カテゴリー「コミック(評論等)」の54件の記事

2022/04/14

大ゴマの魅力 「インビンシブル」「ハコヅメ」など

Image1_20220414185501 モーニング No.20(2022 4/28)では、ラグビーマンガ「インビンシブル」(瀬下 猛)の第1部が完結した。

先号からセリフ1つない試合描写の連続で・・・というスラムダンキーな話はここではそっちにおいといて、今回のお題は最後のページの大ゴマである。
ご覧のとおり、主人公のドアップで1ページ費やされているのだ。
トライを決め、なお上目遣いに挑戦的。いい顔である。

ふと思い返すに、ここしばらく、同じモーニング誌上で、たとえば「ハコヅメ ~交番女子の逆襲~」(泰三子)、「JKさんちのサルトルさん」(さのさくら)、「踊れ獅子堂賢」(常喜寝太郎)など、表紙、途中、最後のページ問わず、主人公のアップで(ほぼ)1ページを埋める、印象的なページが多かったように思う。

もちろん、1ページ、ないし見開き2ページを費やして強烈なコマを置くというのはマンガでは別に珍しいことではない。
古いところでは岡田史子が「墓地へゆく道」に“日だまりにうずくまり汽車にひかれる夢をみている少女”を見開きに描き、稀有を越えていまだに語り草だ。

ただ、この半年あまりのモーニングの大ゴマは、、、
以下、まったくの推量に過ぎず、立証もなにもない指摘なのだが、
今、マンガというものの主流がじわじわとスマホやパッドの画面のちんまりした枠の中に移りつつある中、作家たちが(電子ブックでも、単行本ですらなく)B5版の紙の雑誌の1ページのパワーを気持ちよく使い、そこに全身全霊をかけて主人公を描くという、その現れではないか。

上にあげたいくつかの例は、いずれも雑誌サイズでなければ得られない魅力と迫力に溢れている。
週刊の雑誌を手にした瞬間以外、単行本でも電子ブックでも得られないライブな感興なのである。
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2022/03/31

『現代マンガ選集 異形の未来』に見るマンガ軽視

現代マンガ選集 異形の未来』の「ポーチで少女が小犬と」についての150ページの解説には、冒頭に
 
  萩尾望都が『COM』に発表した唯一の作品。
 
とある。
これは明らかに誤りで、『COM』同年10月号には萩尾望都のやはり名作とされる「10月の少女たち」が掲載されている。
しかも、実は「10月の少女たち」は『現代マンガ選集』の総監修を担当している中条省平が編んだ、同じちくま文庫の『COM傑作選 下 1970~1971』に収録されているのだ。
 
10 少し大げさな話をすると、問題はちくま文庫に限らない。
小学館文庫『10月の少女たち』はその「10月の少女たち」を表題とした萩尾望都の初期傑作短篇集なのだが、それを見ても、同作の最後のコマ下におそらく描かれた時期として「1971年8月」とあるだけで、掲載誌については触れていない。
つまり、大手出版社の文庫であっても、マンガの初出についての資料性はその程度の扱い、ということだ。
 
かくの如く、マンガは今や文化として十分に市民権を得たように見えながら、実のところいまだに「しょせんマンガ如き」という扱いを受けているのではないか。
 
筑摩書房はさまざまなアングルからアンソロジーを編んだり、マイナーな作品を復刊したりしてくれるなど、トータルとしてはマンガをずいぶん大切にしてくれている。そのちくま文庫にして、作品の初出について『Yasuji東京』紹介の折に書いたようなルーズさが目につく。
 
少なくとも、作品集1冊、せいぜい10作品程度の初出を調べず、載せない、あるいは間違って載せるというのは怠慢としか思えない。
 
扉ページにこって、妙ちくりんなローマ字表示を載せるくらいなら(※)、資料としての価値にもう少し気を遣ってほしいと思う年度末の烏丸であった。
 
 
※『現代マンガ選集 異形の未来』では各作品の扉に、ペン画のイラストに加えて著者名、作品名のアルファベット表記を掲載している。装丁上の飾り程度のつもりなのだろうが、それにしてもミス、不統一が目立つ。
「サイボーグ」なら「Cyborg」と英訳、「そこに奴が…」では「Sokoni Yatsuga...」とローマ字表記。ちなみにその裏ページは「Sokoni Yatuga...」と「s」抜け。「300,000Km./sec.」では「300,00Km./sec.」となんと「0」1個抜け。「ポーチで少女が小犬と」なら「Porch de Shojyo ga koinu to」とこれは英単語ローマ字混じりの・・・何語なのか? 「至福の街」ではまた「Shifuku no Machi」とローマ字、「ぼくとフリオと校庭で」にいたっては「Me and Julio Down by the Schoolyard」となんとポール・サイモンの曲名そのまま。
もう、何をしたいのかわからない。原題の下にアルファベットがあるとオシャレだ、カッコイイ、とでも考えたのだろうか。飾りなら飾りで、少し丁寧に考えてほしい。

