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2021/05/27

萩尾望都をめぐる雑感 その5 目をつむり、耳をふさぐ

☆彡 『一度きりの大泉の話』に目を通し、全体を通して一番がっかりしたことは、(マンガ家のもとを訪ねる一部のマニアやマンガ家志望を除き)萩尾望都が、広い意味での「読者」について語る場面がほとんどなかったことだ。
萩尾望都にとってマンガとは自分の描きたいように描くものであって、どう読まれるかはどうでもよい──いや、違うな。自分の思うように読んでもらえないなら、いっそ読まれなくてもよい、語られないほうがよい──そんな気配なのである。

☆彡 『一度きりの大泉の話』に再掲されている「ハワードさんの新聞広告」をはじめ、「マリーン」、あるいはブラッドベリ、コクトーらの翻案について、萩尾望都当人は原作ものを是としているようだが、平均して見渡せば彼女の原作付き作品は弱い。マンガの力は絵によるものだけではない。細やかな素材、絶妙なコマ運び、意味深なセリフ回し、そういう視点で見ればSFに限定しても「ドアの中の私の息子」「あそび玉」「スターレッド」「銀の三角」など、オリジナル作品のほうが圧倒的に読み応えがある。
無理やり原作付き作品を是としているのは、「この作品はイマイチ」といったファンからの声に対する作者の拒絶の悲鳴なのではないか。ともかく、発表したものを否定的に扱われることは「つらい」ことであり、「鈍い」自分はすぐその場で反論できない、だから否定的な声は無視するに限る──そんな印象。

☆彡 ちなみに『一度きりの大泉の話』で個人的に一番不快だったのは、「アシスタントをお断りした話」という章。
あるマンガ家志望の女子学生がアシスタント志望の友達を連れてきて、その日のうちにさっそく仕事を頼むことになる。モブシーンなど描けないと断るのを無理やり押し付け、結局その子は描けないまま1枚隠すようにして帰るという「粗相」をしでかしてしまう・・・。
もちろん仕事を放置したことはおよそほめられた行為ではないが、「とても描けません」「無理です」と何度も断る素人の「しでかし」を50年も経った今になって、それもうちうちで語るならともかく萩尾望都のファンの多くが手にするに違いない単行本で明らかにする必要はあっただろうか。「ずっと昔萩尾望都のところで一晩だけアシスタントしたことがあるんだ、うまくできなかったけどね」と昔日の「粗相」を恥じらいつつ懐かしんでいるであろうプロでもない元アシスタント志望者に対してこの仕打ち。
この章も章全体としては竹宮恵子との関係の捩れについての説明が目的だったようだが、このアシスタント志望者はそんなことになんら関係ないのだ。

☆彡 萩尾望都がこんなふうになってしまった背景には、講談社(なかよし)時代、小学館(別冊少女コミック)時代、それぞれの編集者らがよく言って放任、悪くいえば彼女について制御不能だったことがあるのではないか。
少なくとも編集者と作家が緻密な打ち合わせをしたうえでネームを構築する、といったやり取りは本書からは見えてこない。
これでは少なくとも(マニアのファンレターは別として)読み手の声を蒸留した意見は届かない、反映されない。
ただ、繰り返しになるが、それこそが彼女の独自性を守る壁となった。その点は否定できない。
大泉での経験は彼女の殻に傷をつけたかもしれないが、『ポーの一族』『トーマの心臓』『11人いる』等を契機に出版界に名を轟かせた彼女には、それ以降、発表の場さえあれば読み手の声などもはや必要なかったということかもしれない。

☆彡 『一度きりの大泉の話』には萩尾望都を小学館の雑誌に招いた山本順也という編集者(故人)が再三登場する。初期の作品を内容検討もせずに掲載したり(結果的にそれは萩尾望都に独自な作品を描くチャンスと訓練を与えたわけだが)、萩尾望都ら若手作家にさまざまな便宜を与えたり、かと思えば突然掲載を切ると言い出したり、『一度きりの大泉の話』内でも豪放といえば豪放、乱暴といえば乱暴な言動がみられるが、実は個人的にこの山本という人物と会ったことがある。記憶しているのは、萩尾望都や大島弓子をマニアにしか受けない面倒な作家と罵倒し、「キャンディ♡キャンディのような売れ線を」とまるで酔っ払いのように繰り返し叫ぶ彼の姿だ。
こちらとしてはマニアを主対象とし、男性読者女性読者にこだわらない新しい市場の可能性(のちの『うる星やつら」のようなものか)、とかそんな話をしたかったのだが、ただの雑誌読者に雑誌編集者に反論できるだけの力などあるはずもなく、ただ「キャンディ♡キャンディ!」と連呼されるばかり、ほかの編集者の方に「まあまあ」と宥められてその場はお開きとなった。

☆彡 これは勝手な推測だが、萩尾望都は自ら拒絶したこともあって、両親や編集者、同業者を含め、ごく平均的な大人のアドバイザーとあまり出会わないまま生きてきたのではないか。
彼女の作品に登場するのは人間として未分化な少年と、人形のような少女ばかりで(生き生きした少女は少年のように描かれる)、壮年の男性は何かと驚き、騒ぎ、事態に過剰反応する慌て者、そうでないならただ自我を垂れ流す傲慢なジャイアン。要は子供だらけなのだ。

☆彡 ・・・文句ばかりになってしまったので、最後は少し楽しい画像を一つ。
下は萩尾望都が九州から上京する際の資金源となったという、なかよし1970年9・10月号付録の「ケーキ ケーキ ケーキ」(原作 一ノ木アヤ)。
「ケーキ ケーキ ケーキ」はのちに萩尾望都作品集(赤本)に収録されるが、このなかよし付録版はかなりレアではないかと思う。作者が本作をどうとらえているかは知らないが、当時の絵、とくに瞳の描き方は大好きだ。
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コメント

北海道ではグズベリgooseberryをカリンツと呼びます
グズベリは歌のとおり赤いけど、かりんの実は黄色だから違いますね


『一度きりの大泉の話』に再掲された「ハワードさんの新聞広告」の表紙ページに違和感があったので、当時の雑誌掲載版の切り抜きを探し出してみたところ、やはり表紙のタイトルや著者名ロゴが別モノでした。「ドアの中のわたしのむすこ」でもそうでしたが、こういうロゴは原稿に直接貼られるわけではないようですね。
「ハワードさん」についてはほかにも雑誌掲載版との違いがちょこちょこあって面白く再読しました。
オペラ歌手が野をさまようリリカルな場面で「カリンツはじきに赤いよ いっしょにつもうよ」というのがあるのですが、「カリンツ」とは? と調べてみると雑誌版では「カラナシ」となっていました。つまりこれは「カリン」の誤植なのでしょうか? わざわざ「カラナシ」を「カリンツ」に直した??
ちなみに、「ハワードさん」も巻末掲載で、裏はもくじです。この別冊少女コミック1974年3月号にはほかに倉多江美「ドーバー越えて」、大島弓子「罪と罰」が掲載! こちも切り抜いて置いてあるはず。

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