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2025年4月の6件の記事

2025/04/28

『夢と幽霊の書』 アンドルー・ラング、ないとうふみこ 訳 / 作品社

Photo_20250428184501 少し前、ジャン・レイの『幽霊の書』を手に入れようとAmazonで検索したら、この『夢と幽霊の書』も引っかかった。
まあ、タイトルが似ているからな・・・とカスタマーレビューをぱらぱら読んでみたらなかなか面白そうだったので、こちらも取り寄せてみた。
「夢と幽霊」にかかわる本の内容はさておき、書物としての成り立ちがなんとも興味深いのである。

ともあれ、帯の惹句をご覧いただこう、

  ルイス・キャロル、コナン・ドイルらが所属した
  心霊現象研究協会の会長による幽霊譚の古典、
  ロンドン留学中の夏目漱石が愛読し、
  短篇「琴のそら音」の着想を得た名著、
  120年の時を越えて、待望の本邦初訳!

吉田篤弘の解説をもとに補完すると、漱石の『思い出す事など』の一節に

  八九年前アンドリュ・ラングの書いた「夢と幽霊」という書物を床の中に読んだ時は、鼻の先の灯火を一時に寒く眺めた。

とあって漱石はイギリスに留学していた時期に本書を読み、さらに「琴のそら音」ほか、幾度か本書に触れているらしい。

また、柳田国男を遠野にいざなった水野葉舟という人物が本書の一部を紹介した、ともある。

・・・漱石や柳田など、大物、古参から学生まで星の数ほども研究、発表がなされてきただろうに、この『夢と幽霊の書』がたいして話題にならず、2017年の完訳までほとんど放置されてきたのが不思議でならない。

さて、その『夢と幽霊の書』の内容だが、著者ラングはさまざまな奇怪な体験を著したソースから、「夢」「幻視」「幻覚」「生霊」「死者の幽霊」「幽霊屋敷」「その他のさまざまなおばけ」等と項目を分け、詳細な感想を加えつつ並べていく。

バッキンガム公暗殺の予言など、一部に物語的な項目もあるが、全体に起承転結、因果応報の明らかな「怪談」よりはただ「怪奇現象」のレポート色が強い。幽霊屋敷の項も、亡霊が出没するいわゆる「お化け屋敷」でなく、ポルターガイストの事例が中心である。
イギリスやアイスランドの民話を収集したという面では柳田の『遠野物語』を想起させるし、知人の実体験を集めたという要素では近年の実話怪談集を思わせる。
・・・最も驚くべきは、心霊現象研究協会の会長がこれだけ労力をかけて集めながら、さすが産業革命のお国柄というか、著者ラングは全編において「幽霊」の存在には懐疑的なのである。
それは著者の

  今のところすべての幽霊は幻覚であり・・・(中略)・・・かつて幽霊は、肉体や墓から解きはなたれた、生者あるいは死者の「霊魂」だと考えらえていた。この見方は、どう擁護しようと、そしてまた真偽は別として、未開人の素朴な考え方を表すものだ。(7ページ)

  物理的に説明のつかない幽霊的なものは、科学の観点からするとすべて幻影であるということと、物語という目的に照らすと、幻影がどれもみな幽霊であるわけではないということを心に留めておいていただきたい。幽霊であるためには、その幻影が事実と符合するものでなくてはならないのだ。(82ページ)

などの文言からうかがい知れる。また、

  つぎの事例は、心霊現象研究協会が発表し、本人とその夫が実話であると証言しているものだ。(80ページ)

  死の床にある者が遠くに姿を現すというのは、実に頻繁に聞かれる話で、何百という事例がきちんとした形で公表されている。(94ページ)

  ここからは幽霊のようなものに対する「科学的」説明の極限を踏み越える話を紹介していこう。(106ページ)

などの表記にも注意したい。
スマホで動画撮影、SNSにアップ、などという昨今と違い、当時としては名のある人物による「証言」「公表」こそが事実の証しなのである。
著者はその一つひとつに科学的説明を試み、それがかなわないときには夢や幻覚、あるいはテレパシーをはじめとするさらなる科学的説明の可能性を説く。

さまざまな心霊現象、怪奇現象、幽霊屋敷の例を集めた本書について、先に『遠野物語』や実話怪談集との相似を指摘したが、こうしてみると実のところそれらとは真逆な姿勢で書かれたものかもしれない。
そのあたり、蒲松齢の『聊斎志異』と同じく志怪小説として書かれながら、懐疑的精神にあふれた紀昀の『閲微草堂筆記』に近いような気もする。

