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2025年6月の3件の記事

2025/06/10

おやすみセニョリタ 『ROCA コンプリート』 いしいひさいち / 徳間書店

説明のつかない本というものが、ときどき、ある。
それは頭の上から(物理的に)降ってきたり、曲がり角を折れたところで(化学的に)突き刺さってきたりする。
説明など、ない。
ほかの言葉に置換できるようなら、そんなものは作品ではない。

Roca_20250609184101 『ROCA』の話だった。

『ROCA』は、吉川ロカという一人の女子高生が、(ポルトガルの国民歌謡たる)「ファド」の歌い手となる、その過程を描く一連の(主に)4コママンガである。

背景を記すなら、朝日新聞掲載のいしいひさいち『ののちゃん』のサブキャラとして登場した吉川ロカと柴島美乃のからみ(当初はギャグ色が強かった)がのちに自費出版版『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』にまとめられ、それに続編『花の雨が降る ROCAエピソード集』、『金色に光る海 ROCA短篇集』、さらに描き下ろしを加えて1冊にまとめられ、一般書籍化として徳間から発売されたものが今回の『ROCA コンプリート』である。

個人的な感想は『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』、あるいは『ののちゃん全集』の折々の書評に置いてきたのでここでは繰り返さない。
今回ちょっと思いついたことは、『ROCA』の物語は、その4コマの側から溢れてくるものではなく、読み手側から作品に流れ込んでいくものだということだ。
僕たちはいしいひさいちの描く吉川ロカと柴島美乃に笑いや感動を与えられるのではない。ただ、読み手が2人を寿ぎ、読み手が2人を慈しむ。
それが、すべてだ。

さて、ようやく1冊にまとまり普通の書店で手に入るようになった『ROCA』だが、その内容に(まことに身勝手極まりない)難点を指摘するとしたら次のことだ。

本書はいしいひさいちの作品から吉川ロカと柴島美乃の登場するものを切り抜き、再配置したものである・・・がゆえに、この1冊のみを読んだ場合、それが、『ののちゃん』の山田家の町を舞台にした物語であるという実感が持てない。
山田家の町でかつて連絡船の海難事故が起こり、両親を亡くした2人の少女が出会い、その一人の励まし(?)を得てもう一人がファドの歌手として育っていく。
ただの話ではない。これは、いしいひさいちの手で何十年にもわたり何千話も書かれたその山田家の物語と地つなぎだからリアリティがあるのである。そうでないとこの1冊の中に収められた4度のラストシーンを両手に掴めない。片手ではこぼれてしまう。

だから、こうして「コンプリート」された『ROCA』の物語になんらかの感銘を受けたという方がおられるなら、どうか『ののちゃん』の全集本から自費出版版まで手間をかけ、最初から物語をたどっていただけたら、と思う。
これはその労力に足る、貴重で豊かな物語なのだと思う。

