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2019年3月の5件の記事

2019/03/28

モヤっと 『百鬼夜行抄(27)』 今 市子 / 朝日新聞出版

Photo_2 このブログを置いているNiftyの「ココログ」だが、最近、知れないうちに仕様がいろいろ改悪されて困っている。

その1つがPC版でカテゴリー(たとえば「コミック(作品)」)を選んで表示される記事タイトルの上限が100件になってしまったことで、つまりコミック作品を400件以上扱ってきたこのブログでは、『百鬼夜行抄』の新刊を取り上げるにあたって、過去に自分はどんなことを書いたのかな、と探そうにも古い書き込みは探せない、ないし大変な手間をかけないと見つけられない、ということだ。

ちなみに、新刊として今市子の『百鬼夜行抄』を取り上げた記事は以下のとおり。

  『百鬼夜行抄(19)
  『百鬼夜行抄(13)
  『百鬼夜行抄(12)
  『百鬼夜行抄(10)

と、これだけのピックアップ作業がほんとにもう、面倒くさい。なんとかしてください。 > ココログ運営の中のひと

さて、それはともかく『百鬼夜行抄』シリーズも27冊目、このブログで初めて取り上げてからでも16年以上の月日が経った。

にもかかわらず、作者の筆遣い、登場人物のタッチは大きくは変わらない。あやかしのゆらゆら揺れる存在感、場所や時制がとらえづらく、読み流すにはやっかいだが読み返すと味わい深いコマ割りも馴染んだ身に心地よい。

ただ、先日取り上げた『  』もそうだったが、長期化するとどうしても設定や登場人物のインフレは起こるもので、この27巻でも飯嶋家の遠縁の朝倉家とか三崎のおじさんとか言われてもなんだかよくわからない。26巻の終わりにそういう伏線があったっけか。その家系図が把握できないとこの先楽しめないのか。そうでもないのか。26巻読み返すか。いや、それより大好きだったあの話は何巻だったっけか。あれは6巻、あれは12巻。いや、それではなくて。あれでもなくて。

ああもう、道に迷ってしまった。尾黒、尾白が提灯下げて迎えに来てはくれまいか。

2019/03/24

完結 『BURN 猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子(上・下)』 内藤 了 / 角川ホラー文庫

Photo_1猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子』シリーズ、スピンアウト2冊含む13冊めにて完結。

ズタズタのヌッチャヌチャなスプラッタシーン満載で大好きなシリーズだったのだが、最後のほうは登場人物が多すぎてちょっと疲れた。

※バイオテクノロジーテロを目論む国際組織「CBET」のチープさや壊れた科学者集めて死体の腐敗のしかたを研究する国家機関「日本精神・神経医療研究センター」の珍妙さについては、ここでは触れない。仮面ライダーのショッカーと同じか、もう少しヘンテコリン、といったところ……。

シリーズ2冊目の『CUT』では【主な登場人物】は藤堂比奈子(新人刑事)、厚田巌夫(その上司、警部補)、東海林靖久(先輩刑事)、三木健(鑑識官)、石上妙子(検死官)、中島保(プロファイラー)の6名だった。
この顔ぶれは主人公を含む猟奇犯罪捜査班側のメンバーということで、まあ、わかる。

最終巻では【主な登場人物】が倍増の12名。ところがそこに記載されない常連として同じく警察組織に属す者、シリーズ後半で大きな役割を果たす「日本精神・神経医療研究センター」に所属する奇人変人たち、国際テロ組織の面々、などなど、増えに増えて大変なことになる。

常連が増えると、たとえば主人公の比奈子が敵に拉致された!というシーンで、敵味方、当事者・関係者、ほぼ全員の反応を書かなくてはならない。
『BURN』の下巻など、なにかとそんなモブシーンに記述が費やされ、スリルもサスペンスも半減。1冊通して比奈子個人の活躍にしぼれば「捕まった、気がついた、戦った」程度の実に内容の薄いものになってしまっている。

TVドラマの『相棒』では【主な登場人物】が増えすぎないよう、キャラクターの卒業、ないし入れ替えを行う。主人公はともかく、その相棒や鑑識官、小料理屋「花の里」の女将など、入れ替わることで登場人物のインフレは起こさせない。

『猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子』でも、もう少しそのあたりの工夫があってもよかったのではないか。

方法は簡単。事件ごとにポンポコ殉職させて、センターのボディファーム(死体農場)に飾ればよいのだ。

2019/03/21

続けて、老いについて 『この道』 古井由吉 / 講談社

Photoもう5、6年前のことだが、次男が大学入試の現代国語で「さっぱりわからない」と嘆いた出題があった。プリントを見ると古井由吉の「水」だった。古井由吉は学生の頃から好きな作家の一人で、おおかたの作品は持っているというとあきれられた。

ことほどさように古井由吉の作品は難しい。言葉遣いが難しいし、文節のかかりがわかりにくい。段落としてつかみがたいと困っているうちにそもそもと全体がのしかかってくる。

初期の、芥川賞をとった『杳子』など今からみればまだ可愛らしく、愛おしい。いや、実際、『杳子・妻隠』の文庫以来ファンになってしまったのだが。
それ以来、文庫や単行本を買い求めているが、読了した、といえるのは半分くらいだろうか? 一巡読み通して、読み通せたと思えなくて未読本の棚に戻したものも……まあ、こんな話はどうでもいいですね。

『この道』はその古井由吉の新刊、2017年から2018年にかけて「群像」に発表された8篇からなる。

正直、これは小説と言えるのだろうか、と思う。巻頭の「たなごころ」など、まだ、物語の片鱗らしきものから始まり、病人との対話もある。そのうちどんどん老人の身辺雑誌のような独白が多くなり、最後の「行方知れず」にいたっては書かれた年月日を特定できそうな実際の事件、災害など盛り込み、ブログかSNSに書かれた日記のようだ。

にもかかわらず、細部、あるいは全体から吹きあがる「文学」感が凄い。
八十路の老人が持病の通院の道も怪しく今と昔をこき交ぜた感慨を段落単位でぼそぼそと吐き出している──そう見えて、何か芯のようながある。遠回しに手渡される重み。

文学のテーマの一つが「死」であるなら、『この道』には確かに「死」が語られている。
しかしそれは口やかましく騒ぎ立てられた「死」ではなく、ただおぼつかない足取りで歩いた先の道端に落ちているような「死」。執着とは別のところにある、ないし至った、人生。

ただし、老人性痴呆めいた口ぶりに騙されてはいけない。
「群像」の発表号は規則正しく2ヶ月おきだし、一篇ごとのページ数もほぼ均等。
80歳にして作者のプロとしての手腕は健在なのである。

2019/03/14

もうどこにも いかんとぞ 『老境まんが』 山田英生 編 / ちくま文庫

Photo昭和の中期、週刊プレイボーイが青少年のリビドーの吐き出し先として権威を誇っていたころ。未来世界を予測する記事には繰り返し「週刊オールドボーイが老人に人気」という(面白くもない)ジョークが書かれたものだ。
実はこの予測は当たっていて、今や紙媒体の週刊誌の多くは誌名は昔のまま老人専用誌とあいなった。試しに週刊現代なり週刊ポストなり、1冊手に取って目次を見ていただきたい。スキャンダルやスポーツ記事を飾るは昭和に活躍したご老体、ガンに血圧の健康記事、昔アイドルの復活グラビア……。

では、かつて「少年マンガ」「少女マンガ」の2枚看板のもと、少年少女の活躍、恋愛を描くを旨としたマンガ誌はどうなっているのか。

老人向けと明示された雑誌こそ不勉強にして知らないが、個別の作品ではいくつか老齢、老境をテーマとしたものが思い当たる(煩雑なので列挙はパス)。
そんな老人を描いたマンガに着目したアンソロジーがこのたびちくま文庫から発刊された『老境まんが』である。

収録作は以下のとおり。
掲載順ではなく、発表年月日順。一番古い「ざしきわらし」が1963年、「ペコロス」が2014年。60、70、80、90、00、10年代とそれぞれ1~数作ずつのバランスのとれた選択。

 「ざしきわらし」白土三平
 「生命(いのち)」永島慎二
 「なまけ武蔵 ─晩年の武蔵─」水木しげる
 「長八の宿」つげ義春
 「ふじが咲いた」楠勝平
 「武蔵」つげ忠男
 「垣根の魔女 御身大事に…」村野守美
 「ブラック・ジャック 湯治場の二人」手塚治虫
 「田辺のつる」高野文子
 「水茎」一ノ関圭
 「極楽ミシン」近藤ようこ
 「欅の木」谷口ジロー
 「五月の風の下」うらたじゅん
 「ペコロスの母に会いに行く(抄)」岡野雄一

一読、違和感を感じたのは、老人たちがいずれやたら元気なこと。どちらかといえば、いまだ元気、しかし時にはかない、が多い印象。
少年誌などで老人の徘徊を描くわけにもいかなかったろう。
足腰、会話がしっかりしているだけでなく、たとえば認知症の老婆を少女の姿で描いた高野文子「田辺のつる」も作品としては秀逸だが、認知症はこんな均等、健全なものではない。

もう一つ、そもそも実年齢が若い。
近藤ようこ「極楽ミシン」に登場する女性たちは、しわや口ぶりで老婆扱いされるものの、「平均寿命まであと二十年ちょっと」のセリフからせいぜい60歳前後。年金や施設について気にはなるが、徘徊や寝たきりがリアルとなるには多少余裕がある年齢だろう。

考えてみれば、1960、70年代には作者たちもまた若かった。若者から見た老いを描くのが精いっぱいだったに違いない。実のところ、老境というのはもっと曖昧で、混乱と後悔と愚痴と強欲が薄く濃くまだらに表れたりかすれたりよじれたりするものだ。

その意味で2000年以降に描かれたうらたじゅん「五月の風の下」、岡野雄一「ペコロスの母に会いに行く」は格段に的確に老い、認知症を描いているように思われる。

今後、マンガの読み手の高齢化に伴い、こういった作品のニーズはより多くなっていくのは間違いないだろう。
ただ、それを読んで楽しいかというと必ずしもそうでもない。つらいところではある。

2019/03/11

宝石みたいなケーキ 『私は存在が空気』 中田永一 / 祥伝社文庫

Photo中田永一(=乙一)の本を取り上げるのは久しぶり。

巧い。

6篇それぞれ、隠された超能力(ないし超科学)と、それをめぐる出会いや別れが主題。

どこかで見聞きしたという指摘も、「少年ジャンパー」や「スモールライト・アドベンチャー」、「ファイアスターター湯川さん」などというタイトルを見ただけでこの作品集がどこかの誰かの作品へのオマージュないしパロディでいっぱいなのは自明だし、
乙一にしてはヌルい、ユルい、という指摘も、話を苛烈にしようと思えば(「失はれた物語」とか)いくらでもできるものを、今回はこのくらい、と定めて書いたに違いないと推察できてしまう。アンダーコントロールなのである。

収録作の大半が、奇妙な能力を得た若者がその力で誰かを助ける、という展開。
問題はそのあと──助けたから、助かったから、ハッピーエンドになる、わけではないことだ。

そのあたり、中田永一の筆さばきは、もう名シェフのさじ加減に近い。
出合い、トラブルに巻き込まれ、助け合って、見つめ合い、、、
だが、それは必ずしもbetter halfとのめぐり逢いとは限らない。

だから読み手は呆然と自らが半分でしかないことに思い至り、切なさに身もだえするのだ。

……とはいえ、個人的嗜好はあるもので、収録作の中では「少年ジャンパー」「私は存在が空気」が際立って好もしい。「ファイアスターター湯川さん」は再会のある終わり方が今一つに感じられ、次点。
「恋する交差点」はともに浮気、不倫を止められないメンヘラカップルの再構築の話かと思った……違いますよね?

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