« 2025年2月 | トップページ | 2025年4月 »

2025年3月の3件の記事

2025/03/31

『日野日出志ベストワークス』『日野日出志グレイトワークス』 日野日出志 著、寺井広樹 編著 / 太田出版

(諏訪哲史『偏愛蔵書室』のところで日野日出志の名が出てきたので、現在比較的容易に手に入る日野日出志の作品集を紹介しておきたい。発行元はあの太田出版。さすがだ。)

作品集のタイトルと収録作、掲載誌、発表年度は以下のとおり。

『日野日出志ベストワークス』(2023年11月20日発行)

  「蔵六の奇病」 少年画報、1970年9号
  「地獄の子守唄」 少年画報、1970年11号
  「まだらの卵」 少年アクション、1975年
  「水の中」 少年画報、1970年18~19号
  「地獄変」 書き下ろし単行本、1982年
  「蛇屋の怪」 コミックVan、1972年Photo_20250331174801

『日野日出志グレイトワークス』(2024年10月5日発行)

  「赤い花」 COMコミック、1972年
  「泥人形」 少年画報、1970年21号
  「ウロコのない魚」 少年キング増刊号、1975年
  「幻色の孤島」 少年キング、1971年37号
  「赤い蛇」 書き下ろし単行本、1983年
  「あしたの地獄 第2話 水の怪物 ―地球発2020年―」 スーパーホラー、2000年2号Photo_20250331174901

出世作「蔵六の奇病」、衝撃のエンディング「地獄の子守唄」、もともと単行本で発表された代表作「地獄変」に「赤い蛇」など、いずれも知る人ぞ知る日野日出志の本領発揮だが、掲載誌を書き写して今さらながら驚くのは、当時、少年画報や少年キングなど、普通の少年誌にこのような作品が当たり前に載っていたという事実だ。
溶けた目鼻、千切れる手足、飛び交う血潮、うろたえる赤ん坊。グロテスク、恐怖、妖艶、絶叫。心を休ませるコマがまったくない絶望的な展開に、僕をはじめ当時うっかり読んでしまった者の心にはねばついたトラウマが残った。
まだご存知ない方には注意しておきたい。怪奇で不快なイメージの暴力性において、日野日出志は水木しげるや楳図かずお、伊藤潤二らの比ではない。

もう一つ。1970年、1972年という代表作の発表年度には強い意味を感じる。
1970年といえば東大安田講堂陥落の翌年、よど号事件、三島由紀夫割腹事件等の話題に沸いた年だが、一方、1967年の公害対策基本法成立を受けて新聞雑誌を水俣病、新潟水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病の4大公害病、あるいは田子の浦のヘドロなどの話題がにぎわし、いうなれば日本列島が毒と汚染にまみれた時期でもあった(ヘドロから生まれた怪獣が列島に毒をまき散らす『ゴジラ対ヘドラ』が1971年)。
そんな中、少年誌の漫画はグロテスクな描写に突き進む。
山上たつひこ『光る風』(1970年)、ジョージ秋山『アシュラ』(1970~1971年)、そして日野日出志の作品群。
今、それらの作品を読み返して感じるのは、破れかぶれなまでにグロテスクを描きまくる一方での、底なしに平安と愛を求める意識、その落差である。

日野日出志のような、あるいは『光る風』や『アシュラ』のような作品は今後もはや易々とは描かれない、あるいは発表され得ないに違いない。
それは愛の内臓の敗北である。

2025/03/27

昼食は売り切れ! 食べ物は全部売り切れよ!! 『国境のエミーリャ』(現在13巻まで) 池田邦彦 / 小学館 ゲッサン少年サンデーコミックススペシャル

Photo_20250327175501 1965年生まれ、2008年に漫画家として立った、遅咲き漫画家池田邦彦。
国鉄時代の客扱専務車掌の希望と失望を描いた『カレチ』、ホームズ研究家たちの友愛と推理を歌い上げた『シャーロッキアン!』、この2連作はそれぞれテーマへの調査意欲とともに市井の人々への思いやりが溢れる。

そんな池田邦彦の最新作が『国境のエミーリャ』なる歴史改変モノ。掲載は小学館の「ゲッサン」というややマイナーな月刊誌で、単行本は静かに13冊にいたる。

「歴史改変モノ」とは、たとえば第二次大戦で枢軸国(ドイツ、イタリア、日本)側が勝っていたらどうなった? など、歴史上のifを展開の柱とする作品群を言う。主にSFの分野に多い。
『国境のエミーリャ』では敗戦した日本が東西陣営に分断され、東京がかつてのベルリンのように東西に分割統治され、国境には強固な壁が築かれてしまう。主人公エミーリャは東トウキョウに暮らし、普段は「十月革命駅」(=元上野駅)の食堂で働くが、依頼を受ければ西への脱出請負人として暗躍する。

第1巻第1話でエミーリャは自らを罠にかけようとする人民警察(ミリツィヤ)の警官を逆に死に追いやる。その最後のコマは「絶対に笑わない女」というハードボイルドな説明で閉じるが、その後、紆余曲折を経て彼女はたびたび泣き、あるいは笑う。
第2話で登場する国境犯罪捜査担当のウラゾフ警部とは案件によっては敵対し、あるいは助勢し合う。

遅咲き作家の常、作画は美麗とは言い難いし、サービスカットの水着シーンはお世辞にも色っぽいとは言えない。
ストーリーはときどきうざったい昭和のお涙頂戴に流れ、監禁されても銃を向けられてもその都度助かる主人公はご都合主義の権化。
それでも、取材、調査を重ねたのだろう、描かれる物品や風俗はこまごまと時代、そして東側、さらにはおそらくどこにもありはしない自由な西側を描き上げる。

現実の国どうしの諍いや国境の厳しさはこんなものではあるまい、と思いつつ、毎度新刊に手が伸びる。
この時代にそのままベストセラーになるとも思えないが、水の底で少しずつ読まれてほしい、そのような価値を感じる。
本作は失われた「良心」の金型、その復権への泥臭い取り組みである。

2025/03/10

『偏愛蔵書室』 諏訪哲史 / 河出文庫

Photo_20250310184701 覚悟が違う。黒みが違う。
100冊。

そもそも名のりが「書評」ですらない。いわく、「文学批評」、「言語芸術論」である。
1冊め、ホフマンスタールの文庫にして20ページに満たない短篇「チャンドス卿の手紙」をして、

  思えば小説家としての僕の、あらゆる意味で啓示的な思考の核であり、霊的な源であり、言語的な宿痾ともいうべき病の胚胎、(後略)

  要するに言葉の使用(濫用)に倦み疲れた一人の作家が、言語に致命的な疑義を抱き、ついにすべての言語活動を放擲するに至った理由、その真摯な弁明であり(中略)、切実すぎる言語的懊悩、その内的独白である。

と紹介する、たかが3ページに赤錆びた周航船一艘の重みである。

そしてその重みが容積に勝る場合があることが2冊めの梶井基次郎『檸檬』で語られる。
著者にとっての古今東西もっとも優れた文学、プルーストの『失われた時を求めて』に拮抗しうる作品として、著者はこの「檸檬」をあげる。
等々、ページをめくるにリルケ、ボルヘス、島尾敏雄、ピアス、ジュネ、シュルツ、中井英夫・・・

著者は「小説は、物語と詩(詩性)と批評からなる」という定義を繰り返し、その刃であらゆる作品を野に街に刻んでいく。
広く読みまくるということではかの「狐の書評」があるが、あらゆる書物に柔軟に身を任せる狐に比べ、諏訪哲史は自ら許す文体以外を許さず、それ以外を取り上げるおのれを許さない。

圧巻は「もっと無名の隠れた文学をこそ紹介してほしい」との読者からの要望に応えたソログープの「かくれんぼ」から秋山正美『葬儀のあとの寝室』までの24冊で、岩波文庫で手に入るソログープなどはともかく、大半は古書サイトでもヒットしないか、ヒットしても何万円もする稀覯書の類で、これはもはやただ羨ましく涎たらしてページを繰るしかない。真の意地悪とはこのことをいう。

読み手が、「ああ、この作品を読んでみたい、いや、これも。また、これも」とAmazonや「日本の古本屋」にカーソルを運んでも得られない読書体験。
なんという豪奢にして残酷な本だろう。

(暗転)

ただ、鬱蒼、精緻な言語芸術論を心掛ける1冊だけに、読み手側の欲も深い。呵々。

コミックを取り上げるに林静一『赤色エレジー』、日野日出志『赤い蛇』、徳南晴一郎『怪談 人間時計』、丸尾末広『薔薇色ノ怪物』・・・この嗜好はどうだろう、青林堂界隈とでもいうか、ぶっちゃけちゃぶ台類型的、ステレオタイプで、この著者ならもっと意外なコミック作品に「文体」を読み込み、その意味、意図を明らかにしてほしかったように思う。

Wikipediaによれば

  谷川渥は『偏愛蔵書室』について、「批評家」諏訪哲史の面目躍如、と評した(図書新聞2015年1月10日付)

とのことだが、「言語芸術論」ではあっても「批評」としては若干疑問が残る。
意図的ではあったのかもしれないが、実は取り上げられた100作家、100作品について、著者は限界、問題点を指摘することがない。基本的にこれこれの意味で稀有な作品だとほめちぎってオシマイ、なのである。
著者の「言語芸術」の理想は、おおよそ象徴主義から意識の流れ、その界隈にあるようだが、この作家をほめておいて、一方同じ1冊の中でこの作品もほめる、それはどうなのだろう、と気になるところもある。ヴァージニア・ウルフはじめ、いかにも出てきそうな女流作家が含まれていないのも気になる。

同じことは、著者の名のりにも感じる。
「諏訪哲史」というのが本名かペンネームかは不勉強にして存じ上げないが、この読書傾向であるなら、違う名を名のるべきではなかったろうか。三島由紀夫、江戸川乱歩、澁澤龍彦、種村季弘。あざらかな外連味、あざとさ、ペダンティック、腐臭、アクロバティック。哲学を学んだから「哲史」では著者の求める「文体論」のハードルに至っていないのではないか。

同じ呑気さは著書名にも表れている。倉橋由美子のかの名著『偏愛文学館』の名をもじって継ぐなら、100冊の中に倉橋を取り上げるべきだった。いかにもそれが似合いの作家だけに。

« 2025年2月 | トップページ | 2025年4月 »