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2015年12月の8件の記事

2015/12/30

『なんでもない一日』 シャーリイ・ジャクスン、市田 泉 訳 / 創元推理文庫

Photo_2シャーリイ・ジャクスンの未発表原稿がヴァーモント州のとある納屋から発見された。亡くなって四半世紀以上が過ぎていたが、彼女の子供たちは発見された短篇に単行本未収録作品を加え、新たな作品集を編んだ。

創元推理文庫の『なんでもない一日』は、その短篇集‘Just an Ordinary Day’の一部を省き、独自に組み直した短篇集である。
『くじ』に収録されていても遜色ない不快な作品から同一のテーマをあれこれ書き直したサスペンス二題、自身の子育てを語った痛快エッセイまで、バラエティに富み、実に楽しい。
そして、自分の中のシャーリイ・ジャクスン像がオセロのように裏返っていくことに驚嘆する。
〈魔女〉と呼ばれ、オカルトに詳しく、人々の悪意を描いた、といったあおりからは世を拗ねた陰鬱な作家像を思い描きがちだが、実像は違ったのではないか。いや、作品の評価そのものを見直すべきではないか。……

つまるところ、シャーリイ・ジャクスンはサービス精神旺盛なユーモア作家なのである。グロテスクな集団暴行や怪しい幽霊屋敷を描いたとしても、それはたとえばキャンプ場の夜に子供たちに怪談を語って「ぎゃっ」「やだっ」と叫ばせ、最後には「あー怖かった」と笑わせる、そんなエンターテイメントだっのではないか。この短篇集では、完成度が低いだけに、そういった作者のスタンスが漏れ見えているような気がする。
(ちなみに邦題は『なんでもない一日』だが、扉裏の英題は‘THE SMOKING ROOM AND OTHER STORIES:A COLLECTION’となっている。その表題作にあたる「喫煙室」たるや、『くじ』や『丘の屋敷』と同じ作者によるとは思えないB級落とし噺なのである。)

そういえば『丘の屋敷』のモンタギュー夫人や『ずっとお城で暮らしてる』のチャールズの扱いは、隠微な作品の雰囲気を壊しかねないほどにドタバタしてマンガ的だった。これも実は作者の過剰なサービス精神によるものだったのかもしれない。

……などなど、シャーリイ・ジャクスンを何冊か取り上げてきた。
最後に作品の評価と関係ない、ややセンチメンタルな引用で本稿を〆たい。

本書の後半に、大枚はたいて購入したテープレコーダーがすぐ壊れ、メーカー対応も最低、という苦笑いを招くエッセイがあるのだが、その一節。

  わたしたちが感傷的に思い描いたのは、いつか遠い日の夕方、年をとって白髪になり、体の自由もきかないが、幸福にも二人きりで腰を下ろしている自分たちの姿だった。

しかし、シャーリイ・ジャクスンは48歳で亡くなり、夫とともに求める幸福な姿で「子どもたちがダンスをするところ、泳ぐところ、花火を打ち上げるところ、野球をするところ、よちよちと最初の一歩を踏み出すところ」の映像を楽しむことはできなかった。

『ずっとお城で暮らしてる』 シャーリイ・ジャクスン、市田 泉 訳 / 創元推理文庫

Photoメアリ・キャサリン(メリキャット)・ブラックウッドは十八歳。六年前、彼女の父、母、そして幼い弟が毒殺された家で、姉のコンスタンス(コニー)、伯父のジュリアン老人、猫のジョナスと静かに暮らしている。ブラックウッド一家を恐れつつ遠巻きに嫌がらせを歌う町の者たち。そこに従弟のチャールズが現れ、三人の静かな暮らしが崩れていく──。

ある程度スレた読者なら、ここまでのあらすじで後半の展開が概ね読めるのではないだろうか。はい当たり。その通りです。

本作は『くじ』や『丘の屋敷』に比べれば「直球」で、素直にバットを出せば当たるようなところがある。
怯えそうな者は怯え、無神経は無頓着、悪意は悪意、狂気は狂気に走る。
右も左も想定内で、不安になる、あるいは恐怖に急き立てられる要素がどこにもない。
しいて予想できなかったといえばコンスタンスの言動だろうか。ふわふわとかけらのリアリティもなく、作者が何を考えていたのかよくわからない。

