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カテゴリー「ホラー・怪奇・ファンタジー」の138件の記事

2017/12/09

アーキテクチャ 『お引っ越し』 真梨幸子 / 角川文庫

Photo(2011年の『ユリゴコロ』以来新刊のない沼田まほかるの印象が強いせいもあるのだろうが)いわゆる「イヤミス」のブームは過ぎ去ったように思われてならない。

実際は湊かなえ真梨幸子らの本は変わらず平積みで売れているようだが、それらをわざわざ「イヤミス」(読んでイヤな気分になるミステリ、後味の悪いミステリ)とまとめる必要が今となっては感じられないのだ。

では「イヤミス」ブームのピークはいつ頃だったか、というと、これは売り上げや批評を定量的に調べたわけでもない、ただの憶測だが、2011年からそのあと数年、つまり東日本大震災のあとしばらく、だったように思う。
何万という方が津波で亡くなり、原発事故にともなう不安、経済の停滞が続くなか、なにもわざわざイヤな気分になる本を──とも思うが、実際、当時の書店は「イヤミス」で溢れていた。

こういう考え方はどうだろう。株式投資に「ナンピン」という手法がある。ある株を買って値下がりしたとき、わざとその株を買い増すのである。たとえば1000円の株を100株持っていたとして、それが100円下がって900円になったとき、100株買い増せば手元の株の下がり分は100円から50円となる。株価が50円上がれば元値に戻るのである。

東日本大震災でさまざまなダメージを受けた私たちは、無意識のうちに手元の本にもイヤなものを求め、己の人生全体におけるトータルダメージを和らげようとしたのではないか……? 
もちろんこんな推測を組み立てたところでなんの役に立つわけでもないのだが。

真梨幸子の『お引っ越し』は、マンション探しや社内の部署移動、怪しい隣人、引っ越し業者の電話番など、引っ越しにかかわるさまざまなトラブルを扱ったホラー集である。各編数十ページ、全体で270ページに満たない薄い本だが、伏線が互いの作品に通底し、ある作品の曖昧な結末を他の作品が補完し、作者本人によると思われるゴージャスな「解説」あいまって全体にテクニカルな印象が強い。妙な言い方かもしれないが読了後に意外なほど「お得感」があった。
従来「イヤミス」という言葉で括られてきた真梨幸子だが、本来、技巧派と評すべき作家なのではないか。

ちなみに巻末に「作品はすべてフィクションです」の類の断り書きがあるが、編集者の手によるものか、最後の1文は余計だった。それとも今どきはこんな断り書きが必要なほどヘンな読者が多いのだろうか。

2017/09/12

『山怪 山人が語る不思議な話』 田中康弘 / 山と渓谷社

Photo(『山の霊異記 赤いヤッケの男』の帯の献辞つながりから、田中康弘の本を1冊──)

『山の霊異記』シリーズが主に登山の対象となるような「深山」を舞台にした怪談集であるのに対し、田中康弘の『山怪』シリーズは概ね樵や漁師が働くところの「里山」を舞台にした伝承、伝説集である。

……と、遠回しな書き方をしたが、要は山里で人が行方不明になったり怪しい光が飛び交ったりしても、たいてい狸や狐のせいにされて終わるので、現代の感覚からすればまったく怖くないのだ。ツチノコがぴょんぴょん跳ねて側溝に逃げ込む話を聞いても、普通、怖いとは思わないでしょう。

では帯の惹句にある「現代版遠野物語」との評価はどうかと言えば、個人的にはそうは思えなかった。
地域や語り手を絞るわけでもなく、ただ漫然と「山場のヘンな体験」を搔き集めた印象。夢や酒のせいと思われるものを端折るのはもちろん、柳田國男から100年は経っているのだ、科学で説明のつく現象は説明を尽くすのが勤めというものだろう。

山の中で聞こえるはずのない太鼓やチェーンソーの音が聞こえる、といった話が幾度か出てくる。これはたとえば野生化したインコやオウムの類ではないか。
(実際、ときどき不気味な声が聞こえるが、それは鳥の鳴き声だろうと語り手が推察して終わってしまう話もある。)

