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2015年8月の5件の記事

2015/08/29

『偏愛文学館』 倉橋由美子 / 講談社文庫

歓声をあげたくなるような見事な書評ならいくらでもある。
ただし、書評の読み応えと取り上げられた本の価値がいつも合致するとは限らない。
単に、書評の書き手とこちらの、好みが噛み合わないこともあるだろう。
本の内容、立ち位置を切って捨てる、その切れ味が痛烈、という書評だってある。
あるいは「」氏のように、書評はとびきり楽しいが、書評氏の水準が高すぎてその推奨する域までこちらが登攀できない、そんなケースもある。

Photo倉橋由美子の『偏愛文学論』は読んで痛快、懇切丁寧、かつ紹介された本にハズレがない、(少なくとも僕にとって)稀有なブックガイドの1冊である。
凡百のベストセラーなど見向きもせず、内角クロスファイアーな選択(一見教科書的なラインナップ中にジュリアン・グラックの『アルゴールの城にて』と『シルトの岸辺』が選ばれているだけでもおよそ尋常ではない)。ですます調の文体は倉橋にしては温厚で、むやみに剣を振りかざすことなく、穏やかにその作品の長所を説く──そのような印象ではあるが、その中にも要所要所で彼女らしいスタイルは徹底されている。

 今の若者たちのしゃべり方でしゃべり、メールの文章と同じ調子で文章を書くような人物が登場するような小説は読みたくもないし、勿論自分で書くことなど思いもよりません。(『アルゴールの城にて』)

 飛び降り自殺による肉体的崩壊よりも、自分が誰だかわからなくなるまで自己崩壊した肉体が人形のように歩いている、というのがいい終わり方です。(『アドリエンヌ・ムジュラ』)

 晩年の『眠れる美女』や『片腕』になると、腐ったものにしかない美味の極致に近づいており、また人を酔わせる死の匂いがあって、もはや変態の域を超えています。(『山の音』)

この推進力をもって、タイトルは昔から知ってはいたが縁はないと思っていたマンの『魔の山』やオースティンの『高慢と偏見』を読むにあたり強力に背中を押してくれたのが本書である(オースティンはその後ちくま文庫に中野康司氏の新訳を得て長編をすべて読破することができた)。高校時代にある程度読んで済ませたつもりでいたサキやカフカ、また『聊斎志異』を再読、楽しめたのも本書がきっかけだ。

残る未読の作家はもちろん、既読の作家も彼女の批評を片手にもう一度読んでみたいと考えている次第。

以下は目次。出先の書店でも未読の書名を調べやすいように、などという個人的都合でここに書き写しておくのはナイショである。

  夢十夜 ── 夏目漱石
  灰燼/かのように ── 森鴎外
  半七捕物帳 ── 岡本綺堂
  鍵・瘋癲老人日記 ── 谷崎潤一郎
  冥途・旅順入城式 ── 内田百閒
  雨月物語・春雨物語 ── 上田秋成
  山月記・李陵 ── 中島敦
  火車 ── 宮部みゆき
  百物語 ── 杉浦日向子
  聊斎志異 ── 蒲松齢
  蘇東坡詩選 ── 蘇東坡
  魔の山 ── トーマス・マン
  カフカ短篇集 ── フランツ・カフカ
  アルゴールの城にて ── ジュリアン・グラック
  シルトの岸辺 ── ジュリアン・グラック
  異邦人 ── カミュ
  恐るべき子供たち ── ジャン・コクトー
  アドリエンヌ・ムジュラ ── ジュリアン・グリーン
  架空の伝記 ── マルセル・シュオブ
  名士小伝 ── ジョン・オーブリー
  コスモポリタンズ ── サマセット・モーム
  偽のデュー警部 ── ピーター・ラヴゼイ
  高慢と偏見 ── ジェーン・オースティン
  サキ傑作集 ── サキ
  太陽がいっぱい ── パトリシア・ハイスミス
  ピンフォールドの試練 ── イーヴリン・ウォー
  めざせダウニング街10番地 ── ジェフリー・アーチャー
  リオノーラの肖像 ── ロバート・ゴダード
  ブライヅヘッドふたたび ── イーヴリン・ウォー
  二十四の瞳 ── 壺井栄
  山の音 ── 川端康成
  ヴィヨンの妻 ── 太宰治
  怪奇な話 ── 吉田健一
  海市 ── 福永武彦
  真夏の死 ── 三島由紀夫
  楡家の人びと ── 北杜夫
  高丘親王航海記 ── 澁澤龍彦
  金沢 ── 吉田健一

ちなみに、この目次、何度数えても38項なのだが、カバーの惹句には「39冊」とある。上田秋成を2冊とカウントしたのだろうか?

