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カテゴリー「時代・歴史」の28件の記事

2015/11/02

リサイクルされる神の王 『図説 金枝篇(上・下)』 J・G・フレーザー=著、M・ダグラス=監修、S・マコーマック=編集、吉岡晶子=訳 / 講談社学術文庫

Photo最近読んだ本格推理『あなたは誰?』には、

  知ってるかね? 二十三歳の頃からずっと『金枝篇』を読みたいと思ってきたが、四十を過ぎた今になっても第一巻すら読み終える余裕もなかったんだよ。(p.194)

とあり、また日本の妖怪を紹介した『河童・天狗・妖怪』では「鬼と死霊」の章に

  民族学者のフレーザーは、世界の諸民族のなかで、肉体的な死の後にも、なお霊魂が存在して、いろいろな働きをするという信仰をもつところでは、たいがい、死人に対する恐怖があるとしている。(p.206)

とあった。つまり、これらの書物において、フレーザーの『金枝篇』は人生必然の教養書なのである。
また、偶然にせよこのような出会いが続いたなら、迷信深い未開人が、フレーザーを読まなくてはならないという衝動にかられたのも当然である……と、フレーザーなら書いただろうか?

ジェームズ・ジョージ・フレーザー(1854-1941)、イギリスの社会人類学者、民族学者。40年の月日をかけて世界各地の信仰と習俗を蒐集した『金枝篇』全13巻を書き上げた。
翻訳には、
・1890年に刊行された初版の訳本『初版 金枝篇』(ちくま学芸文庫、全2巻)
・第3版13巻本の完訳『金枝篇‐呪術と宗教の研究』(国書刊行会、全10巻別巻、完結時期未定)
・一般読者にも広く読まれることを望んだフレイザー自身による簡略本『金枝篇』(岩波文庫、全5巻)
・S・マコーマックが第3版を要約し、挿絵を付けた『図説 金枝篇』(東京書籍 全1巻、講談社学術文庫 全2巻)
などがある。
今回読んだのは簡略本の講談社学術文庫版。それでも読み応えは十分だ。

フレーザーはまず、ターナーの描いた「金枝(Golden Bough)」という絵画作品に着目する(漱石の『坊っちゃん』で触れられたターナーの作品と思われる)。「金枝」はイタリアのネミの森にある小さな湖と神殿を描いたものだが、この神殿では男は誰でもその祭司となり、「森の王」の称号を得られる。ただし、祭司になるためには、まずその森のオークの樹から一本のヤドリギの枝(金枝)を手折り、時の祭司を殺さなければならなかった。

この神殿に祀られた豊穣の女神ディアナ、その夫ウィルビウスはそれぞれ何を表すのか。また、時の祭司はなぜ殺されなければならなかったのか。
フレーザーはその謎を追うために、(古代ローマやエジプトからスカンジナビア、アフリカ、インド、日本にいたる)世界中の伝説、神話、習俗をあたり、「呪術から宗教をへて科学へと」進む人類の歩みを広く解き起こそうとする。
また、そのために、未開人の呪術を「類感呪術または模倣呪術」と「感染呪術」に分ける。前者は敵に似せた像を傷つけたり破壊したりすることでその敵本人に危害を加えたり殺そうとしたりする試みがそれにあたり、後者は敵の毛髪や爪を燃やすことで敵に危害を加えようとする試みがそれにあたる(憎い相手に似せた藁人形に相手の毛髪を織り込んで五寸釘を打ち込む行為が強力なのは、その両者を包含しているせいといえそうだ)。

『金枝篇』はそれなりに批判も受けている。たとえば資料からの引用ばかりでフィールドワークがなされていない、あるいは一つひとつの事例の間にごく薄弱な関連しかないために理論が頭でっかちになっている、など。しかし、資料の膨大さがそういった批判を圧倒しているようだ。
また、世界各国の古代人に対し、たとえば

  ずるく身勝手にも未開人が隣人を犠牲にして自分を楽にしようとする工夫は、きわめて多種多様である。(下 p.120)

  焼き殺したとしてもなんら不思議はない。人間の苦痛を思いやる気持ちは未開人にはないのである。(下 p.247)

