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2017年6月の5件の記事

2017/06/30

〔短評〕 『僕が私になるために』 平沢ゆうな / 講談社 モーニングKC

Photo_5【トゥデ~イ イ~~ズ……  オペレ~~~ ~~ショーン!!】

この「くるくる回転図書館」をときどきでも覗いていただいている方には、烏丸がことジェンダーや性同一性障害(GID)について疎い、語る言葉を持たないことにお気づきかと思う。要は凡庸で想像力に乏しいのである。

元男性の作者がタイで性別適合手術(SRS)、早い話が男性器を切除する過程をユーモラスかつ具体的に描いた本作は、昨年の春、モーニング誌上でリアルタイムに読み、その後すぐ発売された単行本も手に入れていつか取り上げようと思いつつ、どう書くか見当のつかないまま今に至った。
正直にいえば作者(=主人公)の悩みは理解の外にある。だが、作者が一個の人間として己と対峙し、先の道すじを明らかにするために歩みを進めたことはわかった。さらにおそらくは想像を絶する本人の苦しみや周囲の冷たい目線、病院通いや裁判所での手続きへの葛藤があったであろうにもかかわらず、タイでの手術の過程を愉快に描くことに焦点をしぼり、その前後はさらりとかわした(描いていないわけではない!)ところに、作家としての力量を感じた。

単行本は発行部数が少ないのか書店店頭ですぐ見かけなくなったし、性同一性障害を扱った書物の中でどういった位置にあるのかよくわからない。
それでも、作者のナイーブな内省、術後の痛みあれこれ、底抜けに明るいタイのナースたちの描写を楽しむだけでも価値はある。一人でも多くの方にお奨めする次第。

〔短評〕 『ドラゴン・ヴォランの部屋 レ・ファニュ傑作選』 J・S・レ・ファニュ、千葉康樹 訳 / 創元推理文庫

Photoレ・ファニュの貴重な中・短篇集。

とはいえ、
  ロバート・アーダ卿の運命
  ティローン州のある名家の物語
  ウルトー・ド・レイシー
  ローラ・シルヴァー・ベル
の怪奇短篇4作については、「怪」が「妖美」の庭に踏み入ってかつ静謐な『吸血鬼カーミラ』や傑作と名高い短篇「緑茶」と同じ作者によるものと思えないほどありきたりな印象。
逆にいえば19世紀半ば、すでにのちのホラーのさまざまなパターンを自家薬籠中の物としていたレ・ファニュこそはプロフェッショナルなエンターテイナーだったのかもしれない。

なお「ティローン州のある名家の物語」(1839年)はシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』(1847年)のネタ元だったと目される作品。確かにトラブルの鍵となる人物の設定はかなり似ている──作風や主人公の描き方はまるで異なっているが。

巻末の表題作
  ドラゴン・ヴォランの部屋
は、カーミラの作者による中篇、と身を乗り出すとがっかりするが、肩の力を抜いて、ロマンを求めてパリを訪れたイギリス人青年の冒険を皮肉たっぷりに描いた犯罪小説と読めば痛快。
千葉氏の翻訳は平井呈一に比べれば古雅風趣では劣るものの、こと本作においては展開の疾走感に見合って読みやすい。

2017/06/17

『恐怖の百物語 第1弾』 関西テレビ放送 編著 / 二見レインボー文庫

Photo1991年4月から9月まで関西テレビ放送で制作・放映されたテレビ番組『恐怖の百物語』を活字化したもの(の改装・改訂新版)。

「はじめに」に「よけいな演出や、テレビお得意のおざなりな分析や解説をいっさい排除して、体験者の実話をただ淡々と聞くだけの番組はつくれないものか──」とあり、木原浩勝・中山市朗両氏による『新・耳・袋 - あなたの隣の怖い話』が1990年の発行だったことを考えると、実話怪談系のかなり早い時期の成果、かつ、のちの実話怪談集や都市伝説群の契機となった怪談集、と考えることができる。
そして、その内容は初期ゆえにみずみずしい恐怖に溢れ、ネタ詰まりからひねった奇譚(=怪談といいつつ怖くない)の多い昨今の実話怪談集に比べ、プリミティブな恐怖に特化した読み応えあるものとなっているように思われる。……ぐねぐね論評しているが、早い話がとてもコワイ。