2022/03/07

まさかの 『すこし昔の恋のお話』 笹生那美 / イースト・プレス

Photo_20220307174101 誰がなんと言おうと、昨年のコミック関連書籍における推薦課題図書No.1は笹生那美の『薔薇はシュラバで生まれる 【70年代少女漫画アシスタント奮闘記】』だった! だったに違いない。と個人的には思う。だったんじゃないかな。だったとした、ならば。
・・・ここで気弱になってどうする。
 
『すこし昔の恋のお話』は、その薔薇シュラのヒットに沸いた出版社が、「笹生那美さんってどんな作品描いてたのかしら」「もっとアシスタント時代の裏話読みたいわ」という声に応えて──シュラバ族の間では「二冊目のドジョウを狙う」と言います──発行したもので、笹生那美の現役時代の作品4篇、それに新たに描き下ろされたコミックエッセイ数点を加えたもの。
 
オドロキ オドラデク!なことが2つ。
 
巻頭に掲載された「テレパシー・ラブ」(花とゆめ1978年15号)に記憶があったこと。
記憶があった、なんてものではない。主人公がテレパシーで彼に思いを伝えようとするオープニングから最後のオチまで、「なんと! 自分はフォトグラフィックメモリー能力の持ち主だったのか!」というレベルでまるまる覚えていたのである。主人公が木陰からザっと現れるコマ(素晴らしい!)やクラスメートの釜石くんが黒ずくめのスパイの扮装するコマ(小イキ!)なんて、いずれもソラで描けそうだ。いや、絵がヘタなので描けませんが。
ちょっと段ボール箱から探してみないとわからないが、もしかしたらこの作品、当時感心して、雑誌から切り抜いて保存していたのかな、と思う。掲載時に一度二度読んだくらいでこんなに鮮明に覚えているとは思えない。
いずれにせよ、作者が作品一つ描くのにも時間がかかるというのが理解る、細かいところまで気を遣っていてよくできた少女マンガ作品なのである。
 
もう一つのオドラデク!
 
これは、書いてしまうと『すこし昔の恋のお話』最大の隠しダネをあかしてしまうことになるのでアレなのだが、笹生那美って、・・・だったのか。
どうりで、薔薇シュラにしても、メジャーとは言い難い短篇マンガ家、アシスタントが30数年ぶりにペンをとったというわりに妙にキモの座った堂々たる語り口。
まさか、新○た○○の。そうですか。

 

2021/05/31

人生は一度きり 『薔薇はシュラバで生まれる 【70年代少女漫画アシスタント奮闘記】』 笹生那実 / イースト・プレス

Photo_20210531182201 2020年2月発行。
取り上げなくては! と思っているうちに1年経ってしまった。
個人的には昨年発刊のコミックエッセイで、いや、普通のコミック全部合わせてもベストな1冊。

70年代、あの、少女マンガがきらびやかかつ先鋭的だった時代に自身プロデビューする一方、美内すずえ、くらもちふさこ、樹村みのり、三原順、山岸凉子らの数々の名作にアシスタントとしてかかわってきたマンガ家笹生那実が当時の回顧録を、それぞれの作家の顔をそれぞれの作家のタッチで描いたコミックエッセイ。巧いんだ、これが。

ページを多く割いた美内すずえの「シュラバ」──相次ぐ徹夜、風呂にも入れない、資料がない、よれよれの服装──のあれこれはもちろん、山岸凉子の大問題作「天人唐草」作成時のエピソードがぞくぞくくる。もう一つ、樹村みのり本人の描写が実に作品とマッチしていて嬉しい。その際にアシスタントした作品が例の「40-0」! もう当時の少女マンガファンとしてはブレークダンス踊りながら逆立ちして激辛ラーメンすすってみせたい心持ちである。

※(雑)「40-0」や「わたしの宇宙人」をはじめとする当時の樹村みのり作品のいくつかで、「結婚」を扱う少女マンガもあり得ることを教えられた。大仰なことをいえば、少女マンガの臆病な男性読者は「天人唐草」で恋愛、結婚から恐れ、飛びのき、「40-0」でおずおずともう一度それを前向きに検討してみたのだ。

美内すずえ宅で初めてアシスタントをした際の話題に「ポーの一族シリーズの『小鳥の巣』を描き終えられたばかりの萩尾望都先生がもうすぐイギリス留学に」という話が出てくることから、本書の内容が時期的に『一度きりの大泉の話』とかぶっているのは間違いない。
萩尾望都や竹宮恵子、ささやななえら、大泉関係の作家のところで直接アシスタントをしたという話は出てこない。出版社や雑誌、編集者など、マンガ家としての「生息域」が違ったのか、付き合いはあっても扱うエピソードとしてこぼれたのか、そのあたりはよくわからない。

