カテゴリー「ミステリ・サスペンス」の214件の記事

2026/03/02

『一次元の挿し木』 松下龍之介 / 宝島社文庫

Photo_20260302191701 感じたことをバラバラっと書く。

『一次元の挿し木』という魅力的なタイトルの文庫の帯の惹句によると、本書は

第23回『このミステリーがすごい!』大賞・文庫グランプリ受賞作

銭湯の「ここではきものをぬぐ」とよく似た構文ではある。
「ここで履物を脱ぐ」なのか、「ここでは着物を脱ぐ」なのか。

実のところ巻末の解説によれば惜しくも「大賞」は逃し「文庫グランプリ受賞作」となったらしい本作だが、それでもたいへんに売れているようでけっこうなことだ。
あちこちの書店に平積みを見掛けたので、売れているのは間違いないと思う。
紙の本のパッとしないこの時代、素晴らしいことだ。

では、ネタバレにならない程度にストーリーを見てみよう(すごいよ)。
文庫カバーの紹介文は以下のようなものだ。

「ヒマラヤ山中で発掘された二百年前の人骨。大学院で遺伝人類学を学ぶ悠がDNA鑑定にかけると、四年前に失踪した妹のものと一致した。不可解な鑑定結果を担当教授の石見崎に相談しようとした矢先、石見崎は何物かに殺害された。古人骨を発掘した調査員も襲われ、研究室から古人骨も盗まれた。(以下略)」

この大風呂敷を、作者は伏線含めて強引に畳んでみせる。天晴れだ。

ただ・・・この違和感の砂粒は何だろう。
山のような「偶然」やハイパーテクノロジーの魔法はこの手のエンタメ作品のお約束、ご愛敬だからさておくとして、

かつて、ミステリを語ろう、書こう、できればプロになりたい、と志す、たとえば大学のミステリ研究会のようなところでは、おそらく、コナン・ドイルはもちろん、クイーンやヴァン・ダイン、クロフツ、あるいはクリスティのあのあたりの特殊な作品などが必読書であったに違いない。それとは別にチャンドラーや乱歩を旗幟に掲げる者もいただろう。
それらの書物は始祖であり、聖書であり、手本だったはずだ。それらに焦がれて書かれた数々のミステリ作品は、また、その後継者の手本となっていったことだろう。

しかし、『一次元の挿し木』にそうした系譜の気配はない。
謎があり、事件があり、主人公がそれを追うという枠組みは似ているが、こまごました「縛り」が違う。

では、ヒマラヤ山中、標高五千メートルの地に実在するという「ループクンド湖」、異なる時代の、膨大な遺骨が残されたこの湖の謎についてなんらかの新たな推察が提示されるかといえば、そういうわけでもない。
つまり『一次元の挿し木』は小松左京や山田正紀、ホーガンらの末裔でもない、ようなのだ。
(70年代の日本SFを読みなれた者なら、文庫カバーの紹介文から本書のプロットのおおむねは予測できてしまうかもしれない。)

まあ、『一次元の挿し木』が、マンガ、アニメ、ゲーム、あるいはそれ以外・・・いかなる系譜の「挿し木」なのかはよくわからないが、登場人物が自在に動くならそれでよい。この作者の次回作も、きっと楽しく読まれるに違いない。

おまけ。
強酸や強アルカリで人体を溶かすのは不可能ではないだろうが、ある程度溶かすと薄まるため相当量の薬液が必要となること、あるいは容器をどうするか、廃液をどうするか、などなど、いろいろ問題があって、骨だけきれいに残すのは簡単ではないように思う。



2026/02/19

『ハウスメイド』 フリーダ・マクファデン、高橋知子 訳 / ハヤカワ文庫

Photo_20260219185101 カバーに記された「恐怖と衝撃のエンタメ小説」、本書にこれ以上適切な惹句はあるだろうか、いや、ない。

「前科持ちのミリーが手に入れた、裕福な家庭でのハウスメイドの仕事。だが、この家は何かがおかしい。不可解な言動を繰り返す妻ニーナと、生意気な娘セシリア。夫のアンドリューはなぜ結婚生活を続けていられるのだろうか? ミリーは屋根裏部屋を与えられ、(以下略)」

