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2017年5月の6件の記事

2017/05/29

窓越しに遊ぼう(←編集GJ!) 『まどからマドカちゃん(1)』 福田泰宏 / 講談社 モーニングKC

Photo出版不況化に濫発されるマンガ単行本の消耗がー、といったあたりから書き始めたのだけど、どんどん作品から乖離してしまったので没。
シンプルにいこう。

元総理大臣みたいな名前の作者による『まどからマドカちゃん』はかわいい。面白い。売れるんじゃないかな。売れてほしい。

サラリーマンの小田君(やや社畜)は、会社に急ぐ道すがら、その路地に面したアパートに住むマドカちゃんと知り合う。
このマドカちゃん、突然窓を開けて寿司屋になったり、射的屋になったり、丁半博打の賭場を開いたり、病院開いたり、あれやこれやで小田君を翻弄する。今日はまさかの……。

マドカちゃんの側はセリフ(吹き出し)なし、その意図は表情とファッションと小田君の

  ちょっと待って! え? 寿司!?

  「何握りやしょう!!」みたいな顔しなくていいから!

などのセリフで説明されるのみ。そもそもタバコをくわえたり缶ビールをすすることはあっても、マドカちゃんの口や鼻は一切描かれない。

ちなみに小田君がとことん鈍いので気がつきにくいが、実はマドカちゃんはときどきエロなのでお子様には目の毒、お一人身様には気の毒だ。


(6月4日追記)
なんとなくタイトルに既視感があると思っていたら、『波打際のむろみさん』(名島啓二)という作品がありました。文字にしてしまうと別に似てもいないか。
釣りが趣味の少年が防波堤で人魚を釣り上げてもあまり動じない、可愛い顔をしたヒロインの人魚がゴカイやミミズを食べたがるなど、甘々とラブロマンスに走らないところが魅力的でした。

2017/05/22

悪いキジムナーがいっぱいいる 『沖縄の怖い話 メーヌカーの祟り』『沖縄の怖い話 <弐> 壊せない場所』 小原 猛 / TO文庫

Photo書店に溢れる実話系怪談集にさすがに少し飽いたこともあって、この著者の本は未読だった。
もったいないことをした。
実に面白い。

祖先を神と崇め、一族の大きな墓を作る沖縄独特の宗教観。集落のシャーマンのような存在である「ユタ」、祭祀を司る場所「ウタキ(御獄)」、そのウタキにあって神様を拝む場所「拝所」もしくは「ウガンジュ」。ウタキは神聖な場所としてみだりに入ったり壊したりしてはいけない。その他、人に神が憑いておかしな言動をとる「神ダーリ(神がかり)」、妖怪にあたる「マジムン」「キジムナー」「ハダカヌユー」などの耳慣れないカタカナ言葉があれこれ飛び交い、たとえば物語はうかつに踏み入るべきでないウタキを侵した若者が神ダーリに陥り、途方に暮れた家族がユタを招いてウガンジュで拝んでもらったところ、マブイ(魂)を落としていると言われ──といった具合に展開する。

だが、必ずしも知らない言葉が多いからわかりにくい、わけではない。
たとえば
  「その拝所まで行き、三人でウートートゥーした」
とあれば、「三人で拝んだ」などよりよほど状況が目に浮かぶ。
そもそも、日本は八百万神(やおよろずのかみ)の国である。一神教のキリスト教などより一つの森、一本の木に神や妖怪の住まう沖縄の文化のほうがよほどなじむ。
その沖縄の怪異が
  「お母さんじゃないば?」
  「知らない女の人さー」
とか
  「ひゃあ! 島袋さんよ! 死んでるはずさ!」
とか
  「ええ、恵さんよ。でーじさ。どこからか?」
といった調子で書かれるのだからたまらない。