『一度きりの大泉の話』と明らかに違うのは、何某の作品は読まない、連絡もとらないと頑なに殻を閉ざす萩尾望都に比べ、本書はすべてのプロットを各作家(故人たる三原順は除き)に連絡して了解を取り、その他言葉遣いなど礼を尽くして描いているということだ。

笹生那実がアシスタントとして雇われた側だった、ということもなくはないかもしれないが、そもそも本作りとして当時の少女マンガファンに対する心尽くしのエンターテインメントとして提供しようとしたことが大きいのではないか。

本書にはブラック企業も裸足で逃げ出す「シュラバ」の数々が描かれる。大きなエラーをしでかすこともある。
アイデアや品質、人気を競うこともあるだろう。それを日々重ねる間、作家どうし、作家とアシスタント間のトラブルがまったくなかったとは思えない。
著者自身、美内すずえに初めての訪問時、初めてのアシスタント時の粗相についてのちに謝罪する場面が描かれているが、多忙極まりない美内にすれば無条件に笑って許せるものばかりではなかったはずだ。

だが、笹生那実はそういった事件を作家当人に胸を張って見せられるよう取捨選択し、整え、濾過、蒸留し、読者にとって楽しめる、心温まる懐かしくも楽しいエピソード集として1冊にまとめ上げた。
これを美しい本と言わずしてなんとしよう。

それにつけても、三原順、なあ。ああ、三原順。三原順。

2021/05/27

萩尾望都をめぐる雑感 その5 目をつむり、耳をふさぐ

☆彡 『一度きりの大泉の話』に目を通し、全体を通して一番がっかりしたことは、(マンガ家のもとを訪ねる一部のマニアやマンガ家志望を除き)萩尾望都が、広い意味での「読者」について語る場面がほとんどなかったことだ。
萩尾望都にとってマンガとは自分の描きたいように描くものであって、どう読まれるかはどうでもよい──いや、違うな。自分の思うように読んでもらえないなら、いっそ読まれなくてもよい、語られないほうがよい──そんな気配なのである。

☆彡 『一度きりの大泉の話』に再掲されている「ハワードさんの新聞広告」をはじめ、「マリーン」、あるいはブラッドベリ、コクトーらの翻案について、萩尾望都当人は原作ものを是としているようだが、平均して見渡せば彼女の原作付き作品は弱い。マンガの力は絵によるものだけではない。細やかな素材、絶妙なコマ運び、意味深なセリフ回し、そういう視点で見ればSFに限定しても「ドアの中の私の息子」「あそび玉」「スターレッド」「銀の三角」など、オリジナル作品のほうが圧倒的に読み応えがある。
無理やり原作付き作品を是としているのは、「この作品はイマイチ」といったファンからの声に対する作者の拒絶の悲鳴なのではないか。ともかく、発表したものを否定的に扱われることは「つらい」ことであり、「鈍い」自分はすぐその場で反論できない、だから否定的な声は無視するに限る──そんな印象。

☆彡 ちなみに『一度きりの大泉の話』で個人的に一番不快だったのは、「アシスタントをお断りした話」という章。
あるマンガ家志望の女子学生がアシスタント志望の友達を連れてきて、その日のうちにさっそく仕事を頼むことになる。モブシーンなど描けないと断るのを無理やり押し付け、結局その子は描けないまま1枚隠すようにして帰るという「粗相」をしでかしてしまう・・・。
もちろん仕事を放置したことはおよそほめられた行為ではないが、「とても描けません」「無理です」と何度も断る素人の「しでかし」を50年も経った今になって、それもうちうちで語るならともかく萩尾望都のファンの多くが手にするに違いない単行本で明らかにする必要はあっただろうか。「ずっと昔萩尾望都のところで一晩だけアシスタントしたことがあるんだ、うまくできなかったけどね」と昔日の「粗相」を恥じらいつつ懐かしんでいるであろうプロでもない元アシスタント志望者に対してこの仕打ち。
この章も章全体としては竹宮恵子との関係の捩れについての説明が目的だったようだが、このアシスタント志望者はそんなことになんら関係ないのだ。

☆彡 萩尾望都がこんなふうになってしまった背景には、講談社(なかよし)時代、小学館(別冊少女コミック)時代、それぞれの編集者らがよく言って放任、悪くいえば彼女について制御不能だったことがあるのではないか。
少なくとも編集者と作家が緻密な打ち合わせをしたうえでネームを構築する、といったやり取りは本書からは見えてこない。
これでは少なくとも(マニアのファンレターは別として)読み手の声を蒸留した意見は届かない、反映されない。
ただ、繰り返しになるが、それこそが彼女の独自性を守る壁となった。その点は否定できない。
大泉での経験は彼女の殻に傷をつけたかもしれないが、『ポーの一族』『トーマの心臓』『11人いる』等を契機に出版界に名を轟かせた彼女には、それ以降、発表の場さえあれば読み手の声などもはや必要なかったということかもしれない。

☆彡 『一度きりの大泉の話』には萩尾望都を小学館の雑誌に招いた山本順也という編集者(故人)が再三登場する。初期の作品を内容検討もせずに掲載したり(結果的にそれは萩尾望都に独自な作品を描くチャンスと訓練を与えたわけだが)、萩尾望都ら若手作家にさまざまな便宜を与えたり、かと思えば突然掲載を切ると言い出したり、『一度きりの大泉の話』内でも豪放といえば豪放、乱暴といえば乱暴な言動がみられるが、実は個人的にこの山本という人物と会ったことがある。記憶しているのは、萩尾望都や大島弓子をマニアにしか受けない面倒な作家と罵倒し、「キャンディ♡キャンディのような売れ線を」とまるで酔っ払いのように繰り返し叫ぶ彼の姿だ。
こちらとしてはマニアを主対象とし、男性読者女性読者にこだわらない新しい市場の可能性(のちの『うる星やつら」のようなものか)、とかそんな話をしたかったのだが、ただの雑誌読者に雑誌編集者に反論できるだけの力などあるはずもなく、ただ「キャンディ♡キャンディ!」と連呼されるばかり、ほかの編集者の方に「まあまあ」と宥められてその場はお開きとなった。

☆彡 これは勝手な推測だが、萩尾望都は自ら拒絶したこともあって、両親や編集者、同業者を含め、ごく平均的な大人のアドバイザーとあまり出会わないまま生きてきたのではないか。
彼女の作品に登場するのは人間として未分化な少年と、人形のような少女ばかりで(生き生きした少女は少年のように描かれる)、壮年の男性は何かと驚き、騒ぎ、事態に過剰反応する慌て者、そうでないならただ自我を垂れ流す傲慢なジャイアン。要は子供だらけなのだ。

☆彡 ・・・文句ばかりになってしまったので、最後は少し楽しい画像を一つ。
下は萩尾望都が九州から上京する際の資金源となったという、なかよし1970年9・10月号付録の「ケーキ ケーキ ケーキ」(原作 一ノ木アヤ)。
「ケーキ ケーキ ケーキ」はのちに萩尾望都作品集(赤本)に収録されるが、このなかよし付録版はかなりレアではないかと思う。作者が本作をどうとらえているかは知らないが、当時の絵、とくに瞳の描き方は大好きだ。
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2021/05/20

残酷な天使のテーゼ 『一度きりの大泉の話』 萩尾望都 / 河出書房新社

Photo_20210520180901 不躾けを承知で言うが、面白い。

1970年代前半の、萩尾望都や竹宮恵子(現在は竹宮惠子と綴るらしいが、知っているのは竹宮恵子時代だけなので)らによる少女マンガ変革期の貴重な記録として、また一方、双方向の悪意その攻撃性を紙面に刻んだまれに見るドキュメンタリーとして。

個人的には、当時、別冊少女コミック、週刊少女コミックのコミックエッセイで萩尾望都の目を悪くしてつらそうな様子を記憶していたのだが(「11月のギムナジウム」「ポーの一族」に比べ「小鳥の巣」や「トーマの心臓」の描画が荒れていたのはそのせいかと仲間うちで心配していた)、その背景が今知れて・・・よかったかどうかはよくわからない。どうだろう。

『一度きりの大泉の話』の内容をざっくり紹介すると、萩尾望都がマンガ家を目指し、九州を出て都内大泉の一軒家で竹宮恵子と同居し、さまざまなマンガ家やファンが出入りする中、数々の名作を発表、それが2年でバラバラになる──その経緯を年代記として語り起こしたもの。

前書きや後書きから知れるのは、一方の竹宮恵子が最近自伝的書物を上梓、それを機にその2年間を(手塚治虫らの「トキワ荘」伝説にならって)「大泉サロン」として持ち上げようとするメディア側の機運が高まり、それに対し萩尾望都が「一度きり」自分の思うところを明らかにし、後は静かに放っておいてほしい、と内外に求めたもの。
つまり、当時の生活を「大泉サロン」などと祭り上げられるのは自分にとって苦痛でしかないのでやめてほしい、仔細は「一度きり」ここに書くので今後一切触れないでほしい、ということである。

言うならば不祥事に際しての(もちろん別に不祥事ではないのだが)企業の記者会見のようなもので、本来出版、映像等の関係者に対し内々に明らかにすべきものを読者の手に届く単行本に仕立て上げた、という点でかなり特殊な本であることは言えるだろう。

