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2015年9月の6件の記事

2015/09/30

山○容疑者かよ 『海から何かがやってくる 薬師寺涼子の怪奇事件簿』 田中芳樹 / 祥伝社ノン・ノベル

Photo驚いた。
一つのシリーズ、一人の作家が垂直落下に劣化していくさまを、これほどアカラサマに見ることになろうとは。

思い起こせば前々作『水妖日にご用心』は語り口のキレの悪さが目立ち、前作『魔境の女王陛下』はジメジメしてまるで面白くない。新作『海から何かがやってくる』にいたってはほとんどエンタメの体をなしていないのだ。

薬師寺涼子の怪奇事件簿」とは、絶世の美女にして東大法学部卒(成績はオール優、在学中に司法試験と国家公務員採用Ⅰ種試験に合格)の薬師寺涼子27歳が、警視庁キャリア官僚としてさまざまな妖魅怪物の跋扈する怪事件を快刀乱麻に解決していくというシリーズである。
ただし、この薬師寺涼子、性格は最低最悪で、実家の資産とキャリアとしてのコネクションを盾に、歩いて傍若無人、暴れて傲岸不遜を極め、事件に際してはさまざまな建造物や権威を粉砕していっこう省みない。そのため「ドラキュラもよけて通る」ことから“ドラよけお涼”の異名を持ち、上司たる刑事部長はもちろん、警視総監にまで恐れられている。

……という破天荒なストーリーがめっぽう楽しかったのも少し前までで、最近は作者の浅薄な政治批評があまりにしつこく、前作では反原発、今作では反安保法案、それを作中で主張するのはよいとして、ほとんどがなんら論拠のない陰謀論や個人攻撃、揶揄中傷で、そのためストーリーが転がらないのである。
(反原発や安保法案、ないしそれらにかかる政治運動について是非を語るのが主旨ではないので、詳細は省く。)

そもそも顧みれば、涼子当人の能力は美貌や美脚や格闘技のキレを除けば、学歴、キャリア官僚、父親がオーナー社長を務めるアジア最大規模の警備保障会社など、まさしく涼子が嫌忌する権威権力側の御威光に依る。本シリーズはいわば巨悪を倒すにさらなる巨悪をもって、という構造がバカバカしくも痛快、というものだったはずだ。そのストーリーに作者個人の子供っぽい政治信条をまき散らかせば、バランスが崩れ、全体のノリが壊れるのは自明。

その結果、公安委員長や自衛隊隊員、米軍兵らはただひたすら「感じ悪いよね」を演ずるばかりだし、かんじんの海からやってきた怪物は妖怪でなく貴重な新種の生物だったにもかかわらず、(捕獲が困難とはいえ)調査、研究の対象とされないまま葬り去られてしまう。しかも、飛行艇をも撃ち落とす攻撃力をもつ象のように巨大な怪物をとらえる武器として涼子たちが用いたのが……。

新人が書いたならそもそも本にしてもらえなかったに違いない。

2015/09/23

でももう底まで着いた 『森のバルコニー/狭い水路』 ジュリアン・グラック、中島昭和 訳 / 白水社

Photo先にも紹介したとおり、モーガンの『』は、イギリスの士官が捕虜として4年間(!)オランダに留め置かれた、その間の物語である。
この設定はいかにもジュリアン・グラック好みの、と振り向いてみれば──『森のバルコニー』があった。

  一九一五年一月のある午後、小さな汽車がオランダの平坦な田園地方ボーデグラーフェンのあたりをゆっくりと通って、捕虜となったイギリス士官たちの一団を運んでいた。

これが『泉』の冒頭。
一方、『森のバルコニー』の書き出しは

  汽車がシャルルヴィルの郊外を過ぎ、町の煤煙も見えなくなると、見習士官グランジュにはこの世の汚れが次第に消え去ってゆくように思われた。

別に似ているわけではないが(これが似ているなら『雪国』だって似ていることになる)、前者ではアリスン、後者ではグランジュという、どちらかといえば思索家で軍隊向きとは言えない士官たちが、世の雑事を背後に置き去りにし、言わば時間的にも空間的にも切り取られた物語の舞台に運ばれていくという点では共通している。

ジュリアン・グラック(1910-2007年)は極めて寡作なフランスの作家で、生涯を通して形をなした長編小説は以下の5作のみ。
(その他文芸評論やエッセイ集、詩集などがあるが、それとて多作とは言い難い。)

