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カテゴリー「エッセイ・紀行・写真 その他」の29件の記事

2014/09/16

クラシカル 『うれしい悲鳴をあげてくれ』 いしわたり淳治 / ちくま文庫

Photo普段はちくま文庫などほとんど扱っていない駅前の小振りな書店で平積みになっていたので不思議に思い、買って読んでみた。
ショートショートを並べた章とエッセイを並べた章が交互に、という構成。
読後感は……。

著者はギタリスト、作詞家、チャットモンチーなどを手掛けた音楽プロデューサー。掲載誌はROCKIN'ON JAPAN。
帯には放送作家鈴木おさむ氏による「そこには物語がある。結末がある。オチがある。そして、最後にナイフでズバッと切るような痛みがある」なる惹句。うおぉ。
となると、これはもう、さぞやエキセントリックでキレッキレの若者文化炸裂! (趣味に合うかどうかはともかく)今様のセンスに触れられるぜ! と期待してしまうではないか。

結果はちょっとびっくり、収録ショートショートの風味は昔懐かし、60年代70年代に小中学生向け雑誌をにぎわした星新一エピゴーネンたちのそれなのであった。ほら、スナックで隣り合った女が実は死神で、とか、政府が内緒でモゴモゴやっていることを遠くの星の宇宙人が眺めていて、とか、そういった。ただし、エピゴーネンはエピゴーネンなので、星新一ならではのクールさや寂寥感にはいたらないのだけれど。
ともかくそういったほんわかしたオチ付きショートショートを久しぶりに愉しみたい方にはお奨め(本心)。

エッセイのほうはそれ以上にぼんやりした味わいで、「それはダメだろ」も少なくなくて、食べ方がよくわかりませんでした。

2012/09/30

牙抜きコブラのような 『生きる悪知恵 正しくないけど役に立つ60のヒント』 西原理恵子 / 文春新書

Photo 仕事の悩みや男女の悩みなど、全5章、60の相談に西原が答える。
 「使えない部下にイライラ」に「ネジだと思えば腹も立たない」、「よく空気が読めないと言われる」に「読めなくても許される人間になれ」など、そこそこ苦味の効いた回答もなくはないが、全体には質問もまっとうなら回答する西原も流しソーメン。「逆説的な回答」などと持ち上げた書評も目にするが、朝日の人生相談でもそのくらいはかます。文筆家は皆プロなのだ。
 西原が安心して牙をむくのは噛みついても多少では死なない相手とことをかまえたとき。その際の瘴気はこんなものではない。
 論より証拠、本書の章間に数編ねじ込まれた綾辻や伊藤理佐、重松、角田らの相談にサイバラなカットで応える見開きを見よ。毒の黒さが違う。正しくないし、役にも立たない。全ページこの水準で埋まっていたなら人生の一冊たりえたに違いない。
 もちろん、そんなものが文藝春秋の手におえるはずもない。かくして、大手版元がサイバラ本をこしらえるときは神足とか清水とか、ちょっとぬるめの(でも本人は黒いつもりの)文筆家に本文まかせ、その隙間をサイバラのカマクビで埋めることになる。毒ヘビを展示するには互いに安全なガラスケースが必要なのだ。

2006/06/10

とまれ,お前は美しい 『図説 絶版自動車 昭和の名車46台、イッキ乗り!』 下野康史 / 講談社+α文庫

646【同じことをやろうにも,いまのクルマに,確固たる意義や意味なんかないものなあ。】

 クルマ雑誌の編集者を経て現在はフリーライターの筆者が,古いクルマに乗って乗って乗りまくる本である。そのラインナップがすごい。

  いすゞベレット1600GT !!
  日野コンテッサ1300クーペ !!
  ホンダS800 !!!
  トヨタ200GT !!!
  日産ブルーバード1600SSS !!!!
  スバル360スタンダード !!!!
  ダイハツ・ミゼット !!!!
  三菱デボネア・エグゼクティブ !!!!
  マツダ・コスモ・スポーツ !!!!
   :   :   :

 ……実は,こう見えてクルマオタクだった。
 だった,とは読んで字の通り過去形。それもかなり期間限定である。そのため,クルマの歴史に詳しい兄ちゃんや峠の走り屋さんと知り合っても話が盛り上がることはあまりない。

 クルマにどっぷり入れ込んだのは1968年から1970年までの3年あまり。
 はじまりは小学校高学年だった当事,親がスバル360デラックスを買い,週末には家族で出かけるようになったことから。もとより自分で走る投げるよりマブチ15モーター,単二乾電池好きでハンダゴテと糸ノコばかりいじっていたメカ好き子ども心に火がついた。

 なかなか徹底的だった。クルマに関するカタログや広告など,身近なあらゆる資料をかき集める(本書の著者も書いているが,1960年代には新聞の広告も子どもには貴重な資料だった)。路上のクルマは前後左右から見る,触る,覗き込む。当事は鍵も窓も開けっぱなしで放置しているクルマが少なくなかった。垣根の栞戸を開けて,隣近所が縁側まで遠慮なく出入りしていた時代である。
 当時の新車,たとえば三菱コルト何々というクルマは何cc何馬力でディスクブレーキを採用していて,とか,今度のファミリアはスタンダード,デラックス,スーパーデラックス……等々のモデルがあってそれぞれの違いは,とか,そういったカタログスペックをまるごと食べるように頭に入れた。

