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2015年10月の8件の記事

2015/10/26

『河童・天狗・妖怪』 武田静澄 / 河出文庫

Photo河童や天狗、ざしき童子など、この国で連綿と語り継がれてきた妖怪、またその存在をうかがわせる怪しい出来事について、それぞれ数行から数ページで紹介されている。

幾度かの妖怪ブームを経た今、「初めて知った」「合点できた」という事例はさほど多くない。それでも天狗(らしきもの)にさらわれた話や河童の腕が抜ける話、河童の子供をはらんだ女の話、山チチ、夜行さん、オシラさま、ウブメ、沖縄のヒチマジムン、犬神、ミサキ、舟幽霊など、ページをめくるごとに楽しい。

出会うと熱を出して死んでしまうのや、頭に大きな穴をあけて脳みそをすうやつなど、人に害をなす恐ろしい妖怪も興趣を招くが、正体のはっきりしない

  同地方でいうキノコというのも、新潟湯之谷村のカブキレコという妖童も、これに似ているが声はださない。

などというさらっとした記述の楽しさもまた堪えられない。

作者は鈴木大拙に師事した民俗学者、伝説研究家。1995年に亡くなられたとのことだが、本書の巻末には「武田静澄氏のご遺族にお心当たりのある方は、編集部までご一報いただけると……」云々とある。Amazonなど調べてみると地方別に伝説をまとめた本など著作も多く、それだけ本を出すにはそれなりに出版社との付き合いもあったはず。亡くなって20年で遺族も不明になるというのは寂しいものがある。

ところで、山の神をはじめ、さまざまな妖怪について紹介している章には、ご存じ一つ目小僧や一本足の怪童が取り上げられている。
かたや、

  ギリシア語でゲース・クレイトロン(大地の閂)と呼ばれる場所があり、そこにアリマスポイ人が発見される。額のまんなかの一眼によって知られる民族だ。

  (クテシアスの報告によれば)一本しか脚がないために単脚族と呼ばれている人間の種族を紹介している。脚は一本だが、驚くべき軽快さで跳ぶという。

こちらは古代ローマの博物学者、プリニウスの一節(澁澤龍彦『私のプリニウス』、河出文庫)。
澁澤は、人間の想像力には限界があって、結局は類型化をまぬがれないのではないか、などと少々無粋な所感をもらしているが、それでも2000年も昔のローマの博物誌と極東の島国の妖怪がそっくりというのはなかなか楽しいではないか。

2015/10/21

一瞬で消え失せる 『雪の墓標』 マーガレット・ミラー、中川美帆子 訳 / 論創海外ミステリ

Photoクリスマスも間近い雪の夜、デトロイト近郊の田舎町で、一人の男が刺し殺された。一緒にいた女が逮捕されるが、女は酔っていて何も覚えていない。そこに現れた若者が犯人は自分だと告白するが、その若者、ロフタスは重い、絶望的な病に冒されていた。

弁護士ミーチャムは最初は女の夫に依頼され、のちにはロフタスにかかわる何か、やむにやまれぬ衝動から、関係者のもとを訪ねて歩く。やがて明らかになる事件の真相、それぞれの「家族」の悲劇。

……「弁護士ミーチャム」を「探偵アーチャー」と書き換えれば、まるでロス・マクドナルドの書いたもののようだ。
言い換えよう、本作はマーガレット・ミラーのバリエーションの中でも、夫たるロス・マクドナルドの作風に極めて近い作品の一つである。いや、本作の刊行が1952年でロス・マクドナルドの『象牙色の嘲笑』と同年、のちにリュウ・アーチャーシリーズの作風を決定づける『ギャルトン事件』や『ウィチャリー家の女』がそれぞれ1959年、1961年の発表だったことを鑑みれば、むしろミラーのこの『雪の墓標』がロス・マクドナルドに明確な指針を与えたと考えてみるのは無茶だろうか。