一つひとつの話は、怪談としてとくに怖いかというと、そういうわけではない。
雰囲気が南の島というか、陰湿でないこと、ユタに飄々とした人物が少なくないなど、全体に呑気で明るいトーンなのだ。しかし、実のところ、語り手が怪異を見聞きするだけの実話怪談の多くに比べ、関係者本人やその家族が実害を被る怪異が少なくない。また、日本兵や米兵のユーリ(幽霊)など、沖縄ならではの暗い事象もある。それなのに、なお全体に明るい印象なのはなぜかといえば、おそらくそれぞれの事情を語る人々の背景に沖縄ならではの信仰があり、その因果応報の中で回避できることはできる、できないことはできない、という──諦観ともまた少し異なる──一種のリアリズムのようなスタンスがあって、「これだけひどい原因があったなら、この家の者が皆死んでも仕方ないさー」みたいなことになるわけである。

ふと、先だってBS放送で見た、ピンク・フロイドの初期メンバー、シド・バレットのドキュメンタリーを思い出した。
彼は先進的なセンスに溢れた曲作りで話題になるも、ドラッグと、おそらくそれから誘発された統合失調症でミュージシャンとして次第に常軌を逸していき、やがてバンドをクビになり、ソロアルバムを数枚残してロックシーンから消えていく。
もし当時、シドが沖縄にいたら、どうだったろう? 『沖縄の怖い話』では、ユタが幽霊や妖怪の類に対処しようとしても、それが米兵がらみのものだと「言葉が通じないから手に負えない」ということになる例がいくつかある。
それでも、もし、力のあるユタの誰かがシドの頭に手を置いて祈り、シャコガイを組み合わせたお守りを作って「これに一ヶ月間、毎日水を入れて、その中に何でもいいからお花を一つ、毎日浮かべてあげて」と渡していたなら。

勢いで竹書房文庫『琉球奇譚 キリキザワイの怪』も読んでみた。
同じ著者の手によるものだが、こちらはTO文庫版に比べると今一つよろしくない。
著者が気を遣ったのか、編集者が几帳面なのか、どうも文体や怪異に竹書房の他の実話怪談に足並みそろえた味があり、そうなると『沖縄の怖い話』ならではのテーゲーな魅力に欠けるのだ。

2017/05/18

ミステリホメオパシー 『Life 人生、すなわち謎 ミステリー傑作選』 日本推理作家協会編 / 講談社文庫

Life日本推理作家協会では、1948年度版以来、毎年欠かさず、その1年に発表された優れたミステリ短篇をまとめたアンソロジーを刊行している。それを年2分冊にして刊行しているのが講談社文庫の『ミステリー傑作選』シリーズ。ショートショート特集など、変格も交えて4月発行の『Life 人生、すなわち謎』で85冊めとなる。

今回の収録作は5作、

新幹線の車内清掃チームがある日の東北新幹線車輌で出会った小さな事件、そこにはある女性の人生が。
  (伊坂幸太郎「彗星さんたち」)

渋谷分駐所に所属する機動捜査隊で年上の警部補と急増コンビを組むことになり、今ひとつ納得のいかない主人公。だが、頼りなく思われたそのベテラン刑事には意外な側面が。
  (今野敏「暁光」)

腕のいい石工だった男が墓所の片隅で幼い息子に見せたのは、若い職人と連れ立って家を捨てた母の墓石、そこに彫られた朱文字の母の名だった。
  (翔田寛「墓石の呼ぶ声」)

プロ野球の人気球団の新しいヘッドコーチ人事をめぐる、スポーツ新聞社内の駆け引き。
  (本城雅人「コーチ人事」)

派遣の身分から社会保険労務士の資格を得てキャリアをリスタートさせた主人公は、担当顧問先の企業で同社に不当に解雇されたと言い張る元社員の言い分を聞くはめに。
  (水生大海「五度目の春のヒヨコ」)