といった具合に傲慢かつ差別的な語り口調が散見する問題もある。これは書かれた時代によるもので、ある程度しかたがないのかもしれない。

ただ、簡略版にせよ、通し読みしてむしろ疑問だったのは、「豊穣のために殺される神」という大きなテーマのために古今東西の伝説、神話、習俗を集めながら、十字架の上で(足を地面につけないで)殺され、復活するキリストとの比較を事例としてほとんど話題にしていないことである。
講談社学術文庫版でキリストの死と復活についてきちんと触れているのは、メキシコの祭りにおいて若い男が「神々の神」テスカポリトカとしていけにえにされるのを

  救世主の死と復活を祝うキリスト教の祭典に相当するものだったといえよう。(下 p.160)

とさらりと比較している部分くらいだった。

また、豊穣と神殺しといえば、古事記のスサノオとオオゲツヒメの逸話が思い浮かぶが、『金枝篇』の3版13巻本がこれについて触れているのかどうかはわからない。

『金枝篇』とは、結局のところいつか全編を読まないと済まされない書物なのかもしれない。

※『金枝篇』では、古代ケルト人の間で、死者の霊が復活し、魔女が飛び交うとされた「ハロウィン」についても触れられている。本項は10月31日にはアップしたかったのだが、間に合わず残念。

2014/05/03

なおも読む 『鼠、江戸を疾る』(以下現在まで7巻) 赤川次郎 / 角川文庫

Photo 赤川次郎のミステリと言えば、(失礼ながら)堅牢な構成やトリックの巧みより、会話や改行が多く、あっという間に読めてしまう印象が強い。
もちろん、すらすら読めるのは立派な才能であり、ひとたび体が赤川次郎の軽さ、ゆるいユーモアに馴染んでしまうと、二度とほかの作家に戻れない、という声も耳にする。

……と思いきや、ここにきて、鼠小僧。
赤川次郎が時代劇? といぶかったら、やはり初めてらしい。五百数十冊めで初めての時代劇。
とりあえず『鼠、江戸を疾る』から読んでみた。

実に面白い。

 四尺幅の廊下を、鳥の羽根が撫でるように軽々と進んで来た足が、ピタリと止った。

この書き起こしから、素晴らしい。「四尺幅」に現代劇ではないぞとの標が見える。おそらく朝夕に下女の雑巾で磨かれた廊下、そこをひたひた歩む賊の足は「鳥の羽根が撫でるように」軽い。その鋭い耳がそば立つのだ。事が、起こる──。

江戸を舞台にした時代劇が、指紋や物証にこだわらない赤川テイストに合っているのかもしれない。
一篇一篇、権力をこらしめ、弱きを助く〈甘酒屋〉次郎吉こと鼠小僧、その妹で小太刀の名人、小袖、この二人の活躍がすっきり描かれる。いずれも短い中に事件は込み入ってほろ苦く、大人の味わいである。

また、この手のシリーズ作品では回を追うごとに主人公周辺に馴染みの脇役が膨張していくことが多いが、本作には鼠を執拗に追う銭形だのライバル五右衛門だの大八車で待つ次元だの、そういった者は出てこない。三冊目でようやく常連が二人増えて、それ以後も増えない。つまりは抑制が効いているのである。

さすがに六、七冊めとなると場面描写など慣れた読み手に期待する一種の手抜きか、悪人が抜刀したとたん小太刀を受けて(つまり小袖に倒されて)呻いている、そんな展開もなくはない。
それでも全体の艶と古色は実にいい感じで、これはひょっとすると赤川次郎の平成の代表作の一つになるかもしれない。

2014/02/15

吠える外科医 『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』 ウェンディ・ムーア 著、矢野真千子 訳 / 河出文庫

Photo偉い人の伝記なんてどうせ、とフミヒコ、君が目をそらすさまが目に浮かぶ。だけど待って。ちょっと待って。
この表紙を見てごらん。ほら。これなんだろう。
小さくてわかりにくいよね。でも、これは君の大好きな死体だ。それも、妊娠最終期で突然死した妊婦と、その胎児の死体の細密画。
そんなものが町中の本屋の新刊コーナーに黙って積まれていたんだよ。河出の文庫担当者の薄ら笑いが見えるようだろ。うふ。うふふふ。はは。

本文を読んであげよう、どこがいいか。たとえば、そう、ここ。

 