ただ、「体験者の実話」を謳うなら、それはどうか、と気になる点があった。

本書にはテレビ番組で取り上げた体験談のうち29話がピックアップされている。
本来、29人が怪異に会い、それを語ったなら、その怪異のありようはもちろん、体験者の感じ方も、それぞれ色合いが異なるはずである。

ところが、全六章のうち、第一章「ドライバーを襲う悪霊たち」に取り上げられた5話では、

1). その白い冷たそうな手が、私の坐っている助手席のウィンドウに触れたとたん、私には車全体が冷気で急激に凍りついたような気がして、
2). その一言で、私は全身にサーッと鳥肌を立て、背筋がゾーッと寒くなりました。
3). なんの脈絡もなく、僕の心のなかに〝やばいぞ!〟という叫びが起こったのです。同時に、全身にサーッと悪寒が走りました。
4). (目のあるべき部分に目のない子供たちに見つめられて)全身の血がサーッと凍りついたようになった私は、
5). つぎの瞬間には、冷水を浴びせられたように全身が震えあがっていました。

続く第二章「世にも恐ろしい幽霊屋敷」の5話でも

6). (ドアノックを手にした)瞬間、まるで氷に触れたような冷たさが、指先から全身に走ります。
7). (洋館の玄関に機材を運び入れたとたん)不思議なことに、私の全身をサーッと悪寒が走り抜けました。
8). (引っ越した部屋で)身体全体に寒気が走って、冷たい風が駆け抜けていったのです。
9). 心なしか、あたりの空気は妙に冷たくよどんでいるように感じられました。
10). 朽ちかけた洋館をあおぎ見た瞬間、なぜか私は、心の奥底まで凍りつくような悪寒を感じたのです。

と、ここまで表記こそ違えどいずれの怪談にも「冷気」「悪寒」「寒気」が語られている。
ほかにも、

18). (部室の戸を開けた瞬間)真夏だというのに、ものすごく冷たい空気のかたまりが「ブワーッ!」と流れ出してきたのです。
21). (怪談の戸のほうに進むと)その瞬間、ブワーッ!という、ものすごい勢いの、しかも、なにやら背筋の凍るような冷たくて生ぐさい風を全身に受けて、

など、実は全29話のうち24話でこういった「冷気」「悪寒」「寒気」が恐怖を煽っているのである(例外のうちの1話も、雪山での遭難にまつわる話なので「悪寒」が話題にならなかっただけかもしれない)。

恐怖を煽る表現がこれだけ偏ると、制作担当者によるリライトの傾向、だけとは判断しづらい。実際に体験者がいたのではなく、漠然とした噂をリライトしたのではないか──いや、最悪、制作担当者の創作の可能性まで勘繰らざるを得ない。怪奇小説なら創作はほめられこそすれ、「実話怪談」における創作はいわば怪異の捏造である。
少なくとも読み手に余計な斟酌をさせるくらいなら、これほどまでに「冷気」「悪寒」「寒気」にこだわらず、もっと表現のバリエーションを工夫すべきだった。

──と言いながら、最後にまったく相反することを書くが、「冷気」「悪寒」「寒気」が繰り返される本書を風呂で読んだところ、いくら追い炊きしてもいっこうにいつもの汗にならず、湯船は冷え冷えとしたまま。本を置いて頭を洗うときも背後に誰かいるようで、文字通り寒気が去らなかった。
夏の暑い盛りに怪談、とはきっとこういう効能を言うのだろう。その限りでは「怪談」として良書であるようにも思う。

2017/06/13

『増補改訂版 刑事コロンボ完全捜査記録』 町田暁雄、えのころ工房 / 宝島SUGOI文庫

Photo地位も名声も手に入れた登場人物。しかし、その地位を脅かす者が現れ、彼(彼女)はその邪魔者を緻密な計略の上、殺害する。犯行はもちろん、被害者と自分を結びつける証拠は何ひとつないはずだ──。
そこに現れたしわくちゃレインコートの冴えない刑事。「あたしロサンゼルス警察のコロンボ。殺人課の」

倒叙ミステリの傑作、ピーター・フォーク主演の『刑事コロンボ』は、旧シリーズ45話(日本公開1972-1977年)、新シリーズ24話(1993-2004年)の全69話からなる。

旧シリーズはほぼ全話リアルタイムに視聴したし、製品版DVDもひとそろい持っているのだが、新シリーズは仕事の忙しい時期だったこともあり、ほとんど見ていなかった。
その新シリーズがしばらく前からBS-TBSで再放送されており、最近は毎週録画しては楽しんでいる次第。
その際、BRレコーダーの上に置き、「あれ、ロバート・ヴォーンが犯人をやったのはどの話だっけ」「この手の罠が最初に出てきたのは──」など、何度もページをめくり返しているのがこの文庫本『増補改訂版 刑事コロンボ完全捜査記録』。

本書は『刑事コロンボ』全話について、それぞれ犯人像、トリック、俳優・声優紹介のほか、各話に登場する印象的な食べ物飲み物、凶器(殺害に使われた拳銃は全話で合計何丁、とか、鈍器にはどのようなものが、とか)、コロンボの親戚話、ご存知“かみさん”の特技、使われたクラシック音楽などなどをこと細かに調べ上げ、1冊にまとめたものである(いくつか改訂版があるので注意)。
ちなみに公式ガイドブックではないため表紙を含めて写真は使われておらず、本ページではマンガタッチのイラストが多用されていて、それが実に楽しい。

ちょっとした脇役俳優がほかの回では重要な役を演じていたり、かつて使われた有名なプロットが一種の隠し味として別の話で再利用されていたり、ちょっとしたセリフに実は結末が示唆されていたり、等々、漫然とテレビ画面をながめているだけでは気がつかない詳細な情報がページ狭しと列挙されていて頭が下がる。
コロンボのファーストネームやかみさんの名は最後まで明らかにされなかった、とか、コロンボの愛車プジョー403がどの回にはどのような状態で登場した、とか、今週放送された「だまされたコロンボ」の犯人が「バイバイキーン」のあのキャラの声だったとか。
(欲を言えばプジョー403以外の車についても車種など詳しく取り上げてほしかった。あの、燃費なんて概念のない、ブレーキに合わせて波打つように上下に揺れるあのバカでかいアメ車たち。)

本文は全ページ、コロンボ愛に満ちあふれていて、その分、厳しいところはとことん手厳しい。
シナリオの矛盾、推理の穴、演出の甘さなど手加減なく指摘されており、とくに新シリーズは脚本に苦しんだのかいろいろ迷走したもようで残念だ。

もちろん全犯人の犯行方法(凶器)から俳優の伸長まで一覧表にするくらいだから、トリック、プロットのネタバレはやむを得ない。だが、そもそもコロンボの良作は何度見直しても十分面白い。いや、これほど細かく切り刻まれ、なお底の知れない味わい、それこそがコロンボの魅力なのだ。

2017/06/05

僕のなにが罪深いというのだ 『赤い橋の殺人』 バルバラ、亀谷乃里 訳 / 光文社古典新訳文庫

Photo面白い。ある意味、珍本である。

本書『赤い橋の殺人』はフランス本国でも100年以上にわたってほぼ忘れられた作品だったが、訳者亀谷乃里氏が作者シャルル・バルバラ(1817-1866)の生涯、作品を研究対象とし、その論文がバルバラ再評価、各国での出版のきっかけとなったという。

●『罪と罰』の水源?

近代的な意味での推理小説の歴史は、大雑把に俯瞰すればE.A.ポーに始まり、ドイルが広め、その後クリスティなどによる黄金時代を迎えた、ということになっている。
しかし、ポーとドイルの間、詩人としてのポーの評価がボードレールをはじめとするフランスの象徴詩人に影響を及ぼし、またエミール・ガボリオ(1832-1873)によって世界初の長編探偵小説『ルルージュ事件』(1866年)が書かれた、といったフランスでの勃興が実は重要だ。

ところが、「探偵」「推理」といった要素には欠けるものの、一貫してある殺人事件の真相が主題となる『赤い橋の殺人』は1855年の発表で、だとするなら『ルルージュ事件』より10年以上早い。しかも本作にはバルバラと親交のあったボードレールも登場しており、ポーの影響下に書かれたことはほぼ間違いない。

また一方、無神論を唱える登場人物がその思想ゆえに殺人を犯し、のちに追い詰められていくというストーリーが『罪と罰』(1868年)に影響を及ぼしたのではないか──という訳者の主張も興味深い。ドストエフスキーが本作を読んだ確たる証拠は得られていないようだが、類似点も多く、十分あり得ると思わせるに足る。

●訳者の自分語りが・・・

バルバラを再評価した訳者の功績は確かに大きかったようだが、それについて訳者の自画自賛がいささか煩わしい。

  私の博士論文二巻が、フランス国立図書館とニース大学図書館に収められて公開されると、数年後にはフランスでは『赤い橋の殺人』の復刻版が幾種類も出始め、今では中学、高校の教科書として単行本にもなり、フランス人の古典の一冊となりつつある。