2025/04/24

『2022 ザ・ベストミステリーズ』 日本推理作家協会編 / 講談社文庫

2022_20250424185501 講談社文庫から1974年以来発行されてきた「ミステリー傑作選」(日本推理作家協会編)──最近は「ザ・ベスト・ミステリーズ」とタイトルされている──の紹介も数がたまってきたので、「ミステリ・サスペンス」とは別に複数の作家によるミステリ短篇を集めたオムニバス、アンソロジー専用に「ミステリー傑作選」というカテゴリーを起こすことにした。
まあ、書き手である烏丸が過去分を確認するための索引が主たる目的なのでどうぞお気になさらず。

さて、その「ザ・ベストミステリーズ」の新作である。
目次は以下のとおり。

  逸木 裕「スケーターズ・ワルツ」 
  大山誠一郎「時計屋探偵と二律背反のアリバイ」
  芦沢 央「アイランドキッチン」
  川瀬七緒「攻撃のSOS」
  杉山 幌「光を描く」
  大門剛明「手綱を引く」
  笛吹太郎「コージーボーイズ、あるいは謎の喪中はがき」
  米澤穂信「ねむけ」

このところガブリエル・ガルシア=マルケスやホセ・ドノソら、ちょっと面倒で面妖なラテンアメリカ文学にはまっていたせいか、今回はわりあい素直に「短篇ミステリって楽しーい!」気分を味わえた。
「殺人事件があり、探偵が天才的推理で謎を解く」という黄金パターンが少ないのが最近の傾向なのだが、それでもいくつかの作品では明確な「悪」が描かれ、その分明確な「悪」の登場しないいわゆる「日常の謎」界隈の作品も新鮮な気持ちで読むことができた。

以下、雑感。

逸木 裕「スケーターズ・ワルツ」は音楽家の世界をテーマに10年前の事件を解きほぐす。伏線から後味まで、よい仕事、綺麗な仕上げ。
一点だけ、(ほとんどいちゃもんの類だが)探偵役の主人公は父親の興した探偵事務所に務め、ドイツ料理のレストランでメニューを見ると「見たこともない料理名で埋め尽くされていた」、ピアニストに指揮者の名前を問われると「小澤征爾なら知ってます。あとは、カラヤンって人、いましたよね?」と答えてヴィルヘルム・フルトヴェングラー、カルロス・クライバー、ヴァレリー・ゲルギエフについては「聞いたことすらない」。
ところが、そういうはっきりいえばガチャなキャラクター設定の一方でたとえば「気まぐれを起こして休まなければ、このワインがわたしの舌を撫でることはなかったし、この音楽がわたしの耳に触れることもなかった」云々という地の文はどうだろう。

大山誠一郎「時計屋探偵と二律背反のアリバイ」、時計店店主の女性がアリバイ崩しのスペシャリストという設定に覚えがあると思ったら、テレビ朝日の連続ドラマ「アリバイ崩し承ります」の原作であったか。
犯人は同時に起こった2つの殺人事件の容疑者として警視庁と所轄の那野県警を混乱させる・・・という設定も、精緻なアリバイ崩しも面白い。面白いのだが・・・これ、警視庁か所轄の一方が怠惰、もしくはほかの容疑者を追ったとしたら、犯人、普通に逮捕されて有罪になるんじゃないか・・・?

「アイランドキッチン」、芦沢央が巧いのはもうわかった。いわゆるイヤミス、逮捕されない悪。黙って読むから許して。

川瀬七緒「攻撃のSOS」、極めて特殊な技能をもった主人公が事件にあたる、という設定はシリーズものの設定として悪くはないのだけれど、その特技についてスーパーマンに過ぎると、そこ以外で制限をかけないと締まったお話にならない。という作家の苦労がしのばれる作品。その制限のほうで、少し読むのがつらい。

杉山 幌「光を描く」、高校野球の公式戦で、実力では上回っているはずの相手校にストレートを狙い打たれてリードされる。サインが盗まれているのではないか・・・?
青春の、光と影を描いて秀逸だが、イジワルな読み手はこの作品も「味方が相手ピッチャーをカンカン打ち崩して大量リードしていたらどうなったろう」と余計な心配が残った。むしろ、そうなった場合のほうがよほど大変だ。

笛吹太郎「コージーボーイズ、あるいは謎の喪中はがき」、今回の1冊のなかで、いちばんお気楽、呑気な風体で、実際殺人も悪人も登場しない作品なのだが、「身内に不幸が起こったわけでもないのに姉が喪中はがきを出した」という謎(ホワイダニット)に対し、登場人物たちが毒入りチョコレートもかくやの議論伯仲、最後にこの上ない見事な伏線返し。構成といい爽やかさといい、文句なし。

「ねむけ」、米澤穂信の学園モノは正直言って少し苦手なのだけれど、こういう作品を読むとその力量は評価せざるを得ない。ストーリーや謎解きの巧さのみならず、全体をみっしりと押し包む雰囲気が同時にプロットでもある、という構図のすさまじさ。これは単行本『可燃物』も読まないといけないなあ(こういう出会いがアンソロジーを読む楽しみでもあります)。

大門剛明「手綱を引く」、これだけ順番が入れ替わっているのは、ほかの各作品はあーだこーだと重箱の隅を楊枝でほじくりつつ根っこのところでは楽しみ、また感心したのに比べ、鑑識犬を扱う本作品は素直に面白がることはできなかったため。
登場人物はある事実に気がつき、2つのうちどちらを選ぶかで迷う・・・。
いや、待て。私立探偵を主人公にする探偵小説ならいざしらず、警察小説で迷うのはその2つのどちらかではないでしょう。回りもそれを許すんじゃない。

2025/04/14

『族長の秋』 ガブリエル・ガルシア=マルケス、鼓 直 [訳] / 新潮文庫

Photo_20250414163701百年の孤独』新潮文庫版には訳者のあとがきに加えて筒井康隆の解説も載っていて(贅沢)、そこに

  ほんとうのことを言うと、実はおれのお気に入りは、マルケスが本書の八年後に書いた「族長の秋」なのである

とあったので、新潮文庫版が出るのを楽しみに待っていた。
(『族長の秋』は一度集英社からも文庫化されているが、その頃は(正しくは現在も)ラテンアメリカ文学を少し苦手にしていて、敬して遠ざけていたと認めるはこの烏丸、破れ傘刀舟悪人狩り、もといやぶさかではない)

ではどのように待っていたかというと、我ながら生真面目大魔王、いつ『族長の秋』が出てもよいよう『予告された殺人の記録』(新潮文庫)に『エレンディラ』(ちくま文庫)を読んでマルケスに目を慣らしておいた次第。ちなみに『ママ・グランデの葬儀』は40年ほど前に読んでいたので今回はパス。内容はよく覚えてないけど。

ただ、マルケスが「最高作」と呼んだという中篇『予告された殺人の記録』はおおよそマジックな詩情を感じられず、ラテ文学の面倒なところばかり悪目立ち、かたや短篇集『エレンディラ』のタイトルチューン「無垢なエレンディラと無常な祖母の信じがたい悲惨の物語」はなるほど魅力的ではあるが『百年の孤独』を読んでしまうとその一部を切り取ったような、つまり短篇として自立したものとして読むと食い足りない、そのように感じられた。

などなどの期待と混乱のもと開幕したEXPO 2025 大阪・関西万博、もとい『族長の秋』だが、、、
よくよく考えたら、筒井康隆はその書いた作品は好きだが書評家としては必ずしも馬が、いや、ここでは牛が合わないというか、そういえば筒井作品は1981年の『虚人たち』あたりから必然としてちょっと距離を置かざるを得なくなったものだが、この『虚人たち』は直接的にはル・クレジオの『巨人たち』へのオマージュだったにせよ、技法・作法以前に虚構をページに定着させるという意欲においてマルケスの影響もあったのかもしれない、根拠もない物言いではあるが。

『族長の秋』はラテンアメリカの架空の国の独裁者の人生を「現実的なものと幻想的なものを結合させて、ひとつの大陸の生と葛藤の実相を反映する、豊かな想像力の世界」(ノーベル賞受賞時の評価)として描き上げたものである。
それが期待より若干物足りなかったその理由は大きく二つあって、一点は『百年の孤独』はマコンドという村を舞台に一人でなく一族の愛と悲惨の記録を綿々と描いたこと。『族長』はいくら頑張っても一個人の人生に過ぎず、随所に不思議で奇抜で頓狂な魅力はあっても全体として圧倒されるかというとそこが少し寂しい。
もう一点は『族長』の人生をさまざまなアングル(六方向)から描いたにしても、結局外目に見た起承転結は同じ彼の生と死の六度の繰り返しになってしまい、やや意外性に欠けた、盛り上がりに欠けた、ということか。
もちろん、意外性ということでは一つひとつのイベント、人間関係の壮絶さは予想を上回るレベルで、世人のかなう水準ではない。
上記はあくまで『百年の孤独』と比べての、個人の感想である。

おまけ。
『族長の秋』新潮文庫版には池澤夏樹による解説が添えられているのだが、そこにはラテンアメリカの特殊性を伝えるために「マジックに見えるリアリズムの例を一つ挙げよう」として「コモドーロ・リバタビアの凄まじい南極風」がサーカスのテントを吹き飛ばして動物たちが海へ運ばれたという話が載っている。
・・・それをして「リアルとマジックの間の段差はまことに低い」というのは文学的なマジック・リアリズムの説明としてはちょっと違うのではないだろうか。そもそも赤道直下のコロンビア文学とアルゼンチン南部の南極風を十把一絡げに語られても。

2025/04/07

『幽霊の書』 ジャン・レイ、秋山和夫 訳 / 国書刊行会

Photo_20250407183201偏愛蔵書室』に取り上げられていた一冊。
諏訪哲史による本書の紹介文にかのローデンバック『死都ブリュージュ』が触れられており、同書に近しい読み香が得られるかも!と古書サイトから取り寄せてみた。

結論から言うと『死都ブリュージュ』、さらにクノップフ描く「見捨てられた町」ともあまり縁のない作風、むしろ収められた短篇のいくつかは幽霊を題材としつつも因果応報のドタバタに終始する奇譚、寓話の類で、しんと背後の冷えるような怪異譚は期待すべくもなかった。

巻頭の「私の幽霊(赤いスカーフの男)」はじめ、作者は「これは作り話ではない」と自身の経験、ないし親しい者から聞いた話であることを強調するのだが、その分、舞台や登場人物についての説明が回りくどく、読みづらい。
「マーシャル・グローブの話」にいたっては、作者自身が展開のくどさを作中であれこれ言い訳しているほどだ。
さらに、主人公が謎の動物に姿を変えて失踪する話や、叔父がなんと死神だった話、12人の若者が13人になって「そして誰もいなくなった」話など、恐怖小説、怪談というよりはお化けの出てくる落とし噺とみなすほうが妥当かもしれない。

そんな中、怪談として「従弟パスルゥ」は秀逸。
ターミネーターのごとく執拗な怨霊に従弟パコーム・パスルゥが復讐される、それだけならともかく、美味しい食事ばかりが楽しみな人の好い主人公ジョー・ジェレールまで巻き添えくらってあんなことになろうとは。

もう一篇、「通り」、これは『偏愛蔵書室』でも話題にされていたが、これは時代を越えて読まれるべき作品かもしれない。
なんでもない日常の中、そこを通ることに理由なき恐れのわくさまざまな「通り」を扱うもので、日本でいえば、土地に対して地鎮祭が必要、とか、そういった感覚だろうか。
菓子店に入ると「日本風の呼鈴の音が切れ切れに鳴って」とあるのも楽しい。

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さて、ここからは、烏丸のシュミのお時間。
この『幽霊の書』という「本」は、どこか、おかしい。微妙にタガが外れているのだ。

本や雑誌の編集用語で「ノンブル」「柱」というのをご存知だろうか。
「ノンブル」はページ数、「柱」は書名、章名などを記したもので、いずれもページの余白に置く。
縦書きの文庫でなら、見開き右ページの右下に偶数の「ノンブル」、左ページ左下に奇数の「ノンブル」、左ページ左上に作品名などの「柱」、といったあんばい。

ところが『幽霊の書』では、下の画像のとおり、左右の「ノンブル」を左ページ右下に「51|50」と列記、右ページ左下に短篇タイトルの「シュークルート」という「柱」を配置している(画像をクリックすると大きくして見ることができます)。
珍しいパターンではあるが、これはこれでオシャレで悪くない。合理性はともかく、「ノンブル」も「柱」も、あれば便利、余白のどこかにあればよい、程度の存在なのだから。2_20250407183301

問題は・・・次の画像は本書の目次ページ。
上の画像で「シュークルート」に続き51ページから始まる短篇「ヴォールミュート氏とフランツ・ベンシュネーダー」のタイトルが・・・ない。3_20250407183301

まだまだある。次の画像は143ページ、「従弟パスルゥ」の一部。なんだこれ。
この後のページでも、パスルゥ君は「従」になったり「従」になったり大忙しだ。4_20250407183401

さて、上記のような誤植の類はさておき、『幽霊の書』で一番の不満は、本文以外、この作品についての資料が何一つない、そのことだ。

訳の秋山和夫氏は、巻末の「ジャン・レイについて」という解説でジャン・レイの人となり、代表作について16ページにわたり熱く語る。
しかし、「本書はベルギーの作家ジャン・レイJean Rayの短篇集『幽霊の書』Le livre des fantomésの全訳である」と書き起こすのを最後に、肝心の『幽霊の書』にはそれっきり戻ってこない。
主な代表作についてはその収録作の一つひとつまであらすじ、あらましを説明する、その丁寧さの一方で、ついに『幽霊の書』が作者何歳の作品で、どのように書かれ、どのように発表されたか等々は何一つ明らかにされないのだ。

ジャン・レイは1964年まで生きていたそうだから、1979年発行の『幽霊の書』にはCopyright表記だって必要だったと推察するが、それもない。
ハードカバーできっちりかっちり刊行されていながら、情報においてまるで幽霊のよう。それがこの『幽霊の書』なのである。

2025/04/04

短評 『片田舎のおっさん、剣聖になる(7)』 乍藤和樹 / 秋田書店 ヤングチャンピオンコミックス

Photo_20250404185001 剣と魔法の世界はどちらかといえば少し苦手で、この作品(コミックス)も1巻から読んではきたものの、なんとなく信用しきれないところがあった。←無礼
ところが、ここ数巻、なかなかに面白い。←なにゆえの上から目線

1つ前の第6巻では、本当なら主人公ベリル・ガーデナントと強敵シュプール・アイレンテールの決戦、さらにそこに回想として挿入されたシュプールとラフィのドラマが本来の読ませどころだったのだろうが、いざ読んでしまうとサブキャラ(それも序列にしておそらく4番より下の)クルニが戦闘の中で「剣に魅入られた」剣士と化して「あっち側」へすたすた走り去る、そのコマが意表をついて美しく、尊い。←もしやのクルニファン

新刊第7巻では悪玉サルレオネ司教は捉えられ、ベリルがミュイの後見人となることになって最初の数十ページで「宵闇」事件はいちおうの決着となる。
いわば大きなストーリーとしてはダレ場にあたるわけだが、その中にも剣と魔法の微妙な関係、新しい登場人物の紹介など含めて静かな不穏とでもいうか、奇妙な緊張感が保たれる。
とても、よい感じだ。←後日罰金

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なお、本書のタイトルはフルフルでは以下のとおり。

『片田舎のおっさん、剣聖になる ~ただの田舎の剣術師範だったのに、大成した弟子たちが俺を放ってくれない件~』
原作 佐賀崎しげる・鍋島テツヒロ(SQEXノベル/スクウェア・エニックス刊) 漫画 乍藤和樹

異世界転生モノや溺愛モノにはこうした長いタイトルの作品が多いが、想像するに、ネットの小説サイトなどで発表されるこれらの作品では、短く抽象的なタイトルでは読み手を掴むのが難しいのかもしれない。←そのスジの方々に詳細乞う、委細面談

短評 『新九郎、奔る!(19)』 ゆうきまさみ / 小学館 ビッグスピリッツコミックススペシャル

Photo_20250404170901 伊豆の堀越公方・足利政知の息子、茶々丸が蜂起し、一方、新九郎はついに荏原の所領を手放すことに・・・!

と『新九郎、奔る!』第19巻をまるめたところで、いったいどれほどの方が「ではこの巻買って読んでみよう」となるだろう。その面白さに気がついてくれるだろう。
このへんが描き込みの深いゆうきまさみ作品のつらいところだ。

だが。さあさあお立ち合い、御用とお急ぎでなかったら、ゆっくりと聞いておいで。この19巻とここから始まる一連、これこそが北条早雲が最初の戦国大名となる誉の第一歩。

なにしろ19巻めにしてようやく第1巻巻頭の

  室町殿奉公衆
  伊勢新九郎盛時
  三十八歳!

  主命により
  足利茶々丸様の
  御首頂戴に
  参上仕った!!

へのつながりが見えてきたのである。やーれやれ。

「光る君へ」も「べらぼう」もそれなりには面白いがいささか戦に飢えさうらふつはものはここへならへ。
いざ1巻より読み返すべし、嵐山には落花吹雪の舞。

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