬるい。仏教の、というか、日本人が脳裏に描く閻魔様の待ち構える地獄(以下「日本の地獄」と書きますね)では切り刻む、太い針でぶっ刺す、業火で焼く、などスプラッタ何でもありありなのに対し、タールで溺れてぐぬぬぬ、とか、炎が降ってデラデラとか、自分の首を持っててくてくとか、サディスティックな刑罰もあるにはあるのですがともかく全体にゆるい。日本の地獄は煮ても焼いても切り刻んでも罪人はすぐ復活して際限なく責め苦に合うわけですが、それってけっこう「ナイスアイデア!」だったのかもしれません。

・地獄に落とされる理由が、少し無理スジ。日本の地獄では、殺し、盗み、嘘など、そもそも悪いとされる行為、生前にそれを犯した者が落とされるわけですが、ダンテの地獄ではなによりキリスト教に背くことが一番よろしくない。それどころか、洗礼を受けていないと、それだけで地獄に落ちる理由になってしまう。地獄、煉獄とダンテを案内するのは古代ローマの大詩人ウェルギリウスなんですが、彼は尊敬に値するたいそう立派な人物でありながら、時代的に「キリスト教徒」たりえなかったため、地獄に落とされている。ギリシア神話の英雄たちもこぞって地獄行きです。
日本の地獄では、所定の期間責め苦を受けたあと、(虫だか犬だか人だかはわかりませんが)転生するということになっています。しかし、ダンテの地獄では、地獄に落とされた者は最後の審判までそれっきりです(罪を悔い改め、天国に進める煉獄というのが日本の地獄にあたる、といえばあたるようですが、ギリシアの英雄たちが地獄から煉獄、天国に進む道はないのです)。

・煉獄篇の後半から登場し、ダンテに神の国の尊さを説くベアトリーチェが実に高びー。そもそもウェルギリウスに命じてダンテに地獄、煉獄を案内させたのは、若くして死に、今は天国在中のベアトリーチェだったわけですが、ダンテやウェルギリウスを「おまえ」呼ばわりするなど、一から十まで上から目線、高圧的。ダンテが恋焦がれ、清純可憐、永遠の淑女として語り継がれるベアトリーチェですが、所詮は市井の小娘。神に代わって高飛車に天空のことわりを語られても、なあ。

・文学としてみると、表、裏、2つのことを感じます。ダンテはイタリアルネッサンスのはしりとされていると思いますが、ダ・ヴィンチの書いた冷徹、科学的な文章などと比べると中世の迷妄そのもの、という気がします。少なくとも近代性は感じない。その一方、おろおろ戸惑うへたれダンテ、偉そうに言い訳を重ねる亡者たち、跳梁跋扈する怪物たちの生々しい描写は現在読んでも十分楽しめます。名作たるゆえんですね。

・細かいことですが、訳者本人による解説に、直訳すれば
  「自己の潔白の自覚は鎖帷子のように自分を守ってくれる」
という喩えが用いられているところ(地28歌117行)を、
  「自己の潔白の自覚が人に強みを与えてくれる」
とした、とありました。そんなに意味を削っていいのかなと思われ、角川文庫版の同じところを開いてみたところ、そもそも平川訳はパラグラフ全体としてずいぶんとわかりにくい……。

などなど、雑多な感想の列記となってしまいましたが、こと「地獄」の扱いについては日本の地獄描写はちっとも負けていない!いや、むしろダンテより源信の書き残した地獄のほうがずっと凄いかも!との思いを強くし、『往生要集を読む』(中村 元、講談社学術文庫)、『絵本 地獄――千葉県安房郡三芳村延命寺所蔵』(白仁成昭、中村真男、風濤社)などぱらぱらめくってはうなされているところです。
2