いわゆる「はらわた」はまっ先にだめになるので、生徒たちはまず腹を切り開いて皮膚と脂肪をめくりあげ、消化器官を観察する。胃、三十フィートを超える腸、そして腹腔にぎゅっと詰め込まれている脾臓、胆のう、すい臓などの小さな臓器。つぎに胸を開く。肋骨をノコギリで切り、肺をあらわにしてから取り出す。肺葉はたいていロンドンの冬のスモッグで黒ずんでいた。

 

ああ、匂うようだね。体液がしたたるよう。この本はね、医療が瀉血(知っているかな)や浣腸、水銀治療という、現代から見れば「まじない」に近いものだった18世紀のイギリスで、人や動物の死体を何千も切り刻み、弟子を育て、外科医学を爆発的に発展させたジョン・ハンター(1728~1793)の人生を描いたものだ。死んだ後にバラバラにされたのでは天国に行けないと不安がるのが普通な時代、研究や講義のための死体が手に入らないなら墓泥棒と組むのは朝飯前、巨人症の人物が死ねばその棺を追いかけて無理やり盗んでしまう。届いた死体はすぐ大鍋で煮て骨格標本だ。

ジョンは画期的な治療法を次々開発してのける。動脈瘤切除、人工授精、ダーウィンより70年も早く進化論を予見したりもした。ただ当時はまだ細菌やウイルスの知識はなかったからね。消毒殺菌なしに切り開き、手術は成功、患者は死亡、残念。死ねば解剖だ解剖だ、標本だ標本だ。

一方、ジェンナーをはじめとする弟子には篤く、貧しい患者には面倒見のよい好人物でもあったらしい。

 

あいかわらず無作法で上流社交界になじもうとしなかったため、一部の保守派からは厄介者あつかいされていたが、科学にたいしてつねに純粋に精力的に取り組んでいたので、友人や同業者の尊敬を集めた。

 

きっぱり論理的で気持ちのよい文体、敵も味方も個性豊かな登場人物、ジェームス・ワットやバイロン、アダム・スミスらも意外なところで顔を出し、ヘタな映画なんかよりよっぽど面白い。

だから、どうだ、フミヒコ。そんなものでいつまでも遊んでないで、メスをこちらに寄越しなさい。もっと、いいこと、させてあげるから。

2011/07/10

ただ走り切ればすむという話ではござらぬ。 「タイムスクープハンター」

 HDに録り溜めしていたNHK「タイムスクープハンター」、DVDに焼きながら3話分まとめて見る。

 毎回、あまり知られていない日本の歴史上の任務や風俗習慣を、無名(?)の役者さんたちが必至で再現してくれて楽しい。登場人物の朴訥なまでの誠実さに泣ける。ひなびた住居、ほこりっぽい街道。子供たちの粗末な衣服、男たちの見苦しい月代(さかやき。額から頭頂にかけて剃り落したさま)にもリアリティがあふれる。

 さすがにこの頃は具合のよい素材捜しに苦しんでか、ただ人情時代劇にしか見えない回も目立つ。
 7日放送の「維新ロマンス英語塾」も「そうだったのか!」と膝を打つ意外なナレッジはほとんど得られず、未来からきたジャーナリスト・沢嶋雄一(要潤)の立ち位置も不明瞭なまま。まぁ、この回は美人英語講師レイチェルの着物姿に萌え~、という話だったのかも。脳内BGMでは勝手にブレードランナーのエンディングテーマが鳴りっぱなしだった。

 過去の作品で一番心に残っているのは、昨年春の「“算額”頭脳バトル」。
 和算を教えながら地方を行脚する「遊歴算家」と庶民のかかわり、というテーマそのものも新鮮だったが、それ以上に、理性をもって権力に挑む、屈しない、という太い骨組みがあった。制作サイドの抑えきれない意図が知らず強く込められてしまった、と言ってもよいかもしれない。
 その意味で、今回のシーズン3からキャスティングされているナビゲーター役の杏は番組の構造をあいまいにしかねない。姿なしのマシーナリーな声だけでよかった。

