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カテゴリー「小説・詩・文芸評論」の157件の記事

2019/04/25

山川方夫『夏の葬列』(集英社文庫)、『親しい友人たち』(創元推理文庫)

Photo_6 最近、ときどき山川方夫を読んでいる。ざっくり、四十数年ぶり。

初めて手にしたのは大学に入ったばかりの頃、池袋東口にあったクラシック喫茶で本を読もうと先輩に誘われて。先輩たちと雑居していたアパートからの道すがら、西口の芳林堂2階で新潮文庫版を買った。『愛のごとく』、あるいは『海岸公園』、どちらだったかは覚えていない。
クラシック喫茶というのは、ひねもすクラシックの名盤をかける店で、その店は椅子、テーブルは一人掛けの一方通行、珈琲の注文は声をひそめ、私語をかわすと叱られる……。

なんて話はどうでもよくて。

山川方夫は幾度か芥川賞候補になった実作のほか、三田文学の編集やそれにともなう江藤淳、曽野綾子、浅利慶太、村松剛らの新人発掘で知られる。享年三十四、交通事故での早世だった。

そういうツウ好みだが地味な経歴、作風のわりに、文壇、出版人に愛好者が多いようだ。そう数字が出るとも思えないのに、文庫も切れ目ない。

なぜだろう? 山川信仰とでもいうか、なぜ山川方夫は読まれ続けるのだろう?

学生当時はともかく、今では一つの仮説を平気で口にできる。
山川方夫は、そのへんの凡庸な文学青年(壮年、老年)にとって、なんとなく、「自分もこのくらいは書けるんじゃないかな、きっと書けそうだ」と思える手頃な物差しなのだ。

Photo_7 日本画家だった父親の死に伴う実家の凋落を描く私小説的作品(「海岸公園」など)は育った環境次第に思われるし、
若者の無軌道を描くやや退廃的な作品(「安南の王子」「愛のごとく」など)は文学青年が誰でもかかる麻疹(はしか)のようなもの、
ミステリ、SFテイストの強いショートショート(「夏の葬列」「待っている女」「お守り」など)は確かにキレがよいし読後感も豊かだが、文学を志すこの身、頑張れば一つや二つくらいは書けそうではないか!

だが、結局、誰も山川方夫にはなれなかった。
山川方夫は青春小説の一つの星のまま、薄暮の空にぼんやりかかっている。今日もどこかで文学青年がそれを見て跳ねる。
ありがたいやら、迷惑やら。

2019/04/22

うちの土地 『幸せ戦争』 青木祐子 / 集英社文庫

Photo_5『これは経費で落ちません!』シリーズの青木祐子氏はもともとジュブナイルの分野に多数の作品を発表してこられたベテラン作家であり、『幸せ戦争』は氏の初めての一般小説とのこと(詳しいわけではないので、間違いがあったらごめんなさい)。

『幸せ戦争』は郊外の瀟洒な戸建て4件屋に住む家族、それぞれがかかえたねじれを描いた作品で、インターネットの有名掲示板用語でいえば「キチママ」「ウヘァ」「修羅場」案件ということになる。概ね、察してください。

素晴らしいのは──『これは経費で落ちません!』もそうだが──個々の家庭、とくに主婦当人のキャラクターが順に明らかになり、いよいよカタストロフィ! となるべき場面で、作者の木刀拳銃手榴弾が登場人物たちを吹っ飛ばす、そのはずが、意外や皮一枚だけ切って引く、悲鳴をあげる間もなく勝負が決する、その凄み。
4件屋の家族それぞれの立ち位置をバランスよく描いた構成力、そしてその凄みが、本来ならドロドロの愁嘆場となりかねない話に、青白い、凛とした清涼感を配す。

