フォト
無料ブログはココログ

« 2012年9月 | トップページ | 2012年11月 »

2012年10月の3件の記事

2012/10/29

あの窓、動いていません? 『特殊清掃会社 汚部屋、ゴミ屋敷から遺体発見現場まで』竹澤光生 / 角川文庫

Photo 「汚部屋の清掃・片付け」や「遺体現場の後処理・清掃」などの作業を専門に引き受ける清掃会社「セントワークス」の代表者によるルポ。

 200ページ余りの軽装、どちらかといえば淡々と穏やかに綴られた文章だが、芯のところで「必要な作業」という観点に貫かれており、食事時にはお奨めしがたい強烈な情景が次々と現れる。個々人やその関係の不可思議を垣間見せる汚部屋、ゴミ屋敷清掃の顛末をまとめた前半に比べ、白眉はやはり後半、遺体発見現場についてだろう(以下、閲覧注意)。

 人は死ぬとすぐ腐り始め、やがて液状に溶ける。腐乱死体のあった中心部にはウジ虫、その周辺に白っぽいダンゴムシのような虫、その周辺にハサミムシが湧いて三層をなしていること(なぜかゴキブリとネズミはいないらしい),その後、部屋中に大量にあふれ返る銀バエ。人形(ひとがた)に残った腐敗液が沁み出して、タンスの裏から壁の上部にまでいたった現場。そんな腐敗液にうっかり直接触れて、清掃担当者の膝の上が膿んで腫れ上がったこと。

 こういったありさまから目を背けるも、ただ刺激を求めるも、読み手の自由といえば自由。だが、核家族、老齢化の進むこの国に生きることはいずれ近しい者、あるいは自身が特殊清掃会社のお世話になる可能性があるということだ。できるだけ人さまのご迷惑にならないよう願っても、それが難しいからこそこうなる。それにしても、そうですか、ハサミムシですか。

2012/10/22

オセロな好短編集 『式の前日』 穂積 / 小学館フラワーコミックスα

Photo 今朝(10月21日、日曜日)の朝日新聞書評欄のコミックコーナーには、米田達郎『リーチマン』が紹介されていた。
 講談社、モーニングに掲載中の『リーチマン』は、フィギュア造形師を志すガタイのいい主人公が「主夫」を務める、夫婦の機微を描いた作品である。書評はおおむね好意的ではあったが、単行本に対しては次のような突っ込みがあった。

  ただ、〈ダンナが主夫でもふたりは幸せです!?〉(傍点評者)との帯の惹句には違和感あり。同様の屈託が主人公にもあるにせよ、主夫に失礼だと思う。

 いや、評者の南信長さん、主夫だけじゃなくって主婦に対しても失礼だってば。

 ところで、帯の惹句への「違和感」といえば、最近どこかほかのところでも……と、記憶をたぐって本屋に走る。小学館の『式の前日』の帯である。

  鮮烈新人・穂積、
  デビューコミックスにて最高傑作

 まるで今後これ以上の作品は描けないみたいだが、それでいいのか月刊フワラーズ。
 『リーチマン』といい、最近は帯の惹句はダブルチェックを受けないのか。受けてこの程度なのか。

 と、持ち上げられているのか下げられているのかわからない『式の前日』だが、収められた6つの短篇はいずれもすこぶる好編である。
 表題作「式の前日」では、古い木造家屋で結婚式の前日をしみじみと過ごす「二人」が丁寧に描かれる。しかし、作品の最後にちょっとしたどんでん返しが用意されており、それですべてのコマの意味がパタパタとくつがえる。続く「あずさ2号で再会」ではさらにそのオセロのごとき「めくられ」感が深い。

 残る作品も、絵柄こそ地味ながら、その分NHKの深夜帯のドラマに仕立てたらさぞかし、などと思わせる静かなリアリティに満ちる。
 帯の背表紙側では「沁みる」「泣ける」と読者からの感動の声の嵐だが、この作者の本領はむしろテクニカルな悪戯なのではないか。現在長編を連載中とのことだが、今後とも趣味に任せた意地悪な「最高傑作」を発表し続けてほしい。ぜひ。

