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2011年10月の4件の記事

2011/10/31

名探偵、二回宙返りして一回ひねる 『殺人鬼フジコの衝動』 真梨幸子 / 徳間文庫

Photo_7 文庫になってからじわじわ話題が広まりつつある作品。
 世間のいわゆる「話題作」にはあまり食指が動かないのだが、デビュー長編『孤虫症』のうぞうぞした病虫描写がたいへん素敵だった記憶もあって、ハズレ覚悟で手に取ってみた。

 主人公フジコは巻頭では小学5年生、給食費も払えない、体操服も買ってもらえないすさんだ家庭に育ったいじめられっ子だ。家族を惨殺された事件をきっかけに、虚飾を重ね、やがて自身も殺人を繰り返していく。これに(多少スレたミステリファンなら終盤までには推察できるであろう)宙返りがつき、最後にもう一ひねり加えて終焉を迎える。

 警察小説の類のごとき(疑似であれ)地道なリアリティを期待してはいけない。
 小学生がシャンソンの、それも原曲に隠された揶揄を口ずさんでいじめに耐える、とか、ブスを自称する女性が整形すればあっと言う間に銀座の売れっ子ママになってしまう、とか、突っ込みどころはてんこ盛りだ。フジコは「大人ってちょろい」と周囲を操る達人だったり、不器用で世間知らずなKY女だったり、場面場面で同じ一人の人物とは思えないし、連続殺人鬼を長年見逃し続ける警察やマスコミもわけがわからない。そもそも、大の大人が女の力でこれほど簡単に「うぐうぐ」「むぐむぐ」殺されてしまうものだろうか。蹴飛ばすとか目を突くとか、なんとかしなさい。

 『孤虫症』もそうだったが、この作者、パーツはそこそこ魅力的なのに、ストーリーに組み上げると何となくばらばらした感じ。主人公の煮込み具合も、やはり追いつめられて壊れていく女を描いて当節人気の沼田まほかるに比べて格段に劣る。ただしその分、読み物は読み物、とゆだねてしまって、「わ、ダーク」「わ、殺しちゃった」「わ、そうくる?」とただ展開を楽しむ分には爽快だ。
 そんなふうに割り切ってしまえる方にはかなりオススメ。これはこれでアクロバティック、文庫1冊分の至福と言えなくはない。

2011/10/23

B級ルポが噛みつくと痛い、かもしれない 『ミッキーマウスはなぜ消されたか 核兵器からタイタニックまで封印された10のエピソード』 安藤健二 / 河出文庫

Photo_5 1980年代には、もう、ディズニーが著作権にうるさいという印象があった。仕事でディズニーがらみのサウンド作品(今でいうコンテンツか)を公開しようとしたところ、許可が得られなかった、という経験もある。ディズニーが許可しなかったのではない。著作権協会やら代理店やらが「難しいので」「本国に聞かないと」を繰り返し、結局許可を与え得る部署、担当者までたどり着けなかったのだ。
 本書で扱われている、「大津の小学校で、卒業生が低学年用プールの底に描いたミッキーマウスの絵が、ディズニーの抗議によって塗りつぶされた」という事件も、当時、話としては聞いた覚えがある。ただ、耳に入ったのはいい加減な噂レベルのもので、「小学校」ではなく「幼稚園のプール」だったし、ディズニーの社員が飛行機で飛んで発見した、という怪しい尾ひれも付いていた。なので、話半分、いや、いわゆる都市伝説の類、とずっと思い込んでいた。まさか、(飛行機を除き)本当だったとは。

 本書は、そのミッキー事件や、タイタニック号から生還した細野晴臣の祖父にまつわる批判と名誉回復に関する眞實(思わず旧字になってしまった)、M君事件におけるウルトラセブンのビデオの流通経路など、10の怪しい噂に単身チャレンジ、その実態に迫ったものである。

 ただし、掲載先にもよるのだろうが、その調査のスタイルははなはだチープ。ディズニーが、ミッキーの絵を塗りつぶしたお詫びに子供たち全員をディズニーランドに招待した、という後日談を確認するため、著者が探り当てた当時の卒業生はたった一人! それ以外のルポも、ただ現地をうろついただけ、(熱心ではあるが)文献をあたっただけ、など、正直にいえば「えっ、これで河出文庫になるの?」レベルのルポもないわけではない。

 だが、これまた正直にいえば、本書は決してつまらない本ではない。
 この数十年、なんとなく「そうなのか?」「そうなんだ」と言われてきた事象や事件について、ふと抱いた疑問を放置せず、とりあえず納得できるまで調べる。リッチとは言い難い著者は、データマンをたくさん使うこともかなわず、締め切りまで、一人の足で、という制限の中、朴訥に歩き、訪ね、尋ね、無視されても呆れられても事件のまわりをうろつきまわる。……いくつかは無駄に終わるだろう。だが、いくつかは、明確な答えが得られない、というグレイの絵の具で塗りつぶされた事実の影が見えてくる。
 その姿は、案外、巨大で醜悪だ。

2011/10/16

名探偵、意地悪の度合を増して再登場のこと 『狐火の家』 貴志祐介 / 角川文庫

Photo_6 『硝子のハンマー』で現代の探偵の多くが喪った「意地悪」テイストを復権し、ミステリの芳醇なネクタルを杯いっぱいに注いでくれた貴志祐介が、同じ探偵とワトスンのコンビの活躍する短篇集を上梓してくれた。妨害の、もとい望外の喜びである。
 内容は防犯コンサルタント(元泥棒?)榎本径と密室専門(となりつつある)弁護士、青砥純子の2人が、望まぬままに密室殺人に向き合う短篇4作。

 いずれも難解極まりない密室殺人の謎に、2人の(やや頓珍漢な)ディスカッションが重ねられ、やがて驚嘆すべき謎が明らかになる。表題作「狐火の家」の真相、いや、それにも増して続く「黒い牙」のトリックが凄い。トリックだけを比較するなら、この10年分の世界選手権でもメダル確実、そのっくらい凄い。冷静に考えると犯人は凶器をどう処理するつもりだったのか、など、「完全犯罪」としては疑問がなくもないのだが、そんなこと些末瑣末と茶菓子片手に勝手に納得してしまうトリックの凄まじさだ。

 ミステリのトリックには、書き手が一所懸命頭をひねったあげく「被害者が角を曲がったとき、犯人はまだ階段の上にいて、目撃者が隣の部屋から見たときには……」などくだくだしいものが少なくないが、貴志祐介のトリックはどちらかといえば一発アイデアモノであり、現象そのものは存外にシンプルだ。だからこそ凄い。読み手は真相に仰天し、その気色悪さに震える。この2作は、ホラーとしての味わいも出色である。
(榎本との対峙さえなければそれなりに有能に見える純子への意地悪さについてみれば、ユーモア小説としても上出来なのだが)

 もう1つ、この短編集を個人的に気に入っている理由として、犯人の動機がそれぞれきちんと描かれていることがある。二十数年前、綾辻行人らの登場によっていわゆる「新本格」と呼ばれる一派がブレイクして以降、本格系のミステリ作品ではトリックを重視するあまり、犯人の動機については意図的に深追いしない作品が多かった。あるいは、動機そのものをトリックに取り込むため、およそ人が人を殺す理由とは思えない動機さえあれこれ書かれた。
 『狐火の家』に収められた4篇のうち、ユーモアを通り越してギャグに走った最後の「犬のみぞ知る Dog Knows」を除き、とくに表題作や将棋界での事件を描いた「盤端の迷宮」では、やむにやまれぬ犯人の心理が結果として克明にあぶり出されており、それだけでも読み応えがある。

 ともかくミステリファンには推奨。「黒い牙」のためだけでも、本屋に走る価値あり。その代わり、一読後走って逃げだしたくなっても、責任は負えない。

2011/10/03

人外の別れ 『25時のバカンス』 市川春子 講/ 談社アフタヌーンKC

25「シマッタ」
 思わず声が出た。
「見テハイケナイモノヲ見ツケテシマッタ」
 書店の棚に市川春子の新刊を目にしてしまったのだ。『虫と歌』に続く、2冊めの作品集である。

 『虫と歌』に収録されたあの「日下兄妹」に匹敵する作品を同じ一人の作家が描けるはずがない。そんなことはあり得ない。だからこの新刊は『虫と歌』に比べれば劣っているに違いなく、がっかりするためだけにこの読みづらい作家の作品集を読むことにどれほどの意味があるだろうか。いや、ない。

 ……意味はあった。

 前後編で100ページあまりの表題作『25時のバカンス』が、見渡す限り悩ましい。読み終えてすぐ最初のページに戻る。また読み返す。当初は読み逃していたもの、二度では理解できなかったものがほぐれてくる。身体を満たす。

 今回もキーとなるのは人外の存在である。設定がすごい。設定に乗せた展開が躍る。あやうく(ありていに言えば素人くさく)見えて一つひとつ技をこらしたコマ運び。真っ黒な絶望を白い果実のかたちに切り抜いてみせる絶妙なセリフ回し。

 「入るだろうか」「荷物?」「いやおまえ」
 「30越えて姫とかさあ」
 「ちょっと! モデルさん内臓しまって下さい! いかがわしいですよ!」
 「なるほどではありませんね 間違えました」
 「あの 僕 本当は弟じゃないんで」

  (ことに「なるほど…」と「あの 僕 …」の2つがすごい)

 人外の存在であるならば人間ではないのだから(同語反復)、人間と同じ感情、同じ論理をもって考え、行動するとは期待するほうがおかしい。ミトコンドリアが恋をするなら、OLの恋とは起承転結まったく異なる様相を示すのが道理だろう。
 市川春子はその道理に応える。人外のモノの言動は推し量れない。彼らの言葉や行為は、対する者にとって突拍子もないものとなるだろう。いくらその姿が家族や友のようであっても、内実は別のイキモノなのだから。
 しかし、人の姿、人の声で語られる以上、愛する者、あるいは作品の読み手がそれを人としてのあってほしい言葉と取り違えたがるのも、またやむを得ないことだろう。

 では、「日下兄妹」や「25時のバカンス」で描かれる(あるいは予感させる)「別れ」とは、人と人の「別れ」なのか、違うのか。
 市川作品の読解を困難にしているのはまさしくその構造であり、僕たちは描かれた「別れ」の哀しさその他もろもろに決着をつけることができず、ただうろたえるばかりなのだ。

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