本来、イヤゲな主婦がうじゃうじゃ湧いて出る喪失不可避の物語のはずが、残るはささやかだがフリスキーな爽快感。
歴戦のプロの仕業、と感嘆する次第。

2019/03/21

続けて、老いについて 『この道』 古井由吉 / 講談社

Photoもう5、6年前のことだが、次男が大学入試の現代国語で「さっぱりわからない」と嘆いた出題があった。プリントを見ると古井由吉の「水」だった。古井由吉は学生の頃から好きな作家の一人で、おおかたの作品は持っているというとあきれられた。

ことほどさように古井由吉の作品は難しい。言葉遣いが難しいし、文節のかかりがわかりにくい。段落としてつかみがたいと困っているうちにそもそもと全体がのしかかってくる。

初期の、芥川賞をとった『杳子』など今からみればまだ可愛らしく、愛おしい。いや、実際、『杳子・妻隠』の文庫以来ファンになってしまったのだが。
それ以来、文庫や単行本を買い求めているが、読了した、といえるのは半分くらいだろうか? 一巡読み通して、読み通せたと思えなくて未読本の棚に戻したものも……まあ、こんな話はどうでもいいですね。

『この道』はその古井由吉の新刊、2017年から2018年にかけて「群像」に発表された8篇からなる。

正直、これは小説と言えるのだろうか、と思う。巻頭の「たなごころ」など、まだ、物語の片鱗らしきものから始まり、病人との対話もある。そのうちどんどん老人の身辺雑誌のような独白が多くなり、最後の「行方知れず」にいたっては書かれた年月日を特定できそうな実際の事件、災害など盛り込み、ブログかSNSに書かれた日記のようだ。

にもかかわらず、細部、あるいは全体から吹きあがる「文学」感が凄い。
八十路の老人が持病の通院の道も怪しく今と昔をこき交ぜた感慨を段落単位でぼそぼそと吐き出している──そう見えて、何か芯のようながある。遠回しに手渡される重み。

文学のテーマの一つが「死」であるなら、『この道』には確かに「死」が語られている。
しかしそれは口やかましく騒ぎ立てられた「死」ではなく、ただおぼつかない足取りで歩いた先の道端に落ちているような「死」。執着とは別のところにある、ないし至った、人生。

ただし、老人性痴呆めいた口ぶりに騙されてはいけない。
「群像」の発表号は規則正しく2ヶ月おきだし、一篇ごとのページ数もほぼ均等。
80歳にして作者のプロとしての手腕は健在なのである。

2019/03/11

宝石みたいなケーキ 『私は存在が空気』 中田永一 / 祥伝社文庫

Photo中田永一(=乙一)の本を取り上げるのは久しぶり。

巧い。

6篇それぞれ、隠された超能力(ないし超科学)と、それをめぐる出会いや別れが主題。

どこかで見聞きしたという指摘も、「少年ジャンパー」や「スモールライト・アドベンチャー」、「ファイアスターター湯川さん」などというタイトルを見ただけでこの作品集がどこかの誰かの作品へのオマージュないしパロディでいっぱいなのは自明だし、
乙一にしてはヌルい、ユルい、という指摘も、話を苛烈にしようと思えば(「失はれた物語」とか)いくらでもできるものを、今回はこのくらい、と定めて書いたに違いないと推察できてしまう。アンダーコントロールなのである。

収録作の大半が、奇妙な能力を得た若者がその力で誰かを助ける、という展開。
問題はそのあと──助けたから、助かったから、ハッピーエンドになる、わけではないことだ。

そのあたり、中田永一の筆さばきは、もう名シェフのさじ加減に近い。
出合い、トラブルに巻き込まれ、助け合って、見つめ合い、、、
だが、それは必ずしもbetter halfとのめぐり逢いとは限らない。

だから読み手は呆然と自らが半分でしかないことに思い至り、切なさに身もだえするのだ。

……とはいえ、個人的嗜好はあるもので、収録作の中では「少年ジャンパー」「私は存在が空気」が際立って好もしい。「ファイアスターター湯川さん」は再会のある終わり方が今一つに感じられ、次点。
「恋する交差点」はともに浮気、不倫を止められないメンヘラカップルの再構築の話かと思った……違いますよね?

