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2011年11月の6件の記事

2011/11/30

銘茶一煎! 『茶柱倶楽部』(2巻) 青木幸子 / 芳文社コミックス

Photo かたや『茶柱倶楽部』は1年を経て2巻め。
 作者は同じだが、緊張と攻撃を旨とする『王狩』に対し、こちらはくつろぎ、リラックス、慈愛がテーマ。

 静岡の老舗茶屋の娘、伊井田鈴は日本茶に対する知識と情熱に秀で、煎茶の技量も優れている。とはいえ、普段は才能や熱意を剥き出しにせず、片栗粉でとろみをつけたようなまろい味わい。お茶のこと以外ではいささかぼんやり者で、恋人より娘にもちたいタイプ。
 その鈴が、たまたま出会った老婦人から手渡された茶の味を忘れられず、宝くじで得た日本茶専門カフェトラックを駆って全国お茶の旅に出る……というお話が第1巻。ところがこの種の設定にしては珍しく、1巻の終わりには尋ね人と巡り会い、お茶の正体も知れてしまう。
 旅を終えて実家でだらける主人公、だがそこに新しい出会いが、というのが第2巻巻頭。まあ、あまり全体の構図を気にするような作品ではない。1話完結のお茶話を次々愉しみつつ、各篇で紹介される全国のお茶の色や香りを思い描く。気が向けば掲載のサイトで注文してみるもよいだろう。
 個人的には、親しい者の嫁ぎ先が「すごい山奥」と紹介されていたのに苦笑い。本当に山奥らしいだけに。

 一点、日本茶の煎れ方に、表紙にあるように顔より高い位置から湯を落とすやり方があるとは知らなかった。作中、2篇に登場して、そのシーンの登場人物ならずとも「えっ…何アレ?」「スゴイ!」と鈴のカッコよさに打たれるのだが、ワインならともかく熱い湯が跳ねないかちょっと心配(それを見事に煎れてみせるのがテクニックなのだろうが)。

2011/11/28

妙手一閃! 『王狩』(3巻) 青木幸子 / 講談社イブニングKC

Photo 前回紹介して1年。『王狩』はこの3巻をもってひとまず第1部完結。
 玩具メーカーのスポンサーを得て奨励会員全員参加の1dayトーナメント「新星戦」、決勝まで。

 一度見たものは決して忘れない「絶対記憶」の持ち主、主人公久世杏(12歳)。同門の高辻図南(「図南」は鵬(おおとり)が南方に向かって翼を広げること。転じて大きな事業を企てること。響きもいい、よい言葉だ)。高辻のライバル、コジャレた和服の日佐英司(「日佐」は「オサ」と読む。Windowsでも変換可能)。関西の天才、園川圭一(同じ作者の『茶柱倶楽部』第1巻にクールにゲスト出演)。登場人物それぞれのキャラクター、棋風、集中力を描き分けて相変わらず読み応え十分。いずれも十代前半でプロの域に挑もうという天才である。さらに先には「双天」として君臨する名人、白木一、弓削光晴がいる。誰も彼もとんでもない凄みを漂わせるのは当然だろう。だが……。
 3巻にいたってまで「凄い凄い」の連発で、さすがにお茶、もといメリハリの1つも欲しくなった。対局中を描くにそれぞれが剣や槍を手にして斬り合う演出も、毎回だと慣れる。「ダレ」とまでは言わないが、ゴムヒモのピンと伸びきった1年3冊で、いずれ弛緩するのが怖い。
 ヌーボーとして人の好い巨体、冗談好き、だが守らせるとまあまあ強い、といったキャラクターも交えておけばよかったのに……などと思わないでもないが、それでは棋士でなくマンガの世界観になってしまう。難しいところだ。

2011/11/21

ボクの手はつかみ、足は跳ねる 『ザッドランナー』(現在2巻まで) カサハラテツロー / 新潮社 BUNCH COMICS

Photo どこに出向くにもプラスドライバとラジオペンチは鞄に欠かせない、という人種がこの国にはいる。そんなハード屋のハートをうひゃひゃとくすぐったのが『空想科学エジソン』だった。

 『ザッドランナー』はそのカサハラテツローの新作。月刊コミック「@バンチ」にて連載中。

 「ザッド」(XAD、eXtreme Acrobatic Dash)とは、四肢のあるモビルスーツを用いたフィールド競技で、競技者はこれに搭乗して障害コースを走り、登り、スピードを競う。この「ザッド」が、普通の高校に普通の部活としてある、というのが『ザッドランナー』の世界。主人公はザッドを操る楽しみをようやく知り始めた高校1年生のポテチ。彼は初めての大会出場目前のある日、怪我をした悪友の代わりに急遽ザッドのパートナーを探すハメに。おおかたの予想どおり四方八方断られたあげく、うっかり声をかけてしまったのが驚異的な身体能力を誇る少女、小梅。彼女は同じ高校の1年生だが、校内では誰より恐れられている。なぜなら……。

 と、1巻のあらすじでもおわかりのとおり設定は少々込み入っている。おまけに、小梅の家の稼業が稼業なものだから話が捻じ曲がってややこしい、ややこしい。
 しかし1巻2巻の読後感は実にスピーディで、細かいことなど気にならない。用語まで細かく設定されたザッド操作の爽快感と小梅の涼しい目(やばい)が、からまった糸なんかなんとでもなるように思わせてくれて、それで、それで? と油断していたら、

  ポテチのくちびるって まだ バージンってことか

と2巻最後のページでからまった糸は、このあとどうなるんだどうなるんだ。
 その少し後の新潮社の宣伝予告ページには、続刊は2012年夏発売予定って、ちょ、おいっ

2011/11/16

存在。 『鳥はいまどこを飛ぶか 山野浩一傑作選Ⅰ』 創元SF文庫

Photo 手放しで好もしいと思っていたわけじゃない。手にしたのは35年ばかり前、ハヤカワ文庫の『X電車で行こう』『鳥はいまどこを飛ぶか』の2冊を読んで、当時流行のわくわくするようなSFとは勝手が違い、それきり読み返しもしなかった(ハヤカワ文庫が2冊あったことすら今回本棚を探るまですっかり忘れていた)。

 しかし、山野浩一を読んだという事実は、アナログレコードの傷のように残る。
 具体的には、ざらざらした思いを抱えた夜の道、眼前を左から横切るのが「鳥」で、右から己にだけ聞こえる轟音とともに通り抜けるのが「X電車」だ。なるほど、どうやらこの35年間は山野浩一に刻まれた痕を繰り返し読み返すことで過ぎてきたようだ。

 久しい冷遇ののち数十年ぶりに上梓されたこの傑作選に収録された作品群には、最近の流行作家たちの誰一人持ち合わせない「殺気」がこもる。
 今読み返せば作品の展開そのものはワンパターン、心にいびつな苛立ちを覚えた主人公が、ある日次元や空間や時間の切り口から異界に嵌まり込んでしまう。アバウトにとらえればカフカの『城』や『審判』なのだが、広さはともかく、暗さ鋭敏さにおいてはカフカ以上のものがある。

  そこに生まれた線は、モンドリアンのものではなくフォンタナのものだった。

  この鳥に通ってもらうために『ナジャ』や『アルゴオルの城』を読み、……

  夕方にはホシヅルが歩き回り、シリトリが長い列を作って飛んでいく。
 
 こんな一節が唐突かつ注釈なしに現れて小気味よい。巻末の作家当人による作品解題もピリ辛で秀逸だ。

 しいて難点を挙げるなら(今では心情どころかアジビラ、ピケ等の説明すら難しい)左翼運動や組合活動がやたらと描かれることか。いずれにせよできるだけ若いうちに読むべきだろう。さもなくば触れるべきでないだろう。

2011/11/07

『太陽の塔』 森見登美彦 / 新潮文庫

Photo_2 日本語の「詩」というものがどこに行ってしまったのか、よくわからない。
 久しくベストセラーがない。戦後すぐの「荒地」や谷川俊太郎以降、(よい方にせよ悪い方にせよ)局面を引っ張っていけるリーダーがいない。だが、それより何より、言葉が骨粗鬆症に罹ったかのように、密度や味わいを喪ったかのように思われることこそが問題だ。

 たとえば暮鳥に「いちめんのなのはな」という詩句がある。かつてその詩句に触れることは

 この言葉を知ってしまった以上、
  己の人生は変わってしまうに違いない
 この言葉を知らしめることで、
  世界はまるきり変わってしまうに違いない

そんな重みをいやがおうにも抱えてしまうことだった。「やめるはひるのつき」とまで示されてしまえば、もうとどめを刺されたも同然、という気がしたものだ。
 これらの詩句そのものの力がなくなったかといえば、それはよくわからない。たとえば朔太郎や賢治の一行一行の価値が減じた、とは認めたくもない。しかし、少なくとも今、新しいものも古いものも「詩」には、それを読む時間を割くだけの引力がない。またそれはどうやら自分だけの問題ではないように思われる。

 そんな中、久しぶりに「詩」を読んだような気がした。
 森見登美彦の『太陽の塔』という、京都を舞台に何かとうまくいかない休学中の大学生のオロカシクも妄想たくましき日々を念々と描いたファンタジーとも私小説ともつかぬ作品の、文庫でいえば226ページから227ページの見開きの一ブロック。主人公がかつての恋人を語る一節だ。思い込みとプライドの強い主人公とその友人たちの、ユーモアを交えた不協和音の連続が、そのページにいたって突然変貌する。そこではピンク・フロイド風の繰り返しで、水尾さんというたおやかな恋人がカットバックされていく。散文ふうな詳細説明でありながら、書かれていない領域まで水尾さんが切なくも美しく描き上げられる。
 この一節の魅力は明らかに散文詩の領域だ。このような現れ方ができるなら、日本語の「詩」はまだ期待できるということなのだろうか。

2011/11/02

名探偵、読者を惑わす前に勝手に迷う 『迷宮』 清水義範 / 集英社文庫

Photo_9  こちらも最近気がつけば平積みになっていた作品。
 文庫化は2002年とのことなので担当者が「これはまだ売れる!」と帯を新調して増刷したのだろう。

 その、帯の惹句がふるっている(鞄の中でうっかり破ってしまったのが残念)。

   すごいすごいすごい!
   こんなとてつもない1冊が
   埋もれていた!!!

 ……巧い。本好き、ミステリファンならつい手を伸ばしてしまうに違いない。手に取り、ひっくり返してカバーの内容紹介をチェック。これも(帯ほどではないが)悪くない。
「21歳のOLが、アパートで殺された。猟奇的犯行に世間は震えあがる。この殺人をめぐる犯罪記録、週刊誌報道、手記、供述調書……ひとりの記憶喪失の男が『治療』としてこれら様々な文書を読まされて行く。果たして彼は記憶を取り戻せるのだろうか。そして事件の真相は? 視点の違う“言葉の迷路”によって、謎は深まり闇が濃くなり──名人級の技巧を駆使して大命題に挑む、スリリングな異色ミステリー。」

 というわけで、帯とカバーに見事に釣られてしまった。
 しかし。

 通常、そういう構成なら、新たな文書が提示されるたびに隠されていた事件の真相が徐々に(あるいはどんでん返しに次ぐどんでん返しで)明らかになり、最後には思いがけない真実が! という展開が期待される。しかし、本書はそういうのを狙っているわけではない、らしい。犯罪記録、週刊誌報道、取材記録……文体こそ変われど、事件の本筋には大きな変転がない。

 結局のところ、清水義範はミステリ作家でなく、パスティーシュ作家であり、本作もミステリとしてのトリックやプロットの妙味より、1つの事件について様々な文体で描き分けることに力が注がれたのかもしれない。だが、残念なことに、解説の茶木則雄氏が力説するほどにはそれぞれの文体模写も巧いとは思えない。たとえば、この程度の事件について、週刊現代かポストとおぼしき週刊誌が(新たに甚だしい事実が露見したわけでもないのに)3週連続でページを割くか? といった時点ですでにリアリティに欠ける。ほかもいちいち冗長で、総じてぼんやりした印象。そのため、最後に明らかになる「真相」も「え、この程度?」で終わってしまう。
 ネタばれになるので曖昧な言い方しかできないが、この作品には2つの犯罪が描かれている。一方は裏も含みもなく明らかになってしまうし、もう一方は少し俯瞰して見ればかなりみっともない。「ルポルタージュのような仕事」より芥川賞の候補になる仕事のほうを格上とみなす(多分本音だろう)清水義範本人のおもねりの産んだ目先の闇、鼻先の大事件に過ぎない──とまで言っては言い過ぎだろうか。

 出版社としてはパスティーシュの名手によるシリアスミステリ長編としてヒットを狙ったのだろう、また、実際こうして帯に釣られる読者も少なくはなかったろう。だが、よくよく考えてみれば清水義範のパスティーシュにはもとより星新一の優美さも筒井康隆の鋭利さもない。「とてつもない1冊が埋もれて」なんて旨い話はそうそう落ちているはずがないのである。

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