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2017年1月の3件の記事

2017/01/31

読書通絶句 『バーナード嬢曰く。』(現在3巻まで) 施川ユウキ / 一迅社 REXコミックス

Photo  「読んでない本を読んだ気になるのに
   楽をするな!!」

と豪語する町田さわ子は、読んでもいない本のことをいかに読書通ぶって語れるか、そこにばかりこだわる困った女の子。

そんな町田さわ子をなんとなくウォッチしてしまう遠藤は『真夜中は別の顔』『恋空』『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』『KAGEROU』などひと昔前に流行った本を古本屋で買って読むのが趣味。同じく図書室に常駐する神林しおりは熱心なSFファンゆえに町田さわ子のいい加減な読書ぶりが気になってしかたがない。遠藤に思いを抱く図書委員の長谷川スミカはシャーロキアン。

登場人物はほとんどこの4人だけ。
事件らしい事件は何も起こらない。その代わり、さまざまな本、本についての名言、妄言が横から斜めから次々飛んできて、半可通の読書家を刺す。

個人的には生真面目な神林しおりが、ほとんど恋しいレベル。
圧倒的な読書量と解説の嵐で大ゴマを文字で埋めながら、町田さわ子の素朴なツッコミカウンターに赤面、石化するしおり。
あるいは水泳部が休みの誰もいないプールで、大好きだけどやたら難しいグレッグ・イーガンの新作を読んだら思ったより読みやすく、それが嬉しくて無意識に足で水をぱちゃぱちゃぱちゃぱちゃぱちゃぱちゃしてしまうしおりの愛おしさ。
停電で暗くなった図書室で、理科室から持ってきたアルコールランプの灯りのもと、嵐の音を聞きながら皆で本を読むエピソードもいい。

ちなみにタイトルの「バーナード嬢」とは、言わずと知れたアイルランド出身の劇作家「バーナード・ショウ」をもじったもので──とか知ったかぶりしてしまうわけだが、実のところ町田さわ子に限らず当方だってバーナード・ショウの本をちゃんと読んでいるわけではない。
本書がちくちく刺すのはまさしくそういう読書家である。
もっとも、刺すからといって殺すわけではない。バファリンではないが、『バーナード嬢曰く。』の半分は本好きへの優しさでできているのだ。

  「だから私は…
   同じ話を
   何度だってする……!!!」
  「何度でも
   聞くよ?」

2017/01/25

小学館版『少年少女世界の名作文学』の思い出

1_2少年少女のための文学全集があったころ』 でも取り上げられた小学館版『少年少女世界の名作文学』が刊行されたのは昭和39年から43年にかけてのことだった。月刊で、全50巻。
烏丸の場合、小学校2年から5年にかけてにあたる。毎月15日の発売日が楽しみで、学校から走って帰り、まだ届いてないと知るや玄関にへたりこむほどがっかりした記憶がある。

次の巻が出るまで何度も読み返す巻もあれば、なかなか読み終えられなくて次の15日が近づいて苦しんだものもあった(『クオレ』とか『次郎物語』とか)。

クリーム色に藍の天地の箱は今思い返してもなかなかモダンで、他社の子供向け全集の単色、布張りの装丁に比べてもかなりハイセンスな印象だった。

表紙カバーや各作品の章タイトル下にはその国の風物の写真やカットが配され、海外旅行など縁遠かった当時の小学生にとってはそれだけでも貴重な情報源だった。

また、各巻の表紙には世界の名画が貼られ、巻末の解説と併せて古今の芸術作品に触れる機会を提供してくれた。小学生の時分にルネサンスだの印象派だの、いっぱしの美術通ぶれたのはこの表紙によるところが大きい。
2
内容はイギリス編(7巻)、アメリカ編(9巻)、フランス編(8巻)、ドイツ編(6巻)、ソビエト編(5巻)、日本編(5巻)などに分かれ、それがランダムに届く。
『小公子』『小公女』『家なき子』『ピーターパン』『トム・ソーヤーの冒険』『ガリバー旅行記』『オズの魔法使い』など子供向けに書かれた、もしくは子供向け全集の定番作品はもちろん、ギリシア神話や北欧神話、古事記などの神話(『ワイナモイネン物語』『ニーベルンゲンの歌』『ルバイヤート』『シャクンタラー』等まで!)、『ファウスト』『オリバー・ツイスト』『白鯨』『巌窟王』『狭き門』『車輪の下』『父と子』『即興詩人』『三国志』『坊っちゃん』など世界の名作の抄訳、モーパッサンやリラダン、メリメ、チェーホフ、マンスフィールドらの短編、さらにガボリオ、ルルー、ルブラン、ドイルらの探偵小説、ヴェルヌやH・G・ウェルズのSFまでそろっていた。