本書のあらすじは上記のようなもので、老練な読み手ならこれだけで本書のおおまかな構造、あるいはオチにいたるまで言い当てられるかもしれない。

・・・だが、気になるのはそこではない。
分厚さだ。
この一本道なアウトラインで528ページ。

少なくとも前半、妻ニーナと娘セシリアの不可解な態度についてはもう少しタイトにまとまったのではないか。
それにそろえれば後半のカタストロフィはもう少しスピード感をもてたのではないか。

どうも、なんというか、最近のミステリー、ホラー、とくに翻訳モノは、長い。
どれもこれも、平気で500ページを超える。映画化を意識してのことなのか。
その多くは(少しばかり複雑な人間関係や推理上のどんでん返しを含むにせよ)つまるところ一つの謎、一つの事件を解明するのが目的となっている。
まるで無関係と思われる小さな事件をいくつも同時進行させて最後にそれらが一つの秘密に束ねられる、などという作品(くそったれ!)は別として、ベストセラーを含む多くの作品は真相に関係ない人物を立ててページ数をじゃぶじゃぶ水増しすることが少なくない(主人公の捜査を憎々しげに邪魔する上役警官が世界中でどれほどミステリ本のページの無駄遣いをしていることか)。

クリスティやクイーンには、膨大な長編に対し、それに見合うほどの短篇集があった。
当節ことに長いのが警察モノだが、シムノンのメグレ警部などいずれも短篇、ないし中編程度の長さに収まっていた。

当たり前だが、長いからいけない、というわけではない。
長いのなら長いなりにプロットに味わいが深いか、逆に無駄なくスラスラ読めるよう書かれているか。
余計なものでだらだら散らかっているのが一番困るのだ。
ミリー、片づけておいてって言ったでしょう。



2026/02/16

『怪物の森 未解決事件捜査官ヴァン・リード』 ジェス・ロウリー、北 綾子 訳 / 新潮文庫

Photo_20260216175901 新潮文庫は王道を貫く。
文芸大作なら文芸大作、長編ミステリーなら長編ミステリー、ノンフィクションや実験的な作品ならそれなり。
この信頼は(個人的に、だが)この60年変わらない。

その新潮文庫の長編ミステリーを、久しぶりに読んでみようと思った。

  「42年前に失踪した少女はなぜ今生き埋めにされたのか」
  「未解決事件捜査官と科学捜査官が挑む!」

この帯の惹句で、つまらないわけがないではないか。
主人公のヴァンはカルト集団で虐待されて育ちトラウマに苦しむ捜査官、生き埋め事件と42年前の失踪事件とのかかわりは。

・・・読了後。

面白い、面白くないはさておき、これは、「ミステリー」ではない。
しいていえばB級映画に向いた「サスペンス」の一種であることに間違いはないが、
むしろいわゆる「バカミス」の類ではあるが、書き手に「バカミス」の自覚はないようだし・・・

そこでようやく気がついた。
本書のカバーや帯に散る長いタイトル、煽り文、あらすじ、著者紹介、巻末の吉野仁氏による解説、さらには折り込まれた新刊案内の紹介文にいたる、さまざまなテキストの中に、実は「ミステリー」」とは一か所とて紹介されていないのだ。

本書をして「ミステリー」としない、新潮文庫の変わらぬ矜持を見た。

でも、「バカミス」なんだけどね。




2024/12/23

時計を巻き戻す 『ロイストン事件』 D・M・ディヴァイン、野中千恵子 訳 / 創元推理文庫

Photo_20241223175001 ディヴァインについては昨年、『すり替えられた誘拐』発刊に際し、必要なことはある程度書いておいたので、繰り返し語るのはやめておく(←なんでそんなエラそうなのー)。

以下、良いことと残念なことを一つずつ。

良いこと。
かつて社会思想社の教養文庫から上梓され、その後出版社ごと絶版とあいなったD・M・ディヴァインの残る2作のうち、『ロイストン事件』が創元推理文庫から再発された。正義にこだわる主人公がさんざん痛い目にあい、最後に少しだけ報われる傑作だ(ディヴァインにしては珍しい、オシャレなエンディングもポイントが高い)。
残る『こわされた少年』も2025年に発行予定とのこと。慶賀のいたり。