2017/11/15

怖い本 『妻が椎茸だったころ』 中島京子 / 講談社文庫

Photo〔諸星大二郎ふうのあらすじ〕

バイオ戦争から時を経て、世界は遺伝子レベルで改変された異形の生き物たちで埋まっていた。
ニワトリやネズミや魚には人間の遺伝子が混ざり、人間にはなんらかの動植物の遺伝子が潜む。「それ」が発現した人間はやがて体毛やウロコに覆われ、あるいは翼や尾を生やし、社会権を失って荒野に難民と化した。
私の妻はかつて食物工場の椎茸として栽培されていたが、手足、首が生えて人間の姿となり、ある襲撃事件を逃れてのち、ひっそりと我が家に入り込んだ。
妻手作りの生ぬるいシチューを食べながら私は誰にともなく繰り返す、私の手足はやがて短く縮まり、頭は傘のように開くだろう、私たちは暗く湿ったクヌギの枝に寄り添い、静かに胞子を吐くだろう。

〔中野京子ふうのあらすじ〕

今回の展示の目玉とも言える、女王の処刑を描いたこの大きな作品において、若き元女王は真新しい結婚指輪を嵌め、サテンの艶やかな純白ドレスは花嫁衣裳のようだ。しかし、その金色の髪の毛が片肩にに束ねられているのは首を切り落としやすくするためであり、衣装の胸元が大きく開いているのも同じ理由による。
元女王の前に置かれた台には古びた土鍋が用意されており、切り落とされた頭はキノコ鍋として一族に饗応される。
材料は白菜1/4、ニンジン1本、ムネ肉1枚、シラタキ180g、長ネギ1本、それに椎茸をお好みの分量。ムネ肉は一口大、野菜も適当な大きさに切ります。鍋にダシ汁1500cc、薄口醤油少々を入れて沸騰させます。処刑の終わった椎茸は石突きを取って傘を手で割き、肉、野菜とともに一煮立ちさせて処刑人が蓋を取ったら召し上がれ。







・・・筒井康隆が混じってしまった。
 
 
 
 
 

2017/10/10

出でよ、闘う文庫解説! 『文庫解説ワンダーランド』 斎藤美奈子 / 岩波新書

Photo親しい作家同士、互いに甘々と褒め合う解説、だらだら粗筋を書き連ねるばかりの解説、断りもなく犯人やトリックをさらしてしまう解説などなど、困りものの文庫解説については本ブログでも幾たびか指摘してきた。
もちろん豊かな作家紹介、鋭い一篇の文芸批評として切り出して読み応えのある解説も少なくない。個人的には岩井志麻子の『魔羅節』(新潮文庫)に寄せた久世光彦の解説など、一等星に値するように思う。

そんな「文庫解説」に着目し、古今の名作を新しいアングルで語ろうとするのが本書『文庫解説ワンダーランド』、しかも著者があの『妊娠小説』の斎藤美奈子とくれば面白くならないはずがない。冒頭から、痛快な勧善懲悪劇とみなされてきた『坊っちゃん』について各界の士が「実は悲劇」「いややはり喜劇」と丁々発止文庫解説上で斬り合う痛烈さ。続く川端康成、太宰治と、各社の文庫解説を比較検討することがこれら文豪の評価を洗い直すことにつながって目から鱗がはらはら落ちて止まない。

ただ、掲載先が岩波の「図書」、まとめたのが「岩波新書」という場のせいか、取り上げた大半が昭和以前の作家、作品で、今さら林芙美子、高村光太郎、サガン、バーネット、柴田翔なんか取り上げてどうするの、いや彼らを扱う是非はともかく、もっと現代作家とその文庫解説を語ってほしい、斬ってほしかった。「教えて、現代文学」と題した最終章に並ぶのが村上龍、赤川次郎、渡辺淳一はまだしも松本清張、竹山道雄、壺井栄、野坂昭如って……。

もう一点、本書は文庫解説を“てこの支点”にその作家、作品の評価を覆す試みなのだが、1冊、1人の文庫解説をもってあたかも当時のその作家、作品の評価がその一色で染まっていたかのごとき解き方がないわけでもなく、若干気になった。

