フォト
無料ブログはココログ

カテゴリー「テレビ・新聞・雑誌・出版」の49件の記事

2017/06/13

『増補改訂版 刑事コロンボ完全捜査記録』 町田暁雄、えのころ工房 / 宝島SUGOI文庫

Photo地位も名声も手に入れた登場人物。しかし、その地位を脅かす者が現れ、彼(彼女)はその邪魔者を緻密な計略の上、殺害する。犯行はもちろん、被害者と自分を結びつける証拠は何ひとつないはずだ──。
そこに現れたしわくちゃレインコートの冴えない刑事。「あたしロサンゼルス警察のコロンボ。殺人課の」

倒叙ミステリの傑作、ピーター・フォーク主演の『刑事コロンボ』は、旧シリーズ45話(日本公開1972-1977年)、新シリーズ24話(1993-2004年)の全69話からなる。

旧シリーズはほぼ全話リアルタイムに視聴したし、製品版DVDもひとそろい持っているのだが、新シリーズは仕事の忙しい時期だったこともあり、ほとんど見ていなかった。
その新シリーズがしばらく前からBS-TBSで再放送されており、最近は毎週録画しては楽しんでいる次第。
その際、BRレコーダーの上に置き、「あれ、ロバート・ヴォーンが犯人をやったのはどの話だっけ」「この手の罠が最初に出てきたのは──」など、何度もページをめくり返しているのがこの文庫本『増補改訂版 刑事コロンボ完全捜査記録』。

本書は『刑事コロンボ』全話について、それぞれ犯人像、トリック、俳優・声優紹介のほか、各話に登場する印象的な食べ物飲み物、凶器(殺害に使われた拳銃は全話で合計何丁、とか、鈍器にはどのようなものが、とか)、コロンボの親戚話、ご存知“かみさん”の特技、使われたクラシック音楽などなどをこと細かに調べ上げ、1冊にまとめたものである(いくつか改訂版があるので注意)。
ちなみに公式ガイドブックではないため表紙を含めて写真は使われておらず、本ページではマンガタッチのイラストが多用されていて、それが実に楽しい。

ちょっとした脇役俳優がほかの回では重要な役を演じていたり、かつて使われた有名なプロットが一種の隠し味として別の話で再利用されていたり、ちょっとしたセリフに実は結末が示唆されていたり、等々、漫然とテレビ画面をながめているだけでは気がつかない詳細な情報がページ狭しと列挙されていて頭が下がる。
コロンボのファーストネームやかみさんの名は最後まで明らかにされなかった、とか、コロンボの愛車プジョー403がどの回にはどのような状態で登場した、とか、今週放送された「だまされたコロンボ」の犯人が「バイバイキーン」のあのキャラの声だったとか。
(欲を言えばプジョー403以外の車についても車種など詳しく取り上げてほしかった。あの、燃費なんて概念のない、ブレーキに合わせて波打つように上下に揺れるあのバカでかいアメ車たち。)

本文は全ページ、コロンボ愛に満ちあふれていて、その分、厳しいところはとことん手厳しい。
シナリオの矛盾、推理の穴、演出の甘さなど手加減なく指摘されており、とくに新シリーズは脚本に苦しんだのかいろいろ迷走したもようで残念だ。

もちろん全犯人の犯行方法(凶器)から俳優の伸長まで一覧表にするくらいだから、トリック、プロットのネタバレはやむを得ない。だが、そもそもコロンボの良作は何度見直しても十分面白い。いや、これほど細かく切り刻まれ、なお底の知れない味わい、それこそがコロンボの魅力なのだ。

2017/05/10

『封印作品の謎 テレビアニメ・特撮編』『封印作品の謎 少年・少女マンガ編』 安藤健二 / 彩図社

『封印作品の謎 テレビアニメ・特撮編』『封印作品の謎 少年・少女マンガ編』は、安藤健二の単行本『封印作品の謎』『封印作品の謎2』(以上太田出版)『封印作品の憂鬱』(洋泉社)3冊から再編集、文庫化したもの。

先に目次を転記しておこう。

1『封印作品の謎 テレビアニメ・特撮編』

第一章 闇に消えた怪獣
 ──『ウルトラセブン』
   第一二話「遊星より愛をこめて」
第二章 裁かれない狂気
 ──『怪奇大作戦
   第二四話「狂鬼人間
第三章 忘れられた予言
 ──映画『ノストラダムスの大予言』
第四章 ウルトラとガンダムの間に
 ──『サンダーマスク』
第五章 ポケットの中の悪夢
 ──日テレ版『ドラえもん』

2『封印作品の謎 少年・少女マンガ編』

第一章 禁じられたオペ
 ──『ブラック・ジャック』
   第四一話「植物人間」・第五八話「快楽の座」
第二章 引き裂かれたリボン
 ──『キャンディ・キャンディ』
第三章 悲しい熱帯
 ──『ジャングル黒べえ』
第四章 怨霊となったオバケ
 ──『オバケのQ太郎』

目次を書き写したのには意味がある。
章数がこの手の本としては極めて少ないのだ。

たとえば同じ彩図社の文庫『定本 消されたマンガ』(赤田祐一、ばるぼら 共著)では、約60タイトルのマンガが扱われている。
1冊あたりでみれば10分の1以下、ということになる。

この章数の少なさは何を表すのか。
著者の取材が執拗、なのである。

テレビで再放送されない回があるなら、最後に放送されたのはいつ、どの局でなのか。フィルムはどこにあるのか。権利はどこにあるのか。なぜ再放送、DVD化が止められているのか。その問題を最初に指摘したのは誰か。その人物は今はどう考えているのか。制作側は。
著者は堅い木の薄皮を1枚1枚はがすように、関係者を訪ね歩き、問い、彼らの返答ないし沈黙(取材拒否)を記録していく。取材の多くは空振りに終わるが、それでもいかなる意図が働いたか(流行りの「忖度」というやつだ)、やがて壁は壁の形として見えてくる。
(この自身に厳しいスタイルのため、著者はノンフィクション作家として作品を多発することができず、生活のためにサラリーマンに戻ったという。なんという損失だろう。)

たとえば連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤の部屋にダビングテープがあったことで話題になった『ウルトラセブン』の第一二話、これ一つとっても「スペル星人が被爆者差別として問題扱いされたため」などという単純な図式ではすまない。背景には番組制作を離れたところでの紙媒体での紹介事故(と言ってよいと思う)、指摘を受けての制作側の初動ミスがあり、ひとたび封印された後は「はれもの」として「なかったことにする」業界の体質があった。

扱われている作品は総じて古いものが多い。だが、見えてくる構図は普遍的だ。

単行本から文庫になる間に封印の解けた作品もある(『オバケのQ太郎』など)。
それはよいことだ、しかし藤子不二雄にかかわる顛末はいずれも爽快とは言い難い。
僕たちは藤子不二雄の作品世界について、あのシンプルでかわいらしい線に騙されてきたのかもしれない。──だが、騙されるなら騙されたままでいたほうがよい、そういうことだってある。

同じく後味が悪いのは、一世を風靡した『キャンディ・キャンディ』(「・」は正しくはハートマーク)が絶版、放送停止にいたる顛末だ。
背景には原作者水木杏子と作画担当のいがらしゆみこの係争がある。
この係争はマンガにおいて原作者と作画者、どちらに著作権があるか──という報道をされることが少なくないが(最高裁では原作者水木側の勝訴)、こと本書を読む限り、実際はもう少しプリミティブな人間性に問題があったように読める。
田中圭一の『ペンと箸』においていがらしゆみこはその子息によって

  著作権裁判とかプライベートでつらいことが
  山のようにあった時も
  彼女はいつもほがらかで明るい
  そういう母をかっこいいと思ってきました

と語られる。
そうだろうか? この時期、いがらしはむしろ思い悩み、反省し、いかに謝罪、和解するかを考えて呻吟すべきだった。それが、それのみが『キャンディ・キャンディ』を復活に導く、本当にかっこいい母親の姿だったはずだ。違うだろうか。

2017/04/13

真相はCMのあと 『出版禁止』 長江俊和 / 新潮文庫

Photoミステリではない。フェイクドキュメンタリーなるジャンル、とのこと。
(言い換えれば、ドキュメンタリーでもなければ、小説でも、ない。)

7年前に起こった心中事件の真相を追うノンフィクション作家が、生き残った女性へのインタビューを重ねるうち、やがて──という枠組みに、騙し絵的描写やアナグラム、アクロスティック(折句)などの言葉遊びを駆使して表向きとは異なる真相を想起させる、そういう仕組みである。

ただし、二つの意味で、帯に煽るほどには面白くない。

第一、言葉のトリックで読み手を幻惑させる点において、『不思議の国のアリス』など、過去の怪作奇作に類する緊張感がない。言葉遊びに傾倒する書き手には、いずれもそれなりの必然性があるのだ。
第二、表向きの展開はもちろん、作品内作品が出版禁止にいたった顛末にもさほど感心しない。隠された情報をすべては読み取れてない、ということもあるだろうが、いずれにせよテクニック、ストーリー、ともに仰天するほどのものではなさそうだ。

作者は「奇跡体験!アンビリバボー」や「放送禁止」などの番組、映画を手掛けたテレビディレクター、ドラマ演出家、脚本家。
以前、秦建日子『推理小説』を取り上げた際にも感じたことだが、一部のテレビ関係者、脚本家による作品は、ただ刺激を付与することにのみ重点を置く傾向があるようだ。
映像なら、それで許されるかもしれない(YouTuberの人気作品など、冷静に考えればなんということもないのに、見ると驚く、楽しい、というだけで閲覧数が跳ね上がる)。
だが、似たような内容が文字、文章として提示されたなら、おそらくそれだけではまず通用しない。人は、文章に向かうとき、自動的にその情報を思索を司る脳の部位に紐づけるのではないか。

さらに、本作に好感がもてないのは、作中のノンフィクション作家の文章(そもそもの取材も)がだらしないためかもしれない。
その点、ノンフィクションとしてどうなのですか? いやこれはフェイクドキュメンタリーだから。
そもそも、ミステリとして体をなしてないのでは? いやこれはフェイクドキュメンタリーだから。

つまり、新しいジャンルに挑む気概より、甘えばかりが感じとれてしまうのである。
それは作者として、許してはいけないことだろう。

ちなみに、出版界は自粛自制で硬直したテレビに比べればまだよほど無神経無頓着で、よほどでなければ「出版禁止」などという扱いはない。A社でダメならB社、C社に持ち込めばよいのだ。それでもダメなとき、それは「出版禁止」でなく、単に「」という。

2017/03/11

『本をつくる者の心 造本40年』 藤森善貢 / 日本エディタースクール出版部

Photoエネルギー供給の花形産業が第二次大戦後、石炭・水力⇒石油⇒原子力⇒?と移り変わってきたように、どんな仕事にも浮き沈みはある。

『本をつくる者の心 造本40年』の著者藤森善貢氏(1915-1985)は戦前に岩波書店に入店、製作課長や宣伝課長、辞典部副部長などを歴任し、退社後はほるぷ出版顧問、日本エディタースクールの講師を務めた。『広辞苑』の製作にも携わった、造本のプロ中のプロである。

著作には編集入門者向け参考書色の強いものが多いが、1986年に発行された本書は自身の生い立ちから岩波書店入店に至る経緯、それに本造りの心構えやノウハウをからめた自伝プラスアルファの内容となっている。戦中の左翼出版の取り締まり、戦後の落丁クレーム対応など、現場の話が読んで楽しい。
『広辞苑』や『岩波英和辞典』の活字や紙の取捨選択など、失敗含め、さすがは老舗、と称賛せざるを得ない。薄い紙の裏表の印字が印刷時の紙のびによってずれるのを抑えるため、印刷会社と図って両面印刷機を開発したというのである。現在、ここまで労力をかけて本造りをしている出版社がどれほどあるだろうか(なにしろ、函入りの『アリストテレス全集』全20巻を新訳で発行中の岩波だ)。
日本が樺太(サハリン)を失ったことで繊維の長い針葉樹のパルプが手に入らなくなり、闊葉樹(広葉樹)のパルプが主になって本の紙の品質が落ちた、機械化が進み、短期間に製本を仕上げることが可能になったため、ニカワが紙に浸透せず、本が壊れやすくなった、といった話も興味深い。

ただ……時が経てば必要とされる技術も変わる。

『広辞苑』は初期には活字組版をオフセット印刷したものだったそうだ。つまり、あのボリューム、あの複雑な文字種が、鉛の活字を並べて組まれていたということだ。その工数には頭が下がるが、写植活字、DTPと進歩した現在では、その当時のノウハウの多くは(少なくともそのままでは)役に立たないに違いない。また、その頃に望ましいとされた読みやすい活字の大きさ、ページをめくりやすい紙質などが現在でも必須かというと、それも少なからず疑問だ。
冊子の『広辞苑』に現在も一定のニーズがあることは想像がつく。それでも、文書作成作業がデジタル機器でなされることの多い現在、文字列検索やカット&ペースト、逆引き機能など、辞書においてはCD-ROMや電子書籍で提供されるメリットのほうが大きい。電子書籍の場合、フォントの大きさや活字タイプなどは利用者(ビュワー)側のマターである。そういった要素に手間暇をかけるより、データに特化して価格を抑えるほうが将来のためではないか(稼ぎ頭の紙版『広辞苑』に改版のたびお付き合いしているのは団塊の世代までと推察するが、どうか)。

著者が胸を張って語る、

校正面からみても、完全にその原稿の内容をクリアして、校正をキチッとやって、こういう本を出すんだということをはっきりやっているのは岩波書店一社しかないだろう。

これは、事実なのだろう。だが、それゆえ校閲部門のほうが編集部門より発言力が強く、古典には圧倒的に強いが新規な企画、製作の動きは重い、というのがはた目に見た岩波書店の実情だ。
それゆえ、昨今の出版不況下の目で見ると、著者の推奨する精度の高い造本はブロントザウルスの類となってしまっている。

この著作の技術的なページの多くは、現在の編集者の卵たちには意味不明だろうし、出版者に無駄な費用と労力を強いる点で一部、有害でさえあるかもしれない。
著者は1985年に亡くなったそうだが、長年誇りをもって担ってきた仕事が目の前で過去の遺物として消えていくのを見ずに済んでよかったのではないか。

2017/01/20

『少年少女のための文学全集があったころ』 松村由利子 / 人文書院

Photo1960年生まれの女性記者が子供の頃の読書体験を懐かしく綴る、微笑ましくも心温まるエッセイ集。
ルナールの『にんじん』、ボンド『くまのバディントン』、バーネット『小公女』から語り起こされ、祖父や父から与えられた本、母とともに楽しんだ本を次から次へと取り上げていく各章は、タイトルや装丁から想起されるそんな印象を裏切らない。

外国の本に登場するお菓子の美味しそうだったこと。
高名なピアニストの公演の最中に読書に熱中してしまい、母親を嘆かせてしまったこと。
大人になって改訳や原典にあたり、訳者の苦心や細やかな気遣いに触れて驚くこと。

──だが、その一方で、古今の子供向けの本を辿る著者の丁寧な歩みが明らかにしてしまう谷は深い。

『少年少女のための文学全集があったころ』というタイトルに着目してみよう。
これは、現代がそういう文学全集のない時代であることを示している。
書店の子供向けの本のコーナーを訪れると、幼児向け絵本や図鑑の充実に比べ、小・中学生に世界文学を奨めるのに適した本が存外に少なくて途方に暮れる。
理由はいろいろあるだろうが、明らかな分岐点の一つは1960年代頃からさかんに主張された「完訳至上主義」だったろう。それが行き過ぎ、さまざまな世界の名作の抄訳を月々手軽に届ける名作文学全集が失われた結果、子供たちは古今東西の神話や名作文学に手軽に触れる機会を失っていく。
子供たちを取り巻く世界で「本」が十分魅力的であったなら「完訳至上主義」もいいだろう。だが、現代はアニメやゲーム、インターネットなど、本以外にも誘惑は多い。そんな時代に分厚く読みづらい完訳本ばかりを押し付けて、それで子供たちはそれを読んでくれるだろうか。

著者は決して、上記のようなことをあからさまに、批判的に書いているわけではない。あくまで自身の幸福な読書体験、のちに大人になってそれを読み返したり、新訳に触れたり、原文にあたっての思いを一つひとつ穏やかに語るばかりだ。

しかし、事実として「少年少女のための文学全集がない」今、子供たちの多くは過去の名作に出会い、本を読む楽しみ(苦しみ)に触れるきっかけから隔てられているように思われてならない。
この素敵な本を今の子供たち、未来の大人たちはどう読むのだろう、そもそも読むことができるのだろうか。

2016/07/05

〔短評〕 『明日訪ねてくるがいい』 『這いよれ!ニャル子さん』『殺人犯はそこにいる 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』

最近の読書から。

Photo『明日訪ねてくるがいい』 マーガレット・ミラー、青木久恵 訳 / ハヤカワポケットミステリ

神保町の古本屋で「頁上部イタミ大」ということで思いがけず廉価に手に入れることができた(その分、予定外の本のあれこれに手を出してしまったのでこのターン惨敗)。
のちの『ミランダ殺し』や『マーメイド』にも登場する弁護士トム・アラゴンが探偵役。こじゃれた会話も散見するが、そんなユーモアより捜査先のメキシコのすさんだ印象が圧倒的で、汗ばんだ肌に細かな焦燥感がザラザラまとわりつくよう。
最後に明らかになる犯人──というか事件の真相を、読み手は最初の1ページめから知っていたはず──そんなミラーならではの読後感が苦い。

『這いよれ!ニャル子さん』(全12巻) 逢空万太 / SBクリエイティブ GA文庫

油断していたら2年も前に完結していた。慌てて未読だった10巻、12巻を入手した次第(11巻は読んでいた。在庫管理上いかがなものか。その通りですすみませんすみません)。
宇宙からやってきた凶暴なヒロインに地球人の若者がつきまとわれ、そこに新たな登場人物(宇宙人)が──という「ラブコメ」構図は懐かしの『うる星やつら』そのものだが、なにしろ本作の元ネタはクトゥルー神話、「ラブコメ」は「ラブクラフトコメディ」の略で、ヒロインのニャル子はニャルラトホテプ、その幼なじみのクー子はクトゥグアというのだからおやまあ恐ろしい。全編これ細かなパロディで埋め尽くされており、カラフルなネタのソフトタイルを敷き詰めたショッピングモールを友だちとスキップで歩くような楽しさに満ちている。
個人的にはイス香の登場するお話と、彼女の名状しがたい日本語のような話し方が好きですョ? 遠い昔の夏休みの解けない謎の趣き。

Photo_2『殺人犯はそこにいる 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』 清水 潔 / 新潮文庫

以前取り上げた『マスコミ報道の犯罪』の例もあり、冤罪にかかる主張については一概に白を白、黒を黒、と言えない自分がいる。
著者、清水潔氏は、桶川ストーカー殺人事件や本書の主題となった北関東連続幼女誘拐殺人事件において警察、検察の隠蔽を粘り強く暴いた、という点では高く評価したい。ただ、だからといって書かれたことすべてを信用していいのかどうかは正直言ってよくわからない(少なくともルパンと称される人物や飯塚事件についての記述はどちらかといえば強引さや上滑り感を覚えざるを得ない)。
警察、検察がまったく信用できない、などとは言わない。だが、組織というものがえてして真実の究明より自らを守るよう機能しがちなのもまた事実だ。その動向を常に洗い直す働きを受け持たないなら、大手マスコミはただ権力の広報代行業者に過ぎなくなる。本書は記載内容の正確さはさておき、そういった構造への警鐘とみなすべきだろう。

2016/01/11

「あさが来た」原案 『小説 土佐堀川 広岡浅子の生涯』 古川智映子 / 潮文庫

Photo【儲けなあきまへん。──人のやらん新しい商いを、そう思うただけでも心が躍りまっせ】

連続テレビ小説「あさが来た」の評判がよいのは耳にしていたが、時間の都合もあって見ていなかった。
ところが年末、帰省した郷里の布団の中でテレビの音を聞くともなしに聞いていると、それが「あさが来た」の総集編だった。なるほどめっぽう面白い。大阪の両替商が九州の炭鉱経営に参画し、ヒロインが女だてらに現場を制圧する場面など実に豪気だ。

このドラマが実在の人物広岡浅子をモデルにしたもので、彼女が嘉永から明治、大正にかけ、三井財閥、大同生命、ニチボウ、日本女子大などの設立にかかわった女性実業家だと知ってさらに興味をもち、原案となった潮文庫『小説 土佐堀川 広岡浅子の生涯』を読んでみた。これまた胸躍る一冊である。

史実を列挙するさっぱりした地の文に人の懐に踏み入る関西弁がはさまる文章は、流麗とは言い難いが読み手に先を促し、ときどきウィキペディアで人名や時代背景を確認しながらあっという間に読み終えた。

実家に戻った浅子の「うちは加島屋で威張って暮らしてるいうのに」という言葉からも明らかなように、浅子はドラマと違って嫁いだ当初から男勝りの実務家として描かれている。一方、夫の信五郎の柔らかな物腰、信頼する浅子への忠義は気持ち悪いほどテレビドラマの玉木宏そのままだ(玉木が原案をよく勉強しているのだろう)。
史実には浅子の大きな病や信五郎の側室の扱いなど朝ドラにふさわしくないところもあり、明朗なドラマのファンには夢を壊すところもあるかもしれないが、明治維新後の大阪経済を支えた商人の執念の物語として強くお奨めしたい。

二つのことを考えた。

一つ、大河ドラマはなぜこの作品を選ばなかったのか、ということだ。
平成も四半世紀を過ぎて、さすがに今さら「天下」、「合戦」、「義」やら「尊皇攘夷」でもないだろう。歴史上の人物を描くなら、清盛でも家康でも龍馬でも、そろそろ彼らの「経営手腕」を表に立てる作品があってもよい。
「あさが来た」は前向きなお転婆を描くという点で朝の連ドラのテンプレ通りではあるが、経営の困難に知恵と根回しで挑むという点で「半沢直樹」や「下町ロケット」と同じ系譜にあり、それが広く視聴者を楽しませているように見える。
(当節のヒットドラマのもう一つのキーワードは「相棒」や「ガリレオ」に見られる「謎解き」だろう。大河ドラマでも「経営」と「謎解き」を組み合わせ、最終的には大きな国難を突破する話を選んではどうだろう。)

もう一つ、小説を読んで感じたのは、広岡浅子の足跡において、女であることは思ったほどに道を塞いでいないことだ。
少なくとも実家(のちの三井財閥)や嫁ぎ先(加島屋)ではかなり若いころから浅子に大きな権限を委ねていたふしがあるし、渋沢栄一、五代友厚らビジネス界隈の大物も彼女との面会、相談、支援に応えている。もちろん「女子と話す気はなか」と炭鉱鉱夫たちの反発を受けたり、そもそもまだ女性が普通選挙の対象でないという制限はある。それでも、浅子の困難の素因はたとえば幕末の金融政策の崩壊や炭鉱運営の困難によるものであって、女だから、ではない。
当時に比べれば女性の発言権は格段に伸張したはずなのに、現在、財界にも政界にも広岡浅子が見当たらないように思えるのはなぜだろう。

2014/06/03

Die versunkene Glocke 『メディアの苦悩 28人の証言』 長澤秀行 編著 / 光文社新書

Photo_2ここ数年、テレビや新聞を「オワコン」「マスゴミ」扱いし、その凋落を取り沙汰した書籍、雑誌は枚挙にいとまがない。
本書『メディアの苦悩』もメディアの危機を憂う1冊ではあるのだが、想像していたよりは格段に良書だった。

編著者の長澤秀行氏は、電通入社後、新聞広告を15年間担当、インターネット創成期にはデジタル・ビジネス局局長としてヤフーなどのネットニュース事業の立ち上げに携わり、のちサイバー・コミュニケーションズ代表取締役社長としてメディアレップ事業(インターネット広告の一次代理店業)を指揮。つまり、新旧メディアの現場で広告業を展開、実践してきた辣腕の人物、ということである。

その長澤氏が選んだインタビュー対象者の幅は広い。
大手新聞役員、テレビ局役員、ヤフー・ドワンゴ・ツイッター・ミクシィ・LINEなどのIT企業関係、ジャーナリスト、批評家、大学教授、広告クライアント……。

その28人が、それぞれ自らのかかわるメディアの都合の悪いところ、よいところを臆さず語る。
各メディアはさまざまな問題を抱えているが、いたずらに後ろ向きになるわけではない。いずれタダモノでない語り手ばかりである、全ページ、鋭い警句(と若干の身びいき)があふれる。
従来のメディア亡国論と異なるのは、語り手の幅を広げたことにより、よしんば紙の新聞やテレビの状況が危機的であったとしても、ダメ/ダメでないという二律背反のみに与せず、どのような生き残り方があり得るか、共存の可能性まで話題が広がっていることだ。

残念なことに編著者の物分りがよすぎて、語り手の言葉をその都度すんなり肯定してしまう。そのため、1冊の書籍としてみると、今後メディアがどちらに向かうべきか、そのあたりの主張ははっきりしない。
個人的意見としてでも、甘いものは甘い、切るべきものは切る、そんな姿勢も必要だったのではないか。
それでも、メディアの行く末を読み手各自がさまざまなスタンス、アングルから考える契機となる、その点をとっただけでも十分推奨に値する。よい意味で非常に疲れる本、ということも追記しておきたい。

なお、本書の別の(意地悪な)楽しみ方として、5年ばかり経って読み返すのもあり、と思う。
ここに取り上げられた多数のメディア、サービスのうち、はたしてどれが5年後も生き残っているのか。あるいはここにまだ登場していない全く新しい何かが覇者として君臨しているのか。
(たとえば本書ではハフィントン・ポストを比較的高く買っているようだが、オーマイニュースが苦戦したことを考えると、易々と成功するかどうか……。)

2012/03/28

コミック・エッセイにしかできないこと 『1年後の3.11 被災地13のオフレコ話』 ゆうみ・えこ / 笠倉出版社

311 遠まわしに書いてもしょうがない、ストレートに言おう。
 新聞、テレビなどの大手マスメディアは、東日本大震災に際し、一貫して被災地の遺体の写真、映像を避けて通した。その理由は理解できなくもないので、是非を問う気はない。
 ──だが、津波にのまれた人々の顔や手、赤い目印の下に眠る遺体を徹底的に排斥したカメラアングルは、震災の克明かつ全的記録とは言い難いものとなった。それは1つの事実だ。

 しかし、マンガなら。コミック・エッセイになら、それを描くことができるかもしれない。個人特定はされない。読み手の心の傷になるほどの苛烈な色や傷や腐敗具合は、選択的にぼかすことができる。濁流による死の瞬間も、遺体が積み重なった避難所の光景も、思うアングルから描けるだろう。

 『1年後の3.11 被災地13のオフレコ話』は、宮城在住のマンガ家ゆうみ・えこが、そのようなコミック・エッセイのメリットを活かし、新聞やテレビが扱うことのできなかった生々しい震災のありさまを描いた作品である。

 たとえば作者は、被災地のソープ街が盛況なことに眉を顰める人々に対して、

  ガレキの撤去に来ている人たちは過酷なのです
  重機を使ってガレキを持ち上げると…

と、ガレキとともにショベルカーに挟み上げられた遺体を描いてみせる。そのような仕事に疲れ果てた現場の労務者たちが“H”な行為に走るのは“生きている”ことの確認、人間らしいじゃないの、と作者はつぶやく。

 その他、遺体の指を切って指輪を盗む者、人群れを撥ねて逃げる車、無神経な報道カメラマン、震災泥棒等々、これでもかと筆者のペンは厳しい。
 しかし、本書は、いたずらにスキャンダラスな事実を暴くものではない。
 歩道の人群れを撥ね飛ばして逃げる車を目撃した女性は語る。

  本当に恐ろしいのは
  自分もやってしまうかもしれないことよ
  ──もし子供を乗せて逃げていたとしたら…
  もしかしたら私も…

 作者の心は常に被災地の人々に寄り添う。その語り口はナイーブで、不器用ながら前向きだ。うち続く悲惨な出来事の中で、静かに、誠実に光を求め続ける。
 この作品をこの1年の報道にあふれた「いい話」「悲惨な話」の一種と読み飛ばすことも不可能ではないだろう。しかし、そうして素通りできないのは、そこにリアルな遺体が描かれているからだ。それをそのように描く覚悟を決めた時点で、作者のカメラアングルは大きく広がったのだ。

 コミック・エッセイは、動脈硬化を起こし、形骸化した報道を砕く針となり得るか。なるだろう。ならなくてはならない。

2011/07/11

『出版大崩壊 電子書籍の罠』 山田 順 / 文春新書

Photo  へたれ。

 活字離れ、過剰流通、電子書籍など、出版業界の問題と未来を語る書物はできるだけ手に取るよう心がけている。本書はその中ではどちらかといえば敬意を払うことのできないものだった。
 要するに、かつて光文社で編集に携わっていた著者は、数年前のiPhone、iPadの登場にショックを受けて電子書籍の普及を扇動する側にまわり、数年を経て、思うような利益構造が得られない状況を「罠だった!」と騒いでいる。そういうことだ。

 編集者や新聞記者は、ときに(いつも?)自分たちの経験と表現力が読み手を誘導しているように思い込んでしまうようだが、そうではない。選択権は常に読み手にある。追い掛けているのはプロのほうなのだ。活字離れが起こっているのではなく、旧態依然とした新聞や雑誌が読まれなくなっただけだし、従来の大手出版社の手法ではヒット商品が出せなくなっただけ。「電子出版」にストーリー性の高いRPGやアドベンチャーゲーム、あるいはブログやケータイ小説を含めるなら、革命はとっくに始まっている。「本」の体裁をしていて利益が出るものを制作、配布することだけを「出版」と思い込むほうが古いのだ。

 本書においても、そこかしこに「読み手はこれまでのプロの提供するものを読んでいればよいのだ」的驕慢な言い回しが見え隠れする。詳細に指摘しようかとも思ったが、面倒なのでやめておく。
(なお、本書で問題とされていることなら、このブログに昨年11月にアップした「電子書籍について気になるいくつかのこと」(その一からその七まで)においておおむね指摘済み。つまり、門外漢にもその程度ならすぐ先読みできるということだ)

 一つ、指摘しておきたい。
 『出版大崩壊』とは、大手出版社、流通、印刷業界に起こりつつあった出口のない混乱を描いた小林一博のドキュメンタリーのタイトルである。10年前、出版業界にそれなりに衝撃を与えた書籍のタイトルを芸もなくそのまま使ってしまうのは、不勉強か無神経のいずれかだろう。iPadでAmazon.co.jpにアクセスすれば1分もかけずにチェックできることなのだから。

より以前の記事一覧