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2019年6月の3件の記事

2019/06/30

レディたちの心理ポルノ 『ジェイン・オースティンの読書会』 カレン・ジョイ・ファウラー、中野康司 訳 / ちくま文庫

Photo_20190630015901 Д 有名だが生涯縁はないだろう(正直にいえば、古臭くてつまらないに違いない)と遠ざけていたジェイン・オースティンの『高慢と偏見』を読んでみる気になったのは、倉橋由美子の豪気な書評集『偏愛文学館』に圧倒、もとい打ちのめされたためだった。
一読後、あまりのことにオースティンの残りの長編まで順に追うことになったのは2009年から2010年にかけてのこと。
上の「あまりのこと」というのが言わば自分なりのオースティン評にあたるわけだが、19世紀初頭、イギリスの田園都市の中流家庭における結婚や身分について事細かに描いたオースティンの作品の魅力、危うさについての「正解」はごくごくシンプルに見えて、そのくせ言葉にしようとするとどんどんずれ、外れていってしまう。
──そんな情けない言い訳はともかく、今回はオースティンの6長編を読み終えた数年後に購入し、そのまま放置していた現代作家によるスピンオフ、『ジェイン・オースティンの読書会』(以下『読書会』)を最近ようやく読了したのでとりあげてみたい。

Д 『ジェイン・オースティンの読書会』(以下『読書会』)は、こんな話。
五十の坂を越えた独身女性、ジョスリンが発起人となってジェイン・オースティンの作品について語り合う読書会を開くことになった。招かれたのは以下の顔ぶれ。
ジョスリンの四十年来の親友、シルヴィア。結婚生活三十二年めにして、突然夫から離婚話を持ち出されて落ち込んでいる。
シルヴィアの娘、アレグラ。三十歳。母親譲りの表情豊かな美人で、レズビアン。活動的だが、やや感受性の強すぎるきらいあり。
バーナデットは六十七歳。6度結婚して6度離婚。外見に頓着しないが、あっと驚く意外な経歴を持つ。
プルーディーは高校のフランス語教師、二十八歳。独善的な母親のもとに育つ。
唯一の男性メンバー、グリッグは寡黙な四十代独身。ITに精通し、熱烈なSF小説ファン。
彼ら、経歴も年齢もバラバラな6人が、オースティンの長編について月一度の読書会を開くと、やがて──。

Д 登場人物の顔ぶれ、それぞれのやや奇をてらった刺激的なプロフィールに、なんとなくあざとさのようなものを感じないでもない。
テレビドラマや映画化に都合がよい、「セックス・アンド・ザ・シティ」や最近NHKで翻案された「ミストレル」、ああいったふうな。

Д ちなみに、ネットで見かける『読書会』の書評に頻発するのが、「ジェイン・オースティンの作品を読んでいなくても」云々という表記。
6人の「読書会」は『エマ』『分別と多感』『マンスフィールド・パーク』『ノーサンガー・アビー』『高慢と偏見』『説得』の順に企画されるが、確かに本書を読み通すのに、これらオースティンの作品についての知識は必ずしも必要とされていない。もちろん、議論や登場人物の役割、発言など、陰に陽ににオースティンの香辛料は効いてはいるのだが、それを理解できずとも、さほど困らない。
逆に、オースティンへのリスペクトという観点では、どうしても物足りなさが残る。もし『ゴジラの映写会』という長編小説があって、その中でゴジラ映画の扱いがこの程度の密度、ボリュームだったら──はたしてゴジラファンは納得するだろうか?

Д 作者による登場人物たちの紆余曲折はそれなりに楽しく、読み物としては魅力的だ。しかし、一つ気になったのは、19世紀初頭のイギリス中流社会と21世紀初頭のアメリカ中流社会、200年を隔てた2つの時代を比較して、女性はそれほど豊かになったわけでも自由になったわけでもない、ということだ。
『読書会』の魅力の一つは、登場人物の若い頃のややエキセントリックな経験を描いた断章の数々なのだが、実のところそれらは「心理的ポルノグラフィティ」とでも称すべきものであって、オースティンの悠々たる世界観、バランス感覚にはとうてい及ばない。
そう見てしまうと、同じ時間を費やして『読書会』を読み返すくらいなら『高慢と偏見』を再読したい、そんな心持ちを打ち消すことはできない。
ただ、第六章に登場するマジック・オースティン・ボールのアイデアは素晴らしい。Twitterのbotのようなものだが、自身で読み取ることに参加の意義がある。

