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2014年1月の5件の記事

2014/01/30

くちびるのアニメ史 『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか アニメーションの表現史』 細馬宏通 / 新潮選書

Photoカエルの着ぐるみを用いた缶チューハイのテレビCMが放送中止となった。「キャラクターを使った表現方法が未成年者の関心を誘い、飲酒を誘発しかねない」とかいった指摘を受けてのことらしい。およそ未成年にウケるキャクターとは思えないのだが……。

それはさておき、気持ちの悪いカエルではあった。
「タカオ、タカオ」と相手を呼び捨てにするなれなれしさに加え、口元がよく動くわりに音声と噛み合わず、神経にさわったのである(たとえば「踊ってるねえ」の「え」で上下に大きく口が開く、「よかった」の「た」で口を閉じる、など)。

このように、映像の口元と音声を合わせることを「リップ・シンク」という。シンクはシンクロナイズのシンク。
「わわっ」という音声には大きく口を開き、「むむっ」には唇を閉じる。
このリップ・シンクをはじめ、黎明期のアニメーションの表現、とくにのちに発達した音声や音楽との同期に着目したのが本書『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか アニメーションの表現史』だ。

著者は巻頭で、まず、世界初のアニメーション映画と言われる『愉快な百面相』(1906年)を取り上げる。
黒板にチョークで描かれた男女。それがわずかに書き換えられ、やがて黒板消しで消されるというだけの短い作品だが(探せば動画サイトで簡単に見つけることができる)、これはいったいどういう状況を示しているのか。それを知るためには当時の映画がいかなる場所で上映されていたかを知らなくてはならない。そしてそれは、『愉快な百面相』に続くあれこれのアニメーション作品にどのような形で受け継がれていったのか。
著者は一つひとつの作品を繰り返し見直し、それぞれの場面や音響に秘められた謎を説き起こしていく。それは当時の人々の趣味、嗜好、またアニメ制作者たちの苦心を掘り下げていくことでもあった。

当時(20世紀初頭)の上映館では、サイレント映画に生演奏で音楽が合わされていた。また、「イラストレイテッド・ソング」といって、映画と同じスクリーンに歌詞を投影し、演奏に合わせて観客が歌う、今でいうカラオケのような演目もあった。
著者の探究は、そんな時代のアニメーションの口元に向かう。
ミッキーマウスの出世作「蒸気船ウィリー」、ベティ・ブープ、トムとジェリー、バッグス・バニー。
各ページは新鮮な驚きと論理で満たされ、退屈を感じる暇もない。ごく初期のアニメーション作品、リトル・ニモや恐竜ガーティーの豊かさ。トムとジェリーの音楽の、哲学的なまでの深み。「th」の発音時に律儀に嘴から舌を出すダフィー!

できれば動画サイトなどで当時のアニメーション作品の一つひとつを見ながら読みたい。
背骨の通った良書である。

2014/01/26

善玉菌悪玉菌 『ジェノサイド(上・下)』 高野和明 / 角川文庫

Photo2011年の作品。
かねてより「このミス」1位のベストセラーとはあまり相性がよくないので、急がず騒がず文庫化を待っていた。
(単行本が分厚くて、鞄に持ち歩く気にならなかったということもある。)

謎の組織に追われながらの新薬開発(日本)、ホワイトハウスでの権謀術数(アメリカ)、部族闘争の中での救出劇(コンゴ)。
クロスカッティングされるそれらが一つにつながったとき、明らかになるものは……なるほど、スピーディでダイナミックな展開はハリウッド大作的で、まれに見るページ吸引力である。

最新科学や戦闘に関する薀蓄を表に出したスタイルは小松左京の『継ぐのは誰か?』や『復活の日』を思い起こさせる。内容にまるでフィットしない『ジェノサイド』などというタイトルより『新 継ぐのは誰か?』への変更を推したいほどだ。

ただ、小松の作品群が新しい世界観呈示を目論んでの(やや無謀な)試行錯誤だったのに対し、『ジェノサイド』はあくまでエンターテインメントに留まり、読み手がなんらかの新しい世界観にいたる契機とはおよそなり得ないようにも感じた。
悪い意味でも善玉悪玉のはっきりしたハリウッド大作的で、勝ち負けが判明した時点でそれほど再読したい気持ちがわかないのはそのためかと思う。
高野和明を読むならほかの作品をお奨めする。

2014/01/20

顔の中 『黒い蜘蛛』 ゴットヘルフ、山崎章甫 訳 / 岩波文庫

Photoクモつながりでもう1冊。

カバーの惹句には「作者(1797-1854)は、ケラー、マイアーとならびスイスを代表する国民作家」とあるが、そもそもケラーさんもマイアーさんも存じ上げないのでどうしようもない。とりあえず作品名に魅かれて網にかかってみた。

本作は牧歌的なスイスの谷の村を舞台に、初孫の洗礼の日、招待客から家に汚い黒い柱が使われている由来を問われた祖父がその来歴を説明するというもの。
それは、プロローグののどかな雰囲気を一転させる、悲惨極まりない話だった──。

物語は上記のとおり、現在の枠の中に過去の二度の出来事が収められている。
二度というのがポイントで、つまり今後も神への信仰をおろそかにすれば惨事が再現するだろうという仕掛けである。

事件そのものはヨーロッパ中世の民話にままある、悪魔と取り引きした者は必定悲惨な目に遭うというもの。なお、本作の元となる民話は発見されていないそうで、もしかすると一から八までゴットヘルフの創作だったかもしれない。古い民話とみるとあまりに細部が生々しく、厭わしいのだ。

その厄災、つまり致死の毒をもつ黒い蜘蛛の跳梁跋扈はこの地に二度起こった黒死病(ペスト)の流行を象徴している、との説もある。とすれば、最初に災禍に巻き込まれたのが向こう見ずな余所者女だったことにも説明がつく。

しかし、本作の禍々しさはそんな小理屈では片付かない。

わらわらと湧いて死を撒き散らす黒い蜘蛛を執拗に描く作者の筆遣いは1842年という発表年度を考えるとかなりスプラッタかつ悪趣味で、つまりは教条的観点から人間の身勝手、無責任を責めるという構図をいいことに、悪意の暴虐を書きたいままに書きたかったというのが本音ではなかったか。

ならば逆に、プロローグとエピローグの晴れた谷の風景、赤ん坊の洗礼にまつわる和気あいあいとした会食のやり取り(飲食を断れない代母さんがことに愛くるしい)もまた、作者の書きたかったことに違いない。

そのように考えてみるときわめて現代的、自由な作品のようにも思われ、なんというかちょっと好もしい。

2014/01/14

からだの中 『紅グモ』 楳図かずお / 朝日ソノラマ サンコミックス

Photo_2クモといえば『紅グモ』でしょう──となんの気なしにウィキペディアで「楳図かずお」を検索して驚いた。作品リストに『紅グモ』がない(2014年1月14日現在)。それはよろしくない!
『紅グモ』は1965年から66年にかけて少女フレンドに連載された作品。『へび少女』や『肉面』など、怪奇マンガ家のペンがノリにノッていた時期の作品の1つだ。

サンコミックス版を取り出して久しぶりに読み返してみた。ふうっ、やっぱり凄い。
もちろん半世紀も昔の作品である、絵柄は「ぬり絵」だしコマ割りも単純だ。
しかし現在の目から見ても、「これでもか」とばかり読者を怖がらせる手法の連発には圧倒される。

物語は「クモきちがい」(初出)を父にもつたか子と美也子という仲の良い美姉妹の視点で語られる。そこに恐怖マンガ定番の「あたらしいお母さん」登場! 彼女は目や鼻から動物のからだに入り込んで食い散らす「紅グモ」を利用して、その家の財産を奪おうとしていた……。

前半は、この継母の策略に紅グモを飲まされてしまったたか子の恐怖を描く。
まず特筆したいのが、『へび少女』などに共通する、不気味なモノを飲むことで自らが徐々に化け物と化してしまう状況である。それは外から怪物が襲ってくる状況とはまったく別次元の、生理的な恐ろしさだ。意図せず口からクモが飛び出す。糸が吐き出される。

紅グモに入り込まれたたか子は苦しんだあげく死んでしまうが、埋葬時にクモ毒から抽出された防腐剤を注射され、墓の中で息を吹き返す。いわゆる「早すぎた埋葬」だが楳図はそんな設定も数ページで素通りし、どんどん先に進む。ガリガリと墓を掘り返して復活したたか子は(これまた定番)白髪の老婆となってしまっていた。しかも体内には紅グモを抱え、彼女自身がクモの化け物と化しているのだ。ここまでたったの50ページ、速い。