2019/02/28

〔短評〕 『これは経費で落ちません!(5) ~落としてください森若さん~』 青木祐子 / 集英社オレンジ文庫

Photo_2シリーズ最新刊出来。
以下は書評ではなく、ただ刊行のお知らせ……の、つもり。

今回は森若さんをめぐる天天コーポレーションの社員たちそれぞれを主役とした、いわゆるスピンオフ短篇集。
なので、森若さん当人の出番はあまり多くない。
また、スピンオフなので、第1話、第2話となんとなくヌルい……と思っていると、第3話でいきなり冷や水をぶっかけられる、もはやこれはお約束の展開。怖い、怖い。

前回、このシリーズは新しいミステリのかたち、といったようなことを書いたが、そういえばほんの少し似たミステリがあったことを思い出した。クリスティの短篇集『謎のクィン氏」に登場するクィン氏がある意味これに近い。
クィン氏はただそこに居合わせるだけ(実在するかすらおぼつかない)、ただ彼の存在に示唆された語り手がそこに事件を見い出し、謎を解き明かす。

もちろん森若さんは優秀だがヒラの一経理部員にすぎず、若い女性ならではの悩みもつきない。
しかし、優秀な彼女が厄介ごとを避けようと最短の解決をはかるとき、そこには社内の不正や不倫があぶり出され、人間関係が壊され、あるいは再構築されていく。それを追及するか見逃すか、つまり「落とす」か「落とさない」かは森若さんの業務認識がすべて。

女神の領域である。

2018/11/12

待望の未刊行作品集 『春風コンビお手柄帳』『お下げ髪の詩人』『不思議なシマ氏』『ミス・ダニエルズの追想』 小沼 丹 / 幻戯書房

Photoあくまで個人的感慨とお断りした上で申し上げるが、この20年に限定したこの国の文学上、最上の出来事といえば、それは小沼丹(1918-1996年)の再評価だったのではないか。

作家小沼丹は「第三の新人」の一人とみなされている。しかし、華々しく活躍し、文学の外でも名をあげられることの少なくない安岡章太郎、阿川弘之、庄野潤三、遠藤周作、吉行淳之介、曽野綾子らに比べ、小沼作品は晩年、1991年の講談社文芸文庫『懐中時計』まで、文庫化されることすらなかった。
この一点をもっても、小沼が戦後作家の中でいかにマイナー扱いだったかが窺える。

その後創元推理文庫から漢字遣いも魅力的な連作推理短篇集『黒いハンカチ』(2003年)、未知谷から大部の「小沼丹全集」全5巻(2004-2005年)、同じく未知谷から未刊行長編『風光る丘』(2004年)がそれぞれ発行され、講談社文芸文庫からは現在まで順当に代表作の刊行が継続しており、(あの高価な)文芸文庫に絶版・廃刊の気配もないことから、この出版不況のさなかにおいて文学作品としてはそこそこ売れ行き好調なのではと推察される。

そしてそこに、今年2018年になって角川系列の幻戯書房(「幻戯」は角川源義氏のゲンギをなぞったものだそうだ)から生誕百年記念、未刊行作品集として

 『春風コンビお手柄帳 小沼丹未刊行少年少女小説集 推理篇』
 『お下げ髪の詩人 小沼丹未刊行少年少女小説集 青春篇』
 『不思議なシマ氏』(娯楽中短篇集)
 『ミス・ダニエルズの追想』(随筆集)

の4冊が続けて発刊された。続刊の予定もあるらしい。小沼ファンとしては望外の喜びである。
──というか、(未知谷を責めるつもりはないが)全集を経てなお、どれほど未刊行作品が野に置かれているのやら。

