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2014年5月の6件の記事

2014/05/28

悪酔いトラップス 『魔術師(上・下)』 ジョン・ファウルズ、小笠原豊樹 訳 / 河出文庫

Photo_3蝶コレクターの青年が若い女性を誘拐、監禁する映画『コレクター』(1965年、ウィリアム・ワイラー監督)の原作で知られるイギリスの作家ジョン・ファウルズの小説第2作。
久しく品切れで、やむを得ずAmazon経由で古書を注文した。

セクシーな恋人アリスンを捨て、英語教師としてギリシャの島に渡った主人公の青年ニコラス・アーフェ。その島の別荘で出会った裕福な老人モーリス・コンヒスは、途方もない手間をかけてニコラスの前に劇、劇中劇、劇中劇中劇を仕掛けてくる。ニコラスの恋人役を演ずる美しい双子の姉妹の言葉も二転三転翻る。はたしてコンヒスの目的は。本当の真実は。

頓狂な例えだが、要は「自由」と「裏切り」という2つのテーマを柱に、スヴィドリガイロフ風な魔人とそれに翻弄される若者を配置し、ダボスのように閉ざされた空間で主人公の独白と怪人のレクチャーを数限りなく織り重ねたような長編。
ちなみにミステリ小説のように明確な解があるわけではない。

恋人アリスンとの出会いから別れ、老人との出会いを描いた上巻はやや冗漫、一方、下巻はやり過ぎと言うも空しいジェットコースター的怒涛の展開で、筋を追うだけで船酔いならぬ本酔いを誘う。長編好きならこのグロテスクな酩酊感を味わうためだけで読んで損はないだろう。

ただ、きらびやかな挿話やアフォリズムが今ひとつ心の深いところに刺さらないのは、主人公がオックスフォード卒の気取った文学青年、階級意識丸出し、男尊女卑の身勝手君という設定だからだろうか。
罠を仕掛ける謎の老人の手練手管にとことん付き合ってしまうのは自身の見栄とプライドのためである。要は、作品も登場人物も(老人役のコンヒスさえ)若いのだ。

様々な価値観が崩壊した──ということになっている近頃の純文学の主人公なら、もう少し世代や階級意識などは振り切っており(振り切ったことをウリにしており)、女にフラれようが年長者にコケにされようがそれはそれと認めてしまい、逃げ出すことだって構えず観客に徹することだって可能だったろう。こんなにまで蜘蛛の巣にからめとられることはなかったに違いない。
一口に言えば恥をかくのを避けようとして、さらに赤っ恥をかかされた、そういうことだ。大した話ではない。

Photo_2たとえば、下巻、奇妙な仮面裁判の後、ニコラスがある行為を自制する場面がある。
彼をその行為から押し留め、さらに続くシーンで目をそらすのはイギリス人としての彼の硬直した選民意識やプライドのためだろう。いいじゃないか、気にせずじゃんじゃん裁き、がんがん覗き込み、語ってしまえば。それが「参加」ということではないか。

こういった頭でっかちゆえの難点は、書かれたのが第二次大戦直後でそれから年月が経っているため……だろうか?
いや『罪と罰』や『魔の山』が書かれたのはこの作品より以前だけれど、本筋のところではさほど古ぼけた印象はない。
「理に聡い」イギリス文学の悪い面が出たか、という気もする。あるいは、ストーリーテラーとしては一流でも、思想家としては凡庸、とでも言おうか。コンヒスがニコラスを連れて行こうとした先が、終盤、リリー・デシータス夫人が語るようなものであったなら、それは文学の世界ではもう手垢のついた、古い靴下に過ぎない。

それでも──しつこいようだが、下巻の展開、あるいはラスト数ページの喪失感たるや壮絶だ。
主人公に親近感は持てないが、それでも届くものがあることは否定しない。
砂漠に捨て置かれるより恐ろしいことは、ある。

