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2016年1月の6件の記事

2016/01/25

火を着けろ 『ベイビーステップ』(38巻) 勝木 光 / 講談社コミックス

Photoベイビーステップ』38巻。全日本選手権ベスト4、池 vs 難波江、門馬 vs 丸尾のがっちがちの試合描写もしびれるが、発売日に買った理由はそこではない。
(エーちゃんが初めてナツの家を訪ねてのラブラブ展開? でもない。違うってば!)。

気になったのは帯に白抜きの「業界騒然!!」の太い文字。何かというと、

  主人公・丸尾栄一郎&ヒロイン・鷹崎奈津がテニス用具メーカー
  「プリンス」と用具使用契約中!

  漫画『ベイビーステップ』がウエアブランド
  「エレッセ」とキャラクター使用契約中!

  3年連続「テニスの日」のイメージキャラクターとして使用決定!

ほかに協賛テニス大会テニス教室の全国展開プロジェクトなどもあるらしい。

──とてもよい試みだと思う。

本来、作品の評価とこういったプロモーションは別物で、『ワンピース』や『進撃の巨人』などすでに巷に溢れ過ぎて「コラボコラボって俺たちコラボばっかじゃねえか!」状態だが、もはやそんなことを言っていられる場合ではない。

出版不況が叫ばれて久しい。マンガについても、おそらくメジャー誌で連載されればほぼ自動的に単行本になる、そんな扱いは今後厳しくなるだろう。そもそも現在メジャーとされている雑誌だっていつまで生き残れるかわからない。

そうした中、一部の人気作にせよ、他社他業界とのコラボが実現するなら、そこには金が動き、人が動き、次世代のモチベーションにもつながるだろう。どんどん試してほしい。生き残りを競ってほしい。きれいごとに納まらないバイタリティこそマンガのレゾン・デートルだったはず。そうだろう?

2016/01/24

『目の見えない人は世界をどう見ているのか』 伊藤亜紗 / 光文社新書

Photo本書のテーマは、視覚障害者がどんなふうに世界を認識しているのかを理解することにあります。(中略)障害者は身近にいる「自分と異なる体を持った存在」です。そんな彼らについて、数字ではなく言葉によって、想像力を働かせること。そして想像の中だけかもしれないけれど、視覚を使わない体に変身して生きてみること。それが本書の目的です。

上記は本書の帯の惹句からの引用だが、このテーマ、目的に異論はない。だが、本書を一読して感じる気持ち悪さの理由は何だろう。

たとえば。ある坂道を歩いていて、著者にとっては出発点と目的地をつなぐ「ただの坂道」と見えていたものが、目の見えない人は「駅の改札を頂上とするお椀をふせたような地形」と俯瞰的にとらえた、という逸話は面白い。
また、目の見えない人にとって富士山はあくまで「上がちょっと欠けた円錐形」なのに、目の見える人にとってはまず「八の字の末広がり」つまり「上が欠けた三角形」であると言われればなるほどと思う。
大阪の万博跡に残る「太陽の塔」を見て、目の見える人はてっぺんの金色の小さな顔と胴体の顔の二つしか意識しないが、目の見えない人は逆に死角がないため背中の顔も含めて立体的にとらえる、という指摘も興味深い。

著者はこれらの例をもとに(福岡伸一氏によれば)「<見えない>ことは欠落ではなく、脳の内部に新しい扉が開かれること」と主張しようとしているようだが……はたしてそうだろうか?

たとえば僕は「富士山の形は?」と問われると、ごく自然に「上が欠けた円錐形」と考える。そしてそれとほぼ同時にアイコンとしての八の字の図象や、地図上の静岡、山梨にまたがる等高線を思い起こす。
目の見える人も普段からモノを立体的にとらえている、つまり二次元の絵画や映画は実際のモノのとらえ方を実現していない──ということを表すために、たとえばピカソやブラックはキュービズムを考案してキャンバスに顔の裏側まで描いたし、映画館では立体視のシステムが宣伝されている。そもそも「太陽の塔」の胴体の裏側に顔があることなど、目の見える人が説明しない限り知りようのないことだ。

