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2021/05/20

残酷な天使のテーゼ 『一度きりの大泉の話』 萩尾望都 / 河出書房新社

Photo_20210520180901 不躾けを承知で言うが、面白い。

1970年代前半の、萩尾望都や竹宮恵子(現在は竹宮惠子と綴るらしいが、知っているのは竹宮恵子時代だけなので)らによる少女マンガ変革期の貴重な記録として、また一方、双方向の悪意その攻撃性を紙面に刻んだまれに見るドキュメンタリーとして。

個人的には、当時、別冊少女コミック、週刊少女コミックのコミックエッセイで萩尾望都の目を悪くしてつらそうな様子を記憶していたのだが(「11月のギムナジウム」「ポーの一族」に比べ「小鳥の巣」や「トーマの心臓」の描画が荒れていたのはそのせいかと仲間うちで心配していた)、その背景が今知れて・・・よかったかどうかはよくわからない。どうだろう。

『一度きりの大泉の話』の内容をざっくり紹介すると、萩尾望都がマンガ家を目指し、九州を出て都内大泉の一軒家で竹宮恵子と同居し、さまざまなマンガ家やファンが出入りする中、数々の名作を発表、それが2年でバラバラになる──その経緯を年代記として語り起こしたもの。

前書きや後書きから知れるのは、一方の竹宮恵子が最近自伝的書物を上梓、それを機にその2年間を(手塚治虫らの「トキワ荘」伝説にならって)「大泉サロン」として持ち上げようとするメディア側の機運が高まり、それに対し萩尾望都が「一度きり」自分の思うところを明らかにし、後は静かに放っておいてほしい、と内外に求めたもの。
つまり、当時の生活を「大泉サロン」などと祭り上げられるのは自分にとって苦痛でしかないのでやめてほしい、仔細は「一度きり」ここに書くので今後一切触れないでほしい、ということである。

言うならば不祥事に際しての(もちろん別に不祥事ではないのだが)企業の記者会見のようなもので、本来出版、映像等の関係者に対し内々に明らかにすべきものを読者の手に届く単行本に仕立て上げた、という点でかなり特殊な本であることは言えるだろう。

詳細についてここで明らかにすると未読の方の興趣をそぐことになるのだが、、、

「夜、マンションに呼ばれる」の章に書かれたやり取りが本書のキモであり、最大のトラブルではあるのだが、それ以外にも現在「大泉サロン」で一イベント巻き起こさんとするメディア関係者、こじれた関係を仲裁しようとする知人たちなど、無神経、善意の衣を冠った押しつけがましさ、あるいはストレートな悪意がいたるところに交錯し、それに対する語り手の直接的な悪意がさらに輪をかけて胸苦しい。

ちなみに、著者が一方的に被害者かといえば、それはそれで疑問が残る。

まず、トラブルが起こった際にまったく対話に持ち込まず、解決を図ろうとしなかったことを、弱い、逃げた、と指摘することは可能だろう。「自分がいたらないため」と言いつつ何がいたらないかの確認すら怠ったことは社会人として同情できるものではない。
そして、それ以上に、20歳前後の友人関係のこじれを50年経った現在にいたるも同じ重さで抱え続け、「すみません」を何十回も繰り返して低姿勢のフリをしながら、相手の作品を「読んでいない」と何度も何度も連発し(作品を手掛ける者に対してこれ以上の攻撃は想像できない)、あまつさえそれを単行本にまとめてのける心のありようは、「いじめの加害者は忘れるが、被害者は忘れない」というアングルでは説明がつかない。

また、関係者の一人、増山法恵(少女マンガに少年愛を持ち込んだ首謀者?)や使い物にならなかったアシスタントを語る萩尾望都の口調の冷たさには驚かされる。要は、少女マンガにかかわりながらマンガを描けない者は断罪されるのだ。

はっきり言うなら、萩尾望都は、自分以外はすべて許せない。許さない。
ほかのマンガ家が自分の大切なものを守るために制御しようとしてきたことは許せない。だが、自分自身が大切なものを守る言動は無制限に許されなければならない。
相手が「空気を読めない」のは許せない。だが、自分は「空気が読めない」からしかたがない。
両親が自分を理解しないのは許せない。だが、自分が親を理解できないのはしかたない。
などなど、などなど。

しかし、ここで振り返るに、問題は「萩尾望都とは何か」ということである。
彼女は少女マンガ家だ。いかにファンに崇め奉られようが、神ではないし、教祖でもない。
彼女が評価されるのは、その作品が独自であり、ハイクオリティであるためだ。別に、人間として尊敬される存在だからではない。
その限りにおいて、彼女は、たとえばスーパーマーケットが顧客の声に合わせて棚の品揃えやレジの運用を日々修正する、とか、家電会社がコールセンターへの入電件数に合わせて機器やサービスを改善していく、そういったことをしてはいけない、のかも、しれない。

読者や友人の声にいちいち応える、そういった作風もあるだろうが、萩尾望都は少なくともそうではない。それではあの萩尾望都が萩尾望都でなくなってしまう。
極論するなら、自らの内なる声以外をすべてシャットアウトして描けば描くほど、その作品の萩尾望都度は高まるのだ。

『一度きりの大泉の話』は、そういった少女マンガ家の高らかな唯我独尊宣言であり、逆にいえば、一人の老人の哀れで不憫な人生の記録である。

ところで、さて、どうだろう?
「大泉の話」をこの「一度きり」としたい萩尾望都の希望どおりに物事は進むものだろうか。
(とくにメディア関連の)人々の無慈悲、無頓着、無神経は、彼女の期待に比べれば格段に愚鈍で強靭かつ粘着質で──本書を飲み込んでインタビューに応えない、写真を提供しないアンチメディア作家萩尾望都を祭壇に置いたさらなる「大泉サロン」伝説を目論む者が現れるのも想像に難くない。。。。

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(5/24追記。「雑感その5」を公開したついでに)

「F(フレーム)式蘭丸」もしくは「フレームで少女が子犬と」(大島弓子,萩尾望都論への1アプローチ)
萩尾望都をめぐる雑感
萩尾望都をめぐる雑感 その2 「ポーの一族」40年ぶりの新作
萩尾望都をめぐる雑感 その3 「まんがABC」
萩尾望都をめぐる雑感 その4 SF原画展と「ドアの中のわたしのむすこ」
萩尾望都をめぐる雑感 その5 目をつむり、耳をふさぐ

「「F(フレーム)式蘭丸」もしくは「フレームで少女が子犬と」」の記事ではすでに「トーマの心臓」の週刊連載期に作者が目を病み,ペン(線)が荒れたことに着目していたもよう(自分で指摘してどうする!)。


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