フォト
無料ブログはココログ

« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »

2012年3月の8件の記事

2012/03/31

3.11に両腕を伸ばして 『あの日からのマンガ』 しりあがり寿 / エンターブレイン ビームコミックス

Photo 同じ朝日に四コマをもちながら、夕刊で『地球防衛家のヒトビト』を連載するしりあがり寿は『ののちゃん』のいしいひさいちとは対照的な動きを示す。彼は地震、津波、原発事故を扱った四コマを直後から積極的に描き始め、コミック誌や小説雑誌でも震災と日本を扱ったシリアスな短篇を間断なく発表し続ける。また、震災から1ヶ月後の4月11日の週には、避難所訪問、清掃のボランティアやチャリティーバザーの手伝いのため、東北に向かっている。

 8月に発行されたしりあがり寿の作品集『あの日からのマンガ』のタイトルはちょっと見わかりにくいが、要は3.11以降に震災と原発事故を扱ったマンガをそのまま日付順に並べた、といったような意味である。
 その内容は『地球防衛家のヒトビト』の四コマ、震災後の日本を扱った不条理SF、津波でお腹の赤ちゃんの父親を失った若い女性の不安と決心を描いたリアルな短編(最後の1ページに表れた作者の画力には驚く)、はては哲学的対話や宗教的な祈りとしかいいようのない作品まで多岐に渡る。

 昨年4月の段階で、原子力発電を捨てたこの国の家屋が貧しいバラックになってしまうサマを描いた「海辺の村」の先見性や批評精神を評価することもできるが、ここでは巻末に掲載された「そらとみず」を推したい。巨大なハスの花から子供たちが現れ、水底のガレキからぷくぷくと母親や老人たちが浮上して昇天する。センチメンタルに過ぎると斜評するのは簡単だが、最初の7ページ、静かに描かれたガレキの山は、その時期に現場を訪れた者にしか描けないものだ。

2012/03/28

コミック・エッセイにしかできないこと 『1年後の3.11 被災地13のオフレコ話』 ゆうみ・えこ / 笠倉出版社

311 遠まわしに書いてもしょうがない、ストレートに言おう。
 新聞、テレビなどの大手マスメディアは、東日本大震災に際し、一貫して被災地の遺体の写真、映像を避けて通した。その理由は理解できなくもないので、是非を問う気はない。
 ──だが、津波にのまれた人々の顔や手、赤い目印の下に眠る遺体を徹底的に排斥したカメラアングルは、震災の克明かつ全的記録とは言い難いものとなった。それは1つの事実だ。

 しかし、マンガなら。コミック・エッセイになら、それを描くことができるかもしれない。個人特定はされない。読み手の心の傷になるほどの苛烈な色や傷や腐敗具合は、選択的にぼかすことができる。濁流による死の瞬間も、遺体が積み重なった避難所の光景も、思うアングルから描けるだろう。

 『1年後の3.11 被災地13のオフレコ話』は、宮城在住のマンガ家ゆうみ・えこが、そのようなコミック・エッセイのメリットを活かし、新聞やテレビが扱うことのできなかった生々しい震災のありさまを描いた作品である。

 たとえば作者は、被災地のソープ街が盛況なことに眉を顰める人々に対して、

  ガレキの撤去に来ている人たちは過酷なのです
  重機を使ってガレキを持ち上げると…

と、ガレキとともにショベルカーに挟み上げられた遺体を描いてみせる。そのような仕事に疲れ果てた現場の労務者たちが“H”な行為に走るのは“生きている”ことの確認、人間らしいじゃないの、と作者はつぶやく。

 その他、遺体の指を切って指輪を盗む者、人群れを撥ねて逃げる車、無神経な報道カメラマン、震災泥棒等々、これでもかと筆者のペンは厳しい。
 しかし、本書は、いたずらにスキャンダラスな事実を暴くものではない。
 歩道の人群れを撥ね飛ばして逃げる車を目撃した女性は語る。

  本当に恐ろしいのは
  自分もやってしまうかもしれないことよ
  ──もし子供を乗せて逃げていたとしたら…
  もしかしたら私も…

 作者の心は常に被災地の人々に寄り添う。その語り口はナイーブで、不器用ながら前向きだ。うち続く悲惨な出来事の中で、静かに、誠実に光を求め続ける。
 この作品をこの1年の報道にあふれた「いい話」「悲惨な話」の一種と読み飛ばすことも不可能ではないだろう。しかし、そうして素通りできないのは、そこにリアルな遺体が描かれているからだ。それをそのように描く覚悟を決めた時点で、作者のカメラアングルは大きく広がったのだ。