詳細についてここで明らかにすると未読の方の興趣をそぐことになるのだが、、、

「夜、マンションに呼ばれる」の章に書かれたやり取りが本書のキモであり、最大のトラブルではあるのだが、それ以外にも現在「大泉サロン」で一イベント巻き起こさんとするメディア関係者、こじれた関係を仲裁しようとする知人たちなど、無神経、善意の衣を冠った押しつけがましさ、あるいはストレートな悪意がいたるところに交錯し、それに対する語り手の直接的な悪意がさらに輪をかけて胸苦しい。

ちなみに、著者が一方的に被害者かといえば、それはそれで疑問が残る。

まず、トラブルが起こった際にまったく対話に持ち込まず、解決を図ろうとしなかったことを、弱い、逃げた、と指摘することは可能だろう。「自分がいたらないため」と言いつつ何がいたらないかの確認すら怠ったことは社会人として同情できるものではない。
そして、それ以上に、20歳前後の友人関係のこじれを50年経った現在にいたるも同じ重さで抱え続け、「すみません」を何十回も繰り返して低姿勢のフリをしながら、相手の作品を「読んでいない」と何度も何度も連発し(作品を手掛ける者に対してこれ以上の攻撃は想像できない)、あまつさえそれを単行本にまとめてのける心のありようは、「いじめの加害者は忘れるが、被害者は忘れない」というアングルでは説明がつかない。

また、関係者の一人、増山法恵(少女マンガに少年愛を持ち込んだ首謀者?)や使い物にならなかったアシスタントを語る萩尾望都の口調の冷たさには驚かされる。要は、少女マンガにかかわりながらマンガを描けない者は断罪されるのだ。

はっきり言うなら、萩尾望都は、自分以外はすべて許せない。許さない。
ほかのマンガ家が自分の大切なものを守るために制御しようとしてきたことは許せない。だが、自分自身が大切なものを守る言動は無制限に許されなければならない。
相手が「空気を読めない」のは許せない。だが、自分は「空気が読めない」からしかたがない。
両親が自分を理解しないのは許せない。だが、自分が親を理解できないのはしかたない。
などなど、などなど。

しかし、ここで振り返るに、問題は「萩尾望都とは何か」ということである。
彼女は少女マンガ家だ。いかにファンに崇め奉られようが、神ではないし、教祖でもない。
彼女が評価されるのは、その作品が独自であり、ハイクオリティであるためだ。別に、人間として尊敬される存在だからではない。
その限りにおいて、彼女は、たとえばスーパーマーケットが顧客の声に合わせて棚の品揃えやレジの運用を日々修正する、とか、家電会社がコールセンターへの入電件数に合わせて機器やサービスを改善していく、そういったことをしてはいけない、のかも、しれない。

読者や友人の声にいちいち応える、そういった作風もあるだろうが、萩尾望都は少なくともそうではない。それではあの萩尾望都が萩尾望都でなくなってしまう。
極論するなら、自らの内なる声以外をすべてシャットアウトして描けば描くほど、その作品の萩尾望都度は高まるのだ。

『一度きりの大泉の話』は、そういった少女マンガ家の高らかな唯我独尊宣言であり、逆にいえば、一人の老人の哀れで不憫な人生の記録である。

ところで、さて、どうだろう?
「大泉の話」をこの「一度きり」としたい萩尾望都の希望どおりに物事は進むものだろうか。
(とくにメディア関連の)人々の無慈悲、無頓着、無神経は、彼女の期待に比べれば格段に愚鈍で強靭かつ粘着質で──本書を飲み込んでインタビューに応えない、写真を提供しないアンチメディア作家萩尾望都を祭壇に置いたさらなる「大泉サロン」伝説を目論む者が現れるのも想像に難くない。。。。

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(5/24追記。「雑感その5」を公開したついでに)

「F(フレーム)式蘭丸」もしくは「フレームで少女が子犬と」(大島弓子,萩尾望都論への1アプローチ)
萩尾望都をめぐる雑感
萩尾望都をめぐる雑感 その2 「ポーの一族」40年ぶりの新作
萩尾望都をめぐる雑感 その3 「まんがABC」
萩尾望都をめぐる雑感 その4 SF原画展と「ドアの中のわたしのむすこ」
萩尾望都をめぐる雑感 その5 目をつむり、耳をふさぐ

「「F(フレーム)式蘭丸」もしくは「フレームで少女が子犬と」」の記事ではすでに「トーマの心臓」の週刊連載期に作者が目を病み,ペン(線)が荒れたことに着目していたもよう(自分で指摘してどうする!)。


