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2015年3月の9件の記事

2015/03/31

未熟さの理由 『憤死』 綿矢りさ / 河出文庫

Photo森見登美彦が帯の惹句で「ほとんど私の理想そのものの『怖い話』」と持ち上げているが、それほどのものか。
森見当人の『きつねのはなし』など読めば、彼の求めるものがこんなレベルではないことはすぐわかる。

収録作はイントロダクションの「おとな」に、「トイレの懺悔室」「憤死」「人生ゲーム」の三作。
文字は大きい、ページ数は少ない、読み終えるのなどあっという間だ。

巻頭の「おとな」は、語り手が子供のころの近所の「おとな」の悪行を描いたもの。もしこれがまったくの創作であるなら、さすが、といってよい膂力。そうでなくて実話や誰かに聞いた話であったなら、それはその「おとな」たちの能天気さ加減をほめるべき。
「トイレの懺悔室」は町内の祭で「親父」顔をする人物が壊れていく話。勝手に壊れたとみるべきか、壊されたのか。いろいろわからないことがあって、それが気色悪さに結実している。
「憤死」は女の子どうしの腐れ縁に意地悪な目線を取り込んで描く。その意地悪さが楽しい、両者の間に安全な距離があるため、話が転がり出す前に終わってしまう。惜しい。
「人生ゲーム」は、一種の落とし噺。テーブルゲームの「人生ゲーム」を遊んだことのない者にはややわかりにくいし、少なくともとくに「怖い」話ではない。なぜこの設定でこの世の地獄を描かなかったのだろう。

これら、女学生臭さの抜けない文章を読んでいると、漠然とだが、「叱られたことがない」という印象を受ける。
もちろん、高名な文学賞を受賞して名声を得た代わり、山のような批評非難、なかには悪意のこもった揶揄中傷も受けてきただろうことは想像に難くない。しかしその一方、モノを書くにおいて本当に大切に思っている人物からぎりぎりのところまで詰められたことはないのではないか。
現に森見も、帯に解説に、この程度をベタ褒めする始末。それは子供扱いするようなもので、よくない。

なお、収録四作はいずれも誰かの呼びかけや告白が作品のエッセンスとなっている。
そういったフォームは意識されているようで、そのしたたかさは好もしい。

2015/03/28

Boy Met Girl 『時が新しかったころ』 ロバート・F・ヤング、中村 融 訳 / 創元SF文庫

Photoビブリア古書堂の事件手帖』でコバルトシリーズの古書が紹介され、それが現実世界で大高騰↑↑↑して以来、いまだにわかバブルの続くヤング周辺。

SF作家ロバート・F・ヤングは、ウィキペディアによると

  叙情的で優しい、気恥ずかしいほどストレートに愛を語るロマンティックな作風が特徴
  作風はジャック・フィニイ、レイ・ブラッドベリやシオドア・スタージョンと類比されることもある

とのこと。「海に住む少女(沖の少女)」のシュペルヴィエルも多分きっとお仲間だ。

『時が新しかったころ』(1983)はそんなヤング人気をあてこんで(失礼)、昨年急遽翻訳、刊行された長編だが、ヤングの長編であるからには、短編集『たんぽぽ娘』(河出書房新社)の「編者あとがき」で伊藤典夫がざっくり

  結論として、ヤングの長編について断言できることは「すべて壊れている」──なのである。

と断じた1冊ということになる。どうだろう──。

Photo_2確かにプロパーの目から本格SFの厳密さを求めたなら、いろいろザルとの指摘、わからないでもない(詳細は控えるが、たとえば火星になぜ地球とそっくりな? とか、未来に別の女性がすでにいたなら? などなど)。

しかし、これはJ・P・ホーガンのハードSFじゃない。ヤングのロマンチック時間SFなのだ。「気恥ずかしいほどストレート」に天才少女のツンデレに萌え萌えっ、多少のタイムパラドックスなどあっちむいてほい、それでどうなの提督っ。
その限りにおいて、本作は「おとといは兎を見たわ、きのうは鹿、今日はあなた」の名セリフを残した「たんぽぽ娘」の域には至らないものの、決して失敗作とは思わない。トリケラトプスやティラノサウルスが闊歩する白亜紀の逃走劇、焚き火で焼くマシュマロの香り、最後の最後、見事に決まるストレート。