……それでもこの作品、一部の読書家にはウケがよい気配なのが不思議。なのでモノは試し、当たるも八卦、お奨めである(?)。

なお、先にも少し触れたが、本文庫の解説は要注意。
本作のクライマックスはおろか、同じ作者の他の短篇までネタをさらして顧みない。それだけでなく、実在の無辜の子供をなんの理由もなく疎外する側の視点から書かれており、その限りでは若干人間性を疑わざるを得ない(作家が自身を「善良なはずの自分」と書きますか)。

2015/12/29

『丘の屋敷』 シャーリイ・ジャクスン、渡辺庸子 訳 / 創元推理文庫

Photo心霊学者モンタギュー博士は、丘の上の幽霊屋敷の記録をとるため、霊感が強いと思われる若者たちを招く。
怪異は静かに、だが確実に彼らに影響をおよぼしていく。子供部屋の冷気、深夜部屋を叩いてまわる音、突然赤く染まる部屋、壁に書かれた「かえりたい」の文字。
やがて──。

くじ』のシャーリイ・ジャクスンの長編の代表作がこの『丘の屋敷』だ。

原題は‘The Haunting of Hill House’(1959年)なのだが、

 1963年に‘The Haunting’(邦題『たたり』)というタイトル、ロバート・ワイズ監督、ジュリー・ハリス主演で映画化され、
 1972年に『山荘綺談』というタイトルで早川書房から発刊され(小倉多加志訳)、
 1999年に‘The Haunting’(邦題『ホーンティング』)というタイトル、ヤン・デ・ボン監督、リリ・テイラー主演でリメイクされ、
 1999年に『たたり』というタイトルで創元推理文庫から発刊され(渡辺庸子訳)、
 2008年に創元推理文庫版が『たたり』から『丘の屋敷』と改題された

という翻案、翻訳の履歴がある。
この煩雑な経緯から読み取れることは、以下の2点だ。

第一に、発表されて50年以上経つこのホラー作品が、映像、小説ともに常に注視され続けてきたということ。
スティーブン・キングは本作をヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』と並べ、「この百年に世に出た怪奇小説の中でも群を抜いてすばらしい作品」と持ち上げている。

第二に、この作品の魅力を的確に表すタイトルは、原題を含め、いまだ見当たらない、ということ。映画の広報担当、小説の翻訳者の誰しもが悩んだ末に誰しもが納得できるタイトルにはたどり着けなかったように思われる。だからこそ何度も邦題が変わる。今後も変わるに違いない。

逆にいえば──この作品から滲み出る、静かに神経を侵食していくような恐怖は、数文字程度の適当な言葉ではとても表しえない、ということでもある。
それが、複数回におよぶ映画化、またホラー作品における幽霊屋敷の扱い、また一方その場の誰よりも怪異の影響を受けてしまう主人公の扱いという点で、スティーブン・キングの『シャイニング』をはじめとする少なからぬ継承者たちを生む理由にもなっているように思われる。

ここでは山岸凉子の傑作怪談「汐の声」──幽霊が出ると噂される古い家屋におもむいたテレビクルーの一員だった心霊タレントの少女が一人怪異に追い詰められていくあの短篇──においても、怨念のの要因(たたるもの)は全く異なるにもかかわらず、それでもこの作品の影響が(直接的であったか間接的であったかは知らないが)強くうかがえることを指摘しておきたい。

2015/12/28

『くじ』 シャーリイ・ジャクスン、深町眞理子 訳 / 早川書房 異色作家短篇集⑥

Photo文庫のあおりでは

  〈魔女〉と称された幻想文学の才媛
  人間の裡に潜む不気味なものを抉り出し、独特の乾いた筆致で書き続けた

と紹介されるアメリカの女流作家シャーリイ・ジャクスンの「くじ」は、おそらく不快さという点では最も高名な短編の一つに違いない。最近では文春文庫のアンソロジー『厭な物語』にも収録されている。

