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2012年2月の7件の記事

2012/02/26

探偵は香るほど明晰に語られねばならない 『奇談蒐集家』 太田忠司 / 東京創元社(創元社推理文庫)

Photo ここ数日、久しぶりにジュリアン・グラックを読み返している。
 グラックは敬愛する作家の一人だが、正直言って読み通すのはつらい。数百ページの長尺が、散文詩の域のイマジネイティブな文章で埋め尽くされているのだ。これは実にもの凄いことではあるのだが、うんうん唸りながら読んだ数ページをまた戻って読み返す、といったことも再三起こってしまう。悪い頭なので消化が追いつかないのだ。

 ことほどさように、通常、長編と短編では文体が違う。ミステリも、ぐいぐい読み手を引っ張る長編と、周到精緻に伏線からトリックまで磨き上げた短編では、文章が異なってしかるべきだろう。
 だが、そのような意図と技術で貫かれた短篇ミステリは、必ずしも多数派であるとは言い難い。

 ここに太田忠司の『奇談蒐集家』という作品がある。怪しい蒐集家とその助手が高額報酬をうたって奇談を募集して語り手を招き、その謎を喝破して「なんだつまらん。奇談でもなんでもないではないか」と嘆く、なかなか素敵に不思議な短編集である。
 自身奇談コレクターであるところの井上雅彦解説に曰く、

  なにしろ、頁をめくった瞬間に、太田忠司ならではの文章の馥郁としたムードが、(それこそ本書の舞台となる秘密の酒場で出されるような)ヴィンテージものの洋酒の芳香のようにたちのぼってきて、

 これは期待できそうだ(←なんでも鑑定団のナレーションふう)、さっそくお宝をめくってみよう。

  濡れたアスファルトがネオンサインの光を反射して、様々に色を変えていた。
  雨上がりの舗道に傘を手にした男女が行き交い、車が間を裂くように通りすぎていく。
  場末という言葉が似つかわしい、あまり栄えているとはいえない歓楽街の表通りは距離にして二百メートルほどだろうか。きらびやかに光を放っているのはパチンコ屋とコンビニくらいで、バーやスナックといった看板を掲げた店は、灯された照明もどこか控えめに感じられた。

 ……はて。いや、これは。下手とまでは言わないが、「普通」だろう。少なくとも、「馥郁」や「ヴィンテージ」といった極上の賛美が似つかわしいほどではない。
 細かく見てみよう。「様々に」とはどのように、なのか。「傘を手にした男女」、男女なのか、ばらばらな男たち、女たちなのか。傘は誰が持っているのか。パチンコ屋とコンビニの照明を「きらびやか」で一つにくくってよいのか。
 『奇談蒐集家』の書き出しは、詳細かつ具体的に見えて、実は何も明らかでない。そもそもパチンコ屋は「場末」には設営されない。

 諸兄姉はウィリアム・アイリッシュの『幻の女』をご存知だろう。その冒頭の1行は、こうだ。

  夜は若く、彼も若かった。が、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。

 ここでは背景の夜の街はソフトフォーカスでぼやかされ、若者の苛立つ顔の、その苛立ちだけが鮮やかに浮かび上がる。「馥郁」とは、こういう、対象を明晰に描き抜く言葉遣いをいう。そして知的なゲームたるミステリは、また、このように明晰に語られる義務を負うのだ。

2012/02/23

美術探偵は舌先営業でニガヨモギ 『天才たちの値段 美術探偵・神永美有』 門井慶喜 / 文春文庫

Photo_2 先日紹介した『土井徹先生の診療事件簿』に比べれば、ミステリとしての純度は格段に高い。収録作の1つ「早朝ねはん」が日本推理作家協会の年鑑に選ばれるなど、品質も折り紙つきだ。が、いかんせん、見せ方売り方に難がある。単行本のタイトルが『天才たちの値段』、で、著者名が門井慶喜とくると、まるでどこぞの雑学ノウハウ本だ。文庫化に際してはそのあたりをかんがみたのか、「美術探偵・神永美有」のサブタイトルが付せられた。いやそれでもこのデザインではやはりどこぞの美術ウンチク本にしか見えない。何をやってるんだ文藝春秋。

