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カテゴリー「ホラー・怪奇・ファンタジー」の142件の記事

2019/05/02

何かをそっと囁いた 『狂気の巡礼』 ステファン・グラビンスキ、芝田文乃 訳 / 国書刊行会

Kyouki不気味な物語』(の、とくに「偶然」「和解」の連作)が思いがけずよかったので、グラビンスキをもう1冊読んでみた。

グラビンスキはポーランドの怪奇作家、『狂気の巡礼』は初期の短篇集『薔薇の丘にて』、『狂気の巡礼』から1篇を除いてまとめたもの。
ハードカバーに窓があいて、そこから表紙の不気味なイラスト(ペン画? リトグラフ?)がのぞく装丁が実に素晴らしい。

内容は、どこかの庭や部屋に赴いた主人公が何かを幻視、実はそれは死んだ……という展開が多く、ややバラエティに欠ける印象もなくはないが、それでも最後の1行であらゆる混乱に終止符を打つ「狂気の農園」、悪意が黒くよどむような「大鴉」など、それぞれ読み応えあり。
ジキルとハイドのグラビンスキ版、「チェラヴァの問題」では作者の論理的、科学的嗜好性読み取れる(ホラーとしては妻がBを撃ち殺すとAも、というほうが自然だと思われるが、そうしなかったことがかえって奇妙な読後感を残す)。

ただ、どうしても書いておきたい難点が2点。

1つは、Webの自動翻訳か、と思われるような訳のまずさ。

たとえば論理的に説明のつかない

  彼の客となって1週間、もう何年も顔を合わせていなかった。(「海辺の別荘にて」)

原書がどうなっているかは知らないが、これなど原文では「何年も顔を合わせていなかった彼のもとに客になって1週間」といった程度の意だったのではなかったか。

また、全体に、抽象的、観念的な名詞を(おそらく原文そのままに)主語、目的語に配してしまうことによる読みづらさが目につく。

  その幻影には実際あらゆる実在の基礎が欠けていることを確信して、私は目を凝らし、努めて知力の正気を保つようにした。(「薔薇の丘にて」)

  嵐になった。自然力が爆発する前に鉄道駅にたどり着こうと私は足を速め、(「夜の宿り」)

「実在の基礎が欠けている」「自然力が爆発」……。このような例は探すまでもなくどの頁にもあふれている。

もう1つは、帯やあとがきでの無理やりな「ポーランドのラヴクラフト」推し。

クラビンスキの作品の特徴は、ざっくりいえば死者、つまりは人間の強い思念が悪夢の実態となって生者を操り動かし、場合によっては死にまでいざなう展開にある。

かたやラヴクラフトの作品は時間、空間を超越した神話的存在が垣間見えたとき脆弱な人間は破滅せざるを得ない、というものであって、その恐怖、魔の存在は人智を越えているのだ。

説明のつかないウゴウゴしたお化けが出てくる、だからラヴクラフト的──などという短慮は避けたい。

2019/03/24

完結 『BURN 猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子(上・下)』 内藤 了 / 角川ホラー文庫

Photo_1猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子』シリーズ、スピンアウト2冊含む13冊めにて完結。

ズタズタのヌッチャヌチャなスプラッタシーン満載で大好きなシリーズだったのだが、最後のほうは登場人物が多すぎてちょっと疲れた。

※バイオテクノロジーテロを目論む国際組織「CBET」のチープさや壊れた科学者集めて死体の腐敗のしかたを研究する国家機関「日本精神・神経医療研究センター」の珍妙さについては、ここでは触れない。仮面ライダーのショッカーと同じか、もう少しヘンテコリン、といったところ……。

シリーズ2冊目の『CUT』では【主な登場人物】は藤堂比奈子(新人刑事)、厚田巌夫(その上司、警部補)、東海林靖久(先輩刑事)、三木健(鑑識官)、石上妙子(検死官)、中島保(プロファイラー)の6名だった。
この顔ぶれは主人公を含む猟奇犯罪捜査班側のメンバーということで、まあ、わかる。

最終巻では【主な登場人物】が倍増の12名。ところがそこに記載されない常連として同じく警察組織に属す者、シリーズ後半で大きな役割を果たす「日本精神・神経医療研究センター」に所属する奇人変人たち、国際テロ組織の面々、などなど、増えに増えて大変なことになる。

常連が増えると、たとえば主人公の比奈子が敵に拉致された!というシーンで、敵味方、当事者・関係者、ほぼ全員の反応を書かなくてはならない。
『BURN』の下巻など、なにかとそんなモブシーンに記述が費やされ、スリルもサスペンスも半減。1冊通して比奈子個人の活躍にしぼれば「捕まった、気がついた、戦った」程度の実に内容の薄いものになってしまっている。

TVドラマの『相棒』では【主な登場人物】が増えすぎないよう、キャラクターの卒業、ないし入れ替えを行う。主人公はともかく、その相棒や鑑識官、小料理屋「花の里」の女将など、入れ替わることで登場人物のインフレは起こさせない。

『猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子』でも、もう少しそのあたりの工夫があってもよかったのではないか。

方法は簡単。事件ごとにポンポコ殉職させて、センターのボディファーム(死体農場)に飾ればよいのだ。

2019/02/27

和解への遠い道のり 『不気味な物語』 ステファン・グラビンスキ、芝田文乃 訳 / 国書刊行会

Photo巻末の著者紹介によればステファン・グラビンスキ(1887-1936)は「ポーランド文学史上ほぼ唯一の恐怖小説ジャンルの古典的作家」、とのこと。
そもそもポーランド文学とは? と、まずウィキペディアを引いてみた。

ヘンリク・シェンキェヴィチ『クオ・ヴァディス』、イェジ・アンジェイェフスキ『灰とダイヤモンド』、スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』──いずれも名作だが、並べても今一つ共通項が思い浮かばない。これにショパンやキュリー夫人を加えても同様。

そこでグラビンスキだが、『不気味な物語』には12篇の恐怖小説が取り上げられている。

オーソドックスな怪談から散文詩的な掌編まで、いずれも悲劇的な結末にいたる経緯は理解できるものの、総じてやや読みにくく、細部が頭に入りづらい。100年も昔の衒学的文体のためとも推察されるが、主語の位置など、翻訳の工夫次第でもう少しわかりやすくなったかも、と思われなくもない。

  私のぼんやりした視線は歩道の両側に並ぶシナノキの列に沿って移動し、その二列の並木は建物の入口まで続いていた。(「シャモタ氏の恋人」)

  ストスワフスキを救う可能性を私は完全に疑っていた。彼が陥った状態は、快復の道を夢見るにはあまりに限度を超えた形を取っていた。(「サラの家で」)

  こうして姿を変えた住まいは貧困すれすれの奇妙な簡素さという性格を獲得した。(「視線」)

3例とも適当にページを開いて抜き出したものだが、いずれも直訳の度合が過ぎ、日本語としてすんなり流れない。そのため往々にして読み手の理解が妨げられる。
(ただし、こういった比喩や熟語の多いひねくれた文体は、やや古風な翻訳作品にはそれなりに似つかわしく、割合容易に結末を推察できるありきたりな怪談でもそれなりに「文学を読んでいる」気分にさせてくれるというメリットがあって一概に全否定はできない。)

本作に納められた恐怖小説の特徴の一つは、各話とも登場人物のグロテスクな死で終わることにある。
日本の怪談でいえば、日常のちょっとした怪異を語る昨今の実話怪談より、「東海道四谷怪談」や「牡丹灯籠」をイメージするとよほど近い。

もう一つ顕著な特徴は、各話ともやや過剰なエロティック描写で飾られていることだ。
オーソドックスな恐怖小説やミステリなら「○○は△△をかき抱いてキスをした」「その夜二人は結ばれた」程度の遠回しな表現ですませたところを、はっきり「行為」を想起させる内容になっているのである。

もちろんエロティックといっても昨今のポルノ小説ほどではないが、たとえばエロスの香あふれると評されるドラキュラやカーミラに比べても、表記がそれぞれ具体的かつ生々しい。

  私は自制を失った。いきなり彼女を両手でつかんだが、抵抗は感じず、愛の熱情の中、寝台に投げ込んだ。すばやく捕らえがたい動きで、彼女は肩から琥珀の留め具をはずし、私の前で貴重なすばらしい己の躰を露にした。(「シャモタ氏の恋人」)

  「愛する君!」ウニンスキは答え、彼女の胸の魅惑に満ちたつぼみに唇を這わせる。(中略)「母が来るわ」スタハは抱擁から抜け出し、すばやくブラジャーを留める。(「和解」)

  突然、彼女は両足を巻きつけて、彼を抱き寄せた。(中略)屋根裏に短く痛々しい叫び声が響き、それから二回目、三回目が聞こえ、そして静かな長いむせび泣きになった……。(「屋根裏」)

ほかにも、不倫相手にその性愛の技法を教わったのは誰からかと責め立てる(「偶然」)、修道院の廃墟を訪ねて以来怪しい影に追われるようになった主人公が目にする男根の影(「投影」)、等々、多くの作品においてエロティックな行為が(ある意味怪異以上に)具体的に描写され、さらにそれが物語展開上の重要な要素となっている。

これらの作品はどのような場所(雑誌?)に発表されたのだろう。訳者の解説にはそのあたりは触れられていない。エログロナンセンスな作品の並ぶ煽情的な三文誌だったのか、ある程度アカデミズムから評価される堅苦しい場だったのか。
こういったエロティックな要素は、作品そのものを面白くしている場合もあるし(上のウニンスキとスタハの例など、この瑞々しい一連の性愛描写がなかったなら「和解」という短篇の魅力は半減するだろう)、逆に一部の作品のようにあまりに具体的描写にこだわりすぎてもう少し迂遠にしていただけたらと思われるものもある。

いずれにせよ、豪華函入りハードカバーの安価とは言い難い本ではあるが、楽しい読み物ではあった。
とくに鉄道を舞台に奇妙かつ情熱的な不倫とその破綻を描いた「偶然」、その夫婦の次元を超えた(宇宙的?でさえある)和解を描いた先述の「和解」、この連作にはかつで味わったことのない不思議な高揚、否、恍惚さえ覚えた。

──ただ、いくら国内外で再評価が高まっているといって、〈ポーランドのポー〉〈ポーランドのラヴクラフト〉はさすがに言い過ぎだろう。大物の名を出せばよいというものではない。

2019/02/06

30行でゆがむ 『現代百物語 終焉』 岩井志麻子 / 角川ホラー文庫

Photo岩井志麻子による実話怪談集『現代百物語』、10巻をもって終焉。

このシリーズでは1巻につき99話、10巻合わせて990話がすべて文庫書き下ろしで発表されてきたわけだが、掲載怪談はいずれも2ページ見開き、本文30行にきっちり納められている。
その30行の中で、話者紹介、本文、それに著者の感想ないし後日談が添えられてその密度、品質に各話揺るぎがない。

たとえば、ある話で、語り手は

  同世代の彼は、ある地方の開業医の息子だ。

と紹介される。

読み手の誰しもが岩井志麻子の年齢を詳細に知っているわけはない。『ぼっけえ、きょうてえ』が話題になってからでも久しいので、「同世代」といえば中年、といったところか。
「ある地方」とあるからには東京、大阪など大都会ではないのだろう。とはいえ、怪談を語る際、極端な田舎、過疎地域ならそう断りが入ることが少なくないので、地方都市、といったところか。
「開業医の息子」という言葉から比較的裕福に育ったこと、また本人は医者ではなさそう、と窺える。

──どうだろう。たった20文字で、その後に続く怪異(というほど怖い事件があるわけではない)への導入に過不足なし。

これは、個々の怪談を見開き2ページに畳む作業的な意味のみならず、こうした巧みな凝縮性が、語られた人物、出来事への漠然とした恐ろしさを膨らませる、そんな効果にもつながってはいないか。
ほんの少し会話がかみ合わない、あるはずのない写真があった、など、その程度の出来事が著者の削ぎ落とした文章で語られるとき、もしかすると本当は凄まじく恐ろしいことが起こっているのでは、と怪しいものがこちらの手元で広がるのだ。

さらに、多くの話において、最後の2、3行が怖い。

著者は、幽霊が、生霊が、謎の出会いが、といった直接的な怪談を聞き語った後、話に応じて以下のような感想を述べる。

  それを語ったその人のほうが怖い。

  その話をした女性が誰だったか、その場にいた誰も思い出せない。

  それを語った彼は、実は事件の当事者ではなかったか。

などなど。

そのとき、『現代百物語』は、聞きかじった(あるいは無理やり創作した)凡百の実話怪談と、薄皮1枚隔てて全く別のものと変容する。
語られる怪異そのものはそう新味でもないのに、『現代百物語』各巻が捨てられず、もしかして何年かのちに読み返すと思いもかけない新たなイやなものになぶられるのではないか、そんな気がしてならない所以である。

2017/12/09

アーキテクチャ 『お引っ越し』 真梨幸子 / 角川文庫

Photo(2011年の『ユリゴコロ』以来新刊のない沼田まほかるの印象が強いせいもあるのだろうが)いわゆる「イヤミス」のブームは過ぎ去ったように思われてならない。

実際は湊かなえ真梨幸子らの本は変わらず平積みで売れているようだが、それらをわざわざ「イヤミス」(読んでイヤな気分になるミステリ、後味の悪いミステリ)とまとめる必要が今となっては感じられないのだ。

では「イヤミス」ブームのピークはいつ頃だったか、というと、これは売り上げや批評を定量的に調べたわけでもない、ただの憶測だが、2011年からそのあと数年、つまり東日本大震災のあとしばらく、だったように思う。
何万という方が津波で亡くなり、原発事故にともなう不安、経済の停滞が続くなか、なにもわざわざイヤな気分になる本を──とも思うが、実際、当時の書店は「イヤミス」で溢れていた。

こういう考え方はどうだろう。株式投資に「ナンピン」という手法がある。ある株を買って値下がりしたとき、わざとその株を買い増すのである。たとえば1000円の株を100株持っていたとして、それが100円下がって900円になったとき、100株買い増せば手元の株の下がり分は100円から50円となる。株価が50円上がれば元値に戻るのである。

東日本大震災でさまざまなダメージを受けた私たちは、無意識のうちに手元の本にもイヤなものを求め、己の人生全体におけるトータルダメージを和らげようとしたのではないか……? 
もちろんこんな推測を組み立てたところでなんの役に立つわけでもないのだが。

真梨幸子の『お引っ越し』は、マンション探しや社内の部署移動、怪しい隣人、引っ越し業者の電話番など、引っ越しにかかわるさまざまなトラブルを扱ったホラー集である。各編数十ページ、全体で270ページに満たない薄い本だが、伏線が互いの作品に通底し、ある作品の曖昧な結末を他の作品が補完し、作者本人によると思われるゴージャスな「解説」あいまって全体にテクニカルな印象が強い。妙な言い方かもしれないが読了後に意外なほど「お得感」があった。
従来「イヤミス」という言葉で括られてきた真梨幸子だが、本来、技巧派と評すべき作家なのではないか。

ちなみに巻末に「作品はすべてフィクションです」の類の断り書きがあるが、編集者の手によるものか、最後の1文は余計だった。それとも今どきはこんな断り書きが必要なほどヘンな読者が多いのだろうか。

2017/09/12

『山怪 山人が語る不思議な話』 田中康弘 / 山と渓谷社

Photo(『山の霊異記 赤いヤッケの男』の帯の献辞つながりから、田中康弘の本を1冊──)

『山の霊異記』シリーズが主に登山の対象となるような「深山」を舞台にした怪談集であるのに対し、田中康弘の『山怪』シリーズは概ね樵や漁師が働くところの「里山」を舞台にした伝承、伝説集である。

……と、遠回しな書き方をしたが、要は山里で人が行方不明になったり怪しい光が飛び交ったりしても、たいてい狸や狐のせいにされて終わるので、現代の感覚からすればまったく怖くないのだ。ツチノコがぴょんぴょん跳ねて側溝に逃げ込む話を聞いても、普通、怖いとは思わないでしょう。

では帯の惹句にある「現代版遠野物語」との評価はどうかと言えば、個人的にはそうは思えなかった。
地域や語り手を絞るわけでもなく、ただ漫然と「山場のヘンな体験」を搔き集めた印象。夢や酒のせいと思われるものを端折るのはもちろん、柳田國男から100年は経っているのだ、科学で説明のつく現象は説明を尽くすのが勤めというものだろう。

山の中で聞こえるはずのない太鼓やチェーンソーの音が聞こえる、といった話が幾度か出てくる。これはたとえば野生化したインコやオウムの類ではないか。
(実際、ときどき不気味な声が聞こえるが、それは鳥の鳴き声だろうと語り手が推察して終わってしまう話もある。)

山道の風景が左右反転して見えた、という話がある。失読症(ディスレクシア)の一種に文字が左右反転して読めなくなるというものがあるらしい。その類の一時的な神経症でもあろうか。

などなど、暇つぶしにパラパラ読む分にはともかく、とくに驚くところのなさそうな本ではあるが、話題になる程度には売れたらしい。山渓の名が日頃怪談本など見向きもしない読者層を掘り起こしたなら、それはそれで悪い話ではない。

2017/09/08

『山の霊異記 幻惑の尾根』『山の霊異記 赤いヤッケの男』(角川文庫)、『山の霊異記 黒い遭難碑』(MF文庫ダ・ヴィンチ) / 安曇潤平

Photo安曇潤平の山岳怪談は怖い。なぜこんなにも怖いのか、三項に分けて考えてみた。

(1) 怪談として

安曇潤平の文章は主体が変幻自在で、あたかも本人が実際に山で怪異を経験したかのような書き方、親しい登山家から聞かされたという書き方、主体が誰とも限定されない書き方(ときに「私」が女性であることも)など、この手の怪談短篇集としてはバリエーションが豊富だ。

つまり、いわゆる「実話の聞き起こし」にこだわらず、怪談としての読み応えさえあれば実話でも創作でもよし、とのスタンスらしい。
その結果、内容は、山で死んだ者の霊が現れる心霊モノ(不気味なものから友情や親子愛を描いた心温まる作品まで)、説明のつかないグロテスクな妖異譚など、さまざまで、「実話」にこだわらないぶん恐怖を煽るモノの描写に手加減がない。

(2) 山の道

個人的な感想だが、高所恐怖症の読み手にとっては、描かれた山の道そのものが怖い。

  三人は道を外れ、その吊り橋を途中まで渡ってみた。心もとない鉄鎖で吊られた橋が不安定に揺れる。
   (『幻惑の尾根』、「隧道」より)

  岩壁の側面から突き出た狭い廊下状の道が水平に続いている。道の幅は一メートル程度だ。左側はそのまま深い谷に切れ落ちている。
   (『赤いヤッケの男』、「ザクロ」より)

  トレースを外して足をついた途端、凍結した斜面に乗ってしまい、ザックを枕に五メートル近く一気に滑った。
   (『赤いヤッケの男』、「銀のライター」より)

  歩みを進めるうちに登山道は完全に岩になり「剣渡り」と呼ばれる、両側が切れ落ちた細い道に差しかかりました。
   (『赤いヤッケの男』、「霧の梯子」より)

など、ともかく道はやたら「切れ落ち」、足元は踏み外すと滑落する「ガレ場(岩が堆積した道)」なのである。
そんな道を想像するだけで怖ろしいのに、さらに(高い所が苦手な方にはおわかりいただけると思うが)平地に戻るためには後でまたその場所を通らなくてはならない。これが怖くなくて、なんだろう。

(3) 逃げ場がない

そして、安曇怪談の真骨頂がここにある。怪異からの「逃げ場」がない、のだ。

あまた排出される「実話怪談」には鳥肌が立つほど怖いものもあるが、その大半において語り手は怪異から逃げることに成功している。友人宅に走る、コンビニに逃げる、引っ越す、田舎に帰る。聞き取り手が巻き込まれてもせいぜいパソコンが壊れるくらいで、実話怪談の著者が呪われて死んだ、行方不明になったという話は(あまり)耳にしない。

ところが、山では、そうはいかない。
片側が谷に切れ落ちた道で向こうから怪しいモノが近づいてきたら? 見知らぬ男に山道をいつまでも追われたら? 霧で身動きできないところで聞こえるはずのない声が聞こえたら? ようやく設営したテント(もちろん夜の登山道を歩くことなどできない)を誰かが外から押してきたら?

そう思って振り返ると、安曇怪談の多くは、その尾根、山道を下りきればそこで妖異から逃げおおせることに気がつく。あくまで妖異は山にあるのだ。
……いや、もちろんあの話の怖いモノやあの話のエグいモノを平地まで持ち帰られても、それはそれで困るのだけれども。

2017/08/31

『夜行』 森見登美彦 / 小学館

Photo_2太陽の塔』や『夜は短し歩けよ乙女』では浮世離れした天然ヒロインと彼女を追い回しつつプライドだけ高い冴えない先輩男子の言行についつい苦笑い、『きつねのはなし』では一転、首筋に冷たい刃を押し当てられる思いに震え、などなどなど、そんなファンにとって森見登美彦の作品の酷評など読みたくないに違いない(カラスだって何もわざわざそんなものを読みたくはない)。
であるからして、森見ファンを自認される方にはこれ以降読むことをお奨めしない。ブラウザを閉じるかYahoo!ニュースでもご覧ください。

さて、『夜行』の帯にはご丁寧にも表紙と背表紙の2か所に「10年目の集大成!」とある。もちろん作家本人でなく、編集者の手による煽り文言だろうが、これが集大成だとするといろいろマズいのではないか。

内容は第一夜「尾道」から「奥飛騨」「津軽」「天竜峡」そして最終夜「鞍馬」まで全5章、それぞれ異なる登場人物が訪ねた先の地名を冠したホラーというか人間失踪を描いた短篇集となっている。
構造は非常に凝っていて、実はそれがよろしくない。各章の語り手は10年前、鞍馬の火祭りに集った青年たち、その夜行方不明になった若い女性、そこに死んだ銅版画家の残した「夜行」という連作が各章にかかわってくる。

第一夜「尾道」は、単独のホラー短篇として読めばそう悪くない。失踪した妻を追う語り手の、悪夢の中にいるようなもどかしさ、訪ねた先の家の奇態さ。ところがその幕閉めがあまりにもありきたりで拍子抜け、おまけにこれではどうにも次章につながらない。

それ以降、この連作集にはキーとなる建物がいくつか登場する。同じ建物のつもりかそうでないのか判然としないのだが、「尾道」の家を除くと、いずれも書き手が期待するほどにはそこに異界が感じられない。というか、ほとんど描写がない。
それなのに、登場人物に何度も「いやな感じがする」と語らせるのはどうだろう。禍々しいならそう描くのが作家の腕だろう。仕事、と言ってもよい。

もう一点、「尾道」がほかの章よりマシに思えるのは、ここではまだ坂の多い尾道という土地を描く努力がなされているためで、「天竜峡」では飯田線の電車の中でのやり取りが描かれるばかり、「鞍馬」でもそこに至る行程しか描かれていないに等しい。

銅版画家や行方不明になった女性は怪異に翻弄された側なのか、ただ少しエキセントリックなだけなのか。万事曖昧で、厳しく言えば適当である。
何人かの登場人物が口にする「世界はつねに夜なんだよ」「世界はつねに夜なのよ」とのセリフも大仰なばかりで、世界を特定するキーワードたり得ない。ちなみに帯に大きく書かれた「彼女はまだ、あの夜の中にいる」は正確ではない。

『夜は短し歩けよ乙女』のヒロインのほうがよほど夜に属していた、と今は懐かしく思う。

2017/06/30

〔短評〕 『ドラゴン・ヴォランの部屋 レ・ファニュ傑作選』 J・S・レ・ファニュ、千葉康樹 訳 / 創元推理文庫

Photoレ・ファニュの貴重な中・短篇集。

とはいえ、
  ロバート・アーダ卿の運命
  ティローン州のある名家の物語
  ウルトー・ド・レイシー
  ローラ・シルヴァー・ベル
の怪奇短篇4作については、「怪」が「妖美」の庭に踏み入ってかつ静謐な『吸血鬼カーミラ』や傑作と名高い短篇「緑茶」と同じ作者によるものと思えないほどありきたりな印象。
逆にいえば19世紀半ば、すでにのちのホラーのさまざまなパターンを自家薬籠中の物としていたレ・ファニュこそはプロフェッショナルなエンターテイナーだったのかもしれない。

なお「ティローン州のある名家の物語」(1839年)はシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』(1847年)のネタ元だったと目される作品。確かにトラブルの鍵となる人物の設定はかなり似ている──作風や主人公の描き方はまるで異なっているが。

巻末の表題作
  ドラゴン・ヴォランの部屋
は、カーミラの作者による中篇、と身を乗り出すとがっかりするが、肩の力を抜いて、ロマンを求めてパリを訪れたイギリス人青年の冒険を皮肉たっぷりに描いた犯罪小説と読めば痛快。
千葉氏の翻訳は平井呈一に比べれば古雅風趣では劣るものの、こと本作においては展開の疾走感に見合って読みやすい。

2017/06/17

『恐怖の百物語 第1弾』 関西テレビ放送 編著 / 二見レインボー文庫

Photo1991年4月から9月まで関西テレビ放送で制作・放映されたテレビ番組『恐怖の百物語』を活字化したもの(の改装・改訂新版)。

「はじめに」に「よけいな演出や、テレビお得意のおざなりな分析や解説をいっさい排除して、体験者の実話をただ淡々と聞くだけの番組はつくれないものか──」とあり、木原浩勝・中山市朗両氏による『新・耳・袋 - あなたの隣の怖い話』が1990年の発行だったことを考えると、実話怪談系のかなり早い時期の成果、かつ、のちの実話怪談集や都市伝説群の契機となった怪談集、と考えることができる。
そして、その内容は初期ゆえにみずみずしい恐怖に溢れ、ネタ詰まりからひねった奇譚(=怪談といいつつ怖くない)の多い昨今の実話怪談集に比べ、プリミティブな恐怖に特化した読み応えあるものとなっているように思われる。……ぐねぐね論評しているが、早い話がとてもコワイ。

ただ、「体験者の実話」を謳うなら、それはどうか、と気になる点があった。

本書にはテレビ番組で取り上げた体験談のうち29話がピックアップされている。
本来、29人が怪異に会い、それを語ったなら、その怪異のありようはもちろん、体験者の感じ方も、それぞれ色合いが異なるはずである。

ところが、全六章のうち、第一章「ドライバーを襲う悪霊たち」に取り上げられた5話では、

1). その白い冷たそうな手が、私の坐っている助手席のウィンドウに触れたとたん、私には車全体が冷気で急激に凍りついたような気がして、
2). その一言で、私は全身にサーッと鳥肌を立て、背筋がゾーッと寒くなりました。
3). なんの脈絡もなく、僕の心のなかに〝やばいぞ!〟という叫びが起こったのです。同時に、全身にサーッと悪寒が走りました。
4). (目のあるべき部分に目のない子供たちに見つめられて)全身の血がサーッと凍りついたようになった私は、
5). つぎの瞬間には、冷水を浴びせられたように全身が震えあがっていました。

続く第二章「世にも恐ろしい幽霊屋敷」の5話でも

6). (ドアノックを手にした)瞬間、まるで氷に触れたような冷たさが、指先から全身に走ります。
7). (洋館の玄関に機材を運び入れたとたん)不思議なことに、私の全身をサーッと悪寒が走り抜けました。
8). (引っ越した部屋で)身体全体に寒気が走って、冷たい風が駆け抜けていったのです。
9). 心なしか、あたりの空気は妙に冷たくよどんでいるように感じられました。
10). 朽ちかけた洋館をあおぎ見た瞬間、なぜか私は、心の奥底まで凍りつくような悪寒を感じたのです。

と、ここまで表記こそ違えどいずれの怪談にも「冷気」「悪寒」「寒気」が語られている。
ほかにも、

18). (部室の戸を開けた瞬間)真夏だというのに、ものすごく冷たい空気のかたまりが「ブワーッ!」と流れ出してきたのです。
21). (怪談の戸のほうに進むと)その瞬間、ブワーッ!という、ものすごい勢いの、しかも、なにやら背筋の凍るような冷たくて生ぐさい風を全身に受けて、

など、実は全29話のうち24話でこういった「冷気」「悪寒」「寒気」が恐怖を煽っているのである(例外のうちの1話も、雪山での遭難にまつわる話なので「悪寒」が話題にならなかっただけかもしれない)。

恐怖を煽る表現がこれだけ偏ると、制作担当者によるリライトの傾向、だけとは判断しづらい。実際に体験者がいたのではなく、漠然とした噂をリライトしたのではないか──いや、最悪、制作担当者の創作の可能性まで勘繰らざるを得ない。怪奇小説なら創作はほめられこそすれ、「実話怪談」における創作はいわば怪異の捏造である。
少なくとも読み手に余計な斟酌をさせるくらいなら、これほどまでに「冷気」「悪寒」「寒気」にこだわらず、もっと表現のバリエーションを工夫すべきだった。

──と言いながら、最後にまったく相反することを書くが、「冷気」「悪寒」「寒気」が繰り返される本書を風呂で読んだところ、いくら追い炊きしてもいっこうにいつもの汗にならず、湯船は冷え冷えとしたまま。本を置いて頭を洗うときも背後に誰かいるようで、文字通り寒気が去らなかった。
夏の暑い盛りに怪談、とはきっとこういう効能を言うのだろう。その限りでは「怪談」として良書であるようにも思う。

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