真田啓介の解説によれば、江戸川乱歩はこの作品について「普通の文体の『成り行き』探偵なり」「『探偵小説』には非ざるべし」「別に驚くほどの文学味にも非ず。平々凡々のみ」と酷評したようだが、これはジャンルとしての「探偵小説」の興隆を目していた乱歩の気概がそう言わせたものだろう。一作品としてみればプロット的にも「成り行き」と切り捨てるには意外なほど細やかな構成の技巧にあふれており(たとえばロス・マクドナルドなら単なる立ち寄り先の一つで終わらせそうな質屋のエピソードもきっちりした伏線となっており、後で読み返すとその巧みさに感心する)、本格推理ファンにも十分楽しめるものとなっているように思う。

また、ミラーの作品では比喩が多用されているのだが、それだけでなく、たとえばミーチャムがロフタスを拘置所に訪ねた場面、以下のような1行がある。

  足音がドアの向こうの廊下を通り過ぎた。遠く、かすかに聞こえる音だった。

おそらく警官か誰かがドアの外を歩いていった、それだけのことだったろう。だが、ただそれだけの描写が、今自分が収監されている場所などロフタスにとってどうでもよく、大切なものは遠くにあること、さらにミーチャムが無自覚ながらそれに思いいたったことを暗示しているのだ。

ミラーの作品にはこういった、暗喩とも言い難い象徴的な表現が少なくない。
この作品には雪の中を車で移動しようとしてタイヤが滑る、そういう場面がときどき現れる。それが幾度が繰り返されていくうち、事件の関係者たちがそれぞれ何かのきっかけで平凡で穏やかな生活から滑り落ちていった、そのありさまと底のほうで静かに結びついていくのである。
ミラーの中ではこれらの象徴のからまりが、あからさまな論理以上に事件の真実を導き出す標となっていたに違いない。

なお、本書の原題は“Vanish in an Instant”(たちまち消え失せる)であり、これは作中でロフタスが引用するイエイツの詩の一節である。
雪の中でさまざまな不幸が明らかになる本書のタイトルにふさわしいだけでなく、この原題こそはミラーのすべての作品に似つかわしく感じられるのだが、どうだろう。

2015/10/16

毒入りチョコレート事件 『あなたは誰?』 ヘレン・マクロイ、渕上痩平 訳 / ちくま文庫

Photoアメリカの女流ミステリ作家、ヘレン・マクロイ(1904-1994)の初期作品。1942年の刊行。本邦初訳。

婚約者の実家を訪ねる準備にいそしむヒロインにかかってくる、1本の電話。作り声で、お前はくるなと脅す。「Who's calling?(どちらさま?)」
そして、事件の全貌が明らかになったのち、かかってきた電話に「Who's calling?」と問う場面で物語は幕を閉じる。
事件の謎を解くために検事局顧問の精神科医ベイジル・ウィリング博士が持ち出すのは……。

絞られた登場人物、堅牢な構成。的確に配置された伏線、心理学を礎にした論理的解明。
ミステリ黄金期の作品を彷彿とさせる、ミステリファン好みの要素でいっぱいだ。

本書は、のちに映画などで広く知られることになるオカルト現象「ポルターガイスト」、そして無数のサスペンス作品で扱われることになる「××××」(別に書いてしまっても未読の方の興趣をそぐことはないと思うが、訳者あとがきでネタバレ扱いとされているので念のため)、この2つを最も早期に取り上げた作品とのこと。

ただ、それならなぜ、『あなたは誰?』は「ポルターガイスト」や「××××」を扱った最初のミステリ、嚆矢として(たとえばクリスティの『アクロイド殺し』のように)名を残していないのか。

文庫の帯には「本格ミステリの巨匠」なんてことが書いてある。嘘おっしゃい。マクロイの作品は、50年以上も昔に長編が3冊ばかり翻訳されて、それきり放置されていた。2000年前後から古典の再評価というか、その時代の作品の再訳、新刊が相次いでいるが、それでもいまだに未訳のほうが多い。少なくともこの国ではまったく「巨匠」扱いされてこなかった作家だったのだ。