残念なこと。
教養文庫版『ロイストン事件』には探偵小説研究家、真田啓介氏の詳細な解説が掲載されており、これが文庫の解説としてはまれに見る読み応えだった。
一般に他社の文庫の再刊に際しては解説は別人によって書き起こされることが多い。しかし、今回の創元推理文庫版においては教養文庫の解説が・・・そのままだとよかったのだけれど、残念ながら15ページ→11ページとカットされ、とくに教養文庫においてディヴァインが出版され始めた当時のミステリ出版界を俯瞰して語る前半がカットされているのが残念。
ただ、それでも、『ロイストン事件』を
  A ストーリー
  B プロット
  C 謎解きのプロセス
  D テクニック
  E キャラクター
に分けて語るその内容は一項一項「ディヴァインを読む」ことの意味と方向を示して、ただエンターテインメントとして流さない(ディヴァインの巧みさを指摘すると同時に、微細な欠点についてもきちんと釘を刺してくれる)。
ディヴァインにほかのミステリ作家と違うものを感じる読者にとって、この緻密な解説は必読必携だと思う。
それが読めるのだから、結局はこちらも良いことである。善哉。

2024/08/22

『ストーンサークルの殺人』 M・W・クレイヴン、東野さやか 訳 / ハヤカワ文庫

Photo_20240822180001 美術館をめぐるのが好きな家人がタイトルに惹かれて『キュレーターの殺人』という海外ミステリを見つけてきた。
ワシントン・ポーという刑事を主役とする長編で、ところが、このキュレーターはとくに美術館のキュレーターとはなんら関係がなかったらしい。少しばかりがっかりして肩を落とす家人。
そこで夫たる烏丸が、仕返しに同じ作者の別の作品を読むことになった。

ここまででなにか質問がある人。ない。よろしい。では続けよう。

さて、皆さんは「ノックスの十戒」をご存知だろうか。
イギリスのミステリ作家ロナルド・ノックス(作品はそれほど面白くない)が提唱したもので、フェアなミステリ小説を書くときに守るべきルールを列挙したものである。

「犯人は、物語の当初に登場していなければならない」
「探偵方法に、超自然能力を用いてはならない」
「探偵は、読者に提示していない手がかりによって解決してはならない」

などの十項目からなり(詳細はリンク先を参照)、これに従えばオーソドックス、逆手に取ればユニークなミステリが書けるかも、といった内容となっていて、のちのミステリ作家の多くがこれを基軸とした。

「ノックスの十戒」は本格、サスペンス、ハードボイルドのジャンルにかかわらず、あらゆるミステリ小説が対象となっているが、思うに、最近よく見かける分厚い刑事モノはまた、別の十戒で制御されているような気がしないでもない。

思いつくままにまとめてみよう。

 一、主人公の刑事(以下、主人公)は過去に不祥事を起こした件で、組織内では腫れ物扱いされていなければならない
 二、主人公は一とは別に家族、恋愛など、プライベートにも問題を抱えていなければならない
 三、主人公は組織の上層部からはやっかいもの扱いされていなければならない
 四、主人公は警察官としての情熱と正義感に溢れ、それゆえに捜査においてたびたび暴走しなければならない
 五、主人公は四ゆえに一人で勝手に捜査に走り、たびたびピンチに陥らねばならない
 六、主人公は私生活や人間関係には無頓着、無神経でなければならない
 七、六にもかかわらず主人公はコーヒーや酒、香水などに詳しかったり、豊かな読書家であったりしなければならない
 八、主人公の相棒は、コミュニケーションに問題があって組織内で浮いていた頭脳明晰な(IQや記憶力が異常に高い)痩せた若者でなければならない
 九、犯人は猟奇的な殺人を繰り返すが、その正体は物語の最初から登場する主人公の身近な存在か、さもなくば結末にいたって突然現れるどこかの誰かでなければならない
 十、後半、主人公が犯人を追い、対峙する場面は、映画化がイメージしやすい壮大な風景と派手なアクションが用意されていなければならない