Д 作者のカレン・ジョイ・ファウラーはネヴュラ賞を2度受賞するなど、評価の高いSF作家とのこと。
『読書会』には火星人も緑色の扉も溺れた巨人も出てはこないが、現在と過去を自在に行き来する辛らつでセンチメンタルな断片を無造作に並べる手法、これはそういえばカート・ヴォネガットJr.の、たとえば『猫のゆりかご』や『スローターハウス5』のあのタッチだ。
その限りでは『ジェイン・オースティンの読書会』はオースティンの愛読者より村上春樹のファンにこそ似つかわしいかもしれない。

Д なお、オースティンをこれから読まれる方には、ちくま文庫の中野康司訳をお薦めしたい。翻訳としての厳密さ、文学的情緒などは不勉強にして判断がつかないが、他の訳本に比べて現代的なリズム、テンポで書かれていて読みやすく、場面場面がすっきり明快だ。
生活と心情を描くオースティンの長編において、読みづらいことほど困ったことはないのだから。

2019/06/20

真珠は日々群青色 『じゃあまたね』 清原なつの / 集英社ホームコミックス

Photo_20190627182101 我らが清原なつのが漫画家に憧れながら小・中・高校生としてゆるりと過ごす、その昭和の出会いを描く1ページ1ページに手がとまる、胸が震える、たとえばマデレイン・レングルの『五次元世界のぼうけん』、これはカラスが小学校の図書室に出入りして係のミ〇ルちゃんに「この棚からここまで全部読んだ、ふん」とか言い放つケッタクソナマイキなガキだったころトーベ・ヤンソン『ムーミン谷の冬』やベリャーエフ『ドウエル教授の首』などと並んで夢中になった、いや、「首」はシリアスな話だったのに同じ本に入っている「永久パン」はなんだか「大きなカブ」みたいなおとぎ話で同じ作家なのにどういうことだこんなことがあってよいのかと不思議だった、そういう時代に清原なつのが同じ『五次元世界のぼうけん』を読んで、いや、夢中になっていたとは、これ以上ないヨロコビにシッポが震える、清原なつのはその後作画グループに参加したり雑誌に投稿したりでプロの漫画家になり、少年少女世界の名作文学(これも清原なつのの部屋には並んでいる)刊行完了に餓えたカラスは石川喬司の『魔法使いの夏』やテレビで放送された初代『ゴジラ』、そしてそのころ漫画誌で連載されたジョージ秋山『アシュラ』や山上たつひこ『ひかる風』にイカれて、できれば作家、でなくともなんでもよいからともかく本作りにかかわる仕事につこう、そうでなければ一生何もしない、そう祈って願ってそれはかなったのだからカラスの話はどうでもよくて、清原なつのだ、万華鏡のようにあの時代の萩尾望都大島弓子、「11月のギムナジウム」、「3月になれば」、「鳥のように」、「なごりの夏の」、同じ作品を同じころに清原なつのが読んで、雑誌から切り抜いて、わあ、わわわ、ただ昔から少しだけ不思議だったのは清原なつのは当時の前衛的というかSFや少女の自立を扱うそういった作家たちの中でも妙に覚めているというかどこか作家本人を俯瞰して見ている気配があって一つのコマを描くにあたりなぜそのコマをそう描くのか考えていたり知っていたりというふうな、あまり文系理系という区分けは好きではないのだがあえていうなら理系の実験室的な視線がすべてのページに感じられて、たとえば清原なつのは『花図鑑』で少女たちの花、つまりセクシャリティを、いやそんなことはこの『じゃあまたね』では後回しもとい先送りで、始まって3ページめ、小学生の彼女が口ずさむのはザ・タイガースの「シーサイド・バウンド」、「ザ・」を抜いてはいけませんよ、その向こうの壁には「007は二度死ぬ」のポスターが貼ってある、わあわあ、昭和の読者はうるさくてすみませんね、デモデモダッテ時をかける、時をかける、まあるくなってアルマジロ。

2019/06/10

毒ある潮目 『悪いものが、来ませんように』 芦沢 央 / 角川文庫

Photo_9 雨。
町中いたるところ、紫陽花(アジサイ)が花盛りだ。

ねえねえ紫陽花の、花に見える一つひとつは実はガクで、いわゆる花じゃないんですって。
そうそう、それに、紫陽花の花の色は土壌の酸性度によって色が変わるそうよ。酸性なら青、アルカリ性なら赤。
あら、それって。リトマス紙と逆? じゃ、もしかして……。

と、突然ご近所の理系奥様語りしてみたが、以降の書評に紫陽花はなんら関係ない。すみませんね。

さて、本題。
最近売れ筋の、芦沢央を何冊か読んでみた(セリザワ・オウと読んで、それは間違い。アシザワ・ヨウである)。

  角川文庫『悪いものが、来ませんように』
  創元推理文庫『今だけのあの子』
  新潮文庫『許されようとは思いません』

『悪いものが、来ませんように』では、不妊と夫の浮気に悩む若妻 紗英と、彼女に近しい奈津子の日常生活をより糸に、夫殺害の真実が見えてくる。
短篇集『今だけのあの子』では、若者たちのさまざまな「つらい」シチュエーションの中に、綱渡りのようなもろくも切ない友情が立ち現れる。
その果ての心温まる友情が描かれる『今だけのあの子』に対し、同じ短篇集『許されようとは思いません』では一転、「許されない」主人公たちがぎしぎしと追い詰められる。

紹介の歯切れが悪いのは当方の文才のなさだけでない、あらすじを書いてしまうと楽しみがそがれる、そんな作品が多いためだ。
たとえば「新婦とは一番の親友だと思っていたのに。大学の同じグループの女子で、どうして私だけ結婚式に招かれないの……」(『今だけのあの子』惹句)、「『これでおまえも一人前だな』入社三年目の夏、常に最下位だった営業成績を大きく上げた修哉。上司にも褒められ、誇らしい気持ちに。だが売上伝票を見返して全身が強張る。本来の注文の11倍もの誤受注をしていた―」(『許されようとは思いません』惹句)、さあどうする、どうなる。

これらの長短編を読んで、軽妙なサスペンス、上質なエンターテインメントとして楽しむ一方、

  潮目が変わった?

そんなことを感じる。
いや、一人ないし数人の作家を取り上げて言うことでないのは承知している。だが、何か、風向きの変化のようなものが感じられてならない。

7、8年前なら、悪意、嫉妬、憎悪を描くこれらの作品は「イヤミス」と称されて、湊かなえ真梨幸子沼田まほかるらの系譜に並んでいたのではないか。だが、芦沢央の作品はスリリングではあっても、「イヤミス」にはならない。

「イヤミス」なら、作品の構成、キャラクター、文体がもっと汚い。
それは作家の能力が及ばないのではない。描きたい対象にページが耐えられず、ゆがみ、夾雑物にまみれるのだ。「イヤミス」が「イヤミス」たり得たその理由は作者個々に異なっていただろう、だが、それが書かれ、売れた背景には何か、たとえば東日本大震災といった切実な時代の背景があったように思う。

それに比べると、芦沢作品は美しい。伏線からどんでん返しまで、なめらかな流線形の弧を描き、着地も穏やかかつ鮮やかだ。イヤな話、救いのない話にみえて、「目撃者はいなかった」の妻の強い目線など、どこかにまっすぐで流麗なものが描かれる。
決して「イヤミス」が劣るとか、「イヤミス」に劣るとか、そういったことを言いたいのではない、念のため。
ただ、(確かな論拠もなく)何か、この数年の間に変わったものを感じる、それだけのことだ。

でも、奥様、紫陽花って、あんなふうに見えて毒なんですって。
毒による症状はあるのに、毒の原因となる化学物質はまだはっきりわからないそうよ。
じゃあ、たった今、得体の知れない毒の葉が町中で雨に打たれているのね。
そうね。
ステキね。

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