いまさらですが・・・『サラダ記念日』 俵万智 / 河出文庫
先日『(読んだふりしたけど)ぶっちゃけよく分からん、あの名作小説を面白く読む方法』を取り上げた際は、当方の勢いというかノリだけで書いてしまって、その結果、紹介された個々の小説の書評について細かくは触れられなかった。
たとえば川端康成の『雪国』については、「書くこと」「書かないこと」の選別がいかに繊細かつ厳しくなされているかを具体例をもとに詳細に取り上げており、久々に『雪国』や『古都』を読み返してみたくなったりしたし、L・M・オルコットの『若草物語』は小学生のころにジュブナイルとして読んだだけだったため主人公にあたるジョーが幼馴染のローリーと結婚しない展開にこめられた作者の意図、という指摘も目ウロコだった。
もちろん、逆に、三宅香帆による紹介、解説をもってしても「読みたい」「読み返したい」と思えなかった作品もあり、それはそれでしかたないだろう。
一つ、読んでいてつんのめったこと。
俵万智の『サラダ記念日』についてである。
三宅はこの短歌集を取り上げ、「短歌は意味を解凍しつつ、そのうえで字や音が『だからそういうことばを使う必然性があるのか!』と理解することができる」ものとして「短歌というものを楽しむとき、ほとんど小説と同じ楽しみ方」をしようと主張する。
・・・ここまでに、異論はない。
ところが、そこで引用された俵万智の短歌が、次のようなものだった。
やみくもに我を愛する人もいて似ても似つかぬ我を愛する
この歌について著者(三宅)は歌人穂村弘の「解凍」という言葉を用い、途中経過は略すが、「彼は我のことをやみくもに愛してくれるけど、一方で、彼が愛している我は『似ても似つかぬ』我である」と解釈する。
愕然とした。
引用されたこの歌をすらっと読んだその瞬間の烏丸の解釈はまったく別なもので、それは「やみくもに自分自身を愛する人もいて、その人は似ても似つかぬ自分自身を愛する」といったものだったからだ。「我」の意味の読み違いである。
つまり、著者(三宅)の解釈では「我」は愛される女(しいていえばフィクションを含む歌人本人)であり、烏丸の解釈では「我」は世界のどこかにいる自分自身を愛する男女を問わぬ誰か、だったのである。
なぜ、このような解釈の違いが起こったのか。
ずっと以前にさらっと目を通してそれきり離れていた『サラダ記念日』をめくってみた。
この歌集の中では、歌の中の自分(歌人)は「我」であったり「吾」であったり「私」であったりで特に決まりはない。相手の男性は「君」が多く、ほかに「あなた」や「男」と表記される。
そして、この1冊の歌集の中では、(フィクションであるか否かはともかく)ほとんどすべての歌において、歌人本人は女性、相手は男性、その男女は一般的などこかの誰かと誰かではなく、「我」と「君」なのである。私小説的というか、極私的というか。ともかくグローバルではないのである。
海に石を投げる「青年」はたまたまそこにいた青年ではなくて一緒に海にでかけた「君」であり、ナイターを見に行った歌人が見ているのはグラウンドではなく「君」の「横顔」なのである。
ちなみに先の「やみくもに~」の解釈は、歌集のほかのページに
我だけを想う男のつまらなさ知りつつ君にそれを望めり
とあることからも「我」=「歌人」の解釈が正しいのだろう。そしてそのような状況をストレートに歌う短歌のあり方こそが『サラダ記念日』が当時の世間を騒がせた原因であり、ベストセラーとなった理由だったのだろう。
そのことの是非をどうこう言ってもしょうがない。ただ、だとしたら、少し、つまらないことだと思う。あまりに、社会が狭い。世界が狭い。
短歌、俳句はいずれも苦手な烏丸だが、しいて読みたい、書きたいと思う方面はどうやら『サラダ記念日』界隈ではなさそうだ。
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