小沼丹といえば、(『懐中時計』がまさしくそうだが)身辺のさりげないあれこれをとぼけた文体で描くうちに人生の寂寥、哀感がしみじみとにじみ出る、そういった作風で知られている。
実際、今回の作品集の解説でも、以下の評価が記されている。

  今、小沼の本領とされるのは《大寺さん》ものといわれる後期の私小説だ。
   (北村 薫『お下げ髪の詩人』巻末エッセイ「春風は吹いているか」より)

  一九六三年(昭和三十八)年四月、作者四十四歳のときに妻の急死に遭ひ、心境に大きな変化が生じてのちのことである。作者の自筆年譜を見ると、「昭和三十九年五月、『黒と白の猫』を『世界』に発表。この頃よりフィクションに興味を失ふ」とある。
   (大島一彦『不思議なシマ氏』解説「小沼丹前期の作風について」より)

三行にまとめると、こうなる。

  小沼丹は飄々としたユーモアに溢れるフィクションで活躍。
  妻の急死にともない《大寺さん》を主人公とした私小説ふう作風に変貌。
  その後の人生の哀感を淡々と描く作風が高く評価されている。

2さて、ここでまたしても個人的な感想だが、小沼丹については、前期のフィクショナルな作品のほうにむしろ原石の魅力があるのではないか。

そもそも妻の急死で作風が変わったということになっているが、果たしてそうだったか。たとえば前期の『黒いハンカチ』では、主人公のニシ・アヅマ女史は明朗かつたおやかに見えてそのくせどこかうら寂しい影がつきまとう。その理由は連作の終わりごろに俄然明らかになるが、ここですでに伴侶にあたる者の死は作品の背中ごしに透かして重い。
今回発行された少年少女小説集、その収録作はいずれも当時の少女雑誌や学年誌の雰囲気を伝える素朴な味わいが懐かしいが、その作品の多くにおいても、実は死や別れは裏側にバイメタル然として静かに貼り付いている。そしてそれがストーリーの発端であったり、切ない結末であったりする。これは小沼作品全体を通して言えることである。

さらにいえば、後期の《大寺さん》シリーズを作者の言葉どおり「フィクションでない」とみなすことは本当に正しいのだろうか。
これらの作品の主人公がなぜ《大寺さん》であり、《僕》ではなかったのか。それは、小沼丹という語り手の「私」を描く私小説を装いながら、あくまでフィクションだったからではないだろうか。
実際、小沼にはイギリス留学時を語る『椋鳥日記』、師たる井伏鱒二の思い出を語る随想など、当人のリアルな日常を描く作品が多々あるが、これらの多くではとぼけた語り口はさておき《大寺さん》シリーズにある滋味のようなものが決定的に欠けている。つまり、作家個人の私生活をそのまま描いたからといって、そのままでは決して《大寺さん》にはならないのである。

もちろん、初期の初期、いかにも芥川賞を狙ったような純文学作品や、登場人物を妙ちくりんなカタカナで示したユーモア作品一つひとつのレベルは必ずしも高くない。
だが、いかにも昭和、の香り漂うそれらの背伸びし、バタバタした作品にときどきふっと落ちる影のベール、死の匂い、そこに小沼作品の本筋がある。それは《大寺さん》以前も、以降も、一貫しているようにも思う。何を隠そう、小沼作品は、初期も後期も総じてけっこう怖いのである。

2018/10/25

出会いを逃す 『死の島』(上・下) 福永武彦 / 講談社文芸文庫

Photo本作が発表されたのが1971年。その少しあとから書店の棚の函入りハードカバー上下巻がずっと気にはかかっていた。
平成も終わりのこの年になってようやく(講談社文芸文庫版で)手に取り、読み通すことができたわけだが、学生のころに読んでいたなら、きっと、もっと──という覚めた思いは否めない。