  『アルゴールの城にて』(1938年)
  『陰鬱な美青年』(1945年)
  『シルトの岸辺』(1951年)
  『森のバルコニー』(1958年)
  『半島』(1970年)

いずれも主人公が休暇や停戦、つまりなんらかの猶予期間にあり、やがて何か破滅的、致命的なことが起こりそうな緊張感が次第に高まっていく、そういった作風。文体は飽和せんばかりの濃い暗喩、隠喩に溢れ、細密な装飾に埋め尽くされたバロックの建築物を思わせる。寡作ながらいまだファンの多い所以である。

その第4作『森のバルコニー』は、第二次大戦の初頭、ポーランドを占領したドイツ軍とフランス軍がベルギーをはさんで睨み合ったままともに戦闘に踏み切らなかった、「奇妙な戦争」と呼ばれる7、8ヶ月の停滞した戦場を描く。主人公グランジュは前線の堡塁に配置されるが、美しい自然の中、戦線の緊張感が次第に高まっていく気配を実感することができない……。

小説として決して出来が悪いわけではないのだが、神秘的、叙事詩的な構成美に貫かれた『アルゴールの城にて』や『シルトの岸辺』に比べ、鉄臭い汽車や戦車や銃や有刺鉄線が直接場面を塞ぐ情景がどうしてもガサツに見えるためか、グラックの作品中、今一つ人気に乏しいとみえる。たとえば別冊水声通信の『ジュリアン・グラック』(水声社)でも、ほとんど誰も取り上げていないようだ。
個人的には作中に登場する少し調律の外れた若い未亡人も今一つ場にそぐわない印象で、グラックの描く女を選ぶなら後年の『半島』に収録された短編「街道」や「コフェチュア王」に登場する無口で暗く名も記されていない女たちのほうに軍配を上げたい。
まあ、それもこれも、グラックが第二次大戦の史実をテーマにした違和感からか。グラックが別のところで主張したように、(出来事や人間心理より)季節の流れ、その移ろいを描くことを重視したというなら、なにもこの時期のこの森でなくとも、という返答はどうだろう。

ところで、『森のバルコニー』の3ページめには、グランジュが任地のモリヤルメに到着し、その地のサイレンに比べて郷里の消防署のサイレンは

  一度鳴ってやむときは小火、二度続くのは村うちの火事、三度ならば遠くの農場の火災であった。

と述懐を述べる。
『泉』では、森の火事に際し、教会の鐘を鳴らして村人に伝える場面がある。

  「お聞きなさい。すぐやみます。それから、一つ一つゆっくりと鳴らしてその方角を知らせるのです。(中略)一つ──北。二つ──北東。三つ──東。」

グラックがイギリスの作家の『泉』を読んでいたかどうかは知らない。
ただ、このようにいくつか通底するものを感じるばかりだ。

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(附)
グラックの作品のうち、とくに長年入手困難だった『陰鬱な美青年』(小佐井伸二訳)がこの4月に文遊社より再発された。喜ばしい限り。

2015/09/18

彼のうちで彼女はめざめていた 『泉』 チャールズ・モーガン、小佐井伸二 訳 / 白水社

Photo白水社「新しい世界の文学」シリーズの一扇として、デュラスやノサック、パヴェーゼ、さらに今では忘れられた感のある幾人かの作家とともにチャールズ・モーガンの『泉』が上梓されたのは1964年のこと。この長編も一言で言ってしまえば「不倫」小説である。
ただし『泉』はその印象において、たとえば『海市』とはずいぶんと異なる。
帯の惹句を借りれば「清冽」という讃こそ似つかわしく思えるのだ。

物語は、第一次大戦中に捕虜となったイギリス士官たちがオランダの田園地方を汽車で運ばれていくのどかな光景から書き起こされる。
“瞑想の歴史”についての思索と学究を志す主人公ルイス・アリスンは、その虜囚生活に、むしろ雑事から隔絶された静かな生活が得られることを期待する(「捕虜」という言葉から引き出される印象が「シベリア抑留」などとかけ離れていて戸惑う。捕虜たちはこっそり掘り進めた砦からの抜け道が露見してもとくに厳しくは罰せられない。手続きさえ踏めば汽車に乗って出かけることさえ許される)。

やがてアリスンは古城近郷の百姓屋に食客として暮らすことになり、古城の主から古文書の研究を委ねられる。
アリスンはその古城でかつて家庭教師として語学を教えたジュリと再会し、彼女が敵国ドイツ軍の士官の妻となっていることを知る。