詳細は書けないが、実はこの5作のうち、殺人事件は一件のみ。ほかの4作についても、いわゆる犯罪、違法行為はほとんど出てこない。

少し前に日本文藝家協会編『短篇ベストコレクション 現代の小説2016』(徳間文庫)を紹介したが、いずれの短編も、どちらのアンソロジーに収められていてもおかしくない(本城雅人のスポーツ新聞社の特ダネ競争をテーマとする短篇にいたっては、両アンソロジーに選ばれているのだが、『短篇ベストセレクション』所収の作のほうがミステリ臭が強いほどだ)。「五度目の春のヒヨコ」も青木祐子の『これは経費で落ちません! ~経理部の森若さん~』(集英社オレンジ文庫)のスピンアウトとでも言われるといかにもありそうな内容で、つまりは狭義のミステリとは言い難い。
対するに『Life 人生、すなわち謎』というタイトルは、人生は謎、その謎を解こうとする作品だからミステリ、と居直ったようなもので、いっそすがすがしい(←誉めているわけではない。当たり前であるな)。

前回、この日本推理作家協会によるミステリー傑作選『Bluff 騙し合いの夜』を取り上げたのは5年前の5月だったが、そのときは以下のようなことを書いた。

現代の若手ミステリ作家は、登場人物に一線を越させる確かな理由を、現実の手本から見つけ出すことができていないのかもしれない。そのため、作中の季節感も、殺意も、トリックも、すべてプラスチックの積み木の清潔なピースのようになってしまい、作品の優劣はただその組み合わせの是非でしか競えない。

今やそれをも通り越して、そもそもミステリ作家は犯罪、殺人を描く理由がなくなってしまったということか?

もとい、状況をきちんと切り分けよう。

そうは言っても猟奇殺人を描き、本格推理をうたう作品はむしろ書店の棚に溢れかえっている。若者向けライトなキャラクターもののミステリ好編も少なくない。だが、少なくとも日本推理作家協会とその周辺は、かつての傑作を崇めるあまり、もはや現在の良作を年間ベストに選ぶ理由を見失っているのだ。一度、ガラガラポンでリセットしてもよいのではないか。選者とか。販社とか。

2017/05/10

『封印作品の謎 テレビアニメ・特撮編』『封印作品の謎 少年・少女マンガ編』 安藤健二 / 彩図社

『封印作品の謎 テレビアニメ・特撮編』『封印作品の謎 少年・少女マンガ編』は、安藤健二の単行本『封印作品の謎』『封印作品の謎2』(以上太田出版)『封印作品の憂鬱』(洋泉社)3冊から再編集、文庫化したもの。

先に目次を転記しておこう。

1『封印作品の謎 テレビアニメ・特撮編』

第一章 闇に消えた怪獣
 ──『ウルトラセブン』
   第一二話「遊星より愛をこめて」
第二章 裁かれない狂気
 ──『怪奇大作戦
   第二四話「狂鬼人間
第三章 忘れられた予言
 ──映画『ノストラダムスの大予言』
第四章 ウルトラとガンダムの間に
 ──『サンダーマスク』
第五章 ポケットの中の悪夢
 ──日テレ版『ドラえもん』

2『封印作品の謎 少年・少女マンガ編』

第一章 禁じられたオペ
 ──『ブラック・ジャック』
   第四一話「植物人間」・第五八話「快楽の座」
第二章 引き裂かれたリボン
 ──『キャンディ・キャンディ』
第三章 悲しい熱帯
 ──『ジャングル黒べえ』
第四章 怨霊となったオバケ
 ──『オバケのQ太郎』

目次を書き写したのには意味がある。
章数がこの手の本としては極めて少ないのだ。

たとえば同じ彩図社の文庫『定本 消されたマンガ』(赤田祐一、ばるぼら 共著)では、約60タイトルのマンガが扱われている。
1冊あたりでみれば10分の1以下、ということになる。