 コミック・エッセイは、動脈硬化を起こし、形骸化した報道を砕く針となり得るか。なるだろう。ならなくてはならない。

2012/03/25

3.11に背を向けて 『ののちゃん全集⑧』 いしいひさいち / 徳間書店

Photo_2 24日の朝日新聞朝刊社会面によると、あのファド歌手吉川ロカが、ついにCDデビューを果たしたとのこと。信じられない。娘のことのように嬉しい。

 ……吉川ロカはいしいひさいちが朝日新聞朝刊に連載する『ののちゃん』の登場人物。のの子たち山田家の隣、キクチ食堂でアルバイトをしながら定休日には店でライブを開かせてもらっていた。ステージでのアルトの迫力とは裏腹にシャイな彼女は、友人の柴島美乃らに背中を押され、一歩一歩音楽業界に足を踏み入れていく──。
 というのが、山田家の能天気な日々を描く四コマの、二十回三十回に一度二度、ぽつりぽつりと語り継がれたロカのお話。

 ロカの友人、柴島美乃の弟は、山田家の長男のぼるの野球部の先輩、教頭を殴って学校を退学になった柴島宗勝であり、ロカと柴島姉弟はともに海難事故で親を亡くしている。

 こうして書いていると、まるで『ののちゃん』ではない、なにかシリアスな長編青春小説を紹介しているかのようだ。
 でも、嘘でも、間違いでもありません。

 『ののちゃん』はある意味恐ろしい物語である。
 山田家は、30年以上前に『おじゃまんが』あたりで登場して以来、基本的に誰もキャラクターを変えていない。父たかし、母まつ子、祖母しげ、兄のぼるらは、折々に絵柄や設定は変わったものの(タブチ君が親戚のミステリ作家からののちゃんの小学校の先生に、など)、各人の趣味や嗜好性は一切変わらず、その「しでかし」具合もまったくブレない。つまり、山田家の面々は描かれ始めたとき、すでに徹底的にその人生が(おそらく各人の幼年期から現在まで)造成され、検討され、その上で数十年にわたって数千の四コマ作品が描かれ続けているのだ。
 わかりやすい証拠がいしい作品では途中から登場したのの子の担任の藤原ひとみで、彼女について、いしいひさいちは中学生時代から教師をやめてのちにミステリ作家として活躍するにいたるまでの年代記を各誌にばらばらに発表し続けている。だが、どの四コマを見てもダルなひとみはひとみであり、決していしい作品のほかのキャラクターたり得はしないのだ。

 こうしたスタイルが貫かれた結果、当然のように山田家の時間は静止し、30年前と昨日の朝刊とで、のの子とのぼるは同じように寝坊を繰り返し、まつ子は夕飯の献立に迷いながらソーメンを茹で続ける。
 そんな時間軸の中で、この数年、胸苦しいばかりに躍動し、展開したのが、吉川ロカと柴島姉弟の物語である。作者がいかなる意図をもって彼らの変遷を描くことにしたのか、その理由はわからない(いしいは饒舌だが、自作についてはめったに語らない)。

 先日発売されたばかりの『ののちゃん全集⑧』は、朝日新聞朝刊2010年3月1日から2011年12月31日までの掲載分全653本をまとめたもの。
 驚いたことに、この時期毎日掲載しながら、いしいひさいちはついに一コマも、3.11を、地震を、津波を、原発事故を取り上げなかった。どのような意図をもってなされたのか、これもわからないが、いくら関西が舞台とはいえ、あの時期の朝日新聞の社会面において、なんらかの意図ないし覚悟なしにできることではないだろう。
 しかし、吉川ロカと彼女をめぐる仲間たちの肩の力の抜けた活動、その背景で、新聞紙面ではなかなか気づかれなかったであろう彼らの親を奪った海難事故を思うとき、今回の物語の帰結はいしいひさいちの3.11への一つの回答ではないか、とも思う。正面から声をあげ、泣くことだけが支援ではない。