思うに、新しい科学知識や時事的な話題の扱い方に問題があったのではないか。
心理学の新説、第二次大戦の戦況。アメリカのミステリ界が長編サスペンスに走ればそれにならう。短編ではSFまがいも書いてみせる。
そういう変わり身の似合う大家もいる。しかし、マクロイの場合、そういった素材への素早い対応は、小手先の器用さ、世事への迎合と見えてしまう。新鮮な果物は傷みやすいのだ。

『あなたは誰?』に限らず、創元推理文庫に収められた個々の作品を読めば、その都度、誰しも、この作家はもっと評価されてよいのに、と考えるに違いない。
だが、全体を見渡すと夾雑物が邪魔をする。
ヘレン・マクロイの名は、そういった微かな苛立ちと物悲しさを呼び起こすものなのだ。

2015/10/13

退屈しのぎにまた物語をしてあげるから 『屍鬼二十五話 インド伝奇集』 ソーマデーヴァ、上村勝彦 訳 / 平凡社 東洋文庫

かねて所望していた阿修羅像のフィギュアがAmazonから届いた。烏丸家の家宝が1upした! ピロリロリーン♪

そこで、今夜はこれを記念して、11世紀のカシミール出身の詩人ソーマデーヴァが取りまとめたという、インド伝奇集を1冊。
(タイトルでご想像いただけるとおり、一部グロ注意。)

Photoプラティシターナの王トリヴィクラマセーナは、修行僧クシャーンティシーラに呪術成就のため勇者の助力が必要と請われ、その依頼を受けることになった。その依頼とは、大墓地から南の方角へずっと遠くまで行った先にあるシンシャパーの樹に男の死骸が懸っているので、それを運んできてほしい、というものである。
信義を重んじる王は、苦心してシンシャパーの樹までたどり着き、樹によじ登って綱を切り、男の死骸を地上に落とした。すると、死骸は大声で笑い出した。死骸には屍鬼(ヴェーターラ)が憑いていたのだ。
それでも王は死骸を肩にかついで大墓地めがけて歩き始める。すると、屍鬼が話しかけてきた。
王様、道中のお慰みに、ひとつ物語を話してあげましょう。お聞きなさい

屍鬼は奇想天外な、あるいは悲しい、ときには性転換などちょっとエロティックな物語を王に話して聞かせ、最後にその物語について王たる者、どう判断すべきかを質問する。
ところが、王がその問いにことごとく正解すると、死骸は幻力によりまたシンシャパーの樹に戻ってしまう。王はそれでも臆することも倦むこともなく、再び死骸を取りに南に向かう。

『屍鬼二十五話』は、こうして死骸を運ぶ王に屍鬼が話し聞かせる二十四の逸話からなる(二十五話目は「大団円」)。

ゲーテやトーマス・マンに取り上げられたという、夫と兄、二人の死者の首と胴体を取り違える話(質問は、生き返った二人のうちどちらを夫とみなすべきか)、など、『アラビアン・ナイト』や『聊斎志異』にも劣らない豊かで人間味あふれるショートストーリーが並ぶが、いかんせん近代的なモノの考え方とはいろいろ異なる観点に立つためか、『アラビアン・ナイト』のようにお伽噺として世界に広まることはなかったようだ。

それでも、語られる個々の物語の不思議さ、苛烈さといい、暗夜に王が何度も死骸を取りに戻る不気味さ、その一方で勇猛にして実直な王をからかう屍鬼の意外なお茶目さといい、これぞ奇譚!と古代インドにソーマを傾けたい逸品である。

