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2025年2月の5件の記事

2025/02/26

いまさらですが・・・『サラダ記念日』 俵万智 / 河出文庫

Photo_20250225194101 先日『(読んだふりしたけど)ぶっちゃけよく分からん、あの名作小説を面白く読む方法』を取り上げた際は、当方の勢いというかノリだけで書いてしまって、その結果、紹介された個々の小説の書評について細かくは触れられなかった。

たとえば川端康成の『雪国』については、「書くこと」「書かないこと」の選別がいかに繊細かつ厳しくなされているかを具体例をもとに詳細に取り上げており、久々に『雪国』や『古都』を読み返してみたくなったりしたし、L・M・オルコットの『若草物語』は小学生のころにジュブナイルとして読んだだけだったため主人公にあたるジョーが幼馴染のローリーと結婚しない展開にこめられた作者の意図、という指摘も目ウロコだった。

もちろん、逆に、三宅香帆による紹介、解説をもってしても「読みたい」「読み返したい」と思えなかった作品もあり、それはそれでしかたないだろう。

一つ、読んでいてつんのめったこと。

俵万智の『サラダ記念日』についてである。
三宅はこの短歌集を取り上げ、「短歌は意味を解凍しつつ、そのうえで字や音が『だからそういうことばを使う必然性があるのか!』と理解することができる」ものとして「短歌というものを楽しむとき、ほとんど小説と同じ楽しみ方」をしようと主張する。

・・・ここまでに、異論はない。
ところが、そこで引用された俵万智の短歌が、次のようなものだった。

  やみくもに我を愛する人もいて似ても似つかぬ我を愛する

この歌について著者(三宅)は歌人穂村弘の「解凍」という言葉を用い、途中経過は略すが、「彼は我のことをやみくもに愛してくれるけど、一方で、彼が愛している我は『似ても似つかぬ』我である」と解釈する。

愕然とした

引用されたこの歌をすらっと読んだその瞬間の烏丸の解釈はまったく別なもので、それは「やみくもに自分自身を愛する人もいて、その人は似ても似つかぬ自分自身を愛する」といったものだったからだ。「我」の意味の読み違いである。
つまり、著者(三宅)の解釈では「我」は愛される女(しいていえばフィクションを含む歌人本人)であり、烏丸の解釈では「我」は世界のどこかにいる自分自身を愛する男女を問わぬ誰か、だったのである。

なぜ、このような解釈の違いが起こったのか。
ずっと以前にさらっと目を通してそれきり離れていた『サラダ記念日』をめくってみた。
この歌集の中では、歌の中の自分(歌人)は「我」であったり「吾」であったり「私」であったりで特に決まりはない。相手の男性は「君」が多く、ほかに「あなた」や「男」と表記される。
そして、この1冊の歌集の中では、(フィクションであるか否かはともかく)ほとんどすべての歌において、歌人本人は女性、相手は男性、その男女は一般的などこかの誰かと誰かではなく、「我」と「君」なのである。私小説的というか、極私的というか。ともかくグローバルではないのである。
海に石を投げる「青年」はたまたまそこにいた青年ではなくて一緒に海にでかけた「君」であり、ナイターを見に行った歌人が見ているのはグラウンドではなく「君」の「横顔」なのである。

ちなみに先の「やみくもに~」の解釈は、歌集のほかのページに

  我だけを想う男のつまらなさ知りつつ君にそれを望めり

とあることからも「我」=「歌人」の解釈が正しいのだろう。そしてそのような状況をストレートに歌う短歌のあり方こそが『サラダ記念日』が当時の世間を騒がせた原因であり、ベストセラーとなった理由だったのだろう。

そのことの是非をどうこう言ってもしょうがない。ただ、だとしたら、少し、つまらないことだと思う。あまりに、社会が狭い。世界が狭い。
短歌、俳句はいずれも苦手な烏丸だが、しいて読みたい、書きたいと思う方面はどうやら『サラダ記念日』界隈ではなさそうだ。