 ……しかし、今回のテーマは本の売り方ではない。問題はミステリ短篇における探偵稼業の在り方である。

 本書の探偵は美術作品の鑑定を得意とする。詳しい、などというレベルではない。絵の真贋が舌、味覚でわかるというのだ。
 「もし贋物なら、見た瞬間、苦みを感じます。雑草を煎じたような嫌な苦みです。本物なら甘みをおぼえる」
 ほんとかよ!? ……なんて言ってもしようがありません、そういう設定なんだから。そして、彼、神永美有(かみながみゆう、作中ではほとんど代名詞でなく「神永」と記されているため「実は女性」オチかと思ったが、探したらごく一部「彼」と記載されていた)は、その特技を活かし、次々と難題に……。

 いや、この設定は、やっぱり苦しい。絵の真贋とは何か。レオナルドの描いた真作、それを模した贋作。では、レオナルドの弟子サライが師匠の作品を模したレダがあったなら、それはレオナルドの贋作なのか、美術史上貴重なサライの真作なのか。浮世絵の真作とは木版の原図のほうなのか、刷られた仕上がりのほうなのか。デュシャンの作品のいくつかは、どこまでが「真作」といえるのか……などなど。

 結局、神永美有の特異な能力はあっという間に目立たなくなり、連作は天才美術コンサルタントが深い知識と底知れぬ洞察力をもってワトスン役の短大美術講師を驚かせる、といういかにもな展開に落ち着いてしまう。
 くどいようだがミステリとして品質が低いわけではない。だが、最後の短篇までたどり着いたところで、そもそも美術作品の真贋を舌で感じ取れるという無理スジな設定なんてはたして本当に必要だったのか、と首を傾げざるを得ない。

 結局、冒頭の問題にたち戻ってしまう。見せ方、売り方に、難があるのだ。

2012/02/20

探偵は自らのウリに縛られてこそ 『土井徹先生の診療事件簿』 五十嵐貴久 / 幻冬舎文庫

Photo ミステリのプロパーでない作家の、まして代表作ともいえない短編集をサンプルとして取り上げるのは、はなはだ失礼なことかもしれない。だが、五十嵐貴久という、読者を愉しませる気概も才能もある作家をもってして、この程度の作品集を発表できてしまうことに、逆に現代の短篇ミステリの困難さが現れているようにも思う。

 主人公は殉職警官を父に持ち、南武蔵野署の副署長に祭り上げられてしまったキャリア組の警部補、立花令子、二十四歳。彼女は動物と話せる獣医師の土井徹先生と知り合い、不思議な事件を解決していくことになる……。
 つまり、このシリーズでは、令子がワトスン役、ホームズ役は動物と話せる獣医師となる。設定は悪くない。だが、もし作者がこのシリーズを「ミステリ」として読み応えのあるものにしたいと思ったなら、なんらかの「制約」を設けるべきだった。
 たとえば、獣医師は特定の動物とは話ができるが、それ以外とはできないため、事件の肝心な部分を掌握できない。あるいは、獣医師は常に事件の全貌をつかんでいるが、令子は彼の特殊な能力の説明抜きに警察内で犯人を特定し、犯行を証明しなくてはならない。……こちらのほうがよさそうだ(少年マガジンで現在連載中の『探偵犬シャードック』は後者にあたる)。

 いずれにせよ、当たり前の話だが、ホームズはこれこれ、という設定だけでは読み応えのあるミステリにはなり得ない。それに二重三重の制限をかけ、その制限がクリアされてはじめて読み手は作品を心と頭でフルに楽しむことができるのだ。
 本作に収められた六編は、一つめは素材こそ殺人未遂ながら、読み返せば実質ミステリの体をなしておらず、後半のいくつかでは土井先生が動物と話せるという設定がまったく出てこない。動物の生態に詳しい獣医師が事件の真相を推理してみせるだけ。
 競争の厳しいマンガ誌なら、ネームの段階で没を喰らうに違いない。
 短篇ミステリはこと発表において、少々甘やかされているようなのだ。

2012/02/13

探偵は機械的トリックを直感で解いてご満悦 『ディーン牧師の事件簿』 ハル・ホワイト、高橋まり子:訳 / 東京創元社(創元社推理文庫)

Photo 「八十歳を迎えたのを機に牧師の任を退き、愛犬とともに静かな老後を送るはずだったサディアス・ディーン。そんな彼のもとに、次々と不可解な殺人事件の謎が持ちこまれる」「元牧師の名探偵ディーン先生が六つの難事件に挑む、不可能犯罪連作短編集」
 創元推理文庫の裏表紙にこんなこと書かれて心乱れないミステリファンがいたとしたら、それはもうどうかしている(もっとも、こういった煽り文句に何度騙されても懲りないのが、またミステリファンという輩なのだが)。