2012/10/15

「りぼん」が生んだ漫画家三人が語る45年 『同期生』 一条ゆかり、もりたじゅん、弓月 光 / 集英社新書ノンフィクション

Photo 1967年「第1回りぼん新人漫画賞」に入賞したマンガ家3人が、それぞれ45年にわたって第一線で活躍してきた軌跡を語る(インタビューか書き下ろしかは不明。少なくとも一か所に集まっての鼎談ではない)。
 一人はヒステリカルな少女マンガの王道を歩み、一人はレディースコミックの草分けとして活躍すると同時に本宮ひろ志夫人として事務所を陰で支え、一人は少女誌と青年誌にまたがってコケティッシュなコメディ路線を築いた。いずれも強い自負がうかがえ、それが「りぼん」「集英社」という誌風、社風と重なるようにも思える。
 もりた弓月については過去に取り上げたこともあるので、今回は一条について少し書いてみたい。

 とはいえ一条ゆかりは昔も今も苦手な作家の一人で、たとえば全ページ、全コマで登場人物が泣くかわめくか青ざめるかしている『砂の城』は何かの悪質なパロディとしか見えなかったし、作品がつまらない、わからないとは別に、作者のキャラクターの不快さが透けてうんざりする、という面もあった。
 これはもう、作品評、人物評ということではなく、単に「嫌な人だなあ」というだけのことであって誰かに同意を得たいような話でもない。ただ、一条が「嫌な人」なりに一種の傑物であったことは事実で、この『同期生』はその一条のキャラクターをいろいろな角度から見せてくれ、かなり読み応えがある。

 おそらく、一条は、自身、

  当時から、私の意識の中には<鬼のプロデューサー>がいて、一条ゆかりを育てるカリキュラムをどんどん私に要求してきます。(p.43)

と語っているように、「クリエイター」である前に「プロデューサー」だったのだろう。作品単体で、あるいは、読者がどう読むか、などより、トータルコーディネートされたマンガ家「一条ゆかり」たること、それを維持することを意図する、とでもいおうか。
 高校時代を語るに

  将来の目的も無さそうなぼんやりとした同級生たちは、私のことを何か言っていたような気がするけど、(p.25)

と言わずもがなのことを今さら(何十年も経って)持ち出すというのは、悔しかった、見返してやった、というありきたりなアングルとは少し違う、当時理解されなかった<一条ゆかり>、後日実現した<一条ゆかり>というブランド意識から言わずにいられないことだったように思われなくもない。

 クリエイターでなくプロデューサーである、ということは、読者からは理解しがたい反応を示す場合もある。
 一時期の一条作品が大島弓子や萩尾望都らいわゆる24年組の作品からの剽窃であふれていたように見えたことは疑いようのない事実で、一条は本書の中でもわざわざ

  子供の時に日曜学校で会っていた男の子とハイスクールになって再び出会って……それってアメリカのジュニア小説の王道の設定なんですけど。

  人間がベッドで寝ているポーズなんて似たり寄ったりじゃわい!(ともにp.47)

と例を挙げ、声を尖らせて否定する。しかしその言い逃れは

  「なら、描きません」って言いたい。だって、すでに他の人が描いているんだから、別に私が描かなくってもいいじゃない。今売れているものを今描いたら、それはもう二番煎じというやつで、苦労をしても私は〝新茶〟になりたいです。(p.36)

と同一人物のセリフとも思えない。アメリカのジュニア小説の王道の設定、誰が描いても似たり寄ったりのポーズ、これらのどこが〝新茶〟なのか? 売れっ子をコーディネートするプロデューサーとしてならともかく、クリエイターとしては「少なからぬ読み手から剽窃を指摘された」時点でアウトだろう。

 週刊マーガレットで弓月が『エイリアン1/2』を落としかけたときの思い出話として、弓月が

  もう分業にしないと時間がないっていうんで、僕は<顔のなか>だけを描いて、身体は一条さんに任せました。(p.195)

と言っているのに対し、一条は

  私のアシも一人呼んで、弓月には下描きだけ描けと命令し、首から上のペン入れは全部私が入れました!(p.58)

と語る。
 どちらの言うことが正しいのか、本当のことはわからない。
 だが、作家である以上、<顔のなか>まで描いた、描いてもらったと言ってはいけないような気がする。弓月の名前で発表された作品の「首から上」を全部描いたと胸を張る人物に、作品のオリジナリティを語ることはできないように思えるのは僕だけだろうか。

« 2012年9月 | トップページ | 2012年11月 »