前回も同じことを書いたが、本好き大人のキュートなアイドル、『バーナード嬢曰く。』の第1巻には
ディックが死んで30年だぞ!
今更初訳される話がおもしろいワケないだろ!
という神林しおりの身もふたもない首ちょんぱ名言が待っている。
そうなのだ。
いかなディヴァインとはいえ、未訳の最後の1冊にいたって、あのはっと体をこわばらせるような意外性は味わうべきもない。
(ちなみにR・D・ウィングフィールドのフロスト警部シリーズは原作の発表順に翻訳されてきたので、上のディックの法則は適用されない。)
はっきり言って、『すり替えられた誘拐』の犯人は意外でもなんでもないし、動機や犯行手順が明かされてもそれほど「してやられた」感はない。
なにしろ巻頭の「登場人物」の一覧に順に線を引いていけば、残る一人が犯人なのだ。
それどころか、
彼の顔を見た瞬間、バーバラは悟った。わたし、死ぬんだ。
という実に思わせぶりな一節(102ページ)の説明は最後までなされないし、ついでにいえば137ページの
確信したのだ──理由はわからないが──バーバラはすでに死んでいる、と。
も、雰囲気だけでとくに意味はない。
要は、ディヴァインにしてはその犯行から発覚までのこまごまが妙にゆるい。
単に犯人あてという視点で見れば、初期に翻訳された作品群のほうが格段に面白い。
・・・待て待て。「初期に翻訳された」とはどういうことか。
少しうるさいが、ディヴァインの全長編について、原作発表年、そして発行元の事業清算に伴い惜しくも廃刊となった現代教養文庫版、そして創元推理文庫版、それぞれの翻訳発刊年を順に掲げてみた。
【原作発表年】
1961年 『兄の殺人者』
1962年 『そして医師も死す』
1964年 『ロイストン事件』
1965年 『こわされた少年』
1966年 『悪魔はすぐそこに』
1967年 『五番目のコード』
1968年 『運命の証人』
1969年 『すり替えられた誘拐』
1970年 『紙片は告発する』
1971年 『災厄の紳士』
1972年 『三本の緑の小壜』
1973年 『跡形なく沈む』
1981年 『ウォリス家の殺人』
【現代教養文庫 発行年】
1994年 『兄の殺人者』
1994年 『五番目のコード』
1995年 『ロイストン事件』
1996年 『こわされた少年』
【創元推理文庫 発行年】
2007年 『悪魔はすぐそこに』
2008年 『ウォリス家の殺人』
2009年 『災厄の紳士』
2010年 『兄の殺人者』
2011年 『五番目のコード』
2011年 『三本の緑の小壜』
2013年 『跡形なく沈む』
2015年 『そして医師も死す』
2017年 『紙片は告発する』
2021年 『運命の証人』
2023年 『すり替えられた誘拐』
未刊 『ロイストン事件』
未刊 『こわされた少年』
驚いたことに、本邦でディヴァイン人気を決定的にした『ウォリス家の殺人』は、作者の死後に発刊された最後の長編、まさに白鳥の歌だった。
逆に、創元推理文庫版でややダレを感じさせられた『三本の緑の小壜』、『跡形なく沈む』、『そして医師も死す』、『紙片は告発する』、『運命の証人』の各作品は、初期の作品であったり、後期の作品であったり、とくに発表時期に脈絡はない。
これはいったい?
感覚的な結論だけ書いてしまうと、(書いてしまうと実に薄っぺらになってしまうのだが)結局、ディヴァインにとって、犯人あては創作において必ずしも一番の目的ではなかった、ということだ。
では、ディヴァインの創作の目的とは何か。
『すり替えられた誘拐』巻末の解説において、小説家 阿津川辰海氏はディヴァインの一連の作品を「犯罪小説」とみなす論陣を張っている。なるほどそうだな、とも思われるが、何か大きく足りないような気もする。何が足りないのだろう?
ディヴァインを「犯罪小説家」とみなし、たとえば『すり替えられた誘拐』に犯人あてより犯行の動機を読む・・・これはあくまで犯人、あるいはせいぜい被害者の側を注目する、そんな読み方にすぎない。
ディヴァインも13冊めともなると、それはもう・・・違う。
ディヴァインが書きたかったのは、欲望やプライドのままに殺人を犯してしまう犯人の側ではなく、その事件の前後、周辺で鬱屈をかかえ、自分の人生を正面から見すえることのできなくなった主人公、その人だったのではないか。
その主人公が犯罪にまきこまれ、あるときは大切な人をなくし、あるときは信じた人の裏切りを知り、自信や名誉、仕事を失い、逃げ出すこともできずにやむなく犯行の真相を明らかにしていく──よしんばその真相がさらに彼自身を苦しめることになったとしても。
そして、その状況下において、犯人が誰か、犯行の動機が何か、なかなか明らかにできなければできないほど主人公の苦悩は深まる。だから、作者の提示する犯人あては難しくなる。
逆にその状況を描くにおいて、ほかの要素で十分であるなら、犯人あては必ずしも難しくある必要はない。動機の究明についても同じことだ。
ディヴァインの描く殺人は、犯人の罪である以上に、主人公にとって茨の冠なのだ。そして、事件の真相を明らかにすることによって彼自身が再生する、ないし再生のチャンスを得る、それこそがディヴァイン作品の目指す作品のありようなのではないか。
だからこそ13作の長編において、名探偵は決して登場しない。
『すり替えられた誘拐』という作品を評するにおいて、その是非は犯人あての容易さ/困難さではなく、とくに前半、大学関係者の誰しもが苦いものをかかえた描写(まさにディヴァイン節)にあるだろう。
逆に、本作について今ひとつと感じる理由があるとするなら、それは主人公の苦難と蘇生がバーバラ殺しとそう深くかかわっていない、そのことにあるに違いない。