カテゴリー「ミステリ・サスペンス」の211件の記事

2024/12/23

時計を巻き戻す 『ロイストン事件』 D・M・ディヴァイン、野中千恵子 訳 / 創元推理文庫

Photo_20241223175001 ディヴァインについては昨年、『すり替えられた誘拐』発刊に際し、必要なことはある程度書いておいたので、繰り返し語るのはやめておく(←なんでそんなエラそうなのー)。

以下、良いことと残念なことを一つずつ。

良いこと。
かつて社会思想社の教養文庫から上梓され、その後出版社ごと絶版とあいなったD・M・ディヴァインの残る2作のうち、『ロイストン事件』が創元推理文庫から再発された。正義にこだわる主人公がさんざん痛い目にあい、最後に少しだけ報われる傑作だ(ディヴァインにしては珍しい、オシャレなエンディングもポイントが高い)。
残る『こわされた少年』も2025年に発行予定とのこと。慶賀のいたり。

残念なこと。
教養文庫版『ロイストン事件』には探偵小説研究家、真田啓介氏の詳細な解説が掲載されており、これが文庫の解説としてはまれに見る読み応えだった。
一般に他社の文庫の再刊に際しては解説は別人によって書き起こされることが多い。しかし、今回の創元推理文庫版においては教養文庫の解説が・・・そのままだとよかったのだけれど、残念ながら15ページ→11ページとカットされ、とくに教養文庫においてディヴァインが出版され始めた当時のミステリ出版界を俯瞰して語る前半がカットされているのが残念。
ただ、それでも、『ロイストン事件』を
  A ストーリー
  B プロット
  C 謎解きのプロセス
  D テクニック
  E キャラクター
に分けて語るその内容は一項一項「ディヴァインを読む」ことの意味と方向を示して、ただエンターテインメントとして流さない(ディヴァインの巧みさを指摘すると同時に、微細な欠点についてもきちんと釘を刺してくれる)。
ディヴァインにほかのミステリ作家と違うものを感じる読者にとって、この緻密な解説は必読必携だと思う。
それが読めるのだから、結局はこちらも良いことである。善哉。

2024/08/22

『ストーンサークルの殺人』 M・W・クレイヴン、東野さやか 訳 / ハヤカワ文庫

Photo_20240822180001 美術館をめぐるのが好きな家人がタイトルに惹かれて『キュレーターの殺人』という海外ミステリを見つけてきた。
ワシントン・ポーという刑事を主役とする長編で、ところが、このキュレーターはとくに美術館のキュレーターとはなんら関係がなかったらしい。少しばかりがっかりして肩を落とす家人。
そこで夫たる烏丸が、仕返しに同じ作者の別の作品を読むことになった。

ここまででなにか質問がある人。ない。よろしい。では続けよう。

さて、皆さんは「ノックスの十戒」をご存知だろうか。
イギリスのミステリ作家ロナルド・ノックス(作品はそれほど面白くない)が提唱したもので、フェアなミステリ小説を書くときに守るべきルールを列挙したものである。

「犯人は、物語の当初に登場していなければならない」
「探偵方法に、超自然能力を用いてはならない」
「探偵は、読者に提示していない手がかりによって解決してはならない」

などの十項目からなり(詳細はリンク先を参照)、これに従えばオーソドックス、逆手に取ればユニークなミステリが書けるかも、といった内容となっていて、のちのミステリ作家の多くがこれを基軸とした。

「ノックスの十戒」は本格、サスペンス、ハードボイルドのジャンルにかかわらず、あらゆるミステリ小説が対象となっているが、思うに、最近よく見かける分厚い刑事モノはまた、別の十戒で制御されているような気がしないでもない。

思いつくままにまとめてみよう。

 一、主人公の刑事(以下、主人公)は過去に不祥事を起こした件で、組織内では腫れ物扱いされていなければならない
 二、主人公は一とは別に家族、恋愛など、プライベートにも問題を抱えていなければならない
 三、主人公は組織の上層部からはやっかいもの扱いされていなければならない
 四、主人公は警察官としての情熱と正義感に溢れ、それゆえに捜査においてたびたび暴走しなければならない
 五、主人公は四ゆえに一人で勝手に捜査に走り、たびたびピンチに陥らねばならない
 六、主人公は私生活や人間関係には無頓着、無神経でなければならない
 七、六にもかかわらず主人公はコーヒーや酒、香水などに詳しかったり、豊かな読書家であったりしなければならない
 八、主人公の相棒は、コミュニケーションに問題があって組織内で浮いていた頭脳明晰な(IQや記憶力が異常に高い)痩せた若者でなければならない
 九、犯人は猟奇的な殺人を繰り返すが、その正体は物語の最初から登場する主人公の身近な存在か、さもなくば結末にいたって突然現れるどこかの誰かでなければならない
 十、後半、主人公が犯人を追い、対峙する場面は、映画化がイメージしやすい壮大な風景と派手なアクションが用意されていなければならない