 ドアノブが,丸いポッチを外から押すタイプ中心だったのが接触事故の際にドアが開いてしまうからと引き手タイプに変わり始めたころである。フェンダーミラーが小学生のランドセルをひっかけて死傷事故が相次ぎ,可動式フェンダーミラーが採用され始めた時代でもある(現在はさらにパタンと閉まるドアミラーに置き換わっている)。
 トヨタがコロナの新ラインナップとしてマークII 2ドアハードトップを発表(当時としては画期的だった新聞2ページの見開き広告が今でも目に浮かぶ!),サニーにはサニークーペ,カローラにはスプリンターが登場してオシャレな若者の人気を競い合った。♪マイサニー,マイサニー,サニークーペ,♪わたしのスプリンタ,と,クルマのCMソングのセンスも格段に進歩した。テレビドラマでいえば「キーハンター」の時代である。

 町中のクルマオーナーから見たら,毎日うろうろしてはクルマを覗き込む怪しい小学生だったに違いない。珍しいクルマ,たとえばロータリークーペに出会ったら,しばらくそのまわりから離れなかった。たいがいの国産車なら,ヘッドライト,テールライト,もしくはドアノブを見るだけで,車種を当てられた。ダイハツ コンパーノのトラックタイプのドアノブの形状をラフで説明できるというのは相当に不気味な子供だったに違いない。もちろん,小学生のことだから,運転できるわけでもない。エンジンや足まわりの知識はカタログによるしかなかったし,どんなあこがれのクルマもただ見つめるだけだった(なので,HONDA1300のシャーシがエンジンに追いついていない,とかいう話題にはついていけないし,タコメーターという概念も当事はなかなか理解できなかった)。

 当時,一番好きだったのは117(丸目4灯ハンドメイドモデル)だったろうか。HONDA1300,ロータリークーペなどはカタログスペックだけでも天地がひっくり返るほどショックだったし,当時現役にしてすでに伝説の域に入りつつあったプリンススカイラン,日野コンテッサ,いすゞベレットは妖しい魅力で駐車場にあるだけで空気が揺らぐようだった(ちなみにキャロルはどこでも見られる軽の大衆車でありながら,不思議なことにコンテッサやベレットにつながる妖しさを感じさせた)。
 一方,日産縦ライトセドリック,プリンスグロリア,三菱デボネアなどの重厚感も好きだった。今,カタログスペックを見ると,それらが実は案外小さく,またエンジンパワーも最新のボックスワゴンに比べてもたいしたものではないことがわかる。だが,これら往年の名車が身にまとっていた分厚い空気は,現在,いかなる高級車も漂わせてはいない。

 あこがれは尖がったスポーツタイプ,黒塗りの高級車だけではなかった。トヨタのパブリカ(珍しい800ccカー。36万円はちょうど当時の1000$)はいつ見てもいかにも平凡でつまらない,と思いつつそれでもついつい中を覗き込む。酒屋のスバルサンバーを見ると,自分なら荷台に何を積んで,と夢が転がる。早い話が,クルマなら何でもよかったのだ(プラモデル好きがパンサー戦車,大和にロータスヨーロッパ,ガメラにサンダーバード,はては姫路城まで,何でも作りたがるのと似ているといえば似ている)。

 現在のボックスワゴンにつながる自分のための空間感覚……,いや,それ以上に,子どもにとって,当時のクルマは軽トラ含めてすべて夢の底のほうで「秘密基地」につながっていたのではないか。
 だから,雨の日曜日には,よく,父親のスバルにこっそり一人乗り込んでは日が暮れるまで探偵小説に読みくれたものだ。シートの匂い,ガソリンの匂い。117やコスモなど当時あこがれだったクルマが現役で走っているのを見かけると,思わず目が追いかける。手が伸び,声が出そうになる。初恋の少女が,当時のままの姿で夕日の中を駆け去っていくようなものだ。

 クルマ趣味に浸ったのは1970年まで,と明確に言えるのは,最後に近所の試乗会場を覗きに行ったのが日産最初のFF車,チェリーが発売されたときだったからだ。薄いビニールのコースターをもらって帰ってペン立ての敷物にしたのを記憶している。なんとなく憑き物が落ちたような感じで,そのあたりから新聞記事を集めたり路上のクルマを眺めたりということがなくなってしまった。
 中学に入って通学,勉強に時間をとられるようになったこともある。が,それ以上に,興味の中心が別のメカ,つまり「言葉」に移ったためである。

 クルマについてはさっぱりすっきりそれっきりで,免許を取るのも大学卒業年の夏だったし,数年は親のクルマを借りて走らせていたものの,それ以降20年以上無事故無違反の立派なペーパードライバーだ。なので,本書も,後半の,シティ,ソアラ,MR2,スターレットなど,1980年以降のクルマについてはほとんど何もわからない。もちろん車名やデザイン程度は知っているが,テレビCMで耳に入った,友人が乗っていた,程度の知識しかない。炊飯器や蛍光灯の機種名に興味がないのと変わらない。

 一つ思うのは,マーケティングというのは,やればやるほど製品の個性が丸まってしまうことだ。どのクルマ会社も,丁寧にアンケートを繰り返した結果,最もマスのニーズに応えることになった。ずんぐりした背の高いボックスワゴン,セダン,スポーツタイプ……外車も含めてどれもこれも似たような丸いシルエットだらけになった現在のクルマに,往年の「ツラがまえ」「ツラ魂」はない。ウソだというなら,1960年代のクルマのフロントビューと比べてみるとよい。

 だから,本書の次のような一節を読むと,電車の中で人目はばからずぼたぼた泣いてしまう。バカだ。

 いすゞの乗用車開発チームは,このあと,117クーペをつくり,フローリアンをつくり,ジェミニをつくり,ピアッツァをつくり,アスカをつくり,そしてもう,なにもつくらなくなった。

