『山の霊異記 幻惑の尾根』『山の霊異記 赤いヤッケの男』(角川文庫)、『山の霊異記 黒い遭難碑』(MF文庫ダ・ヴィンチ) / 安曇潤平
安曇潤平の山岳怪談は怖い。なぜこんなにも怖いのか、三項に分けて考えてみた。
(1) 怪談として
安曇潤平の文章は主体が変幻自在で、あたかも本人が実際に山で怪異を経験したかのような書き方、親しい登山家から聞かされたという書き方、主体が誰とも限定されない書き方(ときに「私」が女性であることも)など、この手の怪談短篇集としてはバリエーションが豊富だ。
つまり、いわゆる「実話の聞き起こし」にこだわらず、怪談としての読み応えさえあれば実話でも創作でもよし、とのスタンスらしい。
その結果、内容は、山で死んだ者の霊が現れる心霊モノ(不気味なものから友情や親子愛を描いた心温まる作品まで)、説明のつかないグロテスクな妖異譚など、さまざまで、「実話」にこだわらないぶん恐怖を煽るモノの描写に手加減がない。
(2) 山の道
個人的な感想だが、高所恐怖症の読み手にとっては、描かれた山の道そのものが怖い。
三人は道を外れ、その吊り橋を途中まで渡ってみた。心もとない鉄鎖で吊られた橋が不安定に揺れる。
(『幻惑の尾根』、「隧道」より)
岩壁の側面から突き出た狭い廊下状の道が水平に続いている。道の幅は一メートル程度だ。左側はそのまま深い谷に切れ落ちている。
(『赤いヤッケの男』、「ザクロ」より)
トレースを外して足をついた途端、凍結した斜面に乗ってしまい、ザックを枕に五メートル近く一気に滑った。
(『赤いヤッケの男』、「銀のライター」より)
歩みを進めるうちに登山道は完全に岩になり「剣渡り」と呼ばれる、両側が切れ落ちた細い道に差しかかりました。
(『赤いヤッケの男』、「霧の梯子」より)
など、ともかく道はやたら「切れ落ち」、足元は踏み外すと滑落する「ガレ場(岩が堆積した道)」なのである。
そんな道を想像するだけで怖ろしいのに、さらに(高い所が苦手な方にはおわかりいただけると思うが)平地に戻るためには後でまたその場所を通らなくてはならない。これが怖くなくて、なんだろう。
(3) 逃げ場がない
そして、安曇怪談の真骨頂がここにある。怪異からの「逃げ場」がない、のだ。
あまた排出される「実話怪談」には鳥肌が立つほど怖いものもあるが、その大半において語り手は怪異から逃げることに成功している。友人宅に走る、コンビニに逃げる、引っ越す、田舎に帰る。聞き取り手が巻き込まれてもせいぜいパソコンが壊れるくらいで、実話怪談の著者が呪われて死んだ、行方不明になったという話は(あまり)耳にしない。
ところが、山では、そうはいかない。
片側が谷に切れ落ちた道で向こうから怪しいモノが近づいてきたら? 見知らぬ男に山道をいつまでも追われたら? 霧で身動きできないところで聞こえるはずのない声が聞こえたら? ようやく設営したテント(もちろん夜の登山道を歩くことなどできない)を誰かが外から押してきたら?
そう思って振り返ると、安曇怪談の多くは、その尾根、山道を下りきればそこで妖異から逃げおおせることに気がつく。あくまで妖異は山にあるのだ。
……いや、もちろんあの話の怖いモノやあの話のエグいモノを平地まで持ち帰られても、それはそれで困るのだけれども。
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