最近の分厚い刑事モノの多くはテレビドラマも合わせ、この十戒のうち七つか八つ、作品によってはすべて当てはまるようだ。

実はこの十戒を書いてしまうと、『ストーンサークルの殺人』について付け足すところはほとんどない(何項目当てはまるかは読み手によるだろうが)。

逆にいえば『ストーンサークルの殺人』は正統派の、堂々たる刑事モノの傑作、といってよいだろう。
と、これにてストーンサークル、じゃなくて大団円。

2024/06/06

『行動心理捜査官・楯岡絵麻 ホワイ・ダニット』『同 ラスト・ヴォイス』 佐藤青南 / 宝島社文庫

Photo_20240606184901 油断していたら『行動心理捜査官・楯岡絵麻』シリーズも11巻めの『ラスト・ヴォイス』で最終巻。

> 行動心理学を応用して容疑者の表情や仕草の微妙な動きから嘘や隠し事を見破る警視庁捜査一課巡査部長 楯岡絵麻、通称「エンマ様」。
> 犯罪者に対話をしかけ、嘘をつく際の大脳辺縁系の反射──マイクロジェスチャーや微細表情を見極めることで犯行を暴く

↑は前回紹介した書き込みからのコピー&ペーストだが、1巻から最終巻までこの説明で通せるのがとても気持ちよい。

というのも、こういったミステリ、サスペンスのシリーズものでは、(とくに途中でドラマ化されたりすると)お話がどんどん肥大化して、敵の背後に捜査の手の届かぬ巨悪が現れたり、当初の敵が味方に回ってみたり、警察官僚の頼もしいバックアップが得られたり、そうこうするうちに連作短篇集だったものが長編中心になってしまったりする。

必ずしもそれがまずいわけではないが、短篇のひきしまった設定、文体に魅かれて付き合い始めたシリーズがワンアイデアを引っ張る弛んだ長編中心になってしまうのは悲しい。

実は『行動心理捜査官・楯岡絵麻』も途中で妖怪レベルの強敵が登場したり、いくつか長編がはさまったり、と、拡大再生産の道に傾いてはいたのだが、10巻めの『ホワイ・ダニット』で初期を思わせるタイトな短篇集に戻り、その勢いで最終巻『ラスト・ヴォイス』を走り抜けた。

この作者の力量ならまだしばらく続けることも全然無理でなかったろうと推察する。しかし、楯岡絵麻の吐き捨てる

  「私を……誰だと思ってるの」

のセリフで綺麗に閉じたことで好もしいシリーズとして記憶に残りそうだ。残したい。

2024/05/02

そんなものはとっくに解けている 『凶笑面 蓮丈那智フィールドファイルⅠ』『触身仏 蓮丈那智フィールドファイルⅡ』 北森 鴻 / 角川文庫

Photo_20240502182801 小説やコミックの私評を旨とするこのブログの書き込みも、だらだら続けるうち、少し前に1500を越えた
本以外を話題にした記事もあるが、一度に数冊紹介したことも少なからずあったから、全体としてはそのくらいの数の本を扱ってきたということだろう。

最初が2000年の夏だから、今となっては「しまったな」な書き込みも少なくない。
読み返して「何が悲しくてこんなものを持ち上げたのだろう」と後悔する本もある(あれや、あれ、だ)。「褒めるにせよ貶すにせよ、ポイントはそこじゃないだろ」と自分の読みの甘さにヘソを噛みたくなるような書き込みも・・・けっこうたくさん、ある。

そんな中、このブログでの扱いについてずっと気に病んできたミステリ作家がいる。北森鴻、その人だ。
本ブログで取り上げたのは『メビウス・レター』と『花の下にて春死なむ』の2冊。ご覧いただければ(あまりご覧いただきたくない)おわかりのように、褒めているようには見えない。否、重箱の隅つつきのオンパレードと言ってよい。

書いてあることをなかったことにしたい、とは言わない。当時、北森作品に感じていたもどかしさをクリアにしておきたい、そんな意図のあらわれだったようにも思う。
しかし、この2冊で否定的な内容を書くのなら、同じ作家の好もしい要素を取り上げてきちんと評価するのも書評ブログとしての努めだったとも思う。なにより、北森鴻は新刊が出るのを楽しみにしていた、大好きな作家の一人だったのだから。
まさか、2010年に48歳で亡くなられるとは予想もせず・・・。

さて、このたび、角川文庫からその北森鴻の「蓮丈那智フィールドファイル」シリーズから第1集、第2集の『凶笑面』『触身仏』が再発された。
これらは北森鴻の作品の中でもなにより高く評価したい作品であり、本ブログでも何度も取り上げようと思っていたものだった。取り上げなかった理由はわりあい単純で、褒めばかりになって書き込みとして面白く書く算段がつかなかったためだ(はっきりそう意識していたわけではないが、当時の気分を均してみるとそうなる。ちなみに、蓮丈那智シリーズ以外にも旗師・冬狐堂シリーズや単発作品のあれこれと、取り上げたいつもりがそのままになってしまった作品はほかにもたくさんある)。

「蓮丈那智フィールドファイル」とは、異端の民族学者・蓮丈那智が、仮説の立証をフィールドワークに求め、助手の内藤三國を伴って調査にあたり、その先でさまざまな事件にあたるというもの。
探偵役の那智が冷静かつ論理的、よい意味で感情に流されることなく、ワトスン役の三國も、頼りない面はあるが決して無能ではないため、暴かれる真相の暗さと相まって全体の雰囲気は密度が高く、きしむような重さに満ちる。
北森鴻はじめ中堅ミステリ作品に多い、関係者の感情の発露、怒りや嘆きの発露に事件の真相がぼやけてしまう、そういった場面がほとんど見受けられない。また、ワトスン役を安易に愚かしく描き、相対的に探偵を鋭利に描くことも避けられている。
これは、トリックやプロットそのものの出来不出来を分けて考えると、ミステリ作品の構成上、一つの(あくまで一つの)理想的なあり方ではないかと思う。

簡単にいえば、手堅く面白いのである。
ちなみに、民族学的な謎と事件の謎、この絡み具合は作品によって異なる。前者は前者として放置される場合もある。全体として、油断がならない。

「蓮丈那智フィールドファイル」は短篇集『凶笑面』、『触身仏』、『写楽・考』の3冊が発売され、作者の死後、その遺志を継いだ作者の婚約者である浅野里沙子が加筆、執筆した長編『邪馬台』、『天鬼越』の2冊が発行された。
いずれも新潮社からの発行だったが、このたび、なぜか、角川文庫から再刊されることになった。
事情はわからないが、このシリーズが書店店頭に再び平積みで並ぶのは本当に嬉しい。

ハードなミステリを好む方、どろどろした地縁系のミステリを好む方、またちょっと外側からだと、諸星大二郎の「妖怪ハンター」「稗田礼二郎のフィールド・ノートより」などを好まれる方、さらに泡坂妻夫の『乱れからくり』に登場する宇内舞子によろめく方、そんな方にはお薦めしたい。そうだな、ミクニ。

2023/10/09

Take it easy 『ザリガニの鳴くところ』 ディーリア・オーエンズ、友廣 純 訳 / 早川書房

Photo_20231009180901訳者あとがきが書かれた時点で、本書『ザリガニの鳴くところ』は《ニューヨーク・タイムズ》紙のベストセラー・リストに73週連続ランクインされていたらしい。日本語版の帯の惹句には「全世界1500万部突破のベストセラーが待望の映画化!」、日本でも2021年本屋大賞翻訳小説部門の第1位。
紙の本がなかなか売れない今節、たいへんけっこうなことだ。
ただ、それだけ売れに売れたとなると、眉に唾を付けてしまうのが烏丸の悪いクセ。

以下、ネタバレあり、酷評あり。それは困るという諸君はここでごきげんよう、さようなら。

============

さて、『ザリガニの鳴くところ』の舞台はアメリカ、ノース・カロライナ州、海寄りの湿地。物語は、そこで6歳で家族に見捨てられた少女のその後の生活(1952年~)と、1969年に起こった青年の不審死をめぐる捜査、裁判のもようを交互に描いて進んでいく。

動物行動学者の著者はこれがはじめての小説だそうだが、読みやすさについてはきわめてテクニカル、大小の心に刺さるイベントを折り重ねながら少女の悲惨と夢と成長を描いて読み手をぐいぐいと次章に誘う。
また、ボートで行き来する湿地の朝夕の鮮やかな光景、大小の生き物の豊かな営みを背景に、本書は「恋愛小説」と「推理小説」、そして人種差別や貧しい白人層を描く「社会小説」、それぞれの貌をもって複層的な読み応えを提供する。

と、本書を上記のように読んで済ませる層に対しては、何も言わない。たとえばハリー・ポッターの物語の細かい矛盾点を指摘するのはそれほど難しくないが、それはおそらくハリー・ポッターの正しい、もとい、楽しい読み方ではない。

だが、それにしても。

まず本書を推理小説とみなすとなると、まじめに額に汗して犯人や探偵の活躍を編み上げんとする推理小説作家全員が気の毒になる。
アリバイもトリックも、それを審議する裁判も、いずれも、まあ、書いておいた──といったテイのもので、その部分だけ抜き出したら誰もそれを推理小説とは評価しないだろう。
(テレビのサスペンス劇場で、原作小説の伏線や推理を適当にはしょって進めた崖の上のドラマをたまに見かけるが、あれのほうがすいぶんマシ、と思えるレベル。)

次に、本書ではヒロインたる「湿地の少女」カイアが、湿地あるいは海岸の生き物を観察、収集し、のちにその優れた研究を評価されるに至る次第が描かれている。また、文中ところどころに登場する「詩」が物語のバックボーンの一つともなっている。
だが、カイアは、初等教育を受けていない。教会にも通っていない。いや、そもそも幼少時に家族に見捨てられて以来、読み書きを教えてくれた少年との短期間の付き合いを除けばほとんど誰とも会話を交わさず、わずかな本しか読んでいない。もちろん正統な絵画の技法も教わっていない。
考えてみよう、6歳を過ぎてほとんど他者との時間を持たず、教育も受けず、町中に出かけることもない一種のオオカミ少女が、編集者が即出版と判断するような原稿を書けるものかどうか。
ファンタジーとしても、あらゆる物書き、クリエイターに対して失礼な話ではないか。

些末な例だが、作中には、カイアが母の残した本の中からデュ・モーリアの『レベッカ』を読み、それを愛の物語と認識し、母のドレスを着こんで鏡の前でまわり、自分をダンスに誘うテイトの姿を想像するという場面がある(163ページ)。だが、「湿地の少女」はいかにしてドレスの身に着け方、ダンスパーティの誘われ方、等々を知ることができただろう。
これではまるで不良少年がある日ボールを握るや周囲を瞠目させるスーパーピッチャーに化ける(悪い意味での)マンガのようだ。

続いて、本書の恋愛小説としての局面を見ると、これはよくわからない。カイア、カイアに文字を教えたテイト、のちにカイアに近づいた村の裕福な家庭の子息チェイスを含め、どの人物も粗雑で、後先考えるフシがなく、実際ロクでもない。
それぞれのポジションからの「悲恋」はいずれも自業自得! で片付きそうだ。
率直に言うなら、本書に登場する人物のうち、共感が持てるのは、カイアの自活を助ける黒人夫婦、カイアを学校に招く無断欠席補導員、地道に捜査を進める保安官とその部下、判事、エビ漁師を務めるテイトの父、などなど、つまりはカイアやチェイスの真実を知らない者たちばかりなのだ。

・・・と、いちゃもんを並べてきたが、一つ、忘れてならないことは、現在も人種差別はさまざまなところで問題とされているが、ほんの50年ばかり前、本書が描いた60年代、70年当時には、現在とは比較にならないほど明確な差別が横行していたことだ。
本書でも、喜ばしいことが起こっても黒人と白人が抱き合って喜ぶなどということはあり得ない、裁判所の傍聴席も歴然と仕切られている、などがごく当たり前に描かれている。

「もし時代や場所が違えば、この、年老いた黒人の男と若い白人の女はきつく抱き合っていただろう。だが、この時代のこの場所では無理だった」(307ページ)
「二人がテイトとともに法廷に入り、一階の〝白人席〟に坐ったとき、人々は騒然となった」(404ページ)

もうすっかり忘れ去られているようだが、イタリアの映画監督ヤコペッティがアメリカの奴隷制度を描いた『ヤコペッティの残酷大陸』を公開したのが1971年、その作品中、暴動を起こした黒人の青年が手にしていたウィリアム・スタイロンの小説『ナット・ターナーの告白』の出版が1967年。

最後に、もう一つ難癖を。
タイトルの『ザリガニの鳴くところ』は原題では 'Where the Crawdads Sing' 。これは登場人物のテイトが口にした言葉で、湿地の生き物が自然のままに暮らすパラダイスのようなものと思われるが──それなら 'Sing' はそのまま「歌う」でよかったのではないか。

2023/07/06

並べ替えて見えてくること 『すり替えられた誘拐』 D・M・ディヴァイン、中村有希 訳 / 創元推理文庫

Photo_20230706180801 前回も同じことを書いたが、本好き大人のキュートなアイドル、『バーナード嬢曰く。』の第1巻には

  ディックが死んで30年だぞ!
  今更初訳される話がおもしろいワケないだろ!

という神林しおりの身もふたもない首ちょんぱ名言が待っている。

そうなのだ。

いかなディヴァインとはいえ、未訳の最後の1冊にいたって、あのはっと体をこわばらせるような意外性は味わうべきもない。
(ちなみにR・D・ウィングフィールドのフロスト警部シリーズは原作の発表順に翻訳されてきたので、上のディックの法則は適用されない。)

はっきり言って、『すり替えられた誘拐』の犯人は意外でもなんでもないし、動機や犯行手順が明かされてもそれほど「してやられた」感はない。
なにしろ巻頭の「登場人物」の一覧に順に線を引いていけば、残る一人が犯人なのだ。

それどころか、

  彼の顔を見た瞬間、バーバラは悟った。わたし、死ぬんだ。

という実に思わせぶりな一節(102ページ)の説明は最後までなされないし、ついでにいえば137ページの

  確信したのだ──理由はわからないが──バーバラはすでに死んでいる、と。

も、雰囲気だけでとくに意味はない。

要は、ディヴァインにしてはその犯行から発覚までのこまごまが妙にゆるい。
単に犯人あてという視点で見れば、初期に翻訳された作品群のほうが格段に面白い。

・・・待て待て。「初期に翻訳された」とはどういうことか。

少しうるさいが、ディヴァインの全長編について、原作発表年、そして発行元の事業清算に伴い惜しくも廃刊となった現代教養文庫版、そして創元推理文庫版、それぞれの翻訳発刊年を順に掲げてみた。

 【原作発表年】

  1961年 『兄の殺人者』
  1962年 『そして医師も死す』
  1964年 『ロイストン事件』
  1965年 『こわされた少年』
  1966年 『悪魔はすぐそこに』
  1967年 『五番目のコード』
  1968年 『運命の証人』
  1969年 『すり替えられた誘拐』
  1970年 『紙片は告発する』
  1971年 『災厄の紳士』
  1972年 『三本の緑の小壜』
  1973年 『跡形なく沈む』
  1981年 『ウォリス家の殺人』