2010/09/14

さもしき悪意、愚鈍な善意 『新・御宿かわせみ』 平岩弓枝 / 文春文庫

Photo 【その昔の、東吾をみるようじゃな】 ←読み手にはぜんぜんそう見えません

 前作から6年の月日が経ち、時代は一気に明治。
 その間、東吾は行方不明となり、宗太郎と花世を除く麻生の一族は惨殺され、事件を追った源三郎も何者かによって非業の死をとげている。

 これは本当に同じ作者による『御宿かわせみ』の続編なのだろうか。

 思うに……。
 『御宿かわせみ』とは、江戸の古地図の上に春秋の風俗、習わしを蒔きつけ、その上に身分制度や因襲にこだわらない善良かつ聡明な人々を配した、心なごむお伽噺だった(過去形なのが悲しい)。新シリーズでは桃源郷はもろくも瓦解し、粘土顔の男女と身勝手な若者が残るばかりだ。
 しばらく引っ張るかという予測に反し、麻生家を襲撃し、源三郎を殺害した下手人はこの1冊の中であっさり判明してしまう。しかし、その動機はとことん浅ましく、身も蓋もない。かつて、本シリーズにおける陰惨な事件のいくつかが、実はやむにやまれぬ人情沙汰の果てだったことが今となっては懐かしい。

 数十年にわたって編み通された名作を何もこう一気に貶めなくても……とまで言っては言いすぎか。いや、それにしたってこのぼんくら麻太郎におたわけ花世はないだろう。

 平岩先生。
 病気療養中に版社が無断で数冊代筆に書かせたことにするなら今のうちです。今なら、まだ間に合う。

2010/05/06

喪われていく技術の記録 『ことばの海へ雲にのって 大漢和辞典をつくった諸橋轍次と鈴木一平』 岡田文良 / PHP研究所

Photo 【「紙っ、紙型を、もってきたのか?」】

 (もう昨日になってしまったが)こどもの日にちなんで「課題図書」から1冊。

 『ことばの海へ雲にのって』は、第29回青少年読書感想文全国コンクール小学校高学年の部、課題図書。
 課題図書と称して子どもに本や感想文を押しつけることの功罪はさておき、本書を教育がらみの仕事で薦められて読んだのは、思い起こせばもう25年以上昔のことである。とてもよい本だと当時大いに感動したものだが、最近になって今では絶版となっていることを知り、古書として入手した。この1冊はずっと手元に置いておきたい、そう考えたためである。

 本書は、大修館書店の労作『大漢和辞典』にかかわった諸橋轍次と鈴木一平の努力と苦難を描いた伝記的作品である。『大漢和辞典』全十三巻が完成に至るのは、大修館書店社長 鈴木一平が諸橋轍次にはじめて出会い、その編纂を依頼してから35年を経た1960年のことだった。総ページ数一万四千八百六十七ページ、のべ二十五万人がかかわった大事業だったのである。

 しかし、本書『ことばの海へ雲にのって』が絶版となり、文庫化もされていないことを惜しく思う理由は、そういった「プロジェクトX」的感動作であるから、というだけの理由ではない。
 本書には、『大漢和辞典』の発行という一大事業にかける人々の物語だけでなく、もう1つ、そもそもの「印刷」「出版」という工程の技術、歴史が描き込まれているのである。
 関東大震災に際して、出版社にとって何より大切な「紙型」(現在ならマスターの文書ファイルだろうか)を火災から守った話。あるいは第二次世界大戦の東京大空襲に際して、活版印刷の組版が焼け落ちる次のようなシーン。

 いちだんと強い炎の風がふくと、ものすごいうなりをあげながら屋根や柱や壁が落ちた。同時に、二階にびっしりとつめてあった、大漢和全十三巻、一万四千ページ分の組版も、木箱もろとも、もえくずれるようにして階下に落下した。鉛がとけ、まっかな滝となって流れ落ちていく。
 その総重量、二万五千貫──キロになおして、九万三千七百五十キロ──、十トンづみの大型トラックで約十台分である。

 この巨神兵の暴走もかくやの、黙示録的な滅びの映像は、ただ『漢和大辞典』の膨大な組版が喪われただけでなく、同時に、グーテンベルグ以来数世紀にわたって引き継がれた、鉛を用いた活版印刷技術の(少なくとも日本国内での)終焉でもあった。国内の印刷技術は、こののち、『大漢和辞典』も最終的にはそちらを選択する「写植(写真植字)」に急速に移っていく。