力作である。
おそらく、戦後日本文学の頂点の一つと評して大きく間違いではないだろう。

表向きの語り手は若い編輯(編集)者にして小説家志望の相馬鼎。彼が知り合った二人の女性、広島で被曝した画家・萌木素子、そして素子と同居する清楚な相見綾子、その二人が広島で心中をはかったとの報に相馬は急ぎ東京から広島に向かう(終戦間もなく、新幹線のない時代設定である。念のため)。

『死の島』は相馬が東京を発って広島に向かうその1日の物語であり、相馬が画展で素子の絵を見、書籍の表紙画の依頼を言い訳に足しげく素子と綾子の下宿に通うようになってからの1年の物語であり、さらに相馬が彼女たちをモデルに仕立て上げた小説の草稿、素子本人や綾子を愛した男らの心象風景、これらを数ページの細かな章に切り刻み、カットバック手法で縦横に並べ立てた実験小説である。

通常の長編小説のように起承転結、序破急の構成をとらず、その上、随所に

  わたしの声はいつになくやさしかったが、やさしい声以外にどうやって死者に呼び掛けることが出来るか。本当はわたしはこう言いたかったのだ。綾ちゃんは死んでいらっしゃい、わたしもすぐに死ぬから、と。まるでわたしがまだ死んでいなかったかのように。

といった暗喩に満ちた散文詩的表現が用いられ、読み手は短い章のことごとに緊張を強いられて流し読みが許されない。

もし、この作品に、甘々と文筆家に憧れた学生のころに出会っていたなら、この密度、構成、実験性に徹底的に圧倒されてよくも悪しくもくさっていたに違いない。
ただ、今となってはこの複雑な構成は少し余計なものに思えてならない。相馬、素子、綾子の三者の心理は三面鏡を合わせたような整合性を示すわけでなく、さりとて互いに止揚し合うわけでもなく、頓狂な相馬はとことん素子、綾子の心理に遠く及ばぬ心理音痴、綾子は最後まで人物設定がぼんやり不明確なのだ。
ことに、最後まで読んでも綾子がなぜ素子と最後の行動をともにしたのかわからない。綾子は相馬から見えているほど清楚でも愛らしくもなく、かといって生命力に溢れたイメージもなく、ただ漠然と人生に飽いた程度の印象。そもそも駆け落ち、同棲に失敗したお嬢さまの問題と、20万人の死傷を目の当たりにした苦悩を同等にリンクさせるのは無茶だろう。

相馬や綾子は愚かな狂言回しに控えさせて、徹底的に素子が死を見つめる物語にしてしまえばよかったのではないか。ただ、そうしてしまうと、実は1970年当時は、平成末の現在とは桁違いに広島、長崎の原爆の悲惨を直接扱う表現作品が少なくなかった。

  「オ水要リマセンカ、オ水デス。」

とカタカナで描かれる被曝の描写は苛烈だが、ただそれを描くだけではおそらく文学にはなり得ない。福永武彦はそう考え、素子の物語をただその素材のまま提出することができなかったのではなかろうか。その屈折に、大仰とわかってはいるが文学の敗北、なんてことを考えざるを得ない。
──ああ、いやだ、いやだ。やはり学生のころに読むべきだった。

2018/08/27

『短篇ベストコレクション 現代の小説2018』 日本文藝家協会 編 / 徳間文庫

Photo大雑把に区分するなら、
・花火大会の町の歴史から商店街の人間関係、かかった総費用から当日の天気の案配、そして打ち上げ実施から後片付けまで微に入り細を穿って綴る「長編小説
に対し、
・パンと打ち上がってドンと鳴る花火の一瞬を描くのが「短篇小説
として大きく外れはないのではないか。

※もちろん、たった16ページの短篇マンガにNHKの大河ドラマの1年分にも匹敵する大きな歴史のうねりと人々の悲哀を細部まで描き上げた「グレン・スミスの日記」(萩尾望都)のようなバケモノもあるにはある。