 【現代教養文庫 発行年】

  1994年 『兄の殺人者』
  1994年 『五番目のコード』
  1995年 『ロイストン事件
  1996年 『こわされた少年』

 【創元推理文庫 発行年】

  2007年 『悪魔はすぐそこに』
  2008年 『ウォリス家の殺人』
  2009年 『災厄の紳士』
  2010年 『兄の殺人者』
  2011年 『五番目のコード』
  2011年 『三本の緑の小壜』
  2013年 『跡形なく沈む
  2015年 『そして医師も死す』
  2017年 『紙片は告発する
  2021年 『運命の証人』
  2023年 『すり替えられた誘拐』
  未刊 『ロイストン事件』
  未刊 『こわされた少年』

驚いたことに、本邦でディヴァイン人気を決定的にした『ウォリス家の殺人』は、作者の死後に発刊された最後の長編、まさに白鳥の歌だった。

逆に、創元推理文庫版でややダレを感じさせられた『三本の緑の小壜』、『跡形なく沈む』、『そして医師も死す』、『紙片は告発する』、『運命の証人』の各作品は、初期の作品であったり、後期の作品であったり、とくに発表時期に脈絡はない。
これはいったい?

感覚的な結論だけ書いてしまうと、(書いてしまうと実に薄っぺらになってしまうのだが)結局、ディヴァインにとって、犯人あては創作において必ずしも一番の目的ではなかった、ということだ。

では、ディヴァインの創作の目的とは何か。
『すり替えられた誘拐』巻末の解説において、小説家 阿津川辰海氏はディヴァインの一連の作品を「犯罪小説」とみなす論陣を張っている。なるほどそうだな、とも思われるが、何か大きく足りないような気もする。何が足りないのだろう?

ディヴァインを「犯罪小説家」とみなし、たとえば『すり替えられた誘拐』に犯人あてより犯行の動機を読む・・・これはあくまで犯人、あるいはせいぜい被害者の側を注目する、そんな読み方にすぎない。
ディヴァインも13冊めともなると、それはもう・・・違う。

ディヴァインが書きたかったのは、欲望やプライドのままに殺人を犯してしまう犯人の側ではなく、その事件の前後、周辺で鬱屈をかかえ、自分の人生を正面から見すえることのできなくなった主人公、その人だったのではないか。
その主人公が犯罪にまきこまれ、あるときは大切な人をなくし、あるときは信じた人の裏切りを知り、自信や名誉、仕事を失い、逃げ出すこともできずにやむなく犯行の真相を明らかにしていく──よしんばその真相がさらに彼自身を苦しめることになったとしても。

そして、その状況下において、犯人が誰か、犯行の動機が何か、なかなか明らかにできなければできないほど主人公の苦悩は深まる。だから、作者の提示する犯人あては難しくなる。
逆にその状況を描くにおいて、ほかの要素で十分であるなら、犯人あては必ずしも難しくある必要はない。動機の究明についても同じことだ。

ディヴァインの描く殺人は、犯人の罪である以上に、主人公にとって茨の冠なのだ。そして、事件の真相を明らかにすることによって彼自身が再生する、ないし再生のチャンスを得る、それこそがディヴァイン作品の目指す作品のありようなのではないか。
だからこそ13作の長編において、名探偵は決して登場しない。

『すり替えられた誘拐』という作品を評するにおいて、その是非は犯人あての容易さ/困難さではなく、とくに前半、大学関係者の誰しもが苦いものをかかえた描写(まさにディヴァイン節)にあるだろう。
逆に、本作について今ひとつと感じる理由があるとするなら、それは主人公の苦難と蘇生がバーバラ殺しとそう深くかかわっていない、そのことにあるに違いない。

2023/06/15

短評 『LIVE 警察庁特捜地域潜入班・成瀬清花』 内藤 了 / 角川ホラー文庫

Photo_20230615165501 「警察庁特捜地域潜入班・成瀬清花」は、内藤了の角川ホラー文庫作品としては

  「猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子」(スピンオフ含め14冊)
  「東京駅おもてうら交番・堀北恵平」(8冊)

に続く、女性警察官を主人公とするシリーズの3作目(「恵平(けっぺい)」はらしからぬ名前だが、やはり女性)。
現在、「FIND」「LIVE」の2巻刊行済み。

猟奇事件の得意な作者らしく、本シリーズも「村落で発生した児童連続神隠し事件」(FIND)、「火災現場の土蔵に保管されていた14体の等身大の花嫁人形」(LIVE)と尋常ならざる事件・現象を起点とはしているが、いかんせん猟奇、ホラーの色合いは薄く、「角川ホラー文庫でなぜこんな、働く女性にとっての家庭、子育ての苦難ばかりを読まされているのだろう?」という気分がぬぐえない。そういうのはより反響がアクティブなSNSでやってくれ。