 現在では、鉛の活字を用いた活版印刷や、それを再版するための紙型の技術や器具はほとんど失われ、新刊に用いられることはまったくと言っていいほどない。和文タイプと写真を組み合わせたような写植の技術すら、短期、文書ファイルをロボットで出力する電算写植に移り、さらにはTeX(テフ)といった組版ソフトウェアを横目に見ながら、今ではMacintoshやWindows上のビジュアルなDTP(デスクトップパブリッシング)ソフトウェアがごく当たり前のものとなり、少しパソコンに習熟した者なら誰でも出版デザイナーを名乗ることができるようになった。
 さらに近年にいたっては、iPadやKindleといった電子ブックリーダーが登場、普及しようとしている。

 こういった技術の変遷そのものは、多分、とてもよいことなのだろう。少なくとも、文字を組み合わせた情報を作成しページに配置する労力は、活版印刷とは比較にならないほど軽減された。バックアップ、配布という点についてもディジタルメディアの優位は圧倒的だ。

 だが、誰かが忘れてしまったとしても、「活版」「紙型」「写植」などこつこつと文字を配置する技術が長い間出版文化を支えてきたこと、これは紛れもない事実だ。若干でも紙の印刷、出版にかかわってきた者としては、ときたまであれ『ことばの海へ雲にのって』を思い起こしたいと思う。ただ古い技術を懐かしむため、などではない。鉛のバーに込められた文字の重さを、忘れない、忘れてはならない。

2009/03/01

悠揚として迫らず、泰然として自在 『若さま侍捕物手帖(1)(2)』 城 昌幸 / ランダムハウス講談社 時代小説文庫

835_2 【ハッハハハ!】

 「出来」と書いて「しゅったい」と読むことがあります。
 その意味の一つには、何か事件が起こること。岡本綺堂の『半七捕物帳』など読んでいると、ときに「その繁昌の最中に一つの事件が出来しました」といった味わい深い口運びが現れて楽しませてくれます。
 「出来」のもう一方の意味は、何かができ上がること。最近はめったにお目にかからなくなりましたが、出版物の広告に「増刷出来!」などとあるのがそれです。
 今回は『若さま侍捕物手帖』出来! のお話です。

 先に取り上げた『半七捕物帳』、佐々木味津三『右門捕物帖』(むっつり右門)、そして野村胡堂『銭形平次捕物控』、この三作を並び称して「三大捕物帳」と言います。ボリュームにおいてやや見劣りする『右門捕物帖』の代わりに横溝正史『人形佐七捕物帳』を推すこともあるようです。
 最近では、上記四作に城昌幸『若さま侍捕物手帖』を加えて「五大捕物帳」とすることが多くなっているようです。
 しかし、最初の四作がそれぞれ文庫や全集で再版が重ねられているのに比べ、どういうわけか若さま侍シリーズは不遇をかこってきました。

 『若さま侍捕物手帖』は1980年代半ばに春陽文庫から『双色渦巻』『五月雨ごろし』『人化け狸』『天を行く女』『虚無僧変化』の長短篇集が発行ないし再販されましたが、いずれも現在では新刊としては入手不可。1990年に光文社文庫から長編『百鬼夜行』の上下巻が出ましたが、これも品切れ。その後2003年に中公文庫と光文社文庫から相次いで傑作短篇集が発行され、これらは現在でも入手できますが……昭和14年(1939年)に「週刊朝日」誌上に「舞扇三十一文字」で登場して以来、30有余年にわたって書き続けられた人気シリーズが、ジュンク堂池袋本店を上から下まで探しても文庫本2冊しか手に入らない! というまことに侘しいありさまがここしばらくずうっと続いていたのです。

 ──理由はわかりません。捕物帳という内容が古臭い、ということではないでしょう。本を読む世代が高齢化したことや、NHK大河ドラマの久々のヒットによるものか、書店では時代小説の平積みが目立ちます。また『若さま侍捕物手帖』の語り口は、昨今発表されたと言われても違和感がないくらい切れ味がよく、スピーディかつクールです。

 と、苛々を募らせてきた若さまファンにとって、昨年、今年は盆と正月がいっぺんに来たような(…古っ…)目出度くも有り難い文庫の発刊が続いています。まさに「出来!」です。
 