山道の風景が左右反転して見えた、という話がある。失読症(ディスレクシア)の一種に文字が左右反転して読めなくなるというものがあるらしい。その類の一時的な神経症でもあろうか。

などなど、暇つぶしにパラパラ読む分にはともかく、とくに驚くところのなさそうな本ではあるが、話題になる程度には売れたらしい。山渓の名が日頃怪談本など見向きもしない読者層を掘り起こしたなら、それはそれで悪い話ではない。

2017/09/08

『山の霊異記 幻惑の尾根』『山の霊異記 赤いヤッケの男』(角川文庫)、『山の霊異記 黒い遭難碑』(MF文庫ダ・ヴィンチ) / 安曇潤平

Photo安曇潤平の山岳怪談は怖い。なぜこんなにも怖いのか、三項に分けて考えてみた。

(1) 怪談として

安曇潤平の文章は主体が変幻自在で、あたかも本人が実際に山で怪異を経験したかのような書き方、親しい登山家から聞かされたという書き方、主体が誰とも限定されない書き方(ときに「私」が女性であることも)など、この手の怪談短篇集としてはバリエーションが豊富だ。

つまり、いわゆる「実話の聞き起こし」にこだわらず、怪談としての読み応えさえあれば実話でも創作でもよし、とのスタンスらしい。
その結果、内容は、山で死んだ者の霊が現れる心霊モノ(不気味なものから友情や親子愛を描いた心温まる作品まで)、説明のつかないグロテスクな妖異譚など、さまざまで、「実話」にこだわらないぶん恐怖を煽るモノの描写に手加減がない。

(2) 山の道

個人的な感想だが、高所恐怖症の読み手にとっては、描かれた山の道そのものが怖い。

  三人は道を外れ、その吊り橋を途中まで渡ってみた。心もとない鉄鎖で吊られた橋が不安定に揺れる。
   (『幻惑の尾根』、「隧道」より)

  岩壁の側面から突き出た狭い廊下状の道が水平に続いている。道の幅は一メートル程度だ。左側はそのまま深い谷に切れ落ちている。
   (『赤いヤッケの男』、「ザクロ」より)

  トレースを外して足をついた途端、凍結した斜面に乗ってしまい、ザックを枕に五メートル近く一気に滑った。
   (『赤いヤッケの男』、「銀のライター」より)

  歩みを進めるうちに登山道は完全に岩になり「剣渡り」と呼ばれる、両側が切れ落ちた細い道に差しかかりました。
   (『赤いヤッケの男』、「霧の梯子」より)

など、ともかく道はやたら「切れ落ち」、足元は踏み外すと滑落する「ガレ場(岩が堆積した道)」なのである。
そんな道を想像するだけで怖ろしいのに、さらに(高い所が苦手な方にはおわかりいただけると思うが)平地に戻るためには後でまたその場所を通らなくてはならない。これが怖くなくて、なんだろう。

(3) 逃げ場がない

そして、安曇怪談の真骨頂がここにある。怪異からの「逃げ場」がない、のだ。

あまた排出される「実話怪談」には鳥肌が立つほど怖いものもあるが、その大半において語り手は怪異から逃げることに成功している。友人宅に走る、コンビニに逃げる、引っ越す、田舎に帰る。聞き取り手が巻き込まれてもせいぜいパソコンが壊れるくらいで、実話怪談の著者が呪われて死んだ、行方不明になったという話は(あまり)耳にしない。

ところが、山では、そうはいかない。
片側が谷に切れ落ちた道で向こうから怪しいモノが近づいてきたら? 見知らぬ男に山道をいつまでも追われたら? 霧で身動きできないところで聞こえるはずのない声が聞こえたら? ようやく設営したテント(もちろん夜の登山道を歩くことなどできない)を誰かが外から押してきたら?

そう思って振り返ると、安曇怪談の多くは、その尾根、山道を下りきればそこで妖異から逃げおおせることに気がつく。あくまで妖異は山にあるのだ。
……いや、もちろんあの話の怖いモノやあの話のエグいモノを平地まで持ち帰られても、それはそれで困るのだけれども。

2017/08/31

『夜行』 森見登美彦 / 小学館

Photo_2太陽の塔』や『夜は短し歩けよ乙女』では浮世離れした天然ヒロインと彼女を追い回しつつプライドだけ高い冴えない先輩男子の言行についつい苦笑い、『きつねのはなし』では一転、首筋に冷たい刃を押し当てられる思いに震え、などなどなど、そんなファンにとって森見登美彦の作品の酷評など読みたくないに違いない(カラスだって何もわざわざそんなものを読みたくはない)。
であるからして、森見ファンを自認される方にはこれ以降読むことをお奨めしない。ブラウザを閉じるかYahoo!ニュースでもご覧ください。

さて、『夜行』の帯にはご丁寧にも表紙と背表紙の2か所に「10年目の集大成!」とある。もちろん作家本人でなく、編集者の手による煽り文言だろうが、これが集大成だとするといろいろマズいのではないか。

内容は第一夜「尾道」から「奥飛騨」「津軽」「天竜峡」そして最終夜「鞍馬」まで全5章、それぞれ異なる登場人物が訪ねた先の地名を冠したホラーというか人間失踪を描いた短篇集となっている。
構造は非常に凝っていて、実はそれがよろしくない。各章の語り手は10年前、鞍馬の火祭りに集った青年たち、その夜行方不明になった若い女性、そこに死んだ銅版画家の残した「夜行」という連作が各章にかかわってくる。

第一夜「尾道」は、単独のホラー短篇として読めばそう悪くない。失踪した妻を追う語り手の、悪夢の中にいるようなもどかしさ、訪ねた先の家の奇態さ。ところがその幕閉めがあまりにもありきたりで拍子抜け、おまけにこれではどうにも次章につながらない。

それ以降、この連作集にはキーとなる建物がいくつか登場する。同じ建物のつもりかそうでないのか判然としないのだが、「尾道」の家を除くと、いずれも書き手が期待するほどにはそこに異界が感じられない。というか、ほとんど描写がない。
それなのに、登場人物に何度も「いやな感じがする」と語らせるのはどうだろう。禍々しいならそう描くのが作家の腕だろう。仕事、と言ってもよい。

もう一点、「尾道」がほかの章よりマシに思えるのは、ここではまだ坂の多い尾道という土地を描く努力がなされているためで、「天竜峡」では飯田線の電車の中でのやり取りが描かれるばかり、「鞍馬」でもそこに至る行程しか描かれていないに等しい。

銅版画家や行方不明になった女性は怪異に翻弄された側なのか、ただ少しエキセントリックなだけなのか。万事曖昧で、厳しく言えば適当である。
何人かの登場人物が口にする「世界はつねに夜なんだよ」「世界はつねに夜なのよ」とのセリフも大仰なばかりで、世界を特定するキーワードたり得ない。ちなみに帯に大きく書かれた「彼女はまだ、あの夜の中にいる」は正確ではない。

『夜は短し歩けよ乙女』のヒロインのほうがよほど夜に属していた、と今は懐かしく思う。

2017/06/30

〔短評〕 『ドラゴン・ヴォランの部屋 レ・ファニュ傑作選』 J・S・レ・ファニュ、千葉康樹 訳 / 創元推理文庫

Photoレ・ファニュの貴重な中・短篇集。

とはいえ、
  ロバート・アーダ卿の運命
  ティローン州のある名家の物語
  ウルトー・ド・レイシー
  ローラ・シルヴァー・ベル
の怪奇短篇4作については、「怪」が「妖美」の庭に踏み入ってかつ静謐な『吸血鬼カーミラ』や傑作と名高い短篇「緑茶」と同じ作者によるものと思えないほどありきたりな印象。
逆にいえば19世紀半ば、すでにのちのホラーのさまざまなパターンを自家薬籠中の物としていたレ・ファニュこそはプロフェッショナルなエンターテイナーだったのかもしれない。

なお「ティローン州のある名家の物語」(1839年)はシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』(1847年)のネタ元だったと目される作品。確かにトラブルの鍵となる人物の設定はかなり似ている──作風や主人公の描き方はまるで異なっているが。

巻末の表題作
  ドラゴン・ヴォランの部屋
は、カーミラの作者による中篇、と身を乗り出すとがっかりするが、肩の力を抜いて、ロマンを求めてパリを訪れたイギリス人青年の冒険を皮肉たっぷりに描いた犯罪小説と読めば痛快。
千葉氏の翻訳は平井呈一に比べれば古雅風趣では劣るものの、こと本作においては展開の疾走感に見合って読みやすい。

2017/06/17

『恐怖の百物語 第1弾』 関西テレビ放送 編著 / 二見レインボー文庫

Photo1991年4月から9月まで関西テレビ放送で制作・放映されたテレビ番組『恐怖の百物語』を活字化したもの(の改装・改訂新版)。

「はじめに」に「よけいな演出や、テレビお得意のおざなりな分析や解説をいっさい排除して、体験者の実話をただ淡々と聞くだけの番組はつくれないものか──」とあり、木原浩勝・中山市朗両氏による『新・耳・袋 - あなたの隣の怖い話』が1990年の発行だったことを考えると、実話怪談系のかなり早い時期の成果、かつ、のちの実話怪談集や都市伝説群の契機となった怪談集、と考えることができる。
そして、その内容は初期ゆえにみずみずしい恐怖に溢れ、ネタ詰まりからひねった奇譚(=怪談といいつつ怖くない)の多い昨今の実話怪談集に比べ、プリミティブな恐怖に特化した読み応えあるものとなっているように思われる。……ぐねぐね論評しているが、早い話がとてもコワイ。

ただ、「体験者の実話」を謳うなら、それはどうか、と気になる点があった。

本書にはテレビ番組で取り上げた体験談のうち29話がピックアップされている。
本来、29人が怪異に会い、それを語ったなら、その怪異のありようはもちろん、体験者の感じ方も、それぞれ色合いが異なるはずである。

ところが、全六章のうち、第一章「ドライバーを襲う悪霊たち」に取り上げられた5話では、

1). その白い冷たそうな手が、私の坐っている助手席のウィンドウに触れたとたん、私には車全体が冷気で急激に凍りついたような気がして、
2). その一言で、私は全身にサーッと鳥肌を立て、背筋がゾーッと寒くなりました。
3). なんの脈絡もなく、僕の心のなかに〝やばいぞ!〟という叫びが起こったのです。同時に、全身にサーッと悪寒が走りました。
4). (目のあるべき部分に目のない子供たちに見つめられて)全身の血がサーッと凍りついたようになった私は、
5). つぎの瞬間には、冷水を浴びせられたように全身が震えあがっていました。

続く第二章「世にも恐ろしい幽霊屋敷」の5話でも

6). (ドアノックを手にした)瞬間、まるで氷に触れたような冷たさが、指先から全身に走ります。
7). (洋館の玄関に機材を運び入れたとたん)不思議なことに、私の全身をサーッと悪寒が走り抜けました。
8). (引っ越した部屋で)身体全体に寒気が走って、冷たい風が駆け抜けていったのです。
9). 心なしか、あたりの空気は妙に冷たくよどんでいるように感じられました。
10). 朽ちかけた洋館をあおぎ見た瞬間、なぜか私は、心の奥底まで凍りつくような悪寒を感じたのです。

と、ここまで表記こそ違えどいずれの怪談にも「冷気」「悪寒」「寒気」が語られている。
ほかにも、

18). (部室の戸を開けた瞬間)真夏だというのに、ものすごく冷たい空気のかたまりが「ブワーッ!」と流れ出してきたのです。
21). (怪談の戸のほうに進むと)その瞬間、ブワーッ!という、ものすごい勢いの、しかも、なにやら背筋の凍るような冷たくて生ぐさい風を全身に受けて、

など、実は全29話のうち24話でこういった「冷気」「悪寒」「寒気」が恐怖を煽っているのである(例外のうちの1話も、雪山での遭難にまつわる話なので「悪寒」が話題にならなかっただけかもしれない)。

恐怖を煽る表現がこれだけ偏ると、制作担当者によるリライトの傾向、だけとは判断しづらい。実際に体験者がいたのではなく、漠然とした噂をリライトしたのではないか──いや、最悪、制作担当者の創作の可能性まで勘繰らざるを得ない。怪奇小説なら創作はほめられこそすれ、「実話怪談」における創作はいわば怪異の捏造である。
少なくとも読み手に余計な斟酌をさせるくらいなら、これほどまでに「冷気」「悪寒」「寒気」にこだわらず、もっと表現のバリエーションを工夫すべきだった。

──と言いながら、最後にまったく相反することを書くが、「冷気」「悪寒」「寒気」が繰り返される本書を風呂で読んだところ、いくら追い炊きしてもいっこうにいつもの汗にならず、湯船は冷え冷えとしたまま。本を置いて頭を洗うときも背後に誰かいるようで、文字通り寒気が去らなかった。
夏の暑い盛りに怪談、とはきっとこういう効能を言うのだろう。その限りでは「怪談」として良書であるようにも思う。

2017/05/22

悪いキジムナーがいっぱいいる 『沖縄の怖い話 メーヌカーの祟り』『沖縄の怖い話 <弐> 壊せない場所』 小原 猛 / TO文庫

Photo書店に溢れる実話系怪談集にさすがに少し飽いたこともあって、この著者の本は未読だった。
もったいないことをした。
実に面白い。

祖先を神と崇め、一族の大きな墓を作る沖縄独特の宗教観。集落のシャーマンのような存在である「ユタ」、祭祀を司る場所「ウタキ(御獄)」、そのウタキにあって神様を拝む場所「拝所」もしくは「ウガンジュ」。ウタキは神聖な場所としてみだりに入ったり壊したりしてはいけない。その他、人に神が憑いておかしな言動をとる「神ダーリ(神がかり)」、妖怪にあたる「マジムン」「キジムナー」「ハダカヌユー」などの耳慣れないカタカナ言葉があれこれ飛び交い、たとえば物語はうかつに踏み入るべきでないウタキを侵した若者が神ダーリに陥り、途方に暮れた家族がユタを招いてウガンジュで拝んでもらったところ、マブイ(魂)を落としていると言われ──といった具合に展開する。

だが、必ずしも知らない言葉が多いからわかりにくい、わけではない。
たとえば
  「その拝所まで行き、三人でウートートゥーした」
とあれば、「三人で拝んだ」などよりよほど状況が目に浮かぶ。
そもそも、日本は八百万神(やおよろずのかみ)の国である。一神教のキリスト教などより一つの森、一本の木に神や妖怪の住まう沖縄の文化のほうがよほどなじむ。
その沖縄の怪異が
  「お母さんじゃないば?」
  「知らない女の人さー」
とか
  「ひゃあ! 島袋さんよ! 死んでるはずさ!」
とか
  「ええ、恵さんよ。でーじさ。どこからか?」
といった調子で書かれるのだからたまらない。

一つひとつの話は、怪談としてとくに怖いかというと、そういうわけではない。
雰囲気が南の島というか、陰湿でないこと、ユタに飄々とした人物が少なくないなど、全体に呑気で明るいトーンなのだ。しかし、実のところ、語り手が怪異を見聞きするだけの実話怪談の多くに比べ、関係者本人やその家族が実害を被る怪異が少なくない。また、日本兵や米兵のユーリ(幽霊)など、沖縄ならではの暗い事象もある。それなのに、なお全体に明るい印象なのはなぜかといえば、おそらくそれぞれの事情を語る人々の背景に沖縄ならではの信仰があり、その因果応報の中で回避できることはできる、できないことはできない、という──諦観ともまた少し異なる──一種のリアリズムのようなスタンスがあって、「これだけひどい原因があったなら、この家の者が皆死んでも仕方ないさー」みたいなことになるわけである。

ふと、先だってBS放送で見た、ピンク・フロイドの初期メンバー、シド・バレットのドキュメンタリーを思い出した。
彼は先進的なセンスに溢れた曲作りで話題になるも、ドラッグと、おそらくそれから誘発された統合失調症でミュージシャンとして次第に常軌を逸していき、やがてバンドをクビになり、ソロアルバムを数枚残してロックシーンから消えていく。
もし当時、シドが沖縄にいたら、どうだったろう? 『沖縄の怖い話』では、ユタが幽霊や妖怪の類に対処しようとしても、それが米兵がらみのものだと「言葉が通じないから手に負えない」ということになる例がいくつかある。
それでも、もし、力のあるユタの誰かがシドの頭に手を置いて祈り、シャコガイを組み合わせたお守りを作って「これに一ヶ月間、毎日水を入れて、その中に何でもいいからお花を一つ、毎日浮かべてあげて」と渡していたなら。

勢いで竹書房文庫『琉球奇譚 キリキザワイの怪』も読んでみた。
同じ著者の手によるものだが、こちらはTO文庫版に比べると今一つよろしくない。
著者が気を遣ったのか、編集者が几帳面なのか、どうも文体や怪異に竹書房の他の実話怪談に足並みそろえた味があり、そうなると『沖縄の怖い話』ならではのテーゲーな魅力に欠けるのだ。

2017/03/16

エロ以外なんでもあり 『猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子』シリーズ(現在7巻まで) 内藤 了 / 角川ホラー文庫

Photoヒロイン藤堂比奈子は八王子西署刑事組織犯罪対策課の新人刑事。長野出身。亡くなった母から渡された八幡屋礒五郎の七味缶をお守りに持ち歩き、ピンチになると七味を口にして「か、辛い」と声を上げる。特技は事件のあらましや関係者のやり取りをイラストで描く事で詳細に記憶すること。先輩課員や鑑識官たちに励まされ、からかわれつつ、一人前の捜査官として経験を踏んでいく……。

それのどこがホラー文庫なんだ、と首を傾げそうになるほのぼのほんわか設定である。空き家探検に探偵気取りの子供たちと協力する、事件で知り合ったおばあちゃんの太鼓焼きを課への差し入れに毎度買い求める、などなど、随所に昭和テイスト、人情味が溢れる。

──ところがぎっちょん首チョンパ、事件現場がエグい。

1冊め、『ON 猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子』では、殺人犯たちの自殺の仕方がエグい。心臓を三度刺す、とか、自分で○○を●●に突っ込む、とか。ことの真相も、なかなかくる。
2冊め、『CUT 猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子』では古い洋館に散らばる着飾った腐乱死体がどれもこれもステキステキ。アメリカの連続殺人鬼やトマス・ハリス『羊たちの沈黙』に影響受けてのものだと見当はつくが、それでもここまで大胆に描かれると食事中には読めない。

マスターピースは上記2冊。
以降はシリーズものの常としてだんだんダレてはくるが、

3冊め、『AID 猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子』も被害者の死体に漂う腐乱臭がページから溢れてこもる。
4冊め、『LEAK 猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子』、殺し方がエグい。生きている被害者の口から貨幣、紙幣を一気に流し込む。解剖中に気をつけないと胃が破れるほどに。
5冊め、『ZERO 猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子』、さすがに少々のことでは驚かなくなるが、脱獄して再登場の連続殺人鬼の挙動がヒリヒリ神経を刺す。

これらの猟奇的場面について、既存のサイコサスペンスの亜流と指摘する声もあるかもしれない。本格推理やサスペンスを求める向きには人情噺が余計だろうし、駆け出し刑事の頑張り物語を期待する読み手にはグロがいささか過ぎるに違いない。警察組織や捜査に関して現実に即していないという指摘もあるだろう(「東大法医学部教授の検死官」なる肩書は眩暈を誘うし、警察関係の施設として人道的に、いやそれ以前にちょっとあり得ないものが出てきたりする)。

それでも、とくに1作め、2作めの死体へのサイケな扱い、それをめぐる物語の推進力は半端なく魅力的だ。テレビ朝日「相棒」などにもときに死体は出てくるが、地上波ゆえか、出来てまだ半日程度の生ものか、逆にとうに白骨化していて、要するに腐敗や臭いについては描写に乏しい。本シリーズはそこにこだわるのである。

対策課の課員それぞれの個性が明らかになってくる3冊めあたりからはチーム色が強まり、個人的には少々うんざりしてしまうのだが、それでも読んで楽しいことに変わりはない。
インターネットで探せば本物の死体だろうが殺人の現場だろうが造作なく見られるようになった時代だが、それでも思わず身を引く猟奇性、さくっとオススメである(誰に?)。

2017/02/23

『血と薔薇の誘う夜に 吸血鬼ホラー傑作選』 東 雅夫 編 / 角川ホラー文庫

Photo角川ホラー文庫から出ている東雅夫のアンソロジーには『闇夜に怪を語れば 百物語ホラー傑作選』、『黒髪に恨みは深く 髪の毛ホラー傑作選』などがあるが、この吸血鬼ホラーを蒐集した『血と薔薇の誘う夜に』については発刊された当時──もうひと昔前に──読み逃して、それきりになっていた(はっきり言って東雅夫アンソロジーは、そのボリュームと出来頻度のため、追いかけるのが大変なのである)。
先だって、神田の古書店で見つけてようやく読了した次第。

収録作は、三島由起夫・須永朝彦・中井英夫・倉橋由美子・種村季弘・夢枕獏・梶尾真治・新井素子・菊地秀行・赤川次郎・江戸川乱歩・柴田錬三郎・中河与一・城昌幸・松居松葉・百目鬼恭三郎という古豪から中堅まで、十六人十六様の短篇小説、翻訳、考察等々。
純文学からSFまで幅広く材を求め、恐怖、エログロ、ユーモアと様々な味を並べ立ててホラーアンソロジスト東雅夫の面目躍如といえる。

しかし、逆に、東の手腕をもってしても、「吸血鬼」というテーマはホラーアンソロジーとしては今ひとつなものにならざるを得ない、という問題もまた浮かび上がる。

吸血鬼(Vampire)を描く作業はブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』でひとたびその様式を極め、ヘビメタミュージシャンがスパイク付きレザーリングを手首にはめるように、その姿かたち、食生活、ファッション、死に方にいたるまでこと細かなパターン化が進んでしまった。
首筋から血を吸われることで自身も吸血鬼に変じ、十字架と日光とニンニクに弱く、昼間は棺桶に眠り、ときには蝙蝠に化けて神出鬼没、胸に杭を打たれるまで永遠に死なない。そんなお約束通りの吸血鬼を描いた作品はむしろペーソス溢れるパロディと化し(夢枕獏、新井素子など)、逆に独自な悪と闇を描いた三島由起夫、柴田錬三郎、中河与一、城昌幸らの作品はおそらく「吸血鬼」という言葉を使わなくとも高度な恐怖小説として成立するのだ。
つまり、吸血鬼を描いたホラー作品は、元祖・本家「吸血鬼」の血脈に近ければ近いほど怖くない、という困ったことになってしまっているのである。
血を吸う日本の鬼を古典から見繕った百目鬼恭三郎の最後の1行、「吸血鬼に限らず妖怪はすべて本来あいまいな存在であるにちがいない」を借りるなら、ストーカー以降の吸血鬼はあまりにあいまいさを喪ってしまったのだ。

おまけ:
吸血鬼を描いたマンガは少なくないが、狙われた美女、美少年の首に2つ並んだ噛み傷、よく考えるとあれは少々おかしい。犬歯で噛んだなら噛み傷の間はもっと間が空きそうなものだし、下顎側の歯の後がないのも不思議である。そもそも首筋を狙うのが新鮮な血液を求めるためだったなら、頸動脈を破れば大変な出血に見舞われるはずで、要は噛む場所などどこでもよいのである。

2017/02/22

『怪談狩り 市朗百物語』 中山市朗 / 角川ホラー文庫

Photo新耳袋 現代百物語』を編んだ著者の片翼、中山市朗による実話怪談集。最近、続編にあたる『怪談狩り 市朗百物語 赤い顔』も文庫化された。
しかし、無骨な言い方をするなら長年のうちにネタが尽きたのか、それとも読み手がスレてしまったのか、はっきり言ってそう怖くはないし、全体にどこかで見た、聞いたような話が多い。

……とかいった評価はさておき、1冊目の『怪談狩り』以来、気になっていたことを書いておきたい。

『怪談狩り』の文庫版(添付画像)の帯には

  “わからない”事は恐い。
  “わかろうとする”から恐い。
  ただ“感じる”を受け入れればいい。
  えっ!? やっぱり怖い?

という小堺一機のコメントが寄せられている。
少しひっかかりを感じながら本文を読んで、しばらくしてその理由に思い至った。

こうした実話怪談については、おおむね、その謎は“わからない”ものとされる。ある家で怪しい現象が相次ぎ、実はその家でかつて首を吊った者があった、という因果関係が明らかになったとしても、怪異そのものが説明できるわけではない。
だが、現象そのものが現在の科学で説明つかなくとも、一つひとつの経緯の中での辻褄はあっているべきではないだろうか。

たとえば、月の峠道をバイクで走っていて、路上に映った影を見たら、荷台の上に上半身だけの人のようなものがいる。驚いてブレーキをかけた途端、前後のタイヤが縦に真っ二つに裂け、バイクは横転。ただ運転者は大きな怪我もなく無事だった、という短い話(第七十四話「峠道」)。

一読、うすら寒い怖さがある。……が、少し考えると、微妙に折り合いがつかない。
バイクの荷台に現れた怪異(重さや影だけで、姿が明らかでないのが怖さをいや増している)は、前後のタイヤを裂くほどの物理的な遂行能力を持っているのである。それなのに運転者はたいした怪我をしていない。まるで狐か狸のいたずらだ。悪意のおさまりが悪い。

やはり峠道の話。あるトンネルの前で若い女をバイクに乗せると、やがて忽然と姿を消すという噂がある。語り手が似たシチュエーションになり、女性をバイクに乗せ、「これでは噂通りだ」と考えると、耳元で「そうでしょ」と声がして、腰にまわした腕の感触だけ残して女性は消える(第九十七話「噂の通り」)。

この若い女性が霊的な存在であるとして、それなら人の心は読めるのか。生きた人間とコミュニケーションを交わすためには最低でも網膜や内耳や声帯といった器官が必要だが、そのあたりの仕組みはどうなっているのか。

逆に、妙な説得力に充ちた話もある。

踏切り事故で死んだ息子の首を抱え、悲嘆のあまり田んぼにしゃがみ込む母親。ところが、のちに、この母親本人が別の町に引越して生活しているのに、その場所では頻繁にしゃがんだ女の姿が見られるようになる。その姿は事故を知らない者にまで見られたという(第九十三話「ヒロシ君」)。

姿や音で存在を主張し、峠道やホテルの部屋に現れる心霊現象。しかし、死後の霊が現れ、生者とコミュニケーションを取るという状況は説明が難しい。そこで、霊現象は生者が起こす、と考えてみよう。断腸の思い、無残な最期を迎えた者が、その痛みを強く抱えたとき、その念がその場所(家、部屋など)やもの(井戸や人形など)に転照され、のちのちまで残り、その念の波に敏感な者が音や姿を感じ見るとしたら。
亡くした息子の首を拾う母親の痛み(念)がその場所に焼き付けられる、それがのちのちにいたるまでスクリーンに姿が映るように何度も見受けられた、と考えるのは、死後の霊が現れて生者とあれこれ会話すると考えるよりよほどありそうな気がするのだが、どうだろう。

このように考えると、実話怪談本の類にまとめられた異音や怪しい姿のいくつかの説明はそれなりにつくような気がする。もちろん、それで何の説明をしたことにもならないのだが。

ちなみに、『怪談狩り』『怪談狩り 赤い顔』とも、どこかの本のように「いにしえよりの作法に則り、九十九話にて完」などとヌルいことは言わず、思い切りよく百話語り切りである。一気読みして変化妖異に出張られようが、知ったことではない。

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