一例。斎藤美奈子は庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』の中公文庫(1973年)の佐伯昭一による「機智とユーモアにあふれた愉しい風俗小説」という能天気な解説を受けて「当時のおおかたの読者の感想も大同小異だったろう」と少々上から目線だが、本当にそうだったろうか?
中公文庫は『赤頭巾ちゃん』の文庫化とほぼ同時に庄司薫が『赤頭巾ちゃん』より10年も前に本名の福田章二名義で発表していたシリアスな文体による『喪失』を刊行、また『白鳥の歌なんか聞こえない』の高見沢潤子の解説(1973年)に「この楽しい青春の書は、神を失った現代の社会がふりむいてもみない、人間にとって大切なもの、大げさにいえば形而上的なものを追求している、深い意味をもった青春の書なのである」と語らせている。
つまり、『赤頭巾ちゃん』はブームになった当時、すでに「愉しい風俗小説」としてのみ語られていたわけではないのだ。
斎藤美奈子は2012年の新潮文庫版の苅部直による解説で庄司薫作品の「佐伯がインテリの悪癖と切り捨てた<観念的、思想的な新現象>を述べた書であり、表層の軽さこそが<独特のてれ>なのだ」という構造が初めて明らかになったような書きぶりだが、これは事実誤認の類だろう。

2017/09/17

sick inside 『花咲舞が黙ってない』 池井戸 潤 / 中公文庫

Photoしゃっちょこばった本ばかり出してる印象の中公文庫からこんな経済ライトノベルがいきなり出てくる不思議。
しかも折り込みには文春文庫から同時発売された『銀翼のイカロス』との相乗り宣伝入り。
花咲舞が活躍する前作『不祥事』(2004年)は実業之日本社発行、文庫化は講談社からだったのだが、それから13年の間に何があったのだろうか。

──それはともかく、東京第一銀行臨店指導グループに所属する花咲舞が周囲の戸惑い構わず正義を振りかざす本シリーズは、(東京中央銀行勤務の半沢直樹シリーズ同様)作者得意の銀行を舞台にしたミステリサスペンス集である。
作者の銀行勤務体験から、銀行現場業務の詳細がバックボーンにあるが、読後感は野村胡堂や池波正太郎に近い。弱者の目線からの勧善懲悪、やや苦味の残る結末。

池井戸潤の本は「半沢直樹」や「下町ロケット」などのTVドラマブームに乗って(乗せられて)、あれこれ続けて読んだものだ。いずれも読み始めると寝食忘れるほどに面白く、主人公が立ちふさがる困難を突破する結末に毎度留飲を下げたものだが、さすがにその後は少し飽き、本書もどうしようかと思ったのだが、出先で買って読み始めると一気呵成。
世間を騒がした大きな経済事件をモデルにしたり、思いがけない人物を登場させたり、作者のサービス精神と読み手を転がすエンタメ手腕は相変わらずで、その点については文句はない。

ただ、作者が短篇を重ねてだんだん巨悪、銀行の暗部を明らかにしていっても、どこかしら矮小な印象が残るのは、これはおそらく作品のせいではない。
少子化、新規学究の停滞、中国経済の肥大化に伴う我が国の経済が相対的にエントロピー減少の様相を示しつつある中、池井戸作品で示される黒幕が巨利をむさぼる構図そのものがリアリティを失いつつある、そんな感触なのだ。

つまるところ、もうこの国では上場企業、メガバンク、政界がつるんでアンタッチャブルな権力と利益を享受せんとしても、はた目には領収書を誤魔化して不倫旅行にあてる程度の小賢しさにしか見えない。
そんな「巨悪」は少々コミュ障気味の臨店指導担当の報告書に覆されて当然。花咲舞が黙っていても、落ちていく先は変わらない。

(おまけ)
すごくどうでもいいことだが、TVドラマ「花咲舞が黙ってない」で舞を演じた杏、彼女がイメージキャラクターとしてCM出演するエアコンメーカーが三菱でよかった。

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