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2014年6月の5件の記事

2014/06/20

さらに最終巻を読んでみた 『AZUMI -あずみ-』(18巻) 小山ゆう / 小学館ビッグコミックス

Azumi第1部『あずみ』が48冊、第2部『AZUMI』が18冊。1994年から合わせて20年続いた大作だ。

ただし、「あずみ」と呼ばれる女暗殺剣士を主人公とはするものの、第1部は江戸幕府開闢当時、第2部は幕末とまったく異なる時代設定で、2人の「あずみ」の関係もとくに明らかにはされていない。
また、第2部にはキーパーソンの一人として坂本竜馬が登場するが、この竜馬は同じ作者による『おーい!竜馬』(原作:武田鉄矢)とつながっているとのこと。『AZUMI』最終巻では竜馬暗殺を強要されたあずみの苦悩とその解放が描かれる。

──と、あらましを並べてみたものの、小山ゆうについてはどう書けばよいのか、迷う。

付き合いは長い。『おれは直角』『がんばれ元気』『スプリンター』など、いずれもリアルタイムに読んできた。少年ビッグコミック掲載のSF『愛がゆく』は掲載誌がマイナーだったせいかあまり評を見かけないが、インパクトの凄まじさではコミック史上類を見ない(あまりのインパクトに読み返すのがつらい。つらすぎて手元に置いておけない)。
それなのに、どうも同時代的フィット感がない。どこか、痛いイメージがぬぐえない。

剣劇たる『あずみ』にしても、少なくともチャンバラだの勧善懲悪という言葉では説明がつかない。
剣士たちは敵方のみならず、徒党を組む味方まで苛烈な死闘の末に討ち、討たれる。殺戮のあみだくじである。斬撃は相手の腕を切り落とし、腸を撒く。

たとえば、女剣士に剣を持たせることを性的なリビドーの発現と読む見方もある、らしい。
寝食を共にし、世界(幕府)へのかかわり方を一にした者同士が最終的には切り合って、それを愛のよう、と評することもできなくはない。が、あずみ本人は性的というにはあまりに端正淡白だし、そもそもそう分析したところでその先どうしようもない(とはいえ、切られて死を自覚した瞬間の男たちの涙目、開いた口、あの小山ゆう独特の情けない表情は、射精を迎えた瞬間の男の顔と見なせなくもない)。
いずれにせよ、死はエロスの──とかいうのはバタイユ先生の領域で、よくわからないのでこれ以上つっこまない、つっこめない(おっと表現が性的だ)。

要は、性的だろうが政治的だろうが、小山ゆうの登場人物がなぜここまで頑張って切り合わねばならないのか、そこがわからない。登場人物の悲劇を読めば確かに心は動く。だが、揺さぶられるのとどこかに連れて行かれるのとは別の話だ。『あずみ』の美しい手足は、敵手の腕や臓腑をかっさばくばかりで、どこかに連れて行ってくれるわけではない。

ところで今回久しぶりに小山ゆうのアクションシーンを見て、その剣さばきを相変わらず「面」だな、と思った。あずみの剣撃は超高速だが、手首を返さないので刀の軌跡が四角い布のような面となる。これは『おれは直角』の剣の軌道や『がんばれ元気』のアッパーストレートと同じ。
これほどの直線好きが、この嗜虐的なストーリー。やはり作家とは理解を超絶した存在なのである。

2014/06/10

これも最終巻を読んでみた 『頭文字D』(48巻) しげの秀一 / 講談社 ヤンマガKC

D長編マンガには(良かれ悪しかれ)いくつかターニングポイントがある。
『あぶさん』なら景浦がレギュラーポジションをつかんだ回だったろうし、『ドラゴンボール』なら亀仙人の「最終回じゃないぞよ もうちっとだけ続くんじゃ」か。両作品ともそこから一種「暴走」が始まるわけだが、同時にこの2作が国民的な人気作に大化けするきっかけとなったことも否定できない。

では『頭文字D』のターニングポイントはどこか。
赤城山での須藤京一とのバトルに敗れ、ハチロクのエンジンをブローさせた、その回ではないか。
拓海が初めて敗北したことが問題なのではない。その後、ハチロクにレース用のエンジンを搭載したことが問題なのだ。

