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2017年2月の6件の記事

2017/02/24

桜の花の散るごとく 『横綱』 武田葉月 / 講談社文庫

Photo昭和から平成にかけて、角界を支えた“横綱”22人のインタビューをまとめた1冊。
初代若乃花から大鵬、北の富士、輪島、北の湖、千代の富士らを経て双羽黒、大乃国、曙、朝青龍、白鵬、日馬富士、鶴竜まで。
(残念ながらあとがき、資料とも、稀勢の里昇進の話題は間に合わなかったようだ。)

優勝回数や連勝に記録を残す大横綱もあれば、横綱に上がったあとパッとした成績を残せなかった者、追われるように角界を去った者など、堂々たる、あるいは朴訥だが生々しい横綱の声、裏話が聞けて相撲贔屓にはたまらない。

親方に誘われ飛行機に乗って東京見物とシャレているうちに抜けられなくなった千代の富士、とか、対戦相手をビデオで研究する輪島、全く研究しない北の湖などなど、さまざまな話題の中ではっと目を打たれるのは、

「横綱になった途端に、私はやめることを考えましたね」(大鵬幸喜)
「『もう、後は引退だけだよ。ダメなら、すぐやめなきゃいけないんだよ』まるで、引導を渡されるように、そう言われたのです」(栃ノ海晃嘉)
「ただ、ひと言だけ、『引き際をきれいにしよう』ということだけ」(北の富士勝昭)
「横綱昇進が決まって、師匠からまず言われたことは、『横綱になって、成績が悪かったら、スパッとやめなければいけない』ということでした」(若乃花幹士(二代))

と、多くの力士が、横綱に推挙された途端引退のときを強く意識させられる、意識し始める、ということだ。
それ以上上のない横綱という地位の責任が圧倒的に重いということだが、それにしてもこれほどとは思わなかった。

一つ面白く思ったのは、機会が得られなかったのか、この本には実は若貴兄弟、つまり若乃花勝、貴乃花光司の2人の横綱のインタビューが抜けている。ところが、その前後の世代の横綱たちの言葉の中に、自らを追いたてる若武者、眼前の敵、目標と崇め奉る横綱としての貴乃花が語られ、まるで各代の横綱の白黒の写真を無造作にペタペタと貼っていったら、真ん中に大きな貴乃花のシルエットが空白として浮き上がった、そんな塩梅なのだ。貴乃花という横綱が、記録に表れる以上に大きな存在であった証しだろうか。

もう一点。
昭和三十八年九月場所の千秋楽、6連覇中の大鵬が休場明けの柏戸との全勝対決に敗れた名勝負を(どうやら見もしないで)八百長と決めつけ、スポーツ新聞にそう書いた人物がいた。相撲協会が名誉棄損で告訴するにいたるとその人物は一転、謝罪したのだが……。これが当時人気作家だった石原慎太郎である。今も昔も、人騒がせな人なんだなぁ。

2017/02/23

『血と薔薇の誘う夜に 吸血鬼ホラー傑作選』 東 雅夫 編 / 角川ホラー文庫

Photo角川ホラー文庫から出ている東雅夫のアンソロジーには『闇夜に怪を語れば 百物語ホラー傑作選』、『黒髪に恨みは深く 髪の毛ホラー傑作選』などがあるが、この吸血鬼ホラーを蒐集した『血と薔薇の誘う夜に』については発刊された当時──もうひと昔前に──読み逃して、それきりになっていた(はっきり言って東雅夫アンソロジーは、そのボリュームと出来頻度のため、追いかけるのが大変なのである)。
先だって、神田の古書店で見つけてようやく読了した次第。

収録作は、三島由起夫・須永朝彦・中井英夫・倉橋由美子・種村季弘・夢枕獏・梶尾真治・新井素子・菊地秀行・赤川次郎・江戸川乱歩・柴田錬三郎・中河与一・城昌幸・松居松葉・百目鬼恭三郎という古豪から中堅まで、十六人十六様の短篇小説、翻訳、考察等々。
純文学からSFまで幅広く材を求め、恐怖、エログロ、ユーモアと様々な味を並べ立ててホラーアンソロジスト東雅夫の面目躍如といえる。

しかし、逆に、東の手腕をもってしても、「吸血鬼」というテーマはホラーアンソロジーとしては今ひとつなものにならざるを得ない、という問題もまた浮かび上がる。

吸血鬼(Vampire)を描く作業はブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』でひとたびその様式を極め、ヘビメタミュージシャンがスパイク付きレザーリングを手首にはめるように、その姿かたち、食生活、ファッション、死に方にいたるまでこと細かなパターン化が進んでしまった。
首筋から血を吸われることで自身も吸血鬼に変じ、十字架と日光とニンニクに弱く、昼間は棺桶に眠り、ときには蝙蝠に化けて神出鬼没、胸に杭を打たれるまで永遠に死なない。そんなお約束通りの吸血鬼を描いた作品はむしろペーソス溢れるパロディと化し(夢枕獏、新井素子など)、逆に独自な悪と闇を描いた三島由起夫、柴田錬三郎、中河与一、城昌幸らの作品はおそらく「吸血鬼」という言葉を使わなくとも高度な恐怖小説として成立するのだ。
つまり、吸血鬼を描いたホラー作品は、元祖・本家「吸血鬼」の血脈に近ければ近いほど怖くない、という困ったことになってしまっているのである。
血を吸う日本の鬼を古典から見繕った百目鬼恭三郎の最後の1行、「吸血鬼に限らず妖怪はすべて本来あいまいな存在であるにちがいない」を借りるなら、ストーカー以降の吸血鬼はあまりにあいまいさを喪ってしまったのだ。

おまけ:
吸血鬼を描いたマンガは少なくないが、狙われた美女、美少年の首に2つ並んだ噛み傷、よく考えるとあれは少々おかしい。犬歯で噛んだなら噛み傷の間はもっと間が空きそうなものだし、下顎側の歯の後がないのも不思議である。そもそも首筋を狙うのが新鮮な血液を求めるためだったなら、頸動脈を破れば大変な出血に見舞われるはずで、要は噛む場所などどこでもよいのである。

2017/02/22

『怪談狩り 市朗百物語』 中山市朗 / 角川ホラー文庫

Photo新耳袋 現代百物語』を編んだ著者の片翼、中山市朗による実話怪談集。最近、続編にあたる『怪談狩り 市朗百物語 赤い顔』も文庫化された。
しかし、無骨な言い方をするなら長年のうちにネタが尽きたのか、それとも読み手がスレてしまったのか、はっきり言ってそう怖くはないし、全体にどこかで見た、聞いたような話が多い。

……とかいった評価はさておき、1冊目の『怪談狩り』以来、気になっていたことを書いておきたい。

『怪談狩り』の文庫版(添付画像)の帯には

  “わからない”事は恐い。
  “わかろうとする”から恐い。
  ただ“感じる”を受け入れればいい。
  えっ!? やっぱり怖い?

という小堺一機のコメントが寄せられている。
少しひっかかりを感じながら本文を読んで、しばらくしてその理由に思い至った。

こうした実話怪談については、おおむね、その謎は“わからない”ものとされる。ある家で怪しい現象が相次ぎ、実はその家でかつて首を吊った者があった、という因果関係が明らかになったとしても、怪異そのものが説明できるわけではない。
だが、現象そのものが現在の科学で説明つかなくとも、一つひとつの経緯の中での辻褄はあっているべきではないだろうか。

たとえば、月の峠道をバイクで走っていて、路上に映った影を見たら、荷台の上に上半身だけの人のようなものがいる。驚いてブレーキをかけた途端、前後のタイヤが縦に真っ二つに裂け、バイクは横転。ただ運転者は大きな怪我もなく無事だった、という短い話(第七十四話「峠道」)。

一読、うすら寒い怖さがある。……が、少し考えると、微妙に折り合いがつかない。
バイクの荷台に現れた怪異(重さや影だけで、姿が明らかでないのが怖さをいや増している)は、前後のタイヤを裂くほどの物理的な遂行能力を持っているのである。それなのに運転者はたいした怪我をしていない。まるで狐か狸のいたずらだ。悪意のおさまりが悪い。

やはり峠道の話。あるトンネルの前で若い女をバイクに乗せると、やがて忽然と姿を消すという噂がある。語り手が似たシチュエーションになり、女性をバイクに乗せ、「これでは噂通りだ」と考えると、耳元で「そうでしょ」と声がして、腰にまわした腕の感触だけ残して女性は消える(第九十七話「噂の通り」)。

この若い女性が霊的な存在であるとして、それなら人の心は読めるのか。生きた人間とコミュニケーションを交わすためには最低でも網膜や内耳や声帯といった器官が必要だが、そのあたりの仕組みはどうなっているのか。

逆に、妙な説得力に充ちた話もある。

踏切り事故で死んだ息子の首を抱え、悲嘆のあまり田んぼにしゃがみ込む母親。ところが、のちに、この母親本人が別の町に引越して生活しているのに、その場所では頻繁にしゃがんだ女の姿が見られるようになる。その姿は事故を知らない者にまで見られたという(第九十三話「ヒロシ君」)。

姿や音で存在を主張し、峠道やホテルの部屋に現れる心霊現象。しかし、死後の霊が現れ、生者とコミュニケーションを取るという状況は説明が難しい。そこで、霊現象は生者が起こす、と考えてみよう。断腸の思い、無残な最期を迎えた者が、その痛みを強く抱えたとき、その念がその場所(家、部屋など)やもの(井戸や人形など)に転照され、のちのちまで残り、その念の波に敏感な者が音や姿を感じ見るとしたら。
亡くした息子の首を拾う母親の痛み(念)がその場所に焼き付けられる、それがのちのちにいたるまでスクリーンに姿が映るように何度も見受けられた、と考えるのは、死後の霊が現れて生者とあれこれ会話すると考えるよりよほどありそうな気がするのだが、どうだろう。

このように考えると、実話怪談本の類にまとめられた異音や怪しい姿のいくつかの説明はそれなりにつくような気がする。もちろん、それで何の説明をしたことにもならないのだが。

ちなみに、『怪談狩り』『怪談狩り 赤い顔』とも、どこかの本のように「いにしえよりの作法に則り、九十九話にて完」などとヌルいことは言わず、思い切りよく百話語り切りである。一気読みして変化妖異に出張られようが、知ったことではない。

2017/02/11

雑感 『短篇ベストコレクション 現代の小説2016』 日本文藝家協会 編 / 徳間文庫

Photo16作品収録。

朝倉かすみ「さようなら、妻」
早めにオチが見えてしまった分、落差が今ひとつ。
大沢在昌「分かれ道」
新宿鮫、まだこんな仕事してるのか。
荻原 浩「成人式」
体操の鉄棒にたとえるなら、決して超人的、軽やかな演技ではなく、要所要所ではらはらさせながら、最後の着地がなんとか決まり、気がつけば観客の目に涙。傑作。
恩田 陸「線路脇の家」
問題作(悪い意味で)。後で触れる。
梶尾真治「辺境の星で」
梶尾真治にしてはウェットな味付けのない落とし噺。
神田 茜「おっぱいブルー」
お嬢ちゃん、がんばれ。もう30年若かったら、読み方、感想も変わったか。
北村 薫「茶の痕跡」
小さなミステリであることは決して悪いことではない。が、どうもこのところのこの作者の“小物感”が気になる。
※作中に登場する『本をつくる者の心 造本40年』(藤森善貢、日本エディタースクール出版部)、面白そうなのでさっそく古本を取り寄せて読んでみた。近日中に取り上げたい
佐々木 譲「降るがいい」
こういうやるせなさを、演歌のない今の若い人たちはどう処理しているのだろう。
髙村 薫「わが町の人々」
迷走してる? 大丈夫か?
長岡弘樹「涙の成分比」
話題になった同じ作者の短篇集を読んだときは今ひとつピンとこなかったのだが、本作は素晴らしい。登場人物は実質たった2人、だが、ともにその言動が読み手の想像を上回り、思いもかけないエンドマークにいたる。短篇ながら映画1本分の重荷。
新津きよみ「寿命」
読み手の想像を覆す点ではこれも凄い。ワンアイデアにもたれず、厳しく終わらせたことで再読に耐えた。
藤井太洋「ヴァンテアン」
怪作。とんでもない(ろくでもない?)発想。ただ、これでSFの読者が増えるのだろうか? 最後の7行の意味はよくわからなかった。誰か教えてください。
本城雅人「持出禁止」
スポーツ新聞の特ダネ競争を描いて痛快。面白さということでは集中随一か。
ただ、ファックスで原稿をやり取り、連絡は電話ボックス……いつの時代の話だ?
三浦しをん「胡蝶」
煮付けの好きな祖母に育てられた少女、という話から、やがてずるずると世界が崩れていく。壊すのは誰か。
宮木あや子「鞄の中」
短篇小説にはE.A.ポーのように論理的で起承転結のきっちりした(ミステリに向いた)「閉鎖血管系」の作品と、因果関係も終わりもはっきりしない(ホラー向きな)「開放血管系」の2種がある。本作は典型的な後者で、物語中の毛細血管からじわじわと血が染み出し、家中が血まみれなのに主人公は歯牙にもかけない。ここ数年読んだあらゆるホラーの中でも一、二を争う恐ろしさ。
両角長彦「頼れるカーナビ」
よくできたショートショート。なのだが、こういった技術製品を素材にした作品は数年経つと話が理解できなくなることもある。

さて、恩田陸については、以前、他者の、それもかなり広く知られたデザインやタイトルを平気で自作に用いる、その無神経さが気持ち悪いというようなことを書いた(その後発表された『ブラザー・サン シスター・ムーン』にも驚いた)。
今回収録の「線路脇の家」は、アメリカ人画家、エドワード・ホッパーの代表作のタイトルであり、ヒッチコックの映画『サイコ』の舞台のモデルとしても知られている。ところがそれを引用した恩田陸の物語の舞台は、日本国内の線路脇の、ホッパーの絵に似た家、というだけで、元の絵画作品や『サイコ』を膨らませるわけでも批評するわけでもない(実際、書き起こしは「線路脇に洋館があった」で十分だったろうし、逆にホッパーやヒッチコックの名を削ってしまえば提示された謎もその解もショボい、しみったれたものでしかない)。
それでなおかつ世界の著名作をひっぱってくる恩田陸。もう一度書くが、この作者の意識の中で,意匠とかオリジナリティとかはどういう具合になっているのだろうか。

2017/02/09

不安の入り口、希望の出口 『うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち』 田中圭一 / 角川書店

田中圭一といえば、手塚治虫パックリな絵柄でよもやのお下劣ギャグを連発する、“神をも恐れぬ”サラリーマン兼業漫画家、その人である。
ちなみに「パロディ」なるものは高度な批評眼と描写力を必要とする知的作業であり、田中圭一もサイテー、ド変態な印象の一方、さまざまな漫画家のペンタッチをトレースすることでそのコマの意図を深掘りする漫画評論家の一人でもある。あの夏目房之介の傑作『消えた魔球 熱血スポーツ漫画はいかにして燃えつきたか』の系譜を正しく継ぐ者といえるだろう。

Photo最近は『Gのサムライ』などさらにゲスいパフォワッ!!な作品を発表するかたわら、その憑依ペンタッチを活かしたインタビュー作品に伸長著しい。
人気漫画家23人の──本人でなく──子息・息女を招いてその漫画家の馴染みの店、好きな食べ物を取材し、しかもその模様をその漫画家のタッチで描いた『ペンと箸 ~漫画家の好物~』は、漫画家たちの意外な実像とその子として育つ若者たちの生き様に迫る予想を遥かに上回る好著だ。ちばてつや、手塚治虫、赤塚不二夫、山本直樹、池上遼一、魔夜峰央、上村一夫、諸星大二郎、永野のりこら、取り上げられた漫画家のプライベートはいずれも興味深いが、ことに『ど根性ガエル』の吉沢やすみ、『アストロ球団』の中島徳博、『まんだら屋の良太』の畑中純の章など思いがけない展開と哀惜に充ち、人気作品にリアルタイムに触れてきたファンは涙を禁じ得ないだろう。

さて、そんな田中圭一の最新刊『うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち』はさらにシリアスな内容で、長年うつ病に苦しんできた著者本人、またロックミュージシャン大槻ケンジ、AV監督代々木忠(!)、小説家宮内悠介、熊谷達也らが表だっての活躍の一方でどうしてうつに陥ったか、いかにそのトンネルを抜け出たかをじっくりヒアリングし、うつ症状の実情、うつに陥るきっかけ、そして(容易ではないものの)そこから抜け出す方法について懇切丁寧にまとめたインタビュー形式のレポートである。

もちろん、類似のアドバイスは、文章の形でならすでにあちこちに再三書かれてきたに違いない。それを、漫画という、流して読みやすく、笑いを交えて理解しやすい形で提示したことが大きい。
発売後、売り切れの書店が相次ぐなど、ネットを中心に話題となり、同じくうつに苦しんだ人々から「よくわかる」「もっと早く読みたかった」「知り合いにも読ませたい」等、熱い共感が集まっている。

さて、この後は少しダークサイドに走るので、自分も苦しんでいる、あるいはようやく抜けたという方はご遠慮ください。

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Photo_3その好評の『うつヌケ』だが、読み終えての第一印象、それは実は世評とは逆に「この本はまずい、危ない」というものだった。

トンネルを抜ける手段がわかりやすいということは、そのトンネルに追いやる方法も明らか、ということだ。
誰かをうつに貶めたい、あるいはうつに苦しむ誰かをさらに苦しめたい、そんな毒親、毒家族、毒上司、毒同僚等々にとって、本書は天の与えた悪魔のお手軽マニュアルになりかねない。うつに苦しむ、あるいはうつに陥りかねぬ誰もが本作中に登場する人々のように才能や仕事に恵まれ、家族に恵まれているわけではない。もし悪意をもった誰かが本作を手にしたならば……。

もっとも実際のところ、そんな心配など杞憂に過ぎない。
蛇は毒を行使するにマニュアルなど必要としない。まして人をうつに追いやる毒は、自覚された歴然たる悪意などではなく、善意や好意や「あなたのため」の名のもとに押しかけてくるものだ。

2017/02/03

『片恋・ファウスト』 ツルゲーネフ、米川正夫 訳 / 新潮文庫

Photoバーナード嬢曰く。』の第2巻には、町田さわ子が「教養高めようと思って」手あたり次第に借りた古典のラインナップが
  『老人と海』
  『二十日鼠と人間』
  『ジーキル博士とハイド氏』
  『ポー詩集』
  ツルゲーネフの『はつ恋』
  ワイルドの『サロメ』その他
で、これが実はいずれも文庫の薄さで選んだものだった、というネタがあった(さらにその中でも屈指の薄さを誇る『春琴抄』がとんでもなく読みづらくて泣く、というオチ付き)。

しかし、ムズカシそうな古典はできれば薄いほうが──という生物の習性には思い当たるフシもあって決して笑えない。
横目で自分の未読の棚を見てみると、ありました、いつどこで入手したか覚えてないツルゲーネフ『片恋・ファウスト』。短篇2作で170ページ、薄いのでとりあえず買っとこう薄いのでそのうち読むだろう気配がいかにもたこにも。
おまけに昭和二十七年發行、昭和三十八年十三刷、パラフィン紙カバーの新潮文庫という町田さわ子もびっくりのヴィンテージ品だ(ほんとにどこで買ったのだろう……?)。

収録された作品は「片恋」「ファウスト」ともツルゲーネフ本人の自伝的恋愛小説で、ざっくりいえばどちらも露西亜無産階級インテリゲンチャの語り手にうっかりほだされた女がへたれ男の優柔不断で不幸になる、という情けないお話だ。
それでもこの時代の文学作品におけるロシアの「風変わりな」女たちが手に負えないほど魅力的なのは、どうしたものだろう。
頬を染めて黙り込み、そっぽを向いていきなり部屋を飛び出し、戻ってきて思いのたけを叫ぶやまた走り去って熱を出して寝込む。ときにはそのままうわ言をつぶやいて死んでしまう。
それぞれシチュエーションや年齢は異なるが、「片恋」のアーシャ、「ファウスト」のヴェーラとも(付け加えるなら玉井徳太郎が挿絵を描いた『孤児ネルリ』なども)、そういった熟しきらない林檎のような抗いがたいエキセントリックな魅力に満ちあふれている。

彼女たちに比べればフランスの悲劇のヒロインなど、狂ったように見えてどこか最後までお化粧を忘れないところがあって苦手だ。

ところで「あとがき」によると、米川正夫は、二葉亭四迷の「片恋」は題名含め名訳だが、さすがに時代感覚のずれや江戸の戯作の影響下にあるように思われたため改訳した、とのこと。
それでも米川の時代からさらに65年を経て、今や耳慣れない言葉も少なくないようだ。

  あたし全く空をつかってるんじゃありませんの。

  僕はこうしたごったくさには経験がないものだから。

「空をつかう」「ごったくさ」……???

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