全体を通して巧いと思うのが、迫りくる紅グモに対し、たか子や美也子が頼りにすべき周囲の者たち、クモ研究者の父親さえその恐怖を十分理解してくれないこと。ストーカーなどという言葉のなかった時代だが、楳図のペンは的確に現在のストーカートラブルに通ずる被害者の絶望を刻む。

このほか、本作には嵐の夜に窓の外から覗く怪しい影、壁や屋根をスルスル這いまわる異形の化け物、階段で引きずり上げられるヒロインなど、楳図得意の構図にあふれている。
勧善懲悪という観点なら巻の半ばで終わるべきところ、紅グモの恐怖がさらに広がっていくところも注目に値するだろう。恐怖の被害者を往々にして次シーンで加害者に据え換える、楳図かずおは優しくないのだ。

『紅グモ』はクモをモチーフとした恐怖マンガの傑作、というだけでなく、恐怖マンガそのものの典型としてもっときちんと再評価されるべきではないかと考える次第。たとえば、、、ごほん、ぺっ。や? 口からクモが。ササササ。

2014/01/11

森の中、家の中 『クモ学 摩訶不思議な八本足の世界』 小野展嗣 / 東海大学出版会

Photo子ども時代を過ごした田舎の家では、夏になると目覚し時計より大きなアシダカグモがヒタヒタと壁を這った。壁ならまだしも畳の上も這った。ある夜、枕元に現れた大物をハエタタキでひっぱたいたところ、彼女(だったろう)の抱えていた白い卵嚢から子グモが雲のように涌いて……その後は記憶が飛んでいる。

  【参考(閲覧注意!!)】 アシダカグモ

『クモ学 摩訶不思議な八本足の世界』の著者は国立科学博物館の動物研究部主任研究官、クモ学国際学会の日本代表委員でもある。
ちなみにこの学会では参加者の袖や襟元からクモの足がもぞもぞ見え隠れし、壇上の発表者が咳込むたび口から白い糸が吹きこぼれ、換気孔には毒グモが巣くって会場のホテルが一般人出入り不能に陥るそうだ(嘘です、すみません)。

冊子はA5判、220ページあまりとやや薄め、目次も

  クモの生理学
   1章 クモの息づかい
   2章 織姫の履歴書
  クモの生態学
   3章 クモの一生
   4章 クモの日常と非日常
  クモの形態学+生物地理学
   5章 摩訶不思議な八本足の世界
  クモの進化学
   6章 クモの系図
  クモの人間学
   7章 タランチュラは毒グモか
   8章 セアカゴケグモ事件
   9章 クモ学への招待状

と少々バラついており、つまるところ「クモ学」というより「クモ学へのイントロダクション」として網を張り、クモの生態について啓蒙することを目的とした印象だ。
ただ、クモの生理、生態、形態について記されたあらゆるページは新鮮な驚きにあふれ、日頃忌み嫌われるクモの複雑精妙な生態にただもう圧倒される。

たとえば尻から吹いた糸を風に流し、大陸さえ渡る子グモの旅(膨大な数の子グモが海の藻屑と消える)、あるいはメスの牙先に飛び込んで食べてくださいと言わんばかりのセアカゴケグモのオスの自殺的な交尾。アリグモは獰猛なツムギアリそっくりに擬態してその攻撃を避け、タナグモやヒメグモの一部は食べたものを吐き戻して(スパイダーズミルク)子グモに口移しに給餌する。

そのような生態の折々に利用される糸。クモといえば「八本足」の印象が強いが、むしろ著者も書いているとおり「クモの一生には終始、糸が道具として使われる」、これこそがクモのアイデンティティなのだ。

それにしても──同じ節足動物でもクモは昆虫より原始的とされているようだが、そんなクモが擬態を演じたり、子育てに勤しんだりするさまを思うと不思議の感に打たれる。
高等とか下等とかいうことではない。クモはクモで哺乳類とは異なる進化の幹をたどり、まったく別の非常に高い枝にまで到達しているのではないか。

そして、クモがなぜ気持ち悪いかといえば、その姿や動きもさりながらが、実のところ(人間とは別種の)高い領域に到達して静かにじっとこちらをうかがっている、あの気配のせいではないだろうか。
おそらく彼らには、何もかも──わかっているのだ。

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