『頭文字D』はもともと、時代遅れでパワー面でも貧弱なハチロク(AE86 スプリンタートレノ)が名だたる強者を相手にダウンヒルで勝ちまくる、その予想外の展開がウケた作品だった。
しかも主人公は自分が公道レースをやっている自覚すらないぼーっとしたキャラクター、無敵のハチロクのボディには稼業の「藤原とうふ店」のロゴ入りだ。

しかし、エンジンを強化してしまったハチロクと拓海にはその「意外性」がない。
この時点で『頭文字D』は当初の“スタイル”を失ったのだ。

その後、拓海は高橋兄弟らと組み、「プロジェクトD」の一員としてさまざまな強敵とバトルを繰り広げることとなる。
しかし、拓海からみれば、「プロジェクトD」に参加することにはなんら必然性はない。金持ちのボンボンとチーム組んで公道レース限定で勝った負けた、だから何だろう。同じステージのメンツ相手に勝ち続けることを「お山の大将」というのではなかったか。

作者もそのあたり煮詰まっていたのだろうか。終盤は毎週8ページか10ページ、峠のS字カーブをギャロワンゴワワワと車が並走するばかりで、吹き出しのない暗いページが延々続いたあげく、ようやく訪れた最終巻。

最後のバトル、ゴールラインを先に踏んだのは拓海だが、どう読んでも内容は大惨敗。作者は拓海や「プロジェクトD」に心底うんざりしていたのだろうか? どうしてそんな事態に陥ってしまったのか、1巻2巻さかのぼって確かめる気にもなれず。

アニメや映画、DVDでの権益でがんじがらめになって連載を引き延ばした挙句、輪ゴムが切れるように打ち切る? 悪い終わり方の見本のようだ。残念でならない。

2014/06/09

最終巻を読んでみた 『あぶさん(107) 大吟醸あぶさん』 水島新司 / 小学館ビッグコミックス

Photo_2連載期間(1973~2014年)、単行本巻数(107巻)とも問答無用の長寿連載マンガの1つ。
主人公・景浦安武がホークス(当時南海)に入団し、ダイエーホークスを経てソフトバンクホークスを退団するまでと内容的にもIN/OUTがきっちりしている。

連載開始当初は、酒で身を持ち崩した主人公が長打力を買われて代打一本でプロ入団を果たす話だった。
そこに藤原チャイや佐藤ミチ、大沢監督など実在のプロ野球選手をからませ、「仕事」としてのプロ野球の骨太な凄みを伝え、大人の野球マンガとして楽しませてくれたものだ。
単行本でいえば7巻か8巻あたりまでか。先の展開も読めず、本当に面白かった。
南海ホークスが低迷して野村監督が更迭されたとき、連載打ち切りも検討されたそうだが、読み手もその寂寥感あふれる野村の後姿にプロの世界の厳しさを垣間見たものだ。

その後、連載開始当時には考えられなかったことだが、レギュラーとなったあぶは

 ・三冠王3回(1991 - 1993年)
 ・首位打者4回(1991 - 1993年、2007年)
 ・本塁打王6回(1986年、1991 - 1995年)
 ・打点王4回(1991 - 1993年、1995年)
 ・シーズン打率.401(456打数183安打)(2007年)
 ・シーズン56本塁打(1994年)
      (ウィキペディア、「景浦安武」の項より)

等、数々の記録を達成する……これはもうマンガ。マンガだから、としか言いようがない。
初期のファンとこの時期の読み手が同じ層なのかどうかもよくわからない。
少なくとも自分はまったく読む気を失って今にいたった。

最終巻がホームドラマのような、何かスポーツマンガではないものだったことについては言ってもしかたない。ここしばらくの『あぶさん』はそういう作品だったようだ。
ただ、淡々としたワンアイデアの人情ドラマの好まれるビッグコミック誌上で、この最終巻は決してレベルが低いようには見えない。職人水島新司は健在だ。