  『若さま侍捕物手帖』(徳間文庫 中編「紅鶴屋敷」「五月雨ごろし」収録)
  『人魚鬼-若さま侍捕物手帖』(徳間文庫 長編)
  『若さま侍捕物手帖』(1)(2)(ランダムハウス講談社時代小説文庫 傑作短篇集)

 両社ともこの後も続刊を予定しているとのこと。もちろん、これでも、著者曰く「短篇だけで二百五十篇(中略)、或は、三百に近いかもしれない」、ほかに中・長編が約二十篇とあのWikipediaでさえ全体像をまとめきれない膨大な若さまシリーズの、まだ本当にごく一部にすぎませんが、それでも一昨年までの旱魃状態に比べれば夢のような恵みの雨です。

 さて、『若さま侍捕物手帖』の主人公「若さま」とはいったい何者なのでしょうか。作品中では最後まで氏素性は明らかにされません。幕府の大物と知遇があるなど、随所になにやら高貴な身分であることが暗示されているのですが……(捕物帳と称される時代小説では、通常主人公は同心、目明し、御用聞きのいずれかですが、若さまはそのいずれにも属しません)。

 江戸は柳橋、船宿「喜仙」の居候にして、いつもは「床柱に軽く背をもたせかけて右の立膝、前に徳利を乗せた黒塗り高脚の膳部を控え、楽しそうにちびりちびりと盃をあげ」、この「喜仙」の一人娘で明けて十九になった「おいと」のお酌を相手に無駄話。そこに御用聞きの遠州屋小吉が不可解な事件を持ち込んで……というのが毎度おなじみのパターン。
 若さまはどこまで本気やら、小吉の話に「ハッハッハ!」と笑って春は花見、冬は雪見にごろりと寝そべり、気が向けば「どれ」と出かけて、いつの間にやら快刀乱麻、事件は解決してしまいます。

 添付の画像ではなにやらお侍たちが切り結んでいますが、若さまはこんな無粋なことは決していたしません。「酒は灘の……」とふらつきながら、
 「若さま、どちらまで?」
 「ぶらぶら」
 「な、なにやつ!」
 「物好き」
 「お武家様、どうしてここへ…」
 「見物」
そのくせ、剣の達者な悪人が背後から切り込もうにもすきがなく、ただもう
 「ハッハッハ!」

 バロネス・オルツィ作『隅の老人』に想を得たというアームチェア・ディテクティブかと思えば、長編では東海道、中仙道とすたすた長旅に出ることいとわず、巨悪、こそ泥、怪談まがいとあらゆる難事件を解決して爽快です。

 作者城昌幸は城左門の名で詩人としても知られる人物。日夏耿之介主催の「奢霸都(サバト)」に参画したというのですからこれはハイカラです。
 『若さま侍捕物手帖』は「痛快」とか「春風駘蕩」とかよく評されますが、同じ「痛快」「春風駘蕩」でも山手樹一郎などとまた味わいが違うのは、詩人として磨かれた言葉に対する細やかなセンス、あるいは西欧文学への趣味嗜好が背景にあってではないかと推われます。説明に走らず、無駄を切り捨てたショートセンテンスで「こく」より「きれ」を重視し、濁りのない、颯爽とした作風を最後まで保ちました。

 続刊は3月の初旬。ひとつ若さまを気取って黒の着流し、ふところ手でぶらりと本屋をのぞいてみましょうか。
 「ハッハハハ!」

2006/02/20

最近のダメダメ 『はやぶさ新八御用旅(二) 中仙道六十九次』 平岩弓枝 / 講談社文庫

329【隼新八郎どのではござらぬか】

 すちゃらか。
 なんでこうなってしまったのか。

 隅田川沿いの宿屋を舞台にした人情絵巻『御宿かわせみ』が好きだ。そこで,同じ作者の時代モノをいくつか手にとるのだが,似たような味わい,完成度となるとなかなかヒットしない。

 『はやぶさ新八』シリーズは,江戸町奉行根岸肥前守鎮衛の内与力(直属の家臣)を勤める隼新八郎が命を受けてさまざまな難事件を探索する長・短編集。当初は大奥にうごめく男女の愛憎や武家の傲慢を描き,『かわせみ』に比べてどろどろした重い話が多かったのだが,最近はすっかりすちゃらかになり果ててしまった。

