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2014/09/27

クラインの… 『辻』 古井由吉 / 新潮文庫

Photo古井由吉の『辻』は、いずことも知れぬ四辻に差しかかる人の思いをキーモチーフに、親子、男女の結び合い、破綻を描く12の短篇からなる。
いずれも掌編とも言うべき短さで、会話文に「 」を用いぬ滑らかで濃密な文体中に漂う脆さ、艶めかしさに共通する気配がある。そのため、異なる登場人物それぞれ、個々人の逸話でありながら、長く、大きな神話を読む凄みに圧倒される。

「割符」という短編の

  後から考えれば、母親は息子のあまり傍には寄らぬようにしていた。

取りたててどうということのなさそうなこの一文に素通りしづらいものを覚え、栞をはさんでいた。

一つ、副詞「あまり」の位置が気になる。
すんなり読ませるなら「息子の傍にはあまり寄らぬように」でよかった。
それがここにある。すると「あまり」は係る先の「寄らぬ」がわずかに遠いため、草の根のような白く細い糸を幾本も紡ぎ、伸ばし、意図を届かせようとする。それが、ただ理屈通り、積み木のように重ねた「あまり寄らぬ」では醸せない味わいを読み手に届ける。その膨らみはどこに繋がっていくか。

もう一つ、「後から考えれば」、つまりこの一見他愛ない短い文には、母親が生きていて息子の傍に寄らなかった頃と、それを母親が死んで「後から考えた」時、さらにはそれを語る今、その三つの時が静かに、だが確信をもって練り込まれているということだ。

12の短編のいずれも、いやおそらくは古井作品の多くにおいて、過去から現在、現在から未来の時の経緯は、物差しの目盛りのように真っ直ぐ一方に並ぶものではなく、二つの、いや三つ四つの手の指が睦び合ってまたほどけ、また握り合うように断りなく時の閨で自在に繋がり、離れ、また見つめ合うものだ。
また人の思いや自身の同一性においても、別の短編「半日の花」に登場する知人のように、「目が見えない」という夢が見えたなら、それを「とうに済んでいる」と語る、そんなふうに因果が行き交う。

『辻』においては、老いて静かに壊れていく父親や孕むはずのない子供など、夢とみまがうほどに儚い、だが一方で逃れがたく確かなものがそのような非ユークリッドな時の中で死んでいく。死んでなお、明晰に語られる。

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