できることなら校庭のタイムカプセルに収めて、中学生のころの自分に読ませてやりたかった。

2015/03/26

犯人はあなただった、かな? 『最後のトリック』 深水黎一郎 / 河出文庫

Photo《事前注意》
直接的なネタバレは避けたつもりですが、できたら未読の方は読まないようにしてください。

《本文》
「読者全員が犯人」という、ミステリにとって究極といえば究極のトリックに挑戦した意欲作。その気概と努力は評価したい。
──とはいえ、本作の無理やりな結末に納得する読み手は多くはないのではないか。ストーリー中盤まで重きをなす(それなりに読める)超能力研究家や友人のミステリマニアとのやり取りがヒントとはなりえても伏線にはなっていないのも残念。というのも、本作は殊能将之『黒い仏』、西澤保彦『ストレート・チェイサー』『ファンタズム』などの系譜につながるものなので、というと、ご存知の方はハタと膝を打っていただけるかもしれない。
あるいはいっそSFかファンタジーと割り切ってショートショートにすべきだったかもしれない。

本書は単行本でのタイトルは『ウルチモ・トルッコ 犯人はあなただ!』だった。文庫と併せ、売らんかなのタイトルや表紙で評価面でずいぶん損をしているようにも思う。「ウルチモ(究極の)」「最後の」と煽れば煽るほど、小手先トリックのバランスの悪さが際立ってしまうからである。

不思議なのは、いかにも「バカミス」のレッテルが似合いそうでいながら、そう呼ぶのにためらいを感じることだ。
過去の「バカミス」の著名作、たとえば中西智明の『消失!』や藤岡真『六色金神殺人事件』に比べ、読み終えて「やられたーっ」とか「なんだそういうことか、わはははは」といった(悔しさ含めた)突き抜けた読後感がないためだろうか。

結局、現在の科学、論理ではまず不可能と思われる「読者全員が犯人」をブチ上げるには、生真面目なだけではだめ、ということか。

《おまけ》
本作のトリックを(ネタバレを断ったうえで)正面から検討しているサイトもいくつか拝見した。ここでは気になったことを一つだけ書いておきたい。

大辞林で「犯人」を引いてみると「罪を犯した人。犯罪人」とある。
本作に関して言えば、「読者」がその人物の「死因」にかかわったことがよしんば立証されたとしても、罪を犯したとまでいえるかとなると疑問だ。
たとえば誰かがアナフィラキシーショックで亡くなった際に、卵や蕎麦粉の生産者を「犯人」呼ばわりすることはない。罪を問われる可能性があるとしたら、アレルギーがあることを知っていながらアレルゲンの接種をさせてしまった人物に違いない。つまり……。

2015/03/18

何一ツ担ワナイ 『タタール人の砂漠』 ブッツァーティ、脇 功 訳 / 岩波文庫

Photo_2『タタール人の砂漠』(1940年)はジュリアン・グラック『シルトの岸辺』(1951年)との類似性を指摘されており、読んでおかねばならないと前々から気にかかっていた作品。そして「ねばならない」読書ほど窮屈でつまらないものもないため、なかなか手を出せなかったというのが実情。
読み始めてしまえば手練れの翻訳もあいまってさらりと読み終えることができた。

物語は士官学校を卒業し希望を胸に辺境の砦に配属された若い将校、ジョヴァンニ・ドローゴの視点で語られる。ドローゴはいつ訪れるとも知れぬ北からの敵の襲来を待って砦を離れる機会を逸し、緊張と焦燥のうちにただ青春を、人生そのものを費やしていく──。

砦の夜に響く水漏れの音や吹雪の中の死など、一部エッジの立った幻想的描写はさておき、全体を見通せば小ずるい上司、自身の出世欲など、仕事上の行き違いを描いたお役所サラリーマン小説と読めなくもない。