2006/01/22

すこーしだけ考えてみる 『生協の白石さん』 白石昌則,東京農工大学の学生の皆さん / 講談社

128【そうですか。まだ春、来ないですか。】

 今さらだけど,以下に示すような指摘はあまり記憶にないため,書いておきたいと思った。

 東京農工大の生協職員,白石さんの「一言カード」での顧客応対が非常にユニークで心を潤すものだということについては,個人のブログ「がんばれ、生協の白石さん!」などで以前より話題になっており,白石さんをはじめとする生協職員の「一言カード」の履歴も楽しく目を通してはいた。
 本書は,その「一言カード」の中から,とくに愉快な,あるいは巧みな,もしくは心に染みる対応をダイジェストしたものなのだから,つまらないわけはない。

 ……だが,同時に本書は,別の角度から見れば,ある意味脆弱で,つまらないものでもある。

 「一言カード」とは,生協の店舗や食堂に出入りする学生が,要望や商品の感想を生協の職員に伝える投書カードである。白石さんはじめ生協の職員たちは,それに一つひとつ手書きで応答し,掲示板に張って商品の品揃えをはかったり,トラブルに備えたりする。
 それは,まごうかたなき日々の業務である。「一言カード」による対応を実施しているのは東京農工大の生協に限ったことではないし,また同大学の生協で回答を書くのも白石さん一人ではない。本来,ウケを狙う場ではないのである。

 講談社が単行本にまとめた「一言カード」はあくまでごく一部で,白石さんを含む多数の職員による,文具や食材についての過不足ないシンプルなやり取りが長年続いてきたことを忘れてはならない。それらの中に,まれに,ユーモアやペーソスを含んだ質問や回答が現れるとき,そこに誰もがふっと頬を緩めるような瞬間が訪れる,それがもともとの「生協の白石さん」の魅力である(ネット上で話題がのぼったころは,白石さんの性別や年齢も不明なままだった)。

 単行本となった本書には,その業務としてのバックグランドがない。ただ,穏やかだが冴えた切り返し,ほわっと愉快な質疑応答が並ぶばかりで,ダイジェストゆえコメントの平均的な品質は高く見えるものの,本としてみればテレビのバラエティのように,必然性に欠ける笑いが中心になっている。
 それが,本当に白石さんのしたかったことなのだろうか。本当に白石さんのコメントの魅力なのだろうか。

 ここには,出来事の「現場」と,そのダイジェストを消費する出版社や新聞社等,マスメディアの構図の問題が垣間見える。リアルな日々の業務がこつこつと処理されていく手ごたえ,それが分母だった。インターネット上の東京農工大のサイトは,現場の売店の掲示板ほどではないにしても,その全容(ほかの職員の応答など)をちゃんと伝えてくれているのに,本書ではその大半が削除され,背景はただ付録エッセイのような形で「説明」されているだけである。
 もちろん,背景の切り捨ては,あらゆるテキストの宿命でもある。しょせん程度の問題にすぎないのだが,東京農工大の「一言カード」と本書との間には,あたかも路上ライブと,携帯用着メロくらいの距離があるように思われてならない。

 『電車男』や『生協の白石さん』をはじめ,インターネットやiモードサイトのイベントやログが紙媒体に再編集され,ヒットする現象が多発している。これは今後も続くことだろう。だが,その編集の工程でこぼれ落ちるものがある。
 『生協の白石さん』という書籍1冊についてみれば,美味しいキャンディのケース詰めのような印象で,こぼれ落ちたものがあまりに大きいような気がしてならない。

 今回「発見された」このコミュニケーションが,本書のベストセラー化によってただ消費,浪費されてしまっているように見えない理由は,まったくのところ(稀有なことに)白石さん個人の資質にすぎないのだ。

2005/12/01

信じる者は救われない 『世間のウソ』 日垣 隆 / 新潮新書

489「女児が段ボール箱に詰められて住宅地に放置される異常な事件は、発生から1週間で解決した。」

 上は,今朝(11月30日)の毎日新聞サイトの速報記事の一節。
 容疑者が逮捕されただけで,なぜ「解決」なのだろう。この国は公正な裁判をもってはじめて判断が下される「法治国家」ではなかったのか?
 今回逮捕された人物が真犯人かどうかは知らないが,かつて『東電OL殺人事件』で逮捕されたネパール人(無期懲役)について,いかに無理押しな裁判が行われたか,マスコミは覚えてないとでもいうのか。
 ……覚えていないのだろうな。

 別の話。
 一時期,連日のように全国紙の社会面を飾り続けた「火を噴く三菱車」はどこにいってしまったのだろう。
 三菱自動車の不祥事が話題にのぼる間はまるで鞭打つように暴きたて,騒ぎたて,話題が(文字通り)下火になるとともに紙面から消えてしまった。
 では,はたしてあの時期,三菱製の車は本当に「他のメーカー製の車より出火する頻度が高かった」のか。そして「過去何十年の車社会で,あの時期,車から出火するトラブルは多かった」のか。
 もしそうでないなら(そうではないと思うが)……あれはつまり,マスコミが「リコール隠し」という不祥事を起こした三菱自動車に対し,世間をあおり,断罪,糾弾を繰り返したということだ。違うだろうか。

 などなど,新聞,テレビ,週刊誌などの情報は,少し冷静になればとても奇妙な「ウソ」,ウソと言って言いすぎなら,少なくともかなり「誇張」の含まれたものであることがわかる。

