カテゴリー「心理・教育・哲学・宗教」の31件の記事

2024/07/12

『無意味なものと不気味なもの』『屋根裏に誰かいるんですよ。 ──都市伝説の精神病理』『恐怖の正体 トラウマ・恐怖症からホラーまで』 春日武彦

都内の書店で新刊をあさっていたら、『無意味なものと不気味なもの』というイカした(死語)タイトルの文庫を発見。人間心理の暗部に触れる“無意味で不気味なもの”の正体を、ラヴクラフトや車谷長吉などの小説作品に探る恐怖文学論、ということらしい。
なかなかよさげではないか。著者はといえば、本ブログでも何度か(これこれ)取り上げてきた精神科医の春日武彦先生であった。

さっそく購入して「文庫版◆あとがき」などパラパラ読んでいると、

(『無意味なものと不気味なもの』の単行本刊行に際しては)どのような反響があるだろうかと楽しみだったのを覚えている。だが結果は惨敗であった。売り上げは伸びず、書評に取り上げられることは一切なかったし、雑誌などで言及されることもなかった。
(中略)
たとえば一九九九年に河出書房新社から出したハードカバー書き下ろしの『屋根裏に誰かいるんですよ。 ──都市伝説の精神病理』もまったく売れず(後略)

というわけで、いきおい『屋根裏に誰かいるんですよ。 ──都市伝説の精神病理』もネットで注文。すると、その「文庫版あとがき」にも

(本書のハードカバー版は)自分なりに一所懸命に書き、装丁にも納得がいき、ある程度の自信を持って出版した。が、売れ行きはよろしくなかった。話題にもならず、ほぼ黙殺され、著者としてはかなり気落ちした。

むむ、これはたいへん。
というわけで続いて『無意味なものと不気味なもの』の巻末、朝宮運河氏の「解説 〈恐怖以前〉の展示室」にて紹介されている『恐怖の正体 トラウマ・恐怖症からホラーまで』を急いでネット注文して読んでいる。 ←イマココ

1_20240712193101 『無意味なものと不気味なもの』 春日武彦 / 中公文庫

基本は書評集なのだが、ホーソーン「牧師の黒のベール」、河野多惠子「半所有者」、マグラア「長靴の物語」、古井由吉「仁摩」、、、と、なるほど不気味な作品が16作並ぶ。普通に「本好き」な程度ではなかなか出会えない、かなりマイナーなラインナップ。
読み手が簡単に入手できないことを見越してか、各章ではその作品についてほぼオチにいたるまであらすじが紹介される。そのため、「あ、読んでみたい」という気持ちと、「ああ、読んでしまった」感が相半ばしてしまう、それが減点要素といえばいえようか。

また、著者は自説、というか、自分の感じたことを書きたい、という気持ちが本を紹介する気持ちより前に出るタイプなのか、たとえば巻頭の「牧師の黒のベール」にて、聖職者が最後まで黒いベールで顔を隠し通したことについて

  だが死んでなお顔を隠さねばならないほどの性的な罪がどんなものであったか、それが一切語られていないのは小説としてバランスが悪すぎないか。

  わたしとしては、この作品は断片に近いものではないかと思う。

などという物言いを平気でしてしまう。
もちろん、著者は明確な説明のない作品のあり方や断片なりに価値のある書かれ方を認めたうえでそう書いてはいるのだが、それにしてもぐいぐいと押しが強い。

ほかの作品についても、著者の語り口に強さがあり、そのため、取り上げられたいくつかの本について、どうやら自分(読み手)と著者では「不気味なもの」の感性がいろいろ違うようだ、と気がつく。
つまるところ、その直球のキャッチボールについていけるかどうかが問題で、ある程度慣れてしまえば、興味深い本の紹介と合わせてとことん楽しい読書となるだろう。

2_20240712193101 『屋根裏に誰かいるんですよ。 ──都市伝説の精神病理』 春日武彦 / 河出文庫

タイトルがちょっと紛らわしい。

『屋根裏に誰かいるんですよ。 ──都市伝説の精神病理』
というタイトルを目にした読書家は
『屋根裏に誰かいるんですよ。 ──さまざまな都市伝説の精神病理』
といった内容の本だと推察するのが普通ではないだろうか。
だが、本書は実のところ
『屋根裏に誰かいるんですよ。 ──という都市伝説の精神病理』
なのである。

つまり、本書は、一人暮らしの老人などが、自宅の天井裏ないしは屋根裏に何者かが隠れ潜んでいると妄想を抱く、その実例や本の中の例をあげ、その意味をあれこれ考える、という本である。
したがって、都市伝説といっても、下水道に住む白いワニとかアポロ月面着陸は陰謀とか架空の鉄道駅とか死体洗いのアルバイトとかマクドナルドでは実はとか、そういった有名どころの都市伝説のたぐいは一切登場しない。

逆に、「屋根裏に誰かいる」という話題から遡ってその「物語の胚珠」を見定め、そのポイントから近く遠く話題を繰り広げる手腕はやはり「剛腕」と言わざるを得ない。

※ちなみに、著者によれば痴呆老人の妄想や小説世界でのミステリーでは謎の同居人は空間的問題、またこちらを見張りやすいという視点の問題から天井裏や屋根裏にいることが多い、とのことだが、ふと、今市子『百鬼夜行抄』シリーズでは妖しい住人は廊下の奥、襖の向こうにおり、縁の下のあやかしに食べ物を与える場面が頻出するなど、目線が低いことに思いいたった。理由はいくつか思い当たるが、ここではおく。

3_20240712193201 『恐怖の正体 トラウマ・恐怖症からホラーまで』 春日武彦 / 中公新書

「恐怖」と一言で括ろうとしても、括るのは難しい。

著者は「いかに恐怖を定義するか」という書き出しに続いて、踏み切りで立ち往生してなかなか動かない電車の下をしびれを切らして反対側までくぐろうとした初老の男性が動き出した十両編成の電車に「ゆっくりと」轢き殺される、というまことにおぞましい例をあげている(著者も記載しているが、筒井康隆の「お助け」の世界そのものである)。
まさしく、「恐怖」体験!