おまけに1冊め(FIND)では組織のはみ出し者で構成された新設部署は「過去の未解決事件から連続性と関連性を持つと思しき案件を見つけて背景を調べ、犯罪を未然に防ぐことを旨とする」「部署としてのノルマはないし、所轄と連携を取って、部署としては逮捕も送検もしない」はずが、2冊め(LIVE)ではそう語った元上司の指示に従って起こったばかりの火災現場に向かい、リアルタイムに事件と対峙している。
キャンピングカーを基地として現場に向かい、警官としてでなく叔父・姪を名乗って地元の人々と親しみ、と「地域潜入」の肩書は守っているが、なんとなく主人公や部署の立ち位置が迷走している印象は否めない。

というわけで、新シリーズのヒロイン成瀬清花には申し訳ないが、再度「猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子」シリーズの、それも初期の数冊を強く推しておきたい。
なにしろカバーの裏表紙の内容紹介を見ただけで、

奇妙で凄惨な自死事件が続いた。被害者たちは、かつて自分が行った殺人と同じ手口で命を絶っていく」(ON)
廃屋で見つかった5人の女性の死体。そのどれもが身体の一部を切り取られ、激しく損壊していた」(CUT)
都内の霊園で、腐乱自殺死体が爆発するという事件が起こる」(AID)
正月の秋葉原で見つかった不可思議な死体。不自然に重たいその体内には、大量の小銭や紙幣が詰め込まれていた」(LEAK)」
複数の幼児の遺体がバラバラにされ、動物の死骸とともに遺棄されていることが分かる」(ZERO)

なのである(当然ながら各巻作中の死体の扱いはこんな穏やかなモノではない)。

読まないでどうする。

2023/01/30

誰ぞこの子に愛の手を 『蟻の棲み家』 望月諒子 / 新潮文庫

Photo_20230130180701 望月諒子のミステリ長編は、以前、『大絵画展』(光文社文庫)を読み、その落ち着いた真面目な筆致に好もしさを感じたが(天藤真や広瀬正につながる落ち着きを感じた)、その後、他の作品を読む機会に恵まれなかった。
最近になって、新潮文庫からわりあい強い「推し」のかたちで『蟻の棲み家』『殺人者』の2冊が刊行され、いずれもフリーの事件記者木部美智子のシリーズ、ということなので併せて読んでみた。

以下、主に『蟻の棲み家』について感じたことをつらつら書くが、望月諒子の作品、とくに木部美智子シリーズのファンの方にはあまり楽しい読み物とはならないだろうし、また、多分にストーリーのネタバレとなるところがあるので、前もってお断りしておく。

----- (以下、ネタバレ注意) -------------

読みづらい・・・

『蟻の棲み家』を読み進めるにつれ、まず感じたのはそのことだ。
文体の是非より、登場人物の区別がつけにくい。

本作には殺された売春婦が2人、それ以外にも若い女性が数人登場するが、その友人、さらには母親まで含めて、女性はいずれも同じような顔をしている。
似たような言葉遣い、似た生活習慣、似たような倫理のもと、それぞれ生活を破綻させていく。
困ったことに、そうでない、真反対の生き方を選んでいるはずの者まで、同じ顔に思える。
男たちにしても、事件を取り上げるテレビ局のスタッフ、木部の出入りする雑誌編集部の編集者、あるいは警官たちまで、全員、人間を色で5つくらいの函に分けると、皆、同じ函に入りそうだ。
事件の加害者になる、被害者になる、報道側で働く、刑事になる、それは単に生まれ育ちや状況のサイコロの目の問題、そんなふうに思われてならない。
(対して、解説の大森望も例に取り上げている東野圭吾の『白夜行』など、登場人物の間に、いくつもの峻厳な谷を感じたものだ。)

作品後半、事件の容疑者として逮捕された2人は、文中では真逆と言ってよいほど異なる人格に描かれてはいるのだが、作者がそう力説しても、結局同じ函に入ってしまう。

さらに。文庫本の帯には「ミステリー史上に燦然と輝くラストの大どんでん返し!」と威勢のいい惹句が並んでいるのだが、その場面、木部と犯人が対峙して延々と語らう場面、木部と犯人が同一人物であると言われても(もちろんそんなことはあり得ないのだが)なんとなく納得させられてしまうような、同じ根を感じてしまうのである。
『大絵画展』では、こういった人物描写の平坦さが、うまく、落ち着いた雰囲気につながっていたのか、とも思える。

さて、続いては、犯行動機と実行について。
ラストの大どんでん返しとやらで、木部にたらたら真相を明かしてしまう犯人の態度は、それまでさんざん言葉で説明されてきた彼のキャラクター、生き様を破綻させてしまう。だらしなく喋ったら、ダメだろ。
そもそも、彼が、事件の真相、あるいは自身の本質を秘匿でき、擁護者を多数かかえられるほどの人たらしであったなら、ほかに生きる道もあっただろうに。
サンエイ本社の総務部長じゃないが、「ばかじゃないのか、お前は」と叱りたい。