2025/06/09

長島茂雄追悼特集

「読売ジャイアンツ終身名誉監督、長嶋茂雄氏が亡くなられた」
「昭和を代表するスーパースターがまた一人。残念なことです」
「昭和100年にあたる年の、永久欠番ともなった3のつく日、89(やきゅう)歳で亡くなられた、などとも言われている」
「告別式の喪主もご子息の三奈さんでありました」
「しかし、昭和の太陽のような氏の扱いに、本当に影はなかったのか」
「影、ですか」
「そう、ここでは、プロ野球に関わる、昭和史の秘話を少々ご紹介しよう」
「秘話。それは楽しみですが、いったい」
「うむ。1959(昭和34)年6月25日、巨人阪神11回戦。昭和天皇がただ一度プロ野球を観戦した、いわゆる天覧試合。昭和の英雄長島茂雄が阪神村山実からサヨナラホームランを打った、あの試合であります」
「手元の読売新聞、翌日の朝刊によれば、『両陛下ナイターご観戦 長島選手にニコニコ 五ホーマー-体を乗り出す』」
「ところが、この試合に、重大な疑義がある」
「あのホームランはやっぱり、ファールだった、と」
「いや、そんな甘やかなものではない。昭和史の最暗部に属す、世にも恐ろしい陰謀です」
「陰謀、ですか」
「そう。話は少々飛ぶが、1989(昭和64)年1月、昭和天皇崩御」
「我々昭和人としては、天皇制の是非は別として、忘れられない出来事でありますが」
「その年、さる筋の指揮により、各界の主だった人物が昭和天皇の御供、つまり贄として暗殺された」
「なんと。それは穏やかでない」
「いやいや。昭和64年、すなわち平成元年に亡くなった顔ぶれを見てご覧。経済界からは松下幸之助、芸道から美空ひばり、漫画家では手塚治虫。いずれも昭和の時代を代表する人物ばかり。吉田茂や力道山、川端康成、湯川秀樹らはすでに故人であった」
「おお」
「暗殺には、名前は出せませんが八瀬童子縁故のある人物があたった。相撲界からは大鵬、若乃花どちらがという議論の末、少し遅れて栃錦清隆すなわち春日野理事長が翌1990年1月10日に亡くなって、大葬の礼に間に合わせている」
「うーむ。それは」
「しかし、ここで注目していただきたいのは、ではなぜプロ野球界から誰一人大物が選ばれなかったか。本来、昭和を代表する人物として、長島茂雄ほど御供にふさわしい人物はないはず」
「言われてみればその通りですが」
「いや、そもそも、昭和天皇が長島の天覧ホームランを本当に心からお喜びになられたのなら、なぜ天覧試合は二度と設けられなかったのか。警備が難しい、ということになっているが、相撲はあのようなオープンな場で何度もご覧になっているわけです」
「ふーむ」
「これらの事実は、すべてある1つの事実を指し示している」
「それはいったい」
「昭和天皇は………実は熱烈な阪神ファンであったのです!」

2025/06/02

『怪獣談 文豪怪獣作品集』 武田泰淳、香山滋、光瀬龍ほか 東雅夫編 / 平凡社ライブラリー

わお! と飛びついて購入した怪獣本であるが、いかんせんいくつかの点でよろしくない。

一つは本書の成り立ちである。巻末の編者解説には、次のように書かれている。

  最初にお断りしておこう。
  本書は、私にとって「アンソロジスト」のデビュー作となった『怪獣文学大全』(河出文庫/一九九八年八月発行)の、待望久しい復刊である。一部の読者から熱心な復刊の御希望が寄せられ、ウェブなどでも古書価が高騰して心苦しい思いでいたのだが、このほどようやく念願を果たすことができた。

──ところが、本書が河出文庫の『怪獣文学大全』の復刊であることはカバーにも帯にもその記載がない。武田泰淳、香山滋、光瀬龍ら共通の著者名はあるものの、『怪獣談』なる新たなアンソロジーと考えて買ってしまった者も少なからずいたのではないか。

編者解説はさらに続く。

  再刊にあたっては、収録作の見直しを行ない面目を一新している。

「古書価が高騰」して「復刊の御希望が寄せられ」たアンソロジーの再刊において収録作を見直されたら読み手はちょっと困る。
旧『怪獣文学大全』を持っている者は大半の内容のかぶった本を買ってしまうことになり、持っていない者は旧巻の一部の作品を読むことができない。
なんとも意地悪な仕業ではないだろうか。

それぞれの収録作を下に列記しておこう。

Photo_20250602183801  『怪獣文学大全』(河出文庫)

  「ゴジラ」の来る夜(武田泰淳)
  発光妖精とモスラ(中村真一郎・福永武彦・堀田善衛)
  闇の声(W・H・ホジスン、大門一男訳) ★
  マタンゴ(福島正美)
  マタンゴを喰ったな(橋本治) ★
  更にマタンゴを喰ったな(橋本治) ★
  マタンゴ(大槻ケンヂ) ★
  科学小説(花田清輝)
  ガブラ──海は狂っている(香山滋) ★
  マグラ!(光瀬龍)
  日本漂流(小松左京) ★
  レッドキングの復讐(井上雅彦) ★
  ゴジラの来迎 もうひとつの科学史(中沢新一) ★
  巻末エッセイ 思い出の「マグラ!」(光瀬龍)

Photo_20250602183901  『怪獣談 文豪怪獣作品集』(平凡社ライブラリー)

  怪獣絵物語 マンモジーラ(香山滋・文/深尾徹哉・絵) ▲
  「ゴジラ」の来る夜(武田泰淳)
  発光妖精とモスラ──【上】草原に小美人の美しい歌声(中村真一郎)
  発光妖精とモスラ──【中】四人の小妖精見世物となる(福永武彦)
  発光妖精とモスラ──【下】モスラついに東京湾に入る(堀田善衛)
  怪奇科学小説 ラドンの誕生(黒沼健) ▲
  S作品検討用台本(『獣人雪男』)(香山滋) ▲
  マタンゴ(福島正美)
  マグラ!(光瀬龍)
  思い出の「マグラ!」(光瀬龍)
  『ゴジラ』ざんげ(香山滋) ▲
  怪獣談(香山滋) ▲
  科学小説(花田清輝)
  怪奇空想映画療法(東山魁夷) ▲
  「子供っぽい悪趣味」讃(三島由紀夫) ▲

★印が『怪獣談』でカットされたもの、▲印は追加されたもの。

再刊というにはずいぶんと差異が大きいが、それはさておき、東山魁夷と三島由紀夫の往復書簡など、資料性の高いものもあるが、原案のホジスンから橋本治や大槻ケンヂを加えてのマタンゴ万漢全席、あるいは小松左京、井上雅彦らによる怪獣パロディ、さらに怪獣の姿に「能楽におけるシテ(能役者)の動き」を読み取る編者解説の水準含め、旧『怪獣文学大全』のほうが格段に知的、エスプリ臭が強い。
ゴジラが銀幕に登場した1950年代はいざしらず、怪獣映画が幾度かのブームを迎えたのちの時代から見て、怪獣そのものを俯瞰、消化し、的確にとらえていたのは旧『怪獣文学大全』のほうだったのではないだろうか。

さて、本稿最初の1行で「いくつかの点でよろしくない」と述べた。
もう一つの問題は、文字にされた「怪獣」はなぜこうも面白くないか、ということである。
これは『怪獣文学大全』、『怪獣談』の収録作に限ったことではない。

たとえばこのブログでも、過去、怪獣映画、ドラマへのオマージュとしての『大魔神』(筒井康隆、徳間書店)、『マタンゴ 最後の逆襲』(吉村達也、角川ホラー文庫)、『MM9』(山本弘、創元SF文庫)、『空の中』(有川 浩、角川文庫)、『怪獣文藝』(東雅夫 編、メディアファクトリー 幽ブックス)、『ウルトラ怪獣アンソロジー 多々良島ふたたび』(山本弘、小林泰三ほか、ハヤカワ文庫)、大怪獣のあとしまつ』(橘もも 脚本・三木 聡、講談社文庫)などいくつかの作品を取り上げてきたが、いずれもこと怪獣の描写においては「怪獣映画」の魅力にはいたらなかったように思う。

もちろん、巨大な怪獣が東京湾から上陸して銀座を破壊する、などという状況において、文章より映像や効果音(『ゴジラ-1.0』の足音!)に格段の優位があるのは間違いないだろう。だが、それでは片付かない力のなさを多くの怪獣文学には感じざるを得ない。
たとえば怪獣がいざ現れるときの、その直前の雰囲気はどうか。姿を見せる前に場に響き渡る音は。現れるのは山影か、ビルの向こうか。それを人々は見上げるのか、遠く眺めるのか。怪獣の動きは素早いのか、ゆっくりか(もしその怪獣の着ぐるみにアクターが入っているなら、特技監督としてどう指示するのか)。人を殺傷するならそれは炎でもってか、牙の並ぶ口でかみ砕くのか。そのときBGMにはいかなる音楽が流れているべきか。

モスラやマタンゴの原作となった作品はともかく、怪獣映画がブームとなって以降の怪獣文学において、書き手のそれぞれに「しょせん子どもだまし」といった意識はなかったろうか。
各作品に、円谷英二や伊福部昭らの執念を読みとることがどうしてもできないのだ。

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