この章数の少なさは何を表すのか。
著者の取材が執拗、なのである。

テレビで再放送されない回があるなら、最後に放送されたのはいつ、どの局でなのか。フィルムはどこにあるのか。権利はどこにあるのか。なぜ再放送、DVD化が止められているのか。その問題を最初に指摘したのは誰か。その人物は今はどう考えているのか。制作側は。
著者は堅い木の薄皮を1枚1枚はがすように、関係者を訪ね歩き、問い、彼らの返答ないし沈黙(取材拒否)を記録していく。取材の多くは空振りに終わるが、それでもいかなる意図が働いたか(流行りの「忖度」というやつだ)、やがて壁は壁の形として見えてくる。
(この自身に厳しいスタイルのため、著者はノンフィクション作家として作品を多発することができず、生活のためにサラリーマンに戻ったという。なんという損失だろう。)

たとえば連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤の部屋にダビングテープがあったことで話題になった『ウルトラセブン』の第一二話、これ一つとっても「スペル星人が被爆者差別として問題扱いされたため」などという単純な図式ではすまない。背景には番組制作を離れたところでの紙媒体での紹介事故(と言ってよいと思う)、指摘を受けての制作側の初動ミスがあり、ひとたび封印された後は「はれもの」として「なかったことにする」業界の体質があった。

扱われている作品は総じて古いものが多い。だが、見えてくる構図は普遍的だ。

単行本から文庫になる間に封印の解けた作品もある(『オバケのQ太郎』など)。
それはよいことだ、しかし藤子不二雄にかかわる顛末はいずれも爽快とは言い難い。
僕たちは藤子不二雄の作品世界について、あのシンプルでかわいらしい線に騙されてきたのかもしれない。──だが、騙されるなら騙されたままでいたほうがよい、そういうことだってある。

同じく後味が悪いのは、一世を風靡した『キャンディ・キャンディ』(「・」は正しくはハートマーク)が絶版、放送停止にいたる顛末だ。
背景には原作者水木杏子と作画担当のいがらしゆみこの係争がある。
この係争はマンガにおいて原作者と作画者、どちらに著作権があるか──という報道をされることが少なくないが(最高裁では原作者水木側の勝訴)、こと本書を読む限り、実際はもう少しプリミティブな人間性に問題があったように読める。
田中圭一の『ペンと箸』においていがらしゆみこはその子息によって

  著作権裁判とかプライベートでつらいことが
  山のようにあった時も
  彼女はいつもほがらかで明るい
  そういう母をかっこいいと思ってきました

と語られる。
そうだろうか? この時期、いがらしはむしろ思い悩み、反省し、いかに謝罪、和解するかを考えて呻吟すべきだった。それが、それのみが『キャンディ・キャンディ』を復活に導く、本当にかっこいい母親の姿だったはずだ。違うだろうか。

2017/05/07

君はゾンビなフレンズなんだね 『死の相続』 セオドア・ロスコー、横山啓明 訳 / 原書房 ヴィンテージ・ミステリ・シリーズ

Photo(「あのミステリ黄金時代の、あの女王のあの著名作品」を話題にした手前、それに先んじたこの怪作を取り上げないわけには……)

ハイチに住む実業家が死に、屋敷には七人の相続関係者が集められた。「私の遺体は丘の上に深く埋め、棺には杭を打ちこむこと。財産は第一相続人にすべてを譲る。ただし、第一相続人が二十四時間以内に死んだ場合、第二相続人が権利を得る。第二相続人が二十四時間以内に死んだ場合には第三……」と奇妙な遺言が読み上げられる。遺言書をなぞるように屋敷では相続人が奇怪な死を迎えていき、そして最後に残された第七相続人に……。
 (『死の相続』カバーに書かれた内容紹介より)

紹介文からして奇妙奇天烈、なんとも濃いB級インプレッションだが、実際、この実業家(アンクル・イーライ)の弁護士、ピエール・ヴァラーンタン・ボンジャン・トゥーセリーネが語り手の売れない画家、E・E・カーターズホールの部屋に登場する冒頭から物語は禍々しさの発酵、熟成、腐敗一本道、カーターズホールの恋人にしてイーライの相続人、パトリシア・デイルを連れ立っていざゆかんハイチの旅、そこに待ち受けるは……。