 報道ではないが,フジテレビのバラエティ番組における細木数子の養鶏業者についての発言も,根は似たようなものだ。
 いわく「養鶏場では24時間明かりをつけて夜もない状態にして1羽の鶏に1日あたり2,3個の卵を産ませている」,いわく「鶏卵をはじめ食料のほとんどが薬でつくられている」。日本養鶏協会など11生産者団体が鶏卵生産現場,薬事法上の実情とはなはだしく乖離していると抗議したのも当然だと思うが,ではこの細木発言が抗議を受けたことを知らずにいる視聴者は,養鶏業者についてどういう「知識」を持ち続けることになるのだろう。

 ノンフィクションライター日垣隆による本書『世間のウソ』は,このような「世間を誤らせる構造的なウソ」を取り上げ,一つひとつ検証しようとするものだ。

 自殺は本当に増えているのか。
 六本木ヒルズ自動回転扉事故の報道は的確だったか。
 鳥インフルエンザ「死者最大六億人」という表現は妥当か。

などのマスコミ報道のウソをはじめ,警察の「民事不介入の原則」にまつわるウソ,中学校の部活についてのウソ,さまざまな料金にまつわるウソ,オリンピックをめぐるウソ,裁判に関するウソ,イラク覇兵に関するウソ……。

 ただし,手を広げすぎたためか一つの題材がせいぜい数~十数ページ,読み流すぶんには軽妙洒脱で楽しいが,当然ながら話題一つあたりの検証は甘くなり,著者の皮肉や攻撃性ばかりが目立ってくる。極端な場合,自らの主張のために持ち出した数字が強引で,著者の主張そのものが「世間を誤らせるウソ」になりかねないものもある。

 それでも,テレビや新聞の報道をただ漫然と受け入れることに比べれば,これは格段に知的な作業であり,何もかもが地滑りを起こしかけているこの国にとって極めて重要な指標の1つとなるだろう。

 マスコミ報道を検証し,その検証を検証し,その検証を……。
 常に疑い続けること。本来,それはマスメディア側の仕事のはずだったのだが。

※ 上記本文,『東電OL殺人事件』について,逮捕されたネパール人が無罪判決と,まったく事実と異なることを書いていました(何を勘違いしたのだろう,おバカ……)。謝罪して訂正いたします。12月31日。

2005/06/01

ライトが身上 『なぞ食探偵』 泉 麻人 / 中公文庫

209【はい,ラジウム一丁】

 「町角でふと目にとまった,ちょっと不思議な料理を紹介していきたい。」
 巻頭の挨拶はそれだけである。ほんとうに? とクラリスのつぶらな瞳で尋ねられても万国旗も出てこない。
 各料理の紹介は,それぞれ2ページ。著者手描き(フリーハンド)のカラーイラストが添えられている。

 取り上げられた店は,浅草の定食屋や駅の立ち食いソバ屋など,いずれも高級とは縁遠い。
 「ず丼」「ソイ丼」「あ玉ヶ池」「ラジウムそば」など,どのような食べ物かおよそ見当もつかない。ちなみに「ず丼」はナマズの天丼,「あ玉ヶ池」はウナギの頭を唐揚げにしてタレをつけたもの。
 「とんかつ茶づけ」「天サンド」「おでんきしめん」「焼き寿司」などは材料・調理法こそ見当がつくが,味のほうが少し想像を超えている。「いかにんじん」と言われても,なあ。
 かと思えば「ソース焼そば」「印度風カリーライス」「マカロニグラタン」「コロッケそば」等々,どこがなぞなんだか,取り上げられていること自体がなぞなものもある。

 読み応えは,ともかく軽い。
 読売新聞木曜日の夕刊に連載されたものだそうだが,最初から最後まで,味や人生について深まることも究むこともない。含みのないタイトルといい,たださくさくと軽い。

 泉麻人については,何年か前の朝日新聞,レコード会社や映画館がタイアップ出稿した年末の広告の印象が強い(調べてみると,1996年11月のようだ)。その見開き広告では,語り手の泉麻人の写真とともに,大きな文字で「今年のクリスマスは、自分らしく」と主張されていた。
 それはつまり,(バブル華やかなりしころののように)カップルはレストランを予約せねば,とか,その際には当然ファッショナブルでなければ,とか,そんなふうに周囲のブームに身を任せることなく,今年は自分らしく,たとえばアットホームにしみじみとビデオを鑑賞したり,あるいはしっぽり二人で映画館を訪ねて,と,そういうクリスマスがブームになりそうですよ,という内容なのである。
 言うまでもないが,論理構造的にはどこかおかしい。そのおかしな主張を,てらいもなくさらっと語ってしまえる,泉麻人にはそんな印象が強い。

 なので,「不思議な料理」と言いながら,品川駅の立ち食いソバ屋の「品川丼」を気負いもなく取り上げる。それはよくあるカキアゲ丼に過ぎないのだが,それを連載の2回めに取り上げることに迷いも見せず,

   先にカウンターにいた常連風の男が「シナドン」と縮め言葉で券を差し出している様がカッチョいい。

だの,

   調べてみると他に鉄火丼やシャコを使った丼に品川丼の名を付けている店が界隈にあるらしい。しかし,なんといっても,「品川駅ホームの品川丼」という環境が旅情を誘う。

だのということを平気で書いてしまうのである。

 本書では全編そのような(曇天の貯水池のように)波風立たないライトな料理紹介が続く。

 よくはわからないが,だからこそ彼はプロのコラムニストとして生きていけるのだろう。
 実際,一定の軽さ,深さ(浅さ)をキープしたまま100編近い料理紹介を継続するというのは,想像するだにおおよそ簡単ではない。凡百の徒ならついついそのうち料理の味についてひとくさり説教したくなったり,料理にかこつけて人生のどろどろにふれたくなったりするに違いないのだが,泉麻人に限ってはそのような心配は一切ない。