古城の塔、月光、二つの湖の間を流れ落ちる水音、荒れ地を渡る風、クラヴィコードの奏で、古文書を照らすランプの灯り。
アリスンとジュリの思いはもどかしいほど静かに、ゆっくりと深まっていく。しかし互いの思いが互いを激しく求めていると知ったとき、ジュリは厳しく別れを選び、アリスンもひとたびはそれに従う。
それでも断ちがたい思いに、二人はいつしか結ばれる。だがそこに戦地で片腕を失くし、毒ガスで肺に致命的な損傷を受けたジュリの夫ナルヴィッツが数年ぶりに戻ってくる。ナルヴィッツは死を前にしつつその高い精神性をもってアリスンと日々瞑想や人生のあり方について語り合い、彼ら二人は師弟とも喩うべき深い絆をもって尊敬し合うことになる。

『泉』は、そのような三人の、魂の物語である。

念のため、登場人物たちが辛気臭い人生論を語ってばかりかと言うと、決してそんなことはない。捕虜生活のあれこれや古城の女たちとかのデリケートな諍いなども細やかに描かれ、たとえば復員した夫ナルヴィッツの求めにいかにジュリが苦しむかなど、生々しく綴られて胸苦しくなるほどだ。

物語は最後に、「はじまり」という章をもって二人が虜囚の地を離れる場面で終わる。
アリスンとジュリの共通の友人ラムスデルはその絶望的な門出を「二人の試みのかなしさ」と評する。だが、ナルヴィッツの死を見届けた彼らはより困難で具体的な「生」に踏み込んでいくしかない。
ここにいたってモーガンの目的は明らかになる。それはぎりぎりまで流されることを拒み、欲望を削ぎ落とした果てに得られる精神世界の愛の気高さ、美しさであり、なおかつそこに留まってはいけないという地上のメッセージではないか。

モーガンはイギリスの作家でありながらむしろフランスでの評価が高かったようで、それはたとえば「弱々しい笑みが彼女の内なる死者に経帷子を着せるだろう」などといった暗喩に満ちた一部の表現にもうかがえる。だが、おおむね短く平易な地の文と、また明瞭な会話で綴られる。
翻訳は戯曲『太陽レンズ』と本作くらいしか記録になく、本来この国で好まれそうな作家があまり知られていないことは残念でならない。
年月を経て水が澄んだなら一から再読したい。またそれに足る作品である。

佐藤春夫の初期詩篇の一節を付す。

  なぞとくはわが掬ぶ手にまろびきて
  かなしき旅人たるわれを労わらざる。
              (「泉と少女」)

2015/09/09

誰もいないよ 『女之怪談 実話系ホラーアンソロジー』 花房観音、川奈まり子、岩井志麻子 / ハルキ・ホラー文庫

Photo実話系怪談本は新刊があまりに多く、とてもすべてはチェックしきれない。
かといって書評やタイトル、表紙絵があてになる世界でもないので、読むのはかなり行き当たりばったりだ。ハズレにがっかりもないわけではない。
そんな中、ほかの文庫を求めたコーナーでたまたま手にとった『女之怪談』、これがなかなか怖い。

巻頭の花房観音の作品では、語り手が小説を書くと聞いてすり寄ってくる作家志望の女たちが虚勢を張りつつ崩れていく。FacebookやTwitterをトッピングに、怪奇より妄執、妄念といったほうが近い女同士の生(なま)の暗闘を描く花房の筆遣いは怪談としては必ずしも上質ではないが、この『女之怪談』という怪談集について一つのかたちを明確に示している。こういうことだ。この本で語られることは人づてに聞いたり、取材した怪異ではなくて、あたしたち作家の、女の、自分語りなのですよ

流されたまま続けて読み進む川奈まり子の二篇、これは傑作。
「ひよみのとりおにをんな」では彼岸花を引き抜いた書き手の全身に湿疹が噴き出し、治療に赴いた病院で知り合いの女が執拗に語り手の精神の壁を掴み剥がしていく。
続く「沸沸」はさらに壮絶で、近所に越してきた穏やかで面倒見のよい女が語り手の家庭を二重に壊す。語り手は周囲に救いを求めることもできないまま崩壊していくのだが、冷静に読み返せばおよそ「実話」の範疇ではないこの恐ろしい話が、花房観音の作品と並ぶことによって女たちの実話としてするりと読めてしまう。読み手(男)は絡新婦のユルい巣に逆さづりになって狼狽え、青ざめるばかりだ。