しかし、この例にもとに「恐怖」を語るとき、それはいったい誰の恐怖であるか。
身動きならない状況の中で、電車が動き出したことを知る、その当人。
それを踏み切りのこちら側で見ているしかない歩行者たち。
そしてそれを話として聞く、あるいは読んでいる者。

本書の「恐怖」はどうやら最後の、わりあい迂遠な「恐怖」が中心らしく、その分、読んでいてもあまり「怖くない」。
たとえば著者は甲殻類恐怖症だそうで、「恐怖」を語る際に再三それにかかわる話が出てくるのだが、それは「恐怖」ではなくて「嫌悪」「不快」「不気味」の類ではないのだろうか。

ほかの「恐怖」についての話題についても、誰の「恐怖」かが明確でないところがあって、その点はどうかと思う。
実際に生命にかかわる状態、高所であったり、閉所に隠蔽されたり、殺されて食べられたり、という「恐怖」と、それを話で読み聞きする際の「恐怖」は別のものだと思う。著者が一章を設けている「グロテスク」などは、明らかに後者の問題だろう。

以上、3冊について、ついつい重箱の隅を楊枝でほじくるような書き方をしてしまったが、正直に言うとこの著者の本を読むのは楽しい。細かいところの思いがこちらと合う、合わない、が問題なのではなくて、そうしたところを互いに突き合わせるのが面白いのである。
キャンプファイヤーの消えかかった火をめぐり、著者を囲んで少人数で不気味な本、怪しい都市伝説、恐怖の正体について言いたい放題語り合う、そういった読書である、そんなふうといえばご理解いただけようか。

【閲覧注意】
3冊の本についてあれこれ書くためにほかの本を調べていたら、海老、蟹などの甲殻類に嫌悪感を惹起され、また死体には威圧感やグロテスクさを感じ取る著者に捧げたいマンガの一コマを発見した(きらたかし『没イチ』より)。
ちなみにこのコマは「恐怖」を描くものではない。念のため。
4

2024/02/19

『いじめと探偵』 阿部泰尚 / 幻冬舎新書

Photo_20240219171201 コミック作品『いじめ探偵』(榎屋克優、小学館ビッグコミックス 全2巻)をネット広告で知り、kindleで読んでみたところなかなか面白かったので、その原案・シナリオ協力者であるところの探偵・阿部泰尚氏の本を求めて読んでみた。
著者は映像関連の仕事から探偵業に入り、いじめに関する事件にかかわってのちにテレビなどでその方面のスペシャリストとして知られるようになった人物である。

著者はいじめ問題について誠実かつ情熱的で、感覚的な感想ではあるが人物として、探偵のプロとして、「信頼できる」ように読めた。
最近(本書は2013年発行)の小・中・高校におけるいじめの諸相、自身ならびに事務所としての具体的な対応、親や学校がいじめにいかに対処すべきか、そういったテーマが飾り気のない簡潔な文体で語られており、新書として良書、かつ有用なものであるように感じた。

とはいえいじめの対処は難しい。
「学校の先生が皆本書を読めば」などとは言わない。なんとかの法則ふうに言うと、こういった書物を読むべき人物に限って読まない。こういった書物を理解すべき人物に限って、とんちんかんに読む。
そのとんちんかんさは、学校の先生、校長がたにおいて顕著だ。

・自分の学校で集団レイプが起きたと聞かされてもどうしていいか見当もつかないからあえて口出ししない学校の先生
・担任の先生がいじめている生徒を注意したら注意された生徒の親が教育委員会に「うちの子が犯人扱いされた」と怒鳴り込み、その結果その先生は担任を外され研修所送りになってしまった(その措置をした教育委員会の委員は著者がマスコミにリークするのかと怯え、その後態度を豹変させる)
・特定の児童たちが個人の持ち物を壊すといういじめについて、被害者とその友だちが担任の先生に犯人を名指しで訴えたところ、学校の校長はなぜか「外部から誰かが侵入している可能性があるので学校の警備を強化する」と宣言した(親やPTAにいじめの調査資料を突きつけられた校長は「私は馬鹿じゃない、やれることはやっている」と泣き出した)

これらは本書に登場する学校、先生たちのありさま(ザマと書きたいことろを抑えています)だが、こういった連中に本書を読ませたとしても改善が期待できるようには思えない。

何が問題なのだろう。

以前テレビで(確か尾木ママが)指摘していたようだが、本書にも書かれていない一つの鍵として、校長、教頭、教育委員等、いわゆる管理職の教職者については、無事に定年退職を果たした後に「叙勲」というイベントが待っているということがあるらしい。
とくに給料も名誉も横並びの公立学校の世界では、「先生」「先生」とあがめられ続けた数十年にわたる自身の仕事について、それは最後にもらえる文字通りの「勲章」である。それゆえ、自分がその学区、学校にいる間、「いじめ」という不祥事があっては絶対にまずい。目の前で子どもが、その親が訴えたとしても、目の前で起こったとしても、それは決して認めてはならない。

これは学校という組織が不思議なまでにいじめを認めない、対処しない理由としてなかなか説得力のある指摘だ。
しかし、これだと担任レベルでいじめの存在を認めない、対処しない、できない理由が今ひとつわからない。
当節の先生が会議や書類仕事、部活動に追われてめっぽう忙しすぎるため、としてもなお理解できない。