2020/03/05

手塚治虫新作モドキ「ぱいどん」について

Photo_20200305181302  先週発売の講談社モーニングNo.13(2020.3.12)に掲載の、「ぱいどん」を読んだ。
スタッフが手塚治虫の作品(主に1970年代に発表された短編131エピソード、長編60作品)を抽出、データ化してAIに渡し、AIがキャラクターやプロットを自動生成、それを元に人手を加えて完成させたという作品だ。

 先に断っておくと、AI美空ひばりに新曲を歌わせるとか手塚治虫の新作をAIに生成させるといった試みには異論はない。むしろ、そういった試みでAIシステムを開発、研磨していくのは、すぐ先のAI活用時代に極めて大きな意義があることも疑わない。

 とはいえ、技術実験的な評価は別として、誰か現在の画家がフェルメールやモネそっくりのタッチで絵を描いても、それだけでは剽窃、贋作に過ぎない。オリジナリティがないと無視されてオシマイだ。
AIを使ってこんなことができるようになった、面白い、ということと、でき上がった作品の評価とを混同する愚は避けたい、ということである。

 そこで、雑誌に掲載された「ぱいどん」だが・・・
カラー表紙に加えて本ページわずか20、驚いたことにテレビなどでAI、AIと煽っておきながら掲載は前編のみ、しかも後編の掲載は「本格連載を目指す、時期は未定」・・・
マンガ家志望の中坊じゃあるまいに、表紙とキャラクタ紹介で終わらせてどうする。

 もう一つ、このプロジェクトに同感できないのは、いかに理屈をこねたとて、そもそもの目的が1970年代の手塚作品の猿真似をこしらえることでしかなく、しかもAIの吐き出すプロットのうち、とんでもない、笑うしかないようなものを人手で排除してなんとなくまっとうに見えるであろう現「ぱいどん」のみ提示していることだ。
マンガにもならないとんでもないプロット、素っ頓狂なキャラクタ。それはそれで現在のAIの実力であり、逆にその評価に正面から取り組むことこそAI社会に必要な作業ではないのか。

 そもそも、過去作品の平均で作者が描きそうなもの、なんて、およそ手塚治虫を頭からバカにしてるとしか思えない。
手塚作品には出来不出来あれど、あの人は常に人に勝る、過去に書かれてない、読み手の求めるものを描こうとしていた(自身のコンプレックスを必死で押さえ込みながら)。
現在の技術では難しいとしても、AIには他の作家による昨今の売れ筋作品も読み込ませ、それに対し手塚ならどう対抗し、何をどう描くか、それを検討させるべきではなかったか。
(現在のディジタル技術において無理無茶を言っていることはわかっている。だが、そういった支点なしにただキャラクタの顔やそれらしいストーリーを吐き出させても手塚治虫に半歩も近づけるとは思えない)

 ネットなどで「ぱいどん」の評価を見ると、おおむね好評なようだ。
他人の好みをどうこう言ってもしかたがないことは承知しているが、皆さん、これ、本当に面白いですか? たとえば『ライオンブックス』や『ザ・クレーター』読んだ後に、同じ感想、書けますか?

 ところで、AIに読み込ませる手塚作品に、うっかり水木先生の鬼太郎も混じっていたんじゃないかな。
事件の謎にはロボットのイナゴも関係するらしい。すると、石ノ森先生の仮面ライダーも・・・。
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2017/05/10

『封印作品の謎 テレビアニメ・特撮編』『封印作品の謎 少年・少女マンガ編』 安藤健二 / 彩図社

『封印作品の謎 テレビアニメ・特撮編』『封印作品の謎 少年・少女マンガ編』は、安藤健二の単行本『封印作品の謎』『封印作品の謎2』(以上太田出版)『封印作品の憂鬱』(洋泉社)3冊から再編集、文庫化したもの。

先に目次を転記しておこう。

1『封印作品の謎 テレビアニメ・特撮編』

第一章 闇に消えた怪獣
 ──『ウルトラセブン』
   第一二話「遊星より愛をこめて」
第二章 裁かれない狂気
 ──『怪奇大作戦
   第二四話「狂鬼人間
第三章 忘れられた予言
 ──映画『ノストラダムスの大予言』
第四章 ウルトラとガンダムの間に
 ──『サンダーマスク』
第五章 ポケットの中の悪夢
 ──日テレ版『ドラえもん』

2『封印作品の謎 少年・少女マンガ編』

第一章 禁じられたオペ
 ──『ブラック・ジャック』
   第四一話「植物人間」・第五八話「快楽の座」
第二章 引き裂かれたリボン
 ──『キャンディ・キャンディ』
第三章 悲しい熱帯
 ──『ジャングル黒べえ』
第四章 怨霊となったオバケ
 ──『オバケのQ太郎』

目次を書き写したのには意味がある。
章数がこの手の本としては極めて少ないのだ。

たとえば同じ彩図社の文庫『定本 消されたマンガ』(赤田祐一、ばるぼら 共著)では、約60タイトルのマンガが扱われている。
1冊あたりでみれば10分の1以下、ということになる。