ピンを刺しておきたいのは、この『死の相続』がパルプマガジンに発表されたのが1935年だという、そこのところだ。

これは閉ざされた空間に集められた関係者が順に死んでいく、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』(1939年)より数年早い。
さらにいえばヴードゥー教のゾンビが登場する点においてジョージ・A・ロメロの映画『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968年)にももちろん先駆けている(「棺には杭を打ちこむ」のは、死体がゾンビとして復活しないための呪法)。

じっとり湿度の高いハイチの夜の雨、いずれ一癖も二癖もありそうな相続人たちは互いに反目し合いつつ、一人二人と謎の死をとげていく。
異様な熱気に引きずられるサスペンスといえば例の『赤い右手』が思い起こされる。書斎、パイプ煙草、衒学趣味と、つまりはちょっと知的にスカした雰囲気が定番のミステリ群の中で、強引な怪奇性と暴走のスピード感で読み手の生理に訴える、とでも言うか。

ところが『死の相続』が凄いのは、読了後、振り返ってみれば本格ミステリとしての約束ごとがそれなりに一気通貫守られているということだ。少なくともトリック、プロットは冷静な知性の産物である。奇妙な遺言、黒人ゲリラの蜂起、ゾンビの跳梁、と、大昔の冒険映画のような書割の中で(動機に見合っているかどうかはともかく)フーダニット、ハウダニットについては終盤まで丁寧に読めば演繹的に割り出すことが可能なはずである。
──もっとも、導き出したうえで「バカミスだぁ!」と声を上げることにはなるのだが。

ちなみに、この『死の相続人』、雑誌掲載時のタイトルが A Grave Must Be Deep! だったのはまだしも、加筆、単行本化された際のタイトル Murder on the Way! は何だかよくわからない(「途上の殺人」?)。
邦題もウィリアム・アイリッシュあたりにありそうな『死の相続』などより、ここは一つ『ZOMBEREAVED 死霊の相続人』などではいかが。

2017/05/01

だんだん浄らかになる 『美しの首』 近藤ようこ / エンターブレイン ビームコミックス

Photo夢十夜』紹介の際に「近藤ようこの描くものは、原作原案などなくとも」と風呂敷を広げた手前、解き放たれた近藤ようこの魅力を示す何かよいものをと思ったが、彼女の単行本は残念なことにその多くが品切れ、絶版で手に入らない。
そこで、新装刊されて比較的手に入りやすい『美(いつく)しの首』から、中編「安壽と厨子王」を取り上げることにした。

「安壽と厨子王」は中世説教節の一つ、森鴎外の小説『山椒大夫』や子供向け絵本でも知られている。

近藤ようこは原作の健気な弟、厨子王を、高貴な血筋と偽って裕福な貴族(梅津院)に寄宿する美少年に仕立て、彼がかつての主人、山椒大夫を陥れ、山椒大夫のもとを出奔する際に見捨ててむごく死にいたらしめた姉、安壽の怨霊の誘惑に溺れ、あげく梅津院やその妹、出戻りの醜女、朝日姫を死に至らしめ、金と権力を得て阿弥陀像の前でうそぶくまでを一気呵成に描き上げる。
姉の怨霊との冷たい肌の契り、稲生物怪録を思わせる化け物の俯瞰描写など、その筆は軽妙自在、赤塚不二夫のギャグに近い白い画面が、艶めかしく個人の存在の空恐ろしさを伝える。

厨子王は情けない小悪人なのだが、跳梁跋扈、悪に走るほどに仏に近づき、反省を捨てるほどに浄化されて最後には空しく透明な存在と化す。
大袈裟にいえばニーチェやドストエフスキーの超人である。だが、そんな小難しい理屈に囚われる必要はない。読み手は安壽と厨子王の運命に寄り添い、絶叫マシンのごとく時の流れの中を共に疾走すればよいのだ。

これで百頁、どうです先生、読みたくなつたでせう?

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