 解説によると作者のハル・ホワイトはジョン・ディクスン・カー、つまり「密室」「不可能犯罪」が大好きなミステリマニア。となればディーン牧師が得意なのは、ブラウン神父譲りの逆説的叡智か、ミス・マープル風過去に遡る心理劇か、ホーソーン医師暴く神業トリックか。

 ……しかし、わくわく読み始めた巻頭の「足跡のない連続殺人」で、いきなりそのトリック群につまずいてしまう。ざっくりいえば「機械的トリック」というやつなのだが、それにしても犯人がわざわざそんな手間暇かけた目的がよくわからない。ディーン牧師の推理もただ直感的。早い話があてずっぽう。作者は愛読書として『金田一少年の事件簿』や『探偵学園Q』を挙げているらしいが、これらのマンガのほうがよほどプロットやセリフ回しに工夫と味がある。
 主人公がスタバでカフェを楽しみ、ウォルマートでドッグフードを買い物する現代のシアトル近郊で(そのうちスマホやフェイスブックまで出てきそうだ)、若い女性が足跡のない殺人現場に「もう、怖くて怖くてたまらないんです!」「幽霊の仕業だわ! きっとそうよ!」はないだろう。

 残念なことに続く五作も似た印象。「機械的トリック」はすべてNGなどというつもりもないが、要するに(カーのいくつかの失敗作がそうだったように)先に「足跡なし」設定があり、そのためのトリックが練られ、それを実行する犯人が現れ、それを説明するために探偵が存在するのだ。
 ほかならぬ創元推理文庫だけにこの品質は残念。しかもこのページ数で定価1,000円(税別)。高っ。

2012/02/12

終わって残念 『サム・ホーソーンの事件簿VI』 エドワード・D・ホック / 東京創元社(創元推理文庫)

6 最終巻の『サム・ホーソーンの事件簿VI』が発売されたのは、2009年11月。作者のホックはその前年、2008年1月に心臓発作で亡くなっている(77歳)。
 哀悼の意も含めて紹介したいと思っているうちに(表紙のスキャンもしてあった)、あっという間に2年が過ぎてしまった。

 なかなか取り上げる気持ちになれなかった理由の1つには、以前、『サム・ホーソーンの事件簿IV』を紹介した際にも書いたように、シリーズ後半にいたって作品の質がすっかり落ちてしまったことがある。推理が凡庸、の前に、犯行の謎そのものがトリッキーに見えないのだ。実際、「犯人はこいつだろう」「これこれすれば実行できそう」などあたりをつけて読み進めると、そのとおりだったりする。およそアクロバティックではないのだ。
 『VI』には主人公のホーソーン医師が遅い(44歳)結婚をする、というトピックがあるが、これがまた盛り上がらない。医師には過去何度かほのかな出会いがあったが、それらに比べてもロマンのかけらもない結婚で、何年もこのシリーズと付き合ってきた読者としては少々がっかりしてしまった次第。

 ……と、愚痴はいくらでも書けるが、それでもこのホーソーン医師シリーズが「不可能犯罪」をテーマにした、近年まれな楽しいミステリ短篇集であったことには違いない。
 ポー、ドイルを持ち出すまでもなく、ミステリの発火点は短篇にあった。しかし、時代は文庫なら500ページを超える長編、それも映画やドラマの原作になりそうなサスペンスが主流で、小股の切れ上がったトリックをメインに立てた短篇集はめったに見られない。切れ味のよい推理を存分に味あわせてくれる短編集をせめて年に数冊は読みたい、と願ってもなかなかかなわない。そんな時代に欧米では稀有な短篇プロパーとして、しかもとんでもなく鮮やかな「芸」を見せてくれたホックの死、それに伴う『サム・ホーソーンの事件簿』や『怪盗ニック』シリーズの終幕は残念でならない。

 さて、ホックですら晩年には苦労したように、叙述である程度誤魔化せる長編と違い、剥き出しのトリックだけで読み手を驚かせる短篇ミステリを書くのは、今後ますます困難な仕事となるに違いない。どのくらい困難かというと──この項、続く。