なお、巻末の訳者による解説だが、『屍鬼二十五話』のルーツにあたる現存しない大説話集『ブリハット・カター』のそれ自体神話的な発祥の由来、詩人ソーマデーヴァの人生と技巧、また「屍鬼(ヴェーターラ)」の呪法についての詳細など、それぞれが読み応えある奇譚群となっており、サンスクリット文学に疎い読み手にはお得感、高。
シヴァ神に反逆する阿修羅もチョイ役ながらあちこち顔を出します。

 

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2015/10/11

これで私は戦えます 『黒博物館 ゴーストアンドレディ(上・下)』 藤田和日郎 / 講談社 モーニングKC

Photo_4藤田和日郎(かずひろ)の難点は、おそらく作者が作品に入れ込み過ぎるのだろう、連載が長引くにつれ、登場人物が増え、新たな因縁が増殖し、ストーリーが熱すぎる納豆スパゲッティになってしまうことだ。
『うしおととら』も『からくりサーカス』も『月光条例』も、連載開始当初は本当にわくわくしたものだが、最後まで追うとなるとへとへとになってしまうのである。

それに比べると、同じ作者の中短編は手軽に楽しめていい。この『黒博物館』シリーズなど、単行本1巻、2巻で完結するので、いかに設定や展開が寿司詰めでもヒートアップする物語になんとか取り残されなくてすむ。

『黒博物館 ゴーストアンドレディ』の主人公はフローレンス・ナイチンゲール(フロー)。言うまでもなくクリミア戦争での負傷兵たちへの献身的な看護で知られ、「白衣の天使」という言葉のもととなった実在の女性(1820-1910年)である。なお、実際には彼女の貢献は、医療・保健改革、病院設計、統計学の導入など、分析、ネゴシエーター的なものが中心だったらしい。
そのフローがロンドン、ドルリー・レーン劇場に訪ね、自らを取り殺してほしいと願った相手が、劇場に現れる幽霊「灰色の服の男」(グレイ)。
フローとグレイに対するに、クリミアの病院で縦割り行政を盾にフローの献身的な改善案をことごとく抑え込もうとするホール軍医長官。ホール長官の側につき、フローやグレイと敵対する幽霊が女装の美剣士シュヴァリエ・デオン……。

ホール長官は、クリミアの戦地で実際にナイチンゲールら看護師団の従軍を拒否した人物。ドルリー・レーン劇場の「灰色の服の男」は、彼が現れればその芝居はあたる、とロンドン子に知れ渡った実在の(?)演劇好き幽霊。役者に演技指導することもあったらしい。シュヴァリエ・デオンも実在のフランスの外交官、スパイで、生涯の前半を男性、後半を女性として生きた伝説的人物。

これら、もともとは接点のなかった人物、幽霊を集めて一同に配し、さらにロンドン警視庁の犯罪資料館(黒博物館)でグレイが可愛いキュレーターさん相手に昔語りをする大枠を用意、のみならず生きている人間には「生霊」がついていて日々それが争い合っているという設定まで持ち込み(スタンドか…)、要所要所にシェークスピアの名台詞を織り込むなど、隅々までこてこての藤田イズム満漢全席。

フローが「絶望」したらグレイがフローを取り殺すという約束など、無理押しもなくはないが、ともかくぐいぐい読み手を引っ張る展開、決め台詞の連発。斜(はす)に構えたグレイが泣ける。そしてなにより、狂信的なまでの目力を示すフローがいい。
ランプを手に深夜の見回りをする「ランプの淑女」の影にキスをする負傷兵。この押しつけがましい絵柄に十分な説得力を持たせられたのだから成功である。作者の代表作の一つとなるに違いない。

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〔おまけ〕
フローやグレイを付け狙うシュヴァリエ・デオンの幽霊。この作品では悪役だが、沖方丁による小説、アニメ作品では騎士道を重んじ、妹を殺した犯人を追う役柄で活躍している。古くは名香智子の『花の美女姫』シリーズの作中劇(仲間内で作製した映画)で、カーモールが女装の美青年デオンを演じている。