 深いものを求めたいときや,重いものを流したいときにはどうかとも思うが,「ごま味銀座ホールメンってどんなものだろう,そうかこの銀座ってのは江東区北砂の砂町銀座のことなんだ」とライトに時間をつぶしたいときにはオススメだ。
 ちなみに,カラスがこれを読んだのは,半日絶食ののちの人間ドックの結果待ちの待合室だった。そのあと,どこに何を食べに行ったかは,家人とお医者にはナイショである。

2004/03/30

最近読んだ本 『空のむこう』『恋は肉色』『風俗嬢菜摘ひかるの性的冒険』『菜摘ひかるの私はカメになりたい』『えっち主義』

868『空のむこう』 遠藤淑子 / 白泉社(ジェッツコミックス)

 遠藤淑子の作品をヒトカラゲに「ハートウォーミング」とレッテル貼ってすますのはそろそろ止めにしてほしい……と常々思っていたら,久々発行の本短編集では担当者が変わったものか帯やカバーにその言葉は見当たらなかった。善哉。

 「ハートウォーミング」という評価にどうして苛立つかといえば,それを説明するにはエネルギー保存の法則を持ち出さねばならない。

 遠藤淑子の作品が読み手のハートを温める,これが事実であるとき,読み手のハートにもとから用意されていたなにがしかが燃焼するか,あるいはハートの外部から熱量が持ち込まれるのでなくてはならない。
 しかし,読み返すまでもなく,遠藤淑子の作品は,ばたばたしたギャグがちりばめられたものも,しんみりシリアスなものも,いずれもハッピーエンドとは言いがたい。比較的最近の長編,『ヘブン』『狼には気をつけて』『マダムとミスター』などを見ても明らかなように,そもそもがハートウォームといえるような設定ではないのだ。ギャグと穏やかな各エピソードの最終ページに騙されてはいけない。登場人物たちが息づく世界は,寂しくも枯れ果てた,救いのない砂漠なのだ。
 つまり,読み手のハートが温まるのは,彼ら登場人物の残りとぼしいぬくもりを搾取しているからに過ぎない。

 同じ雑誌で活躍したこと,絵柄が決して巧みとは言いがたいこと,シリアスなストーリーにこれでもかとギャグを盛り込むこと,など,類似点の多い遠藤淑子と川原泉が意外なほど並列して語られないのは,このあたりの構造の違いによる。
 遠藤淑子がエネルギー保存の法則にのっとって読み手に熱をもたらすのに対して,川原泉はいうなれば共振,共鳴の理論で読み手を揺さぶる。遠藤淑子の登場人物が諦念に満ちているのに対し,川原泉の登場人物は愚痴っぽいが優しい。彼らのちょっとした台詞やしぐさに心を温められるなら,それはあなたのハートの何かが彼らによって共振,共鳴を起こしているためなのである。

『恋は肉色』『風俗嬢菜摘ひかるの性的冒険』 光文社 知恵の森文庫
『菜摘ひかるの私はカメになりたい』『えっち主義』 角川文庫

 菜摘ひかるのエッセイ集を束ねて読んだ。

 とくに思うところがあったわけではない。
 ずっと以前,インターネットのオークションで,誰かが彼女を(もちろん当人に無断で)売りに出した。その事件の記憶が少しばかり引っかかっていたためかもしれない。

 4冊続けてまとめ読みしたせいなのか,また,どこまでが意図的なのかよくわからないが,4冊の隅から隅まで,著者は自分のことしか書こうとしていない……そのことには何か圧倒された。

 風俗嬢という,徹底的に対人的な職業についていながら,その間,彼女はずっと自分のことしか考えていない。単に「我欲」というのとは違う。まったく違う。また,「自分は,自分は,」と表層的な自己主張が強いわけでもない。

 たとえば服装や化粧について語るとき,人は誰しも「他人にどう見られるか」を気にする。菜摘ひかるの場合,必ずそこに「自分としては」が付け加えられる。彼女の言動,職業選択,対人関係,そこにすべて「菜摘ひかる」というフィルターが被さった感じだ。1つ1つは別に特殊なことではない。だが,「必ず」「すべて」となると,さすがに圧迫感が強い。
 たとえば男女が恋愛関係にあるとき,そこには女と男がいるはずだが,本書では「菜摘ひかる」しかいないようにしか読めない。彼女はなぜ「自分が」その相手と付き合うつもりになったかを語り,「自分が」どうなると「自分が」付き合いを続けられないかを語る。相手の男は菜摘ひかるを通してしか存在しないし,菜摘ひかるが目をそらした瞬間,この世からいなくなってしまう。
 4冊の文庫本のうち2冊の作品名に著者名が乗っかっているのも,偶然ではないような気がする。

 菜摘ひかるはソープで働いたときのことを語る際に,半可通の客をあしらい,うぶで感じやすい若い女を演じてみせ,それをプロの矜持として誇る。とても正しいと思う。彼女に限らず,プロはそうなのかもしれない。そうなのだろうと思う。
 では,これらの書物において,彼女と読み手の関係はどうなのだろう。読み手はどこまで彼女を信じてよいのか。信じるべきではないのか。
 文庫の解説やWebに散見する感想の類では,女性の読者にはなんらかの共振,共鳴を発生しているように思われる。僕には残念ながら,共振,共鳴する糸がない。

