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2025/06/02

『怪獣談 文豪怪獣作品集』 武田泰淳、香山滋、光瀬龍ほか 東雅夫編 / 平凡社ライブラリー

わお! と飛びついて購入した怪獣本であるが、いかんせんいくつかの点でよろしくない。

一つは本書の成り立ちである。巻末の編者解説には、次のように書かれている。

  最初にお断りしておこう。
  本書は、私にとって「アンソロジスト」のデビュー作となった『怪獣文学大全』(河出文庫/一九九八年八月発行)の、待望久しい復刊である。一部の読者から熱心な復刊の御希望が寄せられ、ウェブなどでも古書価が高騰して心苦しい思いでいたのだが、このほどようやく念願を果たすことができた。

──ところが、本書が河出文庫の『怪獣文学大全』の復刊であることはカバーにも帯にもその記載がない。武田泰淳、香山滋、光瀬龍ら共通の著者名はあるものの、『怪獣談』なる新たなアンソロジーと考えて買ってしまった者も少なからずいたのではないか。

編者解説はさらに続く。

  再刊にあたっては、収録作の見直しを行ない面目を一新している。

「古書価が高騰」して「復刊の御希望が寄せられ」たアンソロジーの再刊において収録作を見直されたら読み手はちょっと困る。
旧『怪獣文学大全』を持っている者は大半の内容のかぶった本を買ってしまうことになり、持っていない者は旧巻の一部の作品を読むことができない。
なんとも意地悪な仕業ではないだろうか。

それぞれの収録作を下に列記しておこう。

Photo_20250602183801  『怪獣文学大全』(河出文庫)

  「ゴジラ」の来る夜(武田泰淳)
  発光妖精とモスラ(中村真一郎・福永武彦・堀田善衛)
  闇の声(W・H・ホジスン、大門一男訳) ★
  マタンゴ(福島正美)
  マタンゴを喰ったな(橋本治) ★
  更にマタンゴを喰ったな(橋本治) ★
  マタンゴ(大槻ケンヂ) ★
  科学小説(花田清輝)
  ガブラ──海は狂っている(香山滋) ★
  マグラ!(光瀬龍)
  日本漂流(小松左京) ★
  レッドキングの復讐(井上雅彦) ★
  ゴジラの来迎 もうひとつの科学史(中沢新一) ★
  巻末エッセイ 思い出の「マグラ!」(光瀬龍)

Photo_20250602183901  『怪獣談 文豪怪獣作品集』(平凡社ライブラリー)

  怪獣絵物語 マンモジーラ(香山滋・文/深尾徹哉・絵) ▲
  「ゴジラ」の来る夜(武田泰淳)
  発光妖精とモスラ──【上】草原に小美人の美しい歌声(中村真一郎)
  発光妖精とモスラ──【中】四人の小妖精見世物となる(福永武彦)
  発光妖精とモスラ──【下】モスラついに東京湾に入る(堀田善衛)
  怪奇科学小説 ラドンの誕生(黒沼健) ▲
  S作品検討用台本(『獣人雪男』)(香山滋) ▲
  マタンゴ(福島正美)
  マグラ!(光瀬龍)
  思い出の「マグラ!」(光瀬龍)
  『ゴジラ』ざんげ(香山滋) ▲
  怪獣談(香山滋) ▲
  科学小説(花田清輝)
  怪奇空想映画療法(東山魁夷) ▲
  「子供っぽい悪趣味」讃(三島由紀夫) ▲

★印が『怪獣談』でカットされたもの、▲印は追加されたもの。

再刊というにはずいぶんと差異が大きいが、それはさておき、東山魁夷と三島由紀夫の往復書簡など、資料性の高いものもあるが、原案のホジスンから橋本治や大槻ケンヂを加えてのマタンゴ万漢全席、あるいは小松左京、井上雅彦らによる怪獣パロディ、さらに怪獣の姿に「能楽におけるシテ(能役者)の動き」を読み取る編者解説の水準含め、旧『怪獣文学大全』のほうが格段に知的、エスプリ臭が強い。
ゴジラが銀幕に登場した1950年代はいざしらず、怪獣映画が幾度かのブームを迎えたのちの時代から見て、怪獣そのものを俯瞰、消化し、的確にとらえていたのは旧『怪獣文学大全』のほうだったのではないだろうか。

さて、本稿最初の1行で「いくつかの点でよろしくない」と述べた。
もう一つの問題は、文字にされた「怪獣」はなぜこうも面白くないか、ということである。
これは『怪獣文学大全』、『怪獣談』の収録作に限ったことではない。

たとえばこのブログでも、過去、怪獣映画、ドラマへのオマージュとしての『大魔神』(筒井康隆、徳間書店)、『マタンゴ 最後の逆襲』(吉村達也、角川ホラー文庫)、『MM9』(山本弘、創元SF文庫)、『空の中』(有川 浩、角川文庫)、『怪獣文藝』(東雅夫 編、メディアファクトリー 幽ブックス)、『ウルトラ怪獣アンソロジー 多々良島ふたたび』(山本弘、小林泰三ほか、ハヤカワ文庫)、大怪獣のあとしまつ』(橘もも 脚本・三木 聡、講談社文庫)などいくつかの作品を取り上げてきたが、いずれもこと怪獣の描写においては「怪獣映画」の魅力にはいたらなかったように思う。

もちろん、巨大な怪獣が東京湾から上陸して銀座を破壊する、などという状況において、文章より映像や効果音(『ゴジラ-1.0』の足音!)に格段の優位があるのは間違いないだろう。だが、それでは片付かない力のなさを多くの怪獣文学には感じざるを得ない。
たとえば怪獣がいざ現れるときの、その直前の雰囲気はどうか。姿を見せる前に場に響き渡る音は。現れるのは山影か、ビルの向こうか。それを人々は見上げるのか、遠く眺めるのか。怪獣の動きは素早いのか、ゆっくりか(もしその怪獣の着ぐるみにアクターが入っているなら、特技監督としてどう指示するのか)。人を殺傷するならそれは炎でもってか、牙の並ぶ口でかみ砕くのか。そのときBGMにはいかなる音楽が流れているべきか。

モスラやマタンゴの原作となった作品はともかく、怪獣映画がブームとなって以降の怪獣文学において、書き手のそれぞれに「しょせん子どもだまし」といった意識はなかったろうか。
各作品に、円谷英二や伊福部昭らの執念を読みとることがどうしてもできないのだ。

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