2012/02/08

速度の恩寵 『瞬きのソーニャ』(1巻) 弓月 光 / 集英社ヤングジャンプ・コミックス

Photo 驚いた。
 知らなかった。
 弓月光に、こんなシリアスアクションを描く膂力があったとは。

   引き金引いて
   撃針が雷管
   叩くまでは
   20cmくらいは
   動ける
   だからわたし
   銃は嫌い
   遅いから

 このようなセリフが違和感ない弓月作品など、誰が想定できただろう。

 ベルリンの壁崩壊前、ソビエト連邦の研究施設で遺伝子操作によって生み出されたソーニャ。彼女は外見こそ5~6歳の子供だが体重は約50kg、ヒトの数十倍の反応速度を持つ。父と慕うソ連の老兵ザイツェフや中国の武術家たちから格闘術やサバイバルを学び、やがてソーニャは無敵の人間兵器と化していく。逃げ延び、生きるために。

 単行本1冊を通じて、弓月らしいお色気ギャグは1コマもない。全ページ、戦闘と、ソーニャのために巻添えになる人々の死が描かれるだけ。残虐を越えてスプラッタな戦闘シーンには悲鳴以外にセリフもなく、展開は緊密、読み手は常に緊張を強いられる。

 ただ、ベテランがゆえに、作画には若干の難点が残る。
 古いタイプの漫画家である弓月の効果線や手書きの音喩(「バキン」「ガコンッ」「ばーっ」「ぐざんっ」など)は作品の重さ、冷たさと噛み合わない。それ以上に、意図的なものなのか、ソーニャはともかくザイツェフら通常の大人まで五等身かせいぜい六等身の頭でっかち、味方はまだしも冷酷な敵までいずれも柔和な童顔で描かれるのだ。もっとも、もし、この作品がこれ以上にリアルなタッチで描かれていたなら、もはやマンガの領域ではない。

 3年がかりで単行本1冊。年2話ずつ掲載されてきた雑誌(ビジネスジャンプ)はすでに休刊となった。
 結末までの道のりは遠そうだが(ソーニャは1998年の生存まで確認されている)、待つ価値、祈る意味はある。

2012/02/06

探偵は少し上から目線 『ビブリア古書堂の事件手帖 ~栞子さんと奇妙な客人たち~』『ビブリア古書堂の事件手帖2 ~栞子さんと謎めく日常~』 三上 延 / メディアワークス文庫

Photo 北鎌倉のさびれた古書店を舞台に、店主の若い女性が古書の持ち主の謎を静かに解き明かす……本書のそんなストーリーは、おそらくタイトルや表紙から想像されるものとそう外れない。
 それが、「本の雑誌が選ぶ2011年度文庫ベスト10 第1位」「2012年本屋大賞ノミネート」のお墨付きを得て、街の書店各店でこれでもかこれでどうよの面陳・平積み一発ドラドラ、あっという間のミリオンセラー達成、本の売れない時代に本そのものを扱った作品が売れたのだからけっこうなことだ。

 ミステリとしてはややヌルめかもしれないが、伏線を放置するような粗末なレベルではない。第1巻第三話など、キャラクターの妙もあって心地よく楽しめた。しかし、殺人の起こらないのほほん癒し系などとあなどっていると、思いがけず苦い枠組みを嘗めるハメに陥るかもしれないので注意。

 一つ、ストーリーとは別に、本を読まない、本を知らない者をつい見下してしまう、いわゆる「上から目線」な物言いがいくつかあって、その小骨がどうにも気になった。この目線は『金魚屋古書店』(芳崎せいむ)や『草子ブックガイド』(玉川重機)などにも共通する。

 このシリーズの各篇は実在する古書をサブタイトルとしているのだが、第1巻ではそのラインナップが
   夏目漱石『漱石全集・新書版』(岩波書店)
   小山清『落穂拾ひ・聖アンデルセン』(新潮文庫)
   ヴィノグラードフ・クジミン『論理学入門』(青木文庫)
   太宰治『晩年』(砂子屋書房)
つまりは説教臭い。「上から目線」の正体はこの説教臭さにある。
 本の内容が優れていることと、本を沢山読んでいることの間には実はあまり関係がない。ましてや「完本蔦葛木曽桟」を読めるかどうかなど、どれほどのことでもない。本を読むということはよくも悪しくも身勝手なものだし、本など読まずに豊かに生きられるならそれはそれでけっこうなことだ。

 そも、作品が本当に読むべきものなら、初版、復刻版、文庫、全集を問わず手にして読めばよい。ナイフも入っていないフランス綴じの初版で美本で高額な古書に目を輝かせる輩共に読書や人生を云々されなければならない覚えはない。

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