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2015/03/08

『故郷』『祭の夜』 パヴェーゼ、河島英昭 訳、『シチリアでの会話』 ヴィットリーニ、鷲平京子 訳 / 岩波文庫

Photo『故郷』は『流刑』同様パヴェーゼ初期の作品で、やはり逮捕、釈放された青年を主人公にしているため、最初の数十ページの間は『流刑』のバリエーションかとも思われる。ところが、主人公が監獄で知り合った若者についてその郷里に赴き、脱穀機の調整を引き受けるというだらだらした展開が続いたあげく、終盤、一転、一瞬にして世界が炎上する。
読み返せばあちこちに伏線が張り巡らされていたことがわかる。それを知ったときはもう遅い。

『祭の夜』はパヴェーゼ自死ののち、急遽イタロ・カルヴィーノによって編まれた短編集。「新婚旅行」「自殺」など、寄る辺ない女性をとことんいたぶるような作品が散見する。
パヴェーゼの作品にはよく「裏切り」が描かれるが、登場人物の本音、書き手の真実が合わせ鏡のように入り乱れて幻惑される。説明は、ない。

パヴェーゼはヴィットリーニとともにイタリア文学において「ネオレアリズモ」を興した作家とされている。これを「新写実主義」と解釈してしまうと混乱するに違いない。
先にも書いたとおり、パヴェーゼの文体は非常に抒情的で、後期の『月と篝火』にあってさえ「写実」に徹した印象はない。
Photo_2ネオレアリズモのもう一方の代表作とされるヴィットリーニ『シチリアでの会話』にいたっては、『神曲』や『ファウスト』を小ぶりに丸めて家庭版にしたような印象。これが「ネオレアリズモ」と分類される意味がよくわからない(『銀河鉄道の夜』を「写実主義」と評するよう、といえばおわかりいただけようか?)。主人公の母が、父が、さまざまな登場人物が宗教的、あるいは政治的な象徴を複層的に担うこの空想の帰郷の記録が、反ファシズム運動の狼煙となりえた当時の実情も現在の日本にいてはよくわからない。

「ネオレアリズモ」は、フランス文学などにおける「写実」の意ではなく、地方の貧しさや男女の相克、ファシズムの台頭といった「現実」によって苦しむ人々を主題に、その「現実」にあるいは能動的、あるいは受動的にからみ合っていく文学、とでも考えたほうがよさそうだ。
もう一つ、ヴィットリーニの『シチリアのでの会話』の序文など読むと、現代イタリアにおける言文一致運動、という見方もできるかもしれない。実際に使われている言葉を用いることによってしか描けない「現実」を描く、そういうことである。

しかし、その視点に立つと、岩波文庫のパヴェーゼ作品については翻訳の質を問わざるを得ない。とくに会話文が問題だ。
監獄に捕えられた者同士の(本来無頼なはずの)やり取り、農村の無骨な若者が流刑者に話しかける言葉遣い、男女の捨て鉢な睦言。それらの多くが妙に柔らかな敬語まじりの「ですます調」なのは違和感が強い。「私」や「ぼく」といった一人称もいくつかで疑問が残る。
訳者によるとパヴェーゼは作品によって語り口、文体が異なり、それがまたパヴェーゼの特徴らしい。そのあたり、気を遣いすぎたように思えなくもない。

(この項、続く)

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