 「ROCA NOW ON SALE」と書かれたこの最新の四コマを僕は切り取ろう。そして静かに『ののちゃん全集⑧』に綴じておこう。

   のの子「まぁ きっとどこかで歌ってるよね。」
   まつ子「ああ元気でやってるやろ。」

2012/03/21

事件だよワトスン君 『シャーロッキアン!』(現在2巻まで) 池田邦彦 / 双葉社アクションコミックス

Photo かたやルパン登場とあらば、こなたホームズが出陣しないわけにはいくまい。

 『シャーロッキアン!』は、言わずと知れた名探偵シャーロック・ホームズを主題にした作品である。
 しかも、ただホームズが活躍する原典をマンガで再現するわけではない。ホームズとワトスンを主人公に、新たな事件を描くわけでもない。ホームズの熱烈なファンで、かの探偵を実在の人物とみなしてさまざまな研究を愉しむ者を「シャーロキアン」と呼ぶのだが、本作はなんとそのホームズおたっきーたるシャーロキアンたちを主人公に、ホームズ作品に散見する謎や矛盾点、未発表作品を、大学内や下町、病院、老人ホーム等で起こる事件とからめ、そのうえ登場人物たちの人間関係、つまり友情や恋愛を描き上げるという、それはそれはものすごい力作なのだった。

 その複雑精妙かつ豪胆な作業が、『カレチ』の池田邦彦の、不器用かつひなびたタッチでなされるのがまた憎い。人生の重く悲しい真実を、女子大生・原田愛里と大学教授・車路久(それぞれアイリーン・アドラーとシャーロックのもじりだろう)のコンビがホームズ作品の知識を駆使して推理し、解決していくわけだが、愛里のぽってりした顔が思いっ切り驚き、笑い、泣く、そのどアップがロンドンの霧の夜に展開されるホームズ作品のシックで頑迷な雰囲気を覆して圧巻だ。←素直に「可愛い」と書きなさい

 最近のモーニングによると、作者はいったん仕上げたネームを納得できるまで何度でもやり直すとのこと。『シャーロッキアン!』においても、人物の立ち位置、顔の向く方向、その表情など、素晴らしく説得力のあるコマが少なくない(ほんの数コマしか登場しない教授の亡き妻の存在感がすごい)。また、1巻の人情味あふれるパスティーシュ風味から、2巻にいたっては主人公の恋の悩みを描いて、昭和の香り漂う堂々の一大恋愛ドラマと化した。

 地味だし、絵柄やテーマに好みは分かれるかもしれないが、ここ数年のコミック作品の一つの到達点ではないかと思う。
 
 
 
P.S. 新刊の『シャーロッキアン!』2巻と『カレチ』3巻には、それぞれ池田邦彦の描いた互いを周旋するペーパーが折り込まれている。最近は版元を越えたこういったキャンペーンも少なくない。頑張れ出版業界!

2012/03/18

原作に敬意を払った良作 『アバンチュリエ 新訳アルセーヌ・ルパン』(現在2巻まで) 森田 崇 / 講談社イブニングKC

Photo モーリス・ルブランが創生した怪盗紳士アルセーヌ・ルパンを、原作にかなり忠実、つまり正面から描いたチカラワザ。タイトル「AVENTURIER」はもちろん、コマ中の新聞や手紙、名刺、各章の「章」も「CHAPITRE」とすべてフランス語だ。

 連載開始当初は永井豪ふうの大げさな絵柄、人の好さげな登場人物に少々古臭いものを感じないでもなかったが、単行本で通して読むと実にいい。ことに、若く穏やかな紳士に変装したルパンが怪盗紳士の本性をむき出しにするときのエキセントリックな目がいい。見事脱獄を果たし、ガニマールを傍らに両手を挙げて爆笑するシーンも「アーハッハッハ… ゲラゲラゲラゲラゲラ」だ。今どき「ゲラゲラ」と笑うヒーローなんてちょっと見ない。ルパンならではのマンガ的痛快さで、それも好もしい。

 ともかく、ルパンが若くてスリム。
 どうもルパンというとシルクハットにモノクル(片メガネ)、マントまではともかく、ヒゲでマッチョ、顎のがっちりした中年怪盗のイメージがあったが、「あの気随気儘な、神出鬼没の変幻自在な、大胆不敵な、天才的な」(『813』、堀口大學訳)キャラクターをかんがみると、やや痩せ気味、尖った顎のほうがふさわしい。「体はクラリスに負けずほっそりしているが肩幅は広く、気品とたくましさが同居している。精悍な顔つき、いたずらっぽい口もと、陽気に輝く目」(『カリオストロ伯爵夫人』、平岡敦訳)、うん、森田崇の解釈は正しい。

 もう一つ、言葉遣い。
 創元の石川湧やハヤカワの平岡敦訳はともかく、新潮文庫の堀口翁訳では、たとえばケープタウンのダイヤモンド王に対峙して「へえ、そうか! こいつ、わしをなめてるな、小なまいきに」「あんたにとってはそうかも知れないが、このわしにとってはどうだろう?」(『813』)、これはあんまりだ。古くさいし、「紳士」ですらない。
 現代では『アバンチュリエ』での「僕」が自然だろう。

 本作の魅力の一つは、そういった風貌や言葉遣いをはじめ、あれこれ原作との読み比べに十分耐えることだ。細かなオカズ(パリ万博を『坂の上の雲』のあの人が歩いている、など)や、ホームズとの対決を描く「金髪夫人」のエピソードで、数学教師ジェルボワとルパンの新聞を用いての「丁々発止!」感など、原作と比べてはじめて『アバンチュリエ』での作者の工夫やテクニックが納得できる。

 アルセーヌ・ルパンは、その名こそシャーロック・ホームズ並みに有名だが、決定的な翻訳シリーズがないこともあって原作のエピソードの知名度は今一つだ。この『アバンチュリエ』は、もしかするとこの国でのルパン復権の鍵となるかもしれない。今後、『奇巌城』など長丁場が続き、大変かとは思うが、ルパンの長編は中小のエピソードをスピーディにつないでいく構造なので、連載マンガにも向いているかもしれない。ともかく連載の続きが楽しみだ。

2012/03/12

キワモノと侮るなかれ 『歪笑小説』 東野圭吾 / 集英社文庫

Photo 功成り名遂げた売れっ子ミステリ作家が小手先で書いた──としか思えないタイトル、体裁だが、これが存外に読みでがある。

 巻頭の「伝説の男」「夢の映像化」の2編はただ出版界を揶揄する上滑りな冗談話だが、3編め、「序の口」から俄然語り口が変わってくる。若手作家や編集者への(かなり熱く、なりふりかまわぬ)エールと化すのだ。その後もあちこちに苦笑いのタネこそ仕込まれているものの、マインドは松の特上、ミステリファン、東野ファンに限らず、本好きの方なら誰でもきっと楽しめるに違いない。

 ネタばらしになるので詳しくは書けないが、「巻末広告」の3ページが素晴らしい。作者は本当にサービス精神にあふれた好人物なのだろうと思う。

2012/03/05

昔の死体はよかった 『神がいない死体 -平成と昭和の切ない違い-』 上野正彦 / 朝日文庫

Photo このところミステリ短編集ばかり続けて取り上げてきたので、ちょっぴり箸休め(それでこれかいっ)。

 著者は元東京都監察医務院院長。1989年退任後、法医学評論家として著書多数。

 動機なき平成の死体には神がいない、というあとがきの指摘は(本当なら)興味深い。さすが上野先生、耳目を集めそうである。だが、肝心の本文は昭和期に解剖した死体のとぎれとぎれの思い出話が大半だ。かくれんぼで冷蔵庫で窒息死した子供や、扇風機にあたりっぱなしで亡くなった成人男性など、その事件をきっかけに機器の改善や安全への意識改革が進んだ話は面白くなくもないが、なぜその話を語る際「その死体を解剖したのはこの私」と「どや顔」にならねばならないのか。
 まえがきによると1989年に発行された『死体は生きている』が「六五万部のベストセラーになり」(自身で数字をあげる文筆家も珍しい)、「それまでほとんど一般に知られることのなかった法医学の大切さ、死者の人権を守ることの大切さが、人の知るところとなった」とのご高説、ありがたいことだ。しかし、法医学の大切さや意外な真実を語る書物はそれ以前にも中公文庫などにあって知られていたし、一般への啓蒙についても西丸與一の原作を受けて菅原文太、大江千里、紺野美沙子をキャスティングしたドラマ『法医学教室の午後』『法医学教室の長い一日』(日本テレビ、1985年、1986年)の印象が強い。

 また、違和感が沸くのは巻頭の一篇、亡くなって数週間経って、クリスマス・イブに発見されたタレント女性の死因について、著者はわずかなマスコミ発表を元にこうでもあろう、ああであろうと推測に推測を重ね、その死因を決めつける。おかしな話だ。本来、現場の検死でも確定できない死の真実をつきとめることこそが監察医の務めではなかったのか。もちろんその仕事には経験による見当憶測も必要だろうが、その見当を確かなものにするのが「解剖」だろう。不確かなマスコミ情報を元に得々と死因を語るなど、元監察医が一番してはいけないことのように思うのだが、違うのだろうか。

 ──そうなると、そもそも平成と昭和では事件の質が異なるという主張そのものも怪しくなる。昔懐かしの情緒だけで決めつけてないか、統計的に本当に正しいことなのか。

 つまるところ、この御仁の著書は、これ以上読まなくともよさそうだ。

 
 
 
<参考> 回転図書館で取り上げてきた法医学関連ア・ラ・カルト♪
『法医学の現場から』 須藤武雄
『法医学ノート』 古畑種基
『法医学のミステリー』 渡辺 孚
『完全犯罪と闘う ある検死官の記録』 芹沢常行
『法医学教室の午後』『続 法医学教室の午後』『法医学教室との別れ』 西丸與一
『死体は生きている』『死体は知っている』『死体検死医』『死体を語ろう』 上野正彦
『死体の証言―死者が語る隠されたドラマ』 上野正彦・山村正夫
『死にかたがわからない 法医学者の検死メモ』 柳田純一
『検死解剖』 『Dr.検死官』 トーマス野口・ジョゼフ・ディモーナ

2012/03/03

名探偵、泣かせるより笑わせるほうが難しい 『被害者は誰?』 貫井徳郎 / 講談社文庫

Photo ほどよいぬくもり加減の湯船につかり、手足を伸ばす。頭の芯まで気持ちがいい。……しかし、それは「ユーモア」ではない。

 勘違いされている気がしてならないのだが、「ユーモア」と「弛緩」は違う。前者はある種の資質と技術によって人を笑わせるものであり、後者は緊張をといた状態、くつろいだ心持ちのことだ。
 後者は前者によってもたらされることもあるが、ただゆるみ、たるんだ状態を示す場合もある。

 ところで、「ユーモアミステリ」とされる作品群において、本当にユーモアあふれる作品はどれほどあるだろう。多くはただだらしなく「弛緩」を招いているだけではないか。

 『被害者は誰?』は、かつてデビュー長編『慟哭』で読者と巷のミステリ作家たちを(たぶん別々の意味で)慟哭させまくった貫井徳郎の短編集である。収録された4編は犯人当てを旨とする普通のミステリの逆の仕掛けで「被害者は誰?」「目撃者は誰?」「探偵は誰?」「名探偵は誰?」とそれぞれ興趣にあふれる。これらはパット・マガーという第二次大戦直後に活躍したミステリ作家の手法をさらに発展させたマニアックな設定とのこと。だが、その趣向を埋める役者たちが、脚本が、残念、ちっとも面白くないのだ。
 本作における頼りない若い刑事とその先輩の暴君作家の掛け合いは、ネット上のAmazon.co.jpやQ&Aサイトでは広く「ユーモア」と評されているようだ。しかし、傲慢身勝手な作家がちらかった自宅を後輩の刑事に無理やり掃除させる、とか、呼びつけた後輩をだまして昼飯をおごらせる、とか、交通事故の加害者が美人だったので被害者がベッドの上で鼻の下を伸ばす、とか、そんな話のどこがユーモアなのだろう。1冊読んで1箇所も笑えるところなどなかった。ドラマやマンガの上質な作品に比べると、笑いを誘う言葉遣いや「間」に関するテクニックが格段に低いのだ。

 『被害者は誰?』に限らない。猫が刑事の足を引っ張って犯人を示す話や、執事がお嬢様を馬鹿扱いする話が示す効果は、はたしてユーモアなのか。もしそれらを「ユーモアミステリ」とするなら、ユーモアを求むる志のなんと低いことか。もちろん、リクライニングチェアに存在意義があるように、これらがもたらす効果に価値がないわけではない。また、こういった物語で人をリラックスさせるには、それなりにノウハウが必要であることも認めよう。
 しかし、そこで得られる「弛緩」は神経の領域であり、精神の域ではない。

« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »