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2017年9月の5件の記事

2017/09/29

最近の新刊から 『月明かりの男』(ヘレン・マクロイ)、『月光のスティグマ』(中山七里)

Photo『月明かりの男』 ヘレン・マクロイ、駒月雅子 訳 / 創元推理文庫

ミステリ黄金期のテイストかぐわしく、いつも刊行が楽しみなヘレン・マクロイ。その待望の新刊『月明かりの男』だが……さすがにこれは若書きのせいか(1940年、ベイジル・ウィリング博士シリーズの第2作)、細かいところでいくつか気になった。

たまたま私用で大学を訪れたフォイル次長警視正が殺害予告を受けた亡命ユダヤ人化学者にたまたま出会い、殺人現場にも立ち会うご都合主義もそうなら、前後、延々描かれる事件現場の研究室や廊下の並びのわかりにくさ。とくに後者は犯人の逃走経路や不審者像の証言が3人の目撃者によってまちまちとなり、のちに犯人を特定するポイントになるのだから困る。せめて図で示してほしかった。

○○や△△など、おそらく当時としては新進のツールや症状を次々に取り上げて読み手をけむに巻く(実は事件の真相とはあまり関係ない)マクロイの悪い癖も気にかかるが、実は一作通して一番驚いたのは、物語の中盤、ウィリング博士が捜査に立ち寄った先で、一匹のゴキブリがテーブルのシルクの布の刺繍の上を堂々と横切り、それを見た登場人物の一人が「親指と人差し指でゴキブリをつまみあげると、窓から外へひょいと投げ捨てた」シーン。
なにゆえそんなにとろっちいのだ、アメリカのゴキブリ。
それともこのような情景描写をしてのけるマクロイ女史は日常からゴキブリより素早い才女なのか、もしや。

『月光のスティグマ』 中山七里 / 新潮文庫

「月」つながりでもう1冊。

中山七里はこと「どんでん返し」という技術において高く評価しているミステリ作家の一人で(男子体操、床運動の白井健三選手に対する称賛に近い)、いつか取り上げようと思っていたのだが、新刊の『月光のスティグマ』は残念ながら荒さのほうが目立った。

本書では美人双子とその幼馴染の少年がまず変質者に襲われて傷つき、のちに双子の一方が少年の兄を刺し、と思ったら〇〇に巻き込まれて双子たちと少年は別れ別れになり、のちに少年は特捜検事となって……実はここまでで導入部に過ぎない。

日本国内から最後は世界規模までの大きな事件や政変を次々ストーリーに取り込んで、ダイナミックといえばダイナミックなのだが、それぞれの事件が消化不良のままストーリーが転がっていくため、読後感は渇いたカステラを頬張った口の中のようだ。

大きな活字の文庫400ページにこれだけ詰め込むのは無理、というだけでなく、思うに、この作家は、「愛する人を護りたい」などというありきたりな若者の感傷、情感など切り捨てて、クールかつ執拗な悪人を主人公にした、たとえるなら柴田錬三郎のような肌合いの公判サスペンスを書いたほうがいいのではないか(実際、中山七里作品で無条件に楽しめるのは、そういった傾向ののもののような気がする)。

2017/09/21

よろしくお願いしまぁぁぁす! 『発達障害』 岩波 明 / 文春新書

Photo帯の惹句にいわく、
他人の気持ちがわからない 同じ失敗を繰り返す 極端なこだわり…… ASD、ADHD、アスペルガーの謎に迫る!

おやおや困った。なにしろこのカラスも、
他人の気持ちがわからない 同じ失敗を繰り返す 極端なこだわり……

学生のころから、時おりこうした精神医学関係の本を読んできた。およそ学究的な目的でも病気に苦しむ人のためでもなく、興味本位と言われれば仰るとおり。
その上で感じるのは、人の心を解析し、導くことの難しさだ。結核や天然痘が癌が治る、治らない、という話とはまるきり異なる。なにしろ心の状態は容易に定量化できない。どこまでが健康かの定義も難しい。

さらに、心の病については、精神医学界においても定義や対応がどんどんシフトしていく。
アメリカ精神医学会による精神疾患の診断・統計マニュアル(DMS)の最新版(第5版、2013年)によると、
 「発達障害」という大きな括りの中に
 「ASD(自閉症スペクトラム障害)」と
 「ADHD(注意欠如多動性障害)」という括りがあり、
 その2つは一部ダブっており、
 「アスペルガー症候群」は「ASD」に含まれる
ようになったそうだ。
重要なのは、この集合のベン図、そして「発達障害は生まれつきのものであり、成人になってから発症するものではない」という点だろうか。少なくともお子さんのASDやADHDに苦慮しているお母様方は、ご自身の育て方を無闇に反省したり悩んだりする必要はない、ということだ。