2015/10/10

二十億光年の長距離散歩者の夢想 『孤独のグルメ2』 原作 久住昌之、作画 谷口ジロー / 扶桑社

Photo単行本は18年ぶりだそうだ。18年ぶりにしてこの絵柄、テンポの変わりのなさ。谷口ジローおそるべし。

とはいえ、これだけ変わらないと、前回(2000年8月だからひと昔ではきかない昔の話だ)書きたいことはあらかた書いてしまったので作品については今さら加えることがない。
そこで今回は作品とは直接関係ないことを書く。

『孤独のグルメ』という作品が最初に掲載されたのは月刊PANJAという雑誌で、今なら考えにくいことだが篠山紀信撮影によるその表紙はなんと
──その話もおいといて、

「孤独」という言葉についてだ。

おそらく読み手の大半はスルーしてるんじゃないかとは思うが、本書のタイトルにおける「孤独」はかくありたいと望まれる状態の「孤独」である。「孤高」から高さを引いたもの。少なくとも、一人ぼっちは寂しくてイヤ、という意味ではない。

かつて(記憶では70年代の前半あたりまで)、「孤独」はかなりカッコよく、魅力的な言葉の一つだった。
洋楽ポップスのタイトルを数えても片手の指では足りない。「孤独の太陽」「孤独の世界」「孤独の叫び」「孤独の旅路」「孤独のメッセージ」「孤独の影」、などなどなど。
一人でいることはもちろんツライ。キビシイ。それでも、大勢に迎合、付和雷同するくらいなら俺は一人になることを選ぶぜ──そういう時代、そういう言葉だったのだ。

もちろん、現代でも「孤独」な状態はある、いじめや引きこもり、ハブりハブられブロック、着信拒否など、かつてよりよほどキツい状況もあるだろう。

だが、つるんでつるまれ、愛想笑い絶やさず、うんうんと頷いてばかりは納得できない、「孤独」にこそなろう、「孤独」でなければ突破できない、そういった道もあるはずだ。
教えたのはガッコウか新聞か、隣の人とは仲良くしましょう、足並みは揃えなくてはいけません、絆、絆、と一人になることを否定されていくうち、若者たちは一人で生きていくことから隔離されてしまった。

言うまでもないことだが、『孤独のグルメ』の主人公井之頭五郎はことさらに「孤独」がどうの、と騒ぎはしない。
だが、彼は昼飯に何を食べるか一人で考え、一人でドアを開け、一人で満腹する。あるいは自身の選択を反省する。

それが大人の方法だからだ。

2015/10/08

住むという、ただそれだけのことが 『ニュータウンは黄昏れて』 垣谷美雨 / 新潮文庫

Photoバブル崩壊直前に「新宿駅までたったの三十分!」の分譲団地を購入してしまった母、織部頼子。
その娘、琴里は現在フリーター、27歳。
物語はこの二人からの視点を中心に、団地の住人や琴里の友人らを交えたチラシ寿司的に進行していく。

バブルが崩壊して以来、都内の地価や従業員の給与が永遠に右肩上がりに上がっていくという神話はあっさりと崩れ、住宅ローンを抱えたまま頼子の夫は部長職を解かれる。団地を売ろうにも資産価値は下がる一方で、売っても莫大なローンが残るばかりだ。頼子は生活のために節約とパートに明け暮れるが、高齢化、過疎化が進み、バス路線さえ廃止されるという「ニュータウン」に未来を夢見ることができない。そんな折も折、当番で出席した理事会で、団地の建て替え案が浮上する。
一方、大学は出たものの就職に失敗し、月々の奨学金の返済に苦しむ琴里の前に、資産家の家に育ったイケメンの青年が現れる。6万もするオペラへの誘い。友人はなぜこの男を自分に紹介したのだろう……?

バブル崩壊後、中流家庭が住まい、仕事、結婚など、さまざまなアングルで悪循環に陥っていくさまが短い章建てで手早く描かれる。文学作品というよりテレビのドキュメンタリーに近い。
深掘りよりスピード感を狙ったのか、ストーリーはどんどん先に進んでいく。なにしろ同じ章に一人称と三人称の文体が混ざるくらいは当たり前、当人にとって重要であったはずの男女のなりそめがいずれもすっぱり省略されて過去のこととされているなど、いちいち細かいことにはこだわらない。

主人公のトラブルの根源は、住宅ローンを組んで都心から距離のあるニュータウンに分譲団地を購入したことにある。しかし、俯瞰してみれば、実は資産を持つ者と持たない者の格差の拡がりが最大の問題である(ピケティ……どこへ行った?)。
「住活」(という言葉でよいのか)に加え、「就活」、「婚活」、すべてその格差に紐づいて持たざる登場人物を苦しめる。

格差とは厳然たる状況、状態なので、それに対する解決策など簡単に見つかるはずがない。
頼子、琴里は(よほどのことがなければ)呑気で前向きな性格と描かれ、全体がすらっと流せる文体で書かれているため、読み進むのは楽だが、織部家の先々を考えると暗澹とせざるを得ない。

もちろん、これはドキュメンタリーでなくフィクションなのだから、頼子や琴里に救いの手を差し伸べる展開も不可能ではなかったろう。実際、琴里の奨学金については、やや甘めの救済が用意されている。しかし、手が差し伸べられるのはそこまで。
終盤、抜本的な脱却への可能性はさりげなく示されるものの、物語はあっさりと終わり、後は読み手に委ねられる。そこがいい。良書である。

2015/10/05

羊をめぐる妄言 『強欲な羊』 美輪和音 / 創元推理文庫

Photo「羊」をキーワードとする(一部オカルト風味もトッピングされた)サスペンス短編集。

全5篇、いずれも常軌を逸した不愉快な作品ばかりなのだが(褒め言葉である、念のため)、それでも解説の七尾与史氏の「ホラーというよりイヤミスの色合いが濃い」との指摘には少し疑念を感じざるを得ない。

イヤミスといえば湊かなえ真梨幸子沼田まほかるの独擅場だが、彼女らの作品、言うなれば真性イヤミス(?)の棚に並べたとき、『強欲な羊』には明らかに足りないものがある。
湊、真梨らの作品では、驕慢な人物が犯罪を犯す、身勝手な人物が殺される──そういった骨組みだけでなく、動機、小さな展開からセリフ、小道具の一つひとつにいたるまで、不安や悪寒を招くネバついた棘が隠れている。全体として滲む腐臭がある。作者がその書き方以外選べなかった(と、実は技術的にそう見せているのであれ)、そう見せる執拗さがある。
文芸批評の常套句で言えば、イヤミスたることに「必然性がある」のだ。

そういった目線で『強欲な羊』の各編にあたると、作品ごとに使い分けられた文体含め、優れて技巧的であるがゆえに、逆にそれぞれの人物や事件の不快さが計算の結果のように読めなくもない。そのためストーリーが二転三転し、最後にことの真相、表題作中の言葉を借りれば「羊の皮を被った狼、あるいは──強欲な羊」が明らかになったとしても、その人物の言動が極端に過ぎて一種大仰な喜劇に見えてしまう。

繰り返すが、テクニック的には本当に巧い。
作者はホラー映画『着信アリ』などでシナリオを担当していたそうで、畳みかける展開、迫るショッカー、いずれも手慣れているのもうなずける。体操競技でいえばE難度の技を連発、といったところか。
しかし、たとえば表題作で事件の表層が二転三転するさまを最初に読んでしまうと、もはや同レベルの技巧では驚かなくなってしまうのだ。

かつて、黄金時代と称された時代のミステリは、難度Eなどとてもとても、宙返りでもせいぜい一回転半程度だったのだが、それでもなんともいえない滋味にあふれていた。
アクロバティックな作品は確かに刺激的だ。だが、刺激と興趣は別ものなのである。

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