2014/05/18

わたしはこの世界から消えるはず 『俺の心臓は彼女にしか撃ち抜けない』 西森博之 / 小学館文庫

Photo この表紙、このタイトル。加えて主人公の高校生・杵屋孝志は中度のアニオタ、妹属性。ヒロインは「この世に存在してはいけないほど」美しい巫女・霞。となればこれは天地神明、アキバの神に誓ってキャラものライトノベルに違いない。
だが、マンガ家西森博之による小説第二弾は、読み進める過程においておよそライトではない。
なにやら途方もない喪失感、寂寥感にあふれているのだ。

──アニオタを公言して穏やかな日々を送っていた孝志。彼は始まってたった8ページには、ふと立ち寄った神社で雷に打たれて意識を失ってしまう。目覚めた孝志に超絶美少女の巫女・霞が告げるには、孝志は神に選ばれて無敵の超人となったというのだ。ところが孝志は世界を手に入れることなどより身の丈に合った幸福にしか興味を示さない。妹役を演じる霞との静かで幸福な日々。だが、神に選ばれたのは孝志だけではなかった……。

中盤からは俄然敵キャラの黒さが際立ち、西森らしい入り組んだバイオレンスシーンも描かれる。

作者はオーソドックスなSFの愛読者だったのか、全体の構図はいかにも星新一や小松左京のショートショートにありそうなもの。
文章は前作『満天の星と青い空』に比べ格段に手慣れており、また大小のイベントをテンポよく用意して飽きさせない。さすがに週間連載で鍛えられた印象だ。

それでも、やはりマンガでは書けないものを、という意思があったのか、繰り返すが全編を覆うのは尋常ならざる喪失感、寂寥感である。霞は始まって21ページめですでに「少しだけ寂しげに見え」と喪われる者として暗示され、繰り返し自らが架空の存在であると訴える。

敵は狡猾だが、大切なものを喪いたくないと思い立ったオタクはヘタレに見えて意外や強い。いや、守るべきものを持たない者が強いはずはない。オタクこそは周囲にとらわれず自らが守りたいものを真っ直ぐに守る強者なのだ。

2014/05/12

俺がこれで終わりにしてやる 『満天の星と青い空』 西森博之 / 小学館

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少年サンデーで『今日から俺は!!』『天使な小生意気』『お茶にごす。』『鋼鉄の華っ柱』など、暴力とエスプリにあふれるとんがった(髪の毛の人物が活躍する)作品を発表し続けてきた西森博之が、実は小説を書いていた。

ふめい【不明】
②才知の足りないこと。事理に暗いこと。識見のないこと。「おのが―を恥じる」

広辞苑を引いて猿より深く反省する。事理に暗い。識見がない。くくくぅ。

反省はさておき、取り急ぎ日本橋丸善でまず単行本の『満天の星と青い空』を買ってみた。
読んでみた。
──素晴らしい。

隕石に付着して地球に到達した微生物のため、地球上の金属は急速に腐食され、世界の文明は数日で崩壊してしまった。修学旅行で京都にきていた高校生たちは、東京を目指して徒歩の旅に出る。
主人公の高校生、中澤真吾は、「目に輝きはない。真っ黒なのだ。暗い虚ろな眼差し、しかし何か強い迫力がある」、という氷の魂と圧倒的な戦闘力をもつバーサーカー。
そんな中澤が、クラスメートの“小動物”水上鈴音の真っ直ぐな心根にあおられて少しずつ変わっていく。しかし、彼らの背後には凶悪な暴力の手が迫っていた。

文体は箇条書きで荒い。サバイバルな設定はよく言えば全盛期SFへのリスペクト、悪くいえばありきたり。構成も慣れてない印象で、中澤のツレの横山が(おそらく頭脳戦で)敵のザコキャラを片付ける場面は紙数の都合で切り落とされたに違いない。質量保存の法則は。鉄が喰われるなら赤血球中のヘモグロビンは。
……などなど、気になる点をあげれていけばキリがない。だが、読後感はとてもいい。

思わず「夏休み小説」という言葉が転がり出てきた。
山中恒『ぼくがぼくであること』など、少年を主人公にした作品にまま見られる、主人公が一定期間日常から切り離され、そこで見知らぬ人々と出会い、戦い、ほのかな恋慕を覚え、成長していく物語。

西森博之は『満天の星と青い空』を書いた後、本職のマンガ業に戻り、あの快作『お茶にごす。』を発表する。『お茶にごす。』の悪魔(デビル)まークンやその僚友山田、勝気な夏帆らのキャラ、それぞれの関係や掛け合いに、本作のシェイプアップされた姿が追える。だが、油まみれのエンジンやシャーシが剥き出しになった本作の魅力もまた、捨てがたい。

ところで、『満点の星と青い空』の美しいラストシーンでは、Janis Ianの“You Are Love”が轟々と鳴り響く。わかる人だけわかってください。

2014/05/08

メビウスの喜悲劇 『迷宮の美術史 名画贋作』 岡部昌幸 / 青春新書INTELLIGENCE

Photo 青春出版社と聞くとつい「試験にでる贋作問題……ああ、しけ贋ね」などとつまらないボケをさらしてしまうのが昭和世代だが、実際、よくも悪しくもそういう作りの新書である。
古今東西の贋作事件を手広くピックアップして、さほど色遣いを変えず列挙。必要以上にあおらず騒がず、各章ともいつどこで誰がと整理整頓も行き届いて読みやすい。

ところが、そんな親切な1冊が前回紹介した『世紀の贋作画商』と並べたとたん灰色に靄っていく。

たとえば有名な(国立西洋美術館まで巻き込まれた)ルグロ事件において、贋作を売り散らかした主格がルグロ本人であったことはさておき、真作の画家さえ惑うほどに優れた贋作を実際に描いた人物は果たして誰だったのか。
『世紀の贋作画商』が最後に贋作を告白したレアル・ルサールを取材対象としたのに対し、本書『迷宮の美術史』では先に告白したエルミア・ド・ホーリー(映画『オーソン・ウェルズのフェイク』のモデルでもある)を真の(?)贋作者とし、ルサールにはほとんど目もくれない。1000点以上の贋作を描いたと主張するホーリー、かたや「自分の持っていたすべての作品はルサールが描いた」というルグロの遺言書の写しを振りかざすルサール。

つまるところ贋作の世界は「黙った者勝ち」「言った者勝ち」、誰が勝者で誰が敗者かなぞ、結局誰にもわかりはしない(もしかしたら当人たちにも)。

糊口しのぎで贋作商売に手を染め、誰に何を売ったか覚えていないような詐欺師はさておき、もともと優れた技術を持ち合わせていた画家がふとしたきっかけで贋作詐欺にはまっていく経緯はもの悲しい。だが、奇妙なことに、彼らは、ことが発覚しかけると一転、胸を張って自分こそ贋作の主だと主張したがる。それに対する刑罰も案外と軽い。
そんな陽性の贋作者たちの中、自身の真作を指差して贋作と叫ぶキリコの晩年はとことん痛々しい。
真贋の裏表は悲劇、喜劇のカードのめくり合いでもあるようなのだ。

2014/05/07

真贋のシーシュポス 『世紀の贋作画商 「銀座の怪人」と三越事件、松本清張、そしてFBI』 七尾和晃 / 草思社文庫

Photo 解任された岡田茂社長が役員会で発した「なぜだ!」が流行語にもなった三越事件。
1982年のこの事件が耳目を集めたきっかけは、三越本店「古代ペルシャ秘宝展」の出展物の大半がニセ物であるとの新聞報道だった。
その贋作を三越懇意の画商に持ち込んだのはイライ・サカイというユダヤ系イラン人である。イライはその後も、9.11テロ関連捜査からFBIに逮捕されるまで、銀座・並木通りの画廊街を介して日本に底知れぬ数の贋作を雨あられと持ち込み続けた。