つまり、著者はAとBという二つの世界のとらえ方を異なる「意味」の枠組みに仕立て上げようとしているが、実態は片方がAもBもできるのに対し、片方はBしかできない、それだけのことなのである。
目の見えない人の行動パターンとしてあげられているコンビニでの買い物のしかたにしても、入口、目的物、レジとまっしぐらに歩くのは「電池が切れた」ときの目の見える人の行動パターンと同等である。目の見えない人は、ぶらぶらうろついてキャンペーンに気を引かれたり、行き当たりばったりな買い物をしたりできない、選べないだけだ。

……目の見えない方々に対して、たいへん失礼なことを書いていることは自覚している。
しかし、目の見える僕たちは、まずこのできる、できないをはっきり把握するところから対峙を始めるしかない。
俯瞰してとらえたその坂道が、目の見えない人にとっていかに歩いにくいものであるか。目の見えない人にとって階段よりよほど便利なはずのエスカレーターは、上り下りがどれほどわかりにくいものなのか。あるいは公共施設のトイレで、水を流すレバー、ボタン(さらには緊急呼び出しボタン)の場所、かたちがどれほど不統一であるか。

著者は、そういった欠如、困難の方面は福祉、サポートの領域として切り分け、一足飛びに目の見えない人の世界のとらえ方を語ろうとする。「(情報に)踊らされないで進むことの安らかさ」と謳う。だが、無暗に踊らされるのもまた、人生の権利ではないのか。
もし僕が目の見えない人にシャガールの絵を説明することになったなら、その透明な青を伝えたくとも伝えられない、その辛さに絶句するだろう。では、目の見えない人が僕にブラインドサッカーの楽しさを語るとき、伝えられないもどかしさに絶句することはあるのだろうか?

本書は、目の見えない、(たった)六人にインタビューして書かれたそうだ。推察するに、その六人は目の見えない人の中でも強者だったのではないか。出歩く、働く、プレイする、語る、目は見えなくともそういったことに悠々対処できる人の世界のとらえ方、ユーモアさえこもった語り口を目の見えない人の総体としてとらえるべきかといえば、それは違うように思う。
目の見えない人には、モノが、顔が、アイコンが、世界が、見えない。こういったテーマは、まずその点についてはっきり自分の中で落とし込んでから書くべきだろう。でなければおためごかし、偽善のそしりを免れ得ないだろう。

なお、近年、「障害者」「障碍者」「障がい者」のいずれの表記を用いるべきか議論されることが多いが、その前に目が見えない、耳が聴こえない、手足がない・動かない等々とそれぞれ要因も困難も全く異なる人々を十把一絡げに「しょうがいしゃ」と分類するその慣行から振り返るべきではないかと思う。
「しょうがいしゃ」という括り言葉は、つまるところ健全者の社会が健全でないものを便利に排斥する道具に過ぎない。少なくとも今のところは。

2016/01/19

〔短評〕 『恐怖箱 厭魂』 つくね乱蔵 / 竹書房文庫

Photo実話怪談について、読み手としては
 ・匿名で書かれているため、怪異の体験者が実在する保証がない
 ・実在したとして、それが作り話でない保証がない
との2点から、実話であるかどうかなど確かめようがない。
面白(こわ)ければそれでよし、というスタンスである。

最近読んだ中では『恐怖箱 厭魂』が生理的に厭な話が多くてなかなかよかった。

「そばにいるよ」や「公園友達」、「潮騒の母」など、怪異が明らかになったあとの救いのなさがよい。
一方、怪談という枠にこだわったためか「冷めないうちに」や「ねぶり箸」のようにあからさまに幽霊が登場し、それがかえって虫が這うような嫌悪感を損なっているものも見られた。
「僕の好きな場所」や「あの子の部屋」も、心霊現象より生きた人間のほうがよほど薄気味悪い。もっとそちらに焦点を当ててもよかった。
などなど。

2016/01/18

〔短評〕 『ポアロとグリーンショアの阿房宮』 アガサ・クリスティー、羽田詩津子 訳 / ハヤカワ文庫

Photo未発表だったクリスティーの中編が、死後40年を経て刊行された(1954年執筆、2014年刊行)。長編『死者のあやまち』の原型となった作品らしい。

ポアロのもとにミステリ作家のオリヴァ女史からの電話が鳴る。自身が企画した殺人事件を模した犯人探しゲームで何かが起こりそうだと言うのだ。ポアロは急遽かけつけるが……。

