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2017/06/05

僕のなにが罪深いというのだ 『赤い橋の殺人』 バルバラ、亀谷乃里 訳 / 光文社古典新訳文庫

Photo面白い。ある意味、珍本である。

本書『赤い橋の殺人』はフランス本国でも100年以上にわたってほぼ忘れられた作品だったが、訳者亀谷乃里氏が作者シャルル・バルバラ(1817-1866)の生涯、作品を研究対象とし、その論文がバルバラ再評価、各国での出版のきっかけとなったという。

●『罪と罰』の水源?

近代的な意味での推理小説の歴史は、大雑把に俯瞰すれば、E.A.ポーに始まり、ドイルが広め、その後クリスティなどによる黄金時代を迎えた、ということになっている。
しかし、ポーとドイルの間、詩人としてのポーの評価がボードレールをはじめとするフランスの象徴詩人に影響を及ぼし、またエミール・ガボリオ(1832-1873)によって世界初の長編探偵小説『ルルージュ事件』(1866年)が書かれた、といったフランスでの勃興が実は重要だ。

ところが、「探偵」「推理」といった要素には欠けるものの、一貫してある殺人事件の真相が主題となる『赤い橋の殺人』は1855年の発表で、だとするなら『ルルージュ事件』より10年以上早い。しかも本作にはバルバラと親交のあったボードレールも登場しており、これがポーの影響下に書かれたことはほぼ間違いない。

また一方、無神論を唱える登場人物がその思想ゆえに殺人を犯し、のちに追い詰められていくというストーリーが『罪と罰』(1868年)に影響を及ぼしたのではないか──という訳者の主張も興味深い。ドストエフスキーが本作を読んだ確たる証拠は得られていないようだが、類似点も多く、十分あり得ると思わせるに足る。

●訳者の自分語りが・・・

バルバラを再評価した訳者の功績は確かに大きかったようだが、それについて訳者の自画自賛がいささかくどい。

  私の博士論文二巻が、フランス国立図書館とニース大学図書館に収められて公開されると、数年後にはフランスでは『赤い橋の殺人』の復刻版が幾種類も出始め、今では中学、高校の教科書として単行本にもなり、フランス人の古典の一冊となりつつある。

という大筋はともかく、

  気が付いたら博士論文の版元の近くにある出版社が、(私の論文を要約したものを無断、無記名で序文に付して)異なったバージョンを出版していた。

  次第に、私の業績を明らかにするコメントや註を時にウェブ上で見かけるようにもなった。

  文献リストとも併せて、そのウィキペディアの基本情報が私の研究に拠っていることがわかる。

等々、「訳者まえがき」「解説」「訳者あとがき」三段構えの業績自慢が正直、くどい。くどいというか、あの『罪と罰』の先駆けとなった(と思われる)『赤い橋の殺人』凄い、自動記述の描写が出てくるのはシュルレアリスムの先取りで凄い、作中の赤い橋の工法が当時まだ実現していなかったのはSF的で凄い、そんなバルバラを発掘した自分凄い、みたいなことになっているのである。

確かにポジション的には興味深い作品だとは思うが、

  その科学的で幻想的な作品には音楽的情感や感動が息づいている。彼は科学性と論理性によって探偵小説の、そして科学性と幻想性によってサイエンス・フィクションの先駆としてフランス文学史に新しい一ページを開いた。

とまで言われてしまうと「それほどまでの作品か?」と思わず眉につばをつけてしまう。否、むしろさまざまな要素(とくに生まれてきた子供に関する怪奇幻想味)が無闇に加えられたことによって「悪徳と神、殺人と良心に関する形而上学的問題」がぼやけてしまっているようにも思える。

Photo_2あるいは、2006年のバカロレア(大学入学資格試験)の問題にアルフォンス・ドーデの短篇「黄金の脳味噌をもった男の物語」が用いられたことをネット検索で知った訳者は「バルバラを主人公にした」この短篇によって「若い柔軟な頭脳にシャルル・バルバラの名前が刻まれた」と讃嘆する。しかし『風車小屋便り』所収の「黄金の脳味噌をもった男の物語」はそもそも「アルルの女」や「星」に並ぶ著名作であり、バカロレアに出題されたところでなんら不思議はない。以前当ブログでも取り上げた昭和42年(1967年)発行の旺文社文庫版『風車小屋だより』にも注釈としてシャルル・バルバラの名が紹介されている(添付画像)。また、前後を読んだ限り、この短篇はバルバラを主人公として描かれたものではなさそうだ。

などなど、決して訳者の功績を否定したくはないが、バルバラという作家、ないしそれを発掘した研究者として自身を紹介するプレゼンテーションとして、その我田引水気味なやり方には少しばかり不興を感じざるを得ない。

そもそも、バルバラの再評価については、必ずしも訳者一人の手柄ではない。
もともと埋もれた作家に着目し独自に論文で取り上げたのは訳者の指導教官だったリュフ教授であり、バルバラを読むこと、研究し論文にまとめることを訳者に再三推したのもその指導教官であったらしい。それでその指導教官のフルネームさえ書いていないのは、いかがなものか。

●作品そのもの

似ているがゆえに違いが際立つ、ということがある。

『罪と罰』と『赤い橋の殺人』は顛末こそ似ているが、前者の怒涛の説得力をおよそ後者はもちあわせていない。
その理由はわりあい簡単で、『罪と罰』におけるラスコーリニコフ、その母や妹、ソーニャ、ポルフィーリー、さらにはスヴィドリガイロフらの発する言葉、行動、表情が示すリアリティを、『赤い橋の殺人』のクレマンやロザリ、マックスはもっていないからである。いちいちの引用は避けるが、脇役にいたるまで、一人ひとりの性格、個性、苦悩が具体性に乏しい直裁な言葉による「説明」として書かれているため、芝居のト書きのような印象が強いのだ。
(また、『赤い橋の殺人』には実際の殺人の場面は描かれていない。その場面から書き起こしたドストエフスキーの慧眼はなんというかやはりハンパではない。)

とはいえ、「バルバラは反抗の哲学、自由意志の思潮に関して、確かに過去から現代に変わるターニング・ポイントであり、そこからのドストエフスキーを経て、ニーチェ、アンドレ・マルロー、カミュ、サルトルへと続いて現代の我々に至る」などという解説の大風呂敷さえ気にしなければ、作品自体は中篇ながら精緻なアーキテクチャによって構築されたスグレモノである。
西洋文学を読む豊かな楽しみの素材の一つであることは確約したい。

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