もちろん、大半は子供向けにわかりやすく翻案されたものである。
子供に本を与えるに、「完訳」を旨とすべきか「抄訳」を容認するか、いちがいにどちらが正しいかはわからない。しかし、小学生にいきなりディケンズやユゴーの「完訳」を読ませるのが困難である以上、ある程度の翻案はやむを得ないのではないか。

実際、『少年少女世界の名作文学』の抄訳で出会い、のちに「完訳」に手を広げた作家は少なくない。
たとえばドストエフスキーの『罪と罰』や『孤児ネルリ』(『虐げられた人々』の抄訳)には小学生時分ながら何か重いものに胸打たれ、のちに同じ作家の全作品を読むにいたった。後から思い返しても、抄訳で読んだこの2作への理解はそう間違っていなかったと思う。

3
ランボーと出会ったのもこの全集である。ほかの詩人と合わせ、ほんの数篇の掲載だったが、なにか夏の早朝のように突き抜けたものを感じた。
エセーニンもこの全集のソビエト編で知った。今でも一部そらんじることができるほどだ。

4
──などなど、もし小学生時代にこの全集に出会ってなかったなら、などと、考えるだに怖ろしい。この全集のない世界に、自分はいない。

2017/01/20

『少年少女のための文学全集があったころ』 松村由利子 / 人文書院

Photo1960年生まれの女性記者が子供の頃の読書体験を懐かしく綴る、微笑ましくも心温まるエッセイ集。
ルナールの『にんじん』、ボンド『くまのバディントン』、バーネット『小公女』から語り起こされ、祖父や父から与えられた本、母とともに楽しんだ本を次から次へと取り上げていく各章は、タイトルや装丁から想起されるそんな印象を裏切らない。

外国の本に登場するお菓子の美味しそうだったこと。
高名なピアニストの公演の最中に読書に熱中してしまい、母親を嘆かせてしまったこと。
大人になって改訳や原典にあたり、訳者の苦心や細やかな気遣いに触れて驚くこと。

──だが、その一方で、古今の子供向けの本を辿る著者の丁寧な歩みが明らかにしてしまう谷は深い。

『少年少女のための文学全集があったころ』というタイトルに着目してみよう。
これは、現代がそういう文学全集のない時代であることを示している。
書店の子供向けの本のコーナーを訪れると、幼児向け絵本や図鑑の充実に比べ、小・中学生に世界文学を奨めるのに適した本が存外に少なくて途方に暮れる。
理由はいろいろあるだろうが、明らかな分岐点の一つは1960年代頃からさかんに主張された「完訳至上主義」だったろう。それが行き過ぎ、さまざまな世界の名作の抄訳を月々手軽に届ける名作文学全集が失われた結果、子供たちは古今東西の神話や名作文学に手軽に触れる機会を失っていく。
子供たちを取り巻く世界で「本」が十分魅力的であったなら「完訳至上主義」もいいだろう。だが、現代はアニメやゲーム、インターネットなど、本以外にも誘惑は多い。そんな時代に分厚く読みづらい完訳本ばかりを押し付けて、それで子供たちはそれを読んでくれるだろうか。

著者は決して、上記のようなことをあからさまに、批判的に書いているわけではない。あくまで自身の幸福な読書体験、のちに大人になってそれを読み返したり、新訳に触れたり、原文にあたっての思いを一つひとつ穏やかに語るばかりだ。

しかし、事実として「少年少女のための文学全集がない」今、子供たちの多くは過去の名作に出会い、本を読む楽しみ(苦しみ)に触れるきっかけから隔てられているように思われてならない。
この素敵な本を今の子供たち、未来の大人たちはどう読むのだろう、そもそも読むことができるのだろうか。

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