本書にはこの「発達障害」の現時点での場合分け、サヴァン症候群・共感覚・学習障害など諸症状、過去の文献や大きな事件に見られる症例、適切な対応への試みなどがまとめられている。
病気に対する予断や偏見についての注意喚起を含め、概ね信頼に足る啓蒙の書であるように感じたが、著者の治療事例をもとにしたためか、大半が成人になって問題が明らかになったケースについてであり、タイトルと比べて違和感がある。また、(無論これは現在の精神医学の限界によるものなのだが)分類や症例の列挙ばかりで、結局のところ原因にも抜本的な改善にも触れられていないところ、など、食い足りないといえば食い足りない。

もう一点、本書に例証された映画『風立ちぬ』の堀越二郎、アンデルセンやルイス・キャロル、豊川主婦殺人事件や佐世保小6殺人事件などの顛末、分析を読むにつけ、たとえば(本ブログの最近の例でいえば)『花咲舞が黙ってない』の舞、『コンビニ人間』の古倉恵子、『これは経費で落ちません!』の森若沙名子、『フラジャイル』の岸京一郎たちにも発達障害の気味があるのではないか、という疑念がわく。もちろん、小説やマンガに登場する架空の人物についてどうこう言ってもしょうがないのだが、これらの人物たちになんらかの処置を施したら彼ら独特の個性、またそれに伴う出来事のあれこれが喪われてしまうのかと考えるとなにやらうすら寒い。

2017/09/17

sick inside 『花咲舞が黙ってない』 池井戸 潤 / 中公文庫

Photoしゃっちょこばった本ばかり出してる印象の中公文庫からこんな経済ライトノベルがいきなり出てくる不思議。
しかも折り込みには文春文庫から同時発売された『銀翼のイカロス』との相乗り宣伝入り。
花咲舞が活躍する前作『不祥事』(2004年)は実業之日本社発行、文庫化は講談社からだったのだが、それから13年の間に何があったのだろうか。

──それはともかく、東京第一銀行臨店指導グループに所属する花咲舞が周囲の戸惑い構わず正義を振りかざす本シリーズは、(東京中央銀行勤務の半沢直樹シリーズ同様)作者得意の銀行を舞台にしたミステリサスペンス集である。
作者の銀行勤務体験から、銀行現場業務の詳細がバックボーンにあるが、読後感は野村胡堂や池波正太郎に近い。弱者の目線からの勧善懲悪、やや苦味の残る結末。

池井戸潤の本は「半沢直樹」や「下町ロケット」などのTVドラマブームに乗って(乗せられて)、あれこれ続けて読んだものだ。いずれも読み始めると寝食忘れるほどに面白く、主人公が立ちふさがる困難を突破する結末に毎度留飲を下げたものだが、さすがにその後は少し飽き、本書もどうしようかと思ったのだが、出先で買って読み始めると一気呵成。
世間を騒がした大きな経済事件をモデルにしたり、思いがけない人物を登場させたり、作者のサービス精神と読み手を転がすエンタメ手腕は相変わらずで、その点については文句はない。

ただ、作者が短篇を重ねてだんだん巨悪、銀行の暗部を明らかにしていっても、どこかしら矮小な印象が残るのは、これはおそらく作品のせいではない。
少子化、新規学究の停滞、中国経済の肥大化に伴う我が国の経済が相対的にエントロピー減少の様相を示しつつある中、池井戸作品で示される黒幕が巨利をむさぼる構図そのものがリアリティを失いつつある、そんな感触なのだ。

つまるところ、もうこの国では上場企業、メガバンク、政界がつるんでアンタッチャブルな権力と利益を享受せんとしても、はた目には領収書を誤魔化して不倫旅行にあてる程度の小賢しさにしか見えない。
そんな「巨悪」は少々コミュ障気味の臨店指導担当の報告書に覆されて当然。花咲舞が黙っていても、落ちていく先は変わらない。

(おまけ)
すごくどうでもいいことだが、TVドラマ「花咲舞が黙ってない」で舞を演じた杏、彼女がイメージキャラクターとしてCM出演するエアコンメーカーが三菱でよかった。

2017/09/12

『山怪 山人が語る不思議な話』 田中康弘 / 山と渓谷社

Photo(『山の霊異記 赤いヤッケの男』の帯の献辞つながりから、田中康弘の本を1冊──)

『山の霊異記』シリーズが主に登山の対象となるような「深山」を舞台にした怪談集であるのに対し、田中康弘の『山怪』シリーズは概ね樵や漁師が働くところの「里山」を舞台にした伝承、伝説集である。

……と、遠回しな書き方をしたが、要は山里で人が行方不明になったり怪しい光が飛び交ったりしても、たいてい狸や狐のせいにされて終わるので、現代の感覚からすればまったく怖くないのだ。ツチノコがぴょんぴょん跳ねて側溝に逃げ込む話を聞いても、普通、怖いとは思わないでしょう。

では帯の惹句にある「現代版遠野物語」との評価はどうかと言えば、個人的にはそうは思えなかった。
地域や語り手を絞るわけでもなく、ただ漫然と「山場のヘンな体験」を搔き集めた印象。夢や酒のせいと思われるものを端折るのはもちろん、柳田國男から100年は経っているのだ、科学で説明のつく現象は説明を尽くすのが勤めというものだろう。

山の中で聞こえるはずのない太鼓やチェーンソーの音が聞こえる、といった話が幾度か出てくる。これはたとえば野生化したインコやオウムの類ではないか。
(実際、ときどき不気味な声が聞こえるが、それは鳥の鳴き声だろうと語り手が推察して終わってしまう話もある。)

山道の風景が左右反転して見えた、という話がある。失読症(ディスレクシア)の一種に文字が左右反転して読めなくなるというものがあるらしい。その類の一時的な神経症でもあろうか。

などなど、暇つぶしにパラパラ読む分にはともかく、とくに驚くところのなさそうな本ではあるが、話題になる程度には売れたらしい。山渓の名が日頃怪談本など見向きもしない読者層を掘り起こしたなら、それはそれで悪い話ではない。

2017/09/08

『山の霊異記 幻惑の尾根』『山の霊異記 赤いヤッケの男』(角川文庫)、『山の霊異記 黒い遭難碑』(MF文庫ダ・ヴィンチ) / 安曇潤平

Photo安曇潤平の山岳怪談は怖い。なぜこんなにも怖いのか、三項に分けて考えてみた。

(1) 怪談として

安曇潤平の文章は主体が変幻自在で、あたかも本人が実際に山で怪異を経験したかのような書き方、親しい登山家から聞かされたという書き方、主体が誰とも限定されない書き方(ときに「私」が女性であることも)など、この手の怪談短篇集としてはバリエーションが豊富だ。

つまり、いわゆる「実話の聞き起こし」にこだわらず、怪談としての読み応えさえあれば実話でも創作でもよし、とのスタンスらしい。
その結果、内容は、山で死んだ者の霊が現れる心霊モノ(不気味なものから友情や親子愛を描いた心温まる作品まで)、説明のつかないグロテスクな妖異譚など、さまざまで、「実話」にこだわらないぶん恐怖を煽るモノの描写に手加減がない。

(2) 山の道

個人的な感想だが、高所恐怖症の読み手にとっては、描かれた山の道そのものが怖い。

  三人は道を外れ、その吊り橋を途中まで渡ってみた。心もとない鉄鎖で吊られた橋が不安定に揺れる。
   (『幻惑の尾根』、「隧道」より)

  岩壁の側面から突き出た狭い廊下状の道が水平に続いている。道の幅は一メートル程度だ。左側はそのまま深い谷に切れ落ちている。
   (『赤いヤッケの男』、「ザクロ」より)

  トレースを外して足をついた途端、凍結した斜面に乗ってしまい、ザックを枕に五メートル近く一気に滑った。
   (『赤いヤッケの男』、「銀のライター」より)

  歩みを進めるうちに登山道は完全に岩になり「剣渡り」と呼ばれる、両側が切れ落ちた細い道に差しかかりました。
   (『赤いヤッケの男』、「霧の梯子」より)

など、ともかく道はやたら「切れ落ち」、足元は踏み外すと滑落する「ガレ場(岩が堆積した道)」なのである。
そんな道を想像するだけで怖ろしいのに、さらに(高い所が苦手な方にはおわかりいただけると思うが)平地に戻るためには後でまたその場所を通らなくてはならない。これが怖くなくて、なんだろう。

(3) 逃げ場がない

そして、安曇怪談の真骨頂がここにある。怪異からの「逃げ場」がない、のだ。

あまた排出される「実話怪談」には鳥肌が立つほど怖いものもあるが、その大半において語り手は怪異から逃げることに成功している。友人宅に走る、コンビニに逃げる、引っ越す、田舎に帰る。聞き取り手が巻き込まれてもせいぜいパソコンが壊れるくらいで、実話怪談の著者が呪われて死んだ、行方不明になったという話は(あまり)耳にしない。

ところが、山では、そうはいかない。
片側が谷に切れ落ちた道で向こうから怪しいモノが近づいてきたら? 見知らぬ男に山道をいつまでも追われたら? 霧で身動きできないところで聞こえるはずのない声が聞こえたら? ようやく設営したテント(もちろん夜の登山道を歩くことなどできない)を誰かが外から押してきたら?

そう思って振り返ると、安曇怪談の多くは、その尾根、山道を下りきればそこで妖異から逃げおおせることに気がつく。あくまで妖異は山にあるのだ。
……いや、もちろんあの話の怖いモノやあの話のエグいモノを平地まで持ち帰られても、それはそれで困るのだけれども。

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