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2015/09/02

どうもあれが蜃気楼だとは 『海市』 福永武彦 / 新潮文庫

Photo福永武彦は『廃市・飛ぶ男』など短編集いくつかと加田伶太郎名義のミステリに目を通しただけで、長編小説は読んでなかった。
いつまでもそんなわけにもいくまいと常々考えていたところ(?)、代表作の一つとされる『海市』について倉橋由美子の『偏愛文学館』に

 海市(かいし)とは蜃気楼(しんきろう)のことです。これをタイトルにしたこの長編小説(著者によればロマン)は、いくらでもあるようで実はめったにない本物の恋愛小説で、

 恋愛小説を書くということはこれだけの「神業」をやってみせることで、軽々しく手を出すべき仕事ではありません。

と、なにやら凄みの滲む紹介がなされていたのでさっそく読んでみた。

……なんて書くといかにもあっさり読んだようだが、実は最初から数ブロック読んでは頓挫を繰り返し、読了までにすいぶんと時間をかけてしまった。

もともと悲恋をウリとする小説はどちらかといえば苦手だ。その上この作品は章によって人称を「彼」「彼女」の代名詞だけにして視点を切り替える技巧が施されており、作品世界に入りこむのが難しい。

代名詞の問題はそれでも読み進むうち、キーパーソンがさほど多くないためそれなりに整理が付いたが、結局、修飾をこらしても全体が所詮「不倫」の話であり、その当事者が愛と苦悩のはざまで死に対峙するといった展開には最後までついていけないものを感じた。死を選ぶくらいなら最初から不倫なぞしなければよいのに、ととことん無粋な評者である。

物語は、蜃気楼が見られるという南伊豆の海岸での、澁太吉(しぶたきち)という四十歳の抽象画家と、安見子(やすみこ)という若く美しい女性の偶さかの出会いから始まる。澁には青年の頃、胸を病んだ娘と情死を約束しておきながら裏切った悔恨があり、現在別居中の妻がいる。一方安見子は、実は──。

『海市』は昭和43年(1968年)の刊行。明治、大正、昭和と女性の自由は拡がったが、それでも50年も昔の結婚観は厳しく女性を縛り付けたに違いない。今ならおそらく安見子のような女性は一人の男と一度の結婚で自分を縛り付けようとは考えないだろうし、澁にしても早い段階で何か別の思い切りをするに違いない。

若い男女が出会ってそのまま相思相愛、障害もなく結ばれてハッピーエンド──では恋愛小説にならない、そのため作家は三角、四角関係や年の差、家柄、過去の過ち、事故、性差など、あらゆる障害を用意して二人の間に諍いとすれ違いを起こす。

『海市』は男女の営みのなまめかしさも含め、優れて技巧的だ。管弦楽を思わせる構成の妙は誰にでも書けるものではないし、今後同じ作者の長編を追ってみる意欲は招く。それは嘘ではない。ただ、『海市』の登場人物を「大人」として評価してしまうと、先に奔放に振る舞っておきながら後に枠組みにこだわって身動きできなくなる澁にも安見子にも感情移入はできなかった。
……いや違う。作者は登場人物への感情移入など求めていない。おそらく作者は悲劇を用意したのに、こちらがそれを悲劇として読めていないのだ。

※登場人物に「澁」「安見子」という特殊な名が用いられたことにも抵抗がないわけではない。作者のモダン、スマート指向が一種の気取りとなって結果的に作品を古びさせてはいないか。ちなみに全国の苗字(名字)11万種を集めたデータベースによると「澁」姓は全国に1世帯しかいないそうだ。「安見子」のほうは万葉集の鎌足の「安見児」だろうか。

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