という大筋はともかく、

  気が付いたら博士論文の版元の近くにある出版社が、(私の論文を要約したものを無断、無記名で序文に付して)異なったバージョンを出版していた。

  次第に、私の業績を明らかにするコメントや註を時にウェブ上で見かけるようにもなった。

  文献リストとも併せて、そのウィキペディアの基本情報が私の研究に拠っていることがわかる。

等々、「訳者まえがき」「解説」「訳者あとがき」三段構えの業績自慢が正直、くどい。くどいというか、あの『罪と罰』の先駆けとなった(と思われる)『赤い橋の殺人』凄い、自動記述の描写が出てくるのはシュルレアリスムの先取りで凄い、作中の赤い橋の工法が当時まだ実現していなかったのはSF的で凄い、そんなバルバラを発掘した自分とっても凄い! みたいなことになっているのである。

確かにポジション的には興味深い作品だとは思うが、

  その科学的で幻想的な作品には音楽的情感や感動が息づいている。彼は科学性と論理性によって探偵小説の、そして科学性と幻想性によってサイエンス・フィクションの先駆としてフランス文学史に新しい一ページを開いた。

とまで言われてしまうと「それほどまでの作品か?」と思わず眉につばをつけてしまう。否、むしろさまざまな要素(とくに生まれてきた子供に関する怪奇幻想味)が無闇に加えられたことによって「悪徳と神、殺人と良心に関する形而上学的問題」がぼやけてしまっているようにも思える。

Photo_2あるいは。2006年のバカロレア(大学入学資格試験)の問題にアルフォンス・ドーデの短篇「黄金の脳味噌をもった男の物語」が用いられたことをネット検索で知った訳者は「バルバラを主人公にした」この短篇によって「若い柔軟な頭脳にシャルル・バルバラの名前が刻まれた」と讃嘆する。しかし『風車小屋便り』所収の「黄金の脳味噌をもった男の物語」はそもそも「アルルの女」や「星」に並ぶ著名作であり、バカロレアに出題されたところでなんら不思議はない。以前当ブログでも取り上げた昭和42年(1967年)発行の旺文社文庫版『風車小屋だより』にも注釈としてシャルル・バルバラの名が紹介されている(添付画像)。また、前後を読んだ限り、この短篇はバルバラを主人公として描かれたものではなさそうだ。

などなど、決して訳者の功績を否定するものではないが、バルバラという作家、ないしそれを発掘した研究者として自身を紹介するプレゼンテーションとして、その我田引水気味なやり方には少しばかり不興を感じざるを得ない。

そもそも、バルバラの再評価については、必ずしも訳者一人の手柄ではない。
もともと埋もれた作家に着目し、先行して独自に論文で取り上げたのは訳者の指導教官だったリュフ教授であり、バルバラを読むこと、研究し論文にまとめることを訳者に再三推したのもその指導教官であったらしい。それでその指導教官の所属、フルネームさえ書いていないのは、いかがなものか。

●作品そのもの

似ているがゆえに違いが際立つ、ということがある。

『罪と罰』と『赤い橋の殺人』は顛末こそ似ているが、前者の怒涛の説得力をおよそ後者はもちあわせていない。
その理由はわりあい簡単で、『罪と罰』におけるラスコーリニコフ、その母や妹、ソーニャ、ポルフィーリー、さらにはスヴィドリガイロフらの発する言葉、行動、表情が示すリアリティを、『赤い橋の殺人』のクレマンやロザリ、マックスは発していないからである。いちいちの引用は避けるが、脇役にいたるまで、一人ひとりの性格、個性、苦悩が具体性に乏しい直裁な言葉による「説明」として書かれているため、芝居のト書きのようなのだ。
(また、『赤い橋の殺人』には実際の殺人の場面は描かれていない。その場面から書き起こしたドストエフスキーの慧眼はなんというかやはりハンパではない。)

とはいえ、「バルバラは反抗の哲学、自由意志の思潮に関して、確かに過去から現代に変わるターニング・ポイントであり、そこからのドストエフスキーを経て、ニーチェ、アンドレ・マルロー、カミュ、サルトルへと続いて現代の我々に至る」などという解説の大風呂敷さえ気にしなければ、作品自体は中篇ながら精緻なアーキテクチャによって構築されたスグレモノである。
西洋文学を読む豊かな楽しみの素材の一つであることは確約したい。

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