そして、犯行の動機が犯人の語るようなものであったなら、そもそも、リスクと手間とアリバイを尽くして2人も3人も殺す必要などあったのか
こんな手間をかけるくらいなら、問題の人物を自殺に見せかけて死なせてしまえば万事片付いたのだ
その人物は性格にとりとめがなく、また自殺しておかしくない程度には以前より生活が破綻している。
ベランダから飛び降りなり、殺人の証拠の残りにくい方法で死なせて、「借金に苦しんでいたようですよ」とでも説明すればそれで一件落着だ。その場合、犯人に動機も見当たらない。残された遺族が「殺人犯の家族」という汚名を着る心配もない(遺族の職業柄、これは重要)。
当人以外、全員ウィンウィンである。

このあたり、本作のような、いわゆる「社会派」ミステリの難しさを感じる。
一般に「社会派」のミステリが面白いのは、トリックにばかり凝った「パズル系」に比べて、犯人や被害者の人間性、人間関係が事件に深く結びつくからだ。
Aはこうこう、これこれの状況に陥った。もはやどうしても、どうしても、Bを殺すしかなかった。
この説得力は、ドラマとしての読み応えにつながるに違いない。
だが、その場合、Aの犯行はシンプルになるだろうし、知恵を絞ったとしてもアシのつきやすい連続事件にはしたくないはずだ(自身の犯行と露見したってかまわない、では推理小説にならない)。
連続殺人事件を起こす場合には、それなりに理由がいる。
先に書いたごとく似たような女を何人も殺したのでは、「本作の犯行の動機」、つまり犯行の結果に対して、あまりにも不確か、かつ遠回りなのである

もう一つ、こちらから「社会派」と書いておいてなんだが、本作は別に「社会派」のミステリではない。
貧しく、身を売るしかない者に大半のページを割いているため、あたかもそういった貧困に目を配っているように見せてはいるが、実のところストーリーを図式にすると、凄惨な生まれ育ちの者も、裕福な家庭の者も、堕ちるときは堕ちる、それだけの話である。

あと、もう一点、これは作品の出来、不出来とは関係ないのだが、木部美智子が寄稿する雑誌「フロンティア」が、作中で妙に誠実さを評価されていることが気になる。
各所に記者クラブを配し、天下の公器として権威をふるってきた全国紙、テレビ局の昨今の千鳥足ぶりを見るに、現在も昔も、このような雑誌ははたしてありえたのだろうか、と思う。
否、なんとなくほかの週刊誌を見下ろし、「フロンティア」のみ高く語る作者の口ぶりに違和感がある。

実際のところ、『蟻の棲み家』『殺人者』ともにラストにおける木部美智子のスタンスは、一市民としても、ジャーナリストとしても、許されるものではない。
木部の記事が社会的に評価されているとかいっても、しょせん、彼女の原稿は幹のところで嘘。
他のスキャンダル雑誌を見下せるほどのものではない。

2022/11/17

いろんなものが沈んでる 『小沼丹推理短篇集 古い画の家』 中公文庫

Photo_20221117164601 小沼丹のミステリ短篇集に、単行本・全集未収録の「海辺の墓地」「花束」の2篇を加えた文庫オリジナル。

小沼丹の本名は小沼救(おぬま はじめ)。
父は邁(すぐれ)、母は涙子(るいこ)とのことで、これは今でいうキラキラネームの家系なのか、当時としては別に普通だったのか。

小沼丹がなぜ本名の「救」に変えて「丹」というペンネームを選んだのかは不勉強にして知らないが、「丹」はもともとは硫化水銀(辰砂)の赤い色を指す言葉で、晩年、枯淡な作風にいたった小沼にしてはらしからぬ。
考えてみればあの森下の「仁丹」(若い方はご存知ないか)にしても「丹」の字を使いながらその小さな粒は銀色なのだから、そんなものなのかもしれない。

それとも、もしかすると小沼丹自身、もっと赤い色の似あう作家を目指していたのか。
「推理短篇集」が編める程度には推理小説を残しているのは、江戸川乱歩との交流があったため、と本書の解説では明らかにされている。それにしてもいずれも赤い色の似合わない、『風光る丘』など思い出させるすっとぼけた味わいの作品が中心である。
(標題作はじめ、死体や残虐シーンが出てこないわけではない。淡々と書いているので血の匂いがしないだけ。)

ちなみに、本書に収録された短篇群が、たとえば小沼丹をご存知ない方にまずお薦めしたいか、とか、小沼丹の文庫のベスト5を選ぶときに(どんなときだ?)上位に入るか、というと、残念ながら通して読んでもそういう品質ではない。
江戸川乱歩が言うように、こういった「ミステリとユーモアの軽妙な結びつき」の「何か久しく忘れていた面白さ」が「われわれがうっかりしていた盲点をつい」た、というのはおそらくそのとおりなのだが、それでも小沼作品中でクオリティが高いほうだとは思えない。

小沼丹の推理小説でお薦めは、と問われれば、それはもう『黒いハンカチ』に勝るものはない。

小沼丹はのちに細君を亡くしたことをきっかけに、「大寺さんもの」という、先にも書いた枯淡な作風、小説とも随筆ともつかぬが読み終わって掌に残るものは紛れもなく小説の手応え、という作品群の発表にいたるのだが、奇妙なのはそれよりずっと若書きであった『黒いハンカチ』においても、すでに伴侶の死が重要なエッセンスとなっていることである。

「大寺さんもの」の代表作とされている作品の一つに「黒と白の猫」があるが、そのタイトルどおり、小沼丹は若い頃からあたかも半身を失い、かといってその思いを苛烈なドラマにするのではなく、ただその状況を墨で描くかのように淡々と、紙と身の間に一定の距離をもってぼやき続けた、そのように見える。
その距離が独特であり、かつまた妙味を醸すのである。

その意味では、短篇「古い画の家」における主人公と事件との距離なども、一見推理小説のそれのようでありながら、そのとおりではない。

・・・褒めているんだか、貶しているんだか、書いていて、落としどころがわからなくなってしまった。

だが、ブログの私評など、そんな程度でかまわないのである。
今日のところはそういうことにしておこう。

2022/08/22

『レヴィンソン&リンク劇場 皮肉な終幕』『レヴィンソン&リンク劇場 突然の奈落』『レオ・ブルース短篇全集』

今回は書評、感想文の域でなく、単なるお知らせ、周知の類。

Photo_20220822182401 『レヴィンソン&リンク劇場 皮肉な終幕』『レヴィンソン&リンク劇場 突然の奈落』 リチャード・レヴィンソン&ウィリアム・リンク、浅倉久志・後藤安彦 他 訳 / 扶桑社ミステリー

最近文庫化された小泉喜美子の最後の長編『死だけが私の贈り物』(徳間文庫)の献辞が

  コーネル・ウールリッチに捧げる
   ──もう、あなたのようなミステリーを書く人はいなくなったので。

とあった。少し古い海外ミステリーのファンならよくわかるのではないか。つまり犯罪の社会性だの叙述トリックだのには比重をおかない、オシャレで小粋でシャープで切ない、はらはらさせられて後味のよい都会派のミステリーをとんと見かけなくなった、そういうことだ。
ちなみにコーネル・ウールリッチ(ウィリアム・アイリッシュ)の没年は1968年、小泉喜美子が亡くなったのは1985年。

さて、扶桑社から上梓された『レヴィンソン&リンク劇場』全2巻は、あの、『刑事コロンボ』の(初期の)脚本を担当したリチャード・レヴィンソンとウィリアム・リンクの2人が、ちょっとしたきっかけから犯罪を犯した登場人物が転落していく顛末を切れ味よろしく描き上げた短編集。舞台、人物設定それぞれバラエティに富むが、多くはつかみかけた幸運を逃して絶句する主人公の姿で終わる(ことの次第を明らかにせずに終わる作品も少なくない)。

ウールリッチ存命の時代から今世紀に至るまで、長期にかけてぽつぽつと発表されてきたその短篇群は、ウールリッチを思い出させるテクニックと苦味に富んだ、言うならば大人のドラマの味わいだ。
少しふくらませばすぐサスペンスドラマが出来上がるだろう・・・犯人を演ずるのは・・・?

Photo_20220822182402 『レオ・ブルース短篇全集』 レオ・ブルース、小林 晋 訳 / 扶桑社ミステリー

こちらはイギリスの中堅ミステリー作家、レオ・ブルース(1903-1979年)の「全」短篇集。
本巻が未発表作品を含め、世界でも唯一のレオ・ブルース「」短篇集であることと次第が序文、あとがき、加えて中書きにまで詳解、力説!されていて、その一連の文章を読むだけでも楽しい。

レオ・ブルースの長編は、各社から単行本、文庫の形で発刊されているのだが、正直なところ、わりあい人物設定、人間関係の説明がくだくだしく、事件発生から解決に向けての展開もやや冗長な印象が否めない。

ところが、今回の短篇群となるとこれはいかに、いずれも10~20ページ程度のオチは明快、余計な要素なしの掌編ばかり。登場人物が絞られているためフーダニットには力を入れず、ひたすら確証、証拠ありきのきまじめな解決を目指す、なんというか、ミステリーの参考書を炙って水気を飛ばしたような印象だ。

もちろん現代からすると使い古された、通用しない、わかりにくい、いろいろ無理スジな結末もなくはない。が、少しノスタルジックなショートショートと思えばいずれもすらすらとページが進む。

ところで、レオ・ブルースというと、どうも同時代、同水準の海外作家と比べて、少なくとも国内ではヒットしているようには見受けられない。
思うに「レオ・ブルース」という作者名にも若干問題があるのではないか。普通、この作者名で紹介されたら、ニューヨークの夜にうごめく過去のある男たちのピカレスクハードボイルド、いや、むしろその原作をもとに映画化されたB級洋画の主演男優、など想像してしまうのでは。

まさか得意技が田舎警官や学校の先生を探偵役としたフェアな本格ミステリー志向とは・・・。

追伸
今回紹介した3冊がウールリッチの直系の後継と言えるかといえば、それは若干疑問符をつけざるを得ない。ウールリッチの長編に見られる、時間制限のあるトラブルとサスペンス、はともかく、それに平行して途方に暮れ、走り、愛し合う若い男女・・・短いミステリーにその要素まで交えるのはコロンボの脚本家や百戦錬磨の文化人にもなかなか難しかったもようだ。

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