以下は個人の思い付きレベルの話ではあるが、かつて、少なくとも昭和の中ごろまで、学校の先生には全員に対し、無条件に「偉い」「怖い」というフィルタがかけられていた。
「先生は偉い」「先生は怖い」、これは児童・生徒はもとより、その親、そして先生本人側にも共通する一種絶対的な空気だった。
だから、先生は生徒を頭ごなしに「こら!」と怒鳴れるし、親は「先生に叱られるぞ」とバチをふるい、生徒たちは「やばい先生がきた」とタバコを隠す。
しかし、戦後民主主義のあれやこれやでロクロをこねくり回しているうち、先生の「偉い」「怖い」は剝ぎ取られてしまう。
ある程度はしかたない。やみくもに「偉い」「怖い」を振り回して体罰をふるうエセ教育者は排除されなければならない。
だが、問題は、「偉い」「怖い」が剝ぎ取られたあと、代わりとなる権威が用意されなかったことだ。
今現在、子どもたちの前にいるのは、学校というオフィスに通勤するただ一人のサラリーマンに過ぎない。子どものころから学校という箱しか知らないのでむしろ世の中を動かす経済や世事に疎く、顧客たる親がクレームを口にすればへこへこと頭を下げ、場合によっては「チェンジ!」さえ可能だ。
小・中・高校にいじめ対策の「マニュアル」があるのかどうかはしらないが、大前提となる「偉い」「怖い」がなければいじめの加害者、その親に対して強制力があるとも思えないし、被害者に信頼されるとも思えない。
はっきり言えば、いまや、子どもたちの目に映る学校の先生は、進学に詳しい塾の先生ほどにも役に立たない、事務のおじさん・おばさんたちなのである。

今後、この状態を覆すことはできないと思う。先生がたにできることは児童・生徒に「さん」付けしてせいぜい友だち関係を築く程度だ。
だから、本書の著者は、探偵として、少し「怖い」、かつての先生の代わりをせざるを得ない。
それは、一つひとつのいじめ案件については有効に違いない。親や学校の先生に代わって個々の子どもたちの信頼をつかみ取る著者の状況が見えるようだ。

だが、その努力は、全国的ないじめの発生を抑えることに即つながるものではない。
子どもと親と学校側が話し合って示談で済ます、いわばそのいじめ限りの対処療法をいくら繰り返してもいじめが減るとは思えないからだ。

そこでこれも個人の思い付きレベルの提案だが、人数が増えて仕事にあぶれ気味と噂の弁護士の皆さんは、カードの過払い案件だけでなく、学校におけるいじめにもっと着目していいのではないか。
いじめ、いじめと言葉の上ではまるで児戯のように扱われているが、実際に起こっているのは器物破損であったり暴力であったり性犯罪であったり、大人の世界でなら到底許されない案件ばかりだ。
これを「子どもの未来のため」とかいうお為ごかしで内々におさめているからいけないのだ。
まず、「暴行」は「暴行」ときちんと呼ぼう。

子どもたちが大人たちを軽視し、大人のような態度をとるなら、大人のように扱って差し上げよう。
きちんと証拠を集め、立件し、罪を罪として償ってもらおう。

もちろん、上履きを隠した、鞄の中に水をかけた、程度では弁護士も警察も動きようがないだろう。
だが、なかには司法が動かざるを得ない案件だって少なからずあるに違いない。
そのとき、子どもであると甘々に済まさず、一人の、一人前の「人間」として加害者、被害者ともにきちんと扱ってやるべきだと思う。

そして、人の道にはずれるレベルのことをしてしまったとき、ゆるゆるとつながっていくように思えた進学、就職への道が閉ざされる恐怖を子どもたちはもっときちんとリアルに知らなければならない。
ちなみに、(失礼極まりないことだが)少し前まで進学、終活にあぶれた者の当面の働き先とされてきた「コンビニバイト」の道さえ、監視カメラとAIが無人レジを代行してくれる時代は目と鼻の先だ。君たちの将来はとてつもなく狭い。
SNSが蜘蛛の巣を張る絶対不寛容のこの時代、学校といじめ加害者だけが容赦される時代はそう永く続くはずもない、続けるべきでもない。

2024/02/08

『ヒルコ 棄てられた謎の神』 戸矢 学 / 河出文庫

Photo_20240208171201 「ヒルコ」とは神武以前の建国神話に登場する神の名前で、古事記では「水蛭子」、日本書紀では「蛭兒」等と記す。

・・・「イザナギ」「イザナミ」二柱の初めて産む子の名に吸血虫の文字とはこれいかに。
しかも、たとえば古事記では

「くみどに興して、子水蛭子を生みたもう。この子は葦船に入れて流し去りき」

と葦船に乗せて流されたというのである。
「すでに三歳になるといへども脚なほ立たず」という記録もある(「先代旧事本紀」)。

なぜ流された? その正体は? また、流された先での行く末は? と、興味は尽きない。
しかし、そもそも、古事記や日本書紀にも、詳細な記載はない。のちの歴史書は後から適当に書かれたものかもしれない。
つまり、ここから後は、研究者の着眼と、証拠集めの力量次第ということになる。

では、戸矢学氏による『ヒルコ 棄てられた謎の神』は、というと、いくつか、なるほど面白い、という指摘と、逆に、ちょっとズルい、と感じられる点があった。
強いていえば、後者が多い。

面白い点というのは、たとえば「アマテラス」の本名が「オオヒルメ」であることを起点に、

  ヒルコ → ヒルヒコ → 昼比古・昼彦 → 日子
  ヒルメ → ヒルヒメ → 昼比売・昼媛 → 日女

とその双子説をとり、その正体に挑む、など。
(ただ、こういう文字や音からの推測というのは、ほかの文献や発掘物(鏡なり銅剣なり)による裏付けがなければただの思い付きに過ぎない。

  卑弥呼 → ヒミコ → 日御子・日神子 → 日子
  (※今コノ場デ適当ニデッチアゲタモノデス)

として「卑弥呼」と「水蛭子」は同一であった・・・などと勢いだけで主張したって誰も納得はしてくれまい。)

ズルい、と感じる理由。
これはもう単純で、著者は、古事記や日本書紀、その他の記録の少ない記述からさまざまに推測を展開する。その幅広い調査は尊敬に値するが、自説を裏付けるものならのちの世の歴史書であれ神社の名前であれこれがあれがと引用するのに、自説に都合の悪いものは「後世の記載なので確かな根拠なし」とうやむやにする。さらに、自説にかみ合わないほかの研究者の主張についても「推測に過ぎない」とダメを出す。かみ合わない説を呑み込み、それを凌駕してはじめて探偵は犯人を黙らせるのがスジと思うのだが、どうだろう。

古代史に詳しくない(文献に直接あたるわけでもない)当方のような読み手からすれば、「ヒルコ」から始めて「スサノオ」や「徐福」へといたる戸矢節をエンタメと割り切って面白く読むのも一手ではあるが、なんだか中途半端に騙された気分が残るのもまた事実なのだ。

 

2021/08/21

Dazein 『二平方メートルの世界で』 前田海音 文、はた こうしろう 絵 / 小学館

Photo_20210819182701小学生3年生の、脳神経の病気で検査や長期入院を繰り返す少女が書いた作文をもとにした絵本──そんな見てきたような紹介はしたくない。違う。

間違っても「小学生にしては」などと評すべきではない。
「可哀そう」と口にするのもおそらく正しくない。
「わかるわかる」としたり顔するのは愚かだし、「もらい泣き」してどうこうなる話でもない。

ちゃんと正面から読もう。
一個の表現として、この作品は崖のように高く、崖のように深い。
決して感情に流されず、ノンフィクションとして理知を踏まえ、主張のための構造は堅牢だ。

作者はまず、自身の家族やほかの入院している子どもたちを見据え、その苦悩、孤独のありようを誠実に、正確に把握、比較する。

  どうしてわたしだけ、とは思わない。
   (中略)
  何か悪いことをしたから病気になったわけでもないし、
  理由をさがしてもしかたがない。

苦しみは苦しみ、孤独は孤独として評価しつつ、生きることは自分に、また他者にかかわることだと定義し、それによって成り立つはずの世界を語る。
その世界に向かい、二平方メートルのベッドの上からいかに挑むかを考える。

   (前略)
  そして、そのことを文字にできるぐらいには、
  わたしは元気で自由だ。

   (前略)
  生きていることのすばらしさは気づきにくいということも、わたしは知っている。

この作者の覚悟を受けた、はたこうしろう氏の作画も素晴らしい。

一つ、読者として判断に困るのは、
同じように(という言葉遣いはそもそも正しくない。同じ病気の、同じ子どもなどいない)長い入院生活を送る子どもたちに、
この本を薦めてよいのかどうか
ということだ。機会がないわけではないだけに、迷う。

ただ、願わくば世界中のあらゆる病気の子どもたちが、この本に出会って、もしくはこの本に出会わなくとも、それぞれの「二平方メートルの世界」でそれぞれ将来にゆめを持ち、それぞれのできる限りのことに挑めますように。

2021/06/20

『ウィトゲンシュタイン家の人びと ──闘う家族』 アレグザンダー・ウォー、塩原通緒 訳 / 中公文庫

Photo_20210620222301 不肖烏丸、40年来の座右の銘の一つに、以下の一文がある。

ルートウィッヒはヘルミネを最も愛し、ヘレネを好まず、マルガレーテとは終生、愛しつつ戦った。

大修館書店『ウィトゲンシュタイン全集』第1巻の別冊付録に収録された「ウィトゲンシュタインの生涯」(黒崎宏)の一節で、大学に入ったばかりの頃、読書家の先輩たちにそそのかされてこの全集本を手に入れ、肝心の『論理哲学論考』は礼賛はすれど(後述)内容はそれはもうお手上げグリコ、本文よりはわかりやすかろうと付録冊子をパラパラめくって哲学者の人生の苛烈さに半身を焼かれるような思いをしたものだ。
その中でも、なぜか知らないがこの一節は今でも暗誦できるし、今も胸のどこかがチリチリと熱い。
ヘルミネ、ヘレネ、マルガレーテ。その名は、40年経った今も自分にとって、執着しつつ戦わねばならない存在の、一種の指標、メルクマールなのだ。

中公文庫『ウィトゲンシュタイン家の人びと ──闘う家族』は、その、20世紀最大の論理哲学者ルートウィヒ・ウィトゲンシュタインの家族を、彼の父カール、そしてその子供たち(五男のルートウイヒよりむしろ四男の隻腕のピアニスト、パウルを中心に)描き上げたノンフィクションドキュメンタリーである。

著者はイギリスの作家イーヴリン・ウォーを祖父にもつアレグザンダー・ウォー、手紙や公文書など膨大な資料をもとに語る文体は簡明、直截で、たとえば

(ヘルミーネは)感情を表に出さない内向的な性格で、動作は堅苦しく、いつも背筋がまっすぐで、その態度は(彼女をよく知らない人からすると)尊大で取り澄ましているように見えた。しかし実際のところ、彼女は自分に自信がなく、見知らぬ他人といるとどうも気分が落ち着かないのだった。

グレートル(マルガレーテの愛称)は最も温かく、最もユーモアがあって、最も親切だったが、最も支配欲が強く、最も野心的で、最も俗っぽくもあった。そうした自分の性向を彼女はひどく嫌ったが、それに抵抗するほどの強さは持ち合わせなかった。

といったビートを叩きつけるような文体にこの一族の個性豊かな顔ぶれが克明に浮かび上がる。

最初のおおよそ90ページにはピアニストとしてデビューせんとする野心満々のパウル、さかのぼってカールがいかに財をなしたか、そしてそのカールの死、とハプスブルク帝国有数の資産家であるウィトゲンシュタイン家の歴史が語られる。
名画や彫刻の並ぶ豪勢な屋敷にはブラームスやリヒャルト・シュトラウス、シェーンベルク、ツェムリンスキー、グスタフ・マーラーらが招かれ音楽を奏でる。まるでウィーンフィルのニューイヤーコンサートのセットリストだが、違う、その豪奢な客間に訪れたのは作曲家本人だ。

ショッキングなのは、グレートルの全身肖像画を依頼され、彼女の稀少な美しさ、異国的な優美さをとらえるのに苦労したグスタフ・クリムトについて記した次の一文だろう。

グレートルは完成した絵を嫌って、口の描き方が「不正確」だとクリムトを非難した。その部分をのちに無名の画家に塗り直させたほどである。

ウィトゲンシュタイン家の資産は、カールの死によって相続分配しようが、第一次世界大戦が起ころうが、投資に失敗しようが、ナチスに収用されようが、海外への持ち出しに失敗しようが、爆撃で失おうが、それでも残る。

しかし、有り余る資産と明晰な頭脳、芸術的素養を持ち合わせたこの兄弟、姉妹は、自らの矜持をかけてなにかにつけて争い、闘う。共に穏やかに過ごすことができない。
また、長男ハンス(=ヨハネス)、次男クルト(=コンラート)、三男ルディ(=ルドルフ)がそれぞれ失踪、自殺するなど、この一族では自殺は珍しいことではなく、ルートウィヒも最後まで自殺願望に苦しむ。

だが、男兄弟の過半数が自殺した、という事実が本書を必ずしも暗い1冊とは導かない。
諍いに満ちた兄弟姉妹の関係は必ずしも陰湿なものではない。それは、(自死という選択含め)各人の主張、論理、尊厳の一つの現れなのである。

それぞれの人生は戦争との闘い、時代との闘い、怪我や病気、そして自身との闘いの連続だ。
転倒すれば起き上がる。殴られたら殴り返す。
パウルは自ら戦線に赴き、片腕を失い、苛烈な捕虜生活を生き抜き、帰還してなお臆せずピアニストとして立つ(彼の演奏はYouTubeで聴くことができる)。彼は師ラボールのほか、ラヴェル、プロコフィエフ、シュトラウスらに作曲、編曲を依頼するが、曲の内容、解釈について納得できなければそこでも闘う。
(ルートウィヒが書き残したのは主に言語に着目した論理哲学だったが、ウィトゲンシュタイン家の個々人の生きざまはむしろ実存主義的だ。)

『ウィトゲンシュタイン家の人びと ──闘う家族』ではウィトゲンシュタイン家の男性としては比較的天寿を全うしたパウルの「闘い」について最もページを割いているが、もちろんルートウィヒについても詳しい。
著者の弁は

ルートウィヒは、いまや二十世紀の象徴的な人物である。二枚目で、口下手で、苦悩する不可解な哲学者。その威圧的な人格のまわりには、一九五一年の彼の死後、異様な礼賛者の集団ができあがった。皮肉なことに、そうした礼賛者たちのなかにはルートウィヒの本を開いたこともなく、彼の思考を一行でも理解しようとしない人々が数多く含まれている。

と辛辣だが、なにしろ師でありルートウィヒと何度も語り合ったバートランド・ラッセルすらルートウィヒの思想の神髄を十分には理解できていないもようなので安心だ!

有名なエピソードとして、自らの才能と将来を憂うルートウィヒにラッセルが何か哲学の主題に関するものを書いてくるように指示し、ルートウィヒがその答えを持ってきたとき、ラッセルは一行だけ読んですぐさま「きみは飛行船の操縦士になってはいけない(哲学者になるべきだ)」と言ったという。本書もこの記事に触れつつ、肝心のその一行の内容は明らかにしていない。はたしてそれはどのような一行だったのだろう?


〔付記〕

ルートウィヒの『論理哲学論考』は

謎は存在しない。
いやしくも問を立てることができるのなら、その問に答えることもできるのである。

と説き

話をするのが不可能なことについては、人は沈黙せねばならない。

と述べて閉じる(奥雅博訳)。
ならば、その不可能なことについて沈黙を破らんとせん「試み」こそが「詩」である、と学生の自分は考えた。

たとえば、ヴァレリーは『文学論』(堀口大学訳、岩波文庫)において、ユーゴーの

「そこから夜が輝き出る気味わるい黒い太陽」

という句を例に、詩句は、意味の上では無意味、ゼロであっても、すばらしい音調(レゾナンス)を持ちうることを示している。
このような(古い?)「詩」観は逆にいえばまさしくウィトゲンシュタインの後期の「言語ゲーム」によって粉砕されたのかもしれない──が、それでもコクトーの「虚無への供物」やシュルレアリスムの「至高点」をいまだに捨てがたく思う。
そのような地平線では、

同じ意味の語句を束ねていった場合、世界はいくつの語句で語り得るか

とか、

ゼロで割ることのできない数の集合は、虚数と実数を掛け合わせ複素数の集合と等しいか

といった問いはまた詩の美しさを内包し得るに違いない。などなど。

2020/09/23

大団円 『鬼灯の冷徹』(第三一 最終巻) 江口夏実 / 講談社 モーニングKC

Photo_20200923170901モーニング誌上に地獄の中間管理職者を描くヘンな読み切り──もう10年も昔のことだ。
その後ワイドにトリヴィアルに地獄272景を描く本作は人気連載となり、テレビアニメも放送され(演出がにぎやかすぎて少し困った)、そして今、最終巻。