 『御用旅』編では,主人公新八郎が東海道五十三次を上って京に参り(一巻),禁裏にかかわる贈賄事件を解決して中山道六十九次を下る(二巻)。
 ところが,事件の謎解きも,恨みを買っての道中も,ともかく要所要所に知人が現れて一事が万事こんびにえんと。連れの子どもが熱を出せば「もしや新八郎様」と親しい医者の娘が現れる。街道で切り合えばその地の用心が「何事」と現れ「これは新八郎どの」と処理してくれる。

 『課長島耕作』を思い出すが,あちらは超大企業の課長“ごとき”がたまたま手を出した女のコネで万事結果オーライという御伽噺だった。奉行の威を借りて下にもおかれぬ内与力が「これはありがたい」の連発では読み手も民草も救われない。

2004/10/16

最近読んだ本 『ホムンクルス(3)』『御宿かわせみ二十九 初春弁才船』

009『ホムンクルス(3)』 山本英夫 / 小学館ビッグコミックス

 こちらはそのスピリッツで現在掲載中,異様なイメージと緊迫感を誌面いっぱいに展開させる『ホムンクルス』の第3巻である。

 今回は,本作における「ホムンクルス」という言葉の意味がいよいよ明らかになる。
 それは従来の「人造人間」という意味ではなく,脳科学でいうところの「脳の中の小人」のことで……と説明されるとともに作品世界にざあっと光が当たる,かといえばさにあらず,必ずしもそうとは限らない。
 むしろ,自在なイメージが理屈の枷を受けた印象。早い話,興醒めなのよ。

 頭蓋骨に穴をあける(歯が浮くようで気色悪い……)トレパネーションの手術を受けた名越の左目に期せずして見えるようになった,怪物のような人々。「ロボットの中におさまって泣いている少年」に見えるヤクザの組長や,太っているくせに厚さが2cmくらいしかないペラペラなサラリーマン。なめらかな金属でできた球体の小さな穴から相手をうかがうホームレスや,体が6つに分かれて腰の部分をウィンウィンと回転させるオシャレな女。
 彼らの姿が鮮やかであればあるほど,なぜそう見えるか理屈で説明されてしまうとなんとなくつまらなくなってしまうのだ。

 第3巻で注目したいのは,それら化け物の姿態や謎解きより,むしろ,名越と伊藤の対話シーンのほうだ。
 ホテルのレストランや喫茶店で向かい合う,彼らのかもし出すダルな雰囲気とそれに相反する密度の高い緊張感。喋る,相手を覗き込む,笑ってみせる,目をそらす,首を傾げる,そういったごくありきたりな表情ひとつひとつが異様に濃いのだ。名越,伊藤の顔のほんのちょっとした描き込みが,意識的,あるいは無意識の欺きや秘匿,不信といったものを見事に表象している。
 個々のコマはただその対話を忠実に描写するばかりで,彼らが実際のところどう感じ,どう考えたかはほとんど説明されない。したがって,彼らの互いの信頼感や疑念,関心/無関心が,1コマ1コマで常に揺れるのだ。

 『ホムルンクス』は,この対話シーンだけをもってしても,マンガ史に残したいと思う。その独自性,緊張感は,それほどのものだ。

『御宿かわせみ二十九 初春弁才船』 平岩弓枝 / 文春文庫

 文芸誌や単行本でなく文庫での付き合いだが,『御宿かわせみ』はたいがい発売日に購入,その日のうちに読んでしまう。ありていにいえばファンである。
 ただ,今回はどうもうまく作品世界,大川端に旅籠「かわせみ」のある江戸末期に入り込めなかった。
 原因はこちら側にある。

 ここしばらく海外ミステリの分厚いのを何冊か続けて読んでおり,その錆臭い空気,その饒舌な文体が脳裡にへばりついて,マンガの3冊4冊読んだ程度では振り落とせなかったため,新酒を江戸に運ぶ樽廻船をめぐる人情話や,嫁姑のいさかいに端を発する丑の刻まいり,といった話にゆったりとは入っていけなかったのだ。