※ちなみに「長」「短」と漢字の不統一があるが、昔、木簡に穴を空け、ヒモを通して束ねて保管したことに由来する「編」と、竹で出来た木簡そのものに由来する「篇」の字を鑑みるに、ついつい「長編」「短篇」と書き分けてしまう、これは個人的なシュミ、コダワリの類なのでどうかご容赦願いたい。

さて、なぜ「長編小説」と「短篇小説」などという遠回しなことから書き始めたかというと、今回の『短篇ベストコレクション』の選評の加減が、どうも、起承転結のはっきりしない、つまり花火でいえば打ち上がって、のところで〆てしまって後を曖昧にした、そんな印象の作品が多かったためである。

文芸雑誌を読まないので、選者の好みなのか、2018年の作品の傾向なのか、そこは判断がつかない。
以下、収録作について、未読の方のお邪魔にならない程度にさっくりと。

川上弘美「廊下」
味な作品。ただ、昔の恋に対するこういうこだわりは、むしろ男性寄りの感性ではないか。
雪舟えま「りゅりゅりゅ流星群」
いわゆるBLの小説版なのだが、読後感は昔(1950~60年代)の少女小説に近い。
河崎秋子「頸、冷える」
北海道のミンク養殖を題材にした、起承転結が明確、かつ骨太な作品。強いて難点を探せば、タイトルが?
小川洋子「仮名の作家」
作者がときどき見せるテクニカルな逸品。とはいえ短篇集『海』収録の「バタフライ和文タイプ事務所」にはやや及ばず。
野崎まど「精神構造相関性物理剛性」
老夫婦の交錯する思いを描く穏やかな好篇だが……こんなもの(?)を掲載した「SFマガジン」はどうなっているのか?
高野史緒「ハンノキのある島で」
古典指定、保存書籍指定を受けられなかった新刊は六年をもって廃棄される、という「読書法」の施行された世界を描く近未来SF。興味と期待をもって読んだが、世界はもはやこのような法律を求めるほどには「本」に頓着していない。
いしいしんじ「おとうさん」
ほのぼの、なのか? よくわからなかった。
小田雅久仁「髪禍」
ある宗教団体のイベント……その描写は凄い。だが、小説として、こんなふうに解き放ってしまってはダメなんじゃないか。
澤村伊智「コンピューターお義母さん」
暴走しすぎた「髪禍」に対し、こちらは端的に怖い。現在の技術で十分賄っておつりのくる恐怖。ただ、攻撃を受ける側も同じ技術をもって防御ないし反撃に出るかもしれない。いずれにせよ夫の出る幕はない。桑原桑原。
恩田陸「皇居前広場のピルエット」
絶妙なスケッチ。ただしあくまでスケッチ。
深緑野分「緑の子どもたち」
ニューウェーブ(死語)のSF長編を切り抜いたような作品。この短篇が終わった後、穏やかで健やか日々が始まるのか、それとも凄惨な出来事が待っているのか。わからないが、それはそれで仕方がない。
藤田宜永「土産話」
視聴者の高年齢化の進むテレビは、イケメンと美少女がキャッキャウフフする青春ドラマなどより、こういった中年、老年のしみじみした哀歌をもう少し扱ってもよいかもしれない。ただ、この「土産話」、ちょっと考えると実に酷い話。
唯川恵「陽だまりの中」
孫のいる世代の母親を描いた作品。上の「土産話」同様、酷い話なのだが、酷い話を酷いとわかったうえできちんと着地させ、好感がもてる。
青崎有吾「穴の開いた密室」
ゴミゴミしたギャグが煩わしいが、事件(謎)と推理は本格派。座布団一枚。
三崎亜記「公園」
世界を裏返す三崎亜記の得意技は「公園」については有効だが、「子供たち」の描き方はやや凡庸。一本ならず。
勝山海百合「落星始末」
こちらもシリーズものの一部。雰囲気や言葉遣いは上質だが、描かれた肝心の「落星」そのものがちょっとよくわからない。え、それで本当に終わりなのか? と、この『短篇ベストコレクション』一巻全般に肩透かしの感あり。