一つだけ文句を言わせていただくなら、最終巻にスカウトの岩田まで登場させながら、野村元監督を描かなかったのはなぜだろう。
納得がいかない。南海ホークスの、緑の背表紙が泣く。

巨木倒す ~長編マンガの最終回~

ここしばらく、『あぶさん』『あさりちゃん』『鉄腕バーディー』『頭文字D』『ああっ女神さま』『あずみ(AZUMI)』など、長期にわたった連載マンガが最終回を迎えている(『美味しんぼ』も間もなくかもしれない)。

その最終巻の評判が、あまりかんばしくない。
Amazonのレビューなど読んでもいずれも低調。むしろ酷評が多い。

長寿マンガが最終回を迎える背景には──作者が飽きた、内容を維持できなくなった、人気が落ちた、掲載誌廃刊、不祥事、など、それぞれの事情があったに違いない。となれば好評時の水準で終わるのは困難だったろう。
それでも、心に残る締め方ができるかどうかは作品の価値として大きい。

『あしたのジョー』は、力石戦後、一時は次々現れる奇天烈な強敵を打ち破っていくだけのB級対戦アクションマンガと化していた。それが、あの、真っ白に燃えつきた最後の1ページをもって永遠の名作と評されるにいたった。
『巨人の星』や『めぞん一刻』『SLAMDUNK』等も、最終巻の盛り上がりなしにはその価値を語れないだろう。

最近終わった作品の最終回はどうだっただろう。

2014/06/03

Die versunkene Glocke 『メディアの苦悩 28人の証言』 長澤秀行 編著 / 光文社新書

Photo_2ここ数年、テレビや新聞を「オワコン」「マスゴミ」扱いし、その凋落を取り沙汰した書籍、雑誌は枚挙にいとまがない。
本書『メディアの苦悩』もメディアの危機を憂う1冊ではあるのだが、想像していたよりは格段に良書だった。

編著者の長澤秀行氏は、電通入社後、新聞広告を15年間担当、インターネット創成期にはデジタル・ビジネス局局長としてヤフーなどのネットニュース事業の立ち上げに携わり、のちサイバー・コミュニケーションズ代表取締役社長としてメディアレップ事業(インターネット広告の一次代理店業)を指揮。つまり、新旧メディアの現場で広告業を展開、実践してきた辣腕の人物、ということである。

その長澤氏が選んだインタビュー対象者の幅は広い。
大手新聞役員、テレビ局役員、ヤフー・ドワンゴ・ツイッター・ミクシィ・LINEなどのIT企業関係、ジャーナリスト、批評家、大学教授、広告クライアント……。

その28人が、それぞれ自らのかかわるメディアの都合の悪いところ、よいところを臆さず語る。
各メディアはさまざまな問題を抱えているが、いたずらに後ろ向きになるわけではない。いずれタダモノでない語り手ばかりである、全ページ、鋭い警句(と若干の身びいき)があふれる。
従来のメディア亡国論と異なるのは、語り手の幅を広げたことにより、よしんば紙の新聞やテレビの状況が危機的であったとしても、ダメ/ダメでないという二律背反のみに与せず、どのような生き残り方があり得るか、共存の可能性まで話題が広がっていることだ。

残念なことに編著者の物分りがよすぎて、語り手の言葉をその都度すんなり肯定してしまう。そのため、1冊の書籍としてみると、今後メディアがどちらに向かうべきか、そのあたりの主張ははっきりしない。
個人的意見としてでも、甘いものは甘い、切るべきものは切る、そんな姿勢も必要だったのではないか。
それでも、メディアの行く末を読み手各自がさまざまなスタンス、アングルから考える契機となる、その点をとっただけでも十分推奨に値する。よい意味で非常に疲れる本、ということも追記しておきたい。

なお、本書の別の(意地悪な)楽しみ方として、5年ばかり経って読み返すのもあり、と思う。
ここに取り上げられた多数のメディア、サービスのうち、はたしてどれが5年後も生き残っているのか。あるいはここにまだ登場していない全く新しい何かが覇者として君臨しているのか。
(たとえば本書ではハフィントン・ポストを比較的高く買っているようだが、オーマイニュースが苦戦したことを考えると、易々と成功するかどうか……。)

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