2015/08/27

『真夜中の檻』 平井呈一 / 創元推理文庫

Photo楽しみに取り寄せた怪奇小説アンソロジーに重箱の隅をつついて歩く。卑しい難癖が、濡れた背中にザラザラ砂が付いたまま寝具に入ったようで嫌な感じだ。

験直しに続く一冊は捻りなし、ただ褒めることにしたい。讃えるにふさわしい一巻である。

平井呈一(1902-1976)、翻訳家、編集者。とくに英米の怪奇小説、ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』やレ・ファニュ、アルジャーノン・ブラックウッド、アーサー・マッケンらをこの国の読書家に紹介したことで知られる。
中菱一夫名義で「真夜中の檻」「エイプリル・フール」なるホラーの中・短篇を上梓しており、本書『真夜中の檻』は当二作に東西の怪奇小説や幽霊談について書かれた随想、緒言の類を集め加えたもの。

中篇「真夜中の檻」では、一人の歴史教師が古文書を求めて山村の館を訪ね、やがて怪異に取り込まれる。怪異の正体は明らかでないがいかにも「魔」と称すに相応しく、全頁これ淫靡で執拗な妖しさに満ちている。海外の怪奇小説を思わせる堅牢な構造にこの国在郷の物気配が満ちる、ありそうでなかった怪奇小説の傑作。
一方の「エイプリル・フール」はドッペルゲンガーと叶わぬ純愛を素材にした作品だが、同じ男女の仲を描いてもねっとり濡れた闇が基調の「真夜中の檻」に比べ、白い画用紙にクレパスで描いたような都会的軽妙さに味わいがある。ウォルター・デ・ラ・メアあたりが書きそうな話でもある。
肌合いは異なるが手練れの技巧溢れた二作に、もし平井が怪奇小説の創作により貪欲だったらと思わずにいられない。

東雅夫のバイオグラフィーによると平井の人生は決して順風満帆ではなかったようだが、本書の後ろ半分を占める随想にはそのような気配は微塵もなく、珍しいチョウやトンボを追う少年のようにただ怪奇の野を駈ける。そのくせ文章は洒脱、怪奇小説を語ってこの粋はなかなか見かけない。

平井が怪奇小説の翻訳・紹介に努めた当時には翻訳家が手に入れることすら困難だった作家の作品が、クリック一つで簡単に手に入るこの時代。だが我々はそれ故にホラーに倦み、飽きていないか。いずれが幸いかと問えば言うまでもない。

2015/08/22

(覚え書き)『怪奇文学大山脈 西洋近代名作選』

先に紹介したアンソロジー『怪奇文学大山脈』についての覚え書き。調べが浅い、というよりそもそもきちんと裏付けをとったものではないのでご容赦ください。

Photoχ このジャンルの文芸作品に対し、日本語では「怪談」「神秘小説」「幽霊小説」「恐怖小説」「幻想小説」など、さまざまな呼称が用いられている。本アンソロジーでも、Ⅱ巻巻頭の解説には「怪奇小説」という名称がどのような経緯で定着するにいたったかが詳細に記されている。──にもかかわかず、なぜシリーズ名には「怪奇文学」を採ったのか。また編者にとって「怪奇文学」と「怪奇小説」その他はどう異なるのか。どちらを推進したいのか(各巻の解説中には「怪奇文学」はほとんど使われていない)。

χ [‫Ⅰ巻 p.12-13] 本アンソロジーは「怪奇小説をみつける喜び」を読者に味わってもらいたい、未訳のまま残された「叢(くさむら)のダイヤモンド」のような作品を紹介したい、との動機に端を発し、さらには西洋近代の「怪奇文学発展の歴史というべき大山脈が一望できるような文芸地図を描きあげること」ことを目的とした、とある。しかし……そもそもこの2つの目的は、並び立つものだろうか?