ブッツァーティは「イタリアのカフカ」と称されることもあるようだが、どうだろう、漆黒の穴のようなカフカに比べればどうしても朴訥で穏やかな印象が否めない。主人公ドローゴの空回りする人生も不条理といえば不条理だが、宮仕えならよくある理不尽にすぎない。言葉にすれば「お気の毒」、あたりだろうか(グレゴール・ザムザやヨーゼフ・Kの運命は、むごかったり不可解だったりしても「気の毒」ではないだろう)。
ドローゴの不幸はつまるところ、帰るべきときに町へ帰る、結婚するはずだった女性に態度を明らかにする、確認すべきときに遠方の影を確認する、など、さまざまな局面において彼当人が正面から事態に参加(アンガージュマン)しきれなかったことに起因する。その意味で気の毒ではあっても情けをかける必要はない。

なお、『シルトの岸辺』も辺境の砦に赴任した若者、最後まで始まらない戦闘など、よく似たお話ではあるが、際立つのは全編に張りつめた破滅への予感だろうか。いや、『シルトの岸辺』においては帝国オルセンナの崩落への期待そのものが主題であり主人公であり、登場する者たちはそれを成就するための盤上の駒に過ぎないようにさえ思われる。
それに比べれば『タタール人の砂漠』はよしも悪しくもドローゴ個人の「人生」に主軸をおいた作品であり、読み手が受け取るものもまた取り残された一人分の人生の素朴な重みだろう。

2015/03/16

これも、へんです 『へんないきもの三千里』 早川いくを、寺西 晃・絵 / バジリコ

Photo「世界的ベストセラーとなって生物学書籍の常識を覆したと言われる『へんないきもの』シリーズ、本講座では続いて『へんないきもの三千里』を取り上げたい」
「あれ? シリーズ最新刊は先日ご紹介した『うんこがへんないきもの』では?」
「まーそのー、この本、ずっと前に買ってはいたのだけど、なにしろ縦横21.2×15.4cm、厚さ3.2cmのハードカバー。ざっと文庫4冊分で持ち歩くに持ち歩けず、部屋の隅にほったらかされていたのだった」
「なるほど。机と椅子が行方不明になると噂の先輩の部屋ですから、そういうことも」
「机と椅子が行方不明って、それは言い過ぎ。机は、ある」
「椅子はどっかいっちゃったんでしょう?」
「椅子の行方はともかく、今回は小説である。もちろん早川いくを得意のへんないきものは満漢全席てんこ盛りだが、今回はがっつりストーリーもあって、読むに楽しく夜は短い」
「え、ストーリーありなんですか。ではタイトルからすると……産み落とされたへんなマルコが、へんな母をたずねて三千里?」
「と、いうわけでは、ない」
「うーん。じゃあ、経典求めて西域を旅する夏目雅子を、へんないきもの三匹が守って歩く」
「それは『へんないきもの西遊記』」
「城壁内に生き残る人々を巨大なへんないきものが襲う!」
「それは『進撃のへんないきもの』」
「生物の世界で起こった戦争をテーマに、千種類ものへんないきものを生き生きと描き分けた」
「映画化もされた『へんないきものと平和』」
「無人島に流れ着いたへんな少年たちがへんな工夫をこらして生き残る」
「それは『十五へんないきもの漂流記』」
「へんな王子の銅像が、へんなツバメに宝石を配らせる」
「『幸福なへんないきもの』」
「ワトスン、壁から這い出てくるへんなものに気をつけろ!」
「『まだらのへんないきもの』」
「おーほほほ、そんな演技力でわたくしと競おうとは」
「『ガラスのへんないきもの』」
「パトラッシュ、僕もう疲れたんだ。なんだかとても眠いんだ」
「『フランダースのへんないきもの』」
「クララが歩いた! クララが歩いた!」
「『アルプスのへんないきもの』」
「女の子が小さくなってへんな連中に振りまわされる」
「ぴんぽーん。正解」
「あれっ、『へんないきものの国のアリス』じゃなくて……正解?」
「そう。もう少し詳しく言うと、金は持ってるが性格の悪い両親の間に生まれたたかびーで身勝手な女の子がへんないきものの世界に迷いこんで、へんないきものをひどい目にあわせる」
「は? ひどい目にあう、ではなくて ?」
「あー、まー、サムライアリに奴隷にされたり、サメや深海魚に呑みこまれたり、二枚貝に卵を産みつけられたり、免疫細胞軍と闘ったり、カニにかじられかかったり、毒タコにからまれたり、順不同、多少はひどい目にも、あう、かな」
「十分ひどい目じゃないですか」
「いやー、それでも、ビターでスピーディーな展開に笑っているうちに、やっぱりこの作者はニンゲンよりへんないきもののほうがかわいい、いとしいと思っているのかな、という気になっちゃうんだよね」
「はあ」
「なにしろニンゲンはへんないきものたちよりよっぽどたちが悪いからなあ」
「確かにそうですね。借りたお金は返さない。酒はたかる。仕事はさぼる。ふられた相手をこりずに誘う。部屋は汚部屋で椅子の場所もわからない」
「おれのことかよっ」