この章数の少なさは何を表すのか。
著者の取材が執拗、なのである。

テレビで再放送されない回があるなら、最後に放送されたのはいつ、どの局でなのか。フィルムはどこにあるのか。権利はどこにあるのか。なぜ再放送、DVD化が止められているのか。その問題を最初に指摘したのは誰か。その人物は今はどう考えているのか。制作側は。
著者は堅い木の薄皮を1枚1枚はがすように、関係者を訪ね歩き、問い、彼らの返答ないし沈黙(取材拒否)を記録していく。取材の多くは空振りに終わるが、それでもいかなる意図が働いたか(流行りの「忖度」というやつだ)、やがて壁は壁の形として見えてくる。
(この自身に厳しいスタイルのため、著者はノンフィクション作家として作品を多発することができず、生活のためにサラリーマンに戻ったという。なんという損失だろう。)

たとえば連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤の部屋にダビングテープがあったことで話題になった『ウルトラセブン』の第一二話、これ一つとっても「スペル星人が被爆者差別として問題扱いされたため」などという単純な図式ではすまない。背景には番組制作を離れたところでの紙媒体での紹介事故(と言ってよいと思う)、指摘を受けての制作側の初動ミスがあり、ひとたび封印された後は「はれもの」として「なかったことにする」業界の体質があった。

扱われている作品は総じて古いものが多い。だが、見えてくる構図は普遍的だ。

単行本から文庫になる間に封印の解けた作品もある(『オバケのQ太郎』など)。
それはよいことだ、しかし藤子不二雄にかかわる顛末はいずれも爽快とは言い難い。
僕たちは藤子不二雄の作品世界について、あのシンプルでかわいらしい線に騙されてきたのかもしれない。──だが、騙されるなら騙されたままでいたほうがよい、そういうことだってある。

同じく後味が悪いのは、一世を風靡した『キャンディ・キャンディ』(「・」は正しくはハートマーク)が絶版、放送停止にいたる顛末だ。
背景には原作者水木杏子と作画担当のいがらしゆみこの係争がある。
この係争はマンガにおいて原作者と作画者、どちらに著作権があるか──という報道をされることが少なくないが(最高裁では原作者水木側の勝訴)、こと本書を読む限り、実際はもう少しプリミティブな人間性に問題があったように読める。
田中圭一の『ペンと箸』においていがらしゆみこはその子息によって

  著作権裁判とかプライベートでつらいことが
  山のようにあった時も
  彼女はいつもほがらかで明るい
  そういう母をかっこいいと思ってきました

と語られる。
そうだろうか? この時期、いがらしはむしろ思い悩み、反省し、いかに謝罪、和解するかを考えて呻吟すべきだった。それが、それのみが『キャンディ・キャンディ』を復活に導く、本当にかっこいい母親の姿だったはずだ。違うだろうか。

2017/02/09

不安の入り口、希望の出口 『うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち』 田中圭一 / 角川書店

田中圭一といえば、手塚治虫パックリな絵柄でよもやのお下劣ギャグを連発する、“神をも恐れぬ”サラリーマン兼業漫画家、その人である。
ちなみに「パロディ」なるものは高度な批評眼と描写力を必要とする知的作業であり、田中圭一もサイテー、ド変態な印象の一方、さまざまな漫画家のペンタッチをトレースすることでそのコマの意図を深掘りする漫画評論家の一人でもある。あの夏目房之介の傑作『消えた魔球 熱血スポーツ漫画はいかにして燃えつきたか』の系譜を正しく継ぐ者といえるだろう。

Photo最近は『Gのサムライ』などさらにゲスいパフォワッ!!な作品を発表するかたわら、その憑依ペンタッチを活かしたインタビュー作品に伸長著しい。
人気漫画家23人の──本人でなく──子息・息女を招いてその漫画家の馴染みの店、好きな食べ物を取材し、しかもその模様をその漫画家のタッチで描いた『ペンと箸 ~漫画家の好物~』は、漫画家たちの意外な実像とその子として育つ若者たちの生き様に迫る予想を遥かに上回る好著だ。ちばてつや、手塚治虫、赤塚不二夫、山本直樹、池上遼一、魔夜峰央、上村一夫、諸星大二郎、永野のりこら、取り上げられた漫画家のプライベートはいずれも興味深いが、ことに『ど根性ガエル』の吉沢やすみ、『アストロ球団』の中島徳博、『まんだら屋の良太』の畑中純の章など思いがけない展開と哀惜に充ち、人気作品にリアルタイムに触れてきたファンは涙を禁じ得ないだろう。