χ 各巻巻頭の解説において、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)や荒俣が師と仰ぐ平井呈一はじめ、日本における西洋怪奇小説の紹介者についてあれこれ記されている。しかし、各巻に選ばれた作品やその並びはとくに日本への怪奇小説の伝播とは関係がないため、日本での怪奇小説の扱いについて書かれた部分の目的が明らかでない。まるで、編者が知っていることをただ書きたかっただけのようにも見える。

χ ハーン、平井、乱歩、澁澤や種村、最近でいえば東雅夫らに比べてどうしても荒巻宏に魅力を感じることができない。酷い言い方をするなら──精神性の欠如。

χ 表紙に昔の雑誌のカヴァーアートを用いるなら、その旨断るべき。たとえばⅡ巻の表紙画はⅢ巻収録のカール・ハンス・シュトローブル「舞踏会の夜」が掲載された「デア・オルキデーンガルテン」誌の表紙画(Ⅲ巻 p.494に図版あり)。Ⅰ巻、Ⅲ巻の表紙画にいたっては出典がわからない、だけでなくそれぞれの収録作の内容にも必ずしも似つかわしくない。

χ [Ⅰ巻 p.410] 1978年のアンソロジーに収録された出所不明の捏造品(と思われるもの)が「十九世紀初めの名もなき煽情小説を偲ぶメモリーともなっている」「端的に当時のジャーナリズムの実情を伝えている」……いったい何を言っているのだ?

χ [Ⅱ巻 p.428] 「女流ファンタジー作家とは、彼女のような女性のことを指し、そばにはいつも紅茶と猫がいるのではないか、と空想したくなるような女性である」……会ったこともない作家に、女流だからとなぜにこのレッテル。

Photo_2χ [Ⅲ巻 p.57] 「言い方はわるいが『ちり紙の一歩手前』のごとき」「内容もほぼすべて煽情的な大衆向け小説類で埋められていた」と編者自ら貶めるパルプ・マガジンから作品を選択する理由がはっきりしない。その中に現代的な価値・魅力を認めるのか、編者個人として抗いがたい魅力を感じるのか、屑は屑として歴史的資料として紹介するのか。コレクトばかりでセレクトの意図がわからない。

χ Ⅲ巻ではパリ、モンマルトルの「グラン・ギニョル」劇場で演じられた残酷劇に紙面を割いている。これはこれとしてまとめるべきだったのではないか。Ⅲ巻全体で各国のパルプ・マガジンに氾濫した刺激的な娯楽作品、としてしまったためどうも焦点を絞りづらい(それぞれに関連があるのか、ないのか)。

2015/08/16

『怪奇文学大山脈 西洋近代名作選』(全3巻) 荒俣 宏 編纂 / 東京創元社

Photoかつて後楽園遊園地にオバケ屋敷を据えるにあたり、楳図かずお館水木しげる館に並んでアラマタヒロシ館が設けられたという(楳図かずお『神の左手悪魔の右手』小学館文庫 第1巻 巻末エッセイより)。畏れ多くもその天下の大荒俣先生をつかまえて不敬不遜もいいところだが──実のところ昔から荒俣本は好きでない。ごめんなさい。

荒俣宏の怪奇幻想文学におけるライフワーク 巨大アンソロジー全3巻」と謳われるこの『怪奇文学大山脈 西洋近代名作選』、情報の詰まった、手間をかけた書物であることはわかる。わかるのだが、絶賛するには茶色いモヤモヤが邪魔して仕方がないのだ。

極端な話(くどいようだが天下の大研究家、コレクターをつかまえて言うべきことではないかもしれないが)、荒俣宏は怪奇小説を好きでもなんでもないのではないか!? とさえ思う。

たとえば、未訳の怪奇小説が2作、あるとしよう。一方は海外で比較的簡単に入手でき、一方は掲載誌が極めてレアで入手困難。荒俣宏はおそらく問答無用で後者を騒ぐのである。古い雑誌を集めるにしても、誰が何を書いた、誰の表紙絵がこう、そういった志向性より全巻揃えることに走る。揃えて自慢してしまう。