2015/03/12

交差する、パヴェーゼとDURUTTI COLUMN

Dcパヴェーゼの作品を読んでいると、ときどき遠くでディレイの効いたギター音が聴こえる。
イギリスのロックギターユニット、DURUTTI COLUMNの音だ。

DURUTTI COLUMNの曲は、リリカル、感傷的──なようでいて、聞き込むうちやがて神経質で攻撃的なタッチが聞き手の耳よりもう少し内側を浅く深く傷つけていく。アナログレコードの時代、ファーストアルバムのジャケットにサンドペーパー(紙ヤスリ)を用いたという、そのザラザラした(自他ともへの)攻撃性がパヴェーゼの文章にフィットするように感じられてならない。

イギリスのギターバンドとイタリアのネオレアリズモ小説に接点があったかどうかはわからない。ただ、DURUTTI COLUMNというユニット名はスペイン内戦時に共和国軍側で戦った伝説的なアナーキスト、ひいては彼が率いる義勇軍の名からとったものと聞く。
ヴィットリーニの『シチリアでの会話』がスペイン内戦を契機とするイタリアファシズムへの疑念、反抗だったことを考えれば、DURUTTI COLUMNとパヴェーゼを結びつけるのもあながち無茶ではないかもしれない。

2015/03/08

『故郷』『祭の夜』 パヴェーゼ、河島英昭 訳、『シチリアでの会話』 ヴィットリーニ、鷲平京子 訳 / 岩波文庫

Photo『故郷』は『流刑』同様パヴェーゼ初期の作品で、やはり逮捕、釈放された青年を主人公にしているため、最初の数十ページの間は『流刑』のバリエーションかとも思われる。ところが、主人公が監獄で知り合った若者についてその郷里に赴き、脱穀機の調整を引き受けるというだらだらした展開が続いたあげく、終盤、一転、一瞬にして世界が炎上する。
読み返せばあちこちに伏線が張り巡らされていたことがわかる。それを知ったときはもう遅い。

『祭の夜』はパヴェーゼ自死ののち、急遽イタロ・カルヴィーノによって編まれた短編集。「新婚旅行」「自殺」など、寄る辺ない女性をとことんいたぶるような作品が散見する。
パヴェーゼの作品にはよく「裏切り」が描かれるが、登場人物の本音、書き手の真実が合わせ鏡のように入り乱れて幻惑される。説明は、ない。

パヴェーゼはヴィットリーニとともにイタリア文学において「ネオレアリズモ」を興した作家とされている。これを「新写実主義」と解釈してしまうと混乱するに違いない。
先にも書いたとおり、パヴェーゼの文体は非常に抒情的で、後期の『月と篝火』にあってさえ「写実」に徹した印象はない。
Photo_2ネオレアリズモのもう一方の代表作とされるヴィットリーニ『シチリアでの会話』にいたっては、『神曲』や『ファウスト』を小ぶりに丸めて家庭版にしたような印象。これが「ネオレアリズモ」と分類される意味がよくわからない(『銀河鉄道の夜』を「写実主義」と評するよう、といえばおわかりいただけようか?)。主人公の母が、父が、さまざまな登場人物が宗教的、あるいは政治的な象徴を複層的に担うこの空想の帰郷の記録が、反ファシズム運動の狼煙となりえた当時の実情も現在の日本にいてはよくわからない。