作者はFBIの捜査官、画廊店主、イライの妻の父らの証言を経て、やがてアメリカ、ロングアイランドでイライ本人に迫る。また一方、空前の贋作事件として知られるルグロ事件において贋作者となった天才画家、レアル・ルサールをブリュッセルに追い、これもまたインタビューに成功する。

美術品が「貨幣」として機能するとき、真贋については誰もが口を閉ざす。要はその美術品で大きな金が(あるいは逆に、小さな金で大きな資産が)動けばそれでよいのだ。
そして、イライが逮捕されても互いを横目に見ながら黙り込む銀座の画廊街。息をひそめる鑑定家、美術館。

本書は日本のバブル期前後、長きにわたって銀座に暗躍した謎の怪人イライ・サカイを描くとともに、そこに浮かび上がる一種の美術品利権の構造を浮き彫りにする。力作だ。

ただ……大げさな口ぶりや著者自身の感懐が目立つ割に、肝心なこと、確かなものが靄の向こう側にある、そんなフラストレーションが随所に残る。
防弾チョッキを着込んでまでイライの店に押しかけ、インタビューに成功する過程は詳細なのに、イライの語った内容は断片的。被害にあった画商たちの言葉も、また。

どこまでが意図的なのか、章立てが入り組んでいて、現在、事件の起こった時期、著者が関係者へのインタビューに成功した時期それぞれが相前後し(直接は関係ないルグロ事件に紙数を割いたこともあり)時間軸もひどく捉えづらい。
もっとも、その結果、たまたまかもしれないが美術品の真贋のもたらす靄の深さをより正確に伝えている、そんな気がしないでもない。
これらの是非はさておき、一読を推奨したい。もう一度書いておく。力作である。

2014/05/03

なおも読む 『鼠、江戸を疾る』(以下現在まで7巻) 赤川次郎 / 角川文庫

Photo 赤川次郎のミステリと言えば、(失礼ながら)堅牢な構成やトリックの巧みより、会話や改行が多く、あっという間に読めてしまう印象が強い。
もちろん、すらすら読めるのは立派な才能であり、ひとたび体が赤川次郎の軽さ、ゆるいユーモアに馴染んでしまうと、二度とほかの作家に戻れない、という声も耳にする。

……と思いきや、ここにきて、鼠小僧。
赤川次郎が時代劇? といぶかったら、やはり初めてらしい。五百数十冊めで初めての時代劇。
とりあえず『鼠、江戸を疾る』から読んでみた。

実に面白い。

 四尺幅の廊下を、鳥の羽根が撫でるように軽々と進んで来た足が、ピタリと止った。

この書き起こしから、素晴らしい。「四尺幅」に現代劇ではないぞとの標が見える。おそらく朝夕に下女の雑巾で磨かれた廊下、そこをひたひた歩む賊の足は「鳥の羽根が撫でるように」軽い。その鋭い耳がそば立つのだ。事が、起こる──。

江戸を舞台にした時代劇が、指紋や物証にこだわらない赤川テイストに合っているのかもしれない。
一篇一篇、権力をこらしめ、弱きを助く〈甘酒屋〉次郎吉こと鼠小僧、その妹で小太刀の名人、小袖、この二人の活躍がすっきり描かれる。いずれも短い中に事件は込み入ってほろ苦く、大人の味わいである。

また、この手のシリーズ作品では回を追うごとに主人公周辺に馴染みの脇役が膨張していくことが多いが、本作には鼠を執拗に追う銭形だのライバル五右衛門だの大八車で待つ次元だの、そういった者は出てこない。三冊目でようやく常連が二人増えて、それ以後も増えない。つまりは抑制が効いているのである。

さすがに六、七冊めとなると場面描写など慣れた読み手に期待する一種の手抜きか、悪人が抜刀したとたん小太刀を受けて(つまり小袖に倒されて)呻いている、そんな展開もなくはない。
それでも全体の艶と古色は実にいい感じで、これはひょっとすると赤川次郎の平成の代表作の一つになるかもしれない。

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