 ただ,それならつまらなかったのか? と問われれば,それに対してはけっこう面白かった,と答えたい。
 女ではない自分,風俗営業にかかわったことのない自分,ましてや風俗嬢の経験のない自分(当たり前だ…)からみて,これらのエッセイ群は,実にソリッドなノンフィクションレポートであり,まるで異国文化に触れるような新鮮な読書体験を与えてくれる。
 たとえば,4冊の中では自伝仕立ての『風俗嬢菜摘ひかるの性的冒険』が抜群に面白い。都内某所のストリップ劇場での10日間を描いた「トキメキ☆衆人環視」など,汗の飛び散る肉体労働を歌い上げるという意味で近年まれな大ケッサクだと思う(多分,女性読者にウケるのは,こういった部分ではないのだろうが)。

 ただ,その読書体験を与えてくれる著者に対して好感を持てるかといえば,それはまた別だ。好感という言葉を持ち出すのがそもそも間違いかもしれない。「自分が」「自分は」と繰り返す小さなブラックホールを扱いかねる,そんな印象のほうが近い。わずらわしさのほうが先にたってしまうのだ。

 角川文庫の『えっち主義』には,エッセイに合わせて作者当人によるマンガが掲載されている。絵の巧い下手とは別に,菜摘ひかるにとって人間の顔がゴム製品のように見えているのではないかと思われるときがあり,少しばかり異様な気がする。

2004/03/08

こちらのほう,オトナマターということでいかがでしょうか? 『オトナ語の謎。』 監修 糸井重里 / ほぼ日ブックス

153【むしろ,ぜんぜんウェルカムです】

 ある日,サラリーマン金太郎ならぬサラリーマン烏丸が取引先のとある担当者にものしたメールの一文。

  お世話になっております。

  さて、例のスキームの件なのですが、プライオリティ高ということで、
  上のほうからも週明け午後一に各社様からのお見積りをいただくのがマストと
  指示がふってきております。
  必ずあいみつをとることが弊社内のコンセンサスとなっており,
  お手数ですがなるはやでご対応いただけましたら幸いです。

  よろしくお願いいたします。

 「お世話になって」いて,「お手数ですが」「いただけましたら幸い」とへりくだり,あげくに「よろしくお願いいたし」と頭を下げているのだから,さぞや大切な取引先かと思いきや,何を隠そうこのメールの本音は,再三の「お願い」にもかかわらず週明け午後一に見積もり持ってこなきゃ,あんたんとこの商品は二度と扱わないかんね,という最後通牒なのでありました(そうでなきゃ,取引先に直接「あいみつ」の一口だなんて言いませんよね)。

 つまり,「お世話になって」いる相手に「お願い」して,「対応いただけたら幸い」と申し上げるのは,直訳すれば「やってね」という意味しかないのです。
 なにしろ,サラリーマン烏丸のウィンドウズパソコンには
  おつ ⇒ お疲れさまです。
  おせ ⇒ お世話になっております。
     ⇒ 日ごろはお世話になっております。
  よろ ⇒ よろしくお願いいたします。
     ⇒ 何卒よろしくお願い申し上げます。
がそれぞれ辞書登録されていて,へりくだるのなんざピシパシピシと2文字分で朝飯前。
 この場合もちろん,「おつ」が社内向け,「おせ」が社外向けであり,「おせ」「よろ」のやや丁寧なほうが部長級以上が相手の場合,ということは言うまでもありません。

 このメールのもう1つの特徴は,「スキーム」だの「プライオリティ」だの「マスト」だの「コンセンサス」だののカタカナ言葉,「午後一」「あいみつ」「なるはや」という,中学・高校では勉強しなかったヘンテコな言葉,さらには「例の件」「上のほう」とどうにも曖昧模糊な用語用例がちりばめられていることです。

 このような,サラリーマン社会でのみ通じる(つまり辞書には載ってない,もしくは辞書に載っているのと微妙にニュアンスの異なる)言葉遣いに着目し,それを「オトナ語」と名付けて紹介したのが本書『オトナ語の謎。』です。
 もともとは糸井重里のホームページ「ほぼ日刊イトイ新聞」で話題になったコーナーの単行本化だそうで,烏丸は書店店頭で手に入れましたが,デフォルトでは通販で販売されているもののようです。

 素晴らしいのは,苦笑いするしかない,その内容の充実ぶり。
 なぜ苦笑いかというと,そうですね,先週1週間の会議(MTGですな)やメールのやり取りで烏丸が直接使った,あるいは目や耳にしたものだけで,1つ2つ……50ではきかないかもしれない。100近くあるかも。どうやらサラリーマン烏丸は「オトナ語」にまみれたオトナ社会にどっぷり首までつかって生きているようです。

 最初に揚げたメールは先ほどちゃっちゃっとこしらえたマガイモノですが,辞書登録はウソではありません。実際,普段何百通/日とやり取りしている社内,社外へのビジネスメールの大半は,まぁこんな程度のものです。

 本書を読んでびっくりしたのは,これらの用語が決して烏丸の勤めている会社やその周辺独自のものではなく,どうやら広くサラリーマン社会に共通するものらしい,ということ。本書には相当数の「オトナ語」が紹介されているのですが,言葉そのもの,あるいは用法をまるっきり知らなかった,というのはほとんどありませんでした。
 つまり,この日本には「標準語」とは別に,「オトナ語」という共通語があるらしい。語意的にはへりくだっているのに内容は脅しに近い断りだったり(「おっしゃることはよくわかるんですが」「と,おっしゃいますと?」「ご縁がありましたら」「~さんに言ってもしょうがないんですけどね」),よいことであるはずなのに危機的状況を表したり(「テンパる」「バンザイ」),いったい何だかよくわからなかったり(「ウィン・ウィン」「あいみつ」「いちばんベター」)。いやはや,なんとも味わい深い用語,用法ばかりではありませんか。

 ちなみに新社会人の方は,「コンセンサス」「シナジー」「シェアする」「アジェンダ」といったカタカナ言葉をわりあい早く口にするようになられると思いますが,むしろ「のむ」「泣く」「丸投げ」「手弁当」「織り込みずみ」などの言葉に慣れてこそ一人前といえます。要するに,後者は実際に追い詰められたり嫌な思いをしたときじゃないと覚えないんですね。

 それにしても,最近は「インパク~インターネット博覧会」の編集長を引き受けてしまうなど,なんとなくパッとしない感のあった糸井重里だけど,こういう着眼点というか,ピックアップはさすがに上手い。ただ,この本もほかのイトイ本と同じように,社内で話題になって,回し読みして,しばらくしたらどこかに消えてしまうのでしょうけど。

 そうそう,烏丸の周りでよく使われる「オトナ語」で,掲載されていないのが1つありました。
 本書にも掲載されている「ざる」はチェックの甘い状態のことを言うのですが,もっとひどい状態のことを「わく」と言います。「ざる」ほどにもひっかかるところがないんですね。

 とりあえず,上記レジュメのほう,ご査収いただけましたら幸いです。
 何卒よろしくお願い申し上げます。

2003/11/24

読むのに時間がかかった本 『東海林さだおのフルコース “丸かじり”傑作選』 朝日文庫

222【様々な葛藤があったが いまはやすらかにかつ丼をいただくご婦人】

 1巻め『東海林さだおの弁当箱』が791ページ,2巻め『東海林さだおのフルコース』が457ページ,3巻めの『東海林さだおの大宴会』が469ページ。
 大変なボリュームである。ところがこの3冊ですら「自選・特選」と銘打たれた,早い話「傑作集」に過ぎない。

 しかしてその正体はといえば,週刊朝日に現在も連載中の食べ物エッセイ「あれも食いたいこれも食いたい」なのだが,これがすでに単行本にして
  タコの丸かじり
  キャベツの丸かじり
  トンカツの丸かじり
  ワニの丸かじり
  ナマズの丸かじり
  タクアンの丸かじり
  鯛ヤキの丸かじり
  伊勢エビの丸かじり
  駅弁の丸かじり
  ブタの丸かじり
  マツタケの丸かじり
  スイカの丸かじり
  ダンゴの丸かじり
  親子丼の丸かじり
  タケノコの丸かじり
  ケーキの丸かじり
  タヌキの丸かじり
  猫メシの丸かじり
  昼メシの丸かじり
  ゴハンの丸かじり
ぜはぜは,つまりその,ひぃふぅ,だるまさんが転んだ,インド人のクロ…(Pi!),合わせて20冊が発行済みの,さすがは老中松平定信の寛政の改革当時すでに江戸八百八町に名を知られた老舗名代エッセイだけのことはある(ウソ)。

 さてではその本領といえば,とにもかくにも,これほどまでに美味しそうに,これほどまでに楽しそうにモノを食べてよいのだろうか,というくらいうひゃうひゃと楽しそうなその文体にある。

  ゴハンと黄身が上アゴにひっつき,舌にひっつき,口の中はニッチャコ,ニッチャコとなって,目はなんとなく上目づかいになって,口はOの字になったりヘの字になったり,これはなんともこたえられまへんな,という心境になり,はたから見たら,ともて利口には見えまへんな。

  浅漬けの塩ラッキョウは,果実の種のように硬く引き締まり,噛むとカリカリ,シャキシャキと口の中が騒がしい。

  まずすることは,ナイフでもってホットケーキの表面をペシペシとたたくことである。

  チャーシューが六枚という店が多い。八枚だったりすると,思わず店主の顔を見上げ,「そういうヒトだったんですね」と尊敬の目になる。

 なーどなど。

 そもそも,取り上げられた素材がよい。
 同じ食べ物エッセイといっても,代官山のフランス料理のなにがしが……といった取り上げ方もあるわけで,20年近く連載を続けていればたまにはそういう方向に走りたくなるに違いないと思われるのだが,にもかかわらず本シリーズはどこを開いても

  福神漬の鉈豆とは何か
  ゴハンに海苔を巻いて食べるとき,海苔の醤油は内か外か
  立ち食いそば屋の七味唐辛子の二穴式の缶は一体誰がしめているのか
  なぜどの辞書も小倉餡の「小倉」の由来については固く口を閉ざすのか
  スイカを皮から剥いて食べたら……
  カレーラーメンはなぜないのか

といった具合で,まったくどこからどこまでこの国の朝ごはん! もうなんとも日常的かつ素朴な食材を取り上げて次から次へとアクティブな問題提起を行って油断がならない。

 油断といえば経済企画庁長官も務めた堺屋太一が以前どこかの雑誌誌面で「これまで一食何万円もしてサラリーマンには手の届かなかったある料亭の懐石料理が3,500円でランチになった。デフレにもよい面がある」とタワけたことをのたまわったのを読んで呆れ果てた記憶があるが,東海林さだおの食べ物エッセイにはそのような不快極まりない金銭感覚,あるいはグルメぶった居丈高さは一切ない。
 取り上げられた食べ物の大半は立ち食いそばやインスタント食品,おにぎりや串カツ,お汁粉であり,チャーシューメンやかつ丼がハレの日のごちそう扱いである。

 もちろん,作者がマンガ家であることも,(当たり前のことだが)忘れてはならない。
 それぞれのエッセイに添えられたおばさん,おじさんたちはもう実に情けないほどに見事におばさん,おじさんである。このおばさん,おじさんたちがテーマの食材を手に口に,ハグハグ,モゴモゴ食べては目をうるませたり口を尖らせたりしてくれるのだが,そのそれぞれがそれはもう味わい深くたたまらない。

 逆にいえば,さっくり読める軽妙なエッセイといかにもB級のカットの向こう側に徹底的に隠蔽されて,いくら読んでもこの著者には家族がいるのかどうかさえ見えてこない(自宅での食事の話がこれほどあるにもかかわらず!)。また,連載開始当時と最近の作品を並べて読んでも,まるで鮮度に違いが見られない。
 これがプロの技術者による作品でなくて何であろう。

 ちなみに,本書を読むのになぜ時間がかかったかといえば,別に分厚いからではない。
 こういう本はダラダラ続けて読んでは味わいに鈍してしまうので,ベッドに入ったところでまず少々重めの本を選んで読んで1時間,2時間,微妙に眠くなったところですかさず本書に切り替えて,ああ今日も幸せな1日だった,明日はこの○○を食べてみようかな……などと余韻を抱きながらスタンドを消してほにゃららと眠りにつく,そんな読み方をしたためであった。

 まだ未読の丸かじりシリーズが何冊も残された,この世界は幸いである。
 多分,1ヶ月もしたら,一度読んだものも忘れているに違いないし……。

2003/06/03

『怪しい日本語研究室』 イアン・アーシー / 新潮文庫

401【G7でこの問題についての協議がなされないというふうに断定的にとることは必ずしも正しくないというふうに思っとるんです。】

 帯の惹句に「読書中,お腹の皮がよじれることがあります」とあるが,内容はいたってまじめな日本語論考エッセイである。
 著者のイアン・アーシー氏はカナダ出身の「和文英訳」翻訳家。スキンヘッドの著者近影を見ると目つきの怪しいボブ・サップみたいで,こういうのがUFOから降りてきて流暢な日本語で話しかけてきたらちょっと怖そうだ。

 本書ではまず「外人」「我が国」という言葉に見え隠れする日本語における属人,属地域的な特性から書き起こし,さまざまな切り口の日本語論を展開する。
 著者は通算で十年以上日本に暮らし,そこらの平均的日本人よりよほど日本語に堪能なのだが,それでもぶつかる言語的障壁に日本語の特性が浮き彫りにされていく。

 たとえば,日本語での一人称,二人称の難しさ。
 あるいは「線をもうちょっと細く書かれたほうがいいんじゃないですか」「正しいんじゃないですか」といった曖昧な言葉遣い(実はこれらは曖昧なわけではなく,「線をもっと細く書いたほうがいいよ」「○×って,日本語として正しいよ」と真意のほどは明快なのである)。
 もしくは,「OL」「TPO」などのアルファベット略語,「パソコン」「セクハラ」などのカタカナ略語,「どたキャン」「朝シャン」「ボキャ貧」「MOF担」などの和洋折衷略語,はては「キムタク」「ブラビ」「橋龍」などの人名略語にいたる省略好き。
 など,など,などなどなど。

 かなり攻撃的に語られるのは,社長の挨拶文や官庁用語,つまりは「権威スジ」の用語用法である。

 著者が用意した架空会社の架空の社長ご挨拶文はまったく馬鹿馬鹿しいほど内容が空疎で,そのくせいかにも日本中の社長が挨拶文に用いていそうな立派なシロモノである。

 また,「整備」という言葉に代表される霞ヶ関の日の丸官僚言葉。
 パソコンを買ってくる,でなく「パソコンの整備」,道路に木を植えるのは「街路樹の整備」。著者が実際の役所書類から見つけ出してきた,次の文言群の意味ははたしてご想像いただけるだろうか(答えはあとで)。
   非自発的離職休職者
   語学学習意欲の高まり
   各主体の自主的対応尊重
   緑資源の基盤が脆弱化する
   人的資本の流動性の拡大のため,環境整備を行う
   平均的な勤労者の良質な住宅確保は困難な状況にある
   円滑な垂直移動ができるよう,施設整備を進めていく
   住宅のあり方が夫婦の出生行動に大きな影響を与えている
   制度を整備した上で措置する
     :

 ただ,著者はあれこれ途方に暮れることはあっても,決して日本語を見下しているわけではない。いやむしろ,とことん惚れ込んでいるといってよい。

 だから,ときにはその音や表記,構造の魅力を讃えあげる。
 一般にはカタカナ言葉を取り込んでだらしないとされることの多い近代の日本語だが,実は「十前後ある日本語の品詞のうち,外来語が大きく踏み込んでいるのは名詞と,その延長線上にあるものだけ」と論破する。実際,外来語をそのまま動詞として取り込んでいるのは「トラブる」「ダブる」などごくごく特殊な例だけ,形容詞も「ナウい」のようなケースはまれ,副詞にいたっては事実上外来語ゼロ。
 つまり,日本語は,外来語を広く無節操に取り入れているように見えて,実は骨格の部分は揺るがされていない。あらゆる外来語の品詞をいったん名詞化して取り込み,広く浅く分布はさせているが,実のところ日本語の構造はほとんど影響を受けていない。むしろ,日本語の文法に飲み込んでしまっている,というのである。
 カタカナ言葉の多さを卑下する文章は数あれど,このような視点から明快に例を示して語る文章にはあまり記憶がない。おかげでなんとも豊かな気分にひたれた次第。

 なお,先に示した整備文体の著者による口語訳は,以下のとおり。
   クビになって仕事にあぶれている人
   外国語ブーム
   みんな勝手にやればいい
   緑が少なくなる
   転職しやすくする
   普通のサラリーマンは家を買えない
   エレベーターを入れる
   うちが狭いから子供はもうつくれない
   少しあとでやります

より以前の記事一覧