2018/07/15

新しいミステリのかたち 『これは経費で落ちません! ~経理部の森若さん~ (4)』 青木祐子 / 集英社オレンジ文庫

Photo前回も書いたように、これはミステリである。
もしかすると、新しいミステリのかたちが示されているのかもしれない。

毎度そうなのだが、読み始めはライトな感覚である。経理部の森若さんをめぐるにぎやかで少しだけ面倒な日々を描いた女性向けお仕事小説……

短編四部とエピソードの掌編からなる本巻でいえば、経理部の新人との葛藤を描いた第一部や若い女性ならではのエピソードを描いた第三部までは、(森若ファンとしてはショックではあるものの)まだわかる。
第四部はまるでわからない。背中から切りつけられたのに、そのナイフがあまりに鋭利なため気がつかない、そのくらいダメージは大きい。

かつて、1980年代、若手の作家たちによってさまざまなトリックや書き方を工夫した「新本格ミステリ」が勃興し、その中に、平凡な生活を送る若者(主に少女)が日常の言葉や出来事に微かな違和感を感じ、そこに(ときに残酷な)真実を暴いていく、「日常の謎」と呼ばれるジャンルがあった。

『これは経費で落ちません!』で提示されているのは、「日常の謎」に匹敵する、新しいミステリの在り方である、と言って過言ではない、かもしれない(もちろん、一つのジャンルとして成立するためには作者のみならずエピゴーネンの追従が必要であることはわかっている)。

この作品は、まず、これが謎解き小説であることを示さない。ヒロインは探偵であることを是としない。しかし、経理部という生々しい数字を扱う部署に勤めるヒロインは、あれこれ社内の厄介ごとに直面せざるを得ない。そして彼女は、その謎を暴くことを拒否し、目をそらし、隠蔽しようとする。
読み手はそこで、ワトスンを相手に驕り高ぶる名探偵の、さらに上をいく聡明さに打たれ、冷たく刺される。ミステリはぎりぎりまで真相を語ろうとしない、ヒロインそのものなのだから。

2018/06/25

『春の庭』 柴崎友香 / 文春文庫

Photoときどき、芥川賞受賞作品を読む。順不同。

「これは凄い! この作家は今後追いかけよう!」ということは過去ほとんど起こっていないので、ほかのジャンルの作品に比べてアタリは少ないのだが、なんとなくたまには勉強、という気分で読んでいる。

柴崎友香『春の庭』は第151回芥川賞受賞作。
世田谷の取り壊し間際のアパートに住む人々が、近所に建つ「水色の家」に引かれ、その周りをうろついたり、住人と知り合って上がり込んだり、という話。
よくわからない。

登場人物の多くがその「水色の家」に引っ張られるのだが(昔タレントが住んでいて、そこでのプライベートを撮った写真集が発売されていたという)、なぜその家が人の興味を引くのか、最後まで読んでもよくわからない。作中に描かれた写真集も説明の限りではつまらなそうなのに、登場する人物人物が皆それを知っているという不可思議さ。

読んでいるうちにどこかで読んだような気分になった。そうだ、又吉直樹の『火花』だ。

登場人物の誰もが特定の対象に興味を持つ(『火花』ならお笑いのネタ)が、読み手にはそれがなぜ重要か伝わらない。その魅力を伝えることはさほど重要ではない、らしい。
登場人物どうしの関係は希薄。親しく飲み食いしたりするが、希薄。
男女関係などはテーマにならない。エロもない。
最後は登場人物の突拍子もない行動が描かれて終わるが、いきなりすぎて何を狙ったものか、よくわからない。

『火花』の受賞は第153回。
こういうのが最近の選考委員の好みなのか、としか言いようがない。

ところで、カバーの惹句には「第151回芥川賞に輝く表題作に──」とあるが、「輝く」は今、正しいのだろうか?

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