ある村では6月27日に村人全員が広場に集まり……というこの短篇は、人間に対する強烈な「悪意」を醸造、蒸留し、そこに「無神経」や「暴力」といった(不快な)フレーバーをばさばさ盛り込んだような作品だ。

「くじ」に限らず、この短篇集に収められた作品は、いずれも納得のいかない、納得したくない不安で不愉快な終わり方をする。その悪夢のような読後感を支えるのが、道具、部屋、乗り物など、こまごましたものへの執着、その写実的な描写だろう。「くじ」でいえばくじを収めた黒い箱やくじを引く手順、詳細な登場人物名など。この細部へのこだわりを女流ならではと評しても大きくはずれてはいないように思う。
一方、いくつかの作品で、「ジェームズ・ハリス」という人物がジム、ジミー、ハリス氏など名前を微妙に変えながら主人公の不幸の象徴、もしくは他者の悪意の具現者(?)として登場する仕掛けも面白い。

「くじ」がニューヨーカー誌に発表されたのは1948年、それから現在までには(日本国内だけみても)ショートショートのブームや「いやミス」ブームなどがあり、この短篇集程度の毒では今の読み手はさほど動じないかもしれない。それでも読み終えたときこちらの胸の芯が黒くブレるような嫌悪感は相当なもので、今読み返しても決して古臭い印象はない。

少し残念なのは、桜庭一樹や植村昌実ら、シャーリイ・ジャクスンのほかの文庫の心無い解説者たちによって「くじ」のオチが明かされてしまっていることだ。事前の断りなしにネタばらしをしてしまえる解説者に対しては、能天気という言葉でしか語りようがない。

2015/12/25

『茶柱倶楽部 (8)』 青木幸子 / 芳文社コミックス

Photo茶柱倶楽部』、これにて完結。ご馳走さま。

茶には詳しくない無粋な自分が知らないだけで、伊井田 鈴のトラックによる移動茶店「茶柱倶楽部」は今日もどこかで茶を広めており、横浜では先年第一回の日本茶祭り「旬茶祭」が開催された。これは鈴の前半生を描く伝記なのだ……そう思っている。

茶を求め、茶を勧める鈴の歩みが、結果的に「日本茶祭り」の出資者やブレーンを集める旅程になってきたことがここにいたって明らかになり、「日本茶祭り」という一少女の途方もない夢が達成されることにさほど無理がない。また、最終巻にいたっても「日本茶祭り」の準備の背景に幻の玉露を探す謎解きが描かれ、興趣は尽きない(謎の解も、いかにもありそうでよく出来ている)。

ただ、一点、全巻を通して疑問に思っていたことがあり、
本作は「茶柱」のタイトルからも明らかなとおり日本茶のうち煎茶やほうじ茶を扱っており、その祭りをゴールとしている。そのため、抹茶を扱う茶道との関係にはとくに触れていないのだが、茶道の組織展開が全国的であることを考えれば「日本茶祭り」にその存在、作法を無視するのは難しいように思われるのだがどうだろう。逆に「日本茶祭り」の対象から抹茶、ひいては茶道まで除くよう限定するなら、「茶」「日本茶」の言葉では弱いのではないか。

いずれにせよ、本作の魅力の一つは、作中に描かれる各地の茶を、注文先のURLまで提示してくれたことだ。茶の煎れ方などよくわからないし、たいした舌や鼻をもっているわけではないが、つてをたぐって碁石茶などいくつか試すこともできた。
最近は食後に八女煎茶を楽しんでいる。Goisitya_4

2015/12/23

ようがんばった 『乙嫁語り』(8巻) 森 薫 / KADOKAWA / エンターブレイン BEAM COMIX

Photo最初の章では第7巻で登場した姉妹妻アニスとシーリーンのその後が描かれるのだが、相変わらず「この作者で読みたいのはこんな話ではない」感バリバリ。
最低でも戦乱で一家離散、とか、シーリーンの裏切りでアニスが夫に捨てられて、とか、そのくらいの厄災はないと他のシリーズとのバランスがとれないのではないか。

で、原野を駆けるガゼルを描いた番外編を挟み、いよいよ待望のパリヤ編(一同、起立。拍手)。

バダン、ハルガルの襲撃を受けたカルルクの町。パリヤ一家は家を焼き出され、カルルク、アミルの家に居候することになる。
この地域では花嫁は嫁ぐ際、何年もかけて刺繍を施した布製品を用意し、持参する。もともと刺繍の得意でなかったパリヤは、その布支度の大半を喪ってしまったのである。
そんなパリヤが無事花嫁になれるかどうか、それがこれからの焦点となる(第8巻では決着はつかない)。

パリヤを迎えた一家の食事、町の復興、馬の世話、パリヤの刺繍仕事など、映像としての見どころは実に多い。ハリソン・フォードに『目撃者』という刑事物の映画があり、アーミッシュと呼ばれる宗教団体の農村の生活が細密に描かれるのだが、その豊かさを思い出す。一つひとつの道具、所作に深い味わいがあるのだ。

パリヤがようやくこしらえた櫛入れには読み手を圧倒する魅力があり、その魅力は年頃になる前から膨大な布支度をするこの地域の娘たちが「嫁」になることの崇高さにつながる。

当時の中央アジアで社会における女性の地位がどうであったか、実際のところはわからない。しかし、少なくともこの作品では「働くこと」「働いた結果」を互いに評価し合う社会の在り方が素朴かつ強靭に描かれている。
いつも思うことだが、こと「働く」ことを具体的に描くことについて、漫画ほど雄弁なメディアを僕は知らない。

それにしても

  結婚したら 私も夜中に角を削りだすのだろうか

……こんなセリフはこの作者にしか書けないに違いない。なんと美しいのだろう。

2015/12/12

キング・クリムゾン ツアー・イン・ジャパン 2015年12月9日

King_aご報告が少し遅れましたが、9日(水)、渋谷のオーチャードホールで
  THE ELEMENTS OF KING CRIMSON TOUR in JAPAN 2015
を見てきました。

★彡 今回来日したメンバーは
  ロバート・フリップ(g)
  メル・コリンズ(sax/flute)
  トニー・レヴィン(b)
  パット・マステロット(ds)
  ギャヴィン・ハリソン(ds)
  ビル・リーフリン(ds)
  ジャッコ・ジャクスジク(g/vo)
の7人。メルやトニーはベテランだが人がよさそう、残りメンバーが大フリップ先生に反駁できるとは思えない。つまり、ありていに言えば「ロバート・フリップとリーグ・オブ・イエスメン」でしょうか。
僕が本当に見たかったのは、「アムステルダムのコンセルトヘボーで黙っている観客の前で“トリオ”をやったこと、ビルは一発も叩かず、胸の前でスティックを組んだまま」(デヴィッド・クロス)などという、そんな過激、苛烈なバンドのコンサートだったのですが。
(あの朴訥そうなジョン・ウェットンでさえ、のちにユーライア・ヒープに参加したところ、「俺たちゃコーラスバンドなんだ、難しい音楽理論なんてつきあってらんねえよ」と呆れられたそうです。)

★彡 観客は場所が渋谷区道玄坂Bunkamuraであるにもかかわらず(予想どおり)黒っぽいジャンバーか背広をきたオヤジだらけ。
もちろん演奏中は誰も席を立たず、声も出さず。曲が終わってはじめてお行儀よく拍手。
でもロック。なによりヘビーなロック。King_b
★彡 開演前に、ステージの間近でドラムセットなど見ることができました。案外ふつう(笑)。
演奏中は前列にドラムセット3台、後列に一段高く左からメル、トニー、ジャッコ、ロバート・フリップの順。
開演から最後まで一切MCなし、休憩なし、アンコールの前後でいったんステージを降りた以外、誰一人演奏中に歩き回ったりもしません。もちろん三つ揃えのスーツの上着を脱いだフリップ先生はずっと椅子に座ったまま。それであの演奏、バリバリ、ガシガシ。
ライトアクションも、アンコールの最後の曲の後半ステージを赤く染めただけ。
演出に関して言えばほとんどクラシックの四重奏とかのコンサートレベル。それであの(以下同)。

★彡 今回のオーチャードホールでの演奏曲目は日替わりだそうです。
9日は以下のとおり。
  01. Peace - An End
  02. Pictures of a City
  03. Epitaph
  04. Radical Action (To Unseat the Hold of Monkey Mind I)
  05. Meltdown
  06. Radical Action (To Unseat the Hold of Monkey Mind II)
  07. Level Five
  08. A Scarecity of Miracles
  09. Hell Houns of Krim
  10. Easy Money
  11. Red
  12. Interlude
  13. Letters
  14. Larks' Tongues in Aspic, Part II
  15. The Court of the Crimson King
  16. 21st Century Schizoid Man
  ---encore---
  17. Devil Dogs of Tessellation Row
  18. Starless
個人的には、ピースで始まり、新曲を交えつつエピタフ、レッド、レターズ、戦慄II、宮殿、21世紀ときて、アンコールをスターレスで〆る、これ以上何も求めません(とくに16、18の組み合わせは9日のが最高!)。

★彡 それにしても、曲目といい演奏といい、ほんと、エイドリアン・ブリューなんていなかったかのようです。
ファンには申し訳ないが、それが本当によかった。

★彡 ちょっと意外だったのは、最近のロック、ポップスのコンサートではなにはともあれ大爆音! ということが少なくないのですが、今回は曲の合間に鼓膜がぼーっとするような、そんな音量ではありませんでした。

★彡 3ドラム編成というのは、どうなんだろう。いや、迫力はあるし、テクニカル的にドドン、ペシ、バン、と面白いポリリズムもあったのだけれど、3セットもあると、いくらテクニシャン揃いでも音はズンドコ太鼓祭りになってしまう。
マイケル・ジャイルズのしなやかさ、ビル・ブラッフォードのタイトさにはどうしても及ばず、パーカッション系の音がずうっと鳴り続けることで、クリムゾンの特徴であったはずの「間」、思わず息を呑むあの「間」がないのです。
とくに「21世紀」後半の盛り上がりのところで、本来フリップのギターとタイトに削り合うはずのドラム、ベースが最初から最後まで全員参加のドンチャカ合戦になってしまった。これは今回最も残念だったところです。

★彡 ジャッコのボーカルは余裕がなくて少し辛かったけど、いや、それはグレック・レイクやボズやジョン・ウェットンの声で頭の中でメロディーや歌詞とがっしりセットされているので、仕方ないですね、ごめんなさい。いや、もちろん、それでもエイドリアン・ブリューに比べれば(以下自粛)。

★彡 要は、3ドラムにせよ、突っ張りっぱなしのボーカルにせよ、Larks' Tongues in Aspicについてよく言われた暴力性と繊細さの共存、そういう点で今一つで、全体に「剛」ばかりめだった、悪くいえば一本調子なところがなくはなかった、ということです。

King_c★彡 それでもともかく、コンサートとしては実によかった。
キング・クリムゾンを聞き始めて40年、「ああ、とうとう本物を間近に見てしまったなあ」という気持ちと、「できればグレッグ・レイク、あるいはジョン・ウェットン、ビル・ブラッフォードのいた時代に生で聞きたかった」という気持ちが相半ばして、帰っても頭がキンキンカンカンして寝られませんでした。

★彡 とはいえ、40年も経つと「精神異常者」は「スキッツォイド・マン」になってるし、「めざめ」は「軌跡」の誤訳、ブラッフォードはブルーフォードが正しいと。なにより「Larks' Tongues in Aspic」の「Aspic」は料理の肉汁ゼリーのこと、つまりアルバムタイトルは「雲雀の舌のゼリー寄せ」の意だと。
ほんとに、ナレッジはデッドリーフレンド、渡る世間に星もない。

★彡 それにしても、ピンク・フロイドといい、キング・クリムゾンといい、プログレでサックスが表に出るとなぜこうも必ずド演歌になってしまうのだらう。

2015/12/01

水木先生、さようなら。ありがとうございました。

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