最近の分厚い刑事モノの多くはテレビドラマも合わせ、この十戒のうち七つか八つ、作品によってはすべて当てはまるようだ。

実はこの十戒を書いてしまうと、『ストーンサークルの殺人』について付け足すところはほとんどない(何項目当てはまるかは読み手によるだろうが)。

逆にいえば『ストーンサークルの殺人』は正統派の、堂々たる刑事モノの傑作、といってよいだろう。
と、これにてストーンサークル、じゃなくて大団円。

2024/06/06

『行動心理捜査官・楯岡絵麻 ホワイ・ダニット』『同 ラスト・ヴォイス』 佐藤青南 / 宝島社文庫

Photo_20240606184901 油断していたら『行動心理捜査官・楯岡絵麻』シリーズも11巻めの『ラスト・ヴォイス』で最終巻。

> 行動心理学を応用して容疑者の表情や仕草の微妙な動きから嘘や隠し事を見破る警視庁捜査一課巡査部長 楯岡絵麻、通称「エンマ様」。
> 犯罪者に対話をしかけ、嘘をつく際の大脳辺縁系の反射──マイクロジェスチャーや微細表情を見極めることで犯行を暴く

↑は前回紹介した書き込みからのコピー&ペーストだが、1巻から最終巻までこの説明で通せるのがとても気持ちよい。

というのも、こういったミステリ、サスペンスのシリーズものでは、(とくに途中でドラマ化されたりすると)お話がどんどん肥大化して、敵の背後に捜査の手の届かぬ巨悪が現れたり、当初の敵が味方に回ってみたり、警察官僚の頼もしいバックアップが得られたり、そうこうするうちに連作短篇集だったものが長編中心になってしまったりする。

必ずしもそれがまずいわけではないが、短篇のひきしまった設定、文体に魅かれて付き合い始めたシリーズがワンアイデアを引っ張る弛んだ長編中心になってしまうのは悲しい。

実は『行動心理捜査官・楯岡絵麻』も途中で妖怪レベルの強敵が登場したり、いくつか長編がはさまったり、と、拡大再生産の道に傾いてはいたのだが、10巻めの『ホワイ・ダニット』で初期を思わせるタイトな短篇集に戻り、その勢いで最終巻『ラスト・ヴォイス』を走り抜けた。

この作者の力量ならまだしばらく続けることも全然無理でなかったろうと推察する。しかし、楯岡絵麻の吐き捨てる

  「私を……誰だと思ってるの」

のセリフで綺麗に閉じたことで好もしいシリーズとして記憶に残りそうだ。残したい。

2024/05/02

そんなものはとっくに解けている 『凶笑面 蓮丈那智フィールドファイルⅠ』『触身仏 蓮丈那智フィールドファイルⅡ』 北森 鴻 / 角川文庫

Photo_20240502182801 小説やコミックの私評を旨とするこのブログの書き込みも、だらだら続けるうち、少し前に1500を越えた
本以外を話題にした記事もあるが、一度に数冊紹介したことも少なからずあったから、全体としてはそのくらいの数の本を扱ってきたということだろう。

最初が2000年の夏だから、今となっては「しまったな」な書き込みも少なくない。
読み返して「何が悲しくてこんなものを持ち上げたのだろう」と後悔する本もある(あれや、あれ、だ)。「褒めるにせよ貶すにせよ、ポイントはそこじゃないだろ」と自分の読みの甘さにヘソを噛みたくなるような書き込みも・・・けっこうたくさん、ある。

そんな中、このブログでの扱いについてずっと気に病んできたミステリ作家がいる。北森鴻、その人だ。
本ブログで取り上げたのは『メビウス・レター』と『花の下にて春死なむ』の2冊。ご覧いただければ(あまりご覧いただきたくない)おわかりのように、褒めているようには見えない。否、重箱の隅つつきのオンパレードと言ってよい。

書いてあることをなかったことにしたい、とは言わない。当時、北森作品に感じていたもどかしさをクリアにしておきたい、そんな意図のあらわれだったようにも思う。
しかし、この2冊で否定的な内容を書くのなら、同じ作家の好もしい要素を取り上げてきちんと評価するのも書評ブログとしての努めだったとも思う。なにより、北森鴻は新刊が出るのを楽しみにしていた、大好きな作家の一人だったのだから。
まさか、2010年に48歳で亡くなられるとは予想もせず・・・。

さて、このたび、角川文庫からその北森鴻の「蓮丈那智フィールドファイル」シリーズから第1集、第2集の『凶笑面』『触身仏』が再発された。
これらは北森鴻の作品の中でもなにより高く評価したい作品であり、本ブログでも何度も取り上げようと思っていたものだった。取り上げなかった理由はわりあい単純で、褒めばかりになって書き込みとして面白く書く算段がつかなかったためだ(はっきりそう意識していたわけではないが、当時の気分を均してみるとそうなる。ちなみに、蓮丈那智シリーズ以外にも旗師・冬狐堂シリーズや単発作品のあれこれと、取り上げたいつもりがそのままになってしまった作品はほかにもたくさんある)。

「蓮丈那智フィールドファイル」とは、異端の民族学者・蓮丈那智が、仮説の立証をフィールドワークに求め、助手の内藤三國を伴って調査にあたり、その先でさまざまな事件にあたるというもの。
探偵役の那智が冷静かつ論理的、よい意味で感情に流されることなく、ワトスン役の三國も、頼りない面はあるが決して無能ではないため、暴かれる真相の暗さと相まって全体の雰囲気は密度が高く、きしむような重さに満ちる。
北森鴻はじめ中堅ミステリ作品に多い、関係者の感情の発露、怒りや嘆きの発露に事件の真相がぼやけてしまう、そういった場面がほとんど見受けられない。また、ワトスン役を安易に愚かしく描き、相対的に探偵を鋭利に描くことも避けられている。
これは、トリックやプロットそのものの出来不出来を分けて考えると、ミステリ作品の構成上、一つの(あくまで一つの)理想的なあり方ではないかと思う。

簡単にいえば、手堅く面白いのである。
ちなみに、民族学的な謎と事件の謎、この絡み具合は作品によって異なる。前者は前者として放置される場合もある。全体として、油断がならない。

「蓮丈那智フィールドファイル」は短篇集『凶笑面』、『触身仏』、『写楽・考』の3冊が発売され、作者の死後、その遺志を継いだ作者の婚約者である浅野里沙子が加筆、執筆した長編『邪馬台』、『天鬼越』の2冊が発行された。
いずれも新潮社からの発行だったが、このたび、なぜか、角川文庫から再刊されることになった。
事情はわからないが、このシリーズが書店店頭に再び平積みで並ぶのは本当に嬉しい。

ハードなミステリを好む方、どろどろした地縁系のミステリを好む方、またちょっと外側からだと、諸星大二郎の「妖怪ハンター」「稗田礼二郎のフィールド・ノートより」などを好まれる方、さらに泡坂妻夫の『乱れからくり』に登場する宇内舞子によろめく方、そんな方にはお薦めしたい。そうだな、ミクニ。

2023/10/09

Take it easy 『ザリガニの鳴くところ』 ディーリア・オーエンズ、友廣 純 訳 / 早川書房

Photo_20231009180901訳者あとがきが書かれた時点で、本書『ザリガニの鳴くところ』は《ニューヨーク・タイムズ》紙のベストセラー・リストに73週連続ランクインされていたらしい。日本語版の帯の惹句には「全世界1500万部突破のベストセラーが待望の映画化!」、日本でも2021年本屋大賞翻訳小説部門の第1位。
紙の本がなかなか売れない今節、たいへんけっこうなことだ。
ただ、それだけ売れに売れたとなると、眉に唾を付けてしまうのが烏丸の悪いクセ。

以下、ネタバレあり、酷評あり。それは困るという諸君はここでごきげんよう、さようなら。

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さて、『ザリガニの鳴くところ』の舞台はアメリカ、ノース・カロライナ州、海寄りの湿地。物語は、そこで6歳で家族に見捨てられた少女のその後の生活(1952年~)と、1969年に起こった青年の不審死をめぐる捜査、裁判のもようを交互に描いて進んでいく。

動物行動学者の著者はこれがはじめての小説だそうだが、読みやすさについてはきわめてテクニカル、大小の心に刺さるイベントを折り重ねながら少女の悲惨と夢と成長を描いて読み手をぐいぐいと次章に誘う。
また、ボートで行き来する湿地の朝夕の鮮やかな光景、大小の生き物の豊かな営みを背景に、本書は「恋愛小説」と「推理小説」、そして人種差別や貧しい白人層を描く「社会小説」、それぞれの貌をもって複層的な読み応えを提供する。

と、本書を上記のように読んで済ませる層に対しては、何も言わない。たとえばハリー・ポッターの物語の細かい矛盾点を指摘するのはそれほど難しくないが、それはおそらくハリー・ポッターの正しい、もとい、楽しい読み方ではない。

だが、それにしても。

まず本書を推理小説とみなすとなると、まじめに額に汗して犯人や探偵の活躍を編み上げんとする推理小説作家全員が気の毒になる。
アリバイもトリックも、それを審議する裁判も、いずれも、まあ、書いておいた──といったテイのもので、その部分だけ抜き出したら誰もそれを推理小説とは評価しないだろう。
(テレビのサスペンス劇場で、原作小説の伏線や推理を適当にはしょって進めた崖の上のドラマをたまに見かけるが、あれのほうがすいぶんマシ、と思えるレベル。)

次に、本書ではヒロインたる「湿地の少女」カイアが、湿地あるいは海岸の生き物を観察、収集し、のちにその優れた研究を評価されるに至る次第が描かれている。また、文中ところどころに登場する「詩」が物語のバックボーンの一つともなっている。
だが、カイアは、初等教育を受けていない。教会にも通っていない。いや、そもそも幼少時に家族に見捨てられて以来、読み書きを教えてくれた少年との短期間の付き合いを除けばほとんど誰とも会話を交わさず、わずかな本しか読んでいない。もちろん正統な絵画の技法も教わっていない。
考えてみよう、6歳を過ぎてほとんど他者との時間を持たず、教育も受けず、町中に出かけることもない一種のオオカミ少女が、編集者が即出版と判断するような原稿を書けるものかどうか。
ファンタジーとしても、あらゆる物書き、クリエイターに対して失礼な話ではないか。

些末な例だが、作中には、カイアが母の残した本の中からデュ・モーリアの『レベッカ』を読み、それを愛の物語と認識し、母のドレスを着こんで鏡の前でまわり、自分をダンスに誘うテイトの姿を想像するという場面がある(163ページ)。だが、「湿地の少女」はいかにしてドレスの身に着け方、ダンスパーティの誘われ方、等々を知ることができただろう。
これではまるで不良少年がある日ボールを握るや周囲を瞠目させるスーパーピッチャーに化ける(悪い意味での)マンガのようだ。

続いて、本書の恋愛小説としての局面を見ると、これはよくわからない。カイア、カイアに文字を教えたテイト、のちにカイアに近づいた村の裕福な家庭の子息チェイスを含め、どの人物も粗雑で、後先考えるフシがなく、実際ロクでもない。
それぞれのポジションからの「悲恋」はいずれも自業自得! で片付きそうだ。
率直に言うなら、本書に登場する人物のうち、共感が持てるのは、カイアの自活を助ける黒人夫婦、カイアを学校に招く無断欠席補導員、地道に捜査を進める保安官とその部下、判事、エビ漁師を務めるテイトの父、などなど、つまりはカイアやチェイスの真実を知らない者たちばかりなのだ。

・・・と、いちゃもんを並べてきたが、一つ、忘れてならないことは、現在も人種差別はさまざまなところで問題とされているが、ほんの50年ばかり前、本書が描いた60年代、70年当時には、現在とは比較にならないほど明確な差別が横行していたことだ。
本書でも、喜ばしいことが起こっても黒人と白人が抱き合って喜ぶなどということはあり得ない、裁判所の傍聴席も歴然と仕切られている、などがごく当たり前に描かれている。

「もし時代や場所が違えば、この、年老いた黒人の男と若い白人の女はきつく抱き合っていただろう。だが、この時代のこの場所では無理だった」(307ページ)
「二人がテイトとともに法廷に入り、一階の〝白人席〟に坐ったとき、人々は騒然となった」(404ページ)

もうすっかり忘れ去られているようだが、イタリアの映画監督ヤコペッティがアメリカの奴隷制度を描いた『ヤコペッティの残酷大陸』を公開したのが1971年、その作品中、暴動を起こした黒人の青年が手にしていたウィリアム・スタイロンの小説『ナット・ターナーの告白』の出版が1967年。

最後に、もう一つ難癖を。
タイトルの『ザリガニの鳴くところ』は原題では 'Where the Crawdads Sing' 。これは登場人物のテイトが口にした言葉で、湿地の生き物が自然のままに暮らすパラダイスのようなものと思われるが──それなら 'Sing' はそのまま「歌う」でよかったのではないか。

2023/07/06

並べ替えて見えてくること 『すり替えられた誘拐』 D・M・ディヴァイン、中村有希 訳 / 創元推理文庫

Photo_20230706180801 前回も同じことを書いたが、本好き大人のキュートなアイドル、『バーナード嬢曰く。』の第1巻には

  ディックが死んで30年だぞ!
  今更初訳される話がおもしろいワケないだろ!

という神林しおりの身もふたもない首ちょんぱ名言が待っている。

そうなのだ。

いかなディヴァインとはいえ、未訳の最後の1冊にいたって、あのはっと体をこわばらせるような意外性は味わうべきもない。
(ちなみにR・D・ウィングフィールドのフロスト警部シリーズは原作の発表順に翻訳されてきたので、上のディックの法則は適用されない。)

はっきり言って、『すり替えられた誘拐』の犯人は意外でもなんでもないし、動機や犯行手順が明かされてもそれほど「してやられた」感はない。
なにしろ巻頭の「登場人物」の一覧に順に線を引いていけば、残る一人が犯人なのだ。

それどころか、

  彼の顔を見た瞬間、バーバラは悟った。わたし、死ぬんだ。

という実に思わせぶりな一節(102ページ)の説明は最後までなされないし、ついでにいえば137ページの

  確信したのだ──理由はわからないが──バーバラはすでに死んでいる、と。

も、雰囲気だけでとくに意味はない。

要は、ディヴァインにしてはその犯行から発覚までのこまごまが妙にゆるい。
単に犯人あてという視点で見れば、初期に翻訳された作品群のほうが格段に面白い。

・・・待て待て。「初期に翻訳された」とはどういうことか。

少しうるさいが、ディヴァインの全長編について、原作発表年、そして発行元の事業清算に伴い惜しくも廃刊となった現代教養文庫版、そして創元推理文庫版、それぞれの翻訳発刊年を順に掲げてみた。

 【原作発表年】

  1961年 『兄の殺人者』
  1962年 『そして医師も死す』
  1964年 『ロイストン事件』
  1965年 『こわされた少年』
  1966年 『悪魔はすぐそこに』
  1967年 『五番目のコード』
  1968年 『運命の証人』
  1969年 『すり替えられた誘拐』
  1970年 『紙片は告発する』
  1971年 『災厄の紳士』
  1972年 『三本の緑の小壜』
  1973年 『跡形なく沈む』
  1981年 『ウォリス家の殺人』

 【現代教養文庫 発行年】

  1994年 『兄の殺人者』
  1994年 『五番目のコード』
  1995年 『ロイストン事件
  1996年 『こわされた少年』

 【創元推理文庫 発行年】

  2007年 『悪魔はすぐそこに』
  2008年 『ウォリス家の殺人』
  2009年 『災厄の紳士』
  2010年 『兄の殺人者』
  2011年 『五番目のコード』
  2011年 『三本の緑の小壜』
  2013年 『跡形なく沈む
  2015年 『そして医師も死す』
  2017年 『紙片は告発する
  2021年 『運命の証人』
  2023年 『すり替えられた誘拐』
  未刊 『ロイストン事件』
  未刊 『こわされた少年』

驚いたことに、本邦でディヴァイン人気を決定的にした『ウォリス家の殺人』は、作者の死後に発刊された最後の長編、まさに白鳥の歌だった。

逆に、創元推理文庫版でややダレを感じさせられた『三本の緑の小壜』、『跡形なく沈む』、『そして医師も死す』、『紙片は告発する』、『運命の証人』の各作品は、初期の作品であったり、後期の作品であったり、とくに発表時期に脈絡はない。
これはいったい?

感覚的な結論だけ書いてしまうと、(書いてしまうと実に薄っぺらになってしまうのだが)結局、ディヴァインにとって、犯人あては創作において必ずしも一番の目的ではなかった、ということだ。

では、ディヴァインの創作の目的とは何か。
『すり替えられた誘拐』巻末の解説において、小説家 阿津川辰海氏はディヴァインの一連の作品を「犯罪小説」とみなす論陣を張っている。なるほどそうだな、とも思われるが、何か大きく足りないような気もする。何が足りないのだろう?

ディヴァインを「犯罪小説家」とみなし、たとえば『すり替えられた誘拐』に犯人あてより犯行の動機を読む・・・これはあくまで犯人、あるいはせいぜい被害者の側を注目する、そんな読み方にすぎない。
ディヴァインも13冊めともなると、それはもう・・・違う。

ディヴァインが書きたかったのは、欲望やプライドのままに殺人を犯してしまう犯人の側ではなく、その事件の前後、周辺で鬱屈をかかえ、自分の人生を正面から見すえることのできなくなった主人公、その人だったのではないか。
その主人公が犯罪にまきこまれ、あるときは大切な人をなくし、あるときは信じた人の裏切りを知り、自信や名誉、仕事を失い、逃げ出すこともできずにやむなく犯行の真相を明らかにしていく──よしんばその真相がさらに彼自身を苦しめることになったとしても。

そして、その状況下において、犯人が誰か、犯行の動機が何か、なかなか明らかにできなければできないほど主人公の苦悩は深まる。だから、作者の提示する犯人あては難しくなる。
逆にその状況を描くにおいて、ほかの要素で十分であるなら、犯人あては必ずしも難しくある必要はない。動機の究明についても同じことだ。

ディヴァインの描く殺人は、犯人の罪である以上に、主人公にとって茨の冠なのだ。そして、事件の真相を明らかにすることによって彼自身が再生する、ないし再生のチャンスを得る、それこそがディヴァイン作品の目指す作品のありようなのではないか。
だからこそ13作の長編において、名探偵は決して登場しない。

『すり替えられた誘拐』という作品を評するにおいて、その是非は犯人あての容易さ/困難さではなく、とくに前半、大学関係者の誰しもが苦いものをかかえた描写(まさにディヴァイン節)にあるだろう。
逆に、本作について今ひとつと感じる理由があるとするなら、それは主人公の苦難と蘇生がバーバラ殺しとそう深くかかわっていない、そのことにあるに違いない。

2023/06/15

短評 『LIVE 警察庁特捜地域潜入班・成瀬清花』 内藤 了 / 角川ホラー文庫

Photo_20230615165501 「警察庁特捜地域潜入班・成瀬清花」は、内藤了の角川ホラー文庫作品としては

  「猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子」(スピンオフ含め14冊)
  「東京駅おもてうら交番・堀北恵平」(8冊)

に続く、女性警察官を主人公とするシリーズの3作目(「恵平(けっぺい)」はらしからぬ名前だが、やはり女性)。
現在、「FIND」「LIVE」の2巻刊行済み。

猟奇事件の得意な作者らしく、本シリーズも「村落で発生した児童連続神隠し事件」(FIND)、「火災現場の土蔵に保管されていた14体の等身大の花嫁人形」(LIVE)と尋常ならざる事件・現象を起点とはしているが、いかんせん猟奇、ホラーの色合いは薄く、「角川ホラー文庫でなぜこんな、働く女性にとっての家庭、子育ての苦難ばかりを読まされているのだろう?」という気分がぬぐえない。そういうのはより反響がアクティブなSNSでやってくれ。

おまけに1冊め(FIND)では組織のはみ出し者で構成された新設部署は「過去の未解決事件から連続性と関連性を持つと思しき案件を見つけて背景を調べ、犯罪を未然に防ぐことを旨とする」「部署としてのノルマはないし、所轄と連携を取って、部署としては逮捕も送検もしない」はずが、2冊め(LIVE)ではそう語った元上司の指示に従って起こったばかりの火災現場に向かい、リアルタイムに事件と対峙している。
キャンピングカーを基地として現場に向かい、警官としてでなく叔父・姪を名乗って地元の人々と親しみ、と「地域潜入」の肩書は守っているが、なんとなく主人公や部署の立ち位置が迷走している印象は否めない。

というわけで、新シリーズのヒロイン成瀬清花には申し訳ないが、再度「猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子」シリーズの、それも初期の数冊を強く推しておきたい。
なにしろカバーの裏表紙の内容紹介を見ただけで、

奇妙で凄惨な自死事件が続いた。被害者たちは、かつて自分が行った殺人と同じ手口で命を絶っていく」(ON)
廃屋で見つかった5人の女性の死体。そのどれもが身体の一部を切り取られ、激しく損壊していた」(CUT)
都内の霊園で、腐乱自殺死体が爆発するという事件が起こる」(AID)
正月の秋葉原で見つかった不可思議な死体。不自然に重たいその体内には、大量の小銭や紙幣が詰め込まれていた」(LEAK)」
複数の幼児の遺体がバラバラにされ、動物の死骸とともに遺棄されていることが分かる」(ZERO)

なのである(当然ながら各巻作中の死体の扱いはこんな穏やかなモノではない)。

読まないでどうする。

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