2025/02/25

『(読んだふりしたけど)ぶっちゃけよく分からん、あの名作小説を面白く読む方法』 三宅香帆 / 角川文庫

Photo_20250225182301 書評ブログなどやっていると他の書評サイトはもちろん、Amazonのカスタマーレビュー、新聞・雑誌の書評欄、書籍にまとめられた書評集などなど、いずれもありがたい情報源であり先生、先輩であり、ともに歩む同士でもある。人によって主義主張、趣味嗜好が異なるのはハナから当たり前で、それも含めていつも大切な参考資料とさせていただいている。

(読んだふりしたけど)ぶっちゃけよく分からん、あの名作小説を面白く読む方法』は・・・すごいタイトルだが、あまりこのタイトルにこだわる必要はなさそうだ。

実際、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を筆頭にフィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』、夏目漱石『吾輩は猫である』、カミュ『ペスト』、三島由紀夫『金閣寺』・・・と続くラインナップはなるほど「(読んだふりしたけど)ぶっちゃけよく分からん、あの名作小説」であり、それらを怖じずに読むにはどうすればよいか、どう読めばよいか、という著者の切り口はわからないでもない。

さらに、たとえば『カラマーゾフ』については「あらすじを調べて読む」、『グレート・ギャツビー』なら「大きい本屋か図書館に行き翻訳の1ページ目を読み比べ、いちばん読みやすい翻訳で読もう」等、具体的なお作法も大きな文字で教えてくれて、それを手助けに読み進められる読者も少なくないだろう(ただし『ペスト』の「小説には作者の思想が隠されていると思って読む」「メタファーに潜む思想を味わう」というアドバイスには、かえって腰が引けそうな気がしなくもないが・・・)。

そしてそうこうするうちに終盤、綿矢りさ「亜美ちゃんは美人」(『かわいそうだね?』所収)、カフカ「お父さんは心配なんだよ」、村上春樹「眠り」(『TVピープル』所収)、あたりとなると・・・あれれ? 1冊の本としての目的がなんだかよくわからなくなる。

そのあたりは著者も隠す気もないようで、あとがきで「『小説って面白いんだよ! ほらー!!』と好きな小説について語りたいだけ語る本でありました」とネタばらし。
・・・そんなこんなも(烏丸にしては珍しく)穏やかな目で許してしまうのは表紙の可愛らしいイラストがなんだか遠い昔の誰だったかを思い出させるから、ではない。ないんだからね!

2025/02/21

『真綿の檻』(まもなく第6巻出来) 尾崎衣良 / 小学館 プチコミックスフラワーコミックスα

Photo_20250221171301 ネットであらあらを知って紙版を手に入れた『真綿の檻』の第1部にはたまげた。

亭主関白でぶっきらぼうな夫とそれにかしずく妻、そんな若い夫婦の家に、妻の弟夫婦が訪ねる。
なんて夫だ、と誰もが思うようなその冒頭から続くその後の展開たるや、ちょっと想像を軽々と凌駕して、詳しく説明するとネタばらしになってしまうので書けないが、その見事なセンドウブリ(適当に漢字をあててください)にとにもかくにも驚いた。

ネタばらしという言葉を使ってしまったが、きちんと言っておきたいのはそのネタというかオチというか全体の構図がわかったあとも何度も読み返してしまう、それだけのチカラがその中編にはあった。

そこで、同じ作者のドラマ化もされたヒット作『深夜のダメ恋図鑑』(全10巻)を手に入れて読んでみた。
若い女たちがそれぞれの「ダメ恋」を語るオムニバスで、それぞれにダメ男、それにふりまわされるダメ女が描かれてなるほど面白い。
(この「ダメ」にもいろいろアングルと深さがあって、文字通り「クズ」な場合とキャラゆえのトラブル体質とでもいうべき場合などあって各篇ともいるいる、いねーと苦い笑いを招く。)
初期のわりあいシリアスな短篇集もいくつか読んでみた。
全体に感じることは、作者は「辛(つら)い」ことを「辛(から)い」と変換してクールに、あるいはギャグに翻案する手腕に長けているのかな、ということだ。
『深夜のダメ恋図鑑』のヒットはその翻訳がバタつきつつもうまく読み物としてとらえられたケースのように思われる。