文庫で120ページあまり、入れ替わりを旨としたトリックもさほど目新しいものではないが、最後に浮かび上がる酷薄な犯人像といい、香り高い蒸留酒のごとき読み口で飽きさせない。巧い。
思うに、クリスティーの作品では、伏線から謎の解明にいたる道筋において、常にセンターラインが守られている、そんな気がする。間違っても脇役によるごちゃごちゃしたミスディレクションが主トリックとなったりはしないのだ。とくに長編において毎度充実した読後感が得られるのはそのためではないか。

クリスティーは、『カーテン』や『ビッグ4』など、ごく一部のワケあり作品を除けば何度読み返しても楽しい。
これまでのように20年に一度読み返すとして、死ぬまでにあと2回どおり読み返せるだろうか。長生きしなくては。長生きすればそのうちまた未発表作品が発掘されるかもしれない。

2016/01/14

Goodbye to David Bowie ★彡

Blackstar初めてDavid Bowieを聞いたのは、友人に勧められた「Space Oddity」のシングル。
地上の管制塔と宇宙パイロットとの交信を描いた(当時の洋楽ポップスとしてはちょっと常軌を逸した)トリッキーな曲で、会話が交錯する歌詞が実に切なく、かっこよく、さらにほかの友人に広めようと中学生のつたない英語力で一生懸命翻訳したものだ(Pink Floydの「青空のファンタジア(Point Me To The Sky)」やKing Crimsonの宮殿の訳詩をつらねたそのノートは今も机の一番下の引き出しで眠っている)。

それからしばらくして、Bowieならこれを聞かなくては、と先輩に「The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars」を教えられた。驚いた、震えた、シビれた。先輩の部屋に押しかけては勝手にレコードをターンテーブルに乗せ、歌詞カード見ながらヘッドホンで聞き込んだ。
今でもほとんどの曲をそらんじて歌えると思う。でも恥ずかしいので歌いません。

次の「Aladdin Sane」は自分で買ってきた。「Ziggy Stardust」のようなコンセプトアルバムではないため、あれっ? と首を傾げたが、このアルバムにも好きな曲がいっぱいだ。King Crimsonじゃないが繊細さと暴力の混淆。

そのあとDavid Bowieはディスコサウンドに走って、まあそれらのアルバムも今では普通に楽しく聞けるのだけれど、ブリティッシュ命だった当時は「もうダメか」と嘆いていたところに空から突然発売された「Low」(1977年)は本当に嬉しかった。
重い。ゴジラ映画のエンディングみたいな「Warszawa」はもちろん、A面の軽妙なインストさえ丸木でガッツンガツン殴られるように重い。意味はわからないのに、その意味で殴られるような気がした。

それから2003年の「Reality」まで、オリジナルアルバムはお付き合いで購入するものの、意識の上ではだんだん過去の人となっていったBowieが、2013年、突然深海から「The Next Day」で浮上する。あまり期待もしていなかったのに、このアルバム、余計な色がなくてとてもいい。
そして、2016年1月8日、69歳の誕生日にリリースされた「Blackstar」。
2日後、その死が伝えられる。

18ヶ月の闘病……「The Next Day」以降の仕事は、死を意識してのものだったのだろうか。
華美なところのない、地味ながら不思議な説得力にあふれる曲が静かに並ぶ。昔のハイトーンは望むべくもないが、Bowieの歌声は豊かでゆるぎない。

「Blackstar」が最後のアルバムでよかった。その最後の曲が、諦観が奇妙に希望にいざなう「I Can't Give Everything Away」で本当によかった。
去り際までかっこいい。本当にかっこよかったなあ、David Bowie。

これ以上何を書くべきなのかよくわからない。
David Bowie論はほかの方にお任せして、今夜も一ファンとしてありったけのCDを流そう。

一つだけ。
昔から不思議だったのだけれど、変容しつつ最先端を走るイメージのわりに、Bowieの曲では「パッパヤ」とか「ヤヤヤ」など、いかにも洋楽ポップスなコーラスが頻出する。こういうのはかのCarpentersさえ