「ネオレアリズモ」は、フランス文学などにおける「写実」の意ではなく、地方の貧しさや男女の相克、ファシズムの台頭といった「現実」によって苦しむ人々を主題に、その「現実」にあるいは能動的、あるいは受動的にからみ合っていく文学、とでも考えたほうがよさそうだ。
もう一つ、ヴィットリーニの『シチリアのでの会話』の序文など読むと、現代イタリアにおける言文一致運動、という見方もできるかもしれない。実際に使われている言葉を用いることによってしか描けない「現実」を描く、そういうことである。

しかし、その視点に立つと、岩波文庫のパヴェーゼ作品については翻訳の質を問わざるを得ない。とくに会話文が問題だ。
監獄に捕えられた者同士の(本来無頼なはずの)やり取り、農村の無骨な若者が流刑者に話しかける言葉遣い、男女の捨て鉢な睦言。それらの多くが妙に柔らかな敬語まじりの「ですます調」なのは違和感が強い。「私」や「ぼく」といった一人称もいくつかで疑問が残る。
訳者によるとパヴェーゼは作品によって語り口、文体が異なり、それがまたパヴェーゼの特徴らしい。そのあたり、気を遣いすぎたように思えなくもない。

(この項、続く)

2015/03/06

『流刑』『月と篝火』 パヴェーゼ、河島英昭 訳 / 岩波文庫

Photoチェーザレ・パヴェーゼ(1908-1950)はイタリアの詩人、作家、翻訳家。
若い女性二人の、夕闇に青春が焼け落ちる、そんな小説『美しい夏』で知られる。
1935年、トリノの知識人が反ファシズム容疑で一斉検挙された際、その一人として逮捕され、イタリア半島南端に流刑となった。翌年恩赦。
1950年、文名高まる中、トリノのホテルで服毒自殺。

いらだちや嫌悪、欲望、悔恨など、主人公の折々の感情で組み上げられた初期の自伝的作品『流刑』に対し、貧しい農村で私生児として育てられた青年が地位と財産を得て故郷の丘に戻る夏を描く後期の『月と篝火』では感傷の雫がそぎ落とされ、時の流れを俯瞰する硬質かつシンプルな表現が一種叙事的な領域に達している。
決して初期の抒情的な作品が好もしくないわけではないが、表題『月と篝火』の「月」の描かれる中盤の青く澄んだ放浪の夜、「篝火」の描かれる赤い悲劇など、静かな語り口が突きつける冷たくも熱い凄みは比較するものがない。終幕、主人公はもはや哀しむことさえ許されない。

不思議なことに、パヴェーゼの作品で若者が道を歩くと、ふっとロシア、ペテルスブルグあたりの裏道が思い浮かぶ。
『流刑』など南欧の海岸の出来事のはずが、ロシアの貧しい学生が半地下のアパートでサモワールで侘しくお茶を入れて暖をとるさまが現れて消えない。貧困、主人公の鬱屈などが共振するのだろうか?

ロシアからドイツを経てイタリアにいたる、無骨で不器用な、鉛色のつながり。
申し訳ないが、フランスはおもねることに器用すぎる。

(この項、続く)

2015/03/01

すいませんすいません 『いちえふ 福島第一原子力発電所労働記』(2巻) 竜田一人 / 講談社 モーニングKC

Photo相変わらず原発の現場作業や労務管理が詳細かつリアルに描かれており、それだけでも読み応え十分だが、その一方、作者がギターを抱えてライブバーや老人ホームを回る第十一話が素晴らしくいい。

前回

「俺の中には最前線への思いがふくらんでいた」等々とあるのだが、彼をそこまで駆り立てていったものが何であったのかは、今ひとつ明らかでない。今後連載が続くにつれ、詳らかにされていくのだろうか。

と書いたが、

震災前から老人ホームに慰問に行ったりしていたので

の一節に、ミッシングリングがスパーンと埋まったような気がする。

この作品が好もしいのは、ただ福島第一原子力発電所を描いたからではない。
こういう人も本当にいるんだ。胸に風が通るようだ。

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