さて、そこで現在進行中の『真綿の檻』シリーズである。

  第1部榛花(はるか)編に読み切り中編を加えた第1巻。
  第2部の祈里(いのり)編は2巻から4巻にいたるサスペンス長編。
  そして5巻めを占める第3部環奈(かんな)編。

いずれも、家族、主に母と娘の関係、その破綻あるいは再構築が描かれているが、『深夜のダメ恋図鑑』のような「辛(つら)い」→「辛(から)い」の笑いへの変換はなく、代わりに行われているのは視点の変換である。それがすさまじい。

帯の惹句を見てみよう、

  編集部悲鳴!!!
  「ウソでしょ!?」「ゾワっとした───!!!」原稿を読んだ編集部員から悲鳴続出!

何がそれほど悲鳴を招くのか。
本作で行われているのは家族、親子というミニマムな社会が本来的にもつ「宿痾」の暴き上げである。
絵柄が少女マンガなので気がつきにくいが、本来文学が担うべき「宿痾」をホラーエンターテインメントとして提供する、そうした仕事が惹起していることをこの帯の文句は示しているように思う。
山岸凉子の作品などにも似た働きをするものがあるが、その多くでは家族の中の一人のありようを描き、その裏の姿を紙の上に定着せんとする。
それに比べて『真綿の檻』は登場人物すべてのありようを暴いて暴いて暴いて暴いてみせる。悲鳴の所以である。

6巻の発売がこの4月に予定されているらしい。
その前にまず1巻、そして5巻、残る夜を2~4巻に費やすことをお奨めしておきたい。
怖いざんす。

2025/02/10

(非書評) 『数字であそぼ。(13)』 絹田村子 / 小学館 flowersフラワーコミックスα

Photo_20250210175301 作品の内容、雰囲気については前回書きたいだけ書いたので、今回は高校生のころ数学の先生に投げた質問を書いてお茶を濁す。

「0で割ることのできない数の集合と、(実数と虚数を組み合わせた)複素数の集合を比べたら前者のほうが後者より大きいような気がするんですが、あってますか。もしあってるなら、その差分って何ですか」

先生の回答は

「そういうのは大学の数学科に進んで自分で調べてみろ」

というもので、それは決して体よく突き放されたわけではなく、おそらくもっと何度も尋ね続ければいろいろ教えていただけたに違いなかったのだが・・・先生はそれから少しして、車の事故で亡くなられてしまった。

もちろん数学科に進んだわけでもない烏丸は今も答えを知らない。
どなたかご存知ないですか。

2025/02/06

『エロスの種子』(9巻) もんでんあきこ / 集英社 ヤングジャンプコミックスGJ

Photo_20250206171101 タイトルが悪い!

・・・いや、文句を言ってるわけじゃなくて(じゅーぶん、言ってる)。

エロスの種子』の単行本第1巻は2017年4月発行。1巻に4話、大人の男女の関係が(なまなましいセックスをかすめながら)濃密に描かれてきた。
その時点では『エロスの種子』というタイトルはオムニバスな内容に応えて、しっくり馴染んだものと思われた。

ところで、週刊コミック誌の類では、ストーリーマンガで1話完結は難しい。
『ブラック・ジャック』や『浮浪雲』、『代打屋トーゴー』、『ゼロ THE MAN OF THE CREATION』などのように同一主人公で読み切り形式での長期連載は多数派とは言い難く、最初は短い読み切りで始まっても、やがて登場人物を広げて大きな話に流れてしまう作品が少なくない。
『エロスの種子』でも、6巻あたりから1巻数話の形が崩れ始めた。

結果、どうなったか。

ここ数巻の1冊を埋めるストーリーは、すでに「種子」などというパラついたエピソードではない。

一つの人生の幹を枝葉を描く堂々とした物語が続いている。
さらにいえば、主題が大きくなるとともに、青年誌の肴としての「エロス」の意味合いも薄れる。一人の殺人犯の奈落を描くこの9巻において、「エロス」はサービスカットとしての意味も持ち合わせず、ただ主人公の包丁と俎板のように描かれるばかりだ。

最初に戻ろう。

『エロスの種子』ではタイトルが悪い。
ここにあるのは、もっと別の、ものすごいものだ。

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