最後の岩井志摩子はいつものペース。
花房、川奈の流れに神経を剥き出しにされた読み手は、オーガニズム直後の女が背筋をなぞられただけで声をこぼすように、もはやわずかな刺激にも己の中で何度も闇を振り返っては悲鳴を漏らさざるを得ない。

  我が家のパーティーにきてください
  誰もいないよ
  わりと簡単に人を殺すんですよ

いや、わずかな刺激などと油断はできない。リラックスして書かれたようで、それでも十分に、危ない。

2015/09/08

『シャーロック・ホームズとヴィクトリア朝の怪人たち 1』 ジョージ・マン 編、尾之上浩司 訳 / 扶桑社ミステリー

Photo世にも不思議な物語 世界の怪奇実話&都市伝説』を取り上げた際には訳者の尾之上さんご本人から「次はホームズ系の予定です」とコメントいただいたが、その待望のホームズ・パスティーシュ、パロディ集が発売された。これがもう、素晴らしい。

聖書に次いで読まれると唱えられるだけあって、シャーロック・ホームズが活躍する作品には、コナン・ドイル本人による《正典》以外に別の作家が描いたホームズとワトソンの物語が多数存在する。《正典》にあらましだけ書かれ、作品としては残されていない事件を書き起こしたもの。《正典》でホームズが行方不明だった期間や引退後にかかわった事件を描いたもの。ホームズに名前こそ似ているが、少しばかりキャラの異なる迷探偵が活躍する(活躍しない?)もの。

その作品群は大きく2つに分けられる。
一つはコナン・ドイル、もといワトソン博士が書き残した記録が新たに発見された! という体裁をとるもの。一般にパスティーシュと呼ばれ、あくまで《正典》の雰囲気や文体を志す。もう一方は、ホームズとワトソンのやり取りをパロディ化して、自在に想像力を働かせた作品群。東洋を旅するもの、火星人と戦うもの、実は女性、万事だらしないダメダメホームズ、なんでもありである。

発売されたばかりの『シャーロック・ホームズとヴィクトリア朝の怪人たち』はそんなパスティーシュ、パロディを集めたアンソロジーの新作。収録された6編はパスティーシュタイプ、パロディタイプがおおむね半々といった印象で(もちろん厳密な区別があるわけではない)、それぞれよく出来ている。

『千一夜物語』の英訳で知られるリチャード・バートン卿の原稿紛失事件をベースに、実在した人物、実際に起こった事件にホームズとワトソンを配した「失われた第二十一章」、若い新聞記者の視点から描かれ、ホームズがひどい目に遭う「セヴン・シスターズの切り裂き魔」、休暇の滞在先でミセス・ハドソンが巻き込まれる、いささか羽目の外れた大イカ騒動、「クリスマス・ホテルのハドソン夫人」、霧の中、クトゥルフ神話もかくやの怪物がテムズ川から這いのぼる「地を這う巨大生物事件」など、いずれも細部にこだわった、書き手のシャーロッキアンぶりも楽しい。

個人的には以下の2編にとくに魅かれた。

「シャーロック・ホームズと品の悪い未亡人」では(タイトルが今一つだが)ロンドンと共同墓地を結ぶ実在した葬儀専用列車、ロンドン・ネクロポリス鉄道を舞台にホームズとワトソンが怪しい乗客の謎を追う。ドイルの魅力の一つに明晰で無駄のない文体があるが、本作のきびきびした展開はパスティーシュとしてその期待に十分に応えてくれる。最後の行、ホームズのうすら寒いセリフが秀逸。

「シャーロック・ホームズ対フランケンシュタインの怪物」は、タイトルの通りの内容──と油断していたらさらに思いがけない真犯人にたどり着く。前半のグロテスクで不気味な緊張感に比べ、『サンダ対ガイラ』や『進撃の巨人』のごとき怪物プロレスと化す後半は少しやりすぎか。それでもフランケンシュタインの怪物が原作同様、最後まで高潔な精神を示してくれることが救い。いろいろ足し算要素がある大傑作。