さて、そんな田中圭一の最新刊『うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち』はさらにシリアスな内容で、長年うつ病に苦しんできた著者本人、またロックミュージシャン大槻ケンジ、AV監督代々木忠(!)、小説家宮内悠介、熊谷達也らが表だっての活躍の一方でどうしてうつに陥ったか、いかにそのトンネルを抜け出たかをじっくりヒアリングし、うつ症状の実情、うつに陥るきっかけ、そして(容易ではないものの)そこから抜け出す方法について懇切丁寧にまとめたインタビュー形式のレポートである。

もちろん、類似のアドバイスは、文章の形でならすでにあちこちに再三書かれてきたに違いない。それを、漫画という、流して読みやすく、笑いを交えて理解しやすい形で提示したことが大きい。
発売後、売り切れの書店が相次ぐなど、ネットを中心に話題となり、同じくうつに苦しんだ人々から「よくわかる」「もっと早く読みたかった」「知り合いにも読ませたい」等、熱い共感が集まっている。

さて、この後は少しダークサイドに走るので、自分も苦しんでいる、あるいはようやく抜けたという方はご遠慮ください。

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Photo_3その好評の『うつヌケ』だが、読み終えての第一印象、それは実は世評とは逆に「この本はまずい、危ない」というものだった。

トンネルを抜ける手段がわかりやすいということは、そのトンネルに追いやる方法も明らか、ということだ。
誰かをうつに貶めたい、あるいはうつに苦しむ誰かをさらに苦しめたい、そんな毒親、毒家族、毒上司、毒同僚等々にとって、本書は天の与えた悪魔のお手軽マニュアルになりかねない。うつに苦しむ、あるいはうつに陥りかねぬ誰もが本作中に登場する人々のように才能や仕事に恵まれ、家族に恵まれているわけではない。もし悪意をもった誰かが本作を手にしたならば……。

もっとも実際のところ、そんな心配など杞憂に過ぎない。
蛇は毒を行使するにマニュアルなど必要としない。まして人をうつに追いやる毒は、自覚された歴然たる悪意などではなく、善意や好意や「あなたのため」の名のもとに押しかけてくるものだ。

2016/07/13

『連載終了! 少年ジャンプ黄金期の舞台裏』 巻来功士 / イースト・プレス

Photo1980年代、『ドラゴンボール』『北斗の拳』『聖闘士星矢』『ブラック・エンジェルズ』『キン肉マン』『シティーハンター』『キャプテン翼』『ジョジョの奇妙な冒険』などの連載マンガで少年ジャンプが最も熱かったころ、エログロオカルトバイオレンスアクション『ゴッドサイダー』でマニアックな人気を博した巻来功士の自伝的コミック。

『ゴッドサイダー』は少年ジャンプ伝統の“友情・努力・勝利”の構図に表向きはのっとりながら、憑かれたような過剰さに自ら燃え尽きて消えていった。『連載終了!』にはその前後の経緯が語られていて興味深い。

ただし、ここで示されるのは、作家本人と、せいぜい担当編集者とのやり取りであり、編集部内での評価等がすべて明らかになるわけではない。むしろこの『連載終了!』を読んで痛々しく感じるのは、少なくとも当時、マンガ家という職業は編集部に対して常にその時点のただ一人の編集担当者を通してしか雑誌そのもの(編集部)や読者とのつながりを持ち得なかったということだ。

「月刊フラワーズ」2016年7月号には、『ポーの一族』40年ぶりの新作に添えて萩尾望都と山岸凉子の対談が掲載されているが、その中で山岸は掲載当時の『ポーの一族』は読まなかったと述懐している。
『連載終了!』を見ても、同じ少年ジャンプに連載を持ちながらマンガ家どうしの付き合いは驚くほど薄い(その例外がマンガ家自身が他の作家のもとを訪れるアシスタント業だといえる)。

後半、編集部の求めるものと自身の求めるものの乖離を明確に意識した巻来は、走りながら叫ぶ。

  オレはもうただ強さを競うだけの単純な漫画なんて描かない!!
  戦って死んでもそのたびに友情や愛の力で蘇る漫画なんて描かない!!

その決意の結果生まれたのが、青年マンガの傑作『ミキストリ -太陽の死神-』だった。──とはいえ、巻来作品のファンから見れば『ゴッドサイダー』も『ミキストリ』も妄想の暴走度合いにおいてたいした違いはない。

だからこそ、この作者の作品は他のなにものにも代えがたいのだが。

おまけ1
巻来作品の中で、個人的には(連載打ち切りとなった)『メタルK』が一番好もしい。戦いがだらだらと拡大再生産される手前で終わる壮絶な美しさ。

おまけ2
巻末対談の堀江信彦氏(少年ジャンプ5代目編集長)のコメントは極めて有用。縦糸と横糸、どっちの才能、マンガ家は絵コンテが切れる、など。 

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