果てなき転落の物語 『マンク』 マシュー・グレゴリー ルイス、井上一夫 訳 / 国書刊行会
新春のことほぎとて取り上げ奉るは『マンク』(「破戒僧」の意)、敬虔な青年僧が肉欲に目を眩ませ女犯はおろか人殺しまでして果てる、誠にぎにぎしくおめでたい物語なり。
主人公アンブロシオは、カプチン教会の僧院長にして信仰篤きことでマドリッド中の尊敬と崇拝を集めていたが、僧院に入り込んだ妖女マチルダの誘惑に他愛なく戒律を破り、やがては黒魔術、薬物使用による強姦、近親相姦、殺人等々悪徳の限りを尽くす。
運命に弄ばれる数組の男女に古城の幽霊まで動員してルイスの筆は縦横無尽、当時のやんごとない衆生が人前では眉ひそめつつ寝室で密かに読み耽った趣きも推察できれば、のちの詩人やホラー作家がマチルダの妖美な誘いを端緒に身を堕としていく主人公に自らの様々な夢を推し嵌めた運びも想像に難くない。
詩人バイロンはその風刺詩「English Bards and Scotch Reviewers(イギリス詩人とスコットランド批評家)」にて作者ルイスについて
Oh! wonder-working Lewis! monk, or bard,
Who fain wouldst make Parnassus a churchyard!
Lo! wreaths of yew, not laurel, bind thy brow,
Thy muse a sprite, Apollo's sexton thou!
と謳い、アンドレ・ブルトンは主著『シュルレアリスム宣言』において
文学の領域では、ただ不可思議だけが、小説のような下位のジャンルに属する作品や、概して裏話の性質をもつすべてのものを、みのりゆたかにできるのである。
……この本がはじめからおわりまで、世にも純粋なかたちで、地上をはなれたいと渇望する精神の一面だけをもっぱら称揚していること、……
(巖谷國士訳)
等『マンク』に異例の行を裂いている。
ただ、少し前に放送された「所さんの目がテン!」でもイギリス人は古い洋館に「幽霊が出る!」と威されても存外平気なのに比して「悪魔がいる」と囁かれると恐れ慄くのに対し、日本人はその逆、という有り様が紹介されていた如く、そもそも日本人には「悪魔」を恐ろしいもの、「破戒」をあらざること、と捉える用意がない。
ためにどうしても『マンク』を大仰な昼メロのようにしか読めないところがあるのだが、それでもこの昼メロは翼の規模といい闇といい、なまなかでない。ましてこれがルイス齢十九の成果と聞くとその無造作なばかりのダイナミズムに驚く。
……ただ、この表紙カバー、何とかならないか。映画とタイアップといっても、写真は帯までがならい。まして天下の怪作にこの写真はなかろうものを。
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