『怪奇文学大山脈』の内容、構成を見てみよう。
【19世紀再興編】【20世紀革新編】【諸雑誌氾濫編】と銘打たれた各巻巻頭にはそれぞれのテーマと時代背景、巻末には収録作と作者の詳解が相当のボリュームで掲載されており、それらを読むだけでも興味深い。それは否定しない。
しかし、西洋怪奇文学の系統を、大きな枝組みにまとめつつ紹介するにあたり、肝心の収録作品が一部にせよ以下のように選ばれ方をしていたならどうか。

・著名怪奇小説家の作品と類推される(証拠はない)作品
・偽作であると推測され、そのこと自体が興味深い作品(作品そのものはたいしたものでない)
・ある著名怪奇小説家の作品だが、とくにその特徴を表しているわけでもなく、ただ短編集、アンソロジー等に未収録というだけの小品
・当時すでにパルプ扱いされていた雑誌の傾向を表す作品の1つ
 などなど

その結果、『大山脈』はその山脈の峰、頂ではく、闇雲に際物を追って裾野を徘徊する。

どこが『怪奇文学』なのかさっぱりわからない、SFともファンタジーとも言い難い、ただ正統でないとしか言いようのない畸形的作品、非常に怖い恐怖小説で知られる作家の、しかし代表作に比べれば粗悪な作品。万事とは言わないが、そういった作品をどう読めばよいのか。

しかも、“なぜ選ばれたか”に比重のおかれた作品の背景を理解するためには、いちいち巻頭、巻末の解説記事をめくり返さなくてはならない。──つまるところ、一つひとつの作品、さらには読み手が大切にされていないのだ。

もちろん、過去の作品集、アンソロジーからこぼれた作品を集めたい、あるいは一作一作は必ずしも上等でなくともある条件下の作品を集めて楽しみを共有したい、そんなマニア、コレクターの気持ちはとてもよくわかる。ニーズもあるだろう。
それでも、この集成には納得できない。選び方、騒ぎ方が違う。
高踏を良しとも言わないが、どうも荒俣本は精神のあり方が卑俗、卑近にすぎるのである。

2015/08/08

『ようするに、怪異ではない。』 皆藤黒助 / 角川文庫

Photo先日の、『時をかける少女』テレビ放映の際、Twitterに、ある大学教員の方が「以前原田知世の『時をかける少女』と細田守のアニメの比較映像論をやっていたが、今どきの学生は前者を観て爆笑するのでそれ以来やめてしまった」といった内容のつぶやきを書かれていた(https://twitter.com/manchi2012/status/620649232811192320)。

この経緯や感覚は、それぞれわからないでもない。
ただ、一つ指摘しておきたいのは、原田知世の、つまり大林監督版の『時をかける少女』は、その当時過去のものとなりつつあった昭和ノスタルジーに満ち、そのため公開された時点(1983年)においてすでにずいぶんと笑われていた、ということだ。

青春ははた目にはくすぐったい。それが切実なら切実なほど笑われてしまう。おそらくそういうことなのだと思う。

『ようするに、怪異ではない。』は、妖怪マニアの先輩・ハルに振り回される妖怪嫌いの高校生を描く連作短編集。

怪異といっても、コンビニのお菓子のパッケージが切られていたら鎌鼬(かまいたち)じゃないか? 窓から覗き込む顔があったら精螻蛄(しょうけら)じゃないか? といった程度で、妖怪談としてもミステリとしても、そう際立って凄い、ということはない。ないのだが、青春物語としてはそこそこ巧い(この点において、当節のライトノベルはおおむね実によく出来ているのだ)。
その結果、その手の峠は越してしまったオジサン読者は後半の青春エネルギー充填120パーセント!な展開に照れて笑ってしまう。笑いつつ楽しむ。

大切な友人が犯した罪を先輩の気持ちも考えず自慢げにぺらべらと述べ、一人子どものように勝ち誇っていたのは何処のクズだ。
俺だ。冬目皆人だ。

とか、

「今週末でしたよね、みなと祭。皆で行きましょう」
「え……でも私、髪が」

こういった展開、こういった言葉遣いの気恥ずかしさは昭和の角川映画だろうが現代のライトノベルだろうが変わらない。
おそらく、この作品の登場人物たちと同世代の現代の読者でも、ほかの青春物語に焦点が合っていれば笑うだろう。

だが。笑われることを恐れてなんの青春。
爆笑されてナンボ。妖怪照れ隠し。

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