最終話では最初に登場したシロくんを褒めて首尾一貫。否、それ以上に最終巻にいたってこの密度、大変な作家ではある。
たとえば

  ホオズキを酸漿と書くと
  急に理科感がハンパない
  過酸化水素水に混ぜると
  何かが起きそうだ

などというネタがまだ残っていることに驚嘆する。
アメリカン凶霊スカーレットを忘れず優しい納まりをつけたのもよかった。

残念なのは最後まで鬼灯にステディな(死語)彼女ができなかったこと。お香さんいいのにね、お香さん。外見なら五官王、いやピーチ・マキも。
 ↑ 地獄に落ちるタイプ

作者江口夏実がどんな書物を手元に地獄を描いてきたかは前々から気になっていたことだが、最後に「主な参考文献」が掲載された。その一番手になんと山本健治『現代語 地獄めぐり 「正法念処経」の小地獄128案内』(三五館)。かねてより推しの1冊なのでこれは嬉しい。
『現代語 地獄めぐり』は経典『正法念処経』による地獄案内をユーモア交えてわかりやすくまとめ、それに東西の地獄TIPSを添えたもので、地獄のこまごまについては途中で手抜きというか省略に走った『往生要集』などよりずっと詳しい。地獄について現代語で詳細に教えてくれる書物は探してみると存外に少ないのでともかくお勧め。Photo_20200923171701

とはいえ、源信(恵心僧都)著稿『往生要集』ももちろん地獄ファンの精神的支柱として基本のキ印。今回の「主な参考文献」では岩波文庫版が掲載されているが個人的に推奨したいのが『絵入りでやさしく説いた地獄極楽の話 往生要集』(京都 興文堂)。
これは『往生要集』を素朴な版画絵入り、大きめの文字でまとめた書物で、なによりぽってりした旧活字がいかにも仏教経典らしく、四角四面で資料然とした岩波文庫より格段に妙趣が深い。
ただ、こちらの『往生要集』は仏閣の売店や仏典専門書店でしか扱っていないようで(僕の無理なお願いに探し出して送ってくれたW君、ありがとう)、さしもの大Amazonでもひっかからない。GO TOキャンペーンで京都あたりを訪ね、探してみるも一興。
(なお、『現代語 地獄めぐり』の著者山本健治氏が京都の東本願寺門前の仏教専門書店で見つけ、仏典への入門編としたと「はじめに」で語っている『ひらかな絵入往生要集』がまさしくこの冊子である。)

Photo_20200923171702

ついつい地獄本の話に流れてしまったが、『鬼灯の冷徹』が深読みのできる楽しい読み物であることは今さら言うまでもない。手持ちにはパラパラ飛びがあるので、これからきちんと揃えたく考える次第。

2019/04/11

真理を知りたいか──ッ! 『史上最強の哲学入門』 飲茶 / 河出文庫

先日の書き込みで「PC版でカテゴリー(たとえば「コミック(作品)」)を選んで表示される記事タイトルの上限が100件になってしまった」と愚痴ったところ、気がつけばいつの間にかきちんと直していただけていた。しかもスマホ版も同様の仕様に。たいへん助かります。どうもありがとう。 > ココログ運営の中のひと

カテゴリー別に過去の書き込みタイトルをパラパラ見返していて、ふと気がついたこと。
2000年8月以来積もりに積もった本ブログの書評数は近々1300に至るのだけれど(バカだ)、その中に宗教や哲学に関するものはほとんどない。とくに哲学についてはタイトルで検索しても1件しかない。その1件も『マンガは哲学する』(永井均)で、正しくは哲学ジャンルの本ではない。

学生のころはやれヘーゲルだ、どれニーチェだウィトゲンシュタインだと人並みに哲学の本にも手を出したのだけれど、結局身につかず、当時読んだ本の多くは手元にない。
哲学の本に馴染まなかった理由はいろいろあるが(一番は、まあ怠惰でバカだから)、その1つに、よい入門書に出会えなかったことがあったような気がする。あくまで当時、の話だが──「〇〇哲学入門」とよさげなタイトルの本を手に読み始める、最初の章は「哲学とは」から始まってふむふむと読み進む、そのうち結局著者の専門、たとえばプラトン、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガーに話が収束して、それぞれがいかに素晴らしかったかと論が進む──結局、「哲学」の全貌がよくわからない!

「東横のれん街、渋谷はこちら」「リーマンインタビューのメッカ、新橋SL広場」「実はパルコのある町、錦糸町」とポイントは詳しいが俯瞰した鉄道地図がない、そんな感じ。
なので、たとえばショーペンハウエルなど、読んだことはあるのにいまだに哲学というジャンルの中で立ち位置がどのへんにあるのかよくわからない。そもそも、たとえばカントとホッブスとルソーを一包みで取り上げることに意味はあるのか、可能なのか。

哲学はそんなお気楽なダイジェスト文化ではない!と叱られればそれまでだが、いきなり「プロの哲学者に、オレはなる!!」という気構えもない初心一読者に、入口のハードルが高すぎるのだ。

Photo_3 ・・・で、ここでようやく本題だが、河出文庫の『史上最強の哲学入門』、これが面白い。
哲学の歴史を上空からフェアに俯瞰する、という意識の持ちようがすがすがしいし、板垣恵介の人気格闘マンガ『バキ』にならって哲学者同士の対戦を意図した構成も素晴らしい。ともかく読みやすい、わかりやすい。

全体は「真理」「国家」「神様」「存在」の4つの“ラウンド”に分けられ、それぞれのテーマのもと、哲学者たちが勝ち抜き戦を行う。
たとえば「神様」を扱った第三ラウンドでに登場するのは、「楽しく生きたいから哲学者になったのだ! 真の幸福を見せてやる エピクロス!!」、「信者の前でならオレはいつでもキリストだ! 燃える教祖 イエス・ベン・ヨセフ 本名で登場だ!!」、「真理を探しに宗教へ入ったッ! 教父アウグスティヌス!!」、「真理のベスト・ディフェンスは神学の中にある! スコラ哲学の神様が来たッ! トマス・アクィナス!!」、そして「神殺しは生きていた! さらなる研鑽を積み人間狂気が甦った! 超人!! ニーチェだァ────!!」・・・

もちろんこれだけではわかりにくいだろうが、要するに誰かが「真理」「国家」「神様」「存在」についてナイスアイデアを提示、しかしそれに欠陥、弱点があるなら後人がそれを指摘、反論、ないし凌駕するナイスアイデアを提示、さらにそれを上回るナイスアイデアが、といった具合に哲学の大きな流れを説明していくわけである。
第三ラウンドのラインナップだけでも、時代や派閥にこだわらず、「神」というテーマにそっての人選、格闘戦を想定していることがうかがえ、流して読むだけでも十分楽しい。
(もっとも地のテキストはオーソドックスな柔らかい紹介文で、実際に哲学者同士がリングの上でディベートするとか、そういうわけではない。そこはちょっと残念。)

こうした構成をとったことで、読み手は、ギリシア時代からのさまざまな思想への取り組み、それぞれの進歩、限界をわかりやすくとらえることができる。実際、風呂につかりながらライト小説を読む程度の労力で、すらすら頭に入るのである。

本書は、哲学を専門に勉強、研究されている方にはもしかしたら当たり前のことを薄く書き並べた程度の本なのかもしれない。そういう書評も見かけないわけではない。
しかし、その当たり前のことを1冊でわかりやすく示してくれる入門書が意外と少なかったこともまた事実なのだ。
学生時代に本書のような楽しい哲学入門書にめぐり逢えていたならば!!
──いや、やっぱり深追いはしなかったとは思いますが。

2018/09/27

序列崩壊 『医学部』 鳥集 徹 / 文春文庫

Photoハラスメント、不祥事報道が相次ぐ中、早くも旧聞となりつつあるが、東京医科大の入試について女子受験生、浪人生(3浪以上)に不公平な得点操作がなされていたことがわかった。

是非を問うなら不正操作自体は非に決まっているが、同時に、医大側がなぜそうするに至ったかは考えておかなければならない。端的にいえば、現状、医療部門の現場は皮膚科、眼科など一部を除き極めてブラックであり、女性が女性として結婚、妊娠・出産を迎えるのには適していないのである。
無論、通常の感覚では、職場がブラックならその改善が優先される。しかし、問題はその現場が人の生命にかかわることだ。医者全員が毎日5時に帰り、土日に休んでしまうと、助かるはずが助からなくなる生命がある。それは、現状、医者の数を増やしてどうにかなる問題ではない。

──念のため、東京医科大を擁護するつもりなどもうとうない。受験生に対し、秘密裡に不公平な点数処理をして、それが許されるわけもない。ただ、逆に東京医科大の点数操作を女性差別の一言で非難しても、それで済む問題ではない。
(ちなみに、これは素人アイデアだが、たとえば医療に関する学部が一般に「医学科」「歯学科」「看護学科」「薬学科」に分かれているように、「医学科」そのものを「外科・・・」と「皮膚科・眼科・・・」等にある程度細分化し、募集人員数をコントロールすることはできないだろうか。つまり、男女の比率を操作するのではなく、仕事の質・内容で分けるのである。)

背景に、「医学部」というものはそもそも一般的な大学の学部に比べ、臨床医を育てる職業訓練校の色合いが濃い、このことがある。医学部に入ると、6年目に国家試験に通り、医者になる──極論すると医者によるギルドに所属する、ということである。そのため、医学生は学生のうちから解剖、さまざまな医療の現場を経験するポリクリ、国家試験後もマッチングシステムによる配属先への研修医として訓練期間を経る。

こういった制度、現状について触れ、その問題点を洗った新書が鳥集徹『医学部』である。
その帯にこそ

  モラル低下、大量留年、レイプ事件

と文春砲炸裂!な煽りの赤字が踊っているが、内容は我が国の医学部の歴史的成り立ちから現在にいたるまでの変遷、それに伴う問題点など、さまざまな切り口から医学部の現状をまとめてくれている。
東大医学部の凋落、東大医学部に進んだ学生の適正などをことさら強調しているなど、少しばかり偏りを感じなくもないが、全体を通せばそもそも東大を中心に権威を謳歌してきた旧帝大医学部とその医局に対し、新設の国立大学医学部、また(とくに順天堂をはじめとする)私立医大がここにきて大きく勢力を伸ばしてきた経緯、また一方、医学部偏重の受験傾向が引き起こした問題点を取材をベースにとりまとめ、それなりに公正な書物であるように思われた。
所詮現場を知らない医療ジャーナリストとあなどるのは簡単だが、「外からはこう見えているのか」という観点で医学部在籍、また医学部受験を心がける若い方々に一読をお奨めしたい。

なお、東京医科大の不正入試問題は時期的にも触れられていないが(本書は今年3月発行)、巻末、「外科医として活躍する女性も増えつつある」と紹介された女医の先生が「私は家庭より仕事を選びましたが、外科医をめざす女性医師がもっと増えてくれるといいなと思っています」とあるのは一つの解法ではないかと思う。
カテーテルやAIの導入を背景に、女性外科医が増えれば現場も変わっていくだろう。それが一番の力となるはずだ。

2018/09/18

言わせてもらおう 『言ってはいけない 残酷すぎる真実』 橘 玲 / 新潮新書

Photo少し前の新書ベストセラー、いろいろ過激なことを書いてあるというので今さらながら読んでみた。
(読むにいたった経緯は少々うざったいので省略)

読後の印象は、率直にいえば、1冊の本として論評、主義主張の体裁をなしていないように思われた。

要は、最初から最後まで、他人の論文からのつまみ食い、引用のカタマリで、誰それの何々にこう書いてあるからこれこれ、それそれ、を繰り返しているばかりなのである。自身で実地調査、フィールドワークをした気配はどこにもない。
さらにいえば、著者が引用を重ねる進化生物学とやらの個々の論文はどの程度信用がおけるのか、そこがどうも疑わしい(嘘、というのではない。ただ、人間の心の問題は再現性を確認しづらいだけに、データから導かれた主張にもともとやや推論が多い分野と思われるのだがどうか)。

そんな論文の一部を抜き出し、矢継ぎ早に
・背の高い親から長身の子どもが生まれるよりずっと高い確率で、親が統合失調症なら子どもも同じ病気を発症する
・(犯罪心理学でサイコパスに分類されるような)子どもの極端な異常行動に対して親ができることはほとんどない
・一般知能の8割、論理的推論能力の7割が遺伝で説明できる(知能が環境のみによって決まるという仮説は否定される)
・最新の遺伝学や脳科学の知見は、男と女では生まれつき「幸福の優先順位」が異なることを示唆している(したがって男と女では求められる社会的役割が異なる)
など(実際はもっと放送NGレベルなこともあれこれ)主張されても、大変扇情的で売れるのはわかるが、正しいかどうかとなるとなあ、である。

一つひとつの引用先、あるいは主張、それらの是非についてはここでは問わない。

ただ、著者は、血液型性格判断などを安易に信じるタイプなのかな、と思う。
血液型性格判断が信頼できないのは、その元となるデータが統計として信頼できる/できない以前に、そもそも人の性格の定義が困難、だからだ。
たとえば「几帳面」というタイプ一つ見ても、
・会社では几帳面だが家は汚部屋、な人物ははたして几帳面なのか否か
・普段は小さなトラブルを連発するがいざというときはきっちり仕事のできる人ははたして几帳面なのか否か
・逆に普段は緻密な仕事ぶりなのに、ときに杜撰な結果を残す人ははたして几帳面なのか否か
・自称几帳面なAさんは自称几帳面でないBさんより本当に几帳面なのか否か
等々、数値化して科学的に比較することの難しさがある。

双子の成長や人種、貧しさをベースにしたデータをいくら集めても、こういった評価についての定義、解法がなければ何を調べたことにもならない。
少なくとも本書はそのあたりを明らかにする努力を十分に重ねているようには思われないのだ。

2018/07/26

『殺人に至る「病」 精神科医の臨床報告』 岩波 明/ KKベストセラーズ ベスト新書

Photoそれなりの専門家による余技、アルバイトなのだろうか、最近の新書には、どうにも納得しがたいものが少なくない。

一つには、ある対象(歴史的事件なり仕事なり経済論なりダイエット法なり)について、タイトルを定義、説明する通り一遍の枠組みで1冊を埋め、まあその対象についてまったくご存知ない方には勉強にはなるだろうが、それだけといえばそれだけ、といった本。
もう一方は、その対象についての事例をなんとなく思いつくままに列挙したような本。

精神科医 岩波明氏の『殺人に至る「病」 精神科医の臨床報告』は後者にあたり、要は、著者が過去の常軌を逸した殺人事件をいくつか取り上げ、その経緯を紹介、という体裁である。

取り上げられた事件は、(前書き・後書きなどでつまみ食い的に取り上げられたものを除き)帯の惹句によれば
  サイコパス作家・宝石商銃殺
  近所の騒音幻聴・復讐刺殺
  通り魔・知的障害者・ネグレクト
  東大卒・地下鉄サリン実行犯
の4ケース。
時代・背景、犯罪の在り方もまちまちで、被害者がいるため著者のいう「悪」であることは共通するのだろうが、それ以外に共有項を見つけ出すのが難しい。

なにより不思議なのは「精神科医の臨床報告」なるサブタイトルで、著者はここに取り上げられた事件の容疑者、ないし被害者を直接診断した気配がない。「臨床」を字義どおり「実際に病人を診察し、治療すること」とするなら、甚だしく看板に偽りあり、だ。

百歩譲って当人の診断でなく、他の精神科医の「臨床」記録を元にしたとしても、上記4ケースが、必ずしも精神科医の視点から書かれているわけでもない。
後半になるほどそれが顕著で、4例めの(たまたま本日死刑執行された)オウム事件の豊田死刑囚についてなど、事件当時から最近までの報道から切り貼りしたかのような印象で、ことさらこの著者が語るべきものと思えない。
そもそもオウム事件の一被告を新書数十ページで語り切るななど、できることではないだろう。

つまり本書は、過去の残虐な殺人事件を煽情的、醜聞的に取り上げ直した、と評されてもしかたのない内容となっている(サイコパスによる犯罪などに興味を持つ方は、週刊誌的な視点では本書をそれなりに面白く読めるかもしれない)。

ここに至って、再度タイトルに注目してみよう、すると「殺人に至る病」という主題も、意味がよくわからない。
著者は精神障害者による暴力はいつの時代にも一定の割合で存在することを主張する(p.78)。それはわからないではないが、逆に、本書を読んでいると、精神病理的に正常なものでも、状況によっては殺人を犯すようにも読める。
それなら、わざわざ精神科医をタテに語る必要もない。

(追記)
同じ著者の『狂気という隣人 精神科医の現場報告』(新潮文庫)などは格段に面白く読めたので、おそらく本書における問題は企画、コーディネートの問題だったのではないかと推察する。

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