本書の翻訳で一つ気になったこと。ワトソンの一人称が「ぼく」と表記されているのだ。
《正典》の標準とされている新潮文庫版や創元推理文庫版では、いずれもワトソンは「私」だったように記憶している。それはまた同時に、ホームズの天才を認めつつ、そのあまりの変人ぶりに、社会人、紳士としては自身のほうが一人前と胸を張るワトソンの矜持を示す微妙かつ適切な人称のようにも思われたものだ。
もちろん訳者はそのあたりは百も承知で、巨大生物や人造怪物と対決するスチームパンキッシュなホームズに対するワトソンにはフットワークのよさそうな「ぼく」が適切と判断されたのだろう。

ワトソン「そういうわけで、そろそろベイカー街に帰るとするか、ホームズ」
ホームズ「残念だが、ワトソン、まだもう一冊、後半があるんだ」
ワトソン「どうしてそのことをいままで黙っていたんだ。本当に他人行儀な男だな!」
ホームズ「原稿が遅れているからに決まってるじゃないか。初歩だよ、ワトソン」

2015/09/02

どうもあれが蜃気楼だとは 『海市』 福永武彦 / 新潮文庫

Photo福永武彦は『廃市・飛ぶ男』など短編集いくつかと加田伶太郎名義のミステリに目を通しただけで、長編小説は読んでなかった。
いつまでもそんなわけにもいくまいと常々考えていたところ(?)、代表作の一つとされる『海市』について倉橋由美子の『偏愛文学館』に

 海市(かいし)とは蜃気楼(しんきろう)のことです。これをタイトルにしたこの長編小説(著者によればロマン)は、いくらでもあるようで実はめったにない本物の恋愛小説で、

 恋愛小説を書くということはこれだけの「神業」をやってみせることで、軽々しく手を出すべき仕事ではありません。

と、なにやら凄みの滲む紹介がなされていたのでさっそく読んでみた。

……なんて書くといかにもあっさり読んだようだが、実は最初から数ブロック読んでは頓挫を繰り返し、読了までにすいぶんと時間をかけてしまった。

もともと悲恋をウリとする小説はどちらかといえば苦手だ。その上この作品は章によって人称を「彼」「彼女」の代名詞だけにして視点を切り替える技巧が施されており、作品世界に入りこむのが難しい。

代名詞の問題はそれでも読み進むうち、キーパーソンがさほど多くないためそれなりに整理が付いたが、結局、修飾をこらしても全体が所詮「不倫」の話であり、その当事者が愛と苦悩のはざまで死に対峙するといった展開には最後までついていけないものを感じた。死を選ぶくらいなら最初から不倫なぞしなければよいのに、ととことん無粋な評者である。

物語は、蜃気楼が見られるという南伊豆の海岸での、澁太吉(しぶたきち)という四十歳の抽象画家と、安見子(やすみこ)という若く美しい女性の偶さかの出会いから始まる。澁には青年の頃、胸を病んだ娘と情死を約束しておきながら裏切った悔恨があり、現在別居中の妻がいる。一方安見子は、実は──。

『海市』は昭和43年(1968年)の刊行。明治、大正、昭和と女性の自由は拡がったが、それでも50年も昔の結婚観は厳しく女性を縛り付けたに違いない。今ならおそらく安見子のような女性は一人の男と一度の結婚で自分を縛り付けようとは考えないだろうし、澁にしても早い段階で何か別の思い切りをするに違いない。

若い男女が出会ってそのまま相思相愛、障害もなく結ばれてハッピーエンド──では恋愛小説にならない、そのため作家は三角、四角関係や年の差、家柄、過去の過ち、事故、性差など、あらゆる障害を用意して二人の間に諍いとすれ違いを起こす。

『海市』は男女の営みのなまめかしさも含め、優れて技巧的だ。管弦楽を思わせる構成の妙は誰にでも書けるものではないし、今後同じ作者の長編を追ってみる意欲は招く。それは嘘ではない。ただ、『海市』の登場人物を「大人」として評価してしまうと、先に奔放に振る舞っておきながら後に枠組みにこだわって身動きできなくなる澁にも安見子にも感情移入はできなかった。
……いや違う。作者は登場人物への感情移入など求めていない。おそらく作者は悲劇を用意したのに、こちらがそれを悲劇として読めていないのだ。

※登場人物に「澁」「安見子」という特殊な名が用いられたことにも抵抗がないわけではない。作者のモダン、スマート指向が一種の気取りとなって結果的に作品を古びさせてはいないか。ちなみに全国の苗字(名字)11万種を集めたデータベースによると「澁」姓は全国に1世帯しかいないそうだ。「安見子」のほうは万葉集の鎌足の「安見児」だろうか。

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