本書のテーマは、視覚障害者がどんなふうに世界を認識しているのかを理解することにあります。(中略)障害者は身近にいる「自分と異なる体を持った存在」です。そんな彼らについて、数字ではなく言葉によって、想像力を働かせること。そして想像の中だけかもしれないけれど、視覚を使わない体に変身して生きてみること。それが本書の目的です。
上記は本書の帯の惹句からの引用だが、このテーマ、目的に異論はない。だが、本書を一読して感じる気持ち悪さの理由は何だろう。
たとえば。ある坂道を歩いていて、著者にとっては出発点と目的地をつなぐ「ただの坂道」と見えていたものが、目の見えない人は「駅の改札を頂上とするお椀をふせたような地形」と俯瞰的にとらえた、という逸話は面白い。
また、目の見えない人にとって富士山はあくまで「上がちょっと欠けた円錐形」なのに、目の見える人にとってはまず「八の字の末広がり」つまり「上が欠けた三角形」であると言われればなるほどと思う。
大阪の万博跡に残る「太陽の塔」を見て、目の見える人はてっぺんの金色の小さな顔と胴体の顔の二つしか意識しないが、目の見えない人は逆に死角がないため背中の顔も含めて立体的にとらえる、という指摘も興味深い。
著者はこれらの例をもとに(福岡伸一氏によれば)「<見えない>ことは欠落ではなく、脳の内部に新しい扉が開かれること」と主張しようとしているようだが……はたしてそうだろうか?
たとえば僕は「富士山の形は?」と問われると、ごく自然に「上が欠けた円錐形」と考える。そしてそれとほぼ同時にアイコンとしての八の字の図象や、地図上の静岡、山梨にまたがる等高線を思い起こす。
目の見える人も普段からモノを立体的にとらえている、つまり二次元の絵画や映画は実際のモノのとらえ方を実現していない──ということを表すために、たとえばピカソやブラックはキュービズムを考案してキャンバスに顔の裏側まで描いたし、映画館では立体視のシステムが宣伝されている。そもそも「太陽の塔」の胴体の裏側に顔があることなど、目の見える人が説明しない限り知りようのないことだ。
つまり、著者はAとBという二つの世界のとらえ方を異なる「意味」の枠組みに仕立て上げようとしているが、実態は片方がAもBもできるのに対し、片方はBしかできない、それだけのことなのである。
目の見えない人の行動パターンとしてあげられているコンビニでの買い物のしかたにしても、入口、目的物、レジとまっしぐらに歩くのは「電池が切れた」ときの目の見える人の行動パターンと同等である。目の見えない人は、ぶらぶらうろついてキャンペーンに気を引かれたり、行き当たりばったりな買い物をしたりできない、選べないだけだ。
……目の見えない方々に対して、たいへん失礼なことを書いていることは自覚している。
しかし、目の見える僕たちは、まずこのできる、できないをはっきり把握するところから対峙を始めるしかない。
俯瞰してとらえたその坂道が、目の見えない人にとっていかに歩いにくいものであるか。目の見えない人にとって階段よりよほど便利なはずのエスカレーターは、上り下りがどれほどわかりにくいものなのか。あるいは公共施設のトイレで、水を流すレバー、ボタン(さらには緊急呼び出しボタン)の場所、かたちがどれほど不統一であるか。
著者は、そういった欠如、困難の方面は福祉、サポートの領域として切り分け、一足飛びに目の見えない人の世界のとらえ方を語ろうとする。「(情報に)踊らされないで進むことの安らかさ」と謳う。だが、無暗に踊らされるのもまた、人生の権利ではないのか。
もし僕が目の見えない人にシャガールの絵を説明することになったなら、その透明な青を伝えたくとも伝えられない、その辛さに絶句するだろう。では、目の見えない人が僕にブラインドサッカーの楽しさを語るとき、伝えられないもどかしさに絶句することはあるのだろうか?
本書は、目の見えない、(たった)六人にインタビューして書かれたそうだ。推察するに、その六人は目の見えない人の中でも強者だったのではないか。出歩く、働く、プレイする、語る、目は見えなくともそういったことに悠々対処できる人の世界のとらえ方、ユーモアさえこもった語り口を目の見えない人の総体としてとらえるべきかといえば、それは違うように思う。
目の見えない人には、モノが、顔が、アイコンが、世界が、見えない。こういったテーマは、まずその点についてはっきり自分の中で落とし込んでから書くべきだろう。でなければおためごかし、偽善のそしりを免れ得ないだろう。
なお、近年、「障害者」「障碍者」「障がい者」のいずれの表記を用いるべきか議論されることが多いが、その前に目が見えない、耳が聴こえない、手足がない・動かない等々とそれぞれ要因も困難も全く異なる人々を十把一絡げに「しょうがいしゃ」と分類するその慣行から振り返るべきではないかと思う。
「しょうがいしゃ」という括り言葉は、つまるところ健全者の社会が健全でないものを便利に排斥する道具に過ぎない。少なくとも今のところは。