  Every Sha-la-la-la
  Every Wo-wo-wo
  Still shines

なんてもうYesterdayのものですよと(1973年時点で)歌っていたのに、不思議でならない。
David Bowieが演じ続けたものはなんだったのだろう。

2016/01/11

「あさが来た」原案 『小説 土佐堀川 広岡浅子の生涯』 古川智映子 / 潮文庫

Photo【儲けなあきまへん。──人のやらん新しい商いを、そう思うただけでも心が躍りまっせ】

連続テレビ小説「あさが来た」の評判がよいのは耳にしていたが、時間の都合もあって見ていなかった。
ところが年末、帰省した郷里の布団の中でテレビの音を聞くともなしに聞いていると、それが「あさが来た」の総集編だった。なるほどめっぽう面白い。大阪の両替商が九州の炭鉱経営に参画し、ヒロインが女だてらに現場を制圧する場面など実に豪気だ。

このドラマが実在の人物広岡浅子をモデルにしたもので、彼女が嘉永から明治、大正にかけ、三井財閥、大同生命、ニチボウ、日本女子大などの設立にかかわった女性実業家だと知ってさらに興味をもち、原案となった潮文庫『小説 土佐堀川 広岡浅子の生涯』を読んでみた。これまた胸躍る一冊である。

史実を列挙するさっぱりした地の文に人の懐に踏み入る関西弁がはさまる文章は、流麗とは言い難いが読み手に先を促し、ときどきウィキペディアで人名や時代背景を確認しながらあっという間に読み終えた。

実家に戻った浅子の「うちは加島屋で威張って暮らしてるいうのに」という言葉からも明らかなように、浅子はドラマと違って嫁いだ当初から男勝りの実務家として描かれている。一方、夫の信五郎の柔らかな物腰、信頼する浅子への忠義は気持ち悪いほどテレビドラマの玉木宏そのままだ(玉木が原案をよく勉強しているのだろう)。
史実には浅子の大きな病や信五郎の側室の扱いなど朝ドラにふさわしくないところもあり、明朗なドラマのファンには夢を壊すところもあるかもしれないが、明治維新後の大阪経済を支えた商人の執念の物語として強くお奨めしたい。

二つのことを考えた。

一つ、大河ドラマはなぜこの作品を選ばなかったのか、ということだ。
平成も四半世紀を過ぎて、さすがに今さら「天下」、「合戦」、「義」やら「尊皇攘夷」でもないだろう。歴史上の人物を描くなら、清盛でも家康でも龍馬でも、そろそろ彼らの「経営手腕」を表に立てる作品があってもよい。
「あさが来た」は前向きなお転婆を描くという点で朝の連ドラのテンプレ通りではあるが、経営の困難に知恵と根回しで挑むという点で「半沢直樹」や「下町ロケット」と同じ系譜にあり、それが広く視聴者を楽しませているように見える。
(当節のヒットドラマのもう一つのキーワードは「相棒」や「ガリレオ」に見られる「謎解き」だろう。大河ドラマでも「経営」と「謎解き」を組み合わせ、最終的には大きな国難を突破する話を選んではどうだろう。)

もう一つ、小説を読んで感じたのは、広岡浅子の足跡において、女であることは思ったほどに道を塞いでいないことだ。
少なくとも実家(のちの三井財閥)や嫁ぎ先(加島屋)ではかなり若いころから浅子に大きな権限を委ねていたふしがあるし、渋沢栄一、五代友厚らビジネス界隈の大物も彼女との面会、相談、支援に応えている。もちろん「女子と話す気はなか」と炭鉱鉱夫たちの反発を受けたり、そもそもまだ女性が普通選挙の対象でないという制限はある。それでも、浅子の困難の素因はたとえば幕末の金融政策の崩壊や炭鉱運営の困難によるものであって、女だから、ではない。
当時に比べれば女性の発言権は格段に伸張したはずなのに、現在、財界にも政界にも広岡浅子が見当たらないように思えるのはなぜだろう。

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