 ただ,読んでいる間は気がつかなかったが,今回はわりあい殺伐とした,救いのない事件が少なくない。もう少し穏やかな本を続けて読んだあとだったならまた別の,いや,かなり違う印象をもったに違いない。

 それにしても。

> 東吾や源三郎が,この小判商人という闇の組織を相手に正面から戦を挑むことになるのは,まだ少々先の話である。

 昭和48年(1973年)2月号の「小説サンデー毎日」の第1話から30年以上かけての225作め,単行本にして29冊めで,こんな大ネタ振るか。
 平岩弓枝,昭和7年(1932年)3月15日生まれ,今年で71歳。元気。意気軒昂。

2004/07/06

どこに向かう技量 『退屈姫君伝』 米村圭伍 / 新潮文庫

5511【(すてきすてき。今日はなんとも波乱万丈だわ)】

 先日紹介した『水曜日は狐の書評 日刊ゲンダイ匿名コラム』においても

 読み手の予想を快く裏切って,意外な展開を続ける米村圭伍の手並みに,すでに「作家の自負」とでもいうべきものが揺るがずに立っているのを感じる。

と賞賛された作品である。
 しかし,そのあとの作品まで俯瞰して見ると,はたしてどうだろう。

 本書『退屈姫君伝』そのものはなかなか面白い。
 美貌ながら生来のいたずら好き,陸奥盤台藩五十万石の末娘,めだか姫が讃岐の小藩にお輿入れ。そんな彼女がある日退屈しのぎに屋敷を抜け出し,幕府隠密,くノ一,長屋の町人まで巻き込んで,藩の七不思議ならぬ六不思議の謎解き,あげくに陰謀めぐらす田沼意次と対決することに……。
 云々という筋書きを古いと読むか,今風と見るかはともかく,天真爛漫,物怖じしないのびやなか性格で,周囲の者たちは呆れはてつつやがて味方となってわいのわいの,というめだか姫,アニメ化の話がないのが不思議なほどである。

 六不思議の謎解きをはじめ,さまざまな事件,登場人物を交えながら,それでも作中の時間はゆっくり過ぎていく。展開が遅いわけではない。文体というより,作品内時間の経過の仕方が際だって「落語」的なのである。

 デビュー作『風流冷飯伝』,本作『退屈姫君伝』,さらに続く3作めの『面影小町伝』(文庫化に際し『錦絵双花伝』より改題)の3作を見ると,一部の人物が複数の作品に登場しており,これらが連作であることは明らかだ。
 だが,作品のもつ手ごたえは,これが同じ作者によるものかと思われるほどに異なる。
 とくに,1作,2作めののんびり明るい風情を好もしく思った者にとって,3作め『面影小町伝』の凄惨な展開は衝撃だろう。また,それと知ったとき,1作めの『風流冷飯伝』も,決して万事にほのぼのした物語ではあり得なかったことに気がつくだろう。

 もちろん,一人の作家がユーモアとシリアスを書き分けることは珍しくない。しかし,三部作で,しかも登場人物や舞台が重なりながらこれだけタッチが異なるのも珍しい。
 これを,狐の書評のように「読み手の予想を快く裏切って」と評価すべきか,それとも作者のフォームが安定しないとみるべきか,そのあたりは難しいが,どうも後者を否定しきれない。
 極端にいえば,三部作を通して共通するのは,作者米村圭伍の「技量」だけなのである。

 この構造は,『後宮小説』のあと,小説を書くという行為そのものをテーマにしたような短編集『ピュタゴラスの旅』を提示した酒見賢一のあり方と一見似ているようで──実はまるで違う。
 酒見賢一は小説が「技量」によって成立していることを作品中でも明示し,いわば手の内をさらしたところでファンタジーを書いた。読み手は,その構造を理解したうえで,その構造も含めて酒見賢一を面白がることが可能である。
 しかし,米村圭伍の文体は,酒見賢一のようにあるにはあまりに口あたりがよすぎる。おそらく落語などの芸能への傾倒が良くも悪しくも米村圭伍の作品をとっつきやすくしているのだろう。そのため,読み手は,そこにある濁りに気がつきにくい。そして,その濁りをメインテーマにされたとき,一部の読み手は途方に暮れるに違いない。

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