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2015/09/18

彼のうちで彼女はめざめていた 『泉』 チャールズ・モーガン、小佐井伸二 訳 / 白水社

Photo白水社「新しい世界の文学」シリーズの一扇として、デュラスやノサック、パヴェーゼ、さらに今では忘れられた感のある幾人かの作家とともにチャールズ・モーガンの『泉』が上梓されたのは1964年のこと。この長編も一言で言ってしまえば「不倫」小説である。
ただし『泉』はその印象において、たとえば『海市』とはずいぶんと異なる。
帯の惹句を借りれば「清冽」という讃こそ似つかわしく思えるのだ。

物語は、第一次大戦中に捕虜となったイギリス士官たちがオランダの田園地方を汽車で運ばれていくのどかな光景から書き起こされる。
“瞑想の歴史”についての思索と学究を志す主人公ルイス・アリスンは、その虜囚生活に、むしろ雑事から隔絶された静かな生活が得られることを期待する(「捕虜」という言葉から引き出される印象が「シベリア抑留」などとかけ離れていて戸惑う。捕虜たちはこっそり掘り進めた砦からの抜け道が露見してもとくに厳しくは罰せられない。手続きさえ踏めば汽車に乗って出かけることさえ許される)。

やがてアリスンは古城近郷の百姓屋に食客として暮らすことになり、古城の主から古文書の研究を委ねられる。
アリスンはその古城でかつて家庭教師として語学を教えたジュリと再会し、彼女が敵国ドイツ軍の士官の妻となっていることを知る。

古城の塔、月光、二つの湖の間を流れ落ちる水音、荒れ地を渡る風、クラヴィコードの奏で、古文書を照らすランプの灯り。
アリスンとジュリの思いはもどかしいほど静かに、ゆっくりと深まっていく。しかし互いの思いが互いを激しく求めていると知ったとき、ジュリは厳しく別れを選び、アリスンもひとたびはそれに従う。
それでも断ちがたい思いに、二人はいつしか結ばれる。だがそこに戦地で片腕を失くし、毒ガスで肺に致命的な損傷を受けたジュリの夫ナルヴィッツが数年ぶりに戻ってくる。ナルヴィッツは死を前にしつつその高い精神性をもってアリスンと日々瞑想や人生のあり方について語り合い、彼ら二人は師弟とも喩うべき深い絆をもって尊敬し合うことになる。

『泉』は、そのような三人の、魂の物語である。

念のため、登場人物たちが辛気臭い人生論を語ってばかりかと言うと、決してそんなことはない。捕虜生活のあれこれや古城の女たちとかのデリケートな諍いなども細やかに描かれ、たとえば復員した夫ナルヴィッツの求めにいかにジュリが苦しむかなど、生々しく綴られて胸苦しくなるほどだ。

物語は最後に、「はじまり」という章をもって二人が虜囚の地を離れる場面で終わる。
アリスンとジュリの共通の友人ラムスデルはその絶望的な門出を「二人の試みのかなしさ」と評する。だが、ナルヴィッツの死を見届けた彼らはより困難で具体的な「生」に踏み込んでいくしかない。
ここにいたってモーガンの目的は明らかになる。それはぎりぎりまで流されることを拒み、欲望を削ぎ落とした果てに得られる精神世界の愛の気高さ、美しさであり、なおかつそこに留まってはいけないという地上のメッセージではないか。

モーガンはイギリスの作家でありながらむしろフランスでの評価が高かったようで、それはたとえば「弱々しい笑みが彼女の内なる死者に経帷子を着せるだろう」などといった暗喩に満ちた一部の表現にもうかがえる。だが、おおむね短く平易な地の文と、また明瞭な会話で綴られる。
翻訳は戯曲『太陽レンズ』と本作くらいしか記録になく、本来この国で好まれそうな作家があまり知られていないことは残念でならない。
年月を経て水が澄んだなら一から再読したい。またそれに足る作品である。

佐藤春夫の初期詩篇の一節を付す。

  なぞとくはわが掬ぶ手にまろびきて
  